地図守りのセイは、獣の足跡や川の匂い、大地を伝わる響きを覚え、人々を安全な道へ導く役目を受け継いでいた。ところが雪解けの季節になっても、谷を通るはずの渡り獣が現れない。代わりに空へ姿を見せたのは、幾つもの黒い輪を重ねた「輪の客」だった。やがて、客が残した白いものは、セイの知る地図を少しずつ変えていく…。

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道は大地にない

 最初に消えたのは、渡り獣の道だった。

 

 谷の北側には、雪解けの季節になると必ず獣たちが通る細い道があった。地面に踏み跡が続いているわけではない。草の倒れる向き、木の幹に残された毛、湿った土に染み込んだ匂い、そして群れの足が大地へ残したかすかな響き。それらを一つずつ拾い、頭の中でつなぎ合わせて、ようやく見えてくる道だった。

 

 セイは、そのような目に見えない道を覚え、人々へ伝える地図守りだった。地図守りが受け継ぐのは、板や皮に描かれた一枚の絵ではない。どの川がいつ浅くなるのか、どの森で何の実が採れるのか、どの山道が崩れやすいのかを、歌や匂い、足踏みの調子に置き換えて記憶する。そして狩りや旅の前には、必要な道を人々に教えるのである。

 

 セイが渡り獣の道を覚えたのは六年前だった。当時、まだ師の後ろを歩くことしかできなかったセイに、ハダは何度も同じことを教えた。

 

「道は大地にあるのではない。歩くものの中にある。獣が歩けば獣の道になり、水が流れれば水の道になる。そして、われわれが忘れれば、道はなくなる」

 

 だからセイは、雪解けのたびに一人で谷へ入った。渡ってきた獣の数、若い個体の数、群れが谷を通った日を覚え、集落へ持ち帰る。渡り獣が前年とは違う道を選べば、その先の森や川に何かが起きたとわかる。獣の歩みをたどることは、故郷全体の変化を読み取ることでもあった。ところが、その年は雪が解けても獣たちが来なかった。足跡も、木に絡んだ毛も、群れが残す低い響きもない。谷は不自然なほど静まり返り、青い苔だけが例年と変わらず胞子を放っていた。

 

 セイは谷の奥まで進んだ。しかし、どれほど大地へ意識を集中しても、感じられるのは水が岩を洗う響きと、自分自身の足音だけだった。獣食いに襲われたのなら、血や争った跡が残る。群れが道を変えたのなら、どこかに新しい足跡がある。それにもかかわらず、何も見つからなかった。

 

 やがて日が傾き始めたため、セイは集落へ戻ろうとした。そのとき、谷へ落ちている影がおかしいことに気づいた。見上げると、雲の下に黒いものが浮かんでいた。

 

 それは、幾つもの輪を重ねたような形をしていた。それぞれの輪が異なる向きへゆっくりと巡っていたものの、風に運ばれている様子はない。中央には何もないはずなのに、そこから見える空だけが夜のように暗く、近くの雲も水面に映った姿のように歪んでいた。空を飛ぶ獣ならば翼があるはずだったが、黒いものには身体を支える翼が見当たらない。ときおり輪の間を淡い光が流れるばかりで、鳴き声も羽ばたきも聞こえなかった。

 

 セイが立ち尽くしていると、黒い輪の中央から小さな光が落ちてきた。光は谷底へ近づくにつれてゆっくりとなり、大地へ触れる直前で止まった。そこに現れたのは、丸みを帯びた白いものだった。磨かれた石にも、甲殻を持つ生き物にも見えたが、表面には目も口もなかった。身体の下からは三本の細長い肢が伸び、大地へ下ろされていた。

 

 白いものはセイの少し手前で動きを止めた。セイは姿勢を低くしたまま、相手の様子をうかがった。危険な獣ならば、息遣いや筋肉の動きから次に何をするのか予測できる。しかし、白いものには胸の上下も、匂いも、体温の揺らぎもなかった。やがて、その表面に紫色の細い光が現れた。光は白い身体を巡った後、セイの頭から足もとまでをゆっくりとなぞった。痛みはなかったものの、身体の表面がざわつき、しばらく痺れが残った。

 

 光が消えると、白いものはセイから興味を失ったように向きを変えた。

 

「待て」

 

 セイは呼びかけながら、足もとの大地を踏んだ。

 

 長く。短く。もう一度、長く。

 

 それは、遠くにいる仲間へ自分の存在を伝えるための古い呼びかけだった。すると白いものは止まったため、セイは同じ調子でもう一度大地を踏んだ。しかし、返事はなかった。その代わり、白いものの脇から細い針のようなものが伸び、大地へ突き刺さった。針は硬い岩を前にしても止まらず、しばらくすると土を付けたまま引き抜かれた。

 

 その後、白いものは三本の肢を身体の内側へ折りたたみ、ふわりと浮かび上がった。そして水面を進む小舟のように空を滑り、谷の奥へ消えていった。

 

 その日の夕暮れ、渡り獣の道に銀色の柱が立っていた。

 

 

 * * *

 

 

 集落の者たちは、空から来た黒いものを「輪の客」と呼んだ。長老たちによれば、客である以上、いつかは去るのだという。季節外れの嵐を運んできたのだと考える者もいれば、地の底に眠っていた神々が空に新しい門を開いたのだと主張する者もいた。しかし、セイは客という呼び名を信じきれなかった。客ならば、まずこの土地の者へ言葉をかけるはずである。それに、渡り獣の行方もわからないままだった。

 

 それから間もなく、銀色の柱は谷だけでなく、森や河原、集落の近くにも立つようになった。高さはセイの腰ほどで、表面には見たことのない印が刻まれていた。触れると、冬の川底にある石よりも冷たかった。

 

 セイは柱の位置を一つずつ記憶し、その並びを頭の中の地図へ重ねた。すると、柱がどれも同じ間隔で置かれ、一本の線を形作っていることに気づいた。その線は山を避けず、川に沿うこともなかった。獣の道とも、水の道とも、集落同士が昔から定めてきた境とも重ならない。銀色の柱は、森も岩場も墓所も、何の違いもないものとして切り分けていた。

 

「これは道ではありません」

 

 セイが言うと、隣にいたハダは柱の前で身をかがめ、大地へ意識を向けた。年老いた地図守りの皮膚は乾き、胸元に浮かぶ光も以前より弱くなっていた。それでも、大地の響きを読む力は今なおセイより優れていた。

 

「そうだ。道ではない」

 

「では、何でしょう」

 

 ハダはすぐには答えなかった。やがて柱から離れると、大地から森へ、そして森から空に浮かぶ黒い輪へと視線を移した。

 

「これは大地を知るためのものではない。大地へ、何になるべきかを命じるためのものだ」

 

 そのとき、セイには言葉の意味がわからなかった。しかし、雨季の始まりを迎えるころには、銀色の柱が単なる目印ではないことを知った。

 

 川が移されたのである。

 

 前日の夕方まで、川は集落の東を流れていた。幼い者たちは浅瀬で甲魚を捕り、採集者たちは岸辺に生える赤根草を刈っていた。また、川向こうには祖先の記憶を納める森があり、死者を送るときは必ず水を渡ることになっていた。

 

 ところが、その夜、谷全体を擦るような低い音が響いた。大地は一定の調子で震え続け、雲の底には青白い光が幾列も並んだ。その間を、羽根のない白いものが行き来していた。そして翌朝、川はなくなっていた。

 

 水が枯れたのではない。上流に石よりも滑らかな巨大な堰が現れ、流れそのものが北へ曲げられていた。以前の川底には柔らかな灰色のものが流し込まれ、石も泥も、魚の卵も、その下へ封じ込められていた。その一方で、新しい川は銀色の柱に沿い、山裾へ向かって不自然なほど真っすぐに流れていた。

 

 人々は川を戻そうとした。しかし堰へ向かうと、空から幾つもの白いものが降りてきた。谷でセイが見たものより大きく、身体の下には六本の肢があった。それぞれの先は細かく枝分かれし、土を掘る爪にも、石を持ち上げる指にもなった。

 

 人々は大地を踏み鳴らし、警告の言葉を送った。それでも、白いものは作業をやめなかった。そこで一人の若者が石を投げると、白い身体に当たり、乾いた音を立てて跳ね返った。次の瞬間、若者の身体が硬直し、その場へ倒れた。

 

 セイたちが駆け寄ると、息はあった。傷もなく、しばらくすると意識を取り戻した。白いものは彼を殺そうとしたわけではないらしい。むしろ、倒れた身体を避けると、何事もなかったように作業を続けた。

 

 それでも人々は退かなかった。何人も並んで腕を絡め、白いものと堰の間に立った。さらに胸元の光を強め、敵意と拒絶を表す色を示したものの、白いものは理解しなかった。やがて、空から底の浅い大きな器が降りてきた。

 

 白いものたちは、人々を一人ずつ持ち上げ、その中へ移し始めた。暴れる者は身体を痺れさせられたが、傷つけられることはなかった。幼い者を運ぶときには動きが緩やかになり、自力で立てない老人の身体は柔らかな網のようなもので支えられた。セイも抵抗したが、白いものの指は、身体を傷つけずに力を抜かせる場所を知っていた。大地にしがみついていた指を一本ずつ外され、空飛ぶ器の中へ運ばれた。

 

 器が人々を運んだ先は、集落から南へ離れた草原だった。周囲には銀色の柱が並び、その間には目に見えない壁があった。触れると静かに押し返され、強く叩いても音すらしなかった。

 

 壁の向こうでは、白いものたちが集落を壊していた。家々は大きな腕で持ち上げられ、木や石や土に分けられていった。食料庫の中身は透き通った器へ移され、炉の石は砕かれた。祖先の言葉を刻んだ柱も倒され、ほかの木材と同じ場所へ積み上げられた。

 

 何も焼かれなかった。誰も殺されなかった。

 

 それでも、人々が暮らしていた場所は、夕暮れまでにほとんど消えていた。

 

 日が沈むころ、空から別の器が降りてきた。中には水と、白く柔らかい食べ物が入っていた。わずかに不快な匂いはしたが、毒ではなく、口に含むとかすかな甘みがあった。

 

「われわれを養うつもりだ」

 

 ハダは白い食べ物を見つめながら言った。

 

「われわれを生かすつもりなら、なぜ集落を壊すのでしょう」

 

 セイの問いに、ハダは長い間答えなかった。見えない壁の向こうでは、大地へ撒かれた黒い粒が互いに集まり始めていた。それらは泥をこねる手もないのに壁となり、夜が明けるころには白く滑らかな建物の形を整えつつあった。

 

「おそらく、あれらにとって、われわれは残すべきものなのだ。だが、家は違う。川も、森も、道も違う。われわれの命だけを残し、われわれの世界は必要としていない」

 

 

 * * *

 

 

 それから何度も季節が巡った。しかし、季節はもはや以前と同じではなかった。雨季になると、空に浮かぶ細長いものが雲を集め、決まった日の決まった時刻に雨を降らせた。その結果、川があふれることはなくなったものの、川岸に生えていた植物もまた、実をつけなくなった。

 

 森でも変化が続いた。まず大型の獣食いが姿を消し、それを追うように毒を持つ小動物も減っていった。さらに、夜になると木々の間を飛び交っていた発光虫は、ある年を境に一匹も現れなくなった。

 

 その代わりに、見たことのない植物が生え始めた。細い緑色の葉を持ち、穂先に小さな粒を無数につける草だった。別の場所には背丈の低い木が同じ間隔で植えられ、季節になると赤い実を結んだ。しかし、セイが何より不気味に感じたのは、それらがすべて列を作っていることだった。森の植物は、光や水を求めて互いに場所を譲り合い、ときには重なり、曲がりながら、古い木の死骸さえ土台にして育つ。ところが、新しい植物は大地に引かれた線へ従い、一本ずつ同じ方向を向いていた。そして同じ時期に芽吹き、同じ時期に実をつけ、同じ時期に枯れていった。

 

 さらに丘は削られ、沼も埋められた。かつて谷へ吹き込んでいた強い風は、山腹に立てられた灰色の塔によって弱められたらしい。そのため、谷は一年を通して過ごしやすくなった。

 

 暮らしやすくなった、と言う者もいた。

 

 もはや獣食いに襲われることはなく、毒を持つ小動物を恐れる必要もない。幼い者が熱を出せば、白いものが現れて治した。傷口へ透き通った水を吹きかけられると、数日のうちに塞がった。また、食べ物も決まった時刻に運ばれてきたため、飢える者はいなくなった。最初は同じ味しかなかった白い塊にも、やがて幾つかの味が加えられた。どうやら白いものは、人々が何を残したかを見て、よく食べられたものを多く運ぶようになったらしい。

 

 だからといって、以前より豊かになったとは、セイには思えなかった。かつて食べ物には、それを得た場所の記憶が伴っていた。赤根草を口にすれば東の川を思い出し、獣の肉を食べれば群れの通った谷が語られた。しかし白い塊には、どこで生まれ、誰が採り、どの季節を越えたのかという物語がなかった。

 

 それでもセイは、毎朝地図を確かめた。どの丘で声を発すれば、どの岩から響きが返るのか。川霧の匂いが変われば、何日後に雨が降るのか。地中の虫がどの季節に羽化し、それを追う鳥がどの森へ移るのか。地図守りが覚える地図は、そのすべてをつないだものだった。

 

 ところが岩は取り除かれ、呼びかけても響きが返らなくなった。川霧は白いものの都合で生じ、雨の訪れを知らせる役目を失った。地中の虫は姿を消し、それを食べていた鳥もいなくなった。セイの知っている地図は、大地の上ではなく、記憶の中にしか存在しなくなりつつあった。

 

「地図守りは、今も必要でしょうか」

 

 ある夜、セイはハダに尋ねた。二人は、囲い地の中央に残された古い樹木の下にいた。その木は一度、白いものによって倒されそうになった。しかし、ハダたちがそのたびに幹の周囲へ集まり続けたため、やがて触れられなくなった。今では幹に小さな銀色の札が付けられ、白いものが近づくこともなかった。

 

「必要だ」

 

「しかし、道はもうありません」

 

「だから必要なのだ。道があったことを知る者がいなくなれば、初めから何もなかったことにされる」

 

 ハダは以前より弱っていた。白いものに身体を触れさせれば、まだ長く生きられたかもしれない。しかし、ハダはそれらが近づくたびに大地を強く叩き、胸元の光を消して拒んだ。

 

「輪の客は、ここを何に変えるのでしょう」

 

 セイが尋ねると、ハダはゆっくりと空を見上げた。夜空には輪を重ねた黒いものが幾つも浮かび、星と星の間を遮っていた。

 

「客ではない。あれらは、帰る場所を造っている」

 

「ここへ来たのなら、帰る場所は空の向こうにあるのではありませんか」

 

「違う。あれらは、まだここへ来ていない何かのために働いている。その何かが、長い旅を終えて帰り着ける場所を造ろうとしているのだ」

 

 空の黒い輪は、以前よりも数を増していた。ときおり一つの輪から一筋の光が伸び、夜空の彼方へ消えていった。

 

「あれらの主人が来る」

 

 それが、ハダが地図守りとしてセイへ残した最後の教えになった。

 

 

 * * *

 

 

 ハダが死んだ翌朝、白いものがやってきた。

 

 セイたちは遺体を祖先の森へ運ぼうとした。しかし森はすでに見えない壁の向こう側にあり、そこへ通じていた川も失われていた。そのため、囲い地に残された古い樹木の下へ埋葬することにした。

 

 ところが、穴を掘り始めると、一体の白いものが近づいてきた。紫色の光がハダの身体をなぞり、続いて細い腕が遺体へ伸びた。ハダを運び去ろうとしているのだと気づいたセイは、その前に立った。胸元へ警告の色を浮かべ、大地を強く踏み鳴らす。仲間たちもセイに続き、大勢の足が同じ調子で大地を打った。

 

 白いものは止まった。しかし、立ち去ろうとはしなかった。

 

 そこでセイは、ハダから教わった最古の呼びかけを送った。

 

 これは私たちの死者である。

 

 これは私たちの記憶である。

 

 これは私たちの大地である。

 

 それは単なる足音ではなかった。響きの強さ、長さ、方向を細かく組み合わせ、この土地の歴史と、死者を守ろうとする意思を同時に伝える言葉だった。すると、白いものの表面に紫色の光が現れた。その後、白い身体の内側から、短い音が幾つも発せられた。大地へはほとんど伝わらず、空気だけを細かく震わせる、不規則な音だった。

 

 同じ音が何度か繰り返されたため、セイは、それが白いものの言葉なのだと気づいた。セイたちが大地の響きと身体の光によって意思を伝えるように、このものは空気を震わせて言葉を送っているのだろう。しかし、互いの言葉は通じなかった。それでもセイたちは、呼びかけをやめなかった。

 

 やがて白いものは腕を引いた。その場にしばらくとどまった後、何も持たずに去っていった。

 

 その日のうちに、古い樹木の銀色の札が取り替えられた。新しい札には、以前とは異なる印が並んでいた。それ以来、白いものが木や、その下に葬られた死者へ触れることはなかった。白いものがセイたちの言葉を理解したのかはわからない。何度も作業を妨げられるため、諦めただけかもしれなかった。あるいは、あの木とその周囲を残す方が、セイたちを退け続けるより容易だと考えたのかもしれない。

 

 それでも人々は、その場所を新しい記憶の森と呼ぶことにした。やがて、一人、また一人と死者が増えた。古い樹木の下には名前と記憶が重なり、囲い地の中でも、そこだけは人々が自らの意思で作った場所になった。

 

 しかし、それはあまりにも小さかった。かつて地図守りが覚えた土地は、山の向こうへも、二つの川が出会う場所へも続いていた。ところが今や、人々の世界は、銀色の札を付けられた一本の木の周囲だけになっていた。

 

 

 * * *

 

 

 それから三度目の乾季が過ぎたころ、白いものたちの動きが変わった。囲い地へ食べ物を運ぶ時刻が早まり、空を飛ぶ白いものが一斉に北方へ集まり始めた。また、長い間閉ざされていた白い建物の口が開き、夜になると、何本もの細長い光が大地から空へ向かって灯された。

 

 やがて、夜空に一つの光が現れた。初めのうち、それは星と見分けがつかなかった。しかし光は日を追うごとに大きくなり、空の同じ場所にとどまり続けた。さらに、その周囲には幾つもの小さな光が群れていた。

 

 ハダの言った主人が来る。

 

 セイはそう確信した。

 

 その光が近づくにつれて、白いものはセイたちへの関心を失っていった。見えない壁を確かめに来る回数は減り、その多くが囲い地を離れ、川や白い建物の間を慌ただしく行き来していた。

 

 セイは以前から、壁が弱くなる場所を探していた。雨の直後、地中の水が増えると、北西の柱だけがかすかに震えた。白いものはすぐに元へ戻したが、ほんの短い間、押し返す力が弱まることがあった。

 

 その夜、セイは柱の周りを掘り、貯めておいた水を流し込んだ。すると、柱の根元で紫色の火花が散り、見えない壁の震え方が乱れた。セイが壁へ身体を押しつけると、全身が痺れた。身体の表面にある感覚が一つずつ失われ、前へ進むほど強く押し返された。それでも進み続けたものの、あと少しというところで、身体が後ろへ投げ出されそうになった。

 

 そこでセイは大地を強く蹴った。

 

 次の瞬間、セイは壁の向こうへ倒れ込んでいた。直後に甲高い音が響いた。囲い地の者が壁へ触れたときには聞いたことのない、空気を裂くような音だった。

 

 セイは立ち上がり、かつて森があった方角へ走った。ところが、そこには黒い土の平原が広がっているだけだった。細長い緑の草がどこまでも規則正しく並び、夜だというのに、灰色の塔から降り注ぐ白い光が大地を明るく照らしていた。

 

 空を飛ぶ白いものが追ってきた。セイは草の列の間へ伏せたものの、身を隠すには低すぎた。ほどなく細い光に捉えられ、頭から足もとまで何度もなぞられた。しかし、白いものはセイを倒さなかった。その身体から、ハダの遺体を守ったときに発したものとよく似た不規則な音が聞こえた。

 

 やがて白いものは光を消し、セイから離れていった。見逃したわけではない。ほかに優先すべきことが起きたのだ。

 

 その証拠に、遠くで大地が震え始めていた。

 

 

 * * *

 

 

 空から、巨大なものが降りてきた。

 

 それは、セイが知っているどの生き物にも似ていなかった。太い骨を枝分かれさせたような姿で、その骨の間には大小の丸い塊が浮かんでいた。離れているはずの塊は、見えない筋で結ばれているかのように、すべて一緒に動いていた。どこが頭で、どこが尾なのかもわからない。そもそも、生き物なのかどうかさえセイには判断できなかった。

 

 それが近づくにつれ、セイの身体は少しずつ軽くなった。足が大地から離れそうになり、大地とのつながりまでも薄れていくように感じられた。やがて巨大なものは、地上へ触れることなく、白い建物の上で止まった。

 

 その下では、白いものたちが二列に並んでいた。これまで森を切り、川を移し、人々を運び、病を治してきたものたちが、中央に一本の道を作るように分かれている。

 

 しばらくすると、巨大なものの腹に暗い穴が開いた。そこから、透き通った壁を持つ大きな器が降りてきた。器の中には、幾つもの影があった。

 

 セイは草の列の間へ身を伏せ、胸元の光を弱めながら目を凝らした。透き通った壁の向こうに、二本の細い脚が見えた。その上には胴があり、左右から一本ずつ腕が伸びている。腕の先にある手は小さく、短い指が五本に分かれていた。頭は一つだけだった。その前には二つの目が横に並び、その下には前へ突き出した部分と、横に開く口があった。

 

 ハダが主人と呼んだものは、白いものよりもはるかに小さかった。

 

 身体は細く、頑丈な衣を取り除けば簡単に傷つきそうだった。川をせき止める腕も、森を切り倒す爪も持っていない。これほど弱そうな生き物のために、山が削られ、沼が埋められ、雨の降る時期まで変えられたとは信じ難かった。

 

 器の透き通った壁が開くと、最初の一人が慎重に大地へ降りた。その者は顔を覆っていた透明な板を上げ、何度か浅く空気を吸った。やがて大きく息を吸い込むと、わずかに咳き込んだ。そばに控えていた白いものが近づいたものの、その者が片手を上げると、それ以上は動かなかった。

 

 続いて、その者は口を左右へ広げた。白い歯が見えたため、セイは初め、それが威嚇なのだと思った。しかし、後から降りてきた者たちも同じ表情を返した。彼らは細かな声を交わし、ときおり互いの肩や腕へ触れた。どうやら、それは喜びのしぐさらしかった。

 

 そのうちの一人が大地へ膝をついた。手を覆っていたものを外し、むき出しの五本の指で黒い土へ触れる。そして両手で土をすくうと、顔へ近づけ、長く匂いを嗅いだ。やがて、その二つの目から水が流れた。

 

 周囲の者たちは、代わる代わる肩へ手を置いた。口を広げる者もいれば、目を閉じ、空を仰ぐ者もいた。彼らは喜んでいた。長い旅の果てに、覆いを通さずに息ができ、素手で触れられる土へたどり着いたのである。

 

 新しく来た者たちの後から、多くの荷物が降ろされた。その一つには、青と白で描かれた丸い世界の印が付いていた。青い部分は広い海に、白い部分は空を流れる雲に見えた。その隣には小さな灰色の丸があり、大きな世界へ寄り添うように描かれていた。

 

 一人がその印へ触れ、仲間たちに何かを語った。すると周囲の者たちは、しばらく静かになった。その表情には、喜びとは異なるものが浮かんでいた。二度と戻れない故郷や、遠く離れた死者を思う者の顔に似ている、とセイは感じた。

 

 やがて、別の一人が掌ほどの黒い板へ触れた。すると空中へ淡い光が広がり、海と陸を持つ丸い世界の姿が現れた。それは、この世界を描いたものらしかった。

 

 しかし、そこにはセイの知っている道が一つもなかった。

 

 渡り獣が通った谷も、祖先を送った川も、発光虫の森もない。山と海、白い建物、緑の草が植えられた土地、そして人々が閉じ込められている小さな囲いだけが記されていた。その絵は、セイが知るどの地図よりも細かかった。山の高さも、川の深さも、数え切れないほどの印によって示されているのだろう。

 

 それでも、その地図はこの世界のことを何も知らなかった。

 

 新しく来た者の一人が光の絵を指し示し、短い言葉を口にした。ほかの者たちも、それを静かに繰り返した。それがこの世界へ新たに付ける名なのか、彼らが遠くに残してきた故郷の名なのか、セイにはわからなかった。しかし、黒い土へ触れ、涙を流した彼らの顔を見れば、その言葉が喜びと安堵を意味することだけはわかった。

 

 セイは、ようやく理解した。

 

 空に現れた黒い輪も、白いものも、川を移したものたちも、すべて彼らのために働いていた。新しく来た者たちは遠い世界から、生き延びるためにやって来たのだ。

 

 だから、セイたちを殺さなかった。

 

 憎んでもいなかった。

 

 おそらく、何かを奪ったとさえ考えていなかった。

 

 彼らにとって、この土地は初めから自分たちを待っていたのである。これまで白いものが行ってきたことも、彼らにとっては戦いではない。敵を倒したのでも、国を滅ぼしたのでもなかった。ただ自分たちが暮らせるように、不要なものを取り除き、必要なものを並べただけだった。セイたちが生きていることは、その営みを止める理由にはならなかった。

 

 新しく来た者の一人が、ふと顔を上げた。セイは見つかったのかと思ったが、その者が見ていたのはセイではなく、空に浮かぶ月だった。周りの者たちも月を見上げた。荷物に描かれた小さな灰色の丸と同じような、白く丸い月だった。彼らは互いに言葉を交わしながら、その姿をじっと見つめていた。

 

 遠くに残した彼らの世界にも、あのような月があったのかもしれない。

 

 そのとき、地平線の向こうで新たな光が降り始めた。一つではない。光は夜空の各所に現れ、やがて巨大な影となって星々を隠した。

 

 これから、さらに多くの者が来る。彼らは白い建物で暮らし、列を作る緑の草を育てるのだろう。そして新しい地図に川や道や集落の名を書き込み、子どもたちへ、この世界をどのように見つけたのかを教えるに違いない。

 

 おそらく彼らの物語では、この日が新しい世界の始まりになる。ここに川があり、森があり、すでに名を持つ者たちが暮らしていたことは、語られないまま。

 

 セイは大地へ指を触れた。黒い土の下には、以前の森の根が残っているはずだった。そのさらに下には埋められた川底があり、魚の骨があり、渡り獣の足跡がある。それらは彼らの地図には記されていない。しかし、なくなったわけではない。

 

 セイは大地へ、ゆっくりと言葉を送った。

 

 長く。短く。もう一度、長く。

 

 私はここにいる。

 

 土へ膝をついていた者が顔を上げた。何かを感じたのか、周囲を見回し、頭の横へ片手を当てた。しかし、セイの言葉は空気ではなく、大地を伝わっていた。その者はしばらく立ち止まったものの、やがて隣の者へ何かを言った。二人は口を広げて笑い、それから白い建物へ歩き始めた。

 

 気のせいだと思ったのだろう。あるいは、大地がわずかに震えただけだと考えたのかもしれない。

 

 セイはもう一度呼びかけた。

 

 これは私たちの水である。

 

 これは私たちの森である。

 

 これは私たちの死者である。

 

 響きは地中に残る根を伝い、埋められた川底を通り、銀色の柱の下を抜けていった。そして白い建物の足もとを震わせ、新しく来た者たちの靴の裏へ届いたかもしれなかった。

 

 それでも、彼らが振り返ることはなかった。

 

 やがてセイは立ち上がり、草の列を横切った。見えない壁の内側へ戻るつもりはなかった。戻ったとしても、そこに世界のすべてを閉じ込めてしまえば、白いものが定めた小さな土地だけが故郷になってしまう。

 

 だからセイは、かつて渡り獣が進んだ方角へ歩き始めた。空には、この世界の月が昇っていた。しかし、新しく来た者たちはそれを見上げ、遠くに失った自分たちの世界を思い出していた。

 

 彼らにとっても、故郷は大地にあるのではないのだろう。それは記憶の中にあり、失った者の中にあり、遠い空を渡り歩く者の中にある。だからこそ、彼らはこの世界を新しい故郷にしようとしていた。そして、だからこそ、セイは歩き続けなければならなかった。

 

 道は大地にあるのではない。それを歩く者の中にある。

 

 少なくとも、最後の一人が忘れるまでは。

 


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