学マス~チートPと一緒に初星学園を無双する話~ 作:みちみちお
初星学園アイドル科特別棟、二階の奥に位置する第2スタジオ「メロディア」。
防音壁に囲まれた約120平方メートルの広々とした室内には、大型の壁一面の鏡とグランドピアノ、そしてボーカルレッスン用の高品位な録音機材が整然と備え付けられていた。
学園の中でも特に本格的な歌唱指導やコーラス練習に用いられるこのスタジオで、天宮優、月村手毬、秦谷美鈴の三人は、初めての実技レッスン兼面談を行っていた。
スタジオのスピーカーから流れていた伴奏音源が、フェードアウトとともに静かに止まる。
張り詰めた静寂の中、月村手毬の荒い呼吸の音だけが、マイクを通してかすかに反響していた。
「――ふぅ……っ、はぁ……っ」
譜面台の前に立ち、マイクを両手で握りしめた手毬の額には、びっしりと玉の汗が浮かんでいた。
腰まで届く漆黒のウェーブヘアが肩口で乱れ、切れ長の黒い瞳は、スタジオのミキサー卓の前に腰掛けている優を真っ直ぐに射抜いている。
その数歩後ろでは、水分補給用のタオルを手に持った秦谷美鈴が、お淑やかに佇んでいた。
黒髪のセミロングを整え、穏やかな表情を崩さない美鈴だったが、その整った胸元もまた、課題曲を歌い終えた直後の名残で静かに上下していた。
ミキサー卓の前で、優は膝の上に置いたバインダーの評価シートに、万年筆で素早くメモを走らせていた。
目にかからない長さに切り揃えられた白銀の髪が、蛍光灯の白い光を浴びて淡く輝いている。透き通るサファイアの碧眼は、プロデューサーとしての冷徹な観察眼と、担当アイドルを慈しむ温かな光を同時に宿していた。
優が顔を上げると、手毬が待ちきれないといった様子で身を乗り出してきた。
「……どう、優さん。今の、私の歌……!」
プライドと不安が入り混じった、鋭い問いかけ。
少しでも優に認められたい、褒めてもらいたいという感情が、手毬の全身から溢れ出ていた。
優は手元のシートを置き、柔らかく微笑んで拍手を送った。
「素晴らしいパフォーマンスでしたよ、二人とも。中等部時代からトップを走ってきた実力は伊達じゃないですね。声の基本的なポテンシャル、ピッチの正確さ、そしてリズム感。どれをとっても、初星学園の同年代の中で群を抜いているのは間違いありません」
優の言葉に、手毬は誇らしげにふんっと鼻を鳴らし、口元を綻ばせた。
「べ、別に……それくらい当然でしょ。中等部のナンバーワンだったんだから」
美鈴もまた、ほっと胸を撫で下ろすように小さく微笑んだ。
「ありがとうございます、優さん。そう言っていただけて光栄です」
しかし、優はそこで言葉を区切ると、困ったように眉尻を下げ、小さく苦笑を漏らした。
その表情に、手毬が敏感に反応して眉をひそめる。
「……なによ、優さん。その顔は……何か言いたいことでもあるわけ?」
「ええ、ありますよ。……二人とも、基礎の実力は本当にずば抜けて高い。ですが、同時に『現在の明確な課題』も浮き彫りになりました。それも、実に見事なまでに二人の性格がそのまま歌に表れてしまっているんです」
「性格が……?」
美鈴が首を小さく傾げた。
優は立ち上がり、二人の前へと歩み寄った。
『音楽に愛されし者』としての能力が、先ほどの歌唱の全データを優の脳内で克明に再生していた。息の吸い込み方、声帯の振動数、共鳴腔の広げ方、視線の配り方、そして歌声に乗せられた感情の微細な揺らぎに至るまで、すべてが手に取るように視えていたのだ。
「まず、月村さん」
優は手毬の黒い瞳を真っ直ぐに見つめた。
「君の課題は――『完璧を求めすぎるあまりのストイックさ』です」
「……っ」
手毬の肩がピクリと跳ねた。
「月村さんの歌は、技術的には驚くほど研ぎ澄まされている。音程の狂いをミリ単位で許さず、リズムのジャストポイントを常に正確に射抜こうとしている。……ですが、そのストイックさが過剰になりすぎて、歌全体が型にはまり、窮屈になってしまっているんです」
優は手毬の鎖骨と首筋のあたりを指し示した。
「一音でも外してはならないという強迫観念から、サビの最高音に向かう直前に無意識に全身を強張らせている。ミスを恐れるあまり、歌に本来宿るべき『感情の余白』や『遊び』が完全に消え去り、聴き手に息苦しさを与えてしまう。何より、その力みが喉を締め上げ、せっかくの豊かな倍音の響きを自分で殺してしまっているんです」
「ミスを……恐れてる……? 私が……?」
手毬は悔しそうに唇を噛んだ。
「完璧を目指すのが、何が悪いのよ! 音程もリズムも外さないのがプロでしょ!? 妥協して適当に歌うなんて、絶対に嫌よ!」
「完璧を目指すこと自体は、素晴らしい美徳ですよ」
優は手毬の反論を穏やかに受け止めた。
「ですが月村さん、音楽は精密機械の組み立て作業ではありません。聴く人の心を震わせるのは、狂いのない正確な周波数ではなく、その声に乗った魂の温度なんです。君が完璧という檻に閉じこもっている限り、君の歌は本当の意味で観客の胸を突き破ることはできない」
手毬は反論しようと口を開きかけたが、喉の奥に言葉が閊え、拳をぎゅっと握りしめて俯いてしまった。
図星だったからだ。
中等部時代、「Syng UP!!」の仲間たちに追いつこうと必死になり、自分の未熟さを許せず、完璧でなければ価値がないと思い詰めてきた手毬。
そのストイックさこそが自分をここまで引き上げてくれた武器であると信じて疑わなかったが、同時にそれが自らの喉と表現を縛り付ける鎖になっていたことを、優の言葉によって痛切に思い知らされていた。
「そして、秦谷さん」
優は視線を移し、隣に立つ美鈴へと向けた。
「……はい、優さん」
美鈴は背筋を正し、静かに優の碧眼を見つめ返した。
「秦谷さんの課題は――『マイペースで、無意識に月村さんを優先しがちな部分』です」
美鈴の黒い瞳が、微かに揺れた。
優はシートに視線を落としながら、静かに言葉を紡ぐ。
「秦谷さんの声質は本当に魅力的です。柔らかく、艶やかで、聴く者をふわりと包み込むような豊かな包容力がある。……ですが、先ほどのデュエットパートでもそうでしたが、君は月村さんが声を張ると、無意識に自分のボリュームと主張を一歩引いてしまっている」
「それは……まりちゃんが主旋律を歌う場面でしたから、引き立て役に回るのは当然のことでは……」
美鈴が静かに弁明する。
しかし、優は首を横に振った。
「単なるバッキングの音量調整の問題ではありませんよ、秦谷さん。君の歌には、『自分が主役に躍り出る』というハングリーさが決定的に欠けているんです。月村さんが気持ちよく歌えるように、月村さんの声が引き立つようにと、常に彼女を優先して自ら一歩下がってしまう。……それは君の優しさであり、幼馴染としての愛情の表れでもあるのでしょう。ですが、ソロのステージに立った時、あるいはライバルとして競い合う時、その『遠慮』は致命的な弱点になります」
優の碧眼が、美鈴の心の奥底を射抜くように見つめていた。
「秦谷さん、君自身はどこにいるんですか? 君が本当に歌いたいものは何ですか? 月村さんのお世話役や引き立て役ではなく、秦谷美鈴という一人のアイドルとして、世界中の視線を独占したいという剥き出しの欲求が、今の君の歌からは聴こえてこないんです」
「――っ……」
美鈴は息を呑み、言葉を失った。
いつもおっとりとマイペースを装い、手毬を甲斐甲斐しく世話し、自分は二の次でいいと笑っていた美鈴。
その心の奥底に隠していた、アイドルとしての本気の欲求の希薄さを、この青年プロデューサーは寸分の狂いもなく見透かしていたのだ。
スタジオ内を、重い沈黙が支配した。
手毬は唇を噛み締めて床を見つめ、美鈴は両手を胸の前で固く握りしめている。
二人とも、自分たちの致命的な弱点を正確に突かれ、打ちのめされていた。
そんな二人の重苦しい空気を察し、優はふっと表情を緩めた。
「……まあ、本当に二人とも性格通りの課題だな、と苦笑してしまいましたけれどね」
「え……?」
二人が同時に顔を上げた。
優はグランドピアノの椅子を引き、腰掛けながら二人を見上げた。
その表情には、責めるような色は微塵もなく、どこまでも温かい慈愛が満ちていた。
「誤解しないでくださいね。僕は、その課題を今すぐ完璧に克服しろ、と無理難題を押し付けるつもりはありません。そんなことをすれば、二人の一番の長所まで消えてしまいますから」
「長所を……消す……?」
手毬が掠れた声で問う。
「そうです。月村さんのストイックさは、音楽に対する無二の誠実さであり、誰よりも高い場所へ跳ぶためのエンジンです。秦谷さんのマイペースさと優しさは、どんな荒波も受け止める圧倒的な包容力であり、聴く者の心を癒す唯一無二の武器です。……課題だからといって、それを完全に否定して削ぎ落とす必要はない。その性格、その個性ごと活かしながら、ステージの上で最高の完成度へと昇華させていけばいいんです」
優はピアノの鍵盤に指を置いた。
ポーン、と澄んだ和音が鳴り響く。
「そこで、僕から二人に提案があります。今後のレッスンは、こう進めていきましょう」
優は淀みなく、具体的かつ極めて実践的な改善案を提示し始めた。
「まず月村さん。君には、発声の前に『あえてピッチを揺らす』練習を取り入れます。ブルースやジャズのフェイクのように、完璧な音程からわずかに音を逸らし、スライドさせながら声の響きを楽しむ練習です。ピッチを外しても曲は壊れない、むしろそこに感情の揺らぎが生まれるという感覚を、身体に覚え込ませていきます。そして呼吸は、横隔膜を下げることだけに執着せず、息を吐ききる瞬間の脱力感を重視する。そうすれば、喉の締め付けは自然と解け、君の魂の叫びがそのまま美しい倍音になって抜けていきます」
手毬の黒い瞳が、驚きで見開かれた。
正確さを求めるあまり自縄自縛に陥っていた手毬に対し、「あえて音を崩す練習をする」という、常識を覆す逆転の発想。
それは、手毬のストイックな性格を逆手に取り、新しい表現の扉を開かせるための完璧な処方箋だった。
優は続いて美鈴に視線を向けた。
「そして秦谷さん。君には、徹底的な『完全ソロの朗読劇とアカペラ』を課します。隣に誰もいない、誰も引き立てる相手がいない空間で、自分一人の声だけで世界を満たす経験を積んでもらいます。……秦谷さん、君の包容力は、他人に譲るためのものじゃない。客席にいる何千人、何万人の観客全員を、君一人の愛で包み込み、平伏させるための力です。『私が全員を抱きしめてあげる』という、ある種の強欲な優しさを自覚してもらいます」
「私の……強欲な、優しさ……」
美鈴の胸が、ドクンと音を立てて跳ね上がった。
一歩引くのではなく、自らの優しさそのものを武器にして観客を支配する。
そんな発想、これまで考えたことすら持たなかった。
「どうですか、二人とも。僕と一緒に、この道を進んでみませんか?」
優が柔らかく微笑みかける。
手毬と美鈴は、完全に言葉を失っていた。
ただただ、目の前の青年プロデューサーの底知れない観察眼と、的確すぎる指導力に圧倒されていたのだ。
初星学園のベテラン講師たちですら見抜けなかった自分たちの本質的な癖と課題を、わずか一回のセッションで見抜き、なおかつ個性を一切否定せずに更なる高みへと導く具体的なロードマップを描いてみせた。
あまりの凄まじさに、手毬は胸を熱く昂らせ、思わず自慢げに口を尖らせた。
「……ふふん。当たり前じゃない! これくらいやってくれなきゃ、私のプロデューサー失格よ!」
手毬は腰に手を当て、誇らしげに美鈴を振り返り、悪気もなくこう言い放ったのだ。
「さすがはあの、『天月』だわ!」
――ピキッ、と空気が凍りついた。
「……えっ?」
スタジオの空気が、一瞬にして静止した。
優のサファイアの碧眼が、真ん丸に見開かれた。
「……あ、月村さん……っ!?」
優が慌てて制止の声を上げようとしたが、時すでに遅しだった。
美鈴の動きが、完全に止まっていた。
黒髪の少女は、信じられないものを見るかのように、ゆっくりと手毬から優へと視線を移した。その穏やかだった黒い瞳が、限界まで見開かれ、驚愕に染め抜かれていく。
「……まりちゃん。今……何と言いましたか?」
美鈴の声が、微かに震えていた。
「天月……? 天月って……あの、伝説の覆面歌手の……?」
数年前、突如として音楽界に現れ、わずか三曲の楽曲ですべてダブルミリオンを記録し、十億円以上の売上を叩き出しながら、一年で忽然と姿を消した、あのメガヒットメーカー。
音楽に関わる者であれば、知らない者は存在しないほどの伝説の存在。
美鈴の視線が、優へと突き刺さる。
優はといえば、気まずそうに片手を後頭部に当て、額に冷や汗を浮かべて苦笑いしていた。
「あ、あの……秦谷さん……」
その優の反応を見た瞬間、美鈴の脳内で、これまでのあらゆる違和感と疑問のピースが、恐ろしいスピードで一つに噛み合っていった。
――なぜ、この人は二十歳という年齢で、これほどまでに完成された音楽の知識と技術を持っているのか。
――なぜ、骨格や声帯の使い方を一目見ただけで、神業のように歌声の課題を解き明かせるのか。
――そして何より、なぜあの頑なでプライドの塊だった手毬が、初対面同然のプロデューサーに心酔し、泣きついてまで担当を懇願したのか!
(全部……全部、そういうことだったのですか……!?)
美鈴の全身を、電撃のような戦慄が駆け抜けた。
両手で口元を覆い、美鈴は後ずさりするように一歩退いた。
「嘘……優さんが……あの、覆面歌手の『天月』……!?」
美鈴の叫びにも似た声が、防音スタジオの中に響き渡った。
優は観念したように小さく息を吐き、困ったように眉を下げて頷いた。
「……はい。隠すつもりはなかったのですが、あまり騒ぎにしたくなくて月村さんだけにしか話していなかったんです。高校生の時に、少しだけ活動していた過去のことですよ」
「過去のこと、だなんて……っ!」
美鈴の胸が、激しく早鐘を打っていた。
真面目で、優しくて、包容力に満ちた素敵な青年だとは思っていた。
だが、その正体は――音楽界の頂点に君臨した本物の「生ける伝説」だったのだ。
手毬はといえば、優に叱られそうな気配を察知して、慌てて口を手で塞ぎ、視線を明後日の方向へと泳がせていた。
「あ……う、うっかり言っちゃった……」
「うっかりで済む話ではありませんよ、まりちゃん……っ!」
美鈴が珍しく声を荒らげ、真っ赤な顔で手毬に詰め寄る。
「まりちゃん、知っていたのですか!? 最初から、優さんが天月さまだと知っていて、私に内緒にしていたのですか!?」
「だ、だって、優さんから他言無用って言われてたんだもん! 美鈴に自慢したかったわけじゃないし!」
「ずるいです! まりちゃんだけそんな重大な秘密を共有していたなんて、抜け駆けもいいところですよ!」
再び始まった、二人の激しい言い争い。
だが、優の正体を知った美鈴の瞳には、先ほどまでの驚愕を通り越し、優に対する更なる深い敬愛と熱烈な熱が宿っていた。
(この人は……本当に、底知れないお方……)
優は両手を挙げて苦笑しながら、二人を宥めるように割って入った。
「二人とも、落ち着いてください。僕が誰であろうと、今は二人のプロデューサーであることに変わりはありませんから」
夕暮れのレッスン室。
秘密の共有によって、三人の絆はまた一つ、深くて逃れられないものへと結び直されていった。