四月の半ばを過ぎると、美浦トレーニングセンターの朝は随分と過ごしやすくなる。
デビューしたばかりの三月初旬は、馬場から引き上げてくるだけで指先の感覚がなくなるほど冷え込んでいたのに、今では洗い場で馬の脚元に水を掛けてやるのが心地いいくらいだ。
水曜日の朝、私は自厩舎の調教を終えたあと、アサギリマーチの馬房の前で足を止めた。格子の隙間から顔を出したマーチが、待ち構えていたように私の作業着の袖を唇で器用につまむ。
「こら、マーチ。今日はおやつを持ってるけど、袖を離さないとあげないよ」
ポケットから小さく切った人参を取り出すと、マーチはあっさりと布を離し、柔らかい唇を私の手のひらに押し当ててきた。しゃくしゃくと小気味よい音を立てて咀嚼する鼻先を撫でていると、馬房の奥からホウキを持った五十嵐さんが現れた。
「おい河瀬、あんまり甘やかすなよ。来週はこいつの昇級初戦なんだからな。お前が来るたびにそれじゃ、レース前に太っちまうだろうが」
「一切れだけですよ。五十嵐さんに怒られない分しか持ってきてませんから。ね、マーチ」
マーチは私の言葉に同意するみたいに、長い睫毛を揺らしてもう一度鼻先を押しつけてきた。
デビュー戦で私に初勝利を贈ってくれたこの子は、その後いったん短期放牧に出され、先週トレセンへ戻ってきたばかりだ。太陽の光を浴びると鹿毛の馬体にうっすらと銭形模様が浮かび、毛艶も申し分ない。五十嵐さんがどれだけ丁寧に手入れをしているか、一目見ただけでわかる仕上がりだった。
「しかし、お前もよく飽きずに毎朝顔を出しに来るな。最近はよその厩舎からも声がかかって、朝の調教だけでも手一杯だろうに」
「自分の厩舎が一番落ち着くんです。それに、よその厩舎へ行くのは調教のあとでちょっと馬を見せてもらってるだけですから」
「その『ちょっと見せてもらう』ので、よその厩務員たちがどれだけ助かってるか知ってるのか?」
五十嵐さんは苦笑いを浮かべ、ホウキの柄に両手を乗せた。
「昨日なんか、剛田厩舎の田所がわざわざ俺のところまで礼を言いに来たぞ。『河瀬ちゃんにうちの馬の背中を見てもらったら、ずっと原因がわからなかった歩様の違和感が解決した』ってな。お前、あそこの馬に何をしたんだ」
「ええと、栗毛の大きな子ですよね? 洗い場で繋ぎ馬をしてるときに、右のトモを少しだけ浮かせて休んでたんです。昔ちょっと似たような馬を見たことがあって、もしかしたら鞍傷の古い痕が突っ張ってるのかなと思って、馬具を着ける前に皮の下を揉んであげただけですよ」
「普通の新人騎手はな、よその馬の背中の皮が突っ張ってるかなんて気にしねえんだよ」
五十嵐さんは呆れたように言いながらも、どこか誇らしげに口元を緩めていた。
私にしてみれば、前世で厩務員をしていた頃の習慣が抜けないだけの話だ。調教で跨った馬が少しでも首を傾げたり、ハミを噛み直したりすると、どうしても「どこかが痛いのかな」「馬具が合っていないのかな」と原因を探りたくなってしまう。
デビュー戦の翌日――初騎乗の二日目に乗せてもらった他厩舎の未勝利馬もそうだった。気性が荒くてレース中にすぐ引っ掛かると聞かされていたのだが、返し馬で口元の感触を確かめてみると、どうも左の奥歯が尖っていて、手綱を引かれるたびに頬の内側を傷つけているらしかった。そこでレースでは左の手綱をなるべく引かないように気をつけ、馬群から離れた外目を気分よく走らせてあげたところ、最後までバテずに伸びて勝ってしまったのだ。
レース後に「もしかすると左の奥歯が少し尖っているかもしれません」と伝えたら、管理していた調教師さんがひどく驚いていたのを覚えている。差し出がましいことを言ってしまったと反省したのだが、実際に獣医さんに診せたら本当に歯が尖っていたらしく、その一件以来、厩務員さんたちの間で私の名前が妙な広まり方をしてしまった。
結果として、私のところには「ちょっと気難しいところがある馬」の騎乗依頼が次々と舞い込むようになり、気づけばデビューから一ヶ月半で九つの勝ち星を積み重ねていた。
「まあ、お前が馬を大事にするのは悪いことじゃねえよ。おかげで春の終わりを待たずにもう九勝だ。あと一つ勝てば二桁に乗るってんで、今週は新聞記者も注目してるみたいだぞ」
「九勝もできたのは、全部馬たちと減量のおかげですよ。だって私、一般の騎手の人たちより四キロも軽いんですから。四キロって言ったら、お米の袋を一つ降ろして走るようなものじゃないですか。それだけ軽ければ、馬だって最後まで楽に走れますよ」
「……お前な、四キロ軽いだけで毎週のように勝てるなら、新人は全員苦労しねえよ」
五十嵐さんはため息をついたが、私は本気でそう思っていた。
中央競馬では、通算勝利数の少ない新人騎手には負担重量の軽減特典がある。特に女性騎手である私は、最初から四キロもの減量をもらえているのだ。私が特別な技術を持っているわけではなく、馬たちが痛がることを避けて、あとは軽い斤量を活かして気持ちよく走ってもらう。たったそれだけのことで、真面目な馬たちが自分の力を出し切ってゴールを駆け抜けてくれた。
むしろ、経験の浅い新人を背中に乗せて、落とさないように走ってくれている馬たちに感謝しなければならない。
「とにかく、今週も怪我だけはするなよ。土曜も日曜も、結構な数の依頼が来てるんだろう?」
「はい、ありがたいことに土日合わせて十一鞍もいただいてます。あ、そろそろ事務所に戻らないと、深町先生に怒られちゃいますね。マーチ、また日曜日の夜に来るからね」
もう一度だけマーチの鼻先を撫で、私は五十嵐さんに頭を下げて馬房を後にした。
春の柔らかい陽射しを浴びながら厩舎の通路を歩いていると、あちこちの馬房から馬たちがひょこりと顔を出してこちらを見る。どの子も可愛らしくて、全部の馬に挨拶して回りたいところだが、それをやっていると本当にお昼までかかってしまう。私は名残惜しさを振り切るように、小走りで事務所へと向かった。
◇
事務所に入ると、深町先生がちょうど出馬表のコピーを机に並べているところだった。
「お疲れ様です、先生。調教終わりました」
「ああ、ご苦労だったな。今週の確定した騎乗馬の資料をまとめておいたぞ。土曜が六鞍、日曜が五鞍だ。……中でも土曜の八レース、剛田さんのところのユウギリバロックは、よく話を聞いて乗ってこい」
私は机の前に座り、渡された資料に目を通した。
土曜日の中山第八レース、四歳以上一勝クラス、ダート千八百メートル。そこには確かに『ユウギリバロック』の名前があった。剛田厩舎といえば、昨日五十嵐さんに礼を言いに来たという田所厩務員さんがいるところだ。
「ユウギリバロックって、前走も三番人気になっていた馬ですよね。一勝クラスのこんな有力な馬に、私が乗せていただいてもよかったんでしょうか」
「剛田さんが自分から指名してきたんだよ。あの馬は五百二十キロを超える大型馬だが、どうも勝負どころの三コーナーあたりで急に走る気をなくして失速する癖があるらしくてな。今回はお前の四キロ減を活かして、少しでも馬の負担を軽くして前々で粘り込ませたいそうだ。それに、田所からお前の噂を聞いて、一度乗せてみたいと思ったんだろう」
深町先生は湯呑みのお茶を一口飲み、眼鏡の奥の目を細めた。
「もっとも、一勝クラスともなれば未勝利戦とは違って、周りの馬も歴戦の古馬ばかりになる。そう簡単にはいかないだろうが、今まで通り馬と喧嘩せずに乗ってこい」
「はい! せっかくいただいた機会ですから、バロックくんが気持ちよく走れるように頑張ります」
四キロ減という明確な理由があると聞いて、私はかえって安心した。実力以上のものを求められているのではなく、軽い斤量を活かして馬を楽にさせてあげればいいのなら、私のやるべきことは今までと変わらない。
私は資料の束を大切に抱え、予習をするために寮の自室へと戻った。
◇
金曜日の夜、中山競馬場の調整ルームはいつも通りの静けさに包まれていた。
デビューしたての頃は、テレビで見ていた騎手と同じ空間にいるだけで緊張して背筋が伸びっぱなしだった私も、一ヶ月半の間毎週のように通っていれば、さすがに少しは慣れてくる。
浴場で汗を流し、食堂でお茶を汲んでいると、後ろから聞き慣れた声がかかった。
「よお、河瀬。今週もずいぶん乗るみたいだな」
「あ、佐伯さん。お疲れ様です」
振り返ると、ベテランの佐伯騎手がいつもの気さくな笑みを浮かべて立っていた。私のデビュー戦で一緒に走って以来、競馬場で顔を合わせるといつも声をかけてくれる頼もしい先輩だ。
「お疲れ様じゃねえよ。先週の日曜、午後の未勝利戦で俺の馬をゴール前できっちり差し切ったの、まだ忘れてないからな」
「ええっ、すみません! でもあれは、私が乗せていただいた子がたまたま外枠で、砂を被らずに気分よく走れただけで……」
「またそれか。お前な、砂を被らない位置を取ったって言っても、向こう正面で前のペースが緩んだタイミングでスッと外から位置を上げてきたじゃないか。あそこで動かれたせいで、こっちは仕掛けのタイミングを完全に狂わされたんだぞ」
「えっ、ペースが緩んでたんですか? 前の馬の蹴り上げる砂が急に増えたので、馬が嫌がらないようにちょっと外へ避けただけだったんですけど……」
私が当時の状況を正直に説明すると、佐伯さんは湯呑みを持ったまま、やれやれといった風に肩をすくめた。
「前の馬が砂を多く蹴り上げるようになったのは、馬群が詰まってペースが落ちたからだよ。理屈で考えて動いたんじゃないのか……。まあ、結果的に馬の邪魔をせずに一番いいところを通してるんだから、大したもんだよ」
佐伯さんは私の向かいの席に腰を下ろし、テーブルの上の出馬表に目を落とした。
「明日で十勝目がかかるんだってな。最初は減量と馬に恵まれたのかと思ってた連中も、これだけ毎週勝たれると『まぐれじゃねえぞ』って見方を変えてきてる。明日の八レース、お前は剛田先生のところのユウギリバロックに乗るんだろう?」
「はい。昨日の朝、田所さんからも少しお話を伺いました。すごく大きくて立派な馬ですよね」
「立派な馬だが、あいつは一筋縄じゃいかないぞ。力はあるのに、三コーナーを過ぎると急にハミを抜いてズルズル下がっちまう。剛田先生のところの主戦も、何度か乗った中堅連中も、みんなあいつを動かせずに首を捻ってたからな」
佐伯さんは茶碗を置き、少しだけ真面目な目をして私を見た。
「俺も明日の八レースは、一番人気の馬に乗る。お前が四キロ軽いとはいえ、あのバロックを相手に負けるつもりはないからな。先輩の意地ってやつを見せさせてもらうぞ」
「はい、佐伯さんの馬は前走も二着ですごく強いですよね。私もバロックくんが最後まで走れるように、精一杯頑張ります」
佐伯さんは「よし」と短く頷き、片手を上げて自分の部屋へと戻っていった。
残された私は、食堂のテーブルでお茶をすすりながら小首を傾げた。普段は大人しくて飼い葉もよく食べるのに、三コーナーを過ぎると急に走るのをやめてしまう馬。
「……なんだか、ただサボってるんじゃないような気がするんだけどなあ」
前世で何十頭もの競走馬の世話を焼いてきた経験からすると、本当に走るのが嫌いな馬というのは、そもそも調教の段階からゴネたり、ゲートに入るのを渋ったりするものだ。三コーナーという特定の場所まで真面目に走っておきながら、そこで毎回のように失速するのには、何か馬なりの事情があるような気がしてならなかった。
自室に戻った私は、机の上に明日の出馬表と、過去のレース映像が入ったタブレットを広げた。
画面の中のユウギリバロックは、黒鹿毛の雄大な馬体をしていた。スタートから向こう正面までは実に伸びやかなストライドで走っているのに、三コーナーに差し掛かり、周囲の馬がペースを上げて密集し始めると、急に頭を高く上げて失速していく。鞍上の騎手が必死に鞭を入れて追っているが、馬は苦しそうに口を割るばかりで、まったく前へ進んでいなかった。
私は映像を一時停止し、三コーナーへ入る直前のユウギリバロックの脚元と首の角度をじっと見つめた。何度かコマ送りで再生を繰り返すうち、ある一つの仮説が頭に浮かぶ。
「もしそうなら、明日跨ってみればわかるかな……」
私はタブレットの電源を切り、明日の騎乗に備えて早めに布団へ潜り込んだ。
◇
土曜日の朝は、雲ひとつない晴天に恵まれた。
私は午前中の未勝利戦で三着と二着を一つずつ拾い、昼休みを挟んだ第五レースでも人気薄の馬で四着に粘り込んだ。惜しくも勝ち星こそ挙げられなかったものの、どの子も最後まで一生懸命に走ってくれたし、無事に厩務員さんの元へ返せたのでホッとしている。
そして迎えた午後、第八レース。四歳以上一勝クラス、ダート千八百メートル。
パドックの控え室から出ると、春の陽気の中で多くの観客が柵の周りに詰めかけていた。騎手の名前がアナウンスされると、客席の一部から「河瀬ちゃん、ここも頼むぞ!」という声が飛んでくる。デビュー戦のときは自分の鼓動しか聞こえなかったのに、今ではこうして名前を呼んでもらえるのが素直に嬉しくて、私はぺこりと頭を下げた。
パドックの中央には、管理する剛田調教師と、手綱を持った田所厩務員が待っていた。周回しているユウギリバロックは、近くで見ると本当に見上げるような巨体だ。身長百四十八センチの私と並ぶと、まるで大人と子供のような体格差がある。
「河瀬くん、よろしく頼むよ。見ての通り馬体は太め残りなく仕上がっている。今回は君の四キロ減があるから、スタートから押してでも好位につけて、前々で運んでほしい。ただ、どうしても三コーナーで気が抜けるところがあるから、そこからは遠慮せずに追って粘り込んでくれ」
「はい、剛田先生。あ、でも一つだけ田所さんにお聞きしてもいいですか?」
「なんだい?」
「バロックくん、普段の調教でも右回りのコーナーで手前を替えるとき、少しモタつくことはありませんか? あと、乾燥して埃っぽい日に鼻を鳴らしたりとか……」
私が尋ねると、隣で手綱を持っていた田所さんが目を丸くした。
「お前、よくそんなことに気づいたな。木曜の朝は洗い場で背中を見せただけだろう。確かにこいつは、右回りだと手前を替えるのが少し不器用なところがあるんだ。それに鼻の穴が少し狭めなのか、砂埃が舞う日はたまにフガフガと鼻を鳴らすことがある。獣医に診せても異常なしと言われてるんだが……」
「やっぱりそうなんですね。ありがとうございます、よくわかりました!」
私が笑顔で頷くと、剛田先生と田所さんは不思議そうに顔を見合わせた。
やがて「騎乗」の合図がかかり、私は田所さんに脚を上げてもらってユウギリバロックの鞍上へと跨った。
高い。普段乗っている牝馬や小柄な馬とは視線の高さがまるで違う。けれど、鞍の下から伝わってくる背中の感触は柔らかく、そしてとても素直だった。私が手綱を軽く持つと、バロックは大きな耳をパタパタと後ろへ向けて、私の指示を一生懸命に聞こうとしている。
「いい子だね、バロック。今日は苦しくならないように走ろうね」
地下馬道を抜け、乾いたダートコースへと出る。返し馬で軽くキャンターに下ろした瞬間、昨夜ビデオを見て立てた私の仮説は確信へと変わった。
この子は決して気が抜けてサボっているわけでも、走るのが嫌いなわけでもない。
五百二十キロという大きすぎる馬体を支えるために、普段から前脚にかなりの重さがかかっているのだ。そこへきて、勝負どころの三コーナーで周囲の馬が一斉に密集すると、巻き上げられた砂埃と他馬の熱気で息が苦しくなる。呼吸が乱れて頭が上がり、重心が前へ崩れた状態で急なコーナーへ突っ込むから、ただでさえ不器用な右回りの手前変換がうまくいかず、転ばないように自分でブレーキをかけていただけなのだ。
そんなギリギリの状態で鞍上から鞭で叩かれたら、馬としてはどう走っていいかわからず、ますます体を硬くしてしまうのも無理はない。
私はバロックの太い首筋をぽんぽんと撫でながら、ゲート裏へと向かった。
すでに他の馬たちも輪乗りをしており、一番人気の馬に跨った佐伯さんと視線が合う。佐伯さんは軽く顎を引いて、落ち着き払ったベテランの貫禄を見せた。
ファンファーレが鳴り響き、偶数番のバロックは後からゲートへと誘導された。十番枠。真ん中より少し外目の、悪くない枠順だ。
ゲートの中でバロックが一度だけ深く鼻を鳴らす。私は鐙に置く足の裏の重心をほんの少しだけ後ろへ移し、馬の前脚にかかっている重さを逃がしてやった。するとバロックは安心したようにピタリと静止し、前方の扉を真っ直ぐに見据えた。
全馬の枠入りが完了し、係員が離れる。
ガシャン、と重い音を立ててゲートが開いた。
◇
スタンド前の直線から始まる中山ダート千八百メートル。
ユウギリバロックは巨体を揺らしてゆっくりとゲートを出た。隣の馬たちが激しい掛け声とともに前へ殺到していく。
(あ……ここで押して前へ行かなきゃいけないのに)
剛田先生の「好位につけて前々で」という指示が頭をよぎる。けれど、ゲートを出たばかりのバロックはまだ巨体のバランスを取り切れておらず、少しだけ頭が高かった。ここで無理に急かして前脚に体重を乗せてしまえば、返し馬で感じた通り、最初から呼吸のリズムが崩れてしまう。
(剛田先生、ごめんなさい……! でも、今無理をさせたら絶対に三コーナーで苦しくなっちゃいます!)
私は心の中で手を合わせ、無理に押して追走するのをやめた。
「ゆっくりでいいよ、バロック。自分のペースで走ろうね」
内枠から好スタートを切った佐伯さんの馬が、先行集団の三番手にスッと収まるのが見えた。その後ろに五、六頭が団子状態になって続き、バロックは中団のやや後ろ、十番手あたりを追走する形になった。
最初のコーナーである一コーナーから二コーナーへ。乾燥したダートコースは、前の馬たちが巻き上げる砂の塊が茶色い煙のようになって後方へ流れてくる。バロックが嫌そうに鼻をひくつかせたのを感じ取り、私は内ラチ沿いを避けて、砂が飛んでこない外目のラインへと進路を取った。
一頭分、二頭分と外を回ることになるが、今日は四キロの減量をもらっている。多少の距離ロスよりも、バロックが綺麗な空気を吸えることの方がずっと大事だ。
向こう正面に出ると、新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んだバロックの走りが、みるみるうちに伸びやかになっていくのがわかった。大きなストライドが地面をしっかりと捉え、手綱を通じて心地よい推進力が伝わってくる。
向こう正面の中間点を過ぎたあたりで、レースが動いた。
後方にいた外枠の二頭が、早めに好位を取りに行こうと外から一気に押し上げてきたのだ。さらに、馬群の中にいた中堅騎手の馬も、進路を確保しようと外へ張り出してくる。それぞれの騎手が勝ちを意識して自分のポジションを取りに行った結果、外目を走っていたバロックの目の前にちょうど三頭の壁ができ、斜め前から激しい砂の塊が飛んできた。
いけない。馬群の真ん中に挟まれる。このまま進んだら、いちばん砂を被るところに入ってしまう。
周囲を馬に囲まれ、バロックの耳が不安そうに後ろへ倒れかける。ここで無理に前へねじ込もうとすれば、たちまち息が詰まっていつもの失速パターンになってしまう。
私はバロックの歩調に合わせ、手綱をほんの少しだけ握り直して、半完歩だけブレーキをかけた。
バロックがスッと速度を落とした瞬間、競り合いながら上がっていった外の馬たちが、そのままの勢いで私たちの前を通り過ぎていく。すると、集団が前へ密集したことで、すぐ後ろの大外にぽっかりと誰もいない空間が空いた。
私はすぐさま手綱を緩め、馬群の最後尾をかすめるようにして、バロックをさらに外側――遮るもののない大外のラインへと滑り込ませた。
「よし、ここなら風通しがいい」
斜め前を走っていた騎手が、チラリとこちらを振り返ったのが見えた。前が壁になったところから一瞬で外へ持ち出したのが意外だったのかもしれない。目の前が再び開け、澄んだ風が顔を撫でると、バロックは大きく鼻を鳴らしてリズムを取り戻した。
いよいよ、鬼門の三コーナーが迫ってくる。
前を行く先行集団がペースを上げ、佐伯さんの乗る一番人気馬が絶妙な手応えで先頭を窺う構えを見せた。周囲の騎手たちの手が激しく動き、あちこちで鞭が飛ぶ。
コーナーの入り口に差し掛かった瞬間、バロックの背中がわずかに硬くなり、頭を上げようとする気配が伝わってきた。過去のレースで苦しい思いをした場所を覚えていて、無意識に身構えているのだ。
「大丈夫だよ、バロック。今日はここで脚を替えるよ。私が支えてあげるから、せーのっ」
私は鞭には指一本触れなかった。
その代わり、自分の膝と腰のバネを使って鞍上の重心をわずかに後ろへ残したまま、バロックが右前脚を踏み込む瞬間に合わせて左の手綱をほんの少しだけ持ち上げ、内側の肩が沈み込まないように下から支えてやった。
トン、と小気味よいリズムで、バロックの軸足が左から右へと綺麗に切り替わった。
その瞬間、鞍の下で五百二十キロの馬体が「あれ?」とでも言うように一度だけ弾み――次の完歩から、それまでとは別馬のような力強い推進力を生み出し始めた。
すごい。手前さえ替われば、この子はここまで背が沈むんだ。
手綱を握る私が目を見張る間にも、ユウギリバロックは走る喜びを思い出したかのように首を低く伸ばした。コーナーの遠心力をものともせず、大きなストライドで地面をしっかりと蹴り出していく。
「もっと走っていいの?」と尋ねるように耳を動かしたバロックに、私は笑顔で手綱を送り出した。
「いいよ! バロックの好きなだけ!」
三コーナーから四コーナーの中間点、大外を通った黒鹿毛の巨体が、一気に加速を始めた。
十番手から八番手、六番手、四番手。
バロックは外から抜群の手応えで前の馬たちをかわしていく。三コーナーで止まるはずの馬が猛然とまくっていく姿に、スタンドからどよめきが湧き起こった。
四コーナーを回りきり、最後の直線へ。
先頭は、抜け出しを図った佐伯さんの一番人気馬だ。内ラチ沿いで粘る逃げ馬を競り落とし、まさにこれからセーフティリードを取ろうという完璧な抜け出しだった。
そのすぐ外へ、私とユウギリバロックが並びかけた。
「っ、河瀬か!」
佐伯さんが、ゴーグルの奥で目を見開いたのがわかった。すぐさま体勢を低くし、ベテランの巧みな左鞭を飛ばして馬を鼓舞する。さすがは一番人気、中山の急坂に差し掛かっても脚色が鈍ることなく、ぐっと二の脚を使って突き放しにかかった。
けれど、今日のバロックにはまだたっぷりと余力が残っていた。
「バロック、もうひと踏ん張り!」
私は鞭を振る代わりに、鐙を踏む力を少しだけ強め、馬の首が上下する動きに合わせて自分の身体を密着させた。下手に鞭を入れて驚かせるより、せっかく掴んだこの気持ちのいいリズムを最後まで崩さないであげた方がいい。
力強い蹄音が急坂に響く。
一完歩ごとに差が詰まり、残り百メートルの標識を過ぎたところで、バロックの大きな馬体が佐伯さんの馬と完全に並んだ。
佐伯さんが懸命に手綱をしごく横で、私はバロックの首筋をリズムよく押し出し続けた。坂を登りきった瞬間、バロックがもう一段階グンと脚を伸ばし、半馬身、一馬身と前へ出る。
白いゴール板が視界の端を飛び去っていく。
先頭で駆け抜けた瞬間、スタンドから大きな拍手と歓声が湧き起こった。
私はゆっくりと手綱を引いてバロックを減速させながら、大きく息を吐き出した。ターフビジョンを見上げると、六番人気のユウギリバロックが最終的に一馬身半の差をつけてゴールする姿が映し出されている。電光掲示板の一着の欄に、私たちの馬番である「10」が点灯した。
これで、デビューから通算十勝目だ。
「ありがとう、バロック。どこも痛くない?」
首筋を撫でると、バロックは満足そうに鼻を鳴らし、大きな頭を上下に振った。いつものレース後なら息が荒くなって首を下げているはずなのに、今日はまだ余裕がありそうな足取りで歩いている。
そこへ、二着に入った佐伯さんの馬が追いついてきた。佐伯さんはゴーグルを上げ、汗の滲んだ顔で苦笑いを浮かべた。
「おい河瀬、やられたよ。お前、あのユウギリバロックをどうやって動かしたんだ? 三コーナーでいつも止まる馬が、直線で外から馬なりで並びかけてきたから驚いたぞ」
「お疲れ様です、佐伯さん! バロックくん、砂を被らないところで手前を替えるのだけちょっと手伝ってあげたら、あとは自分で真面目に走ってくれたんです。やっぱり四キロ軽いと、こういう大きな馬でも最後が楽みたいですね」
私がそう答えると、佐伯さんはしばらく私の顔を見つめたあと、ふっと息を吐いて笑った。
「『ちょっと手伝った』ってな……初騎乗の癖馬の手前を勝負どころで綺麗に替えさせて、しかも最後まで鞭一本抜かずに突き放すなんて、簡単にできることじゃねえよ。横で並ばれたとき、お前の馬だけまだ脚が溜まりきってるのがわかってゾッとしたくらいだ。……減量のおかげだけで九つも十も勝てるわけがないとは思ってたが…。大した腕だよ、まったく」
「えっ、腕なんてそんな……。私はただ、バロックくんが走りやすいように邪魔をしなかっただけです」
「それが一番難しいんだよ。まあ、十勝目おめでとう。次は絶対に差し返してやるからな」
佐伯さんは私のヘルメットを軽く小突くような仕草をして、先に検量室の方へと馬を進めていった。
◇
検量室の前に戻ると、剛田調教師と田所厩務員が笑顔で駆け寄ってきた。私がバロックから降りて鞍を外そうとすると、田所さんが興奮した様子でバロックの首筋を撫で回す。
「河瀬ちゃん、ありがとう! バロックが三コーナーからあんなに伸びやかに走る姿、入厩してから初めて見たぞ!湯気まで立ててるくせに、もうけろっとした顔してるぞ」
「ありがとうございます! あの……剛田先生、すみませんでした! 前々で運んでって指示をいただいていたのに、後ろからになってしまって……おまけに鞭も使わずに……」
深々と頭を下げると、剛田先生は「まったくだよ」と苦笑いを浮かべた。
「ゲートを出てすぐ十番手まで下がったときは、『おいおい、俺の話を聞いてたのか』と肝を冷やしたぞ。だが、向こう正面での伸びやかな走りを見て、すぐに理由がわかったよ」
「スタートで少し頭が高かったので、あそこで押すと息が詰まっちゃうと思ったんです。その代わり、砂を避けて三コーナーで右の肩が沈まないように少し支えてあげたら、あとはバロックくんがすごく上手に走ってくれました。剛田先生がおっしゃった通り、四キロの減量が効いたんだと思います!」
私が必死に説明すると、剛田先生は何度も頷きながら、感心したように目尻を下げた。
「いや、四キロ減の恩恵があるとはいえ、それだけであの三コーナーは回れないよ。返し馬のわずかな時間で馬の呼吸と手前の癖を掴んで、自分の判断でベストな形にエスコートしてみせるとはね。今まで俺たちが無理に前へ行かせて、こいつの良さを消していたのかもしれんな。……深町くんのところには、とんでもない掘り出し物がいたもんだ。河瀬くん、この馬の次走も、ぜひ君に頼むよ」
「本当ですか? ありがとうございます! バロックくん、また一緒に走ろうね」
一勝クラスを勝ったのだから、次走は二勝クラスになる。そんな上のクラスの馬に続けて乗せてもらえるなんて、新人としては本当にありがたい話だ。バロックが大きな顔を寄せてきて私の肩を鼻先で突いたので、私は思わず声を立てて笑った。
◇
その日の夕方、競馬場の記者クラブでは、記者たちが第八レースの映像を見返しながら記事の打ち合わせをしていた。デビュー戦の日に奈央を取材した記者も、その輪の中でメモ帳を広げている。
「河瀬のやつ、今日で早くも十勝目か。四月の半ばで二桁に乗せるなんて、ここ数年の新人の中じゃ頭一つ抜けたペースだな」
「ただ減量を活かして前残りしてるだけかと思ったら、今日のユウギリバロックの騎乗はちょっと唸らされたよ。ほら、この向こう正面の映像を見てみろ。前の三頭が動いて包まれそうになった瞬間、慌てずに半完歩だけ引いて大外へ持ち出してる。この咄嗟の判断といい、三コーナーのコーナリングといい、とてもデビュー一ヶ月半のルーキーには見えん」
「剛田調教師も『あの子は馬の気持ちを掴むのが抜群にうまい』ってベタ褒めだったぞ。二着の佐伯騎手も、検量室から上がってきたときに『パトロール映像を見たが、あんな器用な真似をされたらたまらん』って舌を巻いてたくらいだ。これから他厩舎からの依頼がさらに増えるんじゃないか」
先輩記者たちの会話を聞きながら、彼は自分のメモ帳に書き留めた奈央のコメントに目を落とした。
『四キロ軽いおかげで、バロックくんが最後まで頑張ってくれました』
デビュー戦の『マーチに勝たせてもらいました』から、本人の謙虚な言い分は少しも変わっていない。けれど、現場の調教師やベテラン騎手たちの見る目は、今日の十勝目で確実に変わったようだった。単なる「減量特典で勝っている幸運な新人」ではなく、「馬を動かす確かな技術を持った本物の騎手」として。
「……本人は相変わらず、馬の世話係くらいのつもりで乗ってるみたいだけどな」
記者は小さく苦笑し、キーボードに手を置いた。来週の彼女の騎乗馬には、あのデビュー戦を勝ったアサギリマーチが予定されている。昇級初戦でも今日のような騎乗を見せるのか、今から楽しみだった。
◇
同じ頃、調整ルームの自室に戻った私は、深町先生と五十嵐さんから届いていた「十勝目おめでとう」という伝言を係員さんから受け取り、ほっと胸を撫で下ろしていた。
十勝という数字にはまだあまり実感が湧かないけれど、これで少しは深町厩舎や乗せてくださった方々に恩返しができているなら嬉しい。それに、来週はいよいよアサギリマーチのコンビ二戦目だ。
「マーチもバロックくんみたいに、気持ちよく走らせてあげられるといいなあ」
私は机の上に来週の特別登録の資料を広げ、マーチと一緒に走る馬たちの名前を指でなぞった。
周りの大人たちが私のことをどう評価し始めているかも知らず、私の頭の中は、日曜日の夜にトレセンへ帰ったらマーチにどんな顔をされるかということだけでいっぱいだった。