録音機には、名前を書いたシールが貼ってあった。角の丸まった、子供の持ち物に貼るような白いシールで、そこに几帳面な字で「調月リオ」とある。ミレニアム最高峰の頭脳が遺していった品としては、ひどく頼りない外見だった。
エリドゥの後始末と、前生徒会長が秘匿していた設備の確認。そのために開けた執務室の引き出しから、ユウカはそれを見つけた。隣には、短い謝罪だけを記した置き手紙の下書きがあり、何度も書き直したらしい紙が、四つ折りにされて重なっていた。
最初は、会計上の不正に関する説明が残っているのだと思った。そうでなければ、未把握の防衛設備か、トキに引き継ぐべき任務についての音声メモだろう。だからユウカは、声が少しだけ尖るのを抑えられないまま、ノアに言った。
「置いていくくらいなら、直接説明してくださればよかったのに。……これまで全部、こちらで調べなきゃいけないんですか」
ノアは答えず、録音機の電源を入れた。表示されたファイル一覧を見て、彼女は普段より長く瞬きをしなかった。それから一度だけ、最初に戻って、件数を確かめ直した。
九百九十九個の記録群。日付は何度も逆行し、同じ年月日が異なる番号の下に並んでいる。末尾近くに付された分類は、その大半が同じ二文字だった。
失敗。その二文字を眺めながら、ノアは、これを会計資料として開いてはいけない気がした。けれど、遅れて表示された最初の記録の説明欄には、ミレニアムの生徒会書記が無視できない言葉があった。それは「キヴォトス全域、応答なし」という、一行の報告だった。
機器の解析にヴェリタスとエンジニア部が呼ばれ、エリドゥとの関連を確認するためにヒマリとC&Cが集められた。そこへ先生が到着した時、ユウカはまだ、これが何かの極端な災害想定である可能性を捨てていなかった。説明欄に自分の名前があると知ったアリスがゲーム開発部の三人と一緒に来ても、せめて調査だけで済むようにと考えていた。
コユキが暗号化された索引を開き、ハレが外部通信を切り離す。コタマは音声の解析画面を用意したが、再生ボタンを押す前に先生を見た。先生がアリスに頷きを返し、その意思を確かめてから、チヒロが一番古い記録を選んだ。
スピーカーから最初に流れたのは、咳だった。ひとしきり咳き込んだあと、誰かが小さく息を吸う。よく知っているはずの声が、聞いたことのない心細さで、録音の開始を告げた。
『調月リオです。セミナーの……会長です。今、中央区画の地下にいます。地上の通信網は、もう使えません。予備系統も、さっき……止まりました。何があったのか、残しておきます。誰かが、聞いてくれるかもしれないので』
ユウカの指が、手帳の角を押した。リオは説明の途中で言い直すことがあっても、こんなふうに相手を探す話し方はしない。少なくとも、ユウカの知るリオはしなかった。
『始まりは、アリスでした。いえ、違うわ。……そこは、間違えないで。アリスが、アリスではなくなったの。あの子と同じ声で話すものがいて、同じ顔をしていたけれど……あの子は、あんなふうに、モモイを見ない』
モモイの隣で、ミドリが姉の袖を掴んだ。アリスは自分の膝に置いた手を見下ろしたまま、微動だにしない。先生が隣の椅子を寄せる音だけが、録音の中の低い振動音と重なった。
『昨日まで、ここに来ていたのよ。ゲームの中で分からない問題があるって。攻略情報を見るのは負けた気がするから、ヒントだけくださいって……私の仕事が終わるまで、ソファで待っていたの。結局、ヒントでは足りなくて、一緒に解いたわ。私も、あまり上手ではなかったから』
小さな笑い声がした。笑ってから、録音の向こうのリオは呼吸を止めたように黙った。何秒も経って、ようやく喉を通った言葉は、説明の続きではなかった。
『今日も来るはずだったの。クリアできたら、見せに来るって。だから、お菓子を……』
椅子が鳴った。立ち上がりかけたネルの腕を、アカネがそっと押さえている。ネルは振りほどかなかった。ただ、座り直すこともできないまま、机の向こうにある小さな機械を睨んでいた。
『ユウカは、避難誘導を続けていました。ノアは最後まで名簿を……ヒマリとも、連絡が取れません。ネルたちは中央棟で……ごめんなさい。正確に話さないと。何が起きたのかを、私が記録しないと、みんなが……』
そこから先の数分は、地名と時刻の報告だった。途中で何度も同じ地区の名が出て、そのたびにリオは訂正した。彼女の頭脳でも整理できないほどの破壊が、たった一日のうちにミレニアムを通り過ぎていた。
『もし、まだどこかに、あの子がいるなら。アリスが、あの中にいるなら……一人にしないでください。きっと、怖がっているから。自分がしたことだと、思ってしまうから』
アリスの唇が動いたが、声は出なかった。自分を処分しようとした人が、世界が終わった地下室で、誰に届くとも知れない願いを残している。その願いの中には、アリスのための居場所があった。
『……私が迎えに行けたらよかったのに。ごめんなさい、アリス。明日は、もう――』
ひどい雑音が入って、録音が終わった。しばらく、誰も次の記録に触れなかった。ユウカがかろうじて口を開いたのは、ハレの指が停止ボタンから離れたあとだった。
「これ、いつの……何の記録ですか。私たち、ここにいるじゃないですか。アリスだって、ちゃんと……」
ヒマリは、続けてください、と言った。扇子を閉じる時、うまく端が揃わなかった。そのことを指摘する者はいなかった。
次の記録には、警報も爆発もなかった。窓の外で鳥が鳴き、遠くから登校する生徒たちの話し声が聞こえる。リオはそのありふれた音を、怪物の足音より恐れているようだった。
『……寮の部屋です。一年生の時の部屋。端末の日付も、時間割も、私の学生証も、全部……でも、録音は残っている。どうして。この機械だけ、どうして……』
ドアを叩く音がした。録音機が擦れ、椅子が倒れそうな音を立てる。開いたドアの向こうから聞こえた声に、ヒマリの肩が揺れた。
『リオ? 講義が始まってしまいますよ。あなたが時間に遅れるなんて、珍しいこともあるものですね』
『……ヒマリ? あ、あなた……本当に?』
『何を言って……ちょっと、待ちなさい。どうしたんですか、リオ。そんなに震えて……どこか痛いのですか?』
その先は、ほとんど言葉になっていなかった。生きている、と何度も繰り返すリオと、事情の分からないヒマリの声だけが続いた。現在のヒマリは、そのやり取りを聞きながら、自分の手首をもう片方の手で握り締めていた。
彼女には、その朝の記憶がなかった。隣の部屋を訪ねたことも、泣いているリオを抱き留めたこともない。それなのに、録音の中の自分がどんな顔をしているかだけは、嫌になるほど想像できた。
その日のうちに、作り物だと言い切るための理由は、一つずつ使えなくなった。まだ誰にも話したことのない私的な会話、試作の段階でしか存在しなかった回路、公開前に破棄したはずのプログラム。リオはそれらを知っていて、しかも、現在とは違う結果に至るまでの経過を残していた。
「……記憶と、この記録だけが残っている。少なくとも、本人はそう判断して、検証を続けてる」
チヒロは慎重に言った。すべての原理を説明できたわけではない。けれど説明できないことと、ここにある声を偽物として片づけられることは、同じではなかった。
コユキはさっきから、一つの計算を消しては入力し直していた。九百九十九に、リオが一年生だった頃から現在までの時間を掛ける。途中で数字が嫌になって、全部消す。それからまた、同じ数字を打った。
「これ……九百九十九日、じゃないんですよね。何回も、入学した頃から……先輩たちに会って、学校に来て、それから……」
ユウカが、その端末をそっと伏せた。答えを出さなくても、意味は伝わってしまっていた。ノアの手帳には、最初のページに書かれた「調査」の二文字だけが、場違いなほど綺麗に残っていた。
七回目のリオは、怒っていた。何に対して、というより、理不尽そのものに腹を立てている声だった。既に何度も敗れた少女が、それでも次の朝のために、自分を叱りつけていた。
『現象は繰り返している。起点は一年生の同じ朝。帰還直前に共通するのは、あの子の変質に端を発したキヴォトスの崩壊。私が生き残った理由も、戻される理由も、まだ不明。でも、分からないままで終わらせる必要はないわ』
ページをめくる音に続いて、別の声が入った。リオの声を遮るくらい、堂々としたヒマリの声だった。その頃の二人は、同じ机で記録を作っていたらしい。
『ですから、一人で結論を急がないことです。あなたが見落としたことは、私が見つけます。何しろ私は、超天才清楚系病弱美少女ハッカーですからね』
『……ええ。あなたなら、そう言うと思ったわ。ありがとう、ヒマリ』
現実のヒマリの呼吸が、不自然に浅くなった。リオの礼には皮肉も含みもなかった。扇子で口元を隠す動作が間に合わず、唇の震えをチヒロに見られた。
十八回目には、協力者の名前が増えていた。リオが危険性を伏せたまま人を動かした記録ではない。過去の音声を聞かせ、疑われ、検証し、幾晩も議論を重ねたうえで、それぞれが自分の意思で加わった経緯が、資料と一緒に残っていた。
『人格領域の保護は、私たちが受け持つ。勝手な変更を加える前に、必ず本人に説明すること。それが約束だからね、リオ』
チヒロは、自分の声を最後まで聞いた。隣でハレが、開けかけた飲み物の蓋を閉め直している。マキは机の上に広げられた配線図を指で辿り、自分の筆跡で書かれた、避難誘導用の色分けを見つけた。
『装置側は任せてくれ。生徒の明日を作るための技術だろう? それなら、うちの部の仕事さ』
ウタハの声の後ろで、コトリが安全装置について説明していた。少し早口で、説明する相手が置いていかれていないか、時々確かめている。ヒビキはその途中に割り込み、アリスの頭に触れる部分は冷たくならないようにした、と報告した。
『アリスのためですか? ありがとうございます、ヒビキ先輩。これなら、こわくありません!』
ヒビキは膝の上で手を裏返した。掌の傷も、指先の硬くなった皮膚も、いつもと変わらない。そんな自分の手が、知らない世界であの子を安心させるものを作っていた。
同じ手が作った装置の破損状況を、数時間後の記録で、リオが報告した。安全装置は働いた。想定した侵入経路も塞がっていた。そのうえで、保護対象そのものの内側から、別の命令が立ち上がったのだという。
『コトリは最後まで、原因を説明しようとしていた。次に同じことを起こさないために、私に……ヒビキは装置の接続部を離さなかった。ウタハは、二人を……』
コトリが息を吸った。いつもなら、何が起きたのか自分の言葉で整理したはずだった。けれど今は、録音の向こうで説明を途切れさせた自分に、続きの一言も渡せなかった。
ウタハは工具を置いた。無意識に取り出していた、小さなドライバーだった。目の前にあるのは修理を待つ機械ではないと分かっていても、何かを直す手順を考えずにいると、自分の呼吸まで止まりそうだった。
六十四回目の記録には、C&Cの通信が残っていた。ネルはひどく怒鳴っていて、その後ろからアスナが明るく返事をしていた。二人が挟んでいる会話の内容さえ聞かなければ、いつもの任務中のやり取りと間違えそうだった。
『そっちへ行かせんな! あと十七秒だ、十七秒だけ持たせろ!』
『りょーかい! ね、会長、これ終わったらみんなで遊ぼうよ。アリスちゃんも誘ってさ。ほら、前にやってたゲーム、私まだ――』
声はそこで途切れた。代わりにカリンが残弾を報告し、アカネが退路の閉鎖を告げた。ネルは全員を名前で呼んだ。一度ずつでは足りず、何度も呼んだ。
現在のアスナは、じっとスピーカーを見ていた。隣のカリンの手を握っているのに、その指が冷たいことに気づいていない。聞こえなくなった自分の続きを待つように、首が少しだけ傾いていた。
『……稼いでもらった時間は、無駄ではなかった。観測値を保存できた。次は、この先から始められる。だから、無駄では……』
リオは同じ説明を二度した。三度目は、途中で言葉が崩れた。その後に入っていたのは、謝罪でも分析でもなく、十七まで数える声だった。数え終えるより長く泣いてから、彼女はようやく、次の対策について話し始めた。
「あたしらが稼いだ時間を、こいつ……ずっと、持って帰ってたのかよ」
ネルの拳は机の上に置かれていた。殴れば壊れる程度の机だったが、彼女は殴らなかった。壊せるものがあるというだけで、ここで手を振り上げることが、どうしてもできなかった。
アカネが全員に配ったお茶は、ほとんど減っていなかった。彼女自身のカップにも触れた跡がない。いつものように微笑んで「少し休憩にいたしましょう」と言おうとして、一度、何も言わずに口を閉じた。
百八回目の記録が選ばれた時、先生は身を乗り出した。索引に、シャーレへの相談とある。もっと早く自分が知っていれば、という考えが、胸の中にまだ残っていた。
『大丈夫。アリスを助ける方法を、一緒に探そう。リオにも、アリスにも、どちらかがいなくなる答えを選ばせたくない』
自分の声だった。励まそうとする時の調子も、相手の返事を急かさない間も、先生は嫌というほど分かった。リオは少し黙ってから、お願いします、と答えていた。
その返事は、今の先生がリオから受け取ったことのない、まっすぐな信頼だった。大人が来てくれたのだという安堵が、隠せないまま声に乗っている。先生は、それに応えるように、録音機へ手を伸ばしかけた。
同じ記録群の末尾で、リオは先生の死を報告した。子供たちを逃がすために残り、最後までアリスを呼び続けていたのだという。作戦のどこに修正の余地があるか、リオは泣きながら検討していたが、途中から「先生は悪くない」とばかり言うようになった。
先生の手は、録音機に届かなかった。アリスがその袖を掴んでいたからだった。振り返ると彼女は、泣き出す直前の顔で、今ここにいる先生の体温を確かめていた。
「先生も……リオ先輩を、置いていってしまったんですか」
「……あの記録の私は、帰れなかったんだね」
先生には、それ以上の言葉を選ぶ時間が必要だった。私なら助けられた、と言うことはできなかった。リオはとうに、その人の手を取っていた。そして、その人を失ったあとにも、一人で次の朝を迎えていた。
記録を聞く作業は、一晩では終わらなかった。授業の合間と放課後を使い、途中で退出した者が戻れるよう、誰も席を片づけなかった。アリスには何度でも聞くのをやめられると伝えられたが、彼女は毎回、自分の椅子まで歩いてきた。
百十九回目は、封鎖に成功したかに見えた。三百一回目は、ネットワークから切り離しても終わらなかった。避難先を変えた世界も、協力者を増やした世界も、覚醒を遅らせて時間を稼いだ世界もあった。順番を変え、設備を変え、言葉を変え、リオは同じ結末へ至る道を、少しずつ別の場所から歩き直していた。
その中には、幸福な期間が長かった記録もあった。アリスの異常が見つからないまま季節が移り、リオが録音を忘れそうになるほど平穏な日々が続いたものもある。そういう記録ほど、終盤で再生を止める者が増えた。
『明日も学校があると思っていたの。もう、終わったのだと……あの子に、新しいゲームを買ってしまった。続きは来週にしましょうって。今度こそ、来週が……』
モモイは、この録音を最後まで聞けなかった。廊下へ出て、声を殺すことにも失敗して泣いた。追ってきたミドリに背中を撫でられながら、どうしてゲームを買ったことまで悲しい話にされなければならないのかと、何度も言った。
誰もリオの記録から「仲間を信じればよかったのに」という教訓を取り出せなかった。彼女は信じていた。自分を信じ、友人を信じ、後輩を信じ、先生を信じて、その全員の最期を持ち帰っていた。
四百十七回目で、ユズは椅子から立ち上がった。アリスの内側に届くための接続手順が、音声と一緒に画面へ表示されている。違う部分はあったが、目的も、最後にみんなで呼びかけるところも、自分たちがエリドゥで行ったことによく似ていた。
『アリスちゃん、聞こえる? 帰ろう。ゲームの続き、まだあるよ。みんな待ってるから……リオ会長も、ここにいるから!』
ユズは、その先を知っているような気がした。アリスが顔を上げ、自分は勇者なのだと、自分自身の言葉で答える。それは、彼女たちが勝ち取った光景だった。だから、録音の中の自分にも、あと少しだと教えたかった。
アリスは返事をした。か細いけれど、確かに本人の声だった。部屋のあちこちで、抑えられていた息が漏れた。
『リオ、先輩……アリス、帰り……』
その後の声は、全員が重なっていた。モモイが何かを叫び、ヒマリが接続の維持を求め、リオがアリスを呼んでいる。助けを求める返事を聞いた直後に、波形は意味のない雑音へ変わった。
ユズはゆっくり座り直した。握っていたハンカチを広げようとしたが、指がうまく開かなかった。自分たちが手を伸ばした先へ、リオも手を伸ばしていた。その手に、もう一度触れられそうだったのに、届かなかった世界がある。
「……あそこまで、来てたんだ。会長も、アリスちゃんも……」
モモイは画面を見たまま頷いた。あの日、自分たちは諦めなかった。だから助かったのだと、ずっと思っていた。それは間違いではないはずなのに、諦めなかった者が失ったものの大きさを、今まで一度も知らずにいた。
五百回を越えた辺りから、リオの話し方が変わり始めた。人名の前に役職が付き、やがて役職だけになり、死の報告は短い一覧になった。泣く声が減ったので、かえってコタマは、その少し前の記録を何度も聞き直した。
五百六十二回目に、その理由があった。録音の最初に「次の自分へ」と告げたリオは、淡々と注意事項を述べた。その淡々とした声になるまでに、三度、録音をやり直していた。
『対策の確認には、結果と条件だけを使うこと。最後の会話を繰り返し聞かないこと。思い出すと、判断が遅れる。次に会った時、その顔を見るだけで、手順を間違える。……名前を呼ばれても、今の相手を見て。前の相手と、取り違えないで』
コタマは解析用のヘッドホンを外した。耳を押さえたのは音が大きかったからではない。他人の声を聞くことが好きだった彼女には、最後の会話を聞いてはいけないと自分に命じるまで、リオが何を繰り返したのかが、分かってしまった。
『合理的に判断すること。気持ちの強さを、成功率に置き換えないこと。私は助けたいと何度も思った。それで、助かったわけではない。泣いていても準備は進まない。……だから、やめなさい。お願いだから、もう、泣くのをやめて』
その最後だけ、相手を宥めるような声だった。冷徹な生徒会長のものではなかった。誰もいない部屋で泣きやまない自分を、一人の少女が持て余していた。
ユウカは、リオが計画の説明に用いていた数字を思い出した。避難完了までの秒数、予備電源の持続時間、シェルターの収容人数。それらは机の上で最も美しい答えを選んだ結果だと、そう思っていた。
実際には、どこかの世界で間に合わなかった秒数があり、電源が切れた時刻があり、扉の外に残った人数があった。予備費を積み増すリオに根拠を尋ねた時、彼女は少し黙ってから「必要だから」とだけ答えた。その沈黙に、ユウカは初めて中身を与えられてしまった。
「私、何も知らないで……予算の根拠も出さずに、って。ちゃんと説明してって、ずっと……」
ノアはユウカの背に手を添えた。説明を求めたことが悪かったわけではない、と言うことはできた。けれどその言葉を聞いても、友人の痛みは消えないと分かっていたので、まず、隣にいた。
六百四十回目の資料で、ノア自身の声が見つかった。避難者の名前を読み上げている。その途中に、現地で所在を確認できなかった生徒の特徴を添え、最後にリオへ、記録を託していた。
『私が覚えていられるのは、ここまでのようです。ですから……次は、会長がお願いします。あの子がどんな子だったか、名簿だけでは分からなくなってしまいますから』
ノアのペン先が止まった。ほとんど忘れることのない自分の記憶を、頼もしいと言われてきた。忘れないことを、誰かの役に立てるものだと思っていた。
リオには、覚えていると証明できる相手がいなかった。昨日まで一緒に泣いていた友人が、翌朝には何も知らずに笑っている。その友人の最期を抱えたまま、もう一度、はじめましてに近い距離から関係を作り直す。それを九百九十九回繰り返す中に、今、ノアが聞いた約束も含まれていた。
「……私、覚えます」
それだけでは足りないと分かっていた。もう終わった世界の友人には、自分の記憶力は届かない。それでもノアは新しいページを開き、読み上げられた名前を書き取った。書いているうちに涙が落ち、いくつかの字が滲んだ。
七百八回目には、トキの声があった。アビ・エシュフの警告音の中、リオが退避を命じていた。何度目の命令か分からないほど、その声は嗄れていた。
『撤退して、トキ。もういいわ。装備は放棄していい。あなたまで残る必要はないの。これは命令よ、聞こえているでしょう?』
『聞こえています。ですが、リオ様。今、私が離れた場合、あなたを守る者がいなくなります』
トキは目を伏せた。聞き覚えのない台詞なのに、言っている自分には覚えがあった。命令を守ることと、あの人を守ることのどちらを取るか、その瞬間の自分が迷わなかったことまで、理解できた。
リオの声が遠ざかり、機械を叩く音が続いた。隔壁を開けようとしていたのだと、後の報告から分かった。記録が切れる寸前、トキはいつも通りの声で、仕事を終える時の挨拶をした。
『また明日、リオ様。今度は、ちゃんと休んでください』
現在のトキが息を詰まらせた。呼吸の仕方を忘れたように胸元を押さえ、ネルがその肩を掴んだ。誰も泣けと言わず、我慢しろとも言わなかったが、彼女はなかなか最初の涙を落とせなかった。
「……私、休んでいただけたと、思っていたのでしょうね。次の朝には……」
八百回を過ぎると、余談がほとんどなくなった。任務に必要な指示だけを与え、人と会う時間を削り、リオは自分の周囲から生活の音を減らしていった。けれど各記録の最初に述べる目標だけは、変わらず残っていた。
『アリスの人格と生命を保持し、キヴォトスの崩壊を防ぐ。現時点での目標変更は、なし』
その声を聞いた時、ヒマリは顔を覆った。あの子を危険な機械としてしか扱わないのだと、リオを責めた時の自分の声が、耳の中に蘇った。今の録音より何倍も鮮明で、何倍も耳障りだった。
「あなたは……いつから、そうなったんですか。どうしてそんな人になったのかと、私は……聞きもしないで……」
チヒロが何か言おうとしたが、ヒマリは小さく首を振った。知らなかったのだから仕方がない。その言葉で守ってもらうには、たった今、知ってしまったものが重すぎた。
九百九十八回目にも、目標は同じだった。その世界のリオは、もうほとんど眠れていなかった。手順を読み上げる途中で、自分が何回目にいるのか分からなくなり、番号を確認するために録音を止めていた。
それでも、アリスに呼ばれると返事をした。声を冷たくしようとして、できていなかった。何百回もの訓練で削ったものが、その呼びかけ一つで、少しだけ戻ってしまうらしかった。
『リオ先輩。全部終わったら、ゲームをしませんか。今度は四人まで一緒に遊べます。交代すれば、みんなでできます!』
『……ええ。終わったらね。今度こそ、最後まで付き合うわ』
アリスは、その返事を聞いて両手で顔を隠した。録音の中の自分は、約束をしてもらったことを喜んでいた。今ここにいる自分は、あの人と一度もゲームをしたことがなかった。
モモイが抱き寄せ、ミドリが反対側から腕を回した。ユズは椅子を寄せて、その三人の手に自分の手を重ねた。しばらくして、アリスが指の隙間から、リオ先輩、と呼んだ。録音は続いていたが、返事をする声は、もうその箇所を通り過ぎていた。
九百九十九回目の最終記録は、長い無音から始まった。故障ではなかった。時々、布が擦れる音と、ひどく浅い呼吸が入っている。誰も早送りを提案しなかったので、全員で、リオが最初の言葉を口にするまで待った。
『……九百九十九回目。失敗しました。アリスは、助けられませんでした。ミレニアムも、キヴォトスも……同じです』
声にほとんど抑揚がなかった。これまでで一番、現在の彼女に近い声だった。それがどれほど恐ろしいことか、ここにいる全員が、もう知っていた。
『今回も、あの子は途中まで戻ってきました。私の名前を呼びました。前より長く、自分の意識を保っていた。だから、まだ修正できると……次は、もっと……』
何かが床に落ちた。拾う音はしなかった。リオは次の対策を述べようとして、同じ接続詞を繰り返したあと、黙ってしまった。
『次は、って……何をすればいいの。誰に頼めばいいの。どの方法なら、まだ……』
ヒマリの指が、机の縁から滑った。返事をしなければ、と思ったのだとチヒロには分かった。けれど、彼女の口からは言葉が出なかった。九百九十九回目の地下室へ、今すぐ差し出せる答えを持っていなかった。
『アリスが笑うと、できると思ってしまうの。今度こそ、この子と明日も会えると思って……あの子がゲームの話をするだけで、その続きを見たくなってしまう。だから、何度も、みんなを……』
ネルが、違う、と呟いた。スピーカーの音量を変えられるほどの声ではなかった。それでももう一度、違うだろ、と言った。自分たちが戦うと決めたことまで、一人で持っていくなと、届かない相手を叱った。
『次の私は、目標を変更してください。アリスの生存を、条件から……外してください』
ユウカが息を呑んだ。八百回を越えても変わらなかった一文が、ここで初めて失われた。リオはそれを、喉に何か引っかかったような声で、もう一度言い直した。
『あの子を助けたいという私の希望を、これ以上、みんなを死なせる理由にしないで。世界を残す方を選んで。アリスを……殺します。次は、私が、あの子を殺します』
トキが顔を上げた。自分が従った命令の、その前にあったものを聞いた顔だった。アリスは泣くのをやめていた。涙が止まったのではなく、その音を立てることさえできなくなっていた。
『怖がらせない方法を、考えます。苦しませない方法を。あの子が自分を悪い子だと思う前に……私が、ちゃんと……』
言葉はそこで途切れた。何度息を吸っても、続きを発音できないようだった。合理的な決定を告げた声のすぐ下から、最初の世界でお菓子を用意していた少女が、どうしても消えてくれなかった。
『……嫌だ。殺したくない。アリス、嫌よ、私……あなたに、そんなこと……』
録音機が何度か擦れた。抱え込んだのか、口元に押しつけたのか、理由は分からなかった。くぐもった声で、ごめんなさい、という言葉だけが続いた。誰に向けた謝罪なのか、途中からリオ自身にも分かっていないようだった。
最後に、彼女は小さく呼びかけた。冷静な自分へでも、次の自分へでもなかった。世界が終わって、もう返事をしてくれる者がいない場所で、何度も頼って、何度も失った相手を呼んだ。
『……先生。私、もう、分からない』
先生が顔を覆った。椅子の背に額を預けるようにして、しばらく動けなかった。子供が判断を誤った時に、その責任を引き受けると自分は言う。それなのに、その子が判断そのものをできなくなるまで繰り返した日々には、自分の手が届いていなかった。
誰も先生を慰めなかった。慰める余裕がなかったのでも、責めていたのでもない。今ここで交わす言葉を、あの声の持ち主にこそ聞かせたかった。
最後の記録群を閉じると、未分類の音声が一本だけ残っていた。作成日時は、エリドゥでの事件が終わった夜。チヒロは再生する前に全員を見渡した。頷けない者もいたが、席を立つ者はいなかった。
これは、今の自分たちの世界の声だった。警報は鳴っていない。遠くで建物の空調が動き、机に何かを置く小さな音がした。
『……千回目。アリスは、生きています。人格の回復を確認。箱舟の顕現は阻止され、キヴォトスは存続しています。ゲーム開発部、C&C、関係者全員……生存。みんな、帰りました』
先生は顔を上げた。覚えていた。あの時、自分たちはアリスを連れて帰った。後ろに残ったリオの表情を、敗北した人間のものとして見ていた。
『成功しました。……そう、成功。これが、私の目指していた結果です。アリスは、勇者になれた。あの子は間違っていなかった。モモイたちも、先生も、ヒマリも……よかった。本当に、よかった』
リオは、よかった、ともう一度言った。今度こそ、心の底から嬉しいと言える声になるように。けれど、次に吐いた息は小刻みに震えていた。
『どうして、今なの』
誰かが鼻を啜った。リオは、すぐに謝った。喜ばなければいけないのに、と自分を叱る声が続いた。
『嬉しいのよ。アリスが生きていて、みんなが笑っていて……本当に、嬉しい。そんなの、当たり前でしょう。ずっと、そのために……そのためだけに、私は……』
机の上で何かが倒れた。リオは直さなかった。これまでの録音で何百回も聞いた、呼吸を整えようとする間があり、そのあとに、自分でも聞きたくなかったらしい問いが落ちた。
『私が、あの子を殺そうとした時だけ、助かったの?』
アリスが首を振った。すぐ隣でモモイも振った。スピーカーから流れる声は、それを見ることなく、自分だけの答えへ進んでいった。
『私が助けようとしている間は、駄目だった。みんなと一緒でも、先生に頼っても、駄目だった。私があの子の敵になったら……あの子は、帰ってこられた』
「違う……それは、違います、リオ……!」
ヒマリの声が録音に重なった。彼女は膝の上の端末を掴んだまま、画面を見ていなかった。目の前にいるわけでもない相手へ、必死に顔を向けていた。
『なら、私はもう近づかない方がいいのかしら。みんながちゃんと助けられるのに、私が手を出すから……私だけが、あの子の明日に、いない方が……』
ノアが手帳を閉じた。最後まで記録すると決めた手が、そこで一度、止まった。リオは千回目の結果を分析していなかった。九百九十九回分の失敗で自分を裁き、ようやく得られた成功まで、その判決の理由に加えようとしていた。
『……少し、疲れたわ。次に何をすればいいのか、考えられない。もう戻らなくていいのね。アリスは、明日も……』
長い間があった。全員がその続きを待った。最後まで主語が自分にならないことに、途中で気づいたユウカは、声を出さずに泣いた。
『あの子には、明日も学校があるのね。よかった。……ごめんなさい。会って、よかったって言えなくて、ごめんなさい』
録音が終わった。今度は雑音で断ち切られなかった。リオ自身が停止ボタンを押した、小さな音で終わった。
会議室の時計は、そのあとも進んだ。ユウカはその秒針を睨むように見つめた。いつもなら会議の長さを気にするために見る時計だったが、今日は、何も起きないまま時間が進むことが、こんなに薄情に思えるのかと感じていた。
「私……会長は、自分が間違っていたのを認めたくなくて、いなくなったんだと……」
そこでユウカの声が潰れた。言い訳を続ける代わりに、口元を押さえた。ノアも否定しなかった。同じように考えた瞬間が、自分にもあった。
ハレが、画面に残った九百九十九の番号を消せずにいた。マキは、机に伏せていた顔を上げ、壁の避難経路図を見た。そこには、知らない自分が記録の中で使っていたものと、よく似た色の分け方が採用されていた。誰の知恵だったのかさえ、持ち帰った人にしか分からなくなっている。
ウタハはチヒロに、後でエリドゥの設計資料をもう一度見せてほしいと言った。調べるべき箇所があった。自分たちがアリスを救うために使った設備の一部に、過去の録音で協議していた構造が残っている。人を殺すためだけの計画にしたのなら不要な機能を、リオは最後まで削り切れていなかったらしい。
それを聞いたヒビキが、顔を歪めた。最終的に助かった理由のすべてが、それで説明できるわけではない。それでも、殺すしかないと決めた人の設計の中に、助ける時のための手順が残っていた。
「……まだ、捨てられなかったんだ。あの人……あそこまで行っても」
コトリが頷きかけて、できずに俯いた。説明できることを増やしても、それで誰かの苦痛が小さくなるとは限らない。今日は何度も、そのことを思い知らされていた。
アスナがぽつりと、会長はどこ、と言った。いつものように、いそうな場所へ走っていけば会える相手の名前を呼ぶ調子だった。誰も答えられないと分かると、カリンの手を握り直した。
「帰ってきたよって、言いたい。私たち、今度はみんな、帰ってきたんだもん。ちゃんと、顔を見て……」
カリンは頷いた。アカネは冷えきったお茶を下げ、今度は誰かのための手順を取り戻すように、空のカップを丁寧に揃えた。ネルはトキの肩から手を離し、代わりに正面へ回った。
「あいつの居場所、探すぞ。お前一人には任せねえ。あたしらも行く」
トキは、はい、と答えた。その一言が、任務への返答になりきらずに震えた。もう一度休んでほしいと伝えるために、まず会わなければならない。自分の知らない自分が交わした挨拶を、今度は、別れの言葉にしたくなかった。
ヒマリはリオとの通信履歴を開いていた。最後に送った文章を読み、消そうとして手を止めた。送られた言葉は、自分の画面から消したところで、相手の中から消えるわけではない。
「話してくださいと言います。何度でも……今更だと、あなたに言われても。私は、何を聞いたつもりで、あなたと話していたのでしょうね……」
その声は、後半になるほど小さくなった。チヒロは慰める代わりに、隣で探索用の端末を開いた。コタマが通信の履歴を整理し、ハレとマキが手伝い始めた。コユキも、さっき伏せられた端末を自分の方へ引き寄せた。
アリスが先生の袖を離した。泣き腫らした目で録音機を見て、それから、自分の声が届く距離にいる全員を見た。何かを言おうとして、最初の一度は、息しか出なかった。
「アリスは……リオ先輩と、ゲームをしたことがありません」
モモイの顔がくしゃりと歪んだ。アリスは膝の上で指を握り、続きを言った。言い切らなければ、自分も、録音の中だけにいる誰かになってしまうように思えた。
「でも、先輩は、アリスと何度も遊んでくれました。分からないところを教えてくれて、お菓子を用意してくれて……何度も、迎えに来てくれました。アリスは、そのことを、何も覚えていません」
ユズが俯き、ミドリは唇を噛んだ。誰もそれをアリスの責任だとは思わなかった。けれど、忘れてしまったのとは違う、最初から持っていない思い出を前にして、彼女が何を悲しんでいるのかは分かった。
「今のアリスも、先輩に会いたいです。先輩が知っているアリスにしか、会いたくなくても……それでも、会いに行きたいです。今度は、アリスの方から……」
先生は頷いて、アリスの隣にしゃがんだ。必ずうまくいくとは言わなかった。その言葉を口にした自分が、録音の中に何人もいると知ったばかりだった。
「会って、話そう。今ここにいる私たちで、リオを探そう。返事がすぐにできなくても、話すのが難しくても……今度は、それを待てる場所を用意しよう」
ユウカが執務室の鍵を机に置いた。トキが手を伸ばしかけると、彼女は首を振り、別の鍵を用意すると言った。戻ってきてすぐ仕事をさせるための部屋ではなく、誰かの足音が外に聞こえる、普通の部屋が必要だった。
ノアは捜索に必要な情報を、新しい紙に書き始めた。今度の名簿には、一人の名前しかなかった。その名前の隣に連絡確認の欄を作り、まだ何も書けないことを、しばらく見つめた。
最後に先生が録音機を持ち上げると、裏側にもシールが貼られていた。何度も親指で撫でたのか、字の一部が薄くなっている。そこに「全部終わったら、みんなで続きを」と書かれているのを読んで、先生の手が止まった。
アリスがその文字を読み、また泣き出した。モモイは彼女を抱きしめたまま、今度は自分も声を押し殺せなかった。小さな録音機の中には、ゲームの続きを待っていた人が、世界の続きを諦めるまでの声が残っていた。
窓の外から、下校する生徒たちの笑い声が聞こえた。ミレニアムには明日があり、アリスにも、ここにいる誰にも明日があった。リオが九百九十九回、欲しいと願い続けたものは、こんなにもありふれた顔をして、すぐそこで続いている。
先生は彼女の番号へ発信した。誰も席を立たず、誰も、もう大丈夫だとは言わなかった。呼び出し音が一つ鳴るたびに、アリスが扉の方を見た。
通話は、つながらなかった。もう一度かけ直す先生の傍らで、ノアの紙に書かれた調月リオの名前の隣だけが、いつまでも、空欄のままだった。