十月最後の日曜日、東京競馬場の検量室前は、午前中から人の出入りが激しかった。
私は第四レースの未勝利戦を三着で終えて戻ってくると、泥のついた自分の鞍をスタンドに置き、天秤ばかりの前に並んだ。早めに、午後の第十一レース、天皇賞で使うための鞍の準備を始めたかった。
鞍の下に、平たい鉛の板を一枚ずつ差し込んでいく。
私の減量は四キロから三キロに変わったけれど、今日の天皇賞はGⅠだから、そもそも新人の減量特典そのものがない。五歳の牡馬であるフブキアイアスの背中に乗せるのは、きっちり五十八キロだ。
鉛の入った革袋を両手で持ち上げると、ずっしりとした重みで手首の筋が張った。これをアイアスの背中に乗せて二千メートルを走るのかと思うと、申し訳なくて眉が下がってしまう。同じ五十八キロでも、佐伯さんや桐生さんみたいに自分の筋肉と骨で五十キロ近くある人が乗るのと、私みたいに小さな人間がその分何キロも重い鉛を入れて乗るのとでは、馬の背中で揺れたときの重みの伝わり方が違うんじゃないだろうか。せめて道中でこの鉛がバタバタと暴れないように、腹帯の締め具合だけはいつも以上に気をつけよう。
◇
昼休みを挟み、時計の針が午後二時を回ったところで、私はその重い鞍を胸の前に抱えて装鞍所へと向かった。
途中で腕がぷるぷると震えそうになるのを我慢して歩いていると、装鞍所の入り口で待っていた黒木さんが、私を見つけて小走りで駆け寄ってきた。
「おお、河瀬ちゃん。お疲れさん、重たいやろ、貸してみぃ」
「あ、ありがとうございます、黒木さん。すみません、鉛がいっぱい入ってて」
黒木さんは私の手から鞍を受け取ると、「うわっ、ほんまに漬物石みたいやな」と目を丸くしながら、奥の枠に立たせてあるフブキアイアスのもとへと案内してくれた。
水曜日に栗東の馬房で見たときと同じ、首筋からトモにかけて濃い灰色の連銭模様が浮き出た芦毛の馬体。
私は挨拶をするより先に、アイアスの前脚から順番に膝のあたりや球節に目を走らせ、それからお腹の巻き上がり具合を確かめた。昨日、長距離の馬運車に揺られて滋賀から東京まで運ばれてきたはずなのに、毛艶は水曜日よりもさらにしっとりとしていて、脇腹のあたりも寂しく見せない。黒木さんが輸送の間も、冷えないように馬着を調整したり、飲み水に気を使ったりして世話を焼いていたのが、その丸みのあるトモを見ただけでわかった。
アイアスは装鞍所のざわめきに少し耳を動かしていたけれど、私が正面から近づいて鼻先に手の甲を近づけると、フッと温かい息を吹きかけてきた。
「輸送も全然平気やったで。今朝も飼葉桶を空っぽにしてな、落ち着いとるわ。……ほら、先生も来られたで」
黒木さんが鞍を背中に乗せて手際よくパッドの位置を合わせていると、スーツ姿の須藤先生がやってきた。
「ご苦労さん、河瀬くん。馬の状態は黒木の言う通り、文句なしだ。あとは水曜日の追い切りのときと同じように、馬のリズムを大事にして乗ってきてくれればいい」
「はい、須藤先生」
装鞍所の隅にある小さなテレビモニターからは、すでにパドックに集まり始めた観客たちの熱気と、場内中継の声が流れてきている。
『さあ、まもなく天皇賞の本馬場入場を前に、パドックには出走各馬が姿を現します。解説の東雲さん、やはり今年の中心は二枠四番のアーティショーということになりますか』
『そうですね。去年のダービー馬ですし、一週前に美浦から佐伯騎手が栗東へ駆けつけて行った追い切りの動きが、ちょっと図抜けていましたからね。六ハロン79秒8、ラスト一ハロン10秒9を馬なりでマークしています。枠も絶好の二枠四番を引きましたし、死角らしい死角は見当たりません』
『対する二番人気は、一枠二番のラピスヴェルト。こちらは前哨戦を快勝して、鞍上の桐生騎手がフブキアイアスではなくこちらを選んだことでも話題になりました』
『ラピスヴェルトも折り合いに全く不安がない優等生ですから、内枠からロスなく立ち回れば逆転まで十分にありますよ』
『その一方で、桐生騎手が手放した八枠十五番のフブキアイアスには、今年三月デビューの新人・河瀬奈央騎手が抜擢されました。現在単勝は十一番人気ですが、こちらはどう見ますか』
『うーん、能力自体は去年の秋に重賞を勝っている通り一級品なんですが、なにしろ春の大阪杯と宝塚記念の暴走が深刻でしたからね。今回は河瀬騎手との新コンビで挑みますが、大観衆の中で外枠の十五番から我慢が利くかどうか。河瀬騎手もこれがGⅠ初挑戦ですし、まずは無事に折り合って回ってこられるかでしょうね』
テレビの声を背中に聞きながら、私は黒木さんと一緒にパドックへの通路へと出た。
外へ出た瞬間、秋の乾いた空気と一緒に、何万人もの話し声と足音が混ざり合った低い地鳴りのような音が耳を包んだ。
パドックの柵の周りには、後ろの通路が見えなくなるほど何重にも人が立ち並んでいる。七夕賞のときの福島競馬場もたくさんの人が来ていたけれど、今日の東京競馬場は、スタンドのずっと上の階まで人でびっしりと埋まっていた。
『十五番、フブキアイアス、五百キロ、増減なし。騎手、河瀬奈央』
場内アナウンスが響くと、カメラのシャッター音があちこちからバシャバシャと鳴り出した。
その音に反応して、周回していたアイアスがピクリと肩を揺らし、顔の右側を内側の植え込みの方へ向けるようにして首を高く起こしかけた。
けれど、手綱を曳いている黒木さんが、少しも慌てずにアイアスの首筋に自分の左手を添え、一定の歩幅で地面を踏みしめながら歩き続ける。するとアイアスは、黒木さんの手のひらの温度で気が紛れたみたいに、上げた頭をすっと元の高さへ戻した。
やがて「騎乗」の合図がかかり、馬たちが足を止める。
私は須藤先生に一礼してからアイアスの左側に歩み寄り、黒木さんに左膝を押し上げてもらって鞍の上へと跨った。
「黒木さん、ありがとうございます。……アイアス、今日もよろしくね。黒木さんの手と同じくらい、私が上からしっかり捕まえててあげるからね」
鞍の下から、アイアスの確かな熱と、少し早鐘を打っている心臓の音が伝わってくる。
私は鐙の長さを確かめ、手綱をいつもより少しだけ短く握り直した。
パドックの楕円の向こう側では、白い帽子の二番ラピスヴェルトの上で、桐生さんが落ち着いた手つきで馬の首筋を軽く叩いていた。その二頭後ろには、黒い帽子の四番アーティショーと佐伯さんの背中が見える。どちらの馬も、これだけの大観衆に囲まれているのに、まるで自分の馬房の前を歩いているみたいに耳をゆったりとさせている。
前を行く馬たちの列に続いて地下馬道へ入ると、蹄鉄がコンクリートの床を叩く音がカッカッと高く反響した。
周囲の壁に音が跳ね返るせいで、アイアスの背中がまた少しだけ硬くなる。私は腰を浮かさず、鞍の真ん中に自分の体重と十五キロの鉛の重みをまっすぐ沈めながら、両方のふくらはぎでアイアスの肋骨のあたりをぎゅっと包み込んだ。
◇
やがて通路の先から華やかな本馬場入場の音楽と実況の声が響いてきた。
『秋晴れの東京競馬場、これより第十一競走、天皇賞の本馬場入場です! 先頭で入場してまいりますのは、一枠一番、ミナトノシルベ! 六歳牡馬、鞍上はベテラン篠原騎手! 内枠を活かしたイン突きに定評のあるコンビが、一番手でターフに姿を見せました! 続いて一枠二番、ラピスヴェルト! 四歳牡馬、五十八キロ、鞍上は栗東の桐生騎手! 前哨戦を鮮やかな抜け出しで制し、堂々の二番人気に推されました! 黒鹿毛の馬体が秋の日差しを浴びて黒光りしています!』
ずっと前の方で、白い帽子の桐生さんとラピスヴェルトが明るい陽射しの中へと出ていくのが見える。
『二枠三番、ウラベダイダイ! 五歳牡馬、鞍上は津田騎手! 重賞戦線で安定した先行力を武器に、この大舞台へ駒を進めてきました! そして大きな拍手に迎えられて入場してまいります、二枠四番、アーティショー! 去年の日本ダービー馬、四歳牡馬、五十八キロ、鞍上は佐伯騎手! 一番人気の支持を集めた世代の頂点が、この秋、古馬の壁を打ち破るか! 落ち着いた足取りで返し馬へと向かいます!』
スタンドの歓声がひときわ大きく膨れ上がり、地下馬道の出口まで地鳴りのように押し寄せてくる。アイアスがビクッとして右の耳を後ろへ伏せた。
私は水曜日の朝に栗東でやったのと同じように、手綱を短く持った両方の拳をアイアスの首の付け根にぴたりと固定し、左右の脚で馬の腹を隙間なく挟み込んだ。
『続いて三枠五番、アイバファルセット! 五歳牝馬、五十六キロ、鞍上は浜野騎手! 去年の秋華賞馬、鋭い末脚を武器に四番人気に推されています! 三枠六番はコンシリオーネ! 五歳牡馬、鞍上は高木騎手! 毎日王冠二着から臨む東京巧者、五番人気です! 四枠七番、今日も果敢にハナを奪うかタチマチハヤテ!……』
五枠九番のアオノカルセドニーや、六枠十二番のヘリオグラフなど、実力馬たちの名前が次々と呼ばれ、前の馬たちが一頭ずつ緑のターフへと姿を消していく。
私たちのすぐ前を歩いていた七枠十四番のドライジンジャーは、入場口の光が近づくにつれて首前から汗が光り、水谷騎手が落ち着かせようとしているのが見える。
『七枠十四番、ドライジンジャー! 五歳牡馬、鞍上は水谷騎手! 気性の激しさと爆発力を兼ね備えた栗毛馬、八番人気です!』
ドライジンジャーが荒い鼻息を吐きながら芝コースへ飛び出していく。
その後ろで、私の頭の上からも明るい陽射しが差し込み、緑の芝生と巨大なスタンドが視界いっぱいに広がった。
『そして八枠十五番、フブキアイアス! 五歳牡馬、鞍上はこれがGⅠ初騎乗となります新人・河瀬奈央騎手! 春の悪夢を振り払い、人馬ともに新たな一歩を踏み出せるか、単勝は十一番人気! 最後に入場いたしますのは、大外八枠十六番、タテヤマグラオン! 六歳牡馬、鞍上は権藤騎手! 五百三十キロを超える大型馬が力強く芝を踏みしめて、以上十六頭の本馬場入場が完了いたしました!』
私はアイアスをゆっくりと常歩から速歩へ移しながら、手綱の張りを一定の強さで保ち続けた。
他の馬たちが走っていく内ラチ沿いではなく、誰もいない外側の芝生を選んで、アイアスをゆっくりとキャンターへと下ろす。
最初はスタンドの歓声に反応してハミを強く噛み、頭を上げようとしたアイアスだったけれど、私がわざと大きくしている呼吸の音を聞き、二度ほど鼻を鳴らしたあと、すっと顎を引いて自分の脚元に意識を戻した。
芝生の上を走るアイアスのストライドは、水曜日のウッドチップの上よりもずっと軽くて柔らかい。四本の脚が順番に芝を蹴り出すたび、背中が波打つように丸まって、私の体を前へ前へと運んでくれる。
向こう正面の方へ抜けながら口元の感触を確かめると、ハミの金具が舌の上で落ち着いていて、口角がほどよく濡れて光っていた。これなら、どこも痛くないし、呼吸もちゃんとできている。
私は一コーナーの奥にあるポケットの方へ進路を取りながら、少しずつアイアスの速度を落とす。速度を落としても、アイアスは首を高くして暴れることなく、私のふくらはぎの圧に寄り添うようにして歩調を詰めてくれる。
場内スピーカーから、解説の人の声も小さく聞こえてきた。
『返し馬を見ましたが、十五番のフブキアイアス、意外と言っては失礼ですが、非常に落ち着いてキャンターに入りましたね。引っ掛かる素振りがありませんでした。これは面白いかもしれませんよ』
一コーナーの奥、緑の木々に囲まれたスタート地点のポケットには、大半の馬たちが集まって輪乗りを始めていた。
すぐ近くを、アーティショーが通り過ぎる。鞍上の佐伯さんがこちらを見て、ゴーグルの奥でニヤリと目元を緩めた。
「おい河瀬、ずいぶん大人しく走らせてきたじゃないか。GⅠだからって遠慮すんなよ」
「佐伯さん! はい、アイアスくん、すごくいい子です。一生懸命走ります!」
私が声を返すと、少し離れたところでラピスヴェルトを回していた桐生さんも、軽く顎を引いて合図を送ってくれた。
入場口でも見た七枠十四番のドライジンジャーが私たちの前を横切る。首から胸前までびっしょりと白い汗をかいて、ここに来てさらに激しく頭を上下に振っていた。白目がむき出しになっていて、後ろ脚で芝生を蹴り上げるような危ない仕草を見せている。
十四番ということは、ゲートの中で私たちの右隣に入る子だ。
私はアイアスの首筋をもう一度強く撫で、右側の手綱の握りを確かめた。あの汗のかき方だと、ゲートの中でもじっとしていられないかもしれない。
◇
やがて遠くのスタンドから、トランペットのファンファーレが高く鳴り響いた。
曲が終わると同時に、スタンドが揺れるような大歓声と拍手がポケットの方まで押し寄せてくる。
係員さんの笛が鳴り、奇数番の馬たちから順番にゲートへと誘導されていく。
「よし、行こうね、アイアス。いつもの練習のゲートと一緒だよ」
私は両脚でアイアスの腹をしっかりと挟んだまま、八枠十五番のゲートへと馬を進めた。
アイアスは入り口の鉄枠の前で一瞬だけ足を止めかけたけれど、係員さんに後ろから軽く押されると、素直に中へと入ってくれた。
音を立てて後ろの扉が閉まる。
狭い鉄枠の中で、アイアスの体が縮こまり、耳がピンと立つのがわかった。
続いて偶数番の馬たちが、一頭ずつ順番にゲートへと収まっていく。
そして、私たちの右隣、十四番のゲートに汗だくのドライジンジャーが誘導されてきた。
ドライジンジャーはゲートの中に入るなり、フガッ、と荒い鼻息を吐き、隣の仕切り板に体をぶつけた。
ガシャン! と硬い鉄の音がすぐ右横で響く。
その瞬間、私の下でアイアスがビクッと大きく肩を震わせた。
アイアスが右の顔を隣の枠から遠ざけようとして、首を左へ捻りながらグッと頭を高く上げた。前脚が浮きそうになり、後ろの扉の方へ体重が逃げていく。
私は鐙を強く踏み込んで自分の体重を前へ乗せ、左の手でアイアスのたてがみの付け根を上からぐっと押さえつけながら、両方のふくらはぎで馬のお腹を力いっぱい抱え込んだ。
アイアスの浮きかけた前脚が、地面へと戻る。
けれど、アイアスが後ろへ重心を引いて頭を起こしたままの体勢で、大外の十六番タテヤマグラオンの枠入りが終わり、係員さんが離れた瞬間、目の前の扉が開いた。
『スタートしました! 秋の盾を巡る頂上決戦、天皇賞! 内から好スタートを切ったのは二番のラピスヴェルト、そして四番のアーティショー! おっと、外では十四番のドライジンジャーと十五番のフブキアイアスがわずかに立ち遅れました!』
周りの馬が一斉に前へ飛び出していく中、アイアスは後ろに引いていた体重を前へ戻すのに半拍かかってしまい、隣のタテヤマグラオンから一馬身ほど遅れてゲートを出た。
前の馬たちが蹴り上げた芝の塊と土が、私たちの顔の前へ飛んでくる。
アイアスの右の耳がペタリと後ろへ張り付き、飛んでくる土の塊から右目を庇うように、首を不自然なほど高く反らせてハミを強く噛んだ。四本の脚の回転が急に速くなり、前の馬の後ろへそのまま突っ込んでいこうとする。
パニックになって暴走し始める、あの水曜日の最初と同じ動きだ。
「アイアス、痛いところには入らないよ! 外だよ!」
私は右の手綱を少し開いて、アイアスを十六番タテヤマグラオンのさらに外側、誰の後ろにもならない一番外のラインへと誘導した。そして、短く持った手綱の拳をアイアスの首の付け根にグッと押し当てて固定する。両方の膝とふくらはぎに全部の力を込めて、暴れようとするアイアスの馬体を上から挟み込む。
『まずは二コーナーへ向かう先行争い! やはり行きました、四枠七番のタチマチハヤテと日下部が押して先頭を奪います! 二番手には三番のウラベダイダイ、その外から十一番のカネタマルゾ! そして絶好の四番手、内ラチ沿いに白い帽子、二番のラピスヴェルトと桐生! そのすぐ外、五番手の位置に一番人気の四番アーティショーがぴたりとつけました!』
私の腕には、アイアスが前へ逃げようとして引っ張る強い力が伝わってきていた。ここで私が怖がって手綱を引っぱり返したら、アイアスは口が痛くなって余計に頭を上げてしまう。
私は息を一定のリズムで深く吐き、拳の位置をミリ単位でも動かさないように脇を締めて、脚の圧だけでアイアスの腹を押し続ける。
一完歩、二完歩、三完歩、四完歩。
目の前から馬の壁が消え、飛んでくる土の塊が止んだ。遮るもののない秋の風が当たるとともに、ガチガチに張っていたアイアスの首筋から、ふっと余計な力が抜けた。
高く上がっていた頭が少しずつ下がり、ハミを噛みしめていた奥歯が解けたことが手綱を伝って私の指先に返ってくる。
『スタートで遅れた十五番のフブキアイアス、河瀬は馬群を嫌って、一番外、大外のラインへと持ち出しました! 馬群の外で後方十三番手の外目を追走しています!』
向こう正面へ出ると、アイアスの耳が後ろを向き、私の声を聞くように落ち着いた動きに戻った。
私は首元に押し当てていた拳をほんの少しだけ緩め、アイアスが首を前後に振るリズムに自分の呼吸を合わせた。鉛の詰まった重い鞍が背中で浮き上がらないよう、膝と足首を柔らかく使って、五十八キロの重心をアイアスの動きへぴたりと重ねていく。
前の馬群は縦に長く伸びていて、先頭を走るタチマチハヤテは、二番手のウラベダイダイを二馬身ほど離して気持ちよさそうに逃げている。
『向こう正面の中間点を通過していきます! 先頭は七番のタチマチハヤテ、前半の一千メートル通過は59秒2! 淀みのないペースで流れています! 二番手にウラベダイダイ、三番手にカネタマルゾ、そして四番手に二番人気二番ラピスヴェルト、そのすぐ外に一番人気四番アーティショー! 両雄が早くも前を射程圏に入れて、互いの出方を窺っています! その直後に五枠九番のアオノカルセドニー、内には三枠六番のコンシリオーネと三枠五番のアイバファルセット! 中団の後ろにはヘリオグラフ、ドライジンジャー、そして一番外から少しずつ、十五番のフブキアイアスがポジションを押し上げていきます!』
向こう正面の広い芝生の上で、アイアスのストライドがひと完歩ごとに大きく伸びていくのがわかった。
前に遮るものがなく、自分の好きなだけ空気を吸い込めるのが嬉しいのか、アイアスは自分からハミを軽く取って、グングンと進んでいく。
内ラチ沿いを走っている馬たちから見れば、私たちは馬三頭分も四頭分も外側の、ずいぶん遠く離れた場所を走っていることになる。ここで無理に内へ寄せようとすれば、また中団にいるドライジンジャーやヘリオグラフが蹴り上げる土が飛んできて、アイアスを怖がらせてしまうかも知れない。
だから私は、アイアスが一番気持ちよく脚を伸ばせる一番外のラインを保ったまま、前を行く馬たちを少しずつ追い抜いていくのに任せた。
十三番手から十一番手、そして九番手へ。
大欅の大きな枝葉の向こう側、三コーナーへと差し掛かる。
『さあ、大欅を越えて三コーナーから四コーナーへと向かいます! 逃げるタチマチハヤテのリードが一馬身に詰まった! 二番手ウラベダイダイ、三番手カネタマルゾの外から、四番のアーティショーがスッと並びかけていく! 内では二番のラピスヴェルトが虎視眈々と進路を探している! そしてその外! 大外から白い馬体が一気に上がってきたぞ! 十五番のフブキアイアスだ! 大きく外を回りながら好位集団のすぐ後ろ、六番手まで押し上げてきました!』
四コーナーのきついカーブ。遠心力で鞍の下の鉛が重くのしかかっているのか、手綱を握る私の指先に、アイアスの吐く息が少しずつ熱く、太くなってきているのが伝わってくる。
私は自分の体重を少し内側へ預けながら、左の手綱をわずかに持ち上げてアイアスの外へ流れようとする肩を下から支えた。
目の前に東京競馬場の長い直線が開ける。
『四コーナーを回って、最後の直線コースへと入りました! 先頭はまだ七番のタチマチハヤテが粘っている! しかし馬場の三分どころから、早くも四番のアーティショーと佐伯が並びかけた! そのすぐ内、ラチ沿いから二番のラピスヴェルトと桐生も抜けてくる! さらにその外、白い馬体、十五番のフブキアイアスが一気に先頭集団へ襲いかかる!』
直線の入り口で、私の目の前には遮るものが何もなかった。
内の少し前には、アーティショーとラピスヴェルトの二頭が並んでいる。
私はアイアスの首の付け根に固定していた両方の拳を、大きく前へと送り出した。
「前だよ、アイアス! ここから全部出していいよ、行こう!」
アイアスの馬体が低く沈み込む。後ろ脚が芝を抉り取るような力強い加速が、私の腰を後ろからドンと突き上げた。
『坂を登る! 残り三百メートル! 真ん中から四番のアーティショーが先頭に立った! 佐伯の左鞭が入った! 内から必死に食い下がる二番のラピスヴェルト! そしてその外、単独の三番手に上がったのはなんと十五番のフブキアイアスだ! 十一番人気のフブキアイアスと新人・河瀬が、二頭のすぐ後ろ、一馬身半差の三番手から懸命に脚を伸ばしている! 内からは九番のアオノカルセドニー、外からは六番のコンシリオーネと五番のアイバファルセットも追い込んでくるが、前は三頭か!』
スタンドの歓声が大きく膨れ上がる。
坂を登りきって残り二百メートルのハロン棒。規則正しく鳴っていたアイアスの鼻息が、急に浅く乱れた。
それまで私の手のひらを前へ引っ張っていたハミの張りが軽くなり、前へ掻き出す前脚の歩幅がほんの少しだけ狭くなる。
苦しいんだ。
それでも、アイアスは春のレースの映像みたいに頭を高く上げて走るのをやめたりはしなかった。
耳を後ろへ絞ったまま、白い首筋に太い血管を浮き上がらせて、重くなった前脚を必死に前へ前へと投げ出している。
『残り百メートル! 先頭は四番のアーティショー! ラピスヴェルトを半馬身、一馬身と突き放す! 三番手で粘る十五番のフブキアイアス、しかしここで少し脚色が鈍ったか! 内から九番のアオノカルセドニー、さらに外から六番のコンシリオーネが上がってくる! フブキアイアスも懸命に食い下がっているが、アオノカルセドニーとコンシリオーネが交わして三番手争い!』
左右から激しい蹄音が迫り、アイアスを追い抜いていく。
隣を馬に抜かれても、アイアスはもう横を向いて怯えたりしない。ただ前にあるゴール板だけを見て、残っている力を全部振り絞るようにして芝を蹴っている。
ここで鞭を入れて叩く気には、なれなかった。
もうこの子は、自分の持っている力を一滴も残さずに全部出している。私は鞭を握ったまま、下がりそうになるアイアスの頭と首のバランスを両方の手綱で下から懸命に支えながら、自分の腰で背中を押し出し続けた。
「頑張れ、アイアス!」
外からアイバファルセットの荒い鼻息が馬体を並べるように迫ってくる。
アイアスが、もう一度だけ首を前へ伸ばした。
『先頭は四番のアーティショー、堂々とゴールイン! 二着に二番のラピスヴェルト! 三着には内から伸びた九番のアオノカルセドニー、四着に六番のコンシリオーネ! そして五着! 十五番のフブキアイアスが、外のアイバファルセットの追撃をクビ差しのいで五着でゴール板を駆け抜けました! 勝ち時計は1分57秒4! 見事一番人気に応えたのは、四番のアーティショーと佐伯騎手です!』
◇
ゴール板を過ぎてから、私はゆっくりと手綱を引いてアイアスの速度を落とした。
一コーナーのカーブへ入りながら、私はターフビジョンを見るより先に、鞍の上から自分の体を前へ乗り出して、アイアスの右前脚と左前脚の運びをじっと覗き込む。
芝生を踏む四本の脚のリズムに、びっこを引くような乱れはない。屈腱のあたりが熱を持って腫れている様子もないし、鼻から血が出ていることもない。
ただ、アイアスのお腹が、激しく膨らんではへこんでいて、熱い息がヒュー、ヒュー、と音を立てて吐き出されている。
「よかった、脚はどこも痛くなさそうだね……。……ありがとう、アイアス。ごめんね」
私はゴーグルを額に上げ、汗でびっしょりと濡れたアイアスの白い首筋を、手のひらで何度も優しく撫でた。
アイアスは、あのゲートの音も、飛んでくる土も全部我慢して、最後の直線で息が苦しくなってからも、一歩もサボらずに自分の力を最後まで出し切ってくれた。
もし私がもっと上手に走らせてあげられていたら、最後の百メートルであんなに息が苦しくなることもなかったはずなのに。
私が首筋を撫でていると、アイアスは荒い息を吐きながらも、私に応えるみたいに片方の耳をパタリと後ろへ動かした。
場内のスピーカーからは、興奮の冷めない実況と解説のやり取りが響いてきている。
『見事一番人気に応えて秋の盾を手にしたのは、四歳世代の頂点、アーティショーと佐伯騎手でした! 東雲さん、直線でラピスヴェルトを突き放したあの末脚、去年のダービーを思い起こさせるキレ味でしたね!』
『いやあ、強かったですね。二着のラピスヴェルトも桐生騎手が内から素晴らしい騎乗を見せたんですが、今日はアーティショーと佐伯騎手の力を褒めるしかありません。三着のアオノカルセドニー、四着のコンシリオーネまで含めて、上位は実力馬が順当に力を出し切った見応えのある好レースでした』
『そして東雲さん、五着に粘り込んだ十五番フブキアイアスと、GⅠ初騎乗の新人・河瀬奈央騎手の走りにも、スタンドから大きな拍手が送られています!』
『これには本当に驚かされました。スタートで出遅れたあと、向こう正面から四コーナーまで馬群を完全に避けて、終始一番外を回ってきたんですよね。普通なら相当な距離ロスでバテてしまうところですが、直線ではあわやというところまで脚を伸ばしてきました』
『最後は少し脚が鈍って二頭に交わされましたが、それでも四番人気のアイバファルセットをクビ差しのいでの五着です』
『制御不能と言われていた馬を、十八歳の新人騎手がGⅠの舞台で掲示板に持ってきたんですから、これは立派の一言ですよ』
向こう正面から引き上げてくる途中、二着だったラピスヴェルトと桐生さんが、私たちの横に馬を並べてきた。
桐生さんは泥の跳ねた顔で息を吐きながら、私とアイアスを見て、呆れたように白い歯を見せた。
「おいおい、河瀬ちゃん。直線で外からアイアスの白い顔が見えたときは、心臓が止まるかと思うたわ」
「あ、桐生さん、お疲れ様でした! ラピスヴェルトくん、最後まで二番手ですごく強かったです」
「佐伯さんには負けてもうたけどな。……しかし、ほんまにあのアイアスをよう折り合わせて、最後まで真面目に走らせよったな。四コーナーで大外を回したときは無茶しよると思ったが、あそこから坂を登りきるまで脚を伸ばすんやから、たいしたもんやで」
桐生さんは「ワイより河瀬ちゃんのほうがええんか?」と、アイアスの鼻先へ軽く手を伸ばした。アイアスは桐生さんの手を見ても頭を上げず、小さく鼻を鳴らしただけだった。
「ええ顔しとるやないか、アイアス。……河瀬ちゃん、ありがとな」
桐生さんはそう言って、先に検量室の方へと馬を進めていった。
ウィナーズサークルの近くでは、一番人気のアーティショーに跨った佐伯さんが、スタンドからの「佐伯ーっ!」という大歓声に右手を高く掲げて応えているのが見えた。
◇
地下馬道を抜けて検量室の前へと戻ると、脱鞍スペースで、須藤先生と黒木さんが今にも飛び出してきそうな勢いで待っていた。
私は馬が完全に止まったのを見届けてから、鞍の上から地面へ飛び降りる。
そして、ヘルメットを脱ぐより先にグローブを脱ぎ、アイアスの右前脚の球節から管のあたりをそっと撫で下ろし、もう一度じかに確かめる。うん、やっぱり大丈夫だ。右目の周りにも、今日は泥ひとつ跳ねていない。
私がホッとして立ち上がると、黒木さんが目を真っ赤にしながら駆け寄ってきて、アイアスの首筋に抱きつくようにして顔を撫で回した。
「アイアス、よう走った、よう最後まで走ったなぁ……! 河瀬ちゃん、ありがとう、ほんまにありがとうな!」
私は手早く腹帯を緩め、アイアスの背中から鉛の詰まった重い鞍を引き抜いた。ずっしりとした五十八キロ用の鞍を左腕に抱え直し、右手でヘルメットを脱いでから、須藤先生と黒木さんに向かって深く頭を下げる。
「須藤先生、黒木さん、すみませんでした! アイアスくんはゲートで我慢して、最後の直線でも全部力を出し切ってくれたのに……」
私が顔を上げると、須藤先生は目を丸くしたあと、お腹の底から声を上げて笑い出した。
「はっはっは! おい黒木、聞いたか。この子は天皇賞で五着に入って、謝っとるぞ!」
「先生、俺もなんて言うてええかわかりませんわ。……河瀬ちゃん、顔を上げてくれ。うちは単勝十一番人気やったんやで? 春の二戦であんだけ暴走して、今回も途中で引っ掛かって終わると思うとった馬が、このメンバーを相手に五着、立派な掲示板や!」
黒木さんは作業着の袖で目元を拭いながら、震える声で言った。
「もし道中で無理に馬群の中へ入れとったら、アイアスはまた右目を怖がって、三コーナーまで持たずにパニックになっとったはずや。河瀬ちゃんが外へ出してずっと支えてやってくれたから、こいつは最後まで走るのを嫌にならずにゴールできたんやで。……見ぃや、この顔を。春に帰ってきたときは目が血走って震えとったのに、今日は『全部走ったぞ』って満足そうな顔をしとるやないか」
言われて隣を見ると、鞍を外されたアイアスが、まだ大きく息を弾ませながらも、黒木さんの作業着の肩口に自分の白い鼻先をぐいぐいと擦りつけていた。
須藤先生も、そのアイアスの首筋を優しく叩きながら、穏やかな目で私を見た。
「黒木の言う通りだよ、河瀬くん。今日の外回しは、この馬がもう一度競馬を走るために絶対に必要な進路だった。直線でアーティショーとラピスヴェルトの後ろ、三番手に上がった瞬間は、私と黒木で喉が枯れるくらい叫んだんだぞ。……本当によく乗ってくれた。桐生くんの推薦に乗って、深町くんに頼み込んで大正解だったよ。そうだ、検量で待たせてはいけないから早く行ってきなさい。アイアスのことは黒木と私に任せておきなさい」
「はい、よろしくお願いします!」
私は須藤先生たちに一礼し、黒木さんに曳かれて洗い場の方へと歩き出したアイアスの白い背中をチラリと見送ってから、検量室の秤へと急いだ。
走っている最中よりも、こうして終わったあとに抱えて歩く方が、なんだか腕に鉛の重さが食い込んでくる気がする。
◇
検量を済ませて自分の席へ戻り、泥のついたブーツを脱ごうとしていると、壁にかかったテレビ画面に、今終わったばかりの天皇賞の全着順と、直線のスロー映像が映し出された。
画面の中で、佐伯さんのアーティショーが先頭で駆け抜け、桐生さんのラピスヴェルトが二番手で続き、その少し後ろで、白い馬体のフブキアイアスが首を低く伸ばして必死に脚を動かしている。
私はレガースのマジックテープを剥がす手を止めて、その画面の中のアイアスの顔をじっと見つめた。
残り二百メートルで息が上がってから、ゴール板を過ぎるまでのあの百メートル。
アイアスくんは本当に、ただの一歩も手を抜かずに走ってくれた。
もし私が、外へ逃げるだけではなくて、馬群のすぐ近くでもアイアスくんが怖がらないように守ってあげられるだけの技術を持っていたら。あるいは、五十八キロの鉛の重さをもっと上手に自分の膝と腰で逃がして、アイアスくんの肺が苦しくならないように助けてあげられていたら。
そうしたら、あの子は最後の百メートルでもっと楽に息ができて、前の二頭の背中にもう少しだけ近づけていたんじゃないだろうか。
「……まだまだ、だなあ」
私は外したレガースを揃えながら、小さく息を吐いた。
このあとは最終の第十二レースにもう一鞍、二勝クラスのダート戦が残っている。その子は三キロ減の五十五キロで乗れるから、鉛の板も少しは抜いてしまえるけれど、今度は砂を被っても息が詰まらないように、もっと丁寧にコースを選んであげなければいけない。
私は重たい天皇賞の鞍から鉛の板を一つずつ抜き取りながら、次のレースの出馬表をもう一度頭の中で思い返した。