人で賑わう商店街の一角。灯りの消えた鍛冶工房が今日の目的地だ。鍵の掛かっていない扉を開けて、中に入る。
締め切られて薄暗い部屋の奥。置かれたベッドに長い髭を蓄えた老人が腰掛けていた。
今回が3回目の訪問なので慣れはしたが、糞尿の匂いが漂っている。部屋の中には、厠まで間に合わないためと、あちこちに金だらいが置いてある。いつしたものかわからない中身を警戒しながら、僕は恐る恐る近づき、声を掛ける。
「こんにちは、生活保護課です」
「生活保護課、生活保護課・・・その顔、あぁそういえばそうじゃった。よく来たのぉ」
震える右手を挙げて答えてくれる彼が今日の訪問相手だ。骨張った体つきからは想像できないがドワーフである。
彼が保護を受ける前はこの工房の主として、妻とともに暮らしていた。ドワーフといえば酒といわれる程だが、彼がことさら弱かったのか、アルコール依存による手の震えで槌が振るえなくなり、5年前に休業。貯金だけに飽き足らず、妻が代わりに働いた金に手を付けて酒を買いあさった。
これ以上関われないとして離縁とともに妻から申請があったのが4年前のことだ。
「だが、黙って家に入るなんて失礼じゃないか。泥棒と思った儂に殴られても文句はいえんぞ」
そう言って立ち上がり、彼は杖をぶんぶんと振ってみせるが、バランスを崩してふらつく。なんとかなだめ、そっと転ばないようベッドに座らせる。
前回訪問したときに、「外で声をかけるなど、目立つじゃないか。自分が保護を受けているとばれたら、どう周りに扱われるか想像できんのか? 若者は気遣いがない」と怒鳴り散らしたことは覚えていないようだ。
何を言っても、儂をボケ老人扱いするのかと揉めるだけだ。僕はあきらめて「次からは気を付けます。すみません」と謝罪をし、話を続ける。
「また、体調が悪化していませんか。もう諦めて、先生に頭を下げましょう? 心を入れ替えると謝れば、きっと許してくれますよ」
「ふん、あんなやぶ医者に見られるほうが悪くなるわい。この足をみろ、あいつのせいじゃ」
そう彼はふんぞり返って言うが、彼自分の生活が原因だ。
この街で入院が可能な程の大病院は1箇所しかない。そこを彼は出禁になっている。
彼は去年、肝硬変を起こし、入院となったた。その際に酒を断たれた彼は、自由に歩けるほど回復できたのだ。
だが、治療途中であり、後、数ヶ月は入院が必要と言われた彼は、こんな所にこれ以上いたくない。帰らせろと病院で暴れたことで退院。また酒を飲み出し、今に至る。
「酒を止められるからですか? もう辞めませんか。酒代で生活が厳しいんですよね?」
僕はため息をついて、続ける。
「先週、卵とパン一つずつ万引きをして捕まったじゃないですか。逮捕されなかったのは、初犯だったからと店の人が訴えないでくれただけですよ」
「あれは、運が悪かっただけじゃ。これまで見つかってこなかったわい。他にもやってるやつなんて何人も知っているぞ」
「そんなことを言って反省してないじゃないですか。次見つかっても、もう迎えに行きませんよ」
彼の呑気さに嫌になる。妻も子も親族もない、彼を引き取る者はいない。
手続き上、誰かの署名が必要だから、関わりのある職員に代わりに来て欲しいと、僕は休日に呼び出され、警邏隊の派出所まで迎えに行かされたのだ。
その姿を見られ、近所の人に何か犯罪を犯したのではと立てられた噂はまだ解消できていない。
「いや、反省はしとるよ。食うにも困ってと話をしたら、警邏隊の人も相談に乗ってくれてのぉ。
生活費を一緒に書き出してくれて、いくら削らないといけないか、共に考えてくれたんじゃよ」
「それはよかったですね」
僕が以前、一日に使っていい金額などを計算して渡した紙は、記憶に残らず、どこかへ捨てられたというのに。なんだか少し悲しくなる。
「彼は昔、儂の工房に通ってくれていたようでの。『早く体を治してくださいね。また貴方の作品を使えることを楽しみにしています』なんて言うんじゃよ。若造じゃが、見る目があるわい」
彼は満足げに口元を綻ばせて続ける。
「儂はもう酒を辞めると彼に誓ったんじゃ。交わした約束を破るなど、男が廃るわい」
鼻を擦る彼の言葉に感動し、僕は伝える。
「勇気のいる決断だったと思います。本当にすごいですよ。可能な支援は行っていくので頑張っていきましょう」
涙がにじみ出そうになり咄嗟に目を覆う。
ああ、駄目だったのは僕の方だ。彼を信じて支え続けるべきだった。もっと彼に寄り添えていれば。伝わらないのは、彼の心に響く言葉を紡げなかった自分の努力が足りなかったのだ。これから関わる人のためにも、少しずつでも成長していなければと僕は心に決めた。
「そうじゃろ、そうじゃろ」と褒められ、弾んだ声で呟く彼をふと見ると、ベッドの下から酒瓶を取り出して、口を付けている。
「今、飲んでませんか?」
「え?」
自分の後悔が吹き飛ぶような、あまりの衝撃に目を疑う。
「中身は水だ。なんて落ちだったりしますか?」
冗談めかして言ってみるが、ぽかんと手に持つ酒瓶を眺める姿に、察してしまった。もはや無意識で飲んでいる。
もうだめだ。認知能力も落ちた人がこんな環境で暮らしていくことはいいとは思えない。
「もう介護施設に入りましょう? これ以上、一人暮らしは無理ですよ。そこでリハビリをしてからでもいいじゃないですか」
少しでも前に進めたらと思う僕の提案は気に食わなかったようだ。彼は目をつり上げて、叫び出す。
「儂をあんな場所に入らなければならないやつらと一緒にするなんて、お前の目は節穴か! それに儂の大切な工房から離れろと! 儂は再び槌を振るい、この名を王国中に轟かしてやるんじゃ。儂らの税金で食ってるお前らに儂の夢を奪う権利などはないわ!」
激昂した彼に、杖で足を叩かれる。震える手で打たれても痛みはないが虚しさが溢れた。
誘惑に負けて可能性を手放しているのは彼自身だ。
僕らに彼を無理矢理施設に押し込める権限などない。施設側だって、他に面倒を見て欲しい人はいくらでもいる中、入所を望まない人なんて門前払いだ。もうどうにもならなかった。
「わかりました。無理にとは言いません。僕はもう帰ります。本当に、万引きだけはしないでくださいね。逮捕されたなら、保護は打ち切りになってしまいますからね」
「何度も言われなくとも、わかっとるわい」と返事をして酒を呷る彼に、僕はあきれながら家を出た。
突き刺す日差しに目を細める。人を呼び込む商人の声、「通してくれ」と言いながら、重そうな荷物を運ぶ人。街は喧騒に満ちている。ざわめく街道を歩き、帰路に就く。
ああ、思えば今は昼過ぎだ。薄い板1枚でこうも世界が変わるとは。汗水を流す人の姿と直前まで話した彼との差に悲しくなる。
彼は死ぬまで変わらないのだろう。彼を思う誰かの言葉も、助けたいと行う行動も、雑音としてすべては酒に消えていく。
何を起こすかわからないから、毎月様子を見に行けと上司は言う。これからも僕は、無意味に通院、入所を勧め、次の瞬間には忘れられる話をして、あなたも関わっているんだから責任があると責められるのだろう。この人のために使う時間のなんと無駄なことか。
いっそ寝たきりにでもなってくれたら。ふと浮かんだ考えに自分を疑う。人という存在に向けるべきではない残酷な思考に、就職する前の自分から外れてしまったように思えて恐怖する。
いつまで自分は正気でいられるのだろうか。それとも既に狂っているのか。
不安に酒に手を伸ばしたくなる気持ちがわかり、笑えてきたのだった。