妹の家から工房へ戻った翌朝。
作業台の前に立ったシルは、小箱から取り出した乾いた布で、手元に並べた銀線の接点を磨いていた。
朝露が乾き始めた頃、工房の外から重い足音が聞こえてくる。
足音は次第に近づき、扉の前でぴたりと止まった。
ガン、ガン、と遠慮のない拳の音が木扉を震わせる。
「シル、いるか。頼まれてたもんを持ってきたぞ」
扉を開けると、使い込まれた革の前掛けを締めたドワーフの男――ガルドが立っていた。
背中にはずっしりとした布包みを背負っている。
「入って、ガルド。待ってたわよ」
シルが招き入れると、ガルドは作業台の空いている場所に背負っていた包みをドスンと音を立てて下ろした。
顎一面を覆う黒混じりの髭には白髪が目立ち、職人としての歳月の重みを漂わせている。
太い指で肩を揉みながら、大きく息を吐いた。
「重かったぜ。高圧に耐えるように密度を限界まで叩き締めたからな」
解かれた油布の中から現れたのは、鈍い銀光を放つ肉厚の金属接合環だった。
シルが金属環の表面を指先でなぞると、継ぎ目に引っかかることもなく、滑らかに一周する。
「さすがね。相変わらずいい腕してるじゃない」
「当たり前だ、誰に頼んだと思ってやがる。昔、遺跡の奥でわけのわからねぇ金属を引っ張り出した時を思い出せ。あの固い金属を叩き割ったのに比べりゃ、これくらい屁でもねえよ」
「私達が解散してから、百十年くらいだっけ」
「九十年だ。俺もすっかり爺いだが、あんたの見た目はちっとも変わらねえな」
ガルドは口を三日月形に曲げて、くつくつと笑った。
二人が金属環の寸法を確認していると、開け放たれていた扉から、ふわりと甘い香水の匂いが漂い込んできた。
「あらあら、相変わらず埃っぽくて色気のない工房ねぇ」
戸口に現れたのは、サキュバスのリリスだった。
頭の両脇から大きく巻いた黒褐色の山羊角が伸び、背中には薄紫色の膜を持つ蝙蝠の翼がたたまれている。
身にまとっているのは、黒と象牙色に金の刺繍が入った聖職者の衣装だ。
「リリス。教会の務めはいいの?」
シルが振り向くと、流し目を向けたリリスの口元がほころんだ。
腰まで伸びた藤色の髪が、肩の動きに合わせてさらりと揺れる。
二百七十歳を迎えているはずのその美貌には、歳月による衰えなど微塵も見当たらない。
「午前の務めは終わったわよ。通りを歩いてたら、ガルドが大きな包みを担いで坂を上がっていくのが見えたから寄ってみたの。……シル、相変わらず作業着のままね。少しは綺麗な服でも着たらどうなの?」
「作業する場所に色気なんていらないわよ」
シルが軽く笑って流すと、ガルドが髭を揺らした。
「違えねえ。こいつに色気を求めても無駄骨だ」
「二人揃って無粋なんだから」
リリスが呆れたように言う。
作業台の上の金属環を見下ろしたシルは、拭き布を台へ置き、背筋を伸ばした。
「組み付ける前に、特殊な油に一晩浸して、魔力の馴染みをよくしておかないとね」
シルは油槽へ視線を移し、ふと思いついたように顔を上げた。
「……ちょうどいいわ。喉も渇いたし、一杯付き合ってよ。奢るから」
「乗った。昼飯がまだだったんだ」
ガルドが即座に頷き、リリスも声を弾ませた。
「奢るなら、いくらでも付き合うわよ」
シルは作業台の脇に置かれた角型の浸漬槽へ金属環を沈め、澄んだ油が表面を覆うのを見届けてから手を拭った。
三人は工房を出て、市街地の路地裏にある馴染みの酒場へと足を向けた。
店に入ると、麦酒の酸味を帯びた匂いに、香草を利かせた料理の香りが混じっている。
壁や床板には、長年にわたって染みついた客たちの汗の匂いも残っていた。
そんな酒場特有の匂いに、隣を歩くリリスの甘い香水がふわりと重なる。
昼下がりの酒場はまだ客足もまばらで、奥の木製テーブルに腰を下ろすと、冷えた麦酒の入った木ジョッキが三つ置かれた。
「久しぶりに三人揃ったんだ。乾杯といこうぜ」
ガルドがジョッキを持ち上げ、シルとリリスもそれに応じた。
三つのジョッキが鈍い音を立てて触れ合う。
シルも麦酒をひと口飲み、冷たい苦みで乾いた喉を潤した。
運ばれてきた料理をつまみながら、最初の一杯をゆっくりと飲み終える。
「生き返るな」
ガルドが泡のついた髭を手の甲で拭った。
リリスはジョッキを傾け、薄暗い店内を見回す。
「ここに来るのも久しぶりね。……昔、五人で依頼の帰りに毎日のように通ってた頃を思い出すわ」
「アレンがいつも飲み過ぎて、エレンに耳を引っ張られてた席ね。懐かしいわ」
シルがテーブルの端を指さすと、ガルドも懐かしそうに視線を向けた。
「あったな、そんなことも。あいつらが結婚して冒険者を引退した時、リリスが本気で荒れて酒を煽ってたのが昨日のことのようだぜ」
「ちょっと、昔の失恋話を蒸し返さないでよ」
リリスが抗議するようにジョッキを置いたが、その表情には刺々しさはなく、柔らかな苦笑が浮かんでいた。
「でも、いい奴らだったわ。二人とも長生きして、孫の顔まで見て……逝くときは本当におだやかな顔だったもの」
「ええ。二人が生きてたら、『また変なこと始めてる』って大笑いしたでしょうね」
シルが微笑むと、ガルドも静かに頷いた。
「まったくだ。五人で知らねえ土地に入っては、よく余計なものを持ち帰ったもんだ」
「余計なものって、ガルドが持ち帰った鉱石のこと?」
「ありゃ余計じゃねえ。お前に言われたくはねえぞ、シル」
「ふふ。そういえば、今度は知らない土地どころか、別の世界なのよね」
リリスがガルドのジョッキへ視線を向け、それからシルを見た。
「ねえ、あのゲートが完成して、いつか私たちも通れるようになったら、二人はどこへ行きたい?」
「まずは向こうの鍛冶場だな。どんな金属を使って、どんな道具で加工してるのか見てえ」
「せっかく別の世界に行くのに、仕事の話なの?」
「見るだけでも面白えだろ。おめえはどうなんだよ」
「私は街を歩いてみたいわ。どんな服を着て、何を食べて、どんな暮らしをしてるのか。……素敵な殿方がいるかどうかも気になるわねぇ」
「最後のが一番気になってるんじゃねえのか」
「失礼ね。どれも大事よ。シルだって、向こうでいい人に出会うかもしれないでしょう?」
「私? それより、見たことのない道具や料理の方が気になるわね」
「ほら、やっぱり無粋じゃない」
ガルドが声を上げて笑った。
「で、俺たちが通れるようになるのはいつなんだ?」
「それはまだ分からないわ。まずは接続を安定させないとね」
「じゃあ、向こうの鍛冶場の話は、それが済んでからだな」
「ええ。行けたら面白そうね」
話が弾むうちに、ガルドは麦酒をおかわりしていた。
仕事を終えた職人や商人たちが次々と店に入り、まばらだった客席もいつの間にか埋まっていく。
食器の触れ合う音や、木ジョッキを打ち合わせる乾杯の音が、あちこちから聞こえてきた。
シルがふと小窓へ目を向けると、路地を照らしていた夕暮れの光はすっかり消えていた。
「……あら。もうこんな時間なのね」
三人は席から立ち上がり、勘定を済ませて外へ出た。
「じゃあな、シル。何かあったらすぐ言えよ」
「ええ。ありがとう、ガルド」
「今度は試験の結果を聞かせてちょうだい」
「もちろんよ。またね、リリス」
ガルドは片手を上げ、リリスも軽く手を振った。
酒場の前で二人と別れ、シルは一人で工房へ戻った。
浸漬槽に沈む金属環が気泡を吐き出すのを確かめ、シルはその夜、早めに明かりを落とした。
翌朝。
油槽から引き上げた金属環を布で丁寧に拭い、ゲート主幹線の接続部へと組み込んだ。
ネジを締め、真鍮の固定具を噛み合わせると、寸分の狂いもなく吸い付くように収まった。
金属環の接合部を指でなぞる。隙間はない。ガルドの腕は確かだった。
シルは積層回路ラックの前にしゃがみ込み、主制御盤と各接続部を確かめた。
作業台には、これまでの試験で書き直しを重ねた図面が広がっている。
遮断条件を記した箇所を見直し、魔力供給が停止できる状態かもう一度点検した。
長年の失敗と調整を重ねてきた回路の全てが、一本の太い魔力幹線へと結ばれている。
今日行うのは、外部へ繋がない単体での無負荷安定試験。
シルは主制御盤の安全遮断弁を順に解除し、壁際に据えられた主電源の重い開閉レバーに手をかけた。
気づけば、レバーを握る指に力がこもっている。
静かに息を整え、レバーを引き下ろした。
低く重い駆動音が、床板を通して足裏へ響き渡った。
積層回路ラックに刻まれた数千のルーンが一斉に淡い青白い光を帯び、銀線を伝って魔力信号が駆け巡る。
だが――鉄枠には反応がない。
駆動音だけが工房に響き続ける。シルは思わず唾を飲み込んだ。
(……反応して)
祈りが通じたかのように、鉄枠の内側で空気がかすかに揺らぎ、空間が水面のように波打った。
暴走の兆候はない。
ガルドの高耐圧部材が激しい魔力圧をしっかりと受け止めている。
回路内の魔力循環、そして、フレーム内における空間歪曲の維持――その均衡を確かめるように、制御盤の針が鋭く跳ね上がり、基準値の目盛りでぴたりと止まった。
測定値を手元の記録紙に書き出し、主電源のレバーを元の位置へ戻す。
空間の膜がふっと消え、駆動音が静かに収まっていった。
工房に再び静寂が戻った。
身体の力が抜け、シルは思わず石壁に手をついた。
シルはしばらく鉄枠を眺めていた。
つい先ほどまで内側で波打っていた空間は、もう元の姿に戻っている。
「……ふふ。うまくいったわね」
気がつくと、口の中が乾いていた。
シルは作業台の脇に置いてあった水差しからカップに水を注ぎ、ひと息に飲んだ。
電源を切った後の鉄枠は、熱を冷ましながら高窓からの朝の光を受けている。
「さて、次は座標の調整ね」
シルは試験中に控えた測定値を研究記録に書き込み、座標固定回路の図面を引き寄せた。
調整する箇所に印をつけ、最初の調整量を計算し始めた。