木曜日の昼に深町先生から天皇賞(秋)の話を聞いてから、火曜日の夜に東京駅から新幹線へ乗り込むまでの五日間、私の頭の中はずっと五歳の芦毛馬のことでいっぱいだった。
土曜と日曜の東京開催では、合わせて十一鞍に乗って一つ勝たせてもらった。通算五十二勝目。鞍の下に一キロ余分に鉛を挟むようになった最初の週末だったけれど、幸いその未勝利馬はスタートが上手な子で、砂を被らない外目の三番手をすんなり取れたおかげで、増えた一キロが最後の坂で悪さをする前にゴール板を駆け抜けることができた。
それでも、調整ルームにいる間も、月曜日の午後に広報の撮影でカメラの前に立っている間も、時間さえあればタブレットを開いてフブキアイアスの過去のレース映像を繰り返し眺めていた。
新幹線の座席テーブルの上に、東京駅の売店で買ったサンドイッチの袋と、温かいほうじ茶のペットボトルを置く。
本当はお弁当を買おうか迷ったのだけれど、普通のお弁当はご飯がたくさん詰まっていて、夜の八時過ぎに全部食べ切るのは今の私の胃袋にはちょっと苦しい。たまごサンドを一切れだけ食べてお腹が落ち着いたところで、私は残りのハムサンドの袋をきっちり閉じ、膝の上のタブレットの画面をもう一度タップした。
画面の中のアイアスは、去年の秋の京都GⅡでは、スタートから好位のインに収まって、直線で馬群を割るようにして抜け出している。ところが、今年の春の大阪杯では、ゲートの中で立ち上がって出遅れた直後、顎が上がるほど強くハミを噛んで、鞍上の桐生さんが体重をかけて手綱を引いてもまったく止まらずに大外を捲り上がっていった。そのあとの宝塚記念では、顔にブリンカーを着けて出ていたのに、同じように向こう正面から引っ掛かって先頭へ並びかけ、最後の直線では脚が上がって二桁着順に沈んでいる。
「……カデンツァのときとは、首の使い方がちょっと違うんだよなあ」
新幹線の窓に映る自分の顔と、タブレットの画面を見比べながら、私は小さく呟いた。
夏の七夕賞で乗せていただいたストームカデンツァは、前にいる馬を追い抜きたくてたまらなくなって、自分から首を低く突き出してハミを噛みにいく子だった。だから、追いかけたい目標を一頭に絞ってあげて、口が痛くならないように一定の枠で手綱を保ってあげれば、それで気が済んで折り合ってくれた。
けれど、画面の中のフブキアイアスは、暴走しているときの首の角度がなんだか不自然なくらい高いのだ。しかも、ただ頭を上げているだけではなくて、向こう正面で周りの馬が動いた瞬間、四本の脚の回転だけが急に速くなっているように見える。
桐生さんといえば、夏の七夕賞でヴァルクロノスに乗っていた、関西のトップジョッキーだ。あの人が春から続けて乗って、馬具を工夫したり抑え方を変えたりしても止められなかったのだから、きっとハミが合わないとか、口の中が痛いとか、そんな単純な理由ではないのだろう。
京都駅で新幹線を降りて、在来線に乗り換えて草津へ向かう頃には、時計の針は夜の九時を回っていた。
前世の私はずっと美浦の厩舎で働いていたから、栗東トレーニングセンターへ足を踏み入れるのは、実は競馬学校の実習以来、これが二度目になる。駅からタクシーに乗って、夜の山裾に広がるトレセンの敷地へと入っていくと、美浦の平坦な林とは違う、坂の多い独特の地形が街灯の向こうに浮かび上がってきた。
明日の朝は早い。備え付けのユニットバスで急いでお湯を浴び、自分の鞍とヘルメットを椅子の横に並べてから、私は宿舎のベッドに潜り込んだ。
◇
水曜日の朝、午前五時半の栗東トレセンは、山から吹き下ろしてくる風がひんやりとしていた。
美浦よりも厩舎の建物が密集していて、坂路や馬場へ向かう馬たちの蹄の音が、コンクリートの坂道にコツコツと響いている。
教えられた通りに須藤厩舎の建物を見つけて入り口で頭を下げると、奥からストップウォッチを首にかけた白髪交じりの男性と、作業着を着た背の高い厩務員さんが出てきた。
「おはようございます! 美浦の深町厩舎の河瀬奈央です。今日はフブキアイアスに乗せていただきます、よろしくお願いします!」
私がヘルメットを脇に抱えて深くお辞儀をすると、須藤調教師は少し驚いたように目を見開いたあと、「おお、遠路はるばるご苦労さん」と顔をほころばせた。
「深町くんのところから話は聞いてるよ。テレビで見るよりさらに小柄だなあ。こっちは担当の黒木だ。アイアスはもう馬房で馬装を始めているところだから、さっそく顔を見てやってくれ」
「はい、ありがとうございます。黒木さん、よろしくお願いします」
「ああ、河瀬ちゃん、よう来てくれたなぁ。担当の黒木です。……いやぁ、もうほんまに、こいつのことでは春からずっと胃が痛うて……」
黒木さんに案内されて通路の奥へ進むと、角から二番目の馬房の前で、白い馬体が忙しなく動いているのが見えた。
フブキアイアス。五歳の芦毛と言っても、まだ全身が真っ白なわけではなく、首筋からトモにかけて濃い灰色の連銭模様がくっきりと浮かび上がってた、五百キロ近い見事な馬体。
ただ、その馬房の中での様子は、うちのトヴロダンフォンみたいに怒って周りに喧嘩を売っているのとは、少し雰囲気が違っていた。
黒木さんが頭絡を着けようとして馬房へ入ると、アイアスはやっぱり落ち着かない様子で首を高く上げた。
「ほら、アイアス。お客さんやで、落ち着きぃや。……見ての通り、脚元も背中もどこも悪ないんよ。普段の引き運動やって、こうしてちょっと頭を高うするくらいで、噛みつきもせんええ子なんや。せやのに、馬場に出て周りに馬が増えると、途端にパニックみたいに引っ掛かるようになってしもてな」
黒木さんは作業着のポケットから少しヨレたメモ帳を取り出し、眉尻を下げてため息をついた。
「春のGⅠで暴走したあと、桐生騎手とも相談してな。周りを気にしてカッとなるんなら、視界を遮った方がええやろって、宝塚記念では浅めのブリンカーを着けてみたんや。ハミも、頭を上げんように少し抑えの効くやつに変えてな。……そしたら、あかん。落ち着くどころか、向こう正面で周りの馬が動いた瞬間、春よりもっと酷う頭を振り上げて暴走してしもたんや。あれで桐生騎手も自分も気性が完全に荒んでしもとるって頭抱えてもうて……結局、元の水勒ハミに戻して、もうどうしていいやらお手上げ状態やねん」
そこまで言って、黒木さんがトボトボと頭絡を着けようとした、そのときだった。
馬房の外の通路を、他の調教馬が乾いた蹄の音を立てて通り過ぎていく。
ビクッ、とアイアスが肩を震わせた。そして顔の右側を奥の壁の方へ隠すようにして首を斜めに振り、左の目だけで入り口の方をキョロキョロと窺った。
「……あの、黒木さん」
「ん? なんやろ、河瀬ちゃん」
「アイアスくん、物音がすると右の顔を隠して、左の目だけで周りを見ようとしますよね。……もしかして、春のレースのとき、顔の右側に何かが当たったりしていませんか?」
私が格子の外から尋ねると、額革の位置を直していた黒木さんの手がピタリと止まった。
「……右側に? いや、ただの頭を振る癖やとばっかり……。あっ。いや、待てよ。そういや春の大阪杯で出遅れて後ろから捲ったあと、右目のすぐ下の毛が擦り切れて、泥だらけで帰ってきたことがあったわ。あのときは獣医さんにも診てもうて、目には異常ない、前の馬が蹴った芝の塊でもかすったんやろって話で終わったんやけど……」
「たぶん、アイアスくん、そのときの痛かったのをずっと覚えてるんだと思います。また硬いものが飛んでくるんじゃないかって、物音がするたびに目を庇って。……それなのに宝塚記念でブリンカーを着けちゃったから、一番警戒したい右後ろの視界が塞がれて、余計にパニックになって前に逃げちゃったんじゃないでしょうか」
「なっ……!?ブリンカーで目隠しされたせいで、余計に怖がっとった……? 気性が荒くなったんやなくて、俺らが良かれと思って着けた馬具で、こいつを追い詰めとったんか……?」
「あ、いえ! 誰だって引っ掛かったらまずブリンカーを試すと思います! ただ、この子の場合は、ちょっとだけ理由が違っただけで……」
黒木さんは自分の頭をガシガシと掻きむしったあと、アイアスの右頬をそっと撫でて、「……すまんかったなぁ、アイアス。お前、ただ怖かっただけやったんか……」と、今にも泣き出しそうな声で呟いた。
馬房の中で目を庇っている理由まではわかったけれど、レースで他の馬のいないところだけを走るなんてできないし、どうやって安心させてあげればいいのだろう……。
ユウギリバロックのときみたいに、ただ外へ出せば解決する話でもなさそうだ。だって宝塚記念では、外目を回ったのに結局向こう正面で引っ掛かって捲り上がってしまったのだから。
そこへ、後から様子を見に来た須藤先生が「おい黒木、そろそろ時間だぞ」と通路の奥へ歩いてきた。
「須藤先生、黒木さん。今日の追い切りって、どんな形で走る予定ですか?」
「ん? ああ、今日は一週前だから、Cウッドでうちのオープン馬を前に置いて、その後ろで我慢させる併せ馬をやってもらうつもりだ。本番でまた暴走されたらかなわんからな」
「わかりました。……実際にアイアスくんに乗せてもらって、確かめてきます」
私は自分の鞍を抱えて、アイアスの待つ馬房の中へと入った。
◇
午前六時半、栗東のCウッドチップコースは、追い切りを待つたくさんの馬と騎手でごった返していた。
地下馬道からコースの入り口へ出た瞬間、アイアスの五百キロの馬体が、私の下でキュッと硬く縮こまるのがわかった。
美浦よりも馬の数が多くて、あちこちからウッドチップを蹴散らす音や、騎手たちの掛け声が響いてくる。
アイアスは耳を後ろへ向けたり横へ向けたりしながら、首を高く起こして、今にもその場から跳び出そうとハミを強く噛んでいる。鞍の革越しに、アイアスの激しい心臓の鼓動と、浅く詰まった息遣いがじかに伝わってきた。
まずは落ち着かせてあげようと、私は手綱を柔らかく持って、左手でアイアスの首筋をそっと撫でながら「大丈夫だよ、怖くないよ」と声をかける。
けれど、コースに入って軽いキャンターに下ろし、併せ馬の相手である同厩舎の鹿毛馬が三馬身ほど前を走り始めた瞬間、私のその甘い予想はあっさりと吹き飛ばされることになった。
前の鹿毛馬が蹴り上げたウッドチップの細かい破片が、バラバラッと私たちの前へ飛んでくると、まだ時計を出す場所ではないのに、アイアスが右目を庇うように頭を高く上げて、前の馬から逃げるように外側へ大きく斜行しながら猛烈な勢いで加速しようとした。
緩めた手綱は首の上でたわんだままだ。撫でていた左手の下で、首筋の筋肉はさっきより盛り上がっている。かといって、ここで力ずくで手綱を引けば、春のレース映像と同じようにどこまでも暴走してしまいそうだ。
一完歩ごとに風が強くなる。
私は中途半端に浮かせていた腰を、鞍の深いところへズンと落とした。高く上がっている首を無理に下へ引くのではなく、手綱を短く詰めて持ち、自分の拳をキ甲のすぐ前に押し当てて、両足のふくらはぎと膝でアイアスの胴を普段よりずっと強く挟み込む。
昔、夕立の雷に怯えて立ち上がりそうになった馬を曳いていたとき、綱を緩めてなだめるのをやめて、馬の肩に自分の体を密着させて同じ歩幅で強く歩いてやったときの感触が蘇ってくる。
私は、両拳を押し当てたまま、自分の胸の奥から「フーッ……、フーッ……」と、わざと大きく長い呼吸を繰り返した。
浅く乱れているアイアスの呼吸に巻き込まれないように。両脚で挟み込んだ馬の肋骨の動きに、私の深くゆっくりとした息遣いを重ねていく。
三コーナーへ入る手前で、アイアスの耳が、ピクリと後ろ――私の方へと向いた。
高く突っ張っていた首の筋肉から硬さが抜け、アイアスは自分から首をぐっと低く下げて、私の拳の中へとハミを深く預けてくる。両足で挟んだ横腹の小刻みな震えが収まり、私の呼吸に釣られるように、腹帯を大きく押し広げて「フーッ!」と派手に鼻を鳴らした。
一度私に意識が向くと、そこからのアイアスの走りは一変した。
前の鹿毛馬からウッドチップが飛んできても、もう頭を上げない。私の両脚の圧と、呼吸のリズムを頼りにして、前の馬の斜め後ろ二馬身の位置で、地面を吸い付くように捉えてコーナーを回っていく。
四コーナーを回り、最後の直線へと向いた。
前を行く僚馬の騎手さんが後ろを振り返り、私たちがピタリと折り合ってついているのを見て、驚いたように目を丸くしながら外へ進路を空けてくれた。前の馬の鞍上が激しく手を動かし、鞭を入れてスパートをかける。
バシッ、と隣で鋭い鞭の音が鳴った。
アイアスの耳が一瞬だけ横を向きかけたけれど、私はすかさず両脚でグッと馬の腹を押し出し、固定していた拳をそのまま前へと送り出す。
「よそ見しないで、前だよ、アイアス! ここからは全部出していいよ!」
私の拳の壁が前へ開いた瞬間、アイアスの五百キロの馬体が加速する。
私は鞭を抜くどころか、その凄まじい加速に自分の体が遅れないよう、必死に前傾姿勢を保つだけで精一杯だった。アイアスは隣で全力で追われているオープン馬を、たった数完歩で三馬身、四馬身と置き去りにし、ウッドチップの塊を後方へ激しく跳ね飛ばしながらゴール板を駆け抜ける。
一コーナーを回りながらゆっくりと減速させても、アイアスは口から白い泡を吹いてもいなければ、頭を振って暴れてもいなかった。ただ、まだ少し周囲を警戒するように耳を動かしながらも、私が首筋を強めに撫でてやると、安心したように長い息を吐いた。
馬場の出口へと戻ると、スタンドの下で時計を測っていた須藤先生と黒木さんが、ストップウォッチを持って歩み寄ってくる。
「……お、おい、河瀬くん。向こう正面の入り口で一度頭を上げたとき、てっきりまた引っ掛かって飛んでいくかと思ったぞ。あそこからどうやって折り合わせたんだ?」
私が馬から降りてヘルメットを脱ぐと、須藤先生が目を丸くしてストップウォッチの画面を見せてきた。
そこには、六ハロン81秒2、そして最後の一ハロンが11秒1。
「はい。最初は手綱を緩めて撫でてみたんですけど、それだと余計にキョロキョロして怖がっちゃったんです。だから、雷の日の引き運動のときみたいに、こっちが揺れないように手綱を短く持って、脚でぎゅっと挟んでみただけで……」
「ぎゅっと挟んでみただけ、か……。俺が春からあんだけ頭抱えてなだめとったのは何やったんや。……ほんま、お前も素直やないなぁ、アイアス」
「しかし、河瀬くんが脚で挟んだだけで本当に折り合ってしまうんだから、理屈だけじゃ説明がつかんよ。……黒木、今の動きなら、去年の秋にGⅡを勝ったときと遜色ないどころか、それ以上だぞ」
須藤先生はストップウォッチの画面をもう一度見直してから頷いた。
「河瀬くん、今の感触を忘れないでくれ。これなら本番でも十分に戦えそうだ。……ただ、ひとつだけ頭に入れておいてほしい。道中の折り合いがつくことはよくわかったが、この馬にはもうひとつ、ゲートという厄介な癖があるんだ」
「はい、春のレースの映像で見ました」
「練習のゲートや、普段の静かな環境なら大人しいんだが、GⅠの本番の大観衆とファンファーレの中で、隣の馬がガタついたりすると、急に立ち上がることがある。ゲートの中だけは、走っている最中と違ってリズムを作ってやるわけにもいかんからな。こればっかりは、当日の東京競馬場でゲートに入れてみないとどうなるかわからんのだ」
「わかりました。ゲートの中でも、できるだけアイアスくんが不安にならないように、頑張ってみます」
「頼むぞ。ゲートさえ五分に出てくれれば、今のあの脚なら、GⅠの連中が相手でも絶対に面白い競馬になるはずだ」
少なくとも来週の東京で、あの子にパニックのまま苦しい走りをさせることだけはなさそうだ。黒木さんにお礼を言ってアイアスを引き渡して、私は一度厩舎の方へ戻ろうと馬場の入り口へ向かった。
◇
コースの入り口のところで、青い調教ゼッケンをつけた黒鹿毛の馬と、その背中に跨った見覚えのある騎手さんとすれ違う。
夏の福島で一緒に走った、栗東の桐生騎手だ。
そしてその下にいる黒鹿毛は、今回の天皇賞で桐生さんがアイアスの代わりに選んだもう一頭のお手馬――ラピスヴェルトだった。
「……おっ、河瀬ちゃんやないか。ほんまに栗東まで乗りに来たんやな」
桐生さんは馬の上から、私と奥へ曳かれていくアイアスの白い背中を見て、ニッと白い歯を見せた。
「おはようございます、桐生さん! はい、今アイアスくんの追い切りに乗せていただきました」
「どうや、あいつ、ちょっと荒いところあるやろ。力はある馬なんやけど、春からどうもワイとは噛み合わんようになってしもてな。……実はな、須藤先生が誰を乗せるか頭抱えとったから、七夕賞でやられた河瀬ちゃんの名前出したん、ワイやねん」
「えっ……! 桐生さんが、私の名前をですか?」
「せや。ワイがラピスを選んだ手前、アイアスをそのまま放り出すのも寝覚めが悪いしな。河瀬ちゃんの馬と喧嘩せん不思議な乗り方なら、案外あいつと合うんちゃうかと思ってな。……まあ、ちょっと荒いけど、大事な元相棒や。怪我させたらんといてな」
「はい! 桐生さん、ありがとうございます! 大事に、一生懸命乗せていただきます!」
私が深く頭を下げると、桐生さんは「手加減はせぇへんからな」と片手を上げて、ラピスヴェルトとともに軽やかなキャンターでウッドコースの中へと出ていった。
その桐生さんが跨るラピスヴェルトの背中も、遠くから見ただけで毛艶がピカピカに光っていて、周りの馬が近くを通っても耳ひとつ動かさない、いかにも大舞台に強そうな堂々とした風格があった。
私のすぐ横のラチ沿いに立っていた調教助手さんや記者さんたちが、急にざわめきながらコースの向こう正面の方へと双眼鏡を向ける。
「おい、来たぞ。アーティショーの追い切りだ」
「わざわざ美浦から佐伯さんが乗りに来てるんだろ。去年のダービー馬の秋初戦、どんな動きをするか……」
アーティショー。
その名前を聞いた瞬間、私の足が自然と止まった。
昨年の日本ダービーを圧倒的な強さで制し、今の中距離路線で頂点に君臨している四歳の鹿毛馬。来週の天皇賞で、間違いなく一番人気に推される馬であり、その背中に跨っているのは、私がデビューした日からいつも声をかけてくれている、美浦の佐伯さんだ。
三コーナーから四コーナーにかけて、三頭の馬が一団となって回ってくるのが見えた。三頭併せの真ん中にいる、ひときわ雄大な鹿毛の馬体がアーティショーだ。そして、その鞍上で低い姿勢を取っている黒いヘルメットは、紛れもなく佐伯さんだった。
四コーナーを回りきり、三頭が直線の入り口へと向いたその瞬間、ドォン、とウッドチップの層を底の路盤まで踏み抜くような重い蹄音が百メートル以上離れたラチ沿いまで響く。
二頭のオープン馬の騎手が、必死に鞭を入れて馬を追い立てているその真ん中で、佐伯さんはピクリとも動いていない。
両側から馬に挟まれているのに、アーティショーは怯えるどころか周りの馬など最初から存在しないかのように真っ直ぐ前だけを見据えている。その太い首と、鞍上の佐伯さんの低い背中が、まるで最初から一つの生き物として繋がってでもいるかのように、滑るように走る。
残り二百メートルのハロン棒を過ぎたところで、佐伯さんの拳が、ほんのわずかだけ、前へ動いた。
アーティショーの馬体が地面へ沈み込む。
次の瞬間、両脇で全力疾走していた二頭のオープン馬が、まるで後ろへ引っ張られたみたいに、三馬身、四馬身、五馬身と一瞬でちぎられた。
私のすぐ目の前のゴール板を、アーティショーと佐伯さんの横顔が駆け抜けていく。遅れて風圧が私に届き、跳ね上げられたウッドチップがバラバラとラチを叩いた。
周囲にいた記者さんたちの手元で、一斉にストップウォッチの電子音が鳴る。
「……おい、見たか今の。六ハロン79秒8、ラスト一ハロン……10秒9だぞ!」
「馬なりで三頭併せの真ん中を五馬身ちぎって10秒9……。化け物かよ、アーティショーは」
10秒9。
さっき、私とフブキアイアスがようやく引き出した11秒1という時計を、あの馬と佐伯さんは、何の工夫も小細工もいらない当たり前の完歩として、そのさらに上を軽々と踏み越えていったのだ。
遠くの一コーナーでゆっくりと馬を止め、首筋を叩いている佐伯さんの背中が見える。
私が今日、アイアスくんとやっと折り合いをつけて、これならちゃんと走れると喜んでいた場所は、あの人たちにとってはとっくの昔に通り過ぎたただのスタートラインでしかないんだ。
怖がらない。引っ掛からない。折り合いがつく。そんなのは、GⅠの舞台に出てくるトップホースとその騎手にとっては呼吸をするのと同じくらい当たり前の前提であって、あのアーティショーやラピスヴェルトは、その上でさらに鍛え抜かれた馬の力と騎手の技術が噛み合って完成されている。
ただアイアスくんのパニックを抑えて、無事に一周回ってくるだけじゃあの背中と並ぶことは絶対にできない。
来週の東京競馬場、芝二千メートル。
五十八キロの定量戦。ゲートが開くまでちゃんと出てくれるかどうかもわからないアイアスくんと一緒に、私は減量なしであの怪物たちとのレースへ飛び込んでいかなければならない。
でも、アイアスくんが最後に弾けたときのあの一完歩だって、絶対に負けてなかった。
私は自分の両脚と手に残っている、さっきのアイアスの熱く力強い感触を思い返す。
あの子が周りの音に怯えずに、自分の持っていた本当のスピードを最後の直線で全部ぶつけることができたなら。それを一番近くで支えてあげられるのは、来週あの子の背中に跨る私なんだ。
コースの向こうから引き上げてくる佐伯さんが、ラチ沿いに立っている私の姿に気づいて、ゴーグルを上げながらニヤリと笑って片手を上げた。