学マス~チートPと一緒に初星学園を無双する話~ 作:みちみちお
深夜二時を回った青山の住宅街は、街灯の冷たい光だけが落ちる完全な静寂に包まれていた。
白亜の大豪邸の二階、かつてゲストルームだった手毬の私室から、一筋の影が音もなく廊下へと滑り出た。
足元には柔らかなルームシューズ。月村手毬は、漆黒のウェーブヘアを無造作に後ろで一つに束ね、黒のシンプルなレッスンウェアに身を包んでいた。
隣の部屋――秦谷美鈴の部屋からは、微かな寝息の気配すら漏れ聞こえない。一階のリビングを通り抜ける際、手毬は優の寝室がある方向をちらりと一瞥した。
当然ながら、館の主である天宮優も深い眠りについているはずだった。
手毬は抜き足差し足で、リビング奥の重厚なセキュリティドアへと向かった。
静かにパスコードを打ち込み、指紋認証をパスすると、プシューッというかすかな減圧音とともに地下への階段が現れる。
階段を一段ずつ下りるごとに、昼間の温かな団欒の記憶が遠ざかり、空気が冷たく研ぎ澄まされていく。
銀行の金庫のような特注の二重防音扉を押し開け、手毬は地下要塞スタジオへと足を踏み入れた。
パチリ、と最小限のコントロールパネルに手を触れると、コントロールルームの間接照明が仄暗く灯った。
Neveのアナログミキシングコンソール、壁一面に整然と並ぶ伝説的なアウトボード群、そしてガラスで仕切られたブースの奥に鎮座する、あの一千万円は下らないヴィンテージのNeumann U47。
昼間、優が神がかり的な手つきで操作していたその空間は、誰もいない深夜においては、まるで巨大な怪物の胎内のように不気味なほどの威容を誇っていた。
手毬はコンソールの前には座らず、一人、ガラス扉を開けてレコーディングブースの中へと入った。
完全に吸音されたブース内には、自分の心臓の鼓動と、衣擦れの音だけが反響する。
手毬はヘッドホンを首に掛け、譜面台の上に置かれた一枚の楽譜を見つめた。
そこには、六月の「実力発表ライブ」に向けて優が指定した、課題曲のボーカルスコアが置かれていた。
手毬はぎゅっと、自らの細い両腕を抱きしめた。
薄暗いブースの中で、昼間に優から告げられたあの言葉が、鼓膜の奥で激しく木霊していた。
――『かつてのグループの枠組みを完全に忘れ、完全に個人としての個性を確立すること』
――『二人は今、無意識のうちにあのユニットの亡霊に囚われている』
――『手毬さんは、無意識のうちに後ろに美鈴がいる前提で歌っている』
「……亡霊、ですって?」
手毬の唇から、悔しさを押し殺した掠れ声が漏れた。
爪が、レッスンウェアの生地を突き破らんばかりに二の腕に食い込む。
「甘えてるだなんて……そんなわけないじゃない。私はずっと、一人で戦ってきたのよ……っ!」
胸の奥で、ドロドロとした暗い感情が渦を巻いていた。
中等部時代、「Syng UP!!」のセンターとして頂点に君臨していたあの日々。
自分は誰よりも歌を愛し、誰よりも過酷な練習を己に課し、完璧な技術を身につけようと血の滲むような努力を重ねてきた。
美鈴や燐羽の足を引っ張りたくないと焦り、誰にも頼らず、自分一人の力でユニットを引っ張っていこうと必死だった。
それなのに、結果はどうだったか。
仲間とのすれ違い、空中分解、ネットでの大炎上、そして解散ライブの中止。
すべてを失い、孤立無援のまま初星学園に入学してからも、自分を信じてくれるプロデューサーなど現れず、一人で喉を締め付けながら自主練を繰り返してきたのだ。
それなのに、なぜ――。
なぜ今になって、「グループの枠組みに甘えている」「美鈴がいる前提で歌っている」などと言われなければならないのか。
優の指摘が間違っていると思いたい。優の言葉を否定したい。
だが、音楽に対して誰よりも誠実で、神のような耳を持つ天宮優が、根拠のないデタラメを言うはずがないことも、手毬は心の底から理解してしまっていた。
「……証明してやるわよ」
手毬は首に掛けていたヘッドホンを両耳に装着した。
手元のリモートコントローラーを操作し、課題曲のオケを再生させる。
重厚なピアノとストリングスが、ヘッドホンから耳腔へと流れ込んできた。
手毬は目を閉じ、優から徹底的に叩き込まれた呼吸法を再現する。
背中側の肋骨を大きく開き、横隔膜を滑らかに下げる。息のスピードを均一に保ち、喉仏を適切な位置にキープしながら、軟口蓋を微かに引き上げる。
優の指導によって、自分の身体のメカニズムは完璧に把握できているはずだった。
前奏が終わり、Aメロの出だしが訪れる。
手毬は唇を開き、声を解き放った。
「――冷たい雨に打たれながら、私は一人歩き続ける――……」
寸分の狂いもない、正確無比なピッチ。
リズムのジャストポイントを正確に射抜くアタック。
息の漏れ一つない、研ぎ澄まされた発声。
中等部時代から叩き込んできた基礎技術に、優の論理的なボイストレーニングが加わった手毬の歌声は、音響工学的に見れば、文句のつけようがないほど完璧な波形を描いていた。
Bメロへと展開し、曲は感情の昂りを見せていく。
手毬は楽譜の強弱記号を脳内でなぞり、クレッシェンドを滑らかにかけながら、サビ前の最高音へと向かって跳躍する。
「――届かない空を見上げて、叫ぶ言葉を探していた――!!」
サビへの突入。
手毬は胸式と腹式のブレンドを意識し、ベルティングで張り上げるのではなく、豊かな共鳴を伴ったミックスボイスでハイトーンを響かせた。
喉の痛みはない。息の詰まりもない。
かつて自分を苦しめていた高音の壁は、すでに過去のものとなっていた。
最後のロングトーンを規定の小節数きっかりで切り上げ、伴奏のフェードアウトとともに、手毬は大きく息を吐き出した。
「……ふぅっ、はぁ……っ」
手毬はヘッドホンを片耳だけ外し、コントロールパネルの再生ボタンを押した。
いま自分が歌ったテイクが、モニタースピーカーから流れ出す。
静まり返ったブースの中で、手毬は自らの歌声にじっと耳を澄ませた。
スピーカーから返ってくる音は、美しかった。
音程の揺らぎはなく、声の艶もあり、高音も綺麗に抜けている。初星学園の一般的なボーカル講師が聴けば、「素晴らしい完成度だ」「新入生とは思えない」と手放しで絶賛するであろう歌声だった。
だが――。
手毬の顔色は、聴けば聴くほどに青ざめていった。
奥歯がギリッと音を立てて軋む。
「……なんなのよ、これ……」
手毬の全身から、血の気が引いていくような感覚があった。
何かが、決定的に足りない。
いや、足りないのではない。死んでいるのだ。
そこに鳴り響いているのは、狂いのない精密機械が楽譜通りにトレースしただけの、冷たく無機質な「音の羅列」に過ぎなかった。
聴く者の心を揺さぶらない。
魂を鷲掴みにするような熱量がない。
ただひたすらに「失敗しないこと」「音程を外さないこと」「教わったフォームを崩さないこと」に神経をすり減らし、美しく整えられただけの、窮屈な箱庭のような歌。
(型に……ハマってる……っ)
優の言葉が、脳天を直撃した。
――『ミスを恐れるあまり、歌に本来宿るべき感情の余白や遊びが完全に消え去り、聴き手に息苦しさを与えてしまう』
――『完璧を求めすぎるストイックさが、君の魅力を檻に閉じ込めている』
「違う……! こんな歌が歌いたいんじゃない……っ!」
手毬は乱暴に音源を停止させた。
心臓が早鐘のように打ち鳴らされる。焦燥感が、冷たい刃物のように胸を抉っていく。
「もう一回よ……! もう一回!!」
手毬はリモコンを握り直し、トラックを頭出しした。
今度は違う。正確さなんてどうでもいい。感情を込めるんだ。もっと魂を剥き出しにして、自分らしさを前面に押し出すんだ――。
前奏が鳴り響く。
手毬は目を血走らせ、マイクスタンドに掴みかかるようにして息を吸い込んだ。
「――冷たい雨に打たれながらっ! 私は一人、歩き続けるぅぅぅっ!!」
感情を込めようと、声を荒らげる。
だが、長年染み付いた「完璧主義」の防衛本能が、無意識のうちに手毬の喉にブレーキをかける。
(あ、今のピッチ、ほんの少しシャープした……!? 修正しなきゃ!)
ミスを感知した瞬間、脳が勝手に筋肉を硬直させ、声を整えようとしてしまう。
その結果、感情の爆発は途中で中途半端に寸断され、ただ声量を無理やり張り上げただけの、耳障りで荒削りな絶叫へと変わってしまった。
「――っ、く……っ! 違う、そうじゃない……っ!!」
手毬は歌唱の途中で顔を歪め、マイクから顔を背けた。
胸元を押さえ、肩を激しく上下させる。
汗が目に入り、痛みが走るが、それを拭う余裕すらない。
どうして歌えない?
どうして、自分らしい歌が歌えないのか?
手毬はマイクの前で立ち尽くし、暗闇の中で自問自答を繰り返した。
自分らしさとは何だ? ソロとしての「月村手毬の個性」とは、一体何だというのか?
記憶を手繰り寄せる。
中等部時代、「Syng UP!!」のステージに立っていた時の自分。
あの時、自分はどうやって歌っていた?
そうだ。あの頃の自分は、ただひたすらに前だけを見て、全力で叫んでいた。
自分の声がどれだけ鋭く尖ろうとも、どれだけバランスを崩して突っ走ろうとも、ステージの上には美鈴がいた。
美鈴の柔らかく包容力に満ちた歌声が、手毬の鋭角なトーンを優しく包み込み、中和してくれていたのだ。
そしてもう一人の仲間――燐羽が、その圧倒的な牽引力で全体のグルーヴを統率し、手毬が自由に暴れ回れる土台を完璧に作ってくれていた。
(……私は、護られていたんだ……)
その残酷な真実に気づいた瞬間、手毬の膝がガクガクと震え始めた。
自分一人の力で「ナンバーワン」に上り詰めたつもりでいた。
仲間を置き去りにして、自分だけが高みへ行こうと突っ走っていたつもりだった。
だが、実態はまるで逆だったのだ。
美鈴という至高のクッションと、燐羽という絶対の錨があったからこそ、手毬の不器用で尖りすぎた歌は「奇跡的な個性」として成立していたに過ぎなかった。
今、手毬の両隣には誰もいない。
六月の「実力発表ライブ」のステージに立つのは、月村手毬、たった一人だ。
誰も自分の粗を隠してはくれない。誰も自分の暴走を受け止めてはくれない。
その恐怖に直面した途端、手毬は無意識のうちに「完璧な技術」という冷たい鎧を身に纏い、傷つかないように、粗が出ないように、自分自身を型の中に閉じ込めてしまっていたのだ。
「……っ、うあああああっ……!!」
手毬は頭を抱え、ブースの壁に背中を打ち付けた。
ずるずると床へと崩れ落ちる。
冷たいリノリウムの床に膝をつき、両手で耳を塞いだ。
完璧を目指せば、型にはまって死んだ歌になる。
感情を曝け出そうとすれば、支えを失って自滅する。
右へ行っても、左へ行っても、目の前には分厚い巨大な壁が立ちはだかっている。
「どうすればいいのよ……っ! どうやって歌えばいいのよ……っ!!」
手毬の唇から、涙混じりの悲鳴が零れ落ちた。
悔しくて、情けなくて、怖くてたまらなかった。
新入生首席の花海咲季は、高瀬の過酷なレッスンに食らいつき、五月のフレッシュ公演で頂点を獲るために凄まじい気迫で進化を続けている。
同期のライバルたちが確実に一歩を踏み出している中で、自分だけがあえて五月を見送り、優の庇護のもとで基礎を固めていたはずなのに――いざソロとして独り立ちしようとした瞬間、自分の中には何一つとして誇れるものが残っていなかったのだ。
このままでは、六月の舞台に立てない。
あのステージで、また無様な姿を晒して、嘲笑われ、切り捨てられるのか?
そして何より――。
(優さんに……見捨てられちゃう……っ)
その恐怖が、冷たい氷の棘となって手毬の心臓を貫いた。
「泥臭くてもいい。僕は絶対に手を離さない」と、あんなにも温かく抱きしめてくれたプロデューサー。
自分のために四十億円の豪邸を開放し、地下要塞スタジオの至高の機材を惜しみなく注ぎ込んでくれている人。
その優が期待してくれている「ソロとしての真の個性」を、自分はどうしても掴み取ることができない。
手毬はブースのガラス越しに、誰もいないコントロールルームのコンソール卓を見つめた。
昼間、優が座っていたその空席。
優しく微笑み、柔らかく名前を呼んでくれた、あの青年の姿はそこにはない。
「……優さん……」
掠れた声で、その名を呼ぶ。
大粒の涙が、手毬の黒い瞳から溢れ出し、レッスンウェアの胸元に黒い染みを作っていった。
「教えてよ、優さん……。私、どうしたらいいの……? 完璧に歌おうとすればするほど、私の歌はどんどん冷たくなっていくの……! 誰の心にも届かない、ただの音になっちゃうのよ……っ!!」
誰も答えてはくれない。
特注の防音壁は、手毬の痛切な叫びを無慈悲に吸い込み、完全な静寂へと変換してしまう。
手毬は膝を抱え、小さく丸まった。
喉は酷使によって焼け付くように熱く、呼吸は乱れ、全身のエネルギーが枯渇していた。
それでも、立ち上がって歌い直さなければならないことは分かっていた。
諦めればそこでお終いだ。泥臭くても、惨めでも、前へ進まなければならない。
優が教えてくれたその信条を、手毬は血を吐くような思いで心の中で繰り返した。
だが、どう足掻いても、出口が見つからない。
ソロとしての自分らしさという深い霧の中で、月村手毬は完全に方向を見失い、孤独と焦燥の檻の中でもがき苦しんでいた。
深夜の地下要塞スタジオに響くのは、ただ一人の少女の、かすかなしゃくり上げの声だけだった。
かつてナンバーワンと呼ばれた歌姫のプライドは完全に打ち砕かれ、六月の決戦を前にして、手毬は人生最大の分厚い壁の前に、独り膝を屈していた。