十一月も半ばになると、美浦の洗い場の水は指先が痺れるほど冷たくなる。
ホースの先端から飛んだ水滴が、ゴム長靴の爪先を濡らした。靴下は二枚重ねにしているけれど、ゴムの薄い部分から冷気が染みてくる。
私はブラシを持ち替え、アサギリマーチの左後脚の球節の裏側をこすった。毛並みに逆らわないよう、乾いた泥を少しずつほぐしていく。
「おい、河瀬。いつまで洗ってんだ、風邪ひかすぞ」
通路の奥から五十嵐さんの声が飛んできた。
私はすぐに水道の栓をひねり、汗こきをマーチの背中に当てた。毛並みに沿って一撫ですると、濁った水が床の排水溝へ落ちていく。
「すみません、昨日の雨で馬場が重くて。繋ぎの泥がなかなか落ちなくて」
「お前がやるとなんでも丁寧すぎて遅えんだよ。ほら、どけ。拭くのは俺がやる」
五十嵐さんは私の手から汗こきを取り上げると、手早く残りの水を切り、乱暴に見えるくらいの速さでマーチの腹の下をタオルで拭い始めた。でも、布を当てる角度は柔らかく、マーチもまんざらではなさそうに見える。
「しかし、お前も先週の福島はさんざんだったな。日曜だけで一番人気を三回飛ばしたんだっけか」
「……二着が二回と、四着が一回です」
「それを世間じゃ飛ばしたって言うんだよ。せっかくもうすぐ六十勝だってのに、足踏みしてんじゃねえぞ」
四着。
あの最終レースのダート戦を思い出すと、奥歯のあたりが苦くなる。
減量が三キロになってから、どうも最後の百メートルでの計算が狂う。一キロ増えた鉛の分だけ、馬の背中が沈むタイミングがコンマ数秒早いように感じる。
それだけじゃない。天皇賞で五着に入ってから、私の乗る馬には急にたくさんの印がつくようになった。
「みんな、私の進路を塞ぐんですよ。ちょっと外へ出ようとすると、すぐに蓋をされてしまって」
「当たり前だろうが。お前が外から気分よく捲ってくれば厄介だって、向こうも対策してきてんだ。今までみたいに、お前だけ好きなところを走らせてくれるわけねえだろ」
「じゃあ、馬群の中で我慢させようとすると今度は前に壁ができた瞬間にハミを抜いちゃうんです。私の腕がまだ足りないせいで、馬が走る気をなくしちゃうというか」
「お前は馬に優しすぎるんだよ。たまには引っ叩いてでも前へねじ込め」
「そんなことしたら、次のレースからゲートの中で立ち上がるようになっちゃいますよ」
私がバケツの中のブラシをゆすいでいると、厩舎の入り口の方から、乾いた蹄の音が近づいてきた。
常歩のリズムが乱れ、時おり不規則に地面を引っ掻いている。
通路の向こうに、鹿毛の二歳馬が見えた。
トヴロダンフォン。
背中に跨っているのは、うちの厩舎で一番腕っぷしの強い木崎調教助手だ。そして、鼻先につけた引き手を、担当の若い佐藤さんが両手で必死に握りしめている。
ダンフォンの毛並みは、十一月の乾いた空気のせいもあって、埃っぽくくすんで見えた。
「おらっ、真っ直ぐ歩けっての! 佐藤、引っ張られるな、顎を上げさせるな!」
「す、すみません木崎さん! でもこいつ、急に首を振るから……うわっ!」
ダンフォンが首を横へ大きく振った。
佐藤さんの体が宙に浮きそうになり、引き手のナスカンが鋭く鳴る。
馬房の前の通路へ入ってきた瞬間、ダンフォンが足を止めた。洗い場にいるマーチの姿が目に入ったらしい。耳が頭の後ろへ張りつき、鼻の頭に深い皺が寄る。
「おい、止まるな! 馬房へ入れ!」
木崎さんがふくらはぎで腹を蹴り、短く持った手綱を強く引くと、ダンフォンの口角が引っ張られる。
その瞬間、ダンフォンが顎を天井へ突き上げ、後ろ脚だけで立ち上がりそうになった。
「うおっ、こいつ、またやりやがった!」
木崎さんが上体を前へ倒してバランスを取り、持っていた鞭でダンフォンの肩口を叩いた。
叩かれたダンフォンは、怯むどころか「ヒンッ!」と鋭い声を上げ、その場でぐるりと尻を回して洗い場のコンクリート壁を蹴り飛ばした。
マーチが驚いて頭を上げ、五十嵐さんが舌打ちをしてマーチの引き手を短く持ち直す。
「危ねえな、おい! 朝からなに大立ち回りやってんだ!」
「うるせえな、こいつが急に止まったんだよ! ほら、佐藤、さっさと馬房へ押し込め!」
木崎さんは顔を真っ赤にして、ダンフォンの背中から飛び降りた。
ダンフォンは荒い息を吐きながら、まだ後ろ脚で地面を掘るように掻いている。前脚の膝のあたりに、自分の唾液が白く泡になって飛び散っていた。
暴れた拍子に転がったバケツを拾いながら、私はダンフォンの後ろ脚の蹄に目をやった。
壁を蹴った右トモの蹄鉄は、幸い歪んでいない。裂蹄もなさそうだ。
木崎さんがヘルメットを脱ぎ、乱暴に地面へ置きながら事務所の方へ歩いていく。そのちょうど向こう側から、深町先生が出てきた。
「どうだった、木崎。今日のゲート練習は」
「だめです、先生。枠の中までは入るんですが、すぐ隣に噛みつきにいって暴れるんです。いざ扉が開いても、上へ跳ねるばかりで前に出やしない。こんなんじゃ、ゲート試験だって受かるわけないですよ」
「そうか。ハミはリングビットに変えてみたんだろう?」
「ええ。でも抑えを強くすりゃ、その分意地になって頭を上げるんです。力も妙に強いし、体がまだ細いくせに背中のバネは変にあるから、上で抑え込むだけで腰が砕けそうですよ」
木崎さんは自分の腰をトントンと叩き、洗い場の隅でホースを巻いている私の方を向いた。
「先生、いっそのこと明日からは河瀬に乗せてみたらどうですか。こいつ、夏にカデンツァを折り合わせたし、この前はあの須藤厩舎の暴れ馬をGⅠで五着に持ってきたんでしょう? こういう訳のわからない癖馬は、こいつに任せた方が早いんじゃないですか」
私が天皇賞に乗って以来、木崎さんは時々こういう発言をする。前世の私なら「お前が下手くそで馬が暴れてるんだろ!」と怒鳴り合いになっていたかもしれないけれど、今の私は百四十八センチの新人だ。
私はホースを壁のフックに掛け、濡れた手をズボンで拭いてから頭を下げた。
「私でよければ、いつでも乗せていただきます」
「……木崎、お前の腰もこれ以上悪くするわけにはいかんしな。河瀬、今週の金曜日にこいつのゲート試験を受ける予定だ。明日の朝から、お前が跨ってみなさい」
「はい、先生。わかりました」
私は馬房へ引きずり込まれていくダンフォンの後ろ姿を見送った。
右の飛節のあたりに、さっき壁を蹴ったときの白い擦り傷がほんの少しついている。あとで佐藤さんに言って、軟膏を塗っておいてもらおう。
◇
翌朝、午前六時の馬場は白い靄が立ち込めていた。
ダンフォンの馬房の前へ行くと、佐藤さんがすでに頭絡を着けようとして悪戦苦闘していた。
ダンフォンは首を高く伸ばし、ハミを絶対に口へ入れまいと奥歯を噛みしめている。
「おはようございます、佐藤さん。手伝いますね」
「あ、河瀬さん、おはようございます! すみません、こいつ、今朝も機嫌が悪くて……」
佐藤さんの目の下には、うっすらと青い隈ができていた。着ているジャンパーの右肩は、ダンフォンに噛まれたのか、生地が破れて中の綿が覗いている。あとでガムテープでも貼らないと、洗濯したときに綿が全部出てしまいそうだ。
私は踏み台を持ってきてダンフォンの左側に立ち、佐藤さんの手から頭絡を受け取った。
今の身長だと、頭を上げられたらつま先立ちしても耳の後ろまで届かない。
ダンフォンが横目で私を睨んで、鼻の穴を膨らませ、ブフッと顔に息を吹きかけてくる。
「おはよ、ダンフォン。朝から元気だね」
私は左手の親指をダンフォンの口の端、歯の生えていない柔らかい歯茎の隙間に滑り込ませた。
冷たい金具ではなく、温かい人間の指が入ってきたことで、ダンフォンが一瞬耳を動かして口を半開きにする。
その隙に、右手で項革を手早く耳の後ろへ通し、ハミを舌の上へ乗せた。
カチャリ、と金具が噛み合う。
ダンフォンは二度ほど奥歯でハミを噛んだけれど、頭を振り回すことはしなかった。
私は鼻革をいつもより指一本分緩めに留めた。昨日、木崎さんが乗っていたときは、口を開けさせないように鼻革が肉に食い込むほどきつく締められていた。あんなに締められたら、私だって怒りたくなる。
馬房から出して私が背中に跨ると、ダンフォンの背骨が硬く強張るのが鞍越しに伝わってきた。
体重四百三十キロちょっと。この前のフブキアイアスより七十キロも軽い。
跨った感じも、細い丸太の上に座っているくらい幅がなくて、頼りない。
下馬道を抜けて練習用のゲートが並ぶ場所へ出た途端、その細い背中が一気に張り詰める。
ダンフォンは一番前に並んでいる栗毛の馬を見つけると、急に首を低くして、前の馬の尻へ迫る勢いで力強く歩き出した。
自分の前を他の馬が歩いていること自体が気に入らないらしく、鼻息を荒くして前の栗毛を追い抜こうとしている。
私は手綱を引っぱり返さず、自分の拳を前に置いたまま、脚のふくらはぎでダンフォンの歩幅をコントロールしながらゲートへと向かった。
「おっ、深町んとこの暴れ馬、今日は河瀬ちゃんか」
発馬機の上で係員のおじさんが声をかけてくる。
私は「よろしくお願いします!」と頭を下げ、四番のゲートへとダンフォンを向けた。
鉄の枠が近づく。
普通、ゲートを嫌がる馬は入り口の前で足を止めて後ずさりをするものだけれど、ダンフォンは入り口で止まるどころか、隣の三番ゲートにすでに入っている芦毛の二歳馬を睨みつけながら、自分から枠の中へ入っていく。
後ろの扉が閉まる。
その直後、隣の芦毛馬が、狭い枠の中で落ち着きなく足踏みをした。
ダンフォンの耳が伏せられ、首を左へ捻って鉄パイプの仕切り板の隙間から、隣の芦毛馬の首筋へ本気で噛みつきにいこうとする。
「こら。よそ見しない」
私は右の手綱を短く引いて顔を正面へ戻させようとした。
するとダンフォンは、今度は私の手綱に逆らって顎を上げ、後ろ脚に体重を乗せて立ち上がろうとする。
あっ、これは前の木崎さんのときと同じだ。
ここで上から頭を叩いたり手綱を強く引いて抑えつけたりしたら、この子は上の人間と喧嘩することに夢中になってしまう。
私は立ち上がろうとするダンフォンの動きに逆らわず、鐙を踏み込んで腰を浮かせた。
そして、すぐ右隣の五番ゲートに別の黒鹿毛の馬が誘導されて入ってきた瞬間、ダンフォンの左耳のすぐ近くで小さく舌を鳴らす。
同時に、引っ張っていた手綱を少し緩め、前の扉の向こう側――誰もいないダートコースの方へ、自分の重心を傾けた。
ダンフォンの耳が、ピクリと前を向いた。
隣の馬とやり合うより、この前の扉が開いたら一番最初に飛び出して横の二頭を置いていく。
そう誘導するように、私が鞍の上でいつでも飛び出せる前傾姿勢を作ると、ダンフォンは浮きかけていた前脚を地面に下ろし、前扉の隙間へ鼻先を突き出して低く身構えた。
四本の脚が小刻みに震えている。
係員さんがボタンを押し、ガシャン! と大きな音を立てて前扉が開いた。
ダンフォンの後ろ脚が、ダートの砂を深く蹴り上げる。
速い。
一完歩目で、隣の芦毛と黒鹿毛をすでに半馬身置いてけぼりにしている。
昨日、木崎さんが「上へ跳ねるばかりで前に出ない」と言っていたのが嘘のように、首を低く伸ばして猛烈な回転で前脚を掻き出していく。
二完歩、三完歩。
あっという間に隣の二頭を二馬身ちぎり、先頭へ躍り出た。
すると、百メートルほど走って自分の前に誰もいなくなった途端、ダンフォンは「フンッ」と鼻を鳴らし、急にハミを抜いて走るのをやめようとした。
耳を横へ向け、後ろから遅れて走ってくる二頭へ視線を向ける。
「まだ終わってないよ、もうちょっと走ろうね」
私がふくらはぎで軽くお腹を押すと、ダンフォンは首を一度だけ縦に振ったけれど、それでもまた渋々と脚を動かして、もう百メートルほどキャンターで走ってから止まった。
本番のゲート試験でも、隣の馬に歯を剥き出しにしたけれど、私が手綱で前を促すとすぐに扉の方を向いて、試験官の人が目を丸くするほどのスタートを決めたのだった。
◇
それから数日後の、朝の調教がひと段落した頃だった。
深町厩舎の事務所の前に、見たことのない黒い大きな外国製の車が停まった。
洗車したばかりなのか、ボンネットに朝の雲がくっきりと映り込んでいる。泥のついた軽トラックばかりが走るトレセンの中では、そこだけ別の世界の乗り物だ。
私が洗い場のホースを置いて作業着の埃を払いながら駆けつけると、深町先生がすでに車の前で十海オーナーと、娘の美帆里さんを出迎えていた。
仕立ての良いグレーのコートを着たオーナーの隣で、白い毛皮が襟元についたコート姿の美帆里さんが周囲を見回している。
「いやあ、深町先生、ご無沙汰しております。トヴロダンフォンがようやくゲート試験に受かったと聞いて、ちょうど東京で会議があったものですから、娘を連れて顔を出しに来ましたよ」
「ようこそいらっしゃいました、十海オーナー。お嬢様も遠路はるばるありがとうございます」
十海オーナーは愛想よく笑いながらも、眼鏡の奥の目は笑っていなかった。厩舎の建物の古さや、近くに積まれた乾草のロール、そして先生の後ろに立っている私の姿を、値踏みするように一瞥する。
隣の美帆里さんは、私と同じくらいの歳だろうか。
足元を見ると、踵が五センチくらいある細い革のブーツを履いている。あんな綺麗な靴で厩舎の周りを歩いたら、馬糞の欠片や泥を踏んで一発で染みになってしまいそうだ。
「パパ、なんだかここ、独特の匂いがするわね」
「これ、美帆里。馬がいるんだから当たり前だろう。……深町先生、肝心のダンフォンはどこに?」
「はい、今、担当の者が馬房から出します。佐藤、連れてこい」
佐藤さんが「はい!」と返事をして、奥の馬房からダンフォンを曳いて出てきた。
朝の運動を終えて手入れをしたあとだったけれど、ダンフォンの冬毛が混じり始めた鹿毛の馬体は、やっぱりどこかボサボサとして艶がない。
おまけに、見知らぬ人間が二人立っているのを見て、ダンフォンは耳を後ろへ絞り、白目を剥いて「フゴッ」と鼻を鳴らした。
美帆里さんが、一歩後ろへ下がって眉をひそめる。
「……なにこれ。パパがセリで買った馬って、この子なの?」
「ああ、そうだ。血統は悪くないんだが、少し成長が遅れていてね」
「ヒョロヒョロで、色も泥みたいにくすんでて地味ね。もっとこう、王子様が乗る白馬みたいにピカピカで格好いい馬なのかと思ってたわ。目つきもなんだか怖いし」
美帆里さんは興味をなくしたように、自分のコートの袖についた小さな糸くずを指先で払った。
十海オーナーも、ダンフォンの細い胸前と、まだ肉付きの足りないトモを見て、小さく鼻から息を吐いた。
「ふむ。牧場にいた頃より少しは背が伸びたようですが、やはり四百三十キロそこそこですか。……深町先生、ゲートは受かったとのことですが、デビューはいつ頃に?」
「はい。来月、十二月の中山開催の二週目、芝二千メートルの新馬戦を考えております。体が細くてパワーが要るダートよりは、軽い芝でストライドを伸ばした方が良さそうですから」
「芝の二千ですか。まあ、この馬体ではクラシック云々という話でもありませんし、まずは一つ勝ってセリ代の元を取ってくれれば御の字ですね。で、鞍上はどなたに?」
深町先生が一歩横へずれ、私の背中を軽く押した。
「うちの所属の、河瀬奈央です。ゲート試験も彼女が乗って合格させました」
「深町厩舎の河瀬奈央です! トヴロダンフォンの調教とゲート試験に乗せていただきました。よろしくお願いいたします!」
「君が河瀬くんか。名前はニュースで見ましたよ。女性の新人ながらもう五十勝以上挙げていて、先日の天皇賞でも人気薄の癖馬を五着に持ってきたとか」
「あ、はい。馬が頑張って走ってくれたおかげです」
「木崎助手も手を焼いていたこの馬を、君が乗ったら一発でゲートを出たと深町先生から聞きました。……まあ、今のうちに他のトップジョッキーに頼んでも、こんな気性の荒い未勝利馬には誰も継続して乗ってはくれんでしょうしな」
隣で退屈そうにしていた美帆里さんが、私を見て「ふうん」と首を傾げた。
「ずいぶんちっちゃい女の子なのね。私より年下? ……まあ、誰も乗りたがらない暴れ馬なら、この子でいいんじゃないの、パパ。同じ厩舎なら融通も利くんでしょう?」
ちっちゃい女の子、か。前世は怖がられるくらいの大男だったんだけどな。私は顔に出さないように、営業用の笑顔を貼りつけてもう一度頭を下げた。
「そうだな。河瀬くん、君はそういう気難しい馬をなだめて走らせるのが得意なんだろう? ひとつ、この馬の教育係だと思って、新馬戦を頼むよ。無事にゲートを出て、賞金を少しでも持って帰ってきてくれればそれでいいから」
十海オーナーはそう言うと、自分の腕時計に目を落とした。
「では先生、このあと東京で昼食の約束がありますので、私たちはこれで。新馬戦の日は、私も娘も競馬場へ見に行きますから」
「はい、お気をつけて。しっかり仕上げておきます」
二人はダンフォンの鼻先に一度も触れることなく、また黒い大きな車へと乗り込んでいった。
タイヤが砂利を踏む音が遠ざかっていく。
ダンフォンは車が消えた方角へ向かって、面白くなさそうに前脚で地面を一度蹴った。
「佐藤さん、ダンフォンの脚、洗っちゃいますね。今日は泥が跳ねてるので」
「……はい。あんな言われ方して、河瀬さんは腹が立たないんですか」
「だって、今のダンフォンがヒョロヒョロで地味なのは本当ですから」
私はダンフォンのくすんだ首筋をポンポンと叩いた。
皮膚の下にある筋肉の繊維は、先週よりもずっと硬く熱く張っていて、飼葉も最近は残さず食べるようになってきている。
「でも、走れば速いですよ、この子は。ね、ダンフォン」
ダンフォンが私の作業着の袖口に鼻先を押し当ててきて、ボタンを前歯で噛んだ。
あ、またそこ。そのボタン、昨日の夜に糸を巻き直したばかりなんだから、引っ張らないでほしい。私はダンフォンの鼻を手のひらで軽く押して、洗い場へと歩き出した。