十月の二週目、日曜日の東京最終レースで一着の枠に自分の馬番が灯ったとき、私の頭にあったのは「これで来週から鉛を一キロ余分に積まなきゃいけなくなるな」ということだけだった。
午前の未勝利戦でひとつ勝って通算五十勝に届き、さっきの最終レースで五十一勝目。つまり、今週の出馬投票からは私の名前の横についていた「★」の印が「▲」に変わって、今まで四キロもらえていた減量が三キロに減るということだ。
一キロ増える。騎手になってから四キロ減で騎乗してきた私にとって、鞍の下に一キロの鉛を余分に挟むのがどれだけ馬の背中に響くかは考えるまでもない。ダートの未勝利戦で最後の百メートル、脚が上がった馬がもうひと掻きできるかどうかの境目が、その一キロになることもあるだろう。これからは今まで以上にコースや周りを観察して、馬が楽をできるラインを走らせてあげなければ。
だというのに、今週の火曜日からこっち、私の朝の仕事には妙な時間が割り込むようになっていた。
「河瀬騎手、すみません! もう一枚だけ、今度はそこの洗い場の前で、ブラシを持ったまま笑顔をもらえますか!」
「あ、はい。こうですか?」
私は作業着の上着の裾を引っ張りながら、言われた通りにプラスチックの根ブラシを胸の前に持って、カメラのレンズに向かって口角を上げた。
ストロボを外したカメラが、控えめなシャッター音を立てて連写される。朝の八時過ぎ、調教がひと段落して馬たちが自分の馬房で乾草を食んでいる時間に、取材の人たちが厩舎の入り口に来ていること自体が、私にはまだどうにも落ち着かなかった。
カメラマンさんの後ろでペンを走らせていた競馬誌の記者さんが、私の長靴のつま先から頭の上までを眺めながら、感心したような声を出す。
「いやあ、近くで見ると本当に小柄ですねえ。これでデビューから七ヶ月半で五十勝、しかも調教が終わったあとにこうして厩舎の手伝いまでしてるなんて、ファンが喜びますよ。来週の若手特集、カラーの見開きで使わせてもらいますからね」
「ありがとうございます。でも手入れは本当にちょっと手伝ってるだけで、いつもは五十嵐さんたちが全部やってくださってるんです」
「またまたご謙遜を。……そうだ、深町先生から馬房の邪魔にならない範囲ならと許可はいただいてるんですが、最後に一頭、仲のいい馬とツーショットを撮らせてもらえませんか? ええと、確かデビュー戦で勝ったアサギリマーチがこちらの厩舎でしたよね」
記者さんが通路の奥へ視線を向けたので、私は慌てて半歩前に出て、マーチの馬房の手前でやんわりと手を振った。
相手はトレセンに慣れている競馬誌の人たちだから、馬を驚かせるような真似はしないはずだ。けれど、マーチはいま朝の運動を終えて一息ついているところで、見慣れない大きな黒いレンズなんかを向けられたら、間違いなく「新しいおもちゃが来た」と思って格子から首を伸ばし、フードを齧りに行くか、記者さんのジャンパーの袖をよだれまみれにするかのどちらかだ。
「あ、すみません! マーチはいまちょうどご飯のあとで眠そうにしてるのと、ちょっといろんなものを噛みに行っちゃう癖があるので……。お写真なら、こっちの外の洗い場で私だけでもいいですか? ちょうど朝の光が当たって綺麗だと思いますし」
私が笑顔を作って外の洗い場の方へ手を向けると、カメラマンさんは「ああ、やんちゃな子なら無理に刺激しない方がいいですね。外の方が光の抜けもいいし、そうしましょう」とすぐに納得して、機材を抱えて出口の方へ歩いていってくれた。
胸の中で小さく息を吐きながら、私はマーチの馬房の格子をちらりと見た。奥から顔を出したマーチが、私の袖が届かない位置にあるのが不満そうに鼻を鳴らしている。あとで人参を一切れ持ってきてあげるから、今はちょっとだけ我慢してね、と目で合図を送って、私は小走りでカメラマンさんたちの後を追った。
撮影と短い質疑応答が終わって、ようやく三人が帰っていった頃には、時計の針はもう九時を回っていた。
詰め所の前で、腕を組んでその様子を見ていた深町先生が、私の顔を見るなり苦笑いを浮かべた。
「お疲れ様です、先生。朝から騒がしくしてすみません」
「お前が謝ることじゃないさ。五十勝もすれば、新聞屋や雑誌屋が放っておかないのは当たり前だ。さっきも広報から連絡があってな、来月のカレンダーだかポスターだかの撮影があるから、月曜日の午後を空けておいてくれと言われたぞ」
「えっ、月曜日ですか? あの、月曜は全休で馬たちもゆっくりしてくれてるから、午後から厩舎の子たちをみようと思ってたんですけど……」
「月曜は全休なんだから、馬の方は五十嵐たちに任せておけばいい。お前が新聞やポスターに載れば、それを見た馬主さんが『じゃあうちのも頼もうか』と思ってくれるからな。カメラの前で笑うのも、次の乗り鞍を繋ぐための大事な仕事だと思って付き合ってやれ」
深町先生にそう言われると、「はい」と頷くしかなかった。
確かに、先生の言う通りなのだ。減量が一キロ減れば、これまで「四キロ軽いから」という理由だけで回ってきていた未勝利馬や一勝クラスの依頼は、新しく入ってくる来年の後輩や、まだ四キロ減が残っている他の若手へ少しずつ流れていくはずだ。その中で同じように毎週十鞍以上乗り続けるためには、馬主さんやよその調教師さんに名前を覚えてもらわなければならない。
頭ではちゃんとわかっている。わかっているけれど、カメラの前で三十分もじっと立っていると、ふくらはぎの筋肉が変に固まってしまって、なんだか一鞍余分に乗ったあとより足首が重たかった。
「まあ、そういうわけだから、来週も取材が二件入ってる。ちゃんとよそ行きの服を着て出るんだぞ。いつもの袖口の伸びたトレーナーじゃ、広報の連中も頭を抱えるからな」
「はい、気をつけます……」
よそ行きの服というのは五千九百円もしたあのネイビーのパーカーでよいのだろうか。それともやはり、スーツが必要なのだろうか……。スーツを着て厩舎を歩く自分を想像してみても、取材ではなくマーチに袖を咥えられているところばかりが思い浮かんでしまった。
◇
取材の人が帰って静かになった厩舎の通路へ戻ると、一番奥の角の馬房の前で、五十嵐さんが飼葉桶を抱えて立っていた。
そこには先週の木曜日、北海道の育成牧場から新しく入厩してきたばかりの二歳馬が入っている。名前はトヴロダンフォン。赤みの強い鹿毛の牡馬で、まだゲート試験を受ける前の、本当にまっさらな新馬だ。
「五十嵐さん、お疲れ様です。やっと終わりました」
「おう、ご苦労さん。朝からあちこちで記者を引き連れて、すっかり有名人だな」
「やめてくださいよ、笑顔作りすぎてまだ頬っぺたが引き攣ってるんですから。……あ、その子、朝の食いはどうでした?」
私が馬房の前を覗き込むと、奥の寝藁の上から、二つの鋭い目がギロリとこちらを睨み返してきた。
耳を頭の後ろへぴたりと伏せて、首を低く構え、いつでも噛みつきに飛んでこられるような体勢でこちらを威嚇している。それなのに、その首から下の馬体は、思わずこちらの目が止まってしまうほど細かった。
あばら骨が皮膚の下にうっすらと浮いて見えるし、トモの肉もまだ全然ついていなくて、腰骨の角がゴツゴツと尖っている。脚ばかりがひょろりと長くて、全体のバランスがどうにもちぐはぐなのだ。
「見ての通りだよ」
五十嵐さんが少し傾けて見せてくれた緑色の飼葉桶の底には、押し麦とペレットが混じった朝の飼葉が、まだ三分の一ほど残っていた。
普通の二歳馬なら、朝の運動から帰ってきたあとは、桶に顔を突っ込んであっという間に舐めるように平らげてしまうものだ。それがこれだけ残っているとなると、輸送の疲れが抜けていないのか、それとも環境が変わって胃が荒れているのかと心配になる。
私が桶の中身を覗き込んで眉を寄せていると、五十嵐さんは「ああ、これはいいんだ」と軽く手を振った。
「残してるんじゃねえよ。こいつはただ、食うのが人一倍遅えだけだ。今朝も一時間かけてようやくここまで減らしたところよ。今のうちに桶を下げとかねえと、昼の乾草を食う時間がなくなっちまう」
「食べるのが遅いんですか?」
「ああ。一口食っては外を睨み、もう一口食っては隣の物音に耳を立てて威嚇してやがる。気が強すぎて、飯を食うことより周りに喧嘩を売ることの方が忙しいらしい。……まあ、見てみろよ、この枠組みを」
五十嵐さんは飼葉桶を通路の端に置くと、格子の外からトヴロダンフォンの背中のラインを指差した。
馬房の中の鹿毛は、五十嵐さんの指先に向かって空を噛むような仕草をして歯を鳴らしたが、五十嵐さんは慣れたもので、顔色ひとつ変えずに話を続けた。
「キ甲の高さと肩の角度を見てみろ、一丁前だろう。今は骨が先に縦へ伸びてる時期なんだよ。人間の子供だって、背が急に伸びるときはひょろっと痩せて見えるだろうが。こいつも同じで、骨格が大きくなるのに栄養が取られてて、肉がつくのが後からになってるんだろ」
「……なるほど。確かに、繋の太さとか胸前の幅を見ると、すごく大きな馬になりそうな骨組みですよね」
「ただ、それにしても飯を食うのが遅くて動いた分を取り戻せてねぇのかもしれねぇ。もうちょっと早く食ってくれりゃ、肉の付きも早くなりそうなんだがなぁ」
私は格子から一歩下がった位置で、その子の前脚の関節から肩のラインをもう一度見直した。
前世で私が見てきた馬たちの中にも、二歳の秋はあばらが浮くほど細かったのに、三歳の春には四百八十キロを超える立派な体つきに変わった子が何頭かいた。五十嵐さんはこの厩舎で二十年以上も馬を作ってきたベテランだ。毎日自分の手でブラシをかけ、脚元を触り、ボロ(糞)の状態まで見ている担当の五十嵐さんが「骨が先に伸びているだけだ」と言うのなら、そこに私が外から口を挟むようなことは何ひとつない。
「気性ばっかりは親譲りというか、手が焼けるぞ。昨日も洗い場で後ろを通ったよその馬に蹴りを入れようとして、俺が綱を詰めたら俺の肩を噛みに来やがった。マーチみたいに袖をつまんで甘えてくるのとはわけが違うからな、お前も不用意に手を出すなよ」
「はい、気をつけます」
私が頷くと、トヴロダンフォンは格子の隙間から鼻先を突き出し、フンッと荒い鼻息を私の顔へ向かって吹きかけてくる。
大きな瞳の縁に、白い強膜が三日月形に光っている。その目に怯えの色は全くなく、「俺の縄張りに勝手に入ってくるな」と本気で怒っているようだった。四百二十キロあるかないかの華奢な体で、よくもまあここまで周囲のすべてに喧嘩を売れるものだと、可愛らしく見えてしまう。
私はそれ以上近づかずに足を止め、目を合わせないように視線を少し落として、軽く頭を下げた。
◇
その週の水曜日の夕食後、自室で翌日の想定表を眺めている最中、ストップウォッチがないことに気付いた。
昼間に詰め所の机の上に置き忘れてきちゃったのかな。明日の朝は五時半から他厩舎の調教が三本入っているから、朝一番で取りに行くより、今のうちに回収しておいた方がバタバタしなくて済みそうだ。
十月の夜のトレセンは、昼間の騒がしさが嘘のように静まり返っている。
深町厩舎の引き戸をそっと開けると、通路の奥に作業用の裸電球がいくつも灯っていた。ちょうど七時半の「夜飼い」――一日の最後の飼葉を配る時間だったらしい。当番の若い厩務員さんと、今週は遅番に入っていたらしい五十嵐さんが、手押し車に積んだ飼葉桶を順番に各馬房へ入れて回っているところだった。
「あれ、河瀬。こんな時間にどうした」
「お疲れ様です、五十嵐さん。昼間、詰め所にストップウォッチを忘れちゃって、取りに来たんです」
「ああ、机の端にあったな。ほら、ちょうど今、奥まで配り終えるところだから、持って帰れよ」
詰め所でストップウォッチをポケットにしまい、通路へ戻ると、馬房のあちこちから「ガツガツ、シャクシャク」と馬たちが一斉に夜飼いを食べる賑やかな音が響いていた。
マーチの馬房の前を通ると、マーチはお尻をこちらに向けたまま、飼葉桶に顔を突っ込んで夢中で食べている最中だった。この時間ばかりは、私よりも目の前の麦の方がずっと大事らしい。
そのまま五十嵐さんにおやすみなさいを言おうとして、通路の奥へ目を向けたときだった。
一番角のトヴロダンフォンの馬房の前で、ガシャン、と鉄の格子を前脚で蹴飛ばすような乾いた音が鳴った。
「こら、ダンフォン。今やるから待てっての」
五十嵐さんが手押し車から最後の飼葉桶を下ろし、角の馬房の差し込み口へセットしている。
私は邪魔にならないよう、三つ手前の馬房の柱の陰に立ち止まって、その様子をぼんやりと眺めていた。
夜飼いを配る手押し車は、いつも厩舎の入り口に近い一番手前の馬房から順番に回っていく。だから、一番奥の角部屋にいるトヴロダンフォンのところへ桶が届くのは、どうしても一番最後になるのだ。
桶がセットされた瞬間、トヴロダンフォンは飛びつくように鼻先を突っ込んだかと思うと、一口だけ麦を口に含み、すぐにガッと頭を上げて、すぐ隣の馬房の壁に向かって耳を伏せた。
隣の馬房にいるのは、四歳の条件馬だ。手前から順番に配られたから、隣の子はもう五分も前から食べ始めていて、ちょうど桶の底を鳴らしながら最後のペレットを噛み砕いているところだった。
トヴロダンフォンは、口の中に麦を入れたまま、咀嚼もせずに隣の壁をじっと睨みつけている。
壁の向こうから「ゴトッ、シャク、シャク」と隣の馬が桶を動かす音が聞こえるたび、トヴロダンフォンの薄い胸前の筋肉がピクリと引き攣り、前脚がイライラと寝藁を掻いた。そして、隣の音が少し止んだ隙にようやく口の中のものを飲み込むと、また桶に顔を入れて一口だけ掬い、すぐに頭を上げて通路の向こう――他の馬たちが食事をしている気配の方へと首を伸ばして、フンッと鼻を鳴らしている。
五十嵐さんが言っていた通りだ。この子は胃が悪いわけでも、食欲がないわけでもない。ただ、食べるのが極端に遅いのだ。
けれど、どうしてそんなに一口ごとに顔を上げて周りを見回すのか、今の動きを見ていたら、なんとなくその順番が見えてきた気がした。
あの子、手押し車が入り口からガラガラと音を立てて近づいてくる間、ずっと格子に張りついて待っていたんだ。自分より先に隣がご飯を食べ始めて、「どうしてあいつらだけ先にもらえるんだ」「俺の分を取られた」と思って、自分の前に桶が置かれるまでの間に、頭の芯まで血が上ってしまっているのだろう。
前世で扱った馬の中にも、強い調教の直後にすぐ飼葉をやると、まだ興奮が抜けていなくて桶をひっくり返したり、一口食べては馬房の中をぐるぐる歩き回ったりする子がいた。トヴロダンフォンは、隣の馬の咀嚼音を聞くだけで気が立って、一口ごとに顔を上げて威嚇せずにはいられないみたいだ。
「……本当に、なんでも一番じゃないと気が済まないんだね」
私は誰にも聞こえないくらいの声で呟いた。厩舎全体の流れを考えれば、入り口から順番に手押し車を動かしていくのが一番効率がいいし、新馬が環境に慣れるまで少し食いが細くなるのはよくあることだ。骨が伸びる時期だから焦らなくていいという五十嵐さんの見立て通り、このまま放っておいても、この子がトレセンの時間に慣れてくれば自然と食べるようにはなるはずだ。
ただ、もし明日の朝、ほんの少しだけ順番を変えてみることができたら、この子のあばら骨の上に肉が乗るのは、予定より半月くらい早くなるかもしれない。
五十嵐さんが空になった手押し車を押して、こちらへ戻ってきた。
「おう、まだいたのか。風邪引くぞ、早く寮へ帰れ」
「はい、今帰ります。……あの、五十嵐さん。ちょっとだけ、今のダンフォンくんを見てて思ったんですけど、言ってもいいですか?」
「なんだよ、改まって。あいつがどうかしたか」
五十嵐さんが足を止めて、不思議そうに角の馬房を振り返った。今も奥からは、一口食べては壁を蹴るような小さな音が続いている。
私は五十嵐さんの仕事の領分に踏み込みすぎないよう、できるだけ言葉を選びながら、人差し指を少しだけ立てた。
「さっき、五十嵐さんが手押し車で順番に桶を配ってるとき、ダンフォンくん、隣の馬が先に食べてる音を聞いて、すごく怒ってたみたいなんです。一番奥の部屋だから、自分のところに桶が来るまでに、待ちきれなくて気が立っちゃってるみたいで……」
「……ああ、確かに俺が行くといつも格子を噛んで待ってるな。腹が減ってるのかと思ってたが、ありゃ順番に腹を立ててたのか」
「たぶん、ですけど。だから、自分の番が来たときにはもう怒っちゃってて、隣で音がするたびに喧嘩を売るから、食べるのが遅くなってるんじゃないかなって思いました。もし、五十嵐さんの手間にならなければなんですけど……あの子の桶だけ、最初にひとつ手で持っていって、一番に食べさせてあげるのってどうでしょうか?」
私が恐る恐る五十嵐さんの顔を見上げると、五十嵐さんは手押し車の取っ手を握ったまま、しばらく目を丸くして黙り込んだ。
それから、もう一度角の馬房の方へ視線をやり、中で頭を上げてフンフンと鼻を鳴らしている鹿毛の影を見て、大きく息を吐き出した。
「……お前な。催促して暴れる馬ってのはよくいるが、飼葉の順番が遅いから拗ねて食わねえなんてのは初めて聞いたぞ」
「あ、すみません! やっぱり私の考えすぎかもしれません、変なことを言って……」
「いや、待て。言われてみりゃ、朝の運動のあとも、隣の四歳馬を先に洗い場へ入れると、こいつ馬房の中でずっと壁を蹴って暴れてやがるんだ。俺はてっきり運動が足りねえのかと思ってたが……そうか、こいつ、自分が後回しにされるのが我慢ならねえのか」
「ま、桶をひとつ先に運ぶくらい、十秒もかからねえよ。それでこいつが黙って飯を食うなら安いもんだ。明日の朝飼いから、さっそく一番最初に突っ込んでやるさ」
「ありがとうございます! それで少しでも早くお肉がついてくれたらいいですね」
「まったく、お前はいつまで経っても馬房の中ばっかり見てやがるな。ほら、もう八時になるぞ。さっさと帰って寝ろ」
五十嵐さんに背中を叩かれ、私は「おやすみなさい!」と頭を下げて厩舎を出た。
冷たい夜風の中を寮へ向かって歩きながら、ポケットの中のストップウォッチを指先で転がす。
明日の朝、もしあの子が桶の底まで綺麗に舐め取ってくれたら、きっと五十嵐さんも少しは楽になるだろう。それにしても、まだゲート試験も受けていないうちから、隣の四歳馬にまで張り合って一番になりたがるなんてとんでもない子だ。
◇
翌朝、他厩舎の調教を三本こなしてから深町厩舎へ戻ると、通路の掃除をしていた五十嵐さんが、私の顔を見るなりバケツの横の空っぽの飼葉桶を顎でしゃくってみせた。
底には麦の一粒も残っていない。
馬房の格子を覗くと、トヴロダンフォンは相変わらず耳を伏せてこちらを睨んできたけれど、昨日までのようなピリピリした焦りはなく、どこかふてぶてしい落ち着きがあった。
◇
木曜日の昼前、午前の調教をすべて終えて事務所へ上がると、深町先生が受話器を置いたばかりの電話機の横で、難しい顔をして座っていた。
「先生、お疲れ様です。来週の特別登録の資料、いただいてもいいですか?」
「ああ、河瀬か。ちょうどよかった、そこに座ってくれ」
いつもならすぐに想定表のコピーを渡してくれる先生が、今日は何も持たずに私の顔をじっと見ている。
また雑誌の取材か、それともポスターの撮影の時間でも変わったのだろうかと、私は少しだけ身構えながらパイプ椅子に腰を下ろした。
「さっきな、栗東の須藤調教師から直接電話があった。再来週の東京――天皇賞(秋)に、フブキアイアスを出すそうだ。その鞍上がまだ空いているらしくてな、お前に乗ってもらえないかという話だ」
「……え?」
私は一瞬、先生の言葉の意味がうまく飲み込めなくて、瞬きを繰り返した。
天皇賞。しかも秋ということは、東京の芝二千メートルで行われる、古馬の最高峰のGⅠレースだ。
通算三十一勝に達した時点で、規則の上ではGⅠレースに騎乗できる資格があることは知っていた。けれど、それはあくまで「書類の上で乗れる」というだけの話であって、デビューしてまだ八ヶ月にもならない一介の若手騎手に、本物の天皇賞の依頼が来るなんて、想像もしていなかった。
「あの……フブキアイアスって、去年の秋に京都のGⅡを勝った、あの芦毛の馬ですよね? どうして私のところに……」
「元の主戦だった桐生騎手がな、先週の前哨戦の結果を見て、同じレースに出てくる別のお手馬のラピスヴェルトを選んだそうだ。能力は間違いなくGⅠ級なんだが、お前も名前くらいは知ってるだろう、あいつは名うての気性難だ。ゲートは出ないわ、道中は引っ掛かるわで、春のマイルGⅠでも大暴走してしんがり負けを食らってる。再来週の天皇賞は、佐伯が乗るアーティショーを筆頭にトップジョッキーがみんな有力馬の先約で埋まってるし、今からぶっつけであの癖馬に手を挙げようというベテランもいなかったらしい」
深町先生は机の上のメモ用紙を指先でトントンと叩きながら、少し低い声で続けた。
「そこで須藤さんの耳に入ったのが、夏の福島でストームカデンツァを折り合わせて七夕賞を勝ったお前の評判だ。馬と喧嘩をせずに走らせるあの乗り方なら、フブキアイアスでもあるいは、と思ったんだろう。馬主さんも『どうせ普通に回ってきたって勝てない相手なんだから、思い切ってあの面白い新人に任せてみろ』と乗り気だそうだ」
七夕賞のストームカデンツァ。
あのときは五十一キロという軽いハンデをもらって、しかも前にステラシグナルというちょうどいい目標がいたから、カデンツァが自分で気持ちを乗せて走ってくれたのだ。
けれど、天皇賞(秋)は定量戦だ。五十八キロという重い斤量を背負って、日本中で一番速い馬たちが集まる東京の二千メートルを走る。ごまかしなど一ミリも利かない舞台だ。
「もちろん、簡単な話じゃない。GⅠともなればファンの目も記者の目も、ローカルの重賞とは比べものにならんほど厳しい。もしまた馬が暴走して大敗すれば、『やっぱり新人には荷が重かった』と叩かれるのは目に見えている。断るなら、俺の方から角が立たないように断っておくが……どうする、河瀬」
深町先生の眼鏡の奥の目が、私の返事を待っている。
断る理由なら、頭の中にいくつでも並べることができた。私はまだ木馬の上で鞭を振る練習をしている途中の身だし、栗東の馬なら事前の追い切りに乗る時間だってほとんどないかもしれない。
けれど、それよりも先に、私の頭の中には別の考えが浮かんでいた。
主戦の桐生さんに別の馬を選ばれて、GⅠの二週間前になってもまだ背中に乗ってくれる人が決まっていない、五歳の芦毛馬。
春のレースの映像は、私もテレビで見た覚えがある。ゲートの中で立ち上がって出遅れたあと、その遅れを取り戻そうとするみたいに一気にハミを噛んで加速していった姿だ。あの日、福島の検量室の前で「次は関西にも乗りに来いや」と笑っていた桐生さんが必死に抑え込もうとしても止まらず、顎が上がるくらい手綱が張ったまま、口から白い泡を吹いて向こう正面を先頭まで捲り上がっていった。
きっと、誰が悪いわけでもないのだ。ただ、あの子の闘争心が、あの子自身の制御を振り切って暴走してしまっていた。あのとき、自分のスピードに飲み込まれながら走っていたあの子は、どんな気持ちだったのだろう。
もし私が断ったら、あの子は再来週、急ごしらえの誰かを背中に乗せて、また同じように自分の力に振り回されて苦しい思いをするだけかもしれない。
私が経験豊富な桐生さんよりあの子を上手く走らせられる自信はないけれど……。
「……先生。その子、脚元にどこか不安があるとは言っていませんでしたか?」
「ん? いや、体調や脚元はすこぶる順調だと聞いているが」
「じゃあ、乗せていただきたいです。私でよければ、ぜひお願いします」
私が椅子から立ち上がって頭を下げると、深町先生はしばらく黙って私の顔を見つめたあと、「……そうか」と短く言って、口元を緩めた。
「やっぱりお前はそう言うと思ったよ。わかった、須藤さんにはすぐ返事をしておく。来週の水曜日、栗東で一週前追い切りをやるそうだから、火曜日の夜から関西へ行って一度感触を確かめてこい」
「はい! ありがとうございます!」
事務所を出て階段を下りると、外の通路から、ちょうど午前の手入れを終えたトヴロダンフォンが五十嵐さんに曳かれて馬房へ戻るところが見えた。
朝飼いの一杯を平らげて満足したのか、赤みの強い鹿毛が、私の姿を見つけるなり少しだけ余裕のある顔で「ブフッ」と威勢よく鼻を鳴らす。
その向こうの馬房からは、アサギリマーチがひょこりと顔を出して、私の袖が揺れるのをじっと目で追っていた。
GⅠ、天皇賞(秋)。
前世で厩務員をしていた頃、担当馬を連れてあの東京競馬場の地下馬道を歩いたことは一度だけあったけれど、あのときは馬場の入り口で騎手を見送って、ラチの外から祈るようにターフビジョンを見上げているだけだった。
その芝の上に、今度は自分の足で鐙を踏んで出ていくのだ。
私は自分の小さな両手を一度だけぎゅっと握りしめ、マーチの待つ馬房へと小走りで駆け寄った。