二つの世界を歩くエルフ   作:猫舌猫目

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日常の生活

エルシルヴァ郊外にある工房の作業場は、朝一番の冷気がまだ残っていた。

 

シルは作業台の脇を抜け、部屋の奥にある鉄黒色の大型枠組みの前へ向かう。

天井近くまで組まれた積層回路の棚枠の前でしゃがみ、配線の留め具を一つずつ指先でなぞった。

 

銀線に刻まれた微小なルーンに触れると、かすかな魔力の脈動が指先を痺れさせる。

 

「空間の歪みを固定する回路も、減衰は許容範囲ね」

 

三十年間、毎朝のように繰り返してきた確認だ。

まだ見ぬ遠い場所へ繋ぐための扉は、ようやく形になりつつある。

 

非魔導性金属の外装板に手を当て、拍動が狂っていないことを見届けてから、主電源の重いレバーを遮断位置へ落とした。

 

立ち上がると、腰の奥がきしんだ。

黒ずんだ指の腹を腰の油布で拭いながら、手前の作業台へゆっくりと足を向ける。

 

散らかった作業台の隅には、昨晩のうちに油紙で包んでおいた小さな木箱が、乱雑に積まれた鉄屑の脇に転がっている。街の鍛冶工房から頼まれていた、高圧用の魔力流動弁だ。

 

立ち止まってそれを眺めていると、作業の緊張が抜けたせいか、ふいに胃のあたりが小さく鳴いた。

 

「……危ない、また一日中ここに籠もるところだったわ」

 

独り言をこぼし、木箱を拾い上げ、床に置いてあった革鞄の底へ収めた。

 

そのまま表へ出ようと工房の木扉に手を伸ばしたが、真鍮の取っ手に黒い油の染みがべったりと付いているのが目につく。

ぎょっとして視線を落とせば、麻の作業着の腹にも袖口にも、削り粉や煤、作業後の埃がしっかりと散らばっていた。

 

扉から手を離し、手のひらで二、三度埃を払ってみたものの、繊維に染み込んだ油が落ちるはずもない。

 

「まあ、上から羽織れば分からないわね」

 

着替えるのも億劫になり、あっさりと諦めて棚から外出用の布外套を引っ張り出した。

前を大雑把に合わせて袖を通すと、肩口まで伸びた金髪を手櫛でざっと後ろへ払い、尖った耳の先をくぐらせるようにして留め具で無造作に束ねる。

 

鞄の重みを肩に馴染ませ、一呼吸置いてから、シルは重い工房の扉をぎぃと軋ませて押し開けた。

 

表通りの土を踏むと、朝日が大樹の並びと、白壁に太い木組みの梁が走る家屋の屋根を白く照らし出していた。

 

緩やかな坂を下って市街地へ入ると、石畳の路地に荷馬車の車輪がきしむ音や、建材を積み降ろす槌の音が響いている。

シルと同じようにすらりとした長身と長い耳を持つエルフの姿もあれば、背の低いドワーフや獣人の姿も混ざり、多種族が暮らす共和国らしい朝の活気に満ちていた。

 

目指す鍛冶工房の軒先へ回ると、鉄煙の漂う炉の前で腕を組んでいたドワーフの親方が顔を向けた。

 

「頼まれていた流動弁、調整終わったわよ」

 

シルが木箱を差し出すと、親方は天眼鏡を当てて真鍮の筒を覗き込んだ。

 

「……相変わらず手際がいいな、シル。この継ぎ目で歪みが出ねえのはあんたのところくらいだ」

「手加減して削ると熱で固着するから、冷やしつつ一気に落としたのよ。組み付けたら一度、低圧で循環させてみて」

「わかった、そうする。――ほら、約束分だ」

 

親方が差し出してきた革の小袋を受け取り、シルは手のひらで軽く弾ませてから、外套のポケットに押し込んだ。

 

工房を出た後は、裏通りを抜けて中央市場の広場へ向かった。

 

二百年余りを過ごしてきたエルシルヴァの街並みは、建物の建て替えこそあれ、石畳の広場に露店が並ぶ喧騒そのものは昔とそう変わらない。

干し草を敷いた果物屋台の前を通ると、馴染みの老爺が、木箱に山積みされた実を指差して声をかけてきた。

 

「よう、シル。生きてたか。また工房に籠もりきりかと思ってたぜ」

「たまには外の空気も吸うわよ。――それ、南の山向こうから入ってきたやつ?」

 

シルは木箱に山積みされた、皮の硬い橙色の実に指先を伸ばした。

 

「ああ、先週届いたばかりだ。酸味が強すぎてそのままじゃ食えねえが、菓子に放り込むなら上等だぞ」

「エヴァが甘酸っぱいのに目がないのよね。ロザリーに持っていったら、また甘やかしすぎって言われそうだけど」

「違えねえ。俺がガキの頃から、あんたはそうやって妹さんに怒られてたもんな」

 

老爺は笑いながら実を二つ三つ藁包みへ放り込んでくれた。

小袋から銅貨を掴み出して木皿へ放り、その足で近くの焼き菓子屋に寄って、目当ての堅焼き糖蜜パンを受け取る。

 

広場の鐘楼が昼を告げ始めたのはその直後だった。

見上げれば、日差しはすでに頭上にある。

 

「……あら、もうこんな時間」

 

小脇に抱えた包みから、ほんのりと温もりが腕に伝わってくる。

 

「冷めないうちに持っていこうかしら。ちょうどお昼だし」

 

シルは商店が並ぶ通りへと足を向けた。

 

妹夫婦が営んでいる店先には、近隣から仕入れた日用品や布地、細工物が整然と並んでいる。

店番に出ていた若い雇い人に軽く手を挙げ、シルは表の売り場を抜けて奥の居住区へ続く木扉を押し開けた。

 

「ロザリー、いる?」

「いるわよ、お姉ちゃん。勝手口から勝手に入ってきて、もう」

 

帳場の奥から顔を出した妹のロザリーは、シルの姿を見るなり眉をひそめた。

 

「またそんな格好で街を歩いてきたの? 襟元が煤けてるじゃない。それにその髪、結び目が斜めになってるわよ」

「歩いているうちに風で崩れたのよ。これ、途中で見かけたから買ってきたわ」

 

手土産の包みを突き出すと、ロザリーは小言を引っ込めて受け取り、中身を見て呆れたように笑った。

 

「エヴァの好きそうなやつね。……はい、そのまま上がらない。石畳の踏み込みで外套を脱いで、水場で手を洗ってらっしゃい。煤だらけの手でパンを触る気?」

「はいはい」

 

言われるがまま煤けた外套を脱ぎ、水瓶の水で手を流してから居間へ上がった。

食卓には、平焼きパンと豆の煮込み鉢が並んでいた。

 

奥の部屋からエヴァが小走りで顔を出す。

 

「あ、シルおばさん! いらっしゃい!」

「エヴァ、手伝いなさい。――アラミル、あんたもいつまで図面見てるの。席に着きなさい」

 

ロザリーが奥へ声をかけると、昼休みに工房から戻っていた甥のアラミルが、羊皮紙を片手にのそのそと入ってきた。妹のエヴァと同じ十六歳だが、どこか思索がちな顔つきをしている。

 

「こんにちは、シルおばさん」

「元気そうね、アラミル」

 

長椅子に腰を下ろし、四人で昼食をとった。

エヴァは包みから出した糖蜜パンをかじって足を揺らし、ロザリーはシルの器に煮豆を足しながら小言を並べ立てたが、シルは適当に相槌を打ってやり過ごした。いつものことだ。

 

食事が終わると、アラミルが待ちきれない様子で食卓の端に羊皮紙を広げた。

 

「あの、おばさん。今、工房の親方から任されてる街灯用の集魔板なんですけど……ここから出力弁に繋ぐと、基板の端がどうしても黒く焦げちゃうんです」

 

シルは身を乗り出し、黒インクで引かれた細い回路線を覗き込んだ。

 

「ここね。励起した魔力をそのまま蓄魔部へ突っ込もうとしてるでしょう」

 

指摘されたアラミルは、眉を寄せて図面を見つめ返した。

 

「え、でも、流速を落とすと全体の圧が足りなくなるって教本に……」

「志はいいけれど、ここに直接高出力を流したら回路板が焼き切れるわよ」

 

シルは人差し指で机の上にさらさらと空書きしてみせる。

 

「定流量回路を間に挟んで、三段階くらいで制御するの。圧を維持したまま余剰魔力を逃がす側路を組めば、板は焦げないわ」

 

アラミルは、シルが指で示したあたりをじっと見つめた。

まるで石のように動かなくなっていたが、次の瞬間、手元の控え紙に慌ててペンを走らせ始めた。

 

「側路……なるほど、ここで分岐させて戻すのか……!」

「あとは自分で試行錯誤してみなさい。焦げた基板の数だけ覚えるものよ」

 

アラミルが夢中で線を走らせていると、奥の木扉の向こうから表の呼び鈴が小さく鳴った。

 

「あ、お客さん来たみたい。お母さん、私行ってくるねー」

 

残ったパンの端を口に放り込み、エヴァは身軽に立ち上がって店先へと小走りで戻っていった。

アラミルもまた、羊皮紙を大事そうに巻き取ると、礼を言って足早に職場へ向かう。

シルはそれ以上手を貸さず、冷ました野草茶に口をつけた。

 

子供たちが出ていったあとの静かな居間で、シルは長椅子に身を預け、ぼんやりと天井の木目を眺めた。

帳場仕事の合間に茶を替えに来たロザリーの世間話を聞き流し、うたた寝をしながら、のんびりと夕方を待った。

 

やがて表通りの喧騒が落ち着き、夕暮れの鐘が遠くで鳴り響く頃、店じまいを終えたエヴァが戻ってくるのと入れ替わりに、台所で夕飯の支度を始めたロザリーが鍋の蓋をカタと鳴らした。

 

「もう暗いんだから、今日は泊まっていきなさい。どうせ工房に戻っても冷たいパンかじって夜更かしするだけでしょ」

「そうね。じゃあ、お言葉に甘えようかしら」

 

夕暮れすぎの食卓は、仕事先から戻ってきたアラミルを交え、昼間よりも一段と賑やかになった。

昼に買ってきた木の実を入れた肉煮込みを片付け、居間の器を水場へ運んだ頃、石畳の踏み込みの隅から、低い駆動音が響いてきた。湯を沸かす音が家の外壁に反響する。

 

「お姉ちゃん、お湯溜まったわよ。エヴァ、着替え持った?」

「持ったー! シルおばさん、先に入って!」

 

促されて脱衣場へ向かい、煤けた作業着を脱ぎ捨てる。

扉を開けると、ほのかに香る香木の匂いが漂う浴室の奥に、大人が足を伸ばしても余裕のある石造りの浴槽が据えられていた。

 

手桶で湯をすくって身体を流してから湯船に肩まで沈めると、一日の作業の重みが抜けていく。

 

「……ん、いい湯加減ね」

 

縁に頭を預けていると、木扉が開き、ロザリーとエヴァが入ってきた。

 

「あ、やっぱり先に入ってた。エヴァ、扉を閉めなさい」

「閉めてるよー。おばさん、お邪魔しまーす!」

 

軽くウェーブのかかった短い髪を押さえつつ洗い場へ向かうロザリーの後ろから、エヴァはポニーテールを揺らし、湯船に入ってきた。

 

「あー、生き返る……!」

 

エヴァは湯面を軽く叩き、隣のシルを覗き込んできた。

 

「ねえ、シルおばさん。さっき市場に行ったって言ってたけど、北通りの角に新しくできた服飾店、もう見た?」

「服屋? ああ、看板だけは見かけたわね。寄ってはいないけれど」

「あそこの留め具、魔石の粉を混ぜた軽量金具を使ってるらしくて、コートがすごく軽いんだって。うちの店のお客さんもみんな噂してるの。おばさんなら構造とかすぐ分かるんじゃない?」

「金具に魔石粉ね……耐久力を持たせるには配合が難しそうだけど、日常着なら軽さ優先で割り切ってるのかしらね」

 

シルが答えると、髪を流し終えたロザリーが湯船の空いている側へ腰を下ろしてきた。シルの長い耳の先を指先で軽く弾く。

 

「そんなことよりお姉ちゃん、湯上がりにちゃんと髪梳かしなさいよ。毛先が傷んで絡まってるじゃないの。素材の分析ばっかりしてないで、自分の手入れもしなさい」

「はいはい。上がったらちゃんと梳かすわよ」

 

小言を受け流し、手ですくった湯を首筋へ流した。

 

風呂から上がり、借りた寝巻きで客間の寝台へ横たわると、家の中の物音も静まっていった。

窓枠の隙間から月明かりが差し込んでいる。

 

誰もいない自宅工房の奥で静まり返っている、あの巨大な鉄の枠組み。

 

――もうすぐ、扉の向こうに行ける。

 

シルは毛布を引き上げ、そのまま眠りについた。

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