麻戸は地上から高さ三メートル付近の所にいた。 ホールドと呼ばれる、壁から突出したオレンジ色の突起物を掴んでへばりついている。 滑って落ちないように足にも力を入れて顔を動かす。 黄や赤、紺や黒など様々な色があるが、探しているのは黄色のホールド。
それは右ななめ上にあった。 全力で手を伸ばしても届きそうにない。
「なぁ、
麻戸は下を見ながら何の脈絡もなく口を開く。
「どーしたー!」
立花透和。
毛先をあちこち跳ねさせた金色に近い髪。 中性的で整った顔立ちに愛嬌を付与した男が、手をメガホンの形にして叫んでいた。
「このまえ知った事なんだけど、大阪ではお好み焼きを分ける時は格子状に切るらしい。驚く事にピザも」
返答は無い。 ただ立花は、隣の女性スタッフに『アホなこと言った時は無視してくださいね』 と言っていた。
「東京では知っての通り三角形に切るだろ? ピザ切りと呼ばれてるアレ。 ……で、謎が生まれた」
「おー」
「ピザを格子状に切ってしまったら、ピザ切りの定義が変わるんじゃないだろうか」
「いまさら聞くのもなんだけど、お前って普段なにを考えて生きてんの?」
「今は手が伸びる方法を考えてる」
「行き詰まってたんなら先に言えよ!」
立花が女性スタッフに何か言ってくれたらしく、和やかに笑っていた女性の顔付きが仕事モードに切り替わった。
「どうしましょう、これ。 他の色を触ったら駄目なんですよね?」
「そうです! だからこういう時に使うのがさっき説明したランジ。 ジャンプです!」
「やっぱりそれですか……」
改めて次に掴む所を見た。 手がちょっとだけ届かないくらいだ。 ほんの少しジャンプするだけで簡単に掴める距離。
指に引っ掛かかりさえすれば持ち堪えれるだろうから、必要なのは微かに感じる恐怖心を消す事だ。
(ここから病院は近いから大丈夫だ。死にはしない)
怪我をしても問題無いと理解すると、麻戸は腕を伸ばして身を屈めた。 体を引き上げると共に、歪な形をした突起物を踏み切る。
指先が黄色のホールドを捉えた。
「今日はお二人とも五級をクリア出来たので、次からは四級ですね。 体が鈍らない内に来てくださいねー!」
「はい!もちろんです」
「ありがとうございました」
制服に着替えた麻戸と立花は、女性スタッフに頭を下げてボルダリングジムから出た。
外はすっかり暗くなっていて、人気アイドルの客席が彩るペンライトみたく車のヘッドライトが闇夜を照らす。
「あ、夜ご飯はお前の家で食べるっぽい」
スマホを見ながら立花が言った。
「そうか」
麻戸もズボンのポケットからスマホを取り出す。
メッセージが一件。
それは母親からで、どうやらお互いの親が話した結果らしい。 よくある事だから今さらテンションが上がるイベントではない。
「
「ん?」
「お前、あれやったの?」
「?…………あ、プリンに醤油か? ダメだったよ。 目を瞑って集中してもウニの味とは思えなかった」
「ちっげーよ! 高千穂と話すために陽キャになるとか何とか、前に電話で言ってたろ」
「それか。当然やったさ」
麻戸は、母親に了解という猫のスタンプを返してからスマホをポケットに閉まう。
「まぁ色々あって今は、七回転んだから八回目起き上がってる最中だけどな」
「よーく分かったわ」
話は早かった。
それはそれで不服だと、麻戸は立花の脇腹を小突く。絶妙な良い所に入ったらしく、立花は奇妙な声を上げて飛び跳ねた。
「し、失敗したっつっても、嫌われた訳じゃないんだろ?」
立花は、脇腹を腕で防御しながら言った。
「俺の第六感が圧を感じなかったから、とりあえずは平気だと思う」
第六感とは言ったが、もちろん超常現象や厨二病に目覚めた訳ではない。 日常的にありふれたもので例えるなら、家の玄関を開けて中に入った途端(あ、誰かがお母さんを怒らせやがった……)と感じ取ってしまうアレだ。
「ふーん。……にしても珍しいよな」
「何が?」
「曜真が自分から友達作ろうとすんの」
そう言われて、麻戸は過去の記憶を辿ってみた。
去年は、一昨年は………みたいに、ちまちまと考える必要はない。 一瞬でその頃の記憶に到着する。
「小学生以来か。 どうりで空回りばかりしてる訳だ」
「いや、それはただ不器用なだけじゃね?」
「いいや違う。 ギャルという肩書きが、俺の正常な思考を狂わせているんだ」
「そのギャルと友達になるって決めたのはお前だろうに……」
てか、と立花は思い出したように声を上げた。
「高千穂ってギャルでいいの?」
麻戸は立花を見る。 相槌は打たなかった。
「放課後とかグループで遊ぶ時に高千穂もいた時あったけどさ、そこまでギャルじゃなくね? 曜真風に言うなら、ギャルレベルがスライムくらい」
「……通じるけど、俺はそんなこと言わん」
正直、ずっと考えていた。
知識としてインプットしていたギャルの生態から、高千穂梓は大きく外れているのだ。
そのおかげで、友達になろうと手を伸ばす事ができる。
しかし。
そのせいで、"裏の顔"を探してしまう時もある。
実は弄んでいるだけなんじゃないだろうか。 ギャルが苦手という事を仲間内に話して嘲笑っているんじゃないだろうか。
疑念は、依然として残っている。
「まぁ、仲良くなるんなら早くしろよ。 三人で遊びに行こうぜ!」
「……飛躍した事言うなよ。 胃が縮こまったわ」
「ごく自然な流れだっつーの」