五月の声を聞くと、中央競馬の舞台は中山から東京へと移る。
美浦トレーニングセンターの木々もすっかり濃い緑に覆われ、朝靄の中を走る馬たちの吐く息も、もう白くはならない。
あれから私の騎手生活は、自分でも少し怖くなるくらい順調に進んでいた。
四月の最終週に行われたアサギリマーチの昇級初戦――一勝クラスの特別戦は、減量特典のない五十四キロでの騎乗だったが、休みを経てたくましさを増したマーチが好位から楽に抜け出し、私に減量抜きの勝ちをもたらしてくれた。その勝利を皮切りに、ゴールデンウィークの東京開催でも勝ち星が重なり、五月の中旬を迎えた時点で、私の通算勝利数は十五勝に達していた。
「土曜が七鞍に、日曜が六鞍か。おい河瀬、お前もうちょっとした中堅以上のスケジュールになってんじゃねえか」
金曜日の朝、深町厩舎の詰め所で出馬表を見ていた五十嵐さんが、感心したように口笛を吹いた。
私は自分の騎乗馬に蛍光ペンで印をつけながら、少し困ったように笑った。
「ありがたいんですけど、名前と特徴を覚えるだけで頭がいっぱいです。明日の東京なんか、午前中からずっと乗りっぱなしなんですよ」
「それだけよその先生がたに買われてるってことだ。実際、お前が乗ると癖のある馬でも不思議と折り合いがつくからな。……ただ、東京の広いコースはごまかしが利かねえぞ。中山みたいにコーナーで器用に立ち回って前残り、ってわけにはいかねえから、気を引き締めていけよ」
「はい! 馬たちがバテないように、しっかりペースに気をつけます」
実際、東京競馬場の長い直線は、私にとっても毎回が勉強の連続だった。それでも先週までに幾つか勝たせてもらえたのは、やはり四キロの減量のおかげで、最後の坂を登りきっても馬に余力が残っていたからだと思う。馬が気持ちよく走れる環境さえ作ってあげれば、馬は自分から前へ進んでくれる。この一か月で勝った馬たちは、みんなそうだった。
◇
土曜日の東京競馬場は、五月晴れの爽やかな風が吹き抜けていた。
私のその日の騎乗は、第一レースの未勝利戦から始まった。以前にも一度乗せてもらったことのある牝馬で、ゲートの中で少しソワソワするところを首筋を撫でて落ち着かせると、スタートからすんなりと先行し、直線でそのまま後続を振り切って一着でゴールした。これで通算十六勝目だ。
続く第三レースは二着、第四レースは四着。昼休みを挟んだ第五レースでも三着に入り、騎乗したすべての馬で掲示板を確保する手堅い立ち上がりとなった。
「おーい河瀬、また勝ったんだってな。お前、本当にどこまで勝ち星を伸ばす気だ」
第六レースの空き時間、騎手控室のベンチでレガースの汚れを拭いていると、佐伯さんが呆れたような笑顔でタオルを肩にかけてやってきた。
「お疲れ様です、佐伯さん。一レースの子は、前走で私が乗せていただいたときより背中がしっかりしてて、馬の力で勝たせてもらいました」
「相変わらずの謙遜だな。……そういや次の七レース、お前は村雨先生のところのシャドウレガリアに乗るんだろう?」
「はい、初めて乗せていただきます。二番人気になってるので、ちょっと緊張してます」
私が手元の出馬表に目を落とすと、佐伯さんは隣のベンチに腰を下ろし、少し声を潜めた。
「シャドウレガリアか。あいつは能力はあるんだが、どうにも掴みどころのない馬だぞ。三歳の頃は上のクラスでもやれると思ってたんだが、去勢して古馬になってから、大崩れもしない代わりに勝ちきれなくなった。いつも四着か五着あたりをウロウロしてるだろう」
「そうなんですよね。昨夜ビデオを何回も見たんですけど、どこかが痛そうで止まってるわけじゃないし、折り合いを欠いてるわけでもないのに、直線でスッと脚色が同じになっちゃうんです」
「まあ、お前ならまた何か見つけて走らせちまうのかもしれねえがな」
佐伯さんはそう言って笑ったあと、控室の奥の席へちらりと視線を向けた。
そこには、一人のベテラン騎手が静かに座っていた。黒髪に少し白髪が混じり始めた、鋭い目つきの男性――葛城(かつらぎ)騎手だ。四十歳を過ぎてなお関東のリーディング上位に名を連ねる名手で、特に気性の難しい牡馬や、動かないズブい馬を無理やりにでも持ってくる剛腕として知られている。普段から口数が少なく、新人の私などは挨拶をするだけでも緊張で体が固くなる相手だった。
その葛城さんが、手元の短い鞭のしなりを確かめながら、不意にこちらを見ずに口を開いた。
「……佐伯。あんまり新人を甘やかすなよ。そのシャドウレガリアは、前走まで俺の後輩が乗ってた馬だ」
「おっと、そういやそうだったな。悪かったよ、葛城さん」
佐伯さんが軽く片手を上げる。葛城さんは立ち上がると、ヘルメットを手に取りながら私の前を通りかかった。そして一瞬だけ足を止め、値踏みするような厳しい目で私を見下ろした。
「河瀬といったか。お前が馬の当たりが柔らかいのは見てりゃわかる。だが、七レースは生半可な撫で方じゃ動かんぞ」
「え……? あ、はい! ありがとうございます!」
思わず立ち上がって頭を下げたときには、葛城さんはもう控室の出口へと歩いていった後だった。
佐伯さんが苦笑いを浮かべて自分の膝を叩く。
「気にすんなよ。葛城さんは誰に対してもああいう言い方しかできねえ人なんだ。次の七レース、あの人は五番人気のアイアンディグニティに乗る。あれもかなりの癖馬だから、お前の出方を意識してるんだろうさ」
アイアンディグニティ。五枠、五歳の牡馬。十三戦一勝、二着が三回。出遅れや大敗も、戦績欄に混じっている。こういう馬を、葛城さんはどんなふうに乗るのだろう。耳の奥の低い声の余韻を押しやって、私は次のレースを見据えた。
◇
東京第七レース、四歳以上一勝クラス、芝二千メートル。
パドックに出ると、美しい青鹿毛の馬体をしたシャドウレガリアが、落ち着いた足取りで周回していた。管理する村雨調教師は、きっちりとスーツを着こなした実務家肌の先生で、挨拶をした私に簡潔な指示を出した。
「河瀬くん、よろしく頼むよ。馬体は見ての通り、何の不安もない。前走も五十八キロを背負って四着までは来ている馬だ。今日は君の四キロ減で五十四キロになるから、その分だけ最後の直線でもうひと伸びしてくれると計算している。好位で折り合って、直線で抜け出してくれ」
「はい、村雨先生。頑張ります」
騎乗の合図がかかり、私はシャドウレガリアの背に跨った。
これまで私が他厩舎から依頼を受けてきた馬たちは、何かしらの「小さな不調」や「我慢」を抱えていた。歯が尖っていたり、昔の鞍傷が突っ張っていたり、あるいはユウギリバロックのように呼吸と手前変換に不安を抱えていたり。そういった馬が発している「ここが嫌だ」「ここが苦しい」というサインを前世の経験から拾い上げ、邪魔をしないように走らせてあげることで、馬たちは本来の力を出してくれていた。
ところが、このシャドウレガリアの背中からは、そういった痛みのサインがまったくと言っていいほど伝わってこなかった。
脚取りは軽く、背の肉はやわらかく締まり、口当たりもおとなしい。こちらが拍子抜けするほど、どこにも難のない馬だった。
地下馬道を抜けて本馬場へ出て、返し馬で軽くキャンターに下ろしてみる。
すると、レガリアは実にお行儀よく、綺麗なフォームで芝の上を駆け始めた。手綱を引けばすぐに減速するし、脚を使えばスッと前に出る。一見すると、これ以上ないほど乗りやすい優等生だ。
けれど、向こう正面で少しだけ気合をつけようと腰を浮かせ、手綱を送り出したとき、私は少し違和感を覚えた。
レガリアはハミをほんの少しだけクッと噛み直し、四肢の刻みは確かに細かくなり、鐙を踏む足裏に伝わる振動も忙しくなっていく。けれど、膝で挟んだ馬体の幅が少しも膨らまない。加速する馬の胴は、普通なら大きく息を吸い込んで一回り太くなるはずなのに。
前世で厩務員をしていた頃にも、年に一頭か二頭、こういう馬を見かけたことがあった。
きつい競馬を何度も経験するうちに、苦しくなる手前で力を抜くことを覚えた賢い古馬だった。
手入れのときにこちらの顔をうかがって手を抜く子なら、根気よく機嫌を取れば素直に歩いてくれた。ただ、本番で本気を出させるのも同じようにいくのかは、正直よくわからない。
「レガリア、今日はレースなんだから、もうちょっとやる気を出そうよ……」
私が首筋を軽く叩いてみせると、レガリアは長い耳をパタパタと動かして、まるであくびでもしそうな穏やかな横顔を見せた。
すぐ近くを、葛城さんが跨ったアイアンディグニティが通り過ぎていく。あちらも普段はズブくて動かない馬だと聞いていたが、返し馬の段階ですでに葛城さんが低く鋭いプレッシャーをかけており、馬の目にはピリピリとした緊張感が宿っていた。
私は少しだけ胸の奥に不安を抱えたまま、スタート地点である一コーナー奥のポケットへと馬を進めた。
◇
ファンファーレが鳴り、ゲートが開く。
シャドウレガリアのスタートは、驚くほど上手だった。扉が開くと同時にスッと一歩目を踏み出し、私が何もしなくても自然に好位の四、五番手へとポジションを取ってくれる。
東京の芝二千メートルは、スタートしてすぐに急なカーブがあるため、外枠の馬は位置取りに苦労することが多いのだが、レガリアは他馬とぶつからない絶妙なスペースを自分で見つけて、二コーナーへと綺麗に収まった。
(本当に賢い……。競馬のやり方を全部わかってるみたい)
向こう正面に入り、縦長の展開になる。
私の少し前には一番人気の馬がおり、斜め後ろには葛城さんのアイアンディグニティがぴたりとつけていた。
レガリアの走りは相変わらず滑らかで、引っ掛かる素振りも見せない。四キロの減量があるおかげで背中の負担も軽いはずだし、「これだけ楽に追走できれば、さすがに直線では脚を使ってくれるだろう」と、私はまだ楽観的に考えていた。
大欅(おおけやき)の向こう側、三コーナーから四コーナーへと差し掛かる。
先頭集団のペースが徐々に上がり、後方の馬たちが外から進出を開始した。
そのとき、斜め後ろから重い蹄音と、荒い鼻息が迫ってきた。
いつもなら三コーナーで置かれ始めるはずのアイアンディグニティが、今日は遅れる気配すら見せない。それどころか、芝を深くえぐる重い完歩を響かせ、外からじりじりと間合いを詰めてくる。風を切る音に混じって、バシッ! と乾いたムチの音が弾けた。
「ッ、ぼさっとすんな! 前を見ろ!」
背後から葛城さんの低い叱咤が飛ぶ。直後、後ろに迫る気配が一気に膨れ上がった。ズブいはずの馬の重苦しい息遣いが、熱を帯びた荒々しいものへと変わる。気を抜こうとした馬の意識を、鞍上が力ずくでねじ伏せて闘争心へ火をつけたのが、見なくても背中越しにビリビリと伝わってきた。
一方、周囲の馬が勢いを増す中で、私の下のシャドウレガリアはすっと顎を引いた。外から迫る蹄音とは裏腹に、こちらのハミの当たりは軽くなった。
一見すると折り合っているようだが、手綱を通じて伝わってくる推進力が、そこでピタリと頭打ちになったのがわかった。
(レガリア!今から加速するところだよ、レガリア!)
四コーナーを回り、東京競馬場の長い五百メートル以上の直線が目の前に広がる。
前の馬たちが一斉に追い出しに入り、私たちの前には絶好のスペースが空いた。ここを突き抜ければ勝てる、という理想的な進路だ。
私はこれまでのレースと同じように、馬の重心を邪魔しないよう腰を浮かせ、手綱を前へと送り出した。
「レガリア、前が空いたよ! 行こう!」
しかし、シャドウレガリアの反応は鈍かった。
他馬が一斉にペースを上げて前の集団との差が開いていくなか、こちらの完歩は一定の刻みを保ったままだ。苦しくてペースが上がらないのではない。呼吸は驚くほど落ち着いているし、脚元にもたっぷり余裕がある。ただ単純に、ここから先は全力で走るとしんどいからと、馬自身が勝手にレースを終わらせにかかっていた。
「まだ終わってないよ! 走って、レガリア!」
私は慌てて腰を落とし、手綱をしごいて馬の首を押し出そうとした。
けれど、いくら私が手綱を送っても、レガリアは「うんうん、背中が軽くて楽だねえ」とでも言うように首を上下させるだけで、ストライドを少しも広げようとしない。
そのすぐ外を、黒い影が猛烈な勢いで襲いかかってきた。
葛城さんのアイアンディグニティだ。
東京の長い坂に差し掛かり、葛城さんの左手が閃く。ビシッ、ビシッ、と空気を切り裂くような重い鞭の音が響き、その一撃ごとにアイアンディグニティの五百キロ近い馬体が地面に沈み込むようにして伸びていく。鞍上の葛城さんは、まるで馬と取っ組み合いの喧嘩でもしているかのように激しく全身を動かし、馬の余裕が出る隙間をコンマ一秒たりとも与えていなかった。
あっという間に葛城さんの馬にかわされ、さらに外から上がってきた後続の馬たちにも次々と並ばれていく。
私も右手に持った鞭を握り直し、レガリアのトモに向かって振り下ろした。
ペシッ、と乾いた音が鳴る。
だが、普段の調教で見せ鞭や軽い合図を入れるのとはわけが違う。全力疾走の中で闘志を詰め直すための、踏み込みに合わせた鋭い一撃を私は打てなかった。
表面を撫でるような鞭は、レース慣れした古馬にはまるで響かない。それどころか、レガリアは不機嫌に耳を伏せ、かえってハミを抜いて顎を上げてしまったのだ。
「あっ……!」
一度抜けた推進力は、私の力ではもう二度と戻せなかった。
坂の上で先頭に立った葛城さんのアイアンディグニティが、一番人気馬との激しい叩き合いを制して力強くゴール板を駆け抜けていく。
その後ろを、二着、三着、四着と他の馬たちが次々に通過していく中、私とシャドウレガリアは馬群の後ろに取り残され、八番目でゴール板を通り過ぎた。
二番人気での、八着。
掲示板にすら乗れない、完全な惨敗だった。
◇
一コーナーの奥で馬を止め、引き返してくる間の芝コースは、いつもよりずっと遠く感じられた。
私の下で、シャドウレガリアはケロッとした顔をして歩いていた。激しいレースを終えたはずなのに、鼻息ひとつ荒くなっていないし、馬体から浮き出ている汗もほんのわずかだ。
今までのレースなら、私は馬が消耗していないことを見て「怪我がなくてよかった」「元気に帰ってこられた」と安心していた。
けれど、このときばかりは、レガリアの涼しげな横顔を見るのがたまらなく辛かった。
この子は今日、自分の力の半分も出していない。五十四キロという軽い斤量をもらって、絶好のポジションを取って、前も綺麗に空いていたのに、鞍上の私がこの子を本気にさせてあげられなかったせいで、ただ馬場をひと回りしてきただけで終わってしまったのだ。
検量室の前に戻ると、村雨調教師と担当厩務員さんが待っていた。私は馬から降りると、鞍を外す前に深く頭を下げた。
「すみませんでした! せっかく乗せていただいたのに、直線で全然動かしてあげられなくて……」
「いや、顔を上げてくれ、河瀬くん。道中の位置取りは完璧だったし、四コーナーまでは勝つかと思ったよ。あそこからハミを抜いて走らなくなるのは、この馬の悪い癖なんだ。四キロ軽くして優しい女の子を乗せれば、少しは気分を変えて走るかと思ったんだが……まあ、あいつが一枚上手だったということだな。ご苦労さん」
村雨先生は怒ることもなく、淡々とした口調でそう言うと、厩務員さんに目配せをして馬を引き取っていった。
怒鳴られるよりも、その「やっぱり新人の減量頼みでは無理だったか」という納得したような背中を見送る方が、ずっと胸に堪えた。
私は外した鞍とゼッケンを抱え、自分の不甲斐なさに唇を噛みながら検量室の椅子へと向かった。
検量を終え、鞍を片付けようと通路へ出たところで、ウィナーズサークルでの口取り撮影を終えた葛城さんが、泥の跳ねたゴーグルを首から下げて戻ってきた。
ちょうど次のレースの勝負服を着た佐伯さんも、控室の方から歩いてくるところだった。私は邪魔にならないよう、壁際に寄って小さく頭を下げる。
すると葛城さんは、私の前でピタリと足を止めた。
「……河瀬。お前、直線の坂で鞭を何発入れた」
「えっ……? あ、二発です」
「あれは鞭を入れたとは言わん。ハエを払っただけだ」
葛城さんは首から下げたゴーグルを外し、汗の滲んだ険しい顔で私を見下ろした。
「シャドウレガリアの背中、どこも悪くなかっただろう。返し馬を見りゃわかる。体調は万全、脚元も問題なし。だが、ああいう賢い古馬はな、背中の人間が自分を怒らないとわかれば、絶対に苦しいところへは踏み込まん」
「……はい」
「お前がこれまで勝ってきた馬は、みんなお前に感謝してたんだろうよ。痛いところをかばってくれて、邪魔をせずに走らせてくれるからな。だが、競馬ってのはそれだけじゃねえ。馬が『もうこの辺でやめたい』と思ったところから、人間の技術と気合で首根っこを掴んで、もう一完歩、もう一馬身を無理やりにでも捻り出させるのが騎手の仕事だ」
「っ……」
「ちょっと葛城さん、新人にそこまで言わなくても……」
「黙ってろ、佐伯。俺はこいつを新人扱いして言ってるんじゃねえ。もう十六も勝って、二番人気の馬を任されてる騎手として言ってんだ」
葛城さんはそこで一度言葉を切ると、ふっと鼻を鳴らして視線を逸らした。
「……馬に好かれようとするあまり、馬にナメられて終わるようじゃ、上のクラスじゃ通用せんぞ。よく覚えておけ」
それだけ言うと、葛城さんは検量室の奥へと歩いていった。
残された私に、佐伯さんが少し困ったような、それでいて優しい笑顔を向けてくれた。
「……だそうだ。葛城さんが若手にああやって直接説教するなんて、滅多にないことだぞ。まあ、よく覚えておくんだな」
「……はい。すごく、よくわかりました。私、馬が気持ちよく走ってくれればそれでいいんだって、どこかで甘えてたんだと思います」
私は抱えていた自分の鞍をぎゅっと握りしめた。
競馬学校にいた頃、教官から『お前の過保護で距離をロスしてどうする!』と怒鳴られたことは何度もあった。けれど、プロの世界で実際に馬主さんや調教師さんの期待を背負い、ファンの馬券を背負って負けた今、その「過保護」という言葉の意味が、ようやく本当の痛みとして私の胸に届いていた。
◇
その日の残りの騎乗は、第十レースが五着、最終の第十二レースが三着という結果に終わった。
一日で七鞍に乗って、一勝、二着一回、三着二回。数字だけを見れば新人としては十分すぎる成績だったが、私の頭の中からは、第七レースのシャドウレガリアの涼しげな横顔と、坂の上で突き放していった葛城さんの背中がどうしても消えなかった。
翌日の日曜日も東京で六鞍に乗り、未勝利戦を一つ勝って通算十七勝目を挙げたものの、やはりどこか消化不良な気持ちを抱えたまま、私は日曜の夜に美浦トレセンへと戻った。
寮へ帰る前に、どうしても顔が見たくなって深町厩舎へと足を運ぶ。
夜の静かな厩舎には、当番で残っていた五十嵐さんがおり、飼葉桶の片付けをしていた。私の足音に気づくと、五十嵐さんは顔を上げてニヤリと笑った。
「おう、帰ったか。今週も二つ勝ったんだってな。もう十七勝か、大したもんだ」
「……五十嵐さん。私、昨日の東京の七レースで、二番人気の馬に乗って八着に負けちゃいました」
私がアサギリマーチの馬房の前で立ち止まり、ぽつりとこぼすと、五十嵐さんは手を止めてこちらへ歩いてきた。
マーチが格子の間から顔を出して私の袖をつまもうとする。私はその鼻先を撫でながら、昨日のシャドウレガリアのことと、葛城さんに言われたことを五十嵐さんに話した。
「……私、馬の気持ちなら少しはわかるつもりでいたんです。どこが痛いとか、何が嫌だとか、そういうのを見つけて取り除いてあげれば、馬はみんな走ってくれると思ってました。でも、レガリアくんみたいに『どこも痛くないけど、しんどいのは嫌だから走りたくない』っていう子の気持ちを前にしたら、どうしたらいいかわからなくなっちゃって……。私には、嫌がる馬を本気にさせて走らせる技術が、全然なかったんです」
静かな厩舎の通路に、私の情けない声が落ちた。
五十嵐さんはしばらく黙って私の話を聞いていたが、やがて作業着のポケットからタオルを取り出すと、私の頭の上にぽんと乗せた。
「お前が初めてそんな顔をして帰ってきたな」
「え……?」
「今までが順調すぎたんだよ。乗れば勝つ、乗れば馬の機嫌が直るってな。だけど、サラブレッドってのは生き物だ。マーチみたいに素直な奴もいりゃ、人間を食ったような古狸だっている。撫でておだてるだけで全部の馬が走るなら、葛城や佐伯みたいなベテランが何十年もかけて技術を磨く必要なんざねえだろうが」
五十嵐さんはマーチの首筋を軽く叩きながら、どこか嬉しそうに目を細めた。
「学校で手入れや馬房掃除ばっかり褒められてたお前が、馬が無事に帰ってきたのに『走らせられなかった』って悔しがってんだ。ようやくお前も、厩務員じゃなくて一人前の騎手の悩みを持つようになったじゃねえか」
五十嵐さんはもちろん、私の前世のことなど知らない。ただ、競馬学校に入る前から馬の世話ばかりしていた私の性格を見て、そう言っただけだろう。
けれど、その『厩務員じゃなくて騎手の悩み』という言葉に、私ははっとした。
そうだ。私は生まれ変わって、あのターフの風を感じたくて騎手になったのだ。
なのに私は、前の人生の知識と四キロの減量に頼ってばかりだった。鞍の上から「馬のお世話」をして、それで騎手になった気でいたのかもしれない。『馬に介護してもらっています』。いつも笑って口にしていたその言葉が、今はなんだか言い訳みたいに胸につかえていた。
「……深町先生も言ってたぞ。昨日の七レースを見て、『あいつにとっては、勝つよりずっといい薬になったな』ってよ」
「先生も、見てくださってたんですか」
「当たり前だ。お前の師匠なんだからな。……ほら、いつまでもしょぼくれてると、マーチにまでナメられるぞ。来週からはまた朝の調教で、馬を前に進める練習からやり直しだ」
「……はい! ありがとうございます、五十嵐さん!」
私は頭の上のタオルを取り、五十嵐さんに深くお辞儀をした。
横を見ると、マーチが「おやつは?」とでも言いたげに私の袖を引っ張っている。
「ごめんね、マーチ。今日は何も持ってないんだ。また明日の朝、ちゃんと持ってくるからね」
それでもマーチは諦めず、私の袖をくいくいと引っ張り続ける。いつもなら困った子だと笑って、気が済むまで付き合ってあげるところだ。
「……今日は、ないものはないからね」
ちょっとだけ厳しく言ってみたが、マーチは気にした様子もなく、今度は私のポケットに鼻先を突っ込んできた。
私は小さく息を吐いて笑うと、ポケットを探るその温かい鼻梁を、いつもより少しだけ強く撫で返した。