今回はユメ先輩、ホシノ、朔の三人の日常を中心に書いています。
まだまだ平和なアビドスですが、少しずつ物語を進めていけたらと思います。
それでは、どうぞ!
アビドス高等学校の朝は、静かだった。
かつては登校する生徒たちで賑わっていたという正門も、今では風に運ばれてきた砂が吹き溜まり、校舎へと続く通路には人の足跡すらほとんど残っていない。誰も使わなくなった駐輪場には錆びついた自転車が数台放置され、掲示板に貼られた学校行事の案内は、長年の日差しによって文字が読めないほど色褪せていた。
それでも、完全に廃校となったわけではない。
校舎の一角からは確かに明かりが漏れており、誰もいないはずの廊下には、時折小さな足音が響いている。
「……ったく、朝から砂まみれかよ」
そんな静まり返った校舎の中を、一人の少年が歩いていた。
天城朔。アビドス高等学校に通う一年生であり、現在は生徒会の仕事を手伝っている数少ない生徒の一人である。
彼は制服の肩に付着した砂を払い落とすと、手に持っていた紙袋を持ち直した。中には途中で購入したパンと飲み物が入っており、朝食を済ませる暇もなく登校した自分と、恐らく既に生徒会室で仕事をしているであろう幼馴染のために用意したものだった。
昨日、三人で旧給水施設の調査へ出向いた結果、設備が完全に失われているわけではないことが判明した。しかし、それを学校のために利用できるかどうかは別問題であり、今朝はその調査結果を整理することになっている。
朔自身、あの施設を修理できれば学校の維持費を少しは抑えられるのではないかと考えていたが、現状の資料を見る限り、そう簡単な話でもなさそうだった。
「……おはよーさん」
生徒会室の扉を開けると、予想通り、既に一人の少女が机に向かっていた。
小鳥遊ホシノ。
朔の幼馴染であり、アビドス生徒会の副会長でもある彼女は、机に広げた書類を確認しながら何やら難しい顔をしている。
「……朔? 今日は早いじゃない」
「お前がいつも早すぎるんだよ。まだ始業前だぞ」
「やることが山積みなんだから仕方ないでしょ。それより、昨日の調査記録は?」
「ちゃんと持ってきたよ。ほら」
朔は肩に掛けていた鞄から端末を取り出し、昨日撮影した施設の写真と設備図面をホシノへ送信した。
彼女は手元の画面に目を落とすと、幾つかの画像を拡大しながら、小さく眉を寄せる。
「……やっぱり、かなり傷んでるね」
「まあ、長い間放置されてたみたいだしな。逆によくあれだけ残ってたもんだよ」
「それで、修理費用はどれくらいになりそう?」
「正確な見積もりは専門業者に頼まないと分からない。ただ、配管の交換にポンプの整備、それから学校までの送水設備を考えると……」
朔はそこで言葉を区切ると、少しだけ困ったように笑った。
「……俺たちの予算じゃ、相当厳しいだろうな」
「……そう」
ホシノは短く答え、再び画面へ視線を落とした。
落胆している様子こそ見せなかったものの、その表情には僅かな陰りがあった。
現在のアビドスには、多額の負債が存在する。
砂漠化に伴う施設の修繕費用や、学校を存続させるために必要となった借入金。そうした負債は年々膨らみ続けており、今では日々の支出をどう抑えるかという問題さえ、深刻な悩みの種となっていた。
そんな状況で、新たに大規模な設備工事を行う余裕などあるはずもない。
「……やっぱり、難しいかな」
「まあ、簡単じゃないだろうな」
「ユメ先輩、楽しみにしてたのに……」
小さく呟かれた言葉に、朔はホシノへ視線を向けた。
彼女は相変わらず画面を眺めているが、指先は既に動いていなかった。
「……ホシノ」
「何?」
「まだ無理だって決まったわけじゃないだろ。費用を抑える方法があるかもしれないし、使える部品だけ回収するって手もある」
「……それはそうだけど」
「それに、ユメ先輩だって最初から全部上手くいくとは思ってないんじゃないか?」
その言葉を聞いたホシノは、少しだけ意外そうな顔をした。
「……あんた、本気でそう思ってるの?」
「ん?」
「ユメ先輩のことだから、もう学校の水道代が安くなるつもりでいるかもしれないでしょ」
「……あー」
否定しようとした朔だったが、普段のユメの言動を思い返した結果、どうにも自信が持てなくなってしまった。
何しろ、あの先輩は思いついた計画が実現することを前提に、次の計画を立て始めるような人物なのだ。
「……まあ、可能性はあるな」
「でしょ?」
「でも、だからって最初から諦める必要もないだろ」
「……」
「できることを探して、それでも無理なら仕方ない。少なくとも、ちゃんと調べた結果ならユメ先輩も納得してくれると思うぞ」
そう言って朔は、持ってきた紙袋をホシノの机へ置いた。
「ほら、朝飯」
「……え?」
「どうせまだ食ってないだろ。途中で買ってきた」
「……別に、頼んでないんだけど」
「じゃあ俺が二人分食うけど?」
「……食べないとは言ってないでしょ」
ホシノは少しだけ不満そうな顔をしながら、それでも差し出されたパンを素直に受け取った。
その様子を見て、朔は思わず笑みを浮かべる。
「……何笑ってるの?」
「いや、昔から変わんねえなと思って」
「……何が?」
「素直じゃないところ」
「……朔?」
「悪い悪い」
幼馴染の鋭い視線に、朔は両手を上げて降参の意思を示した。
その後、二人はしばらく他愛のない話をしながら朝食を取っていたが、やがて廊下から慌ただしい足音が聞こえてきた。
そして次の瞬間、生徒会室の扉が勢いよく開かれる。
「おっはよー! 二人とも!」
「……噂をすれば」
「おはようございます、ユメ先輩」
「あれ? 二人とも、もう来てたんだ!」
元気よく姿を現したのは、アビドス生徒会長である梔子ユメだった。
相変わらずの明るい笑顔を浮かべた彼女は、大きな鞄を抱えながら部屋へ入ってくると、二人の前に置かれたパンを見て目を輝かせた。
「あっ、いいなぁ! 二人で朝ご飯?」
「はい。ホシノがまだ食べてなかったみたいなんで」
「朔も食べてなかったでしょ」
「まあ、それはそうだけど」
「えへへ、二人とも仲良しだね!」
「……ユメ先輩、朝からからかわないでください」
ホシノは呆れたようにため息をついたが、ユメは気にした様子もなく笑っている。
そして、自分の鞄をごそごそと探り始めた。
「そうそう! 今日は二人に見せたいものがあるんだ!」
「……見せたいもの?」
「うん! 昨日の約束、覚えてる?」
「昨日の……ああ、花の話ですか?」
「そう!」
ユメは嬉しそうに頷くと、鞄の中から小さな袋を取り出した。
そこに入っていたのは、幾つかの花の種だった。
「じゃーん!」
「……種?」
「うん! 昨日帰ってから色々調べてみたんだけどね、少ないお水でも育てやすいお花があるみたいなの!」
そう言ってユメが取り出した袋には、色鮮やかな花の写真が印刷されていた。
どうやら、今朝登校する途中で購入してきたものらしい。
「……ユメ先輩」
「ん?」
「まさか、これを植えるために買ってきたんですか?」
「うん!」
「……昨日の今日で、行動が早すぎません?」
「えへへ……思い立ったが吉日、って言うでしょ?」
「先輩の場合、思いついた瞬間に行動してる気がしますけどね……」
朔が苦笑すると、隣にいたホシノが小さくため息をついた。
「……ユメ先輩、そもそも花を育てる場所はどうするんですか? 校庭は砂だらけですし、水だって無駄にはできませんよ」
「そこは、これから考えようかなって!」
「……やっぱり」
「まあまあ、ホシノ。とりあえず話くらい聞いてやれって」
「……朔、あんたはまたそうやって」
「いや、別に何も考えずに賛成してるわけじゃないぞ。昨日の約束だってあるし、鉢植え一つくらいなら何とかなるんじゃないか?」
「……」
ホシノは何か言いたげに朔を見つめたが、結局それ以上は何も言わなかった。
代わりに、ユメが持っている種の袋へ視線を向ける。
「……それで、何の花なんですか?」
「マリーゴールドだよ!」
「マリーゴールド……」
「うん! 比較的丈夫で育てやすいお花なんだって。もちろん、ちゃんとお世話しないと駄目だけどね!」
嬉しそうに説明するユメを見て、朔は少しだけ考え込んだ。
確かに、校庭全体を緑化することは不可能に近い。しかし、小さな鉢植えを一つ用意する程度であれば、現在のアビドスでも十分に実現できるかもしれない。
もちろん、土や肥料、水の確保といった問題はあるが、それらも学校に残っている物資を利用すれば、ある程度は解決できそうだった。
「……そうですね。じゃあ、まずは使えそうな鉢がないか探してみますか」
「本当!?」
「はい。確か、旧校舎の倉庫に園芸用品が残ってた気がするんですよ」
「あっ、私も覚えてる! 昔、園芸部が使ってた倉庫だよね?」
「そうです。まだ残ってればいいんですけど」
「じゃあ、早速行ってみよう!」
勢いよく立ち上がったユメに、ホシノが慌てて声を上げた。
「ちょ、ちょっと待ってください! まだ午前中の仕事が終わってませんよ!」
「えっ」
「昨日の調査報告書もまとめないといけませんし、先月の経費報告書だって……」
「うぅ……」
ユメはしゅんと肩を落とした。
そんな彼女を見て、朔は小さく笑う。
「……ユメ先輩、まずは仕事を片付けましょう。倉庫は逃げませんから」
「……はーい」
こうして、アビドス生徒会の一日は、いつも通りの賑やかさとともに始まった。
◇
昼休みを迎えた頃、三人は旧校舎へ向かっていた。
現在のアビドス高等学校では、使用されている校舎がごく一部に限られている。生徒数の減少によって閉鎖された建物も多く、昔は教室として利用されていた場所のほとんどが、今では物置同然の状態になっていた。
中でも旧校舎の一階は砂の侵入が激しく、廊下の隅には小さな砂丘のようなものまでできている。
「……うわ、ひっでえな」
朔は足元の砂を避けながら、思わず顔をしかめた。
「こんなに積もってたっけ、ここ」
「しばらく誰も来てなかったからね。前に見回りした時より酷くなってる」
「……こりゃ、掃除するだけでも一苦労だな」
朔とホシノがそんな会話を交わしていると、先頭を歩いていたユメが不意に足を止めた。
「……あっ」
「どうしました、ユメ先輩?」
「ここ、覚えてる?」
彼女が指差したのは、廊下の奥にある小さな中庭だった。
校舎に囲まれたその場所には、かつて花壇として利用されていたらしい区画が残っている。しかし、今ではそのほとんどが砂に覆われ、植物の姿はどこにも見当たらなかった。
「……ああ、ここですか」
「うん! 昔はここにもお花が咲いてたんだよ!」
「……そういえば、そうでしたね」
朔は中庭へ視線を向けながら、遠い記憶を辿った。
まだ自分たちが幼かった頃、アビドスの街には今よりも多くの人々が暮らしていた。
学校周辺にも商店や住宅が立ち並び、休日になれば近所の子供たちが集まって遊んでいたものだ。
朔とホシノも、そんな子供たちの一人だった。
学校の近くで遊んでは砂まみれになって帰り、時には危険な場所へ入り込んで大人たちに叱られることもあった。特にホシノは昔から負けず嫌いなところがあり、朔が何かに挑戦すると、決まって自分もやると言い出したものだった。
もっとも、それは朔の方も同じだったのだが。
「……懐かしいな」
「何が?」
「いや、昔のこと思い出してさ。お前、ここら辺で転んだことなかったっけ?」
「……は?」
「ほら、確か小さい頃。俺と一緒に走ってて、派手にすっ転んだことがあっただろ」
「……そんなことあった?」
「あったあった。結構泣いてたぞ、お前」
「……朔」
「ん?」
「それ、私じゃなくてあんたでしょ」
「……え?」
「私を追いかけて転んで、膝を擦りむいて泣いてたの。忘れたの?」
「…………」
朔はしばらく考え込んだ。
そして、ぼんやりと記憶が蘇ってくる。
確かに、幼い頃に転んで膝を擦りむいたことがあった。
しかも、その時ホシノに随分とからかわれたような気がする。
「……あー、そうだったかもしれない」
「でしょ?」
「……よく覚えてんな、そんな昔のこと」
「あんたが忘れっぽいだけ」
「いや、流石にそこまで昔のことは覚えてないって……」
何とも言えない表情を浮かべる朔に、ホシノは少しだけ得意げな笑みを見せた。
そんな二人を眺めていたユメが、不意に楽しそうな声を上げる。
「ふふっ、二人とも本当に小さい頃から一緒なんだね」
「まあ、そうですね。気づいた時には隣にいましたし」
「……何よ、その言い方」
「いや、事実だろ?」
「それはそうだけど……」
ホシノは少しだけ不満そうに口を尖らせたものの、それ以上は何も言わなかった。
朔にとってホシノが当たり前の存在であるように、ホシノにとっても朔は当たり前の存在だった。
特別な約束を交わしたわけでもなければ、何か大きな出来事があったわけでもない。ただ、幼い頃から一緒に遊び、喧嘩をして、仲直りをして、気づけば同じ学校へ通うようになっていた。
そんな関係だった。
「……さて、思い出話はこのくらいにして」
朔は中庭から視線を外し、廊下の奥にある倉庫へ向き直った。
「とりあえず、使えそうなものが残ってるか確認しますか」
「うん!」
「……変なものまで持ち出さないでよね」
「分かってるって」
そう答えながら、朔は倉庫の扉へ手を伸ばした。
しかし、その直後。
「……ん?」
扉が動かない。
もう一度力を込めてみるものの、やはり開く気配はなかった。
「……鍵、かかってるな」
「えっ?」
「……まさか」
ホシノは嫌な予感がしたのか、ゆっくりとユメへ視線を向けた。
「……ユメ先輩」
「な、なあに?」
「鍵は?」
「…………」
「……先輩?」
「……えへへ」
「……またですか!?」
旧校舎に、ホシノの声が響き渡った。
◇
結局、倉庫の鍵は旧生徒会室の引き出しから見つかった。
管理記録の整理が追いついていなかったらしく、現在の鍵の保管場所を知っている者は誰もいなかったのだ。
もっとも、鍵を探すために校舎を往復する羽目になったホシノは、相当不満そうだったが。
「……まったく、先輩はもう少し物の管理をしっかりしてください」
「ご、ごめんね、ホシノちゃん……」
「大体、こういうことが多すぎるんです。前にも書類を探して半日潰したことがありましたよね?」
「うぅ……」
「まあまあ、ホシノ。見つかったんだからいいだろ」
「朔、あんたも少しは反省しなさいよ!」
「……何で俺まで?」
「あんたが毎回、先輩を甘やかすからでしょ!」
「いや、理不尽すぎない?」
そんなやり取りを繰り広げながら、三人はようやく倉庫の中へ足を踏み入れた。
扉を開けた瞬間、長年溜まっていた埃が舞い上がり、朔は思わず口元を腕で覆う。室内には古びた棚や段ボールが所狭しと並べられており、壁際には壊れた机や椅子まで積み上げられていた。
「……うわぁ、すごいね……」
「先輩、感心してる場合じゃないですよ」
「……これ、探すだけでも結構かかりそうだな」
朔は室内を見回しながら、近くにあった段ボールの中身を確認した。
古い教科書、壊れた文房具、使われなくなった部活動の備品。
どれも長い間放置されていたらしく、埃を払わなければ中身すら確認できない状態だった。
「……お、これか?」
しばらく探していると、朔は棚の下から小さな植木鉢を見つけた。
表面には細かな汚れが付着しているものの、目立ったひび割れはなく、まだ十分に使えそうだった。
「ユメ先輩、これどうです?」
「わぁ! いいね!」
「……まあ、鉢植えとして使う分には問題なさそうですね」
ホシノも近づいて確認すると、小さく頷いた。
「ただ、土はどうするの?」
「それなんだけど……」
朔は周囲を見回し、棚の奥に置かれた袋へ視線を向けた。
そこには、園芸用の土と書かれた袋が幾つか積まれている。
「……あった」
「えっ、本当!?」
「はい。まあ、状態は確認しないといけませんけど、使えそうなものが残ってますね」
「やったぁ!」
ユメは嬉しそうに両手を上げた。
その姿を見て、朔も少しだけ笑みを浮かべる。
大したことではない。
古びた植木鉢と、使われなくなった園芸用品を見つけただけだ。
けれど、ユメにとっては、それだけでも十分に嬉しい出来事だったらしい。
「……よかったですね、先輩」
「うん! 二人ともありがとう!」
「……まだ花が咲いたわけじゃありませんよ」
ホシノはそう言いながらも、どこか安心したような表情を浮かべていた。
少なくとも、今回の計画は大きな費用をかけずに始められそうだった。
それだけでも、今のアビドスにとっては十分な成果と言えるだろう。
◇
放課後。
三人は生徒会室の窓際に、小さな植木鉢を置いていた。
倉庫から持ち出した鉢は丁寧に洗われ、古い土も状態を確認した上で入れ替えられている。ユメが持ってきた花の種は、その中央にそっと植えられ、最後に少量の水が注がれた。
「……これでいいのかな?」
「とりあえずは。あとは水をやりすぎないようにして、様子を見ましょう」
「うん!」
ユメは嬉しそうに頷くと、植木鉢の前にしゃがみ込んだ。
まだ何も生えていない土を、まるで既に花が咲いているかのような表情で見つめている。
「……楽しみだなぁ」
「……そんなに嬉しいですか?」
「うん!」
ユメは迷うことなく答えた。
「だって、昨日約束したばかりなのに、もう一歩進めたんだよ?」
「……まあ、そうですね」
「いつか校庭いっぱいにお花が咲いたら、きっとすごく綺麗だと思うんだ。ホシノちゃんも朔くんも、そう思わない?」
そう尋ねられた朔は、窓の外へ視線を向けた。
そこに広がっているのは、砂に覆われた校庭だった。
かつては多くの生徒たちが走り回っていたであろう場所も、今では人影一つなく、風が吹くたびに細かな砂埃が舞い上がるだけである。
そんな場所に、再び花が咲く日が来るのだろうか。
正直なところ、想像するのは難しかった。
それでも。
「……そうですね。綺麗だと思いますよ」
「えへへ、でしょ?」
嬉しそうに笑うユメを見て、朔も小さく微笑んだ。
一方、ホシノは窓際に置かれた植木鉢を眺めながら、何かを考えているようだった。
「……ユメ先輩」
「ん?」
「花が咲くまでは、まだ時間がかかりますよ。それに、必ず芽が出るとも限りません」
「うん、分かってるよ」
「……だったら」
「でもね、ホシノちゃん」
ユメはそこで一度言葉を区切ると、優しく微笑んだ。
「何もしなかったら、絶対に咲かないでしょ?」
「……」
「だから、まずは植えてみようって思ったんだ。もちろん、上手くいかないかもしれないけど……それでも、何もせずに諦めちゃうよりはいいかなって」
その言葉を聞いたホシノは、しばらく黙り込んでいた。
何もせずに諦めるよりは、まず行動してみる。
それは、ユメがいつも口にしている考え方だった。
そして同時に、ホシノが最も危ういと感じている部分でもある。
何かを始めること自体は悪くない。
しかし、結果を考えずに行動すれば、取り返しのつかない事態を招くこともある。
今のアビドスに必要なのは、夢を見ることよりも、確実に学校を存続させるための現実的な手段なのではないか。
ホシノは、そう考えていた。
「……先輩は、いつもそうですね」
「えっ?」
「どんなに難しいことでも、すぐにできるって言うんですから」
「……えへへ、そうかな?」
「そうですよ。もう少し、現実的に考えてください」
「うぅ……」
少しだけ困ったように笑うユメを見て、ホシノはため息をついた。
そのやり取りを眺めていた朔は、二人の間に流れる空気がわずかに変わったことに気づいていた。
ユメは夢を語る。
ホシノは現実を見る。
二人ともアビドスを大切に思っていることに違いはないのだが、その考え方は時折、真正面からぶつかってしまう。
そして、どちらの言い分にも一理あるからこそ、簡単に答えを出すことはできなかった。
「……まあ、今回はいいんじゃないか?」
朔が口を開くと、ホシノが振り向いた。
「……朔?」
「花を育てるくらいなら、そこまで無茶な話でもないだろ。使えるものは学校に残ってたし、大した費用もかかってない」
「……それはそうだけど」
「それに、ユメ先輩の言うことも分かるよ。何も始めなければ、何も変わらないっていうのは事実だしな」
朔はそう言ってから、ユメへ視線を向けた。
「ただし、先輩。これから何か新しいことを始める時は、ちゃんと俺たちにも相談してくださいね」
「……え?」
「一人で全部やろうとしなくていいんですよ。できるかどうか、一緒に考えればいいんですから」
「……朔くん」
「それに、無茶して倒れられたら困りますしね。昨日みたいに徹夜するのも、できれば勘弁してほしいところです」
「うっ……」
図星を突かれたユメが、気まずそうに視線を逸らす。
その様子に、ホシノも思わず小さく笑ってしまった。
「……そこは朔の言う通りですね」
「ホ、ホシノちゃんまで……」
「少なくとも、私たちに黙って無茶するのはやめてください。先輩一人の問題じゃないんですから」
「……うん」
ユメは二人の顔を交互に見つめると、やがて穏やかに微笑んだ。
「……ありがとう、二人とも」
その声は、いつもの元気な調子とは少し違っていた。
何かを誤魔化すための笑顔でも、場を明るくするための冗談でもない。
心から安心したような、そんな表情だった。
◇
夕方になり、ホシノは先に生徒会室を出ていった。
明日の授業で使う資料を取りに行くとのことだったが、どうやらそのついでに校舎の見回りも済ませてくるつもりらしい。
部屋に残された朔は、机の上に広げられた書類を整理していた。
旧給水施設の調査記録。
学校の維持費に関する報告書。
そして、今月分の返済予定が記載された書類。
朔はその一枚を手に取ると、小さく眉を寄せた。
「……相変わらず、えげつないな」
学校が抱える負債は、決して少なくない。
毎月の返済だけでも相当な負担になっており、学園の運営費は常に不足している状態だった。
それでも、返済を止めるわけにはいかない。
学校を存続させるためには、どこかで必ずこの問題と向き合わなければならないのだ。
「……朔くん?」
不意に声をかけられ、朔は顔を上げた。
そこには、先ほどまで窓際の植木鉢を眺めていたユメが立っていた。
「……ああ、ユメ先輩。どうしました?」
「ううん、何か難しい顔してるなぁって思って」
「……そんな顔してました?」
「うん。ホシノちゃんとそっくりだったよ?」
「……それは褒められてるんですかね」
「えへへ、どうだろう?」
ユメは楽しそうに笑うと、朔の隣へ腰を下ろした。
そして、机の上に置かれた書類へ視線を向ける。
「……返済の書類?」
「はい。今月分の確認をしてたところです」
「……そっか」
その返答を聞いたユメは、少しだけ表情を曇らせた。
朔はその変化を見逃さなかった。
「……ユメ先輩」
「ん?」
「無理してません?」
「……え?」
「いや、最近色々頑張ってるのは知ってますけど……ちゃんと休めてるのかなって」
朔はそう言ってから、手元の書類を机へ戻した。
「昨日も徹夜してたみたいですし、あんまり無茶しないでくださいよ」
「……うん」
ユメは小さく頷いた。
しかし、その表情はどこか浮かないものだった。
朔はしばらく黙って彼女を見つめていたが、やがて静かに口を開く。
「……何か、心配事でもあるんですか?」
「……」
「俺でよければ聞きますよ」
その言葉に、ユメは少しだけ目を見開いた。
それから、困ったように微笑む。
「……朔くんって、優しいね」
「……そうですか?」
「うん。ホシノちゃんもそうだけど、二人とも私のことを心配してくれるから」
「まあ、先輩が無茶するからっていうのもありますけどね」
「えへへ……それは否定できないかな」
ユメは小さく笑うと、窓の外へ視線を向けた。
夕日に照らされた校庭には、今日も変わらず砂が広がっている。
「……ねえ、朔くん」
「はい?」
「私ね、時々考えるんだ」
その声は、普段よりもずっと静かだった。
「もし、この学校がなくなっちゃったらどうしようって」
「……」
「みんながいなくなって、街もどんどん砂に埋もれていって……いつか、本当にアビドスがなくなっちゃうんじゃないかなって」
ユメはそう言ってから、少しだけ俯いた。
「……怖いんだよね、やっぱり」
その言葉を聞いた朔は、何も言えなかった。
普段のユメは、いつも笑っている。
どれほど絶望的な状況でも前向きな言葉を口にし、周囲の人々を励ましながら、何とか学校を守ろうと奔走している。
そんな彼女が、弱音を吐くところなど滅多に見たことがなかった。
けれど、考えてみれば当然のことだった。
ユメもまた、一人の生徒なのだから。
どれほど明るく振る舞っていても、不安を感じないわけがない。
「……でもね」
ユメは顔を上げると、少しだけ笑った。
「それでも、私は諦めたくないんだ」
「……」
「だって、この学校が好きだから。昔みたいに、またたくさんの生徒たちが笑って過ごせる場所にしたいから」
窓の外を見つめるその瞳には、先ほどまでの不安とは違う感情が宿っていた。
「……だから、頑張らなくちゃって思うんだ」
朔はしばらく黙っていた。
彼女の言葉を否定するつもりはない。
むしろ、そんなふうに思えること自体が凄いことだと感じていた。
現在のアビドスが置かれている状況は、決して楽観できるものではない。学校を維持するための資金は不足し、生徒数は減り続け、砂漠化を止める手段さえ見つかっていない。
そんな状況で、未来を信じ続けることがどれほど難しいか。
朔にも、それくらいは分かっていた。
「……ユメ先輩」
「ん?」
「俺は、先輩の夢が全部叶うとは思ってません」
「……え?」
突然の言葉に、ユメは少しだけ驚いたような顔をした。
しかし、朔は構わず続けた。
「正直、今のアビドスを昔みたいな街に戻すなんて、簡単な話じゃないです。俺たちがどれだけ頑張っても、どうにもならないことだってあると思います」
「……うん」
「でも、だからって最初から全部諦める必要もないでしょう」
朔はそう言って、窓際に置かれた植木鉢へ視線を向けた。
「今日だって、花の種を植えられたじゃないですか」
「……」
「大したことじゃないかもしれませんけど、昨日よりは一歩進んだと思いますよ」
その言葉を聞いたユメは、少しだけ目を細めた。
朔はそんな彼女へ視線を戻し、言葉を続ける。
「だから、焦らなくていいんじゃないですかね」
「……焦らなくて?」
「はい。先輩一人で全部背負う必要なんてないんですから」
そう言って、朔は小さく笑った。
「俺もホシノもいるんですし、もう少し頼ってくださいよ」
「……朔くん」
「まあ、頼られすぎても困りますけどね。俺だってできることには限界がありますし」
「……ふふっ」
ユメが小さく笑った。
そして、少しだけ目元を緩める。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
「……本当に、二人がいてくれてよかったなぁ」
その言葉に、朔は少しだけ気恥ずかしそうに頬を掻いた。
「……大袈裟ですよ」
「そんなことないよ?」
「……そうですかね」
「うん!」
ユメは嬉しそうに頷くと、再び窓際の植木鉢へ視線を向けた。
まだ何も生えていない、小さな土の入った鉢。
そこには、昨日三人で交わした約束の最初の一歩が眠っている。
「……早く芽が出るといいなぁ」
「そうですね」
「もし咲いたら、三人で写真撮ろうね!」
「……はい。楽しみにしてます」
朔がそう答えると、ユメは満面の笑みを浮かべた。
その笑顔を見ながら、朔は心の中で小さく息を吐く。
彼女の夢が、どこまで叶うのかは分からない。
それでも、少なくとも今は。
この人が笑っていられるように、できることをしていこう。
そんなふうに思った。
◇
「……それで?」
「……何が?」
夕暮れの帰り道。
校門へと続く通路を歩きながら、ホシノは隣にいる朔へ、何やら不満そうな視線を向けていた。
「ユメ先輩と何話してたの?」
「別に、大したことじゃないよ。学校のこととか、色々」
「……ふーん」
「何だよ、その反応」
「別に」
そう答えるホシノだったが、どう見ても何か言いたげだった。
朔はそんな彼女を横目に見ながら、少しだけ考える。
「……お前、何か怒ってる?」
「怒ってない」
「……本当に?」
「怒ってないってば」
「……そうか」
明らかに機嫌が悪そうだったが、本人が否定している以上、これ以上追及しても仕方がない。
朔がそう判断して歩き始めると、隣から小さなため息が聞こえてきた。
「……朔」
「ん?」
「あんたさ、ユメ先輩に甘すぎない?」
「……またその話かよ」
「だって、そうでしょ。先輩が何か言い出すたびに、結局付き合ってるじゃない」
「まあ、そうだな」
「……否定しないんだ」
「事実だからな」
朔はそう答えると、少しだけ空を見上げた。
夕日に照らされた空は赤く染まり、遠くの地平線では砂埃が薄い雲のように広がっている。
「……でも、別に何でもかんでも賛成してるわけじゃないぞ」
「……分かってる」
「無理なもんは無理って言うし、危ないことなら止める。そこはお前と同じつもりだよ」
「……」
「ただ、先輩が本気でやりたいって思ってることなら、できるだけ手伝ってやりたいとは思ってる」
その言葉を聞いたホシノは、しばらく黙り込んでいた。
やがて、ぽつりと呟く。
「……私だって、そうだよ」
「……ん?」
「私だって、ユメ先輩のことは大切に思ってる。だからこそ、無茶なことはしてほしくないの」
ホシノは足元へ視線を落とした。
「……先輩って、いつも自分のことは後回しにするでしょ」
「……そうだな」
「学校のためなら何でもしようとするし、誰かに頼まれたら断れないし……あのままじゃ、いつか本当に取り返しのつかないことになるんじゃないかって……」
そこで、ホシノは言葉を止めた。
自分でも、どうしてそこまで不安になるのか分からなかった。
ただ、ユメが何かを始めるたびに、胸の奥がざわつくことがある。
誰かを疑うことを知らず、どんな相手にも手を差し伸べようとする先輩。
そんな彼女を見ていると、時折どうしようもなく心配になってしまうのだ。
「……ホシノ」
朔は彼女へ視線を向けた。
「……分かるよ」
「……え?」
「俺だって心配してる。先輩が無茶するたびに、何かあったらどうするんだって思うしな」
「……だったら」
「だからこそ、俺たちがいるんじゃないのか?」
朔はそう言って、小さく肩をすくめた。
「先輩が突っ走りそうになったら、お前が止める。お前が一人で抱え込みそうになったら、俺が手伝う。逆に俺が何かやらかしたら、お前が叱ってくれればいい」
「……何よ、それ」
「いや、実際そうだろ?」
「……まあ、そうだけど」
「一人じゃ無理なことでも、三人なら何とかなるかもしれない。そういう話だよ」
その言葉を聞いたホシノは、少しだけ俯いた。
それから、ゆっくりと顔を上げる。
「……朔」
「ん?」
「……あんたって、時々変なこと言うよね」
「……は?」
「いや、別に悪い意味じゃないけど」
「……何だよ、それ」
朔が不満そうな顔をすると、ホシノは小さく笑った。
その表情は、先ほどまでの険しさが嘘のように柔らかかった。
「……まあ、でも」
「ん?」
「……そうかもね」
ホシノはそう呟くと、再び前を向いた。
そして、いつもより少しだけ軽い足取りで歩き始める。
「ほら、朔。早く帰るよ」
「……おい、ちょっと待てって」
「明日も仕事があるんだから、ちゃんと休みなさいよ」
「分かってるって。……ほんと、お前は昔から変わんねえな」
「何か言った?」
「いや、何でも」
そんな二人の声が、夕暮れの通学路に響いていた。
校舎の窓から漏れていた明かりが消え、やがてアビドス高等学校は、いつもの静寂に包まれていく。
誰もいなくなった生徒会室には、机の上に積まれた大量の書類と、窓際に置かれた小さな植木鉢だけが残されていた。
その土の中には、三人が今日植えたばかりの種が眠っている。
芽が出るかどうかは分からない。
無事に育つ保証もなければ、花が咲くまでには多くの時間が必要になるだろう。
それでも、昨日まで何もなかった場所に、今日は確かに一つの種が植えられた。
たったそれだけの、小さな変化。
けれど、梔子ユメにとっては、それこそが何よりも大切な一歩だった。
そして天城朔と小鳥遊ホシノもまた、そんな彼女の背中を追いかけながら、少しずつ前へ進もうとしていた。
三人で交わした約束が、いつか本当に叶うことを信じながら。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
今回は三人で花を育て始めるお話でした。
ユメ先輩の夢を応援する朔と、現実的な視点から支えるホシノ。二人とも考え方は違いますが、ユメ先輩を大切に思う気持ちは同じです。
しばらくは、そんな三人の何気ない日常や関係性を描いていきたいと思います。
感想や評価などいただけると嬉しいです!
それでは、また次回!