授業が始まる前の束の間。
麻戸はスマホで漫画を読んでいた。 魂が燃えたぎる戦闘シーンも終盤。 来週の更新が待てずにバイト代を投入して一気見した。
溜め込んでいた息を吐き出して余韻に浸っていると、休み時間になってからすぐ鳴り出したBGMが改めて耳に入って来た。
「そういや、梓は今日のカラオケ行く?」
「早苗のやつだよね。もちろん行くしかないっしょ!」
「だよな!」
隣の席では、別のクラスから来た男子と高千穂が盛り上がっていた。 この会話だけを盗み聞きして、放課後に複数人で遊びに行くという情報を入手してしまう。
(ほほう。 彼氏か)
安直だが、高千穂を名前呼びする所だけを見てそう推測。 麻戸はスマホ画面に顔を固定しながら眼球を動かした。
爽やかな短い茶髪に焼けた肌。 いかにも陽キャグループにいそうな運動系男子だ。
話のネタが尽きないみたいでずっと笑顔で話している。
(うん。 平和で何より)
いてもいなくても変わらないだろうが、路肩にある石コロをイメージしながら、再び漫画アプリを起動させた。
「ね。麻戸ってカラオケ行ったりすんの?」
「…………え」
名指しをされては聞き間違いとは思わない。 見ると、高千穂は平然としていていつも通りだが、男子の方はクエスチョンマークが浮かんでいるようだった。 しかしそれはすぐ『何コイツ……』と言いたげな視線に変わる。
「あ、あぁ。 カラオケ店にはよく行く」
「まじか。 言っちゃ悪いけど似合わんねぇ。 どういうの歌うの?」
「いや、歌はあまり」
「ん? 盛り上げ要員ってこと?」
「要員というか、店員っす」
「バイトかい。…………えっ、カラオケでバイトしてんの!?」
『はい』と言って席を立つ。
これ以上深掘りされては、貴重な休み時間を奪ってしまう事になるだろう。 そうなれば無言で立ったままの男子に申し訳がない。
しかし、
「どこのカラオケなん? あたし行ったことあるかな」
高千穂は一度、椅子を指で差すと続けて言った。 まるで『座ってなよ』と言っているかのよう。
後が怖いと考えた麻戸は、服を整えたフリをしてから座り直した。
「来てもらっても困るんで詮索は勘弁してください」
「えー……。 でもカラオケでバイトしてるって言って来たって事は、バレても良いって思ってたんじゃないの?」
「それは違う。なぜなら俺はなんっにも考えてなかったから。 脳みそが空っぽの状態で会話したからそのまま答えただけだ」
「うん。もう少しだけ何か考えよっか」
話に区切りが付いた。 これを機に立とうとして足に力を込める。
「梓それダル絡みな? あんま怖がらせんなし」
男子が言った。
「はあ?怖がらせて、…………ダル絡みじゃないから。言っとくけどあたし達最近仲良いかんね」
『ね?』と高千穂が同意を求めてきた。ここで肯定の意を示せば彼氏であろう男子に喧嘩を売る所業。
だが否定は絶対に出来ない。
それをしたら最後。 これまでの苦労が水の泡となり、これからの友情には亀裂が入るかも知れない。
(どうするか。 あとで冗談とか何とか言えば高千穂なら分かってくれる…………というか、俺がここまで考える必要なくね?)
こんな間男的存在のせいで二人が喧嘩になったら悪いと思いつつ、麻戸は思考を放棄した。
高千穂を見ながら、首をくいっと曲げて満面の笑みを作る。
「仲、良いよねー!」
声のトーンを上げて明るく言った。
「うわ、なんか鳥肌立った」
「短い間だったけど楽しかったよ」
「ごめんて」
吐き捨てながら立ち上がると、再び戻される。
「いやー無理してっしょ!キャラ合わなさすぎだから!」
男子は楽しげな声を上げた。見下ろすような視線が語っている。
こいつ陰キャじゃん、と。
「おっ、疑ってんねぇ。なら私達の仲の良さを見せちゃおっかな! 麻戸」
「ああ。でも時間ないから飲み物しか買いに行けないぞ。 炭酸で良いっすか?」
「ねぇ、違う。 それだと仲良しじゃなくてパシリだから」
俺は高千穂の好みを知ってるほど仲良いぜ、とはならなかったらしい。そもそも炭酸が好きかどうかも知らない。
ザックリと切り捨てた高千穂はあーだの、んーだの言いながら目を瞑り、カッと見開いた。
「よし。あだ名で呼び合おう」
「だから梓から言うと脅迫になるからな」
「なんないってば。………え、なんないよね?」
自信と不安を行き来する高千穂。
「……………、」
麻戸はいたたまれない気持ちを味わう事になった。
精神を乱す元凶が高千穂梓というギャルである事は間違いないのだが、自分が不甲斐ないばかりに困らせてしまっているのも事実だ。
それはつまらない。
「急なあだ名。ギャル奥義の一つ、エグい距離詰めか……。迎え撃ってやろう」
「え、やば。何言ってんのお前……?」
「あだ名考えてくれるんだってさ。よろ〜」
とは言われても、最初から出来上がっているあだ名を呼んだ事はあっても、名付け親になった事はない。
「高千穂………たーちゃん、は駄目だな。透和と被る」
「へぇ。立花ってそんな呼ばれ方してたんだ」
「梓………あーちゃん、これも駄目だ。 俺と被る」
「麻戸をそんな呼び方する人なんていないでしょ」
無言で顔を向ける。高千穂は目を逸らした。
「高千穂……たか、たかちー」
「おおっ、あだ名っぽい! でもイヤ」
「梓………あずさ…………梓」
声に出すことで脳を刺激。 イントネーションから新たな発想を得る。
しかしその過程で『おーい』と遮られた。
顔を横に向けると、声を発した本人は廊下側を向きながら頬杖を付いていた。 後頭部に話しかける事になるが気にせず問いかける。
「何です」
「……………、」
「高千穂?」
「……………名前、連呼すんなし」
麻戸はハッとした。
彼氏(仮)の前で名前呼びなんて失礼だったんじゃ………という訳ではなくインスピレーションが湧いた瞬間だった。
「あずさん」
高千穂が振り返る。
「これはどうっすか!? 名前と敬称の合体! いつどこで何をしていても使えますよ!」
「無しで」
「…………チェンジ」
もうネタが尽きたと言わんばかりに、麻戸は指をくるんと回す。
「あ、うん。その事なんだけどさ」
「?」
「麻戸の下の名前、なんだっけ?」
直後、大きな声が空間を切り裂いた。
「アハハハハッ、ギャッハハハハハハ!!!」
高千穂の机の前にいた男子の笑い声だ。
「名前知らねーってマジかよ! どんだけ絡みなかったんだよ!」
「ほんとにな。確かに自己紹介はしてなかったけど、まさか知らないとは」
「お前めっちゃ必死に平静保ってんじゃん!ハハッ、かっわいそ!」
この大爆笑している男子を見て、同情してくれているとは一ミリ足りとも思わない。 だからといって腹を立てたりしないが、そんな事よりも寒気がする。
理由は分からない。 だが原因が目に見えないものだとするなら、それはもう答えが出ている。
「え、なんにも面白くないんだけど」
高千穂は平然と言った。 しかし声を聞いた途端に、麻戸は息苦しさを感じた。
という事は、そういう事だ、
高千穂は、不機嫌を隠し持っている。
「今までは話すのに困らなかったから気にしなかったけど、今は知りたいと思って聞いてんの。 これ、普通じゃない?」
高千穂の違和感に気付かないのか、男子はニヤついた顔をして口を開こうとしていた。
何を言うつもりかは知らないが、恐らく状況を悪化させる事だろう。 それに対して高千穂も退くとは思えない。
麻戸は一瞬であり得そうな未来を想像すると、即座に言い放つ。
「普通っすね。曜真って言います」
すると高千穂は麻戸を一目見ると小さな笑みを浮かべ、
「ようま。………ん、曜真ね」
あだ名探しのためにブツブツと言い始める。
男子は不満を表情に出しながら、落ち着きなく体を揺らしていた。 少しだけ無言が続くと、男子が『じゃあ俺行くわ。 また放課後』と言った。
「あーい」
それはあまりにも適当な返事だった。いや、仲の良い者同士なら特別変な事ではない。 ただ少しばかり不完全燃焼で終わったのだから、後に引きそうだと麻戸は思った。
何となく視線で男子の背中を追う。 スムーズな足取りだったが、教室を出る辺りで急に振り返って来た。
視線が交錯したのは一瞬。
感情を読む時間すらなく、男子はそのまま行ってしまった。
「ねぇ、ギブ。曜真ってもう完成されてるしあだ名無理だわ」
高千穂は椅子の背にもたれながら両手を上げて上半身を伸ばした。
「諦めるには早い。 まだ、よーちゃんが残ってる」
「あーちゃんの時にも思ったけど、麻戸って"ちゃん付け"キャラじゃないんよね」
「あ……、そうっすか」
「ほら、愛嬌ないし」
「全身に鳥肌立たせたくないなら追い討ちかけるな」
言うと高千穂は笑った。 なんとも居心地の悪さを感じるほど純粋な笑顔。
「高千穂」
「んー?」
「先に謝っとく。 喧嘩になったらごめん」
「喧嘩? 誰が?」
「高千穂が、彼氏と」
「……………あー、そゆこと」
高千穂は合点がいったとばかりに二回ほど大きく頷いて、続けた。
「藤木とは中学から一緒でさ」
話の流れから察するに、先ほどの男子の名前が藤木なのだろう。
「なかなか長い付き合いのようで……」
「あんま絡みなかったのに高校に入ってから名前呼びしてくんの。 ちょっと引くよね」
「…………え」
「彼氏なわけないじゃん」
高千穂は断言した。 秘密にしているのか、という疑問すら浮かんでこない。
だがそれが本当だとするなら、あの男子の振る舞いはとても分かりやすいもので、それでいて高千穂の口振り的には成就しない恋らしい。
「なるほど。……………?」
そして、麻戸はふと思う。
名前呼びに対して高千穂は"引く"と言った。 じゃあ先ほどの、あだ名を付けようとして名前を呼んでいた時に高千穂が言った『名前、連呼すんなし』とは、嫌な気持ちにさせていたのではないのか。
いまさら気付いてもすでに遅く。
水に流せるのなら、それに越した事はない。
「……藤木とは、中学は一緒でもクラスとか全く違くてさ。 友達関連でも絡み無かったのに、去年同じクラスになった途端に名前呼びしてくるんだよ? 改めて突っ込むのもなんだからスルーしたけどさ。 ちょっとだけ引いちゃった。 あからさまってか、ちゃんとした理由があれば名前呼びも嬉しいんだけどね」
突然、怒涛の如く高千穂が言い放つ。息を切らさず、言葉を噛む事もない。
ただ、何かしらの意を含んでいるような真っ直ぐな瞳で見て来ている。
「あ、うん。さっきの言ってたやつの原文、だよな……。 ご丁寧にどうも?」
「……余計な頭回しちゃったよ。 八割は麻戸のせいでもあるんだから謝って」
両側のこめかみを人差し指でクルクルなぞりながら、高千穂が言う。
それは姉と妹がいる麻戸としては、簡単に頷けるものではないセリフだ。
「確認なんすけど……。謝ったとして、何で謝ってるか分かってる? って聞いて来ないっすよね?」
「聞かねーわ。 いってもあたしの考えすぎだったし……」
ほぉ、と麻戸は何となくの相槌を打った。 会話は噛み合っているのだが、どこかが欠けている。
すぐに高千穂が『もう今の無し。忘れて!』と言った。
その強制的に会話をぶった斬るのは麻戸が苦手とするギャルの行動であったが、鼓動が大きく高鳴るのを無視して記憶の糸を一心に辿る。
その時、チャイムが鳴った。
「始めるから席につけー」
同時に教師が入って来る。
ガヤガヤとしていた声は少しずつ薄れていき、椅子を引いたり、教材を準備する音だけになっていく。 次第に教師だけの声が教室に響くようになるだろう。
しかしまだ。
一人の男の声が悪目立ちをするような静けさにはなっていない。
「ありがとう」
雑音の中に溶け込む麻戸の声。 それは隣の席にだけの届いた。
「名前呼びのやつ。気にしてくれたんだな」
例によって授業の準備をしていた高千穂は手を止めて、大きく見開いた瞳を麻戸に向けた。
「実際、悪い事をしたなって思ってた。 自己完結で終わったけど」
「………話そうよ、全部」
高千穂なら『それが駄目』だ何だと色々と言って来そうだったが、時間に限りがある今、選び抜いた言葉なのかも知れない。
だがその端的な言葉には心が楽になる効果が秘められていて、
「ああ」
と、麻戸は満足気に言った。