ゲートの中で全馬が静止し、係員が離れると同時に扉が開いた。
『スタートしました、第62回七夕賞! 十六頭、ほぼ揃った飛び出しを見せました! まずはスタンド前、先行争いに移ります!』
場内のスピーカーから大音量の実況が響く中、ストームカデンツァは五十一キロの軽さも手伝って、弾かれたように飛び出した。
内の二番枠から白い帽子のブリッツアローが押してハナを取りにいき、外から八番、青い帽子のステラシグナルが二番手へ上がっていく。
『先頭に立つのは二番のブリッツアロー! 外から八番のステラシグナルが二番手に続きます! そのすぐ後ろ、三番手のインコースから赤帽六番のストームカデンツァと河瀬奈央! 一番人気の五番ヴァルクロノスと桐生騎手は、ちょうど中団の七、八番手、外目につけてスタンド前を通過していきます!』
大歓声のスタンド前を駆け抜けながら、カデンツァはすぐ前を走る二頭を見て、早くも首をグッと起こしかけた。すぐ外側にも別の馬の影がちらついている。このままだと、どの子に喧嘩を売ろうか迷って頭を上げ始めてしまう。
私はカデンツァを内ラチ沿いの逃げ馬の真後ろを避けて半馬身ほど外へ誘導し、二番手を走るステラシグナルの斜め後ろ、一馬身半ほど離れた三番手のポジションにつけた。
そのまま一コーナーへ入る。
鞍の上で重心を低くして、手綱は張らず緩めずの一定の長さで持ったまま、自分の拳を動かさずにカデンツァの肩のラインだけを支え続ける。
上から引っ張り返される痛みがないからか、カデンツァはすぐ一馬身半先で揺れているステラシグナルの尻尾と青い帽子をじっと見据えている。荒い鼻息は吐いているけれど、首は低いままだ。とりあえず、ステラシグナルを当面の標的にしてくれたらしい。
『一コーナーから二コーナーを回って、向こう正面へと入りました! 先頭はブリッツアロー、リードは一馬身半。二番手にステラシグナル、そして三番手にストームカデンツァ! 重賞初騎乗の河瀬騎手はこの好位でじっと構えています! 一番人気の五番ヴァルクロノスは中団の外目、七番手を追走しています!』
向こう正面に出ると、前の二頭が淀みないペースで引っ張っていく。
カデンツァは相変わらずステラシグナルの後ろを睨みつけたまま、力強いストライドで芝を捉えていた。やっぱり五十一キロは軽い。普段の四キロ減でもずいぶん楽なのだろうと思っていたけれど、オープン馬が五十一キロで走ると、背中が浮くみたいに脚が回る。
『前半の1000メートルを通過しました、タイムは58秒8! 小回りの福島、やや速めのペースで各馬三コーナーへと向かいます! さあ、向こう正面の終わりで中団から動いた! 同じ三枠の赤い帽子、一番人気のヴァルクロノスだ!』
このまま三コーナーまで我慢してくれればいいな、と私がカデンツァの耳の動きを見ていたときだった。
後ろから地面を揺らすような重い蹄音が迫ってくる。中団にいたはずのヴァルクロノスが、外からすごい勢いで上がってきて、三番手を走る私たちのすぐ外側へ並びかけてきたのだ。
『ヴァルクロノス! 外から一気にポジションを押し上げていきます!』
外から被せられる。ここで私も追っていかないと置かれてしまうけれど、今いきなり手綱を動かしたら、せっかく真面目に走っているカデンツァがびっくりして頭を上げるかもしれない。どうしよう、と迷った瞬間、私の下でカデンツァの筋肉がビクリと跳ねた。
「わっ……!」
私が合図を出すより先に、真横に黒い馬体が並んだ気配にカデンツァが怒って、耳を水平に絞ったまま猛然と加速を始めたのだ。
置いていかれそうになった私は、慌ててカデンツァの首が伸びるのに合わせて手綱を前へ送り出した。前のステラシグナルを追いかけている途中に横から割り込まれたのが、よっぽど気に入らなかったらしい。
『三コーナーから四コーナーの中間点! 外から一気に先頭を奪いに行った一番人気のヴァルクロノス! しかし、その内で六番のストームカデンツァも動いた! 河瀬奈央、ヴァルクロノスの動きにぴたりと合わせてスパートを開始! 二頭が並んで先頭のブリッツアロー、ステラシグナルに詰め寄る! さあ四コーナーを回って、最後の直線コースへと向かいます!』
四コーナーを回りきると、二百九十二メートルの短い直線が目の前に開けた。
前半から飛ばしていたブリッツアローとステラシグナルは、もう脚が鈍り始めている。
カデンツァは目標にしていたステラシグナルを一気に交わして先頭に躍り出た。そのすぐ外から、桐生騎手のヴァルクロノスが馬体を並べてくる。
「ここからや、クロノス! 伸びろぉっ!」
桐生さんの気迫のこもった声と一緒に左鞭が飛んで、五十七・五キロを背負ったヴァルクロノスがぐっと前へ迫ってきた。
残り百五十メートルを切ったところで、急に左の手綱が重くなった。
前を走っていたステラシグナルを抜かして目標がいなくなった途端、カデンツァが真横に迫ったヴァルクロノスを威嚇しようとして、顔をそちらへ向けたのだ。
「あっ、そっち見ちゃだめ!」
隣の馬へ意識が向いたせいで、カデンツァの左肩が外へ張り出し、真っ直ぐだった走りが斜めへヨレかける。前へ進むはずの力が横へ逃げてしまい、その隙に、真っ直ぐ脚を伸ばしてきたヴァルクロノスがクビ差ほど前へ出た。
クビ差前に出られたことで、カデンツァはますます耳を絞って、隣のヴァルクロノスに噛みつきに行きそうな勢いで鼻先を突き出そうとしている。脚はまだ動いているし、誰よりも勝ちたがっているのに、隣の馬に腹を立てすぎて首が外へ傾いてしまっている。
ここだけは、私が真っ直ぐにしてあげなきゃ。
私は左手の鞭を握り直した。
厩舎裏の木馬で失敗したときの、お尻が跳ねる感覚が頭をよぎる。腕の力だけで振ったら、反動で右の手綱を引いてしまう。いま手綱を引いたら、カデンツァは口を邪魔されたと怒って、よれかけた体勢が本当に崩れてしまう。
足裏で、カデンツァの完歩のリズムを測った。
前脚が地面を蹴って背中が沈み込むタイミングに合わせ、両足の鐙に自分の体重を落とす。右の拳は首筋の横に押し当てて、外へ傾きかけた首のラインを支えたまま絶対に引かないように固め、手首のスナップだけで左鞭を一発、トモへ振り下ろした。
ビシッ! と音が鳴った。
ヴァルクロノスの方を向いていたカデンツァの耳がハッとしたように正面へ戻り、外へ逃げていた肩がぐっと内へ入る。後ろ脚がもう一度強く地面を蹴り直して、首が大きく前へ沈んだ。
「っ、うわあ!」
両手にばかり気を取られて膝の締めが緩んでいたせいで、伸び直したカデンツァの反動をまともに食らい、私のお尻が鞍から大きく浮き上がった。落ちそうになって、咄嗟に右手でカデンツァのたてがみを鷲掴みにする。手綱だけは引かないように必死でしがみついて体を戻す間に、すぐ横で激しい蹄音が響いた。
『残り100メートル! 外から五番のヴァルクロノスが前に出た! しかし内から六番ストームカデンツァも食い下がる! 河瀬騎手の左鞭が飛んだ! 二頭が完全に並んでゴール前の坂を登る! 外ヴァルクロノスか、内ストームカデンツァか! 内からもう一度、ストームカデンツァが前に出た! ストームカデンツァ先頭で、ゴールイン!!』
『勝ったのは六番、ストームカデンツァ! 一番人気のヴァルクロノスを半馬身退けました! 鞍上の河瀬奈央騎手、重賞初騎乗で見事な重賞初制覇です! 二着に五番のヴァルクロノス、三着には外から追い込んだ十二番のファントムベルが入っています!』
『いやあ、最後は五十七・五キロと五十一キロの、六・五キロのハンデ差も生きましたね。道中で折り合いがついたのが大きかったと思います』
放送席からの声と、スタンドから湧き上がる拍手と歓声の中、私はようやくたてがみから手を離し、ゆっくりと手綱を引いてカデンツァを減速させた。
カデンツァは荒い息を吐きながらも、すぐ横を減速していくヴァルクロノスより自分が前にいるのがわかると、満足そうに鼻を鳴らして耳をピンと立てた。どれだけ走っても、結局この子は前の馬に勝ったかどうかが一番大事らしい。
私の右手には、むしり取るみたいに掴んだ栗毛の感触がまだ残っていて、鞭を振った左手はなんだか自分の手じゃないみたいに震えていた。
検量室の前へ戻って馬から降りると、駆け寄ってきた蓮見先生と担当厩務員さんは、声を上げるより先にカデンツァの前の脚元へと目を落とした。
私もヘルメットを脱ぎながら同じタイミングでしゃがみ込み、球節や腱に腫れや熱がないかを確かめた。昨日の雨も残っていない良馬場だったけれど、最初から最後まであんなに力んで走ったのだ。どこも何ともないのを見て顔を上げると、ちょうど蓮見先生たちと目が合い、そこで初めて三人で笑った。
「脚元も大丈夫そうだな。……ありがとう、河瀬くん。よく最後まで喧嘩せずに乗ってくれた」
「はい、カデンツァくんが無事でよかったです! あ、すみません、直線でちょっとたてがみを引っ張っちゃって、ここだけ毛が絡まっちゃいました」
私が首筋の毛を手で直そうとすると、厩務員さんが「そんなのあとでいくらでも梳かしてやるよ」と笑いながら馬を引き取っていった。
鞍を外して検量室へ入ろうとしたところで、二着のヴァルクロノスから降りた桐生騎手が、首の汗を拭きながら横を通りかかった。
桐生さんはすれ違いざまに足を止め、呆れたような顔で私を見た。
「河瀬ちゃん、重賞初制覇おめでとさん。しかし、三コーナーの入り口、俺の動きに合わせたやろ。おかげでこっちは外を回らされてしんどかったわ」
「えっ、あ、ありがとうございます! でも三コーナーは私が合わせたんじゃなくて、カデンツァくんが桐生さんの馬を見て、勝手に走り出しちゃって……」
「ははっ、一番人気の馬を相手に『勝手に走った』はないやろ。次は関西にも乗りに来いや、きっちりお返しさせてもらうで」
桐生さんは私の説明をまるで聞いていないみたいに豪快に笑うと、片手を上げて検量室の奥へ入っていった。本当に勝手に走ったんだけどな、と思いながら、私も重い鞍を抱えて検量へ向かった。
そのあと行われた勝利騎手インタビューでは、マイクを持ったアナウンサーから三コーナーの仕掛けと直線の叩き合いについて質問された。
「三コーナーは、外から馬が来たのを見てカデンツァくんが自分で行っちゃいました。最後の直線も、私は一回叩いただけでバランスを崩してしがみついてただけなんですけど、隣の馬に負けたくないってカデンツァくんが自分で真っ直ぐ伸びてくれました」
せっかく木馬で練習したのに、本番では一発叩いただけでお尻が浮いて、たてがみを掴むなんてみっともない乗り方をしてしまった。それでもカデンツァが勝ちたい気持ちで走ってくれたのだと正直に答えると、集まったお客さんたちからはなぜか大きな笑いと拍手が起こった。
◇
その日の夜、美浦トレセンへ戻る帰りの車の中で、私は窓の外を流れる街灯を眺めながら、自分の左手を握ったり開いたりしていた。
手のひらにはまだ、残り百メートルで鞭を振り抜いたときの重たい感触が残っている。あの瞬間、カデンツァの耳が確かに前へ戻って、背中がぐんと沈んだ。
でも、そのすぐあとにお尻が浮き上がって、たてがみにしがみついてしまった感覚も同じくらい生々しく残っていて、思い出すと少しだけ顔が熱くなる。重賞を勝てたのはすごく嬉しいけれど、結局、今日の私にできたのはあの左鞭だけだった。
バッグの中から預けていたスマートフォンを取り出して電源を入れると、深町先生から『重賞初制覇おめでとう』という短いメッセージと、五十嵐さんから『明日顔出すなら、マーチが暇そうにしてるぞ』という伝言が届いていた。
明日の朝は、おやつを持っていってあげようか、それともまた袖を引っ張られるだけで終わるかな、なんて考えながら、私はシートの背もたれにゆっくりと身体を預けた。