二つの世界を歩くエルフ   作:猫舌猫目

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地球へ

実験を終えた翌朝、作業台の散らかりを片付けたシルは、本棚の奥から革表紙の古い手帳を取り出した。

 

幼い頃、頭の奥にこびりついていた奇妙な光景を、忘れぬよう書き留めておいた手帳だ。

経年で角の丸くなった紙をめくると、拙い筆跡で描かれた衣服の図面が残されていた。

 

筒状のズボンに、首元の襟、そして左右に分かれた上着。

別のページには、車輪のついた鉄の乗り物や、背の高い建物が並ぶ街の絵もあった。

 

以前、転移門の調整に目処が立った頃合いに、この手帳から図面を書き写して馴染みの仕立て屋へ渡しておいた。

数日経つし、そろそろ出来上がっているだろう。

 

シルは手帳を閉じ、棚のいつもの場所へ戻した。

 

工房を出て緩やかな坂を下り、エルシルヴァの中心街へと向かう。

石畳が続く通りを進み、長年付き合いのある仕立て屋の木扉を押した。

 

頭上で小さな鐘が鳴る。

 

「シルさん、いらっしゃい。頼まれていた仕立て、ちょうどできあがってるよ」

 

作業台から顔を上げた初老の店主が、木製ハンガーに掛けられた一着を差し出した。

深い灰色の織り生地で作られた、直線的な裁断の上着とズボン。

店主は布地の縫い目を指先で撫で、どこか不思議そうに眉を寄せた。

 

「しかし、珍しい注文だったね。あんたが作業着以外の服を頼みに来るだけでも驚きだが、こんな形の服は仕立てたことがないよ。……今日はロザリーさんは一緒じゃないのかい?」

「ちょっと遠出の旅に出ようと思ってね。動きやすくて丈夫な旅着にしたかったのよ。妹に見せたら、またあれこれ世話を焼かれそうだしね」

 

シルは笑って軽く受け流した。

 

「ありがとう。試着してみてもいいかしら」

「もちろん。奥の仕切りを使ってくれ」

 

奥の試着スペースに入り、上着と普段のズボンを脱ぐ。

無地のシャツの上から注文の上着を羽織り、スラックスにはき替えた。

 

ボタンを留めた瞬間、胸が強く圧迫されて、呼吸が浅くなる。

腕を前に伸ばすと、肩の付け根が突っ張り、これ以上は動かせない。

鏡を見れば、胸のふくらみで生地が横に引き伸ばされ、留められたボタンを中心に、ひきつったような皺が無数に寄っていた。

 

シルはカーテンを開け、突っ張った胸元の生地を指先でつまんで店主に見せた。

 

「形はその通りなんだけれど……腕を動かすと肩と胸のあたりがきつくて、息苦しいのよね」

 

店主はシルの姿を一目見るなり、苦笑して頷いた。

 

「ああ、こりゃ窮屈そうだ。すぐに直せるから、脱いで待っててくれ」

 

店主は縫い目をほどき、胸元と肩の生地にゆとりを持たせて縫い直した。

 

再び袖を通すと余計な突っ張りは消え、腕の動きに布が無理なくついてくる。

胸元の生地も自然に収まり、動きやすくなっていた。

シルは代金を支払い、包んでもらった服を受け取った。

 

店を出ると、昼下がりの商店街は穏やかな賑わいを見せていた。

シルは珍しい物はないかなと店先の品物を眺めつつ歩き、少し奥まった場所にある古物店へと向かった。

 

薄暗い店内に足を踏み入れると、埃と古い羊皮紙の匂いが漂ってくる。

 

「いらっしゃい……おや、シルさんか。今日はどんな珍品を探しに?」

 

カウンターの奥から顔を出した痩身の店主が、眼鏡の奥からシルを見やった。

 

「少し前に立ち寄ったときに見せてもらった、出所不明の紙細工をいくつか譲ってほしいの。絵柄が細かく刷り込まれた、あの薄い紙の束」

「ああ……あの紙か。破れもしないし妙な透かしが入っているが、何の用途かも分からん代物だ」

 

店主が木箱から取り出して並べた紙を、シルは指先で一枚ずつ裏返して確かめた。

滑らかな手触りと、精密な印刷技術を思わせるデザイン。

手元の革袋から金貨数十枚を取り出し、カウンターへ置いた。

 

「手元にある分をまとめて分けてもらえる?」

 

店主は淡々と金貨の枚数を改めると、頷いて束ねた紙を手渡した。

シルはそれらを丁寧に二つ折りにし、持参した小さな革袋へ滑り込ませた。

 

工房へ戻ると、西日が作業場の高窓を赤く染めていた。

シルは包みと革袋を作業台に置き、奥の大型鉄枠へ向かった。

 

昨日の無負荷試験は成功した。

ただ、接続先座標の固定調整だけは残っている。

 

シルは制御盤に並ぶ調整子を動かし、計測値を見ながらわずかなずれを詰めていった。

値が落ち着いたところで固定回路を閉じ、いったん魔力の供給を落とした。

 

再び通電して計測値を確かめる。

接続先の座標は、先ほどの値からずれていなかった。

 

「うん。大丈夫そうね」

 

次に出口制御魔導具を作動させ、接続先の空間と足場、周囲の障害物を確認した。

危険を示す反応はない。

シルはようやく制御盤から手を離した。

 

包みを開き、無地のシャツの上に仕立て直したジャケットを羽織り、スラックスにはき替える。

革靴を履いて、先ほどの革袋を上着の内ポケットに収めた。

 

大型鉄枠の前へ戻り、制御盤の接触子を順に押し込んで主回路へ魔力を流していく。

鈍い励磁音とともに空間が歪み、枠の中央に青白い光の裂け目が固定された。

 

シルは一呼吸置き、静かにその裂け目を跨いだ。

 

視界がふっと反転し、空気の肌触りが一変した。

 

湿ったアスファルトの冷気と、焦げた油のような微かな排気ガスの臭気。

足を進めるたび、土や木材とは違う均一な硬さが伝わってくる。

足元には排水溝を塞ぐ頑丈な鉄格子。

 

左右を灰色の高い壁に挟まれ、見上げた頭上には細く白い空が切り取られていた。

 

背後を振り返る。

空間の歪みは路地の薄暗がりに、熱気のようなかすかな揺らぎとして溶け込んでいた。

真正面から覗き込んでも、物陰の淀みにしか見えないだろう。

 

灰色の壁の向こうに何が広がっているのか。

期待を胸に路地を抜けた瞬間、視界が一気に開けた。

 

平坦にどこまでも続く硬質な舗装路と、天を衝くようにそびえ立つ無数の巨塔。

継ぎ目の見当たらない壁面には、信じられないほど巨大で均一な板ガラスが整然と嵌め込まれている。

建物の間には、黒い被膜に覆われた細い線が幾筋も張り巡らされていた。

 

車道を滑り抜けていくのは、手帳通りの鉄の乗り物だ。

生き物の牽引も、魔力の気配すらもない。

ただ純粋な機械の唸りと熱気、そして独特の風圧だけを残して疾走していく。

 

手帳に記された街並みそのもの――だが、実物が放つ圧倒的な情報量と加工精度に、シルは思わず息を呑んだ。

 

(……本当に、手帳に記した通りなのね)

 

幼少期に書き留めてから、すでに二百年余りが経っている。

それほどの年月が過ぎたとは思えない目の前の光景に、シルはわずかな違和感を覚えた。

 

だが、立ち止まって考え込むのは後回しだ。

 

通りを行き交う人々へ目を向けると、まず気になったのは自分の格好だった。

男性たちの中には、自分と似た形の上着とズボンを身につけている者がいる。

それに対し、女性たちの装いは色とりどりのスカートや柔らかな服など、実に多彩だった。

 

(……手帳に書かれていた服と、よく似ているわね)

 

そしてもう一つ、すれ違う人々の姿を何気なく眺めていて、シルはあることに気づいた。

 

尖った長い耳も、角も、翼も、小柄なドワーフも、大柄な獣人や鬼の姿もない。

エルシルヴァでは多様な種族が当たり前に混ざり合って暮らしているが、この通りを埋めているのは、人間の姿ばかりだった。

 

(……ここは、本当に人間ばかりなのね)

 

すれ違う何人かの視線が、物珍しそうに自分の耳元や姿に向けられるのを感じたが、それ以上気に留めることもせず、シルは上着の内ポケットにある革袋の厚みを確かめた。

 

あれも見たい、これも確かめたいという気持ちがあふれ、シルは見知らぬ街並みの中へと歩きだした。

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