十月の半ばを過ぎると、美浦の朝晩は急に冷え込むようになる。
今朝も寮のゴミ出しに出ただけで、薄手のパーカーの編み目から冷気が入ってきて、思わず肩をすくめてしまった。手首のリブは洗濯のしすぎで波打っているし、右の袖口には、先週マーチに引っ張られたときの細かいほつれまで残っている。
『お前な、たまの休みに外へ出るときくらい、学校の体操着みたいな格好はやめろよ』
五十嵐さんにそう言われたときは、「これ、すごく動きやすいんですよ」と笑って返したけれど、実際のところ、このパーカーの下に着られる長袖がもう二枚しかないし、そろそろ新しい防寒着が必要なのは確かだった。
騎乗のない月曜日の昼前、私は財布とスマートフォンだけを小さなショルダーバッグに入れ、寮の近くの停留所からバスに乗った。
◇
三十分ほど揺られて降りた大きな商業施設は、平日の昼間でも暖房と人の熱気で少しむっとしていた。
とりあえず近くにあった女性向けの服屋へ入ってみる。
ハンガーに並んでいる服を端から指先でつまんでみるが、どれもこれも妙に生地が薄い。向こう側が透けそうなブラウスや、網目の大きなセーターばかりだ。こんな網目の服を着て厩舎の近くを歩いたら、飛んできた乾草や寝藁のクズが全部引っかかって、洗濯機を回す前に一本ずつ指で抜く羽目になりそうだ。
それに、どうして女性用の服というのは、こうも首元が大きく開いているのだろう。一番冷やしてはいけない鎖骨のあたりが丸出しでは、長袖を着る意味がない。袖口がラッパみたいに広がっている服まである。あんなものを着ていてどうやって手を洗っているんだろう。水道の蛇口をひねったら一発で袖が濡れたりしないのだろうか。
「何かお探しですか? そちらのニット、今年の秋の新作でとっても柔らかいんですよ」
「あ、ありがとうございます。すごく可愛いですね。ちょっとひと通り見せていただこうと思って」
「ごゆっくりどうぞ! 一番小さいサイズもお出しできますからね」
ぺこりと頭を下げて甘い匂いのする店員さんをやり過ごし、私はハンガーからそっと手を離した。
一番小さいサイズと言われても、さっきから見ている限り、ここの服はどれも裾が長すぎる。百四十八センチの私が着たら、お尻どころか太ももの半分まで隠れてしまいそうだ。第一、値札を見たら薄いセーターが一枚で七千円もする。七千円あれば、丈夫な五本指の靴下が何足買えるだろう。
私は一階の店を早々に抜け出し、エスカレーターで三階へ上がった。
フロアの奥、子供服と並んだジュニア・ボーイズのコーナーへ足を踏み入れると、ようやく見慣れた形の服が並んでいる。
ここなら「150」というサイズがある。身長百四十八センチの私には、大人の婦人服でSサイズを探すより、百五十センチの子供向けに作られた服を着る方がよっぽど理に適っているはずだ。しかも男の子用の服は、見るからに作りがしっかりしている。
棚に積まれているトレーナーやフランネルのシャツを触ってみる。生地の目がしっかり詰まっていて、爪で引っ掻いても糸が出そうにない。首元は丸く詰まっているし、袖口には固めのリブがついているから、腕まくりをしても落ちてこない。色も紺やカーキやグレーばかりで、泥や馬のよだれがついても目立たなそうだ。
私はハンガーにかかっていた紺と緑のチェック柄の厚手のシャツと、裏地がフリースになったカーキ色のマウンテンパーカーを手に取った。パーカーのポケットに手を入れてみると、手首までずっぽり入る深さがあり、おまけにファスナーまでついている。これなら鍵やスマートフォンを入れて小走りで動いても落とす心配がない。値段を見れば、シャツが二千九百円、パーカーが三千九百円。さっきの一階の店なら、あのペラペラのセーター一枚すら買えない金額で両方揃ってしまう。
念のため、同じシャツの「160」サイズも一枚抜き取り、三着を抱えて試着室へ向かった。
近くにいた店員さんに「ご試着ですか? 何枚でしょうか」と聞かれ、私は少しだけ笑って三本の指を見せた。
「三枚お願いします」
「はい、番号札をどうぞ。サイズ感など分からなければおっしゃってくださいね」
店員さんは一瞬だけ私の頭からつま先まで目を動かしたが、私は気づかないふりをして「ありがとうございます」とカーテンの中へ入った。
カーテンをきっちり閉め、着ていたパーカーを脱いでフックに掛ける。下はいつもの黒い長袖のインナーシャツ一枚だ。
まずは本命の、「150」のチェックシャツに袖を通した。
肩の縫い目が、ちょうど自分の肩にフィットしている。腕を前へ伸ばしてみると、袖口も手首でぴったり。裾の長さも腰骨のすぐ下あたりで、しゃがみ込んでも床に擦らないし、立ち上がっても背中が出ない。
やっぱり「150」で計算通りだ。これなら色違いでもう二枚買って、今週からすぐに着回せる。私はすっかり気を良くして、襟元を整え、一番下のボタンから順番に留め始めた。
一番下、お腹のあたり。すんなり留まる。
下から二番目、へその少し上。これも余裕がある。
下から三番目、みぞおちのあたり。少しだけ布が近づくが、留まってくれる。
そして下から四番目――ちょうど胸の真ん中にあたるボタンに指をかけたところで、左右の布が止まった。
「……あれ?」
私は両手で左右の襟元を掴み、ぐっと真ん中へ引き寄せた。
すると、背中側の生地が張り詰め、脇の下がキュッと狭まって腕が前へ引っ張られる。それでも無理やり左の布を寄せて、ボタンを穴へねじ込んだ。
留まった。留まったけれど、鏡を見ると、四番目のボタンを中心にして左右へビシッと深い横皺が走り、その上下の合わせ目がパックリと菱形に開いて、中の黒いインナーが覗いていた。
息を吸ってみる。肺が膨らむより先に、胸の上に乗っている柔らかい肉が固い綿の生地に押し潰され、肋骨のあたりまで窮屈に締めつけられる。試しに騎乗姿勢みたいに少しだけ前傾して腕を前へ出そうとすると、背中の布が限界まで突っ張り、四番目のボタンの糸がミシッと嫌な手応えを返した。
私は腕を止めたまま、鏡の中の自分を見つめた。
胸かあ。
もう少し何とかならないものだろうか。身長のほうはさっぱり伸びてくれなかったくせに、こっちはそれなりに育ってしまった。普段は、スポーツ用の硬い下着に分厚いボディプロテクターまで着込んでいるし、自分ではそんなに邪魔になるほどの肉がついているつもりはなかった。
「……そっか。ボーイズだもんね」
誰に言うでもなく呟いて、私はパツパツに張った四番目のボタンを外した。押し潰されていた胸元が緩んで、ようやく普通に息が吸えた。
まだ「160」がある、と思い直し、私は「150」のシャツを脱いで、一回り大きい方のシャツに袖を通した。
今度は四番目のボタンも、引っ張らずに留めることができた。横皺も寄らないし、隙間からインナーが覗くこともない。
けれど、肩の縫い目が本来の位置から三センチも下にずり落ち、袖口は手の甲まで隠している。袖を二回折り返してみたが、分厚い生地が団子みたいに手首に溜まって、どうにも収まりが悪い。前世で百八十センチを超えていた頃なら、少しぐらい大きい上着でも肩幅で引っ掛けて着られたのに。
念のため、「150」のカーキ色のパーカーの方も羽織ってみた。
前を開けたままなら着られそうだ。でもファスナーを一番上まで引き上げようとすると、やっぱり胸のあたりで金具が急に重くなり、無理に閉めると脇の下から胸の横にかけて生地が斜めに食い込んだ。
私はファスナーを下ろし、パーカーを脱いでハンガーに掛け直した。
カーテンを開けて外へ出ると、さっきの店員さんがすぐに声をかけてきた。
「いかがでしたか? サイズ、合いました?」
「あ、すみません。ちょっと肩のあたりが合わなくて……お返しします」
胸がつっかえたとは言えず、私は当たり障りのない笑顔を作ってハンガーを返した。
諦めて二階の大人向けのカジュアル服が並んでいる店に向かう途中、さっき手に取ったのと同じシャツが見えた。あの深いポケットも、縫製の丈夫さも、二千九百円という値段も、全部理想通りだったのに。三枚まとめ買いして、あと五分で買い物を終わらせられたのに。
◇
大人向けカジュアル服の店の中を一通りまわり、ようやく隅の方の棚で、少し厚手の綿で作られた無地のスウェットと、撥水加工がしてあるという女性向けのネイビーのジップパーカーを見つけた。
Sサイズを手に取り、もう一度試着室へ入る。
袖を通してみると、さすがに女性用だけあって、ファスナーを上まで閉めてもそんなに胸が苦しくないし、腕を前に回しても背中が突っ張らない。袖丈は少しだけ長かったけれど、リブがしっかりしているので手首で止まってくれる。
ただ、パーカーのポケットに手を入れてみると、さっきのボーイズ服の半分くらいの深さしかなかった。スマートフォンを入れたら、少し屈んだ拍子にポロッと滑り落ちてしまいそうだ。値札を見れば、パーカーが五千九百円で、スウェットが三千九百円。さっきの三階の服より三千円も高いのに。
◇
女性用のパーカーとスウェット、それにインナーが入った紙袋を提げて一階へ降りると、時計の針はもう一時を回っていた。
通りかかったフードコートから、油と出汁の混じった匂いが漂ってくる。
ラーメンにハンバーガー、クレープ。ちゃんと全部の看板を見たのに、なんで私は一番端のうどん屋に並んでいるんだろう。しかも頼んだのは、山菜とキノコのかけうどんの小。
鞍に積む鉛板を減らすために、もう少し食べたほうがいいのはわかってる。でも前世の私が特盛のラーメンを平然と片付けていたことを思うと、並盛でさえ途中で箸が止まりそうな今のお腹はちょっと信用できない。
お盆を持ってうろうろしていると、近くのテーブルで女の子が三人、クレープとポテトを広げて笑っていた。たぶん同い年くらい。一人が毛足の長いふわふわのニットを着ていて、袖口を押さえながらポテトをつまんでいる。あの袖、ケチャップにつかないのかな。
窓際の二人掛けがひとつ空いていた。座ってみると座面が高くて、深く腰掛けたらつま先が床に届くか届かないか。浅いところまでお尻をずらしてから割り箸を割り、うどんをキノコごと口に入れた。
◇
自室に戻り、買ってきたばかりの服を紙袋から取り出してハンガーに掛ける。ネイビーのパーカーのファスナーを一度だけ上まで閉めてみてから、浅いポケットに指先を突っ込んだ。
「……やっぱり、マジックテープかなにか自分で縫い付けようかな」
裁縫箱はどこへやったっけ。明日、厩舎から戻ってきたら探そう。私はそのパーカーをクローゼットの端に吊るした。
2026-10-23 6話→閑話に