山の向こうへ傾き始めた太陽が、森の木々を赤く照らしていた。
長い長い森を抜け、ようやく視界が開けたところで、緑谷出久は膝に手をついた。
身体のあちこちが痛み、服は土埃にまみれている。
隣を歩いていた飯田も、普段の姿勢の良さが嘘のように肩を落としていた。
「つ、着いた……」
「やっとかよ……!さ、三時間って……言ってなかったか……?」
「とっくに過ぎてるっつーの……」
「もう無理……お腹すいた……」
隣を歩いていた切島が、今にも倒れそうな声を漏らした。飯田も肩で息をしており、麗日に至っては、もはや足を動かすだけで精一杯といった様子だった。
当然だろう。つい数時間前まで、自分たちは林間合宿に向かうバスの中にいたのだ。
それがどういうわけか、突然山の中に放り出され、プッシーキャッツの一人であるピクシーボブが作り出した土の魔獣と戦わされることになった。
しかも、現れた魔獣は一体や二体ではない。倒しても倒しても次々と現れるため、クラス全員で協力しながら突破するしかなかった。
訓練としては非常に実践的だったと思う。しかし、まさか初日からここまで体力を使うことになるとは予想していなかった。
「お疲れさまー! みんな、よく頑張ったわね!」
宿泊施設の前で待っていたピクシーボブが、元気いっぱいに手を振っている。
「予想より早かったじゃない! なかなかやるわね!」
「どこがだよ! もう夕方じゃねえか!」
上鳴の抗議に、ピクシーボブは楽しそうに笑うばかりだった。
周囲では他のクラスメイトたちも不満を漏らしていたが、緑谷にはそれに加わる元気すら残っていなかった。
とにかく休みたい。
できれば、お風呂にも入りたい。
そう思いながら宿泊施設へと視線を向けたとき、ふと奇妙なものが目に入った。
「……あれ?」
施設の近くに、大きな木が立っている。
その太い枝の上に、誰かが腰掛けていた。
小さな女の子だった。華やかな和装に身を包み、長い袖をひらひらと揺らしながら、こちらに向かって手を振っている。
年齢は、小学生くらいだろうか。
こんな山奥に、どうして子供がいるのだろう。
「あの、みんな。あそこに女の子が……」
「ん? どこだ?」
切島が顔を上げ、緑谷の指差した方向を見る。
「あ、本当だ。ちっちゃい子がいるね」
麗日も気づいたようだった。
緑谷は少し迷ったが、少女の座っている枝が思いのほか高いことに気づき、慌てて木の下へと駆け寄った。
「あ、あの! 大丈夫!?」
「……うん?」
少女がこちらを見下ろす。
「そんなところにいたら危ないよ! 降りられる?」
少女はきょとんとした顔で首を傾げた。
「あの、お名前は? パパとママはどこにいるの?」
「……ぱぱと、まま?」
「う、うん。お父さんとお母さん、一緒じゃないの?」
少女は少し考えるように緑谷を見つめていたが、やがて小さく笑った。
「えへへ。大丈夫だよ」
そう言うと、枝からひょいと身を乗り出した。
「あっ、危な――!」
緑谷が思わず手を伸ばす。
しかし、少女はそのまま軽やかに飛び降り、地面へと着地した。
長い袖がふわりと広がり、足元の落ち葉が小さく舞い上がる。
「……え?」
思わず声が漏れた。
少なくとも、普通の子供にできる動きではなかった。
「えへへ。こんにちは」
「あ、こ、こんにちは……」
少女は緑谷を見上げると、胸元に手を当てて、にっこりと微笑んだ。
「イマリはね、プロヒーローの遊々花神。尽小花・イマリだよ」
「…………え?」
「よろしくね」
緑谷は瞬きをした。
今、プロヒーローと言っただろうか。
「プロヒーロー?」
後ろからやってきた飯田が、緑谷の疑問をそのまま口にした。
「失礼だが、君はここの関係者なのかね?」
「うん。雄英のお手伝いに来たの」
「雄英の?」
「そーだよ」
イマリと名乗った少女は、当然のことのように頷いた。
飯田は少し困ったように眼鏡を押し上げた。
「なるほど……しかし、プロヒーローというのは……」
「本当だよ?」
「いやいや、どう見ても子供だろ!」
上鳴が横から口を挟んだ。
「ヒーローごっこしてるんじゃねえの? ほら、子供ってそういうの好きじゃん」
「……ごっこ?」
少女は不思議そうに首を傾げた。
「イマリ、本当のヒーローだよ?」
「はいはい、分かった分かった!」
「……むぅ」
少しだけ頬を膨らませる少女を見て、麗日が小声で呟く。
「……か、かわいい」
「確かにかわいいけどよ。本当にプロヒーローなのか?」
切島も疑わしそうだった。
しかし、緑谷は先ほどから少女の名前が気になっていた。
遊々花神。
尽小花・イマリ。
どこかで聞いたことがある。
それも、つい最近ではない。もっと前に、何かのニュースで見たような気がする。
「……あっ!」
ようやく記憶がつながった。
「もしかして、本当に遊々花神のイマリさんですか!?」
「うん。そうだよ」
「やっぱり!」
緑谷は思わず一歩前へ出た。
「僕、見たことあります! 確か、主に地域密着型の活動をされているプロヒーローですよね!? テレビへの出演は少ないですけど、以前、地方ニュースで銀行強盗を逮捕したって紹介されていて……!」
「……えへへ」
「それに、逮捕したヴィランの負傷率が非常に低いんですよね! 警察からの評価も高いって聞きました! ただ、活動範囲がかなり限定されていて、大きな事件での活動記録も少ないから、詳しい情報があまり出回っていなくて……!」
「お、おい緑谷!」
切島が驚いたように声を上げる。
「マジでプロヒーローなのか!?」
「うん! 間違いないよ!」
「ええっ!?」
上鳴と麗日が揃って声を上げた。
飯田も慌てて姿勢を正す。
「そ、それは大変失礼しました! まさか本当にプロヒーローの方だったとは!」
深々と頭を下げる飯田に、イマリは小さく笑った。
「いいよ。イマリ、よく子供に間違えられるから」
「いやー、すんません! 完全に子供だと思ってました!」
上鳴も慌てて謝っている。
緑谷はそんなやり取りを聞きながら、イマリの姿を改めて観察した。
小柄な身体。華やかな衣装。そして、柔らかな笑顔。
とても、銀行強盗を一人で捕まえてしまうようなプロヒーローには見えない。
しかし、何より気になることがあった。
「あ、あの! イマリさん!」
「……うん?」
「一つ、聞いてもいいですか!?」
「いいよ?」
「イマリさんの個性って、どんな個性なんですか!?」
緑谷は鞄からノートを取り出した。
「活動記録はいくつか見たことがあるんですけど、具体的な能力についてはほとんど情報がなくて! ヴィランを無傷で捕縛できるということは、何らかの拘束系か精神干渉系の個性なのかなと思っていたんですけど、実際にどんな能力なのか分からなくて……!」
「イマリの個性?」
「はい!」
「……見たいの?」
「ぜひ!」
イマリは緑谷を見つめたあと、少しだけ視線を泳がせた。
「んー」
何か迷っているのだろうか。
緑谷は続きを待ったが、少女はしばらく首を傾げたまま動かなかった。
やがて、ぱっと顔を上げる。
「……うん。いいよ」
「本当ですか!?」
「えへへ。じゃあ、イマリと遊ぼう?」
そう言うと、イマリは袖の中に手を入れた。
しかし、何かを探すようにごそごそと動かしたあと、不意に手を止めた。
「……あ」
「どうかしました?」
「……置いてきちゃった」
「え?」
「忘れ物」
「何をですか?」
「花札!」
「……花札?」
思わず聞き返してしまった。
個性を見せてもらう話をしていたはずなのに、どうして花札が必要なのだろう。
「うん。イマリ、花札が好きなの」
「は、はぁ……」
緑谷が首を傾げていると、イマリは周囲を見回した。
「ねえ、誰かカードゲーム持ってない?」
「カードゲーム?」
「トランプとかでもいいよ?」
「あ、それなら俺、持ってきてるけど」
上鳴が手を上げた。
「ほんと?」
「おう。夜にみんなで遊ぼうと思ってさ」
「上鳴君!」
すかさず飯田の声が飛ぶ。
「我々は林間合宿に来ているんだぞ! 遊び道具を持ち込むとは何事だ!」
「いや、別に禁止されてねえだろ!? 自由時間くらいあるって!」
「そもそも君は補習もあるだろう!」
「うぐっ……!」
二人の言い合いが始まったが、イマリは気にした様子もなく、上鳴のそばへ歩いていった。
「ねえ、トランプ貸してくれる?」
「あ、ああ。いいっすよ」
「えへへ。ありがとう」
上鳴からトランプを受け取ると、イマリは慣れた手つきでカードを切り始めた。
小さな手の中で、カードが滑らかに動く。
シャッフルの速さに、緑谷は少し驚いた。
何度も繰り返しているのだろう。カードの扱いには、まったく迷いがない。
「……凄いですね」
「えへへ。イマリ、遊ぶの好きだから」
やがて、イマリは束から二枚のカードを抜き取り、裏向きにして並べた。
「じゃあね、簡単なゲームにしよう?」
「はい!」
「ここに二枚のカードがあるよ。数字が大きいほうを引いた人の勝ちなの」
イマリはカードを指差した。
「エースは一。ジャックは十一、クイーンは十二、キングは十三ね」
「なるほど……」
数字の大小を競うゲーム。
それなら、勝敗は完全に運で決まることになる。
個性と何か関係があるのだろうか。
「君から引いていいよ?」
「あ、はい。じゃあ……こっちで」
緑谷は左側のカードを選んだ。
裏返す。
スペードの九。
「あ、九ですね」
「うん。じゃあ、イマリはこっち」
残されたカードを、少女がゆっくりと裏返した。
ハートのジャック。
十一だ。
「……あ」
緑谷が小さく声を漏らす。
「えへへ」
イマリが嬉しそうに笑った。
「イマリの勝ちだね」
「あはは……負けちゃいました」
緑谷もつられて笑った。
しかし、次の瞬間。
「…………え?」
突然、視界が揺れた。
何が起きたのか分からなかった。
身体の奥から力が抜けていく。立っている感覚がおかしくなり、緑谷は思わず足元を見下ろした。
地面が近い。
いや、違う。
自分の身体が小さくなっている。
(な……何だ、これ……!?)
手を伸ばそうとした。
しかし、目に映ったのは見慣れた自分の手ではなかった。
赤い、小さな手。
指先には、短い爪が生えている。
(え……?)
慌てて周囲を見回す。
さっきまで自分と同じくらいの高さにいた切島や飯田が、まるで巨人のように大きく見えた。
「み、緑谷君!?」
飯田の声が聞こえた。
「デク君!? な、何これ!?」
麗日も何か叫んでいる。
しかし、その声がどこか遠い。
頭の中に、薄い霧がかかったようだった。
(僕……どうなって……)
何かを考えなければならない。
何か、大切なことを忘れている。
けれど、どうしても思い出せなかった。
「えへへ。かわいいね」
すぐ近くから、イマリの声がした。
顔を上げる。
少女がしゃがみ込み、こちらへ手を伸ばしていた。
「じゃあ、次は何して遊ぼうか?」
その声を聞いた瞬間、胸の奥が妙に温かくなった。
(……遊ぶ?)
そうだ。
遊ばなければ。
イマリと、もっと遊ばなければ。
(そうだ……僕は……)
身体が勝手に動き出す。
少女のそばへ行きたい。
もっと一緒に遊びたい。
先ほどまで感じていた違和感も、恐怖も、少しずつどうでもよくなっていく。
「ギャ……ギャッ……」
何かを伝えようとしたが、口から出たのは妙な鳴き声だけだった。
それでも、イマリは嬉しそうに笑ってくれている。
もっと近くへ。
もっと――。
「――おい」
不意に、低い声が響いた。
その瞬間だった。
「……っ!?」
頭の中を覆っていた霧が、一気に晴れた。
身体に感覚が戻ってくる。
視界の高さも、元通りになっていた。
「……あれ?」
緑谷は瞬きをした。
自分の手を見る。
いつもの手だ。
腕も足も、元の大きさに戻っている。
「デク君!」
「緑谷君! 大丈夫か!?」
麗日と飯田が駆け寄ってきた。
「あ、う、うん……?」
何が起きたのか、まったく分からない。
ただ、最後にイマリと遊ぼうとしていたことだけは覚えている。
「……何をしている、尽小花」
その声に、緑谷は顔を上げた。
相澤先生が立っていた。
髪が逆立ち、目が赤く光っている。
その視線は、イマリへと向けられていた。
「あっ、消太」
イマリが顔を上げる。
「俺は何と言った?」
「……うん?」
「生徒に勝手に個性を使うなと言ったはずだが」
「……あぅ」
少女は小さく肩をすくめた。
緑谷はそこで、ようやく理解した。
今のは、イマリの個性だったのだ。
「お、おい緑谷!」
切島が緑谷の肩を掴む。
「お前、今すげえことになってたぞ!」
「えっ?」
「いきなりちっちゃくなってさ! 赤い鬼みてえなのになったんだよ!」
「……鬼?」
「うん! 本当に小さな鬼だったよ!」
麗日も頷いた。
「う、嘘……」
「嘘じゃねえって! 角も生えてたぞ!」
緑谷は改めて自分の身体を確認した。
もちろん、角など生えていない。
だが、先ほどの周囲が急に大きくなった感覚は覚えている。
(変身……? いや、変化させられた……?)
頭の中で、いくつもの疑問が浮かんだ。
しかし、それを整理するより先に、相澤先生の声が響いた。
「……尽小花」
「……はい」
「説明しろ」
「えっとね」
イマリは少し考えてから、緑谷を指差した。
「この子が、イマリの個性を見たいって言ったの」
「……それで?」
「だから、見せてあげたよ?」
「俺は使うなと言ったはずだが」
「……でも、見たいって言ってたから」
「許可を出した覚えはないぞ」
「……うぅ」
相澤先生は深いため息をついた。
その様子を見て、緑谷は慌てて口を開いた。
「あ、あの! 相澤先生! 僕がお願いしたんです!」
「緑谷。お前もだ」
「は、はいっ!」
「詳細の分からない個性を、興味本位で自分に使わせるな。相手がプロヒーローでも同じだ」
「す、すみません!」
言われてみれば、その通りだった。
イマリがプロヒーローだったから、危険なことは起きないだろうと勝手に思い込んでいた。
けれど、個性の種類も発動条件も知らないまま、実際に使ってもらおうとしたのは軽率だった。
「それから尽小花。そもそも、なぜ集合場所にいなかった?」
「……うん?」
「到着する生徒を迎えるように言っただろう」
「迎えてたよ?」
「……どこで?」
「木の上」
「…………」
相澤先生が黙り込んだ。
緑谷は思わず先ほどの大木を見上げた。
確かに、あそこからなら宿泊施設へ向かう道がよく見えそうだ。
「普通に待っていろ」
「ごめんなさい……」
「それと、お前は生徒と遊びに来たんじゃない。今回は警備と訓練補助のために来てもらったんだ。分かってるな?」
「……うん」
「だったら仕事をしろ。生徒を勝手に遊びへ誘うな」
「……でも」
「でもじゃない」
「……まだ遊んでないのに」
小さな声だったが、緑谷にもはっきり聞こえた。
思わずイマリを見る。
少女は少し不満そうに頬を膨らませていた。
「だって、一回カードを引いただけだよ? イマリ、まだこの子と遊んでない……」
相澤先生はしばらくイマリを見つめていた。
「……だから、そういうところだ」
そして、もう一度ため息をついた。
緑谷には、何となく二人の関係が分かってきた気がした。
どうやら相澤先生とイマリは、以前からの知り合いらしい。
それも、かなり長い付き合いなのだろう。相澤先生は一度も彼女のことをプロヒーローとして紹介していないし、イマリも先生のことを名前で呼んでいる。
「あ、あの……」
「何だ、緑谷」
「僕、さっき……本当に鬼になってたんですか?」
「ああ」
「それって、イマリさんの個性なんですよね?」
「そうだ」
相澤先生は簡潔に答えた。
「尽小花の個性は『負け鬼』。遊戯に負けた相手を小鬼に変える。変化させられた人間は元の個性を使用できなくなり、一定数までは本人の指示に逆らえなくなる」
「…………!」
思わず、息を呑んだ。
(遊戯に負けることが……発動条件!?)
それなら、先ほどのトランプも説明がつく。
単純なカード勝負。勝ったのはイマリで、負けたのは自分。
その直後に、身体が小鬼へと変化した。
つまり、イマリの個性は――。
「す、凄い……!」
思わず声が漏れた。
緑谷は慌ててノートを開く。
「それって、勝負の結果によって相手を強制的に変化させる個性なんですか!? ということは、元の身体能力も個性の強さも関係なく……いや、待ってください! 一定数までは命令に従うということは、変化だけじゃなく精神干渉の効果もあるんですか!?」
「緑谷」
「しかも個性が使用できなくなる……!? それなら、どれだけ強力な個性を持つヴィランが相手でも、条件さえ満たせば無力化できるってことですよね!? でも、そうなると遊戯の種類によって発動の難易度が変わるのか、勝敗の判定はどの時点で行われるのか、それから――」
「緑谷」
「は、はいっ!」
「落ち着け」
「す、すみません!」
緑谷は慌てて口を閉じた。
けれど、手は止まらなかった。今聞いた情報を忘れないうちに書き留めようと、ノートの上をペンが走る。
そんな緑谷の様子を見て、イマリが小さく笑った。
「……えへへ」
「あっ、す、すみません! つい興奮しちゃって……!」
「ううん。いいよ」
イマリは嬉しそうに首を振った。
「イマリの個性、そんなに気になる?」
「はい! 凄い個性だと思います!」
「……ほんと?」
「はい! ヴィランをほとんど傷つけずに捕縛できるって、ヒーローとしても凄く優秀な能力だと思います! もちろん、使い方には注意が必要だと思いますけど……!」
「えへへ……ありがとう」
イマリは両手を合わせて笑った。
「じゃあ、今度は別のゲームで遊ぼうね?」
「あっ、はい! ぜひ――」
「緑谷」
「……あっ」
緑谷はぴたりと動きを止めた。
相澤先生が、こちらをじっと見ている。
「……すみません」
隣では切島が笑いを堪え、上鳴も何とも言えない顔をしていた。
「いや、お前すげえな……あんな目に遭った直後によくまた遊ぼうと思えるな……」
「えっ? あ、いや、その……!」
言われてみれば、確かにそうかもしれない。
しかし、あれほど珍しい個性を目の当たりにしたのだ。詳しく知りたくなるのも仕方がないと思う。
「……まったく」
相澤先生は呆れたように呟くと、イマリへと向き直った。
「お前はもうマンダレイたちのところへ行け。仕事の確認をしてこい」
「……はぁい」
「今度はちゃんと指示を聞けよ」
「……うん」
イマリは少し不満そうに頷いた。
しかし、ふと何かを思い出したように顔を上げた。
「……あ、消太」
「何だ」
「イマリの個性なのに、消太が説明しちゃった」
「…………」
「イマリが説明したかったのに……」
相澤先生は無言で目を閉じた。
それから、深く息を吐く。
「……そうか。悪かったな」
「……うん」
イマリは小さく頷いたものの、まだ少し不満そうだった。
その様子を見て、緑谷は思わず苦笑した。
どうやら、随分と変わった人らしい。
イマリはトランプを、上鳴へと差し出した。
「はい。ありがとう」
「あ、ああ……どうも」
上鳴は少し警戒した様子でトランプを受け取った。
それからイマリは緑谷のほうへ向き直り、にっこりと笑った。
「今日はありがとう。また遊ぼうね?」
「あ、はい! こちらこそ、ありがとうございました!」
緑谷が頭を下げると、イマリは嬉しそうに手を振って、宿泊施設へと歩いていった。
その背中を見送りながら、切島がぽつりと呟いた。
「……なんつーか、すげえヒーローだったな」
「うん。めっちゃ可愛かったけど、個性はちょっと怖かったね……」
麗日が苦笑する。
「ちょっとどころじゃねえだろ!」
上鳴が顔を引きつらせた。
「緑谷がいきなり赤い小鬼になったんだぜ!? しかも本人、ずっとニコニコしてるし……!」
「確かに、驚くべき個性だったな」
飯田も腕を組んで頷いた。
「しかし、相澤先生の話では、個性によって相手を無力化できるそうだ。ヴィランの捕縛には非常に有効なのだろう」
「うん! それに、変化させられたときの感覚も不思議だったんだ!」
緑谷は再びノートを開いた。
「身体が小さくなるだけじゃなくて、考える力まで鈍くなったような気がして……それに、イマリさんと遊びたいって気持ちが急に強くなって……」
「えっ、マジで?」
「うん。何ていうか、自分の意思でそう思ってるような感覚だったんだけど……」
言葉にしてみると、少し怖くなった。
確かに、あの瞬間の自分は、周囲の声よりもイマリの声を優先していた気がする。
あれは、自分自身の意思だったのだろうか。
「……緑谷」
「は、はい!」
相澤先生がこちらを見ていた。
「お前らも、よく覚えておけ」
その声に、周囲の生徒たちも姿勢を正す。
「あいつとはゲームをするな。」
「……え?」
「花札でもトランプでも何でもだ。誘われても、勝手に付き合うな。必ず俺か他の教師を呼べ」
「は、はい!」
飯田が元気よく返事をした。
緑谷も頷こうとして、ふと疑問を抱いた。
そういえば、先ほど相澤先生は、勝負に負けた相手が小鬼になると言っていた。
それなら、勝負をしなければ問題ないのではないだろうか。
「あの、先生」
「何だ」
「ゲームに負けたら個性が発動するんですよね?」
「ああ」
「それなら、誘われても断ればいいんじゃないでしょうか?」
相澤先生は一瞬、黙り込んだ。
それから、緑谷をじっと見た。
「……緑谷」
「は、はい」
「だから、俺か他の教師を呼べと言ってるんだ。」
「……?」
その理由までは、教えてくれなかった。
緑谷は首を傾げながらも、それ以上の質問は控えることにした。
しかし、疑問が解消されたわけではない。
どうして、断るだけでは駄目なのだろう。
緑谷はもう一度、イマリの姿を探した。
少女は少し離れた場所でマンダレイと話していた。何かを尋ねているのか、小さな手を動かしながら楽しそうに笑っている。
とても、危険な個性を持つヒーローには見えなかった。
けれど、つい先ほど自分が小鬼に変えられたことは事実だ。
緑谷はノートへと視線を戻した。
『遊々花神・尽小花イマリ』
『個性:負け鬼』
『遊戯の敗者を小鬼へ変化させる。変化中は元の個性を使用できず、一定数までは本人の指示に従う』
そこまで書き込んで、少し考える。
そして、最後にもう一行だけ付け加えた。
『※勝負を断った場合の扱いは不明。相澤先生から接触時の注意あり』
「……気になるなぁ」
思わず呟いてしまった。
「おーい、緑谷!」
切島の声がした。
「いつまでメモ取ってんだよ! 早く行こうぜ!」
「あっ、うん!」
緑谷は慌ててノートを閉じた。
周囲では、疲れ切っていたクラスメイトたちが宿泊施設へと向かい始めている。これから夕食と入浴が待っているのだと思うと、緑谷もようやく少し元気が戻ってきた。
『イマリの勝ちだね』
しかし、歩き出してからも、あの少女の笑顔が頭から離れなかった。