背後では、男たちの言い争う声がまだ続いていた。
騒ぎに気づいて足を止める人が増え、声のする方へ近づこうとする者もいる。
女性はシルの手を引いたまま、通行人と肩が触れないよう身をかわしながら、人波の間を進んでいった。
歩くあいだも、シルの手には女性の手の感触が伝わっていた。
強く握られているわけではない。
それでも、その手が離れることはなかった。
シルも女性の歩幅に合わせて進んだが、騒ぎを見ようとする人々が次々と集まり、なかなか前へ進めない。
女性が一度だけ後ろを振り返った。
騒ぎのあった場所には、まだ人だかりが見える。
誰かがこちらを追ってくる様子はない。
女性は前を向き、大通りから続く細い道へ入った。
角を曲がると、騒ぎのあった通りは建物の陰に隠れ、言い争う声も次第に遠ざかっていく。
人通りの少なくなった道を早足で進み、やがて二人は小さな公園にたどり着いた。
木々の間にはベンチが並び、大通りの喧騒はかすかなざわめきに変わっていた。
風に揺れる葉の音に、時折通りかかる人々の話し声が混じっている。
そこでようやく、女性はシルの手を放した。
握られていた手のひらには、まだ温もりが残っている。
「ここまで来れば……少しは落ち着けるかな」
女性は膝に手をつき、前かがみになって肩で息をした。
呼吸が整わないまま、彼女はシルの顔を見ないで尋ねる。
『……大丈夫?』
言葉の意味は分からない。
けれど、息を切らしながらも自分を気遣う声から、怪我がないか確かめているのだろうとシルは察した。
シルが小さくうなずくと、女性はゆっくりと体を起こした。
そこで初めて、二人の目が合う。
女性は一瞬、目を見開いた。
シルの顔をじっと見つめ、長く尖った耳や見慣れない服装へと視線を移していく。
やがて、女性の頬が赤く染まっていった。
ふいに目をそらすと、今度は自分の手元へ視線を落とす。
先ほどまでシルの手を握っていた、その手に。
『あ、あの……さっきは……』
女性は言い終えると、気まずそうに視線を泳がせた。
頬の赤みはまだ引かず、片手で顔をあおいでいる。
シルは、助けてくれた相手に礼を伝えようとした。
『助かったわ。ありがとう』
胸元の首飾りがトクトクと脈動する。
だが、こちらの言葉を相手に伝えるには、魔導具の解析がまだ足りなかった。
女性はあおぐ手を止め、シルの声に耳を澄ませた。
音を聞き取ろうと眉を寄せ、口元をわずかに動かす。
それでも意味は伝わらなかったのだろう。
困ったように眉をひそめ、視線を地面へ落とした。
短い沈黙のあいだ、彼女は考え込んでいた。
やがて、何かを思いついたように顔を上げる。
シルの目を見つめ、自分の胸元に手を当てた。
『わたし……ミサキ。ミ・サ・キ』
指先で自身を示し、口元をゆっくり動かして、名前の音を一つずつ区切って伝えようとしている。
(……名前を教えてくれているのね)
『ミサキ?』
女性の顔がぱっと輝いた。
嬉しそうなうなずきに、発音が合っていたのだとシルにも分かった。
シルはもう一度その名を口にし、今度は自分の胸に指先を当てた。
『私はシル。シ・ル』
『……シル?』
美咲が首を傾げて聞き返した。
シルは微笑み、しっかりとうなずく。
互いのことはまだ分からない。
それでも、名前だけは通じ合えた。
シルの胸に安堵が広がり、美咲の表情からも、先ほどまでの困惑が和らいでいった。
そのとき、美咲の鞄から電子音が鳴った。
美咲は鞄からスマートフォンを取り出し、画面を確認した。
何が表示されていたのか、シルには分からなかったが、美咲の表情がさっと変わる。
スマートフォンを握ったまま弾かれたように顔を上げたとき、美咲の体はすでに公園の出口を向いていた。
シルの長く尖った耳を指さし、焦りをにじませた声で早口に告げる。
『その耳……! 写真……撮られてた……気をつけて……!』
言葉のすべては理解できない。
けれど、耳を指す仕草と先ほど撮影されたことを思い返し、注意を促されているのだとシルは察した。
『耳がどうかしたのかしら』
問い返したものの、美咲に答える余裕はなかった。
スマートフォンを握り直し、公園の出口へ向かって歩き出す。
数歩進んだところで振り返り、空いた手を大きく振った。
シルも小さく手を振り返す。
美咲の華奢な背中が木立の向こうへ消えるまで、静かに見送った。
しばらく公園に立ち、遠くの気配に耳を澄ませてみた。
大通りの騒ぎはまだ完全に収まっていないようで、細い路地を伝って微かな喧騒が漏れ聞こえてくる。
長居をすれば、余計な厄介事に巻き込まれるかもしれない。
シルは胸元の首飾りを確かめる。
今もトクトクと微弱な脈動を刻み続けていた。
(音声がどれだけ集まったか、確認しないとね)
シルは胸元の銀細工に触れ、音声収集を終了させた。
首飾りから伝わっていた微かな脈動が止まる。
公園を出ると、大通りの騒ぎを避けて裏道へ入った。
街へ来たときの記憶をたどり、最初に降り立った路地を目指す。
アスファルトを滑る無数の車、目新しい衣服や甘い焼き菓子の匂い。
突然絡んできた男の無遠慮な視線と、執拗につきまとう態度。
手を引いて走ってくれた美咲の温もり、そして去り際の言葉。
今日目にした光景や触れた感触を胸に刻みながら、静かに歩みを進めた。
人通りの途絶えた薄暗い路地の奥で立ち止まり、周囲を見渡す。人影はない。
懐から出口制御魔導具を取り出して魔力を流し込むと、空間の歪みを確認する回路が無音で作動し、帰還の術式が静かに立ち上がった。
薄暗がりに青白い光の裂け目が広がり、その向こうに工房の床と作業台が覗く。
シルは迷わず、光の裂け目を通り抜けた。
靴底に伝わる感触が、舗装路の均一な硬さから、工房の石床のわずかな凹凸へと変わった。
先ほどまで歩いていた異界の街並みには心を惹かれたが、やはり見慣れた工房に戻ると、自然と肩の力が抜けていく。
シルは胸元の首飾りを外し、作業台の測定器に接続して解析状況を確かめた。
今日集めた音声は、無事に記録されていた。
繰り返される音や言葉の区切りには、いくつかの規則性が見つかっている。
だが、それぞれが何を意味しているのかを読み取るには、まだ解析が足りない。
(でも、手掛かりは得られたわね。解析を進めれば、次に訪れたときには簡単な日常会話くらいできるかもしれないわ)
シルは測定器の表示を眺めながら、首飾りの銀細工にそっと指先を触れた。