街の中央通りから外れた、ささびれた住宅街。ポツポツと家が並ぶその一角に僕は来ている。
帽子を被り、長袖長ズボン、手袋で防護した僕の姿は、この暑い日にはそぐわない姿だろう。
家の前では扉を開けてもいないのに漂う鼻をつく匂いは、口元を布で覆っても抑えられなかった。
覚悟を決めて扉を開けるとむわっとした熱気とともに大きなハエが群れで押し寄せる。僕は目を閉じ、必死に羽音が消えるまで耐えた。
少し待ち、落ち着いたことを確認してから僕は目を開ける。
視界に広がるのは、いつからあるかわからない糞の山と、謎の液体でてらてらと光る廊下。
壁紙はところどころはがれ、穴が空き、柱は引っかき傷で抉れている。きらりと光を反射するホコリの中に足を踏み入れる。
ギシリとなる足元を過ぎ去る、黒光りする虫と更に強くなる匂いに僕は吐き気を抑えた。
人の気配を感じてか、屋根裏から聞こえる足音は騒がしくなっていた。
壁の隙間や部屋の陰から覗く、猫たちの視線に気をとられながら、抜け落ちそうな床を避け、ゆっくり歩みを進めていく。
なんとか廊下を抜けた先に広がるリビングの椅子の上に、彼は足を組んで座っていた。僕は声をかける。
「こんにちは、生活保護課です」
「そんなの知ってるにゃ。みゃーがよんでから、何日たったと思っているにゃ。来いっていったらさっさと来るにゃ!」
子供程の大きさの黒い猫が、黄色い目を細めながら偉そうに話す。彼が今日の訪問相手だ。
事前から伝える話はあったが、彼の仲間の猫からミミズがのたうちまわったような文字で書かれた手紙が届けられたこともあり、今日訪問に来ている。
彼はケット・シー。どこかに王国をもつという猫の精霊だ。二本足で立って歩き、言葉を話すことができるが人には見せず、普通の猫に紛れて暮らしていると言われている。
「すみません、手続きが色々ありましてね」
「人どものやることはちまちまして気に入らないにゃ」
そう言って伸びをする彼は半年前に突然やってきた。伝承の存在であった彼は、自分たちの存在を明かすべきだ。もっといい暮らしができるはずだと主張したところ、喧嘩になって王国を飛び出したそうだ。
住む場所もないとの相談に、依頼をかけたが、現在の家主が手を挙げてくれたのでここに住んでいる。
「この家、またひどくなっていませんか? あそこの隅の天井、前にお会いしたときには穴は空いていませんでしたよね」
僕がこの家に来たのは2度目だ。先月、顔合わせを兼ねた訪問に来たときには、仲間の猫から聞いたとして、僕の名前、住所まで知られていた。出てくる僕のエピソードに背筋が凍ったものだった。
「こんな簡単に壊れるのが悪いにゃ。まあ、みゃーの家をどうしようが、みゃーの勝手にゃ。お前に口出しされる筋合いはないにゃ」
「いえ、違いますよ。保全に努めて、清掃もする。きちんと契約書を結びましたよね?」
今まで、彼が住めているのは家主の善意でしかない。亡くなった母が猫を好きだったので、大事につかってくれるなら嬉しいと、思い出の残る実家を無料で貸してくれていたのだ。
契約書内容も確認の上、その手で肉球印を押している。
「家主から聞いていますが、3か月前にも退去命令が届いているはずですよね。このまま汚し続けて迷惑をかけるなら出て行けと」
匂いと夜中も構わず聞こえる騒音に悩まされ、周辺に住んでいた人たちは諦めて家を出て行ってしまった。家主にも慰謝料請求があったと聞いている。辛抱堪らず書類を送付したと。
「あ~もううるさい。そんなの知らないにゃ。なんでみゃーが手間をかけなきゃならないにゃ! そっちの都合なんてどうでもいいにゃ。さっさと食い物寄越すにゃ!」
そう怒鳴りつける彼が、僕を呼びつけてまでしたかった要求は食料支援だ。
毎週、決められた最低限、生活するための食料が届けられているが、あくまで彼が生活する分だけだ。これまで何度も辞めるように指導されてきたが、沢山の猫を集める続ける彼の家では食料品が足りていない。
実際、保護を受けるときに持ち合わせてのないものや、決まった食料で暮らすことに慣れずに不足してしまうことはよくあることだ。
そのため、追加での食料支援は一度きりであるが認められている。
保護開始後すぐに、彼からつい、かわいそうな猫の同胞に分けてしまって無くなったので援助をして欲しいとの話があった。
彼だけが保護を受けているのだから、もう自分のためにしか使わないこと。一度きりだと約束して渡されたが、そこからはもう止まらない。約束はどこへやら、毎月2回は追加での食料を請求してくるのだ。
過去に一度、拒否したことがあるようだが、その日から街で目を離した隙に、食料が消える事件が発生した。状況証拠からすれば、犯人は彼に違いない。仲間の猫に協力させたのであろうが、証拠が無く処分ができなかった。
寄せられる住民からの苦情不満に食料提供をせざるを得なくなっている。
「お前らにはみゃーの生活を保障する義務があるにゃ。家の外にでも置いてきてるかにゃ? さっさと持ってくるにゃ!」
「勇者様万歳にゃ! にゃっはっはっ!」と笑う彼に僕は顔を引き締め、告げる。
「いいえ、今日持ってきたのはこれだけです」
僕は懐から1枚の紙を取り出し、突きつける。
「なんニャ? その紙切れは?」
「強制執行文です。この家は1週間後、焼却処分されます」
「にゃに!?」
退去命令が出されても改善が見られない。このままではどんな疫病が街に発生するかわからない。そこで国も重い腰をあげたのだ。家主も話を聞いて諦めたようだ。
「へぇ~、みゃーたちの居場所を奪うとは戦争にゃ。これからはあらゆる猫がお前らの敵。街の住民ども一人ずつ襲って食料にしてやるにゃ!」
彼だけではない唸り声と共に、四方から存在感を感じた。暗闇に光る無数の瞳が僕を見つめる。
ごくりとつばを飲み込んだ後、声が震えぬように僕は告げる。
「ここに住む猫の皆さんに話を聞いて欲しいんです」
恐怖を必死に押し殺す。今日は家主からの依頼がある。本当に話が通じるかは怪しいが、毅然とした態度でなければ侮られてしまう。
「今回の事態に家主が、自分が責任をもって関わっていればと後悔したようで、皆さんを引き取りたいそうです。そして、趣味と実益を兼ねて猫喫茶を開きたいと」
「猫喫茶?」
「ええ、勇者様から伝わった、飲食物ともに猫と触れ合える場を提供する店です。そこで皆さんにお客さんを構ってもらえるならば、自由に外は出歩けませんが、一日三食と綺麗な水、暖かい布団を提供するそうですよ。希望する猫たちには明日、日が昇る頃、隣の屋根の家の庭に集まってほしいとの話でした」
毛を逆立てていた猫たちも話が進むに連れて、互いに顔を見合わせた後、静かになっていく。よかった、理解はしてくれているようだ。
普段から彼からの手紙を届けるなど、高い知恵を見せていた。家主も噂に聞く、頭のよい猫たちならきっと上手くいく。どうか伝えて欲しいとの依頼であった。借家提供を受けた都合上、断れない立場だったので一安心だ。
思いがけない提案に気を良くしたのだろう、脳天気に彼は言う。
「やれやれ、さっさとそうしていれば楽に暮らせていたのに。でも、みゃーは働くなんてごめんにゃ、一日5食におやつ付き。召使いがつくならみゃーも一緒に住んでやってもやってもいいにゃ」
そう自慢げに鼻を鳴らす彼は現状を理解していないようだ。
「あなたは別ですよ」と僕は静かに告げる。
「心を踏みにじったあなたを家主は引き取ることはできないそうです。他の家に住みたいといっても、この惨状を知れば、家を貸してくれる人なんて誰もいませんよ」
ポカンと口を開けて、彼は固まっていた。そこで状況をやっと理解したらしく、尻尾の毛を逆立てて罵りだす。
「人間風情が偉そうに。みゃーどうするつもりかにゃ? 毛皮でも剥ぐ? それとも首輪を付けて売り払うにゃ? できないにゃ。生存権とやらでみゃーは守られている。ただ、みゃーの言うことを聞いていればいいにゃ!」
「そんなことしませんよ。様々な事情で行き場の無い人たちが規則を守って暮らす施設があります。この後、あなたを受け入れてくれないか、依頼をかけてはみますよ」
施設だって言うことを聞かないものを招けば、他の居住者から不公平だと暴動を起こされてしまう。彼を受け入れてくれる施設を探す労力を考えると胃が重くなり、ため息をついてしまう。
「いやにゃ! 縛られるなんてごめんにゃ。みゃーだけじゃない。みんにゃだって、自由に暮らせるほうがいいに決まってるにゃ!」
首を振って叫び、僕を指をさしながら睨みつける。
「みんにゃ、まずはこいつからやって、わからせてやるにゃ!」
家中に響く声を上げるが、返ってくるのは静寂ばかり。他の猫たちは彼をただ、じっと見つめる。
「どうしたにゃ? 仲間のために戦うところにゃ?」
その言葉を聞いた後、猫たちは彼に飛びかかる。噛みつき、引っかく群れに堪らず彼は叫ぶ。
「痛、痛い、やめ、やめるにゃー!!」
襲う猫の数はどんどん増えていき、覆われて彼の姿は見えなくなっていく。
「みゃーは、何も悪くない! この家にみんにゃを住まわせてやったのに。痛い、痛い、痛い! こんなのっておかしい。全部お前のせいにゃー!! 絶対許さない、呪ってやる。不幸になるがいい。後悔させてやるにゃー!!」
その叫びもむなしく、彼は他の猫たちに首筋を噛まれて引きずられていく。叫び声が小さくなり、家の奥に消えていった。
静かになったリビングで、僕は立ち尽くす。襲われなかったのはよかったが、この後どうしたものかと悩んでいると、後ろからミィーミィーと鳴き声が聞こえる。
振り返ると白い翠眼の猫が座っていた。僕の顔をじっと見た後、玄関口の方を向き、ミィと鳴く。
どうやら帰っていいらしい。執行文を机の上に置いて、僕は外へ向かう。玄関前まで見送ってくれた白猫に感謝を告げて家を出る。外の空気はこれまでの人生で1番美味しかった。
このまま職場に戻ったら、匂いで何を言われるかわからない。一刻も早く水揚びがしたい。帰路につく僕の足取りは早くなっていくのであった。
後から話を聞いたが、次の日、隣の家の庭には20数匹の猫たちが集まったそうだ。
あれから4ヵ月。僕は家主の開いた喫茶店で一息ついている。
猫なんてそこらで見慣れたものを喫茶店の売りにするとは、所詮道楽でいつまで続くものやら。なんて捻くれた考えをしていたが、予想は外れるもののようだ。
珈琲に口を付けながら、店内を見渡す。
店内は、餌で気を引こうとするもの、子供と一緒におもちゃで遊ぶもの、頭の上に乗られているものなど活気に溢れていた。
毛が禿げたり、薄汚れている外の猫たちと違い、清潔なふわふわとした毛並みの猫たちが自分達に甘えてくれる。感染症などを考えずに触れ合えるというのは、この街の住人の心に刺さったようだ。
あのケット・シーは家の奥に消えてから、姿を見せていない。保護も失踪で廃止になっている。
行方は誰にもわからない。
自分もいつか猫たちに攫われて、なにかされるんじゃないかなんて不安に襲われることもあったが、僕は今日まで無事に暮らせている。
そっとカップを置いたとき、一匹の猫が僕の膝の上に飛び乗り、お腹に顔をこすりつけてくる。覚えのある白猫だ。どうやら自分は許されているらしい。
そっと背中を撫でながら、心で祈る。理不尽な環境を乗り切った彼らと自分に平穏な時間が続くことを。
ほのかに薫る湯気が静かに消えていく。