今回は、少しずつ余裕を失っていくホシノのお話です。
普段から真面目で責任感の強いホシノですが、やっぱり色々と思うところがあるわけで……。
そして、そんな幼馴染の変化に気づく朔。
三人の関係にも、少しずつ変化が訪れ始めます。
それでは、どうぞ!
アビドス高等学校の校門をくぐった時、天城朔は真っ先に、昇降口の前で箒を動かしている少女の姿に気がついた。
まだ朝の早い時間だというのに、小鳥遊ホシノは既に制服の袖をまくり、昨日の風で積もった砂を掃き集めている。彼女の足元には小さな砂の山が幾つもできていたが、風が吹くたびにその表面が崩れ、せっかく片付けた砂が再び地面へ広がっていた。
「……お前、朝から何やってんだ?」
声をかけると、ホシノは箒を動かす手を止め、少しだけ振り返った。
「ああ、朔。おはよう。見て分からない? 掃除してるんだけど」
「いや、それは見れば分かるって。そうじゃなくて、何で一人でやってんだよ」
「昨日の風で、また砂が入り込んでたの。放っておいたら昇降口まで埋まっちゃうでしょ」
「……まあ、そうだけどさ」
朔は校舎の入口へ視線を向けた。
そこには、昨夕に掃除したはずの床が薄く砂に覆われ、扉の隙間にも細かな砂粒が入り込んでいる。
アビドスでは珍しくもない光景だったが、それでも毎朝同じ作業を繰り返さなければならないというのは、なかなか気の滅入る話だった。
「……もう一本、箒あったよな?」
「そこの壁に立てかけてあるよ」
「おう。じゃあ、こっちやるわ」
朔は壁際の箒を手に取ると、ホシノから少し離れた場所で掃除を始めた。
しばらくの間、二人の間には箒が地面を擦る音だけが響いていた。
普段なら、こういう時こそ何かしらの会話が始まる。
ホシノが先に登校していた理由を朔がからかい、それに対して幼馴染が文句を言う。あるいは、昨日のユメ先輩の失敗について二人で苦笑することもある。
しかし、今日はどうにも違った。
ホシノは黙々と砂を掃き続けており、時折風が吹いて砂が舞い戻ってくるたびに、眉間へ皺を寄せている。
「……ったく、昨日も結構掃いたんだけどなぁ」
朔が何気なく愚痴を零すと、ホシノは箒を動かしたまま答えた。
「仕方ないでしょ。砂嵐はこっちの都合なんて考えてくれないんだから」
「まあ、そうだけどさ」
「それに、文句を言っても砂はなくならないよ。早く片付けちゃおう」
「……はいはい」
朔は苦笑しながら返事をした。
いつもなら、ここで一つくらい軽口を挟むところだったが、どうにもそんな雰囲気ではない。
別に、ホシノが怒っているわけではなさそうだった。
少なくとも、朔に対して何か不満があるようには見えない。
ただ、普段よりも明らかに余裕がなかった。
(……何だ? 今日のホシノ、妙にピリついてるな)
横目で幼馴染の様子を窺う。
ホシノは昔から真面目な少女だった。特に学校のことになると一切の妥協を許さず、朔やユメがいい加減なことをすれば容赦なく注意してくる。
しかし、その厳しさにはいつも、どこか年相応の感情があった。
呆れたり、怒ったり、時には笑ったり。
少なくとも、今のように無言で苛立ちを押し殺している姿は、あまり見慣れたものではない。
「……なあ、ホシノ」
「何?」
「昨日、ちゃんと寝たか?」
その問いに、ホシノの手が止まった。
「……寝たけど。それがどうかした?」
「いや、何か疲れてるように見えたから」
「別に疲れてないよ。……それより朔、そっちの砂、まだ残ってる」
「……お、おう」
朔は大人しく箒を動かした。
どうやら、今は余計なことを言わない方がよさそうだった。
◇
掃除を終え、生徒会室へ戻った二人を待っていたのは、相変わらずの書類の山だった。
もっとも、今日は少しばかり事情が違う。
机の中央に置かれた封筒には、学校が抱えている借入金の返済に関する通知が入っていた。
毎月のようにやってくる、見慣れた書類。
しかし、何度見ても気分のいいものではない。
「……またこれか」
朔が封筒を開くと、ホシノは自分の席へ腰を下ろした。
「昨日も届いてたよ。似たような内容のやつ」
「……ああ、返済期限の確認か」
「そう。何回も送ってこなくたって、忘れるわけないじゃない」
その言葉に、朔は小さく眉を上げた。
返済の通知が届くこと自体は珍しくないし、金を貸している側からすれば、期日までに支払ってもらわなければ困るのだろう。
しかし、ホシノが苛立つ理由も理解できた。
何度確認したところで、手元にある金額が増えるわけではない。
その事実だけは、どうしようもなかった。
「……まあ、向こうも仕事だからな」
「そんなこと分かってるよ」
ホシノは短く答えた。
「分かってるけど、だからって何度も同じこと言われても困るでしょ」
「……それもそうだな」
朔は小さく息を吐いた。
手元の書類を整理し、必要な項目を端末へ入力していく。
しばらくして、ホシノが小さく口を開いた。
「……朔」
「ん?」
「……ごめん。別にあんたに怒ってるわけじゃないから」
「……ああ、分かってるよ」
朔が答えると、ホシノは僅かに視線を逸らした。
その様子を見て、少しだけ安心する。
少なくとも、本人も自分の様子が普段と違うことには気づいているらしい。
しかし、どうしてそこまで余裕がなくなっているのか。
その理由までは、まだ分からなかった。
そんな時だった。
「おっはよー! 二人とも!」
聞き慣れた明るい声とともに、生徒会室の扉が開かれた。
梔子ユメである。
彼女はいつものように笑顔を浮かべながら部屋へ入ってくると、机に向かっている二人へ元気よく手を振った。
「おはようございます、ユメ先輩」
「おはようございます」
「えへへ、おはよう! 二人とも、もうお仕事してたんだね!」
「はい。今日はちょっと確認する書類が多いので」
朔が答えると、ユメは机に積まれた資料へ視線を向けた。
「あっ……また返済の通知?」
「ええ。今月分の確認ですね」
「そっかぁ……」
ユメは少しだけ困ったように笑った。
しかし、すぐに鞄の中から一冊の古い冊子を取り出す。
「あ、そうだ! 二人とも、昨日の資料なんだけどね!」
「……資料?」
朔が顔を上げる。
「うん! 昔の学校行事の記録!」
その言葉を聞き、朔は昨日の書庫整理を思い出した。
給水施設の調査を終えた後、三人で古い資料を整理していた際、ユメは昔のアビドスで開催されていた祭りの記録を見つけていた。
確か、アビドス砂祭りという名前だったはずだ。
「……ああ、昨日の砂祭りの話ですか?」
「そうそう! 朔くん、覚えてたんだ!」
「まあ、昨日も結構嬉しそうに話してましたからね」
「えへへ、そうだったかな?」
ユメは照れくさそうに笑いながら、冊子を開いた。
そこには、かつてのアビドス自治区で開催されていた祭りの様子が、写真とともに記録されている。
青く広がるオアシス。
その周囲に集まる大勢の人々。
今ではすっかり姿を消してしまった、かつてのアビドスの賑わい。
「ほら、この写真! すっごく綺麗でしょ?」
「……へえ」
朔は少しだけ身を乗り出した。
写真に写っているのは、現在では砂に覆われてしまった街の中心部だった。
幼い頃からアビドスで暮らしてきた朔にとっても、これほど豊かな水辺の景色は見覚えがない。
「……こんなに大きなオアシスがあったんですね」
「うん! 昔は毎年、ここで大きなお祭りをやってたみたい!」
嬉しそうに説明するユメ。
そんな彼女の隣から、不意に声が上がった。
「……ユメ先輩」
「ん?」
「その話、後でもいいですか?」
ホシノだった。
彼女は手元の書類から顔を上げると、机の中央に置かれた返済通知を指差した。
「今は先に、こっちの書類を確認してください。今日中に終わらせないといけないものもありますから」
「……あっ」
ユメは慌てて机の上へ視線を向けた。
「そ、そうだね! ごめんね、ホシノちゃん!」
「……いえ」
短い返答。
ユメは冊子を閉じると、自分の席へ向かった。
その姿を眺めながら、朔は小さく眉を寄せた。
ホシノの言っていることは正しい。
今は学校の仕事を優先するべきだし、昔の祭りについて調べるのは、余裕がある時でも構わない。
ただ、普段のホシノなら、もう少し違った言い方をするはずだった。
例えば、呆れたようにため息をつきながら、仕事が終わってからにしてくださいと注意する。
ユメが慌てて謝れば、もう、と文句を言いながらも話はそこで終わる。
けれど、今日は違った。
必要なことだけを告げ、それ以上は何も言わない。
その態度が、かえって彼女の余裕のなさを感じさせた。
(……やっぱり、何かあったのか?)
朔はホシノの横顔を見つめた。
しかし、彼女は既に書類へ意識を戻している。
その様子を見て、朔もまた自分の仕事へ向き直った。
◇
午前中の仕事が一段落した頃、生徒会室に一本の電話が入った。
相手は、以前から学校へ設備用の部品を納入している業者だった。
今回の連絡は、先月購入した備品の支払いが確認できていないというものらしい。
「……えっ?」
電話を受けたユメが、少しだけ驚いたような声を漏らした。
「でも、その分はもうお支払いしたはずなんですけど……」
朔は手元の書類から顔を上げた。
隣にいたホシノも、すぐに反応する。
「……何の話ですか?」
小さく尋ねるホシノへ、朔は首を横へ振った。
「まだ分からない。ちょっと待ってくれ」
ユメは相手としばらく話した後、困ったような表情を浮かべた。
「……はい。確認して、折り返しご連絡しますね」
そう言って電話を切る。
そして、二人へ向き直った。
「……えっとね、先月の備品代がまだ支払われてないって……」
「……は?」
ホシノの声が、少しだけ低くなった。
「……先月の備品代って、校舎の補修に使った部品のことですか?」
「うん、そうみたい」
「それなら、もう支払ったはずですよ。私が確認しましたから」
「……そうだよね」
ユメは少しだけ困ったように笑った。
「でも、向こうの記録ではまだ入金されてないみたいで……」
「……っ」
ホシノの眉がぴくりと動いた。
朔はその様子を横目で確認しながら、端末を操作した。
「……ちょっと待ってください。確か、支払いの控えを保存してたはずです」
そう言って、会計記録の一覧を開く。
該当する取引を探していくと、すぐに目的のものが見つかった。
「ああ、ありました。ほら、ここ」
朔が画面を差し出すと、ホシノはすぐに確認した。
「……やっぱり。ちゃんと振り込んでるじゃない」
「そうだな。ただ、向こうの請求番号と、こっちで保存してる番号が微妙に違う」
「……え?」
「多分、管理番号の更新が反映されてないんじゃないか? ほら、古い番号のままになってる」
朔は二つの記録を見比べながら説明した。
どうやら、業者側が請求書を更新した際、以前の管理番号が残ってしまっていたらしい。そのため、学校からの入金が別の取引として扱われ、未払いのままになっている可能性があった。
「……これなら、控えを送れば確認できると思います」
「……そうなの?」
「はい。とりあえず、俺から連絡してみますね」
朔は必要な資料をまとめると、業者へ折り返し連絡した。
事情を説明し、支払いの控えを送付すると、相手はしばらく記録を確認していた。
そして、数分後。
「……はい。こちらでも確認できました」
朔は端末を耳に当てたまま頷いた。
「……そうですか。それならよかったです」
相手から謝罪の言葉が返ってくる。
どうやら、予想していた通り、業者側の処理に問題があったらしい。
「いえ、問題が解決したなら大丈夫です。では、失礼します」
通信を終え、朔は端末を机へ置いた。
「……よし、解決しましたよ」
「……本当!?」
ユメがぱっと顔を上げた。
「はい。向こうの処理ミスだったみたいです。支払いもちゃんと確認できたそうですよ」
「よかったぁ……!」
ユメは大きく胸を撫で下ろした。
その隣で、ホシノも小さく息を吐く。
「……まったく、何なんですか」
低い声だった。
「……ホシノ?」
ユメが首を傾げる。
しかし、ホシノは机の上に置かれた書類を睨みつけたまま、言葉を続けた。
「こっちはちゃんと支払ってるのに、確認もせずに未払いだなんて……。こういう連絡が来るたびに、どれだけ手間がかかると思ってるんですか」
「……まあ、確かにな」
朔も頷いた。
今回の問題は、幸い簡単に解決することができた。
しかし、ただでさえ仕事の多い生徒会にとって、こうした確認作業は決して小さな負担ではない。
ましてや、学校の財政状況が厳しい現在では、支払いの行き違い一つでも大きな問題になりかねなかった。
「……でも、ちゃんと分かってもらえてよかったね!」
ユメが少しだけ明るい声で言った。
「向こうも大変だったのかもしれないし、これから気をつけてもらえれば――」
「……ユメ先輩」
ホシノが口を開いた。
その声に、朔は思わず顔を向ける。
「……何ですか?」
「……えっ?」
「今の話、ちゃんと聞いてました?」
ユメは戸惑ったように目を瞬かせた。
「……う、うん」
「だったら、どうしてそんなに簡単に済ませようとするんですか?」
「……ホシノちゃん?」
「今回は朔が確認してくれたからよかったですけど、もし控えが残ってなかったらどうするつもりだったんですか? また同じ金額を払わされるところだったかもしれないんですよ?」
ホシノの声が、少しだけ強くなる。
ユメは困ったように眉を下げた。
「……そ、そうだね。ごめんね」
「……先輩が謝ることじゃないでしょう」
「……え?」
「悪いのは向こうなんですから。先輩まで謝ってどうするんですか」
その言葉に、ユメは何も答えられなかった。
朔は思わず眉を寄せた。
ホシノの言い分は間違っていない。
今回の件で学校に非はなかったし、相手のミスによって余計な仕事が増えたのも事実だ。
けれど。
「……ホシノ、その辺でいいだろ」
朔が静かに声をかけた。
すると、ホシノは勢いよく振り向いた。
「……何?」
「もう解決したんだしさ。これ以上、先輩に言っても仕方ないだろ」
「……っ」
ホシノは何か言いかけた。
しかし、すぐに口を閉じる。
それから、少しだけ視線を逸らした。
「……分かってるよ」
短い返答だった。
そして、そのまま自分の席へ戻っていく。
朔はそんな幼馴染の後ろ姿を見つめながら、小さく息を吐いた。
(……今日は、本当に余裕がないな)
先ほどのホシノは、普段ならそこまで強く言わないような場面で、明らかに感情を表に出していた。
彼女が厳しいことを言うのは珍しくない。
しかし、その厳しさにはいつも理由があり、相手を必要以上に責めるようなことはあまりしない。
少なくとも、ユメ先輩に対しては。
もちろん、これまでも喧嘩になりかけたことはあるし、先輩の失敗に本気で怒ったことだって何度もある。
それでも、今日のホシノは何かが違った。
まるで、胸の奥に溜まっていたものが、ちょっとしたきっかけで零れ出してしまうような。
そんな危うさがあった。
◇
昼休み。
朔は生徒会室の窓際に腰を下ろし、持参した昼食を取り出していた。
ユメは少し前に購買へ向かっており、現在室内に残っているのは朔とホシノの二人だけである。
「……なあ、ホシノ」
「……何?」
「飯、食わないのか?」
「後で食べる。今、ちょっと確認したいことがあるから」
ホシノは机の上に広げた書類へ視線を落としたまま答えた。
しかし、その言葉を聞いた朔は、少しだけ眉を寄せる。
「……お前、朝からずっと働いてるだろ。少しくらい休んだらどうだ?」
「……朔」
「ん?」
「今はいいから」
また、短い返答。
朔は思わず小さく息を吐いた。
そして、自分の昼食から一つ取り出すと、ホシノの机へ置いた。
「……ほら」
「……何これ?」
「おにぎり。余分に持ってきたから、一個やるよ」
「……別に、そこまでしなくても」
「腹減ってると、余計にイライラするだろ」
何気なく口にした言葉だった。
しかし、ホシノの手が止まった。
「……それ、どういう意味?」
「……ん?」
「私がイライラしてるって言いたいの?」
その声に、朔は少しだけ目を瞬かせた。
そして、幼馴染の表情を見て、小さく息を吐く。
「……まあ、そうだな」
「……っ」
「今日のお前、明らかにいつもと違うぞ」
朔は正直に答えた。
ホシノは何か言い返そうとしたようだったが、結局は口を閉じる。
そして、ゆっくりと視線を落とした。
「……そう」
「……ああ」
短い沈黙。
朔はしばらく彼女の様子を見ていたが、やがて少しだけ声を和らげた。
「……何かあったのか?」
その問いに、ホシノはすぐには答えなかった。
ただ、机の上に置かれた書類を見つめている。
やがて、小さく口を開いた。
「……別に、何か一つあったわけじゃないよ」
「……そうなのか?」
「……うん」
ホシノは小さく頷いた。
そして、ゆっくりと言葉を続ける。
「……ただ、最近ちょっと……腹が立つことが多くて」
「……」
「学校の借金もそうだし、砂漠化だって止まらない。何をやっても問題ばっかり増えて、こっちは毎日必死なのに……」
そこで、彼女は言葉を止めた。
朔は黙って続きを待った。
「……何で、こんなことになっちゃったんだろうね」
その声は、普段よりもずっと小さかった。
ホシノはゆっくりと息を吐き、椅子の背もたれへ身体を預けた。
「……昔は、もう少し何とかなりそうな気がしてたんだよ」
「……ああ」
「学校の問題も、街のことも。頑張れば少しずつよくなるんじゃないかって」
ホシノは小さく苦笑した。
「……でも、全然そんなことないじゃない」
その言葉に、朔は何も答えられなかった。
彼女の言うことは、紛れもない事実だった。
学校のために時間を費やし、できることを探し、実際に行動してきた。
それでも、アビドスの状況はほとんど変わっていない。
それどころか、街から人がいなくなり、学校の維持費が増え、借金の返済が重くのしかかってくる。
そうした現実を前に、ホシノが苛立ちを覚えるのも無理はなかった。
「……なあ、ホシノ」
「……何?」
「……お前、最近ちょっと頑張りすぎじゃないか?」
朔がそう尋ねると、ホシノは少しだけ眉を寄せた。
「……頑張らなきゃいけないでしょ」
「……まあ、そうだけど」
「誰かがやらないと、学校はもっと大変になるんだから」
その言葉には、強い意思があった。
しかし、同時に、どこか追い詰められたような響きも含まれている。
「……分かってるよ」
朔は静かに頷いた。
「俺だって、学校のために何かしたいと思ってるしさ」
「……」
「でも、だからって全部お前一人で何とかする必要はないだろ」
その言葉に、ホシノは少しだけ目を見開いた。
そして、ゆっくりと息を吐く。
「……朔」
「ん?」
「……あんた、前にも同じこと言ってたよね」
「……そうだったか?」
「言ってたよ。ユメ先輩と一緒に、何回も」
ホシノは少しだけ困ったように笑った。
「……でもさ」
「……ああ」
「……三人で頑張っても、どうにもならないことってあるんだね」
その言葉に、朔は何も答えられなかった。
励まそうと思えば、いくらでも言葉は出てくる。
大丈夫。
何とかなる。
諦めるな。
しかし、今のホシノが欲しいのは、そんな言葉ではないのだろう。
学校を守るための具体的な方法。
今の状況を変えるための、確かな答え。
そして、それを朔は持っていなかった。
「……そうだな」
朔は静かに頷いた。
「……正直、俺にもどうすればいいのか分からないことはあるよ」
「……」
「でも、だからってお前だけに背負わせる気はない。それだけは本当だ」
その言葉を聞いたホシノは、しばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……ほんと、あんたって」
「……何だよ」
「……昔から、そういうところ変わらないね」
ホシノは少しだけ笑った。
その笑顔は、ようやく普段の彼女に近いものだった。
しかし、すぐに表情を戻すと、机の上に置かれたおにぎりへ視線を向ける。
「……これ、貰っていいの?」
「そのために置いたんだよ」
「……そっか」
ホシノは小さく頷いた。
そして、おにぎりを手に取る。
「……ありがと、朔」
「どういたしまして」
朔は小さく笑った。
そんな二人の間に、ようやく少しだけ穏やかな空気が戻ってきた。
◇
午後の仕事は、午前中と比べれば随分と順調だった。
先ほど問題になっていた備品代の支払いについても正式に確認が取れ、返済関係の書類も一通り整理することができた。
ユメも今日は珍しく集中して仕事に取り組んでおり、普段なら何度かホシノに注意されるところを、ほとんど何も言われずに済んでいた。
もっとも、それを本人が喜んでいいのかどうかは、少しばかり微妙なところだったが。
「……よーし!」
ユメは最後の書類を机へ置くと、嬉しそうに両手を上げた。
「終わったぁ!」
「……お疲れ様です、ユメ先輩」
朔が声をかけると、ユメは満面の笑みを浮かべた。
「えへへ、今日はちゃんと全部終わらせたよ!」
「……それが普通なんですけどね」
ホシノが呆れたように答える。
しかし、その口調は午前中よりも幾分か落ち着いていた。
「うぅ、ホシノちゃん厳しい……」
「当たり前です。先輩は生徒会長なんですから」
「……はーい」
しゅんと肩を落とすユメを見て、朔は思わず笑ってしまった。
「……まあまあ、ホシノ。今日はちゃんと終わったんだから、褒めてやってもいいだろ」
「……朔、あんたはちょっと甘すぎる」
「そうか?」
「そうだよ」
ホシノは小さく息を吐いた。
しかし、その口元には僅かな笑みが浮かんでいる。
その表情を見て、朔も少しだけ安心した。
(……少しは落ち着いたか)
少なくとも、朝のように張り詰めた雰囲気ではなくなっていた。
ただ、その変化が一時的なものなのか、それとも本当に気持ちが軽くなったのかまでは、まだ分からない。
「……あっ、そうだ!」
不意に、ユメが声を上げた。
「……どうしました、ユメ先輩?」
「えっとね、朝の砂祭りの資料なんだけど……」
その言葉を聞いた瞬間、朔は思わずホシノへ視線を向けた。
ホシノの手が、ぴたりと止まる。
しかし、今度はすぐに何かを言うことはなかった。
「……実は、昔の写真が他にも残ってるみたいなんだ」
ユメは少しだけ遠慮がちに続けた。
「もし時間があったら、今度一緒に見てみない?」
その問いに、朔は少しだけ考え込んだ。
学校の仕事が終わった以上、古い資料を確認すること自体に問題はないだろう。
昔のアビドスについて知ることにも、興味があった。
「……いいですね。俺もちょっと気になります」
「本当!?」
「はい。ただ、今日はもう遅いですし、また今度にしましょう」
「うん!」
ユメは嬉しそうに頷いた。
そして、ホシノへ視線を向ける。
「ホシノちゃんも、どうかな?」
「…………」
ホシノは一瞬だけ黙った。
それから、小さく息を吐く。
「……仕事が終わってるなら、別に構いませんよ」
「……本当!?」
「ただし、資料を調べるだけですからね。お金を使うようなことは、ちゃんと相談してください」
「うん、分かった!」
ユメは満面の笑みを浮かべた。
その姿を見て、朔も小さく笑った。
しかし、ホシノの表情には、まだ僅かな硬さが残っていた。
昔のアビドスがどれほど賑やかだったのか。
どれほど多くの人々が暮らしていたのか。
そんなことを知ったところで、今の学校が抱えている問題が解決するわけではない。
それは、ホシノ自身が誰よりも理解していることだった。
だからこそ。
昔のことを楽しそうに語るユメを見るたびに、胸の奥へ小さな苛立ちが生まれてしまう。
その感情が決して先輩への嫌悪ではないことも、彼女自身には分かっていた。
ただ、どうしても。
今の現実を前にして、そんなふうに笑っていられることが、不思議で仕方なかった。
◇
夕方。
三人は生徒会室の片付けを終え、いつものように帰り支度を始めていた。
窓の外には茜色の空が広がり、砂に覆われた校庭には長い影が伸びている。
「……ふぅ」
朔は端末を閉じると、椅子の背もたれへ身体を預けた。
「……やっと終わったな」
「……そうね」
隣からホシノが答える。
その声は、朝よりもずっと落ち着いていた。
「……今日は、ちょっと疲れたかも」
「そりゃそうだろ。朝からずっと働いてたんだから」
「……朔だって、途中で休んだ方がよかったんじゃない?」
「俺はちゃんと休憩しただろ。お前と違ってな」
「……もう、そういうところ」
ホシノは小さく笑った。
その姿を見て、朔も自然と口元を緩める。
しかし、その時だった。
「あっ、二人とも!」
ユメが嬉しそうに声を上げた。
「見て見て! お花、また少し大きくなってるよ!」
窓際に置かれた植木鉢。
そこには、数日前に芽を出したマリーゴールドが、小さな葉を広げていた。
まだ花が咲くには程遠いものの、確かに少しずつ成長している。
「……おお、本当ですね」
朔が覗き込むと、ユメは嬉しそうに頷いた。
「えへへ、ちゃんと育ってるんだね!」
「そうですね。毎日世話してる甲斐がありましたね」
「うん!」
ユメは満面の笑みを浮かべた。
その隣で、ホシノも植木鉢へ視線を向ける。
「……ユメ先輩」
「ん?」
「水、あげすぎないでくださいね。土がずっと湿ってると、かえってよくありませんから」
「えっ!? そ、そうなの!?」
「そうですよ。何でもたくさんやればいいってものじゃないんですから」
「うぅ……気をつけるね」
ユメが慌てて頷く。
その様子を見て、朔は小さく笑った。
そして、ふと気づく。
今のホシノの言葉は、いつもの彼女らしかった。
少し厳しくて、何かと口うるさい。
けれど、その根底には相手を気遣う気持ちがある。
そんな、昔から変わらない幼馴染の姿だった。
(……やっぱり、こういう方がホシノらしいよな)
朔は心の中で呟いた。
しかし、同時に思う。
今日のような日が、これからも続くのだろうか。
学校の問題は、何一つ解決していない。
返済の期限は近づいているし、砂漠化だって止まっていない。
今は少し落ち着いたとしても、明日また同じような問題が起これば、ホシノの苛立ちは再び大きくなるのかもしれなかった。
「……朔くん?」
ユメが声をかけてくる。
「……あ、はい」
「どうしたの? ぼーっとして」
「いえ、ちょっと考え事を」
「……そう?」
ユメは少しだけ首を傾げた。
それから、穏やかに微笑む。
「……今日は二人とも、いっぱい頑張ってくれたね」
「……まあ、いつものことですけどね」
朔が苦笑すると、ユメは楽しそうに笑った。
「えへへ、そうだね!」
その隣で、ホシノも小さく息を吐いた。
「……まったく。先輩も、明日はちゃんと仕事してくださいね」
「うん!」
「……本当でしょうね?」
「ほ、本当だよぉ!」
いつものやり取り。
それを聞きながら、朔はようやく少しだけ安心した。
◇
学校を出た三人は、夕暮れの通学路を並んで歩いていた。
砂に覆われた道路には人影が少なく、遠くの街灯がぽつぽつと灯り始めている。
ユメは今日の仕事について楽しそうに話していたが、ホシノは時折短い返事を返すだけで、いつもほど会話に加わろうとはしなかった。
その様子を見ていた朔は、何となく胸の奥に引っかかるものを感じていた。
今朝から続いていた違和感。
それは、結局最後まで完全に消えることはなかった。
「じゃあ、二人とも! また明日ね!」
いつもの分かれ道へ辿り着くと、ユメは元気よく手を振った。
「はい。お疲れ様でした、ユメ先輩」
「……お疲れ様でした」
朔とホシノが挨拶を返す。
ユメは嬉しそうに笑うと、そのまま自宅へ向かって歩いていった。
その後ろ姿を見送った後、朔は隣にいる幼馴染へ視線を向けた。
「……なあ、ホシノ」
「……何?」
「……今日、結構ピリピリしてたな」
その言葉に、ホシノは少しだけ目を見開いた。
そして、困ったように笑う。
「……やっぱり、そう見えた?」
「ああ。まあ、いつも厳しいのは知ってるけど、今日はそれとはちょっと違ったな」
「……そっか」
ホシノは小さく息を吐いた。
それから、夕焼けに染まった街並みへ視線を向ける。
「……ごめんね、朔」
「……ん?」
「……今日は、ちょっと余裕なかったみたい」
その声は、普段よりも少しだけ小さかった。
朔はしばらく黙っていた。
そして、小さく肩をすくめる。
「……まあ、そういう日もあるだろ」
「……そうかな」
「あるって。俺だって、機嫌悪い日くらいあるしな」
「……あんたは、いつも余計なこと言ってるけどね」
「……おい、それは関係ないだろ」
朔が苦笑すると、ホシノも小さく笑った。
その笑顔は、ようやくいつもの彼女に近いものだった。
しかし、しばらくしてから。
「……ねえ、朔」
ホシノが静かに口を開いた。
「……ん?」
「……私、間違ってるのかな」
その問いに、朔は少しだけ首を傾げた。
「……何が?」
「……ユメ先輩のこと」
ホシノは小さく息を吐いた。
「先輩が学校のことを大切に思ってるのは、分かってるんだよ」
「……ああ」
「私だって、昔のアビドスがどんな場所だったのか、興味がないわけじゃないし……」
そこで、彼女は言葉を止めた。
そして、少しだけ眉を寄せる。
「……でも、今はそんなことしてる場合じゃないでしょ」
「……まあな」
「借金はあるし、学校の設備だってどんどん古くなってる。何とかしなきゃいけないことがいっぱいあるのに……」
ホシノは唇を噛んだ。
「……先輩は、いつも笑ってるんだよ」
その声には、隠しきれない苛立ちが滲んでいた。
しかし、その感情はユメへの怒りだけではなかった。
朔には、それが何となく分かった。
「……ホシノ」
「……何?」
「……別に、お前が間違ってるとは思わないよ」
朔は静かに答えた。
「学校のことを真剣に考えてるからこそ、先輩に厳しくなるんだろ?」
「……」
「それ自体は、悪いことじゃないと思う」
その言葉に、ホシノは少しだけ顔を上げた。
しかし、朔は続けた。
「……ただ、今日みたいに余裕がない時は、少し休んでもいいんじゃないか?」
「……」
「今のお前、何か一つ嫌なことがあったら、そのまま全部ぶつけちまいそうに見えるからさ」
その言葉に、ホシノは何も答えなかった。
しばらくの間、二人の間には静かな沈黙が流れた。
やがて、ホシノが小さく息を吐く。
「……そうかもね」
その声は、どこか疲れていた。
「……最近、何かあるたびに腹が立つんだ」
「……ああ」
「砂嵐にも、借金にも、学校を置いていった人たちにも……」
ホシノは少しだけ俯いた。
「……それに、何もできない自分にも」
その言葉を聞いた朔は、しばらく黙っていた。
そして、静かに頷く。
「……そっか」
それ以上、何も言わなかった。
安易に励ますことも、無理に笑わせようとすることもしなかった。
今のホシノには、ただ話を聞いてくれる相手が必要なのかもしれない。
そんなふうに思ったからだ。
「……ありがと、朔」
不意に、ホシノが呟いた。
「……ん?」
「……ちょっと、話せてよかった」
その言葉に、朔は小さく笑った。
「……そうか。それならよかった」
ホシノも、ほんの僅かに微笑んだ。
しかし、その笑顔の奥には、まだ消えきらない苛立ちが残っていた。
朔はそれに気づいていた。
けれど、どうすることもできなかった。
学校の問題を解決できるわけでもなければ、彼女が抱えている怒りを全て取り除けるわけでもない。
ただ、隣を歩くことしかできない。
それが、今の自分にできる精一杯だった。
◇
一方、その頃。
自宅へ戻ったユメは、机の上に一冊の古い資料を広げていた。
それは、昨日の書庫整理で見つけた、かつてのアビドス砂祭りに関する記録だった。
今ではすっかり途絶えてしまった祭り。
かつて大勢の人々が集まり、街全体が賑わっていたという催し物。
その写真を眺めながら、ユメは小さく微笑んだ。
「……綺麗だなぁ」
写真の中には、青く広がるオアシスが写っていた。
今ではもう存在しない、豊かな水辺。
その周囲には大勢の人々が集まり、楽しそうに笑っている。
ユメはしばらくその光景を眺めていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……ホシノちゃん、今日は疲れてたなぁ」
朝からずっと、彼女の様子が気になっていた。
普段から責任感が強く、何事にも真面目に取り組む少女。
しかし、今日はいつも以上に張り詰めているように見えた。
自分が昔の祭りの話を持ち出した時も、少しだけ怒らせてしまった。
「……ごめんね」
ユメは誰に聞かせるでもなく呟いた。
もちろん、今の学校の状況が厳しいことは理解している。
借金があることも、砂漠化が進んでいることも。
そして、そんな現実と毎日向き合っているホシノが、どれほど大変な思いをしているのかも。
だからこそ、少しでも彼女の負担を減らしてあげたいと思う。
しかし、そのために何をすればいいのか。
自分にも、まだ答えは見つかっていなかった。
「……うーん」
ユメは少しだけ考え込んだ。
それから、机の上に広げられた写真へ視線を戻す。
そこには、昔のアビドスの姿があった。
大きなオアシス。
賑やかな街並み。
楽しそうに笑う人々。
「……いつか、また」
小さな声が漏れる。
いつかまた、こんな街に戻せたら。
今では砂に覆われてしまった場所にも緑が戻り、閉ざされてしまった商店街に人々の声が響くようになったら。
そんな未来を、どうしても想像してしまうのだ。
「……えへへ」
ユメは小さく笑った。
そして、手元の資料を丁寧に閉じる。
今すぐ何かができるわけではない。
それでも、昔のアビドスについて知ることくらいなら、できるはずだ。
そう考えながら、彼女は手帳を開いた。
そこには、今日の出来事が簡単に書き留められている。
学校の仕事。
返済に関する連絡。
そして、ホシノと朔のこと。
ユメは少しだけ考え込むと、手帳の最後に一行を書き加えた。
『明日は、二人が少しでも笑って過ごせる日になりますように。』
それから、満足そうに頷いた。
「……よし!」
明日もまた、頑張ろう。
今度は、もう少し上手くやれるかもしれない。
そんなことを考えながら、ユメは手帳を閉じた。
窓の外には、静かな砂漠の夜が広がっている。
遠くの街灯がぽつぽつと灯り、人気のない道路には乾いた風が吹いていた。
そして、その街のどこかで。
ホシノは今も、今日の会計報告書を思い返していた。
何度計算し直しても変わらない数字。
積み重なっていく借金。
そして、そんな状況でも笑顔を絶やさないユメ先輩。
彼女が悪いわけではない。
そんなことは、分かっている。
それでも、どうしても苛立ちを抑えられない時がある。
何も解決できない現実が、悔しくて仕方がないのだ。
ホシノは小さく息を吐くと、机の上に置かれた端末を閉じた。
明日もまた、同じような一日が始まる。
そして、明日こそは何かが変わるかもしれない。
そんな僅かな期待を抱きながら、彼女は部屋の明かりを落とした。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
今回は、過去ホシノの心情を中心に描いてみました。
学校の借金、進み続ける砂漠化、何をしても好転しない現状。
ホシノが苛立っているのは、決してユメ先輩が嫌いだからではありません。むしろ、大切に思っているからこそ、どうしても厳しくなってしまうんですよね。
一方の朔も、幼馴染の異変には気づいていますが、だからといって何でも解決できるわけではありません。
そして、ユメ先輩が興味を持ち始めたアビドス砂祭り。
原作を知っている方なら、この先に何が待っているのか、何となく察しがつくかもしれません。
次回は、三人の関係がさらに動くお話になる予定です。
感想や評価などいただけると嬉しいです!
それでは、また次回!