「足下気をつけてくださいね」
そう言って大きな鞄を持ったまま、慣れた足取りで進む彼に、僕は額から垂れる汗を拭いながら必死について行く。今日は2人での訪問だ。
坂道を上り、やっとのことで抜けた木々の先に広がっていたのは草原。そこには蔦の生えたのあばら屋とぽつんと立つ1本の木があった。
青々と茂った葉の間には、日の光を集めたように綺麗な実を付けていた。
その木陰に立つ、若い女性に僕は声をかけた。
「こんにちは、生活保護課です」
「あら、もうそんな時期だったかしら? いつもありがとねぇ。よかったらおばあちゃんの実、食べていかないかい?」
そう言ってにこやかに微笑みながら、オレンジの実を差し出される。美しい緑髪の女性が今日の訪問相手である。
「そんな、頂けませんよ」
「いいのいいの。おばあちゃんのためだと思って受け取って。隣にいる彼にもいつも渡しているんだから気にしなくていいのよ」
そう言って無理やり懐に実を入れられる。
彼女は樹齢90年を越える、オレンジの木に憑くドライアドだ。保護を受け始めたのは3年前、面倒を見られないとして隣に住んでいた老婆から申請されていた。
「今日もお願いするわね」と声をかけられた彼は、顔を少し彼女に向け、「はい」と短く返事をする。すぐに目線を木に戻し、黙々と作業道具を広げていた。
今日の仕事は、定期点検の同行だ。
彼女が宿るのは老木ゆえに、定期的な管理、点検が必要としている。契約した商人が、時期が来るとオレンジの実を買い取りにきてくれるが、その売却益だけでは賄えないため支援が続いている。
業者に依頼をしているが、なにせ距離がある。生きているのか、作業が行われているのかもわからないままでは、不正の可能性は否めないため、年1回は職員が同行しているのだ。
道具や行為の意味などわからない素人の僕は、作業風景をぼーっと眺めてた。すると不意に彼女に話しかけられる。
「あなた、若いわねぇ。新人さんかしら、おいくつなの?」
「18歳です。最近、着任したばかりですがよろしくお願いします」
「あら、いいわねぇ。その年ならどこへだっていけるでしょうね」
静かに木肌を撫でる彼女に、僕はかける言葉が無かった。
ドライアドは、宿る木から遠くに離れられず、木が枯れれば死んでしまう。
彼女は振り向き、誤魔化すように僕に微笑みながら口を開く。
「彼の作業が終わるまで、よかったら暇を持て余したおばあちゃんの話を聞いてくれないかしら?」
「僕でよければ。何をして過ごしていいのかわからなかったので助かりますよ」
「ありがとねぇ。よかったわ。実は、あなたのその素朴な顔があの子の旦那さんに少し似ていてね、懐かしくなってお話したくなったのよ」
彼女の言葉にふと、疑問に思ったので僕は口にする。
「あの子って誰のことなんですか?」
「隣の家に住んでいた、ぱっちりした目が魅力的な世界で1番かわいい女の子よ!」
ああ、隣の家という言葉に、記録にあった老婆のことかと僕は腑に落ちる。
「そんなに長く関わっていたんですか」
「そうよ!あの子が生まれる年に、苗木だったおばあちゃんはこの場所に植えられたの。そこからずっと一緒だったわ。両親に連れられておばあちゃんの周りをよたよた歩く姿も、初めて実った私の実を食べて見せた笑顔も、結婚式での花嫁衣装も全部、全部覚えているの」
「あの子の1番の相談相手はおばあちゃんだったんだからね」と得意げに笑う彼女を見て、僕も自然と笑顔がこぼれる。
「大切な人なんですね」
「それはもう! おばあちゃんにとっては妹みたいなものなの。彼女が幸せなら言葉が伝わらなくても、気がついてもらえなくても、眺めているだけで満ち足りていたわ」
楽しそうに話していたが、「けれど、世の中はそう上手くいかなくてね」と呟き、顔が曇る。
「ある年、あの子の旦那が戦死してしまったのよ。あの子は葬儀を終えて、この家に戻ってきてくれたけども、数日食事もとらなくなったの。ある夜、ずっと心配していたおばあちゃんの目の前で、後を追おうとしたわ」
思い返した悲しさからか、目尻に涙を浮かべていた。
「命を断とうとするあの子をみて、どうにか慰めたい。この思いを届けたい。そう強く思ったとき、あの子がぱっと顔をあげてね、『あなたは誰?』と声をかけてくれたのよ。そのとき、おばあちゃんはドライアドとしての姿を得たの」
彼女は両手を祈るように胸の前で組み、続ける。
「きっと意識を持っていたのは、今日このときにあの子を救うためだったのだと思って沢山、沢山話したわ。あの子の小さいときからの宝物、お気に入りの歌、旦那さんとの思い出も。あの子が忘れてしまった幸せを。そしておばあちゃんがどれほどあの子を愛しているかを。そうしたらあの子がすこしずつ笑顔になってくれてね。それからは思い直してくれたあの子と2人で暮らす日々。あれほど幸せな時間はなかったわ」
そう言って微笑む彼女の話は精神的に疲労し、誰も帰りを待つ人のいない自分には遠く感じた。
羨望を抱いて僕は呟く。
「無事で本当によかったです。僕は少しうらやましいですよ。常に自分の味方でいてくれる人がいるのは」
「そう思ってもらえると嬉しいわ。でもね、皆がそう考えるわけじゃないの。旦那さんが亡くなった日からずっとあの子を娘夫婦は誘い続けていたわ。そんな山の中で暮らすだなんて心配よ。私たちの家で暮らしましょう。使用人もいるし、苦労する必要なんてないわってね」
「当然の話よね」と呟きながら嬉しさと悲しさが混ざり合った複雑な顔を浮かべる。
「でも、あの子は断った。思い出の家を離れたくないから。何より動けないおばあちゃんもいたからねぇ。それでも限界が来てしまったわ。思うように体が動かなくなった彼女はもうここでは暮らせなかった。娘夫婦に引き取られてしまったのよ」
ため息をついた後、彼女は寂しげに笑う。
「あの子は家を離れるならおばあちゃんのことも連れていってほしいと頼んでくれたけれど、娘夫婦の私を見る目は冷たかったわ。でも、仕方ないわよねぇ。娘夫婦からすれば、おばあちゃんは突然あらわれた、大事な母親を誑かす化け物でしかないんだもの。引き取られてからはあの子と一切会えていないわ」
彼女は手をかすかに奮わせながら目を伏せる。
「弱くなったものねぇ。声が通じないなんて、当たり前の日々だったはずなのに。いっそのこと朽ちてしまえたら、なんて思うこともあったのよ」
彼女の切実な思いを聞き、憐れむ反面、僕は娘夫婦を責められない。
自分だったらできるだろうか。いつ命を奪われるかわからない世の中を生きてきて、自分の愛する母親が、自分より愛する“ナニカ”を家族として愛することを。
沈む僕の表情を見て、慌てて彼女は口にする。
「暗い話をしてしまってごめんなさい。でもね、今は悪いことだけではないの。実はね、先月、初めてあの子から手紙が届いたのよ」
幸せな思い出のためか、彼女は少し頬を緩める。
「彼女の近況も知ることができたわ。直接会いに来ることはできないかもしれないけど、こうして言葉は届くんだもの。なかでも嬉しかったのは、去年、生まれたあの子のひ孫が、おばあちゃんの実が大好きなんだって。おばあちゃんね、いつかその子が会い来てくるんじゃないかと夢見てしまうの。もう少し頑張ってみたいと思うのよ」
彼女は胸の前で拳を握る。そしてふっと手を下ろして真剣な目でまっすぐこちらを見つめる。
「後、何年生きられるのかはわからないけど、もうしばらくの間、助けてほしいの」
そう言って彼女は頭を下げる。その姿を見てふと気がつく。過去を僕に話したくなったのは、きっと期待からだ。魔王討伐後の世代なら知ってもらえると。化け物としてではない自分を。冷たい孤独の中、小さな灯火を胸に抱えるために。
考えを巡らせた僕は、わざとらしく、僕は明るく答えた。
「誰かと暮らすなんてことがなければ、打ち切られることは無いと思いますよ。そんな時まで元気でいてくれないと困りますよ!」
「もちろんよ! 次に会えたときには、今日よりもっと美味しい果実で歓迎するわね」
顔を挙げた彼女の微笑みを見ると、少し心の重荷が減ったようだった。明るい未来に向けて進んでいく。そんな人がいるならこの仕事をもう少し続けて見ようと思えた。
そのとき、無事点検が終わったと、声をかけられる。
枯れ枝を落とし、害虫駆除の薬を撒き終えたとのこと。病気はないが、少し栄養不足になっているので施肥して今日の作業は終了らしい。
作業の終了を確認して、僕らは彼女と別れ、山を降っていく。林道の中、ふと思い出して懐に入れたオレンジの実をナイフでむいてみる。
果肉はまるで琥珀のように暖かな色をしていた。
次の休みには、ひさびさに祖父母に会いに行こう。そんな考えを浮かべながら、僕はオレンジの実を一房食べる。甘く優しい味がした。