ここまでは日本時代について話してきた。ここからは、渡米後の話をしたいと思う。しかしアメリカでの活躍については、割愛させていただく。今回も、底ノ尾の周囲に目を向けてみたい。
みなさんは、ジェームズ・モイラーという選手をご存知だろうか。底ノ尾の全盛期を同じシアトルで過ごし、球団最初のワールドシリーズ制覇にも主力先発として貢献した右投手であり、記憶にある方も多いのではないかと思う。
彼はキャリアを通じてストレートの平均球速140キロ前後と、ストレートの数字だけを見れば底ノ尾と似たようなタイプに見えるかもしれない。だが、ピッチングスタイルは全く異なる。長身と長い腕を生かしたダイナミックで角度のついたフォームから、大きく割れるカーブ、スプリット、ツーシームを操り、奪三振が多く、コントロールはどちらかというとアバウトなピッチャーだった。
彼の名前を挙げたのは、年齢を重ねてもローテーションに残り続けた、息の長い投手だったからである。現役生活を通じて一度も故障者リストに入らなかった底ノ尾は別格としても、モイラーもまた、長期離脱とは無縁だった。タイプの異なる二人が、速球の数字を売りにせず、長年にわたって先発陣を支えていたことに、私はシアトルの編成の妙を見る。
かつて、この球団にはカラバヨ、ローマック、底ノ尾という三本柱がいた。彼らが順番にマウンドへ上がる先発陣は、それだけで相手にとって脅威だったが、それでもワールドシリーズ制覇には届かなかった。その後のローマック・底ノ尾の『Wエンジン』時代も同様であった。そこからさらに強い先発を求めても、シアトルには無尽蔵の資金があるわけではなかったから、獲得できる投手には限りがある。FAとなるローマックの引き止めを早々に諦めたことは、シアトルファンに大きな落胆を味わわせた。球団がコンテンダーとなることを、諦めたように見えたからである。しかし、頂点へ進むために、球団は別の強さを探す必要があった。
そこで重要になるのが、先発陣をどの水準で維持し、ほかの部分へどれだけ戦力を振り向けるかという判断である。モイラーのように、打者を抑えるだけの持ち球があり、継続してローテーションを任せられる投手を置く。そのうえで、得点を増やし、守備で失点を防ぎ、終盤のリードを守るために選手をそろえる。後のシアトルには、そうしたチームづくりが見て取れる。
先発投手の長期離脱は、一人分の戦力を失うだけでは済まない。代役が早い回に降りれば救援陣の負担が増し、内部で埋められなければ補強が必要になる。そのために使った資金や交換要員は、ほかの弱点を補うためには使えなくなる。予定していた先発が予定通りに投げてくれることは、球団が自分たちの意思で補強先を選べるということでもある。
モイラーの丈夫さがどれほど評価に織り込まれていたかは、外からは分からない。しかし、彼が長く投げ続けたことで、シアトルがその恩恵を受けたことは確かだ。そして、この編成の土台には底ノ尾がいた。彼が毎年多くのイニングを引き受けることで、球団は先発陣の中心を据え直すことなく、周囲の選手を入れ替えていけた。三本柱の時代から世界一になるまでの間、底ノ尾は勝ち星を積み重ねながら、チームを作り替える時間も支えていたのだ。
取材している側は、新しく加わった選手に目を向けがちだ。どこが強くなったのかを記事にするには、その方が分かりやすい。一方で、前年と同じように投げている投手については、つい前年と同じような原稿を書いてしまう。私自身、振り返ってみれば、『底ノ尾が200イニングをクリアするのは前提として』などとシアトルの戦力分析をしていた。モイラーも同様で、彼が安定して規定投球回をクリアできることを前提に記事を書いていたから、この二人が常に埋まっているという安心感は編成にもプラスに働いたはずである。
結果的に、カラバヨ、ローマック、底ノ尾という三本柱でも届かなかった場所に、シアトルはたどり着いた。底ノ尾という絶対的エースの横では、モイラーだけでなく、カービン、エルナンデスといった若く勢いのある投手が脇を固めていた。彼らにはローマックのように100マイルの速球で打者を圧倒するピッチングがあったわけではないが、それぞれに打者を抑える武器があり、先発として試合を作ることができた。底ノ尾とモイラーが計算できるからこそ、球団は若い投手にも登板機会を与え、成長を待つことができたのだろう。完成された先発陣をそろえるだけでなく、勝利を目指しながら次の主力を育てていく――言うは易しのその両立が、シアトルはできていた。
底ノ尾の獲得が球団にもたらした最も重要なものは、彼自身の成績だけではない。それに加えて、彼を中心に何年もかけて優勝するチームを組み上げられたことにあったと、私は考えている。
最後に余談ではあるが、アメリカで取材をしていく中で見逃せない出来事があったので紹介したい。
ジョン・ウッドという名前に、すぐにピンとくる読者の方は多いだろう。そう、かつて神奈川ブルーウェーブズで活躍し、アメリカにおいてもカンザスシティ時代に底ノ尾と一緒にプレーした男である。
彼は引退後、カンザスで子どもたちを対象にした野球大会を毎年開いている。近隣のリトルリーグが集まる小さな大会で、ウッド自身も会場を歩き回り、子どもたちに声をかけたり、記念撮影に応じたりと、相変わらず気さくな様子を見せてくれた。
この大会には、『OMAE-SAN AWARD』という投手に贈られる賞がある。
誰の名前なのかは説明するまでもないだろう。大会関係者に聞くと、オマエサーン賞は、その大会でもっとも印象に残った投手に贈られるという。参加チームの指導者とウッドが、試合を見たうえで選んでいるのだそうだ。ウッド本人にも、取材の中で由来を尋ねてみた。
「オマエサーン、グッドピッチャー!」
それだけで十分だろう、とばかりに豪快に笑って言うものだから、勢いでつい私も納得させられてしまった。ただその後、私はその賞の意義を目の当たりにすることになる。
大会最終日、表彰式が始まる少し前になって、スタンドの一角が急にざわついた。最初に気づいたのは、どうやら子どもたちではなく、その父親たちだったらしい。一人が立ち上がると、その隣も立ち上がり、やがて何人もの大人が同じ方向へスマートフォンを向け始めた。何事かと思って振り返ると、ウッドの隣を、底ノ尾が歩いているではないか。
事前には何も告知されていなかった。サプライズで、ウッドが表彰式に合わせて呼んだのだ。会場の反応は、とてつもなかった。特に父親たちの興奮ぶりはすさまじく、名前を叫ぶ者もいれば、子どもをそっちのけで写真を撮っている者もいた。彼らは底ノ尾の全盛期をリアルタイムで見て、ワールドシリーズで残した伝説を目に焼き付けた世代だ。
その年のオマエサーン賞に選ばれた少年が名前を呼ばれると、底ノ尾はウッドからトロフィーを受け取り、自分の手で少年に渡した。少年はさすがに緊張していて、握手をしながら何かを言われると何度もうなずき、最後に二人で写真に収まった。その後ろでは、父親が本人以上にうれしそうな顔をしていたのが印象的だった。
表彰式が終わった後は、野球会場があっという間にバーベキュー会場に変わり、ウッド自身やスタッフの焼くアメリカンサイズのステーキに私も舌鼓を打った。底ノ尾も会場を回って、野球少年たちと交流を深めていたようである。その様子は、ジョン・ウッド公式チャンネルでも動画配信されているので、是非見ていただきたい。
さて、今回はアメリカにおける底ノ尾の影響を、その周囲にスポットを当てて見てきた。彼が残したものはシアトルにおける偉大な業績や野球殿堂入りに留まらない。
このようにカンザスの小さな少年野球大会に、彼のあだ名を冠した投手賞があり、その表彰式に本人が現れれば、父親たちが少年のように沸き、いま野球に打ち込んでいる子どもたちまで目を輝かせる。
私はその光景を見て、あの子どもたちの中から、再び底ノ尾のようなピッチャーが現れる予感を感じずにはいられない。
さて、次項では本連載の結びとして、アメリカで底ノ尾本人と対談をした際の様子をお届けしたい。
〈とあるジャーナリストのスポーツコラム 了〉