夜の街を、一人の男が歩いていた。
オール・フォー・ワン。
かつて裏社会を支配し、今なお数多くのヴィランを陰から操る男は、新たな個性を求めて活動していた。オールマイトとの戦いで負った傷は癒えておらず、呼吸を補助する装置が規則正しい機械音を響かせている。
今夜の収穫は悪くなかった。先ほど出会ったヴィランから奪った個性は、それ自体は大したものではなかったが、手持ちの個性と組み合わせれば使い道がある。
そう考えながら人気のない路地を抜けようとしたとき、不意に背後から声をかけられた。
「……うん? おじさん、悪い人?」
随分と幼い声だった。
オール・フォー・ワンが振り返ると、そこには一人の少女が立っていた。華やかな和装を身にまとい、どこか眠たげな瞳でこちらを見上げている。小柄な身体に不釣り合いなほど長い袖が、夜風に揺れていた。
「ヴィラン?」
あまりにも率直な質問に、オール・フォー・ワンは思わず笑ってしまった。
「そうだよ。僕はとっても悪いヴィランさ」
「そっかぁ」
少女は納得したように頷いた。
普通の子供なら、こんな夜中に見知らぬ大人と出会っただけでも警戒するものだ。それが本人の口からヴィランだと告げられたにもかかわらず、少女の表情には恐怖も緊張も浮かんでいない。
「それで、お嬢さんはこんなところで何をしているのかな? お父さんやお母さんは?」
「イマリはね、遊々花神のイマリだよ。尽小花・イマリ。プロヒーローなの」
「……ほう?」
オール・フォー・ワンは少女を改めて観察した。
プロヒーロー。
なるほど、確かにその衣装は一般人の服装というより、ヒーローコスチュームに近い。もっとも、少女の名前には聞き覚えがなかった。彼はヒーロー社会に関する情報を数多く集めていたが、当然ながら末端のヒーローまで全員把握しているわけではない。
それにしても、こんな少女がプロヒーローとは。
「それは失礼したね。まさかヒーローだったとは思わなかったよ」
「うん。イマリ、ヒーローなんだよ」
「偉いねえ。それで、僕を捕まえに来たのかな?」
少女は少し考えるように首を傾げた。
「んー……おじさん、悪いことしたの?」
「たくさんしたとも。君が想像できないくらいにね」
「そっかぁ。じゃあ、捕まえなきゃ」
ずいぶんと気の抜けた宣言だった。
オール・フォー・ワンは笑みを深める。
どうやら、自分から個性を差し出しに来てくれたらしい。少女がどんな個性を持っているのかは知らないが、奪ってしまえばそれで終わりだ。
「それで、どうやって僕を捕まえるつもりだい?」
「うん。じゃあね、一緒に遊ぼう?」
少女は袖の中に手を入れると、小さな札の束を取り出した。
赤と黒を基調とした、色鮮やかな絵柄の札だった。
「……それはなんだい?」
「花札だよ」
「花札?」
「うん。イマリね、花札が好きなの。おじさんも一緒に遊ぼう?」
少女は嬉しそうに札を広げてみせた。
オール・フォー・ワンはしばらく無言でそれを眺めていたが、やがて小さくため息をついた。
どうやら、とんだ変わり者に出会ってしまったらしい。
「申し訳ないけれど、僕は忙しくてね」
そう言いながら片手を持ち上げる。
指先に黒い力が収束していく。少女がどんな個性を持っているのかは分からないが、奪ってしまえばそれで終わりだ。
抵抗される前に無力化してしまえばいい。
「……遊んでくれないの?」
少女の声が、わずかに沈んだ。
同時に、オール・フォー・ワンの内側で警鐘が鳴り響いた。
「…………!」
彼は即座に攻撃を中断した。
胸の奥を冷たいものが這い回るような、強烈な不快感。過去に奪った個性の一つ、迫り来る重大な危険を感知する能力が反応していた。
それも、これまでにないほど激しく。
少女が何かを仕掛けたわけではない。殺気もなければ、個性を発動した兆候すら見当たらない。ただ、攻撃を続行すれば取り返しのつかないことになると、彼の本能に近い部分が訴えていた。
オール・フォー・ワンは少女を見る。
イマリは悲しそうに花札を握りしめていた。
「おじさんも、遊んでくれないの?」
「……いや」
持ち上げていた手をゆっくり下ろした。
「少し気が変わったよ。せっかくだから、君の遊びに付き合ってあげよう」
「ほんと?」
「ああ、本当さ」
「えへへ……ありがとう」
少女の顔がぱっと明るくなる。
その無邪気な笑顔を見ながら、オール・フォー・ワンは思考を巡らせていた。
何が危険だった?
攻撃した場合に反撃を受けるのか。それとも、こちらが攻撃するという行為そのものに何らかの条件が設定されているのか。
精神干渉、因果操作、強制変身。可能性はいくらでも考えられる。
少女の見た目からは何一つ判断できない。
「じゃあね、イマリが問題を出すよ」
「ああ。どうぞ」
「ちゃんと考えてね。一生けん命、考えてね」
イマリは花札を胸元に抱えると、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「じゃあ、聞くね」
少女の小さな唇が動く。
「イマリの札はね、猪さんよりあと、鹿さんよりまえ。お月さまは描かれていないのに、お月見には欠かせない札なんだよ」
少女は首を傾げ、にっこりと微笑む。
「ね。イマリの札、当ててみて」
オール・フォー・ワンは沈黙した。
猪と鹿。花札における猪は七月の萩、鹿は十月の紅葉に描かれている。つまり、その間にある八月か九月の札ということになる。
八月は芒。九月は菊。
しかし、お月見には欠かせないという言葉が引っ掛かった。八月の芒には月が描かれた光札が存在するが、少女は月が描かれていないと言っている。
ならば、九月の菊か。
そこまで考えたところで、オール・フォー・ワンはある役を思い出した。
月見で一杯。
八月の「芒に月」と、九月の「菊に盃」を組み合わせることで成立する役だ。
少女の言葉は、すべてその札を指し示している。
だが、本当にそれだけなのか。あまりにも単純な言葉の裏に、別の意味が隠されている可能性はないか。
「……おじさん?」
イマリが不思議そうに彼を見上げた。
「難しい?」
「いや、なかなか面白い問題だと思ってね」
「えへへ。イマリ、頑張って考えたんだよ」
少女は嬉しそうに笑っている。まるで自分の出した問題を褒められたことが、何より嬉しいとでもいうように。
オール・フォー・ワンはその笑顔を見つめた。
もし間違えれば、この少女は一体何をするつもりなのだろうか。
いや、余計なことを考えるべきではない。問題には必ず答えがある。
「……九月の札。菊に盃、かな?」
イマリはぱちぱちと瞬きをした。
そして、ゆっくりと胸元に隠していた札を裏返す。
そこには菊の花と、盃が描かれていた。
オール・フォー・ワンはその反応を注意深く観察する。もし間違っていれば、何が起きるのか分からない。無意識のうちに、複数の防御系個性をいつでも発動できる状態にしていた。
やがて、イマリは小さく頷いた。
「……うん。あたり」
その瞬間、オール・フォー・ワンの内側で鳴り響いていた警鐘が止まった。
唐突な静寂だった。
張り詰めていたものが、嘘のように消え去っている。
「すごいね、おじさん。ちゃんと当ててくれた」
「なかなか面白い問題だったよ」
「えへへ……ありがとう」
イマリは本当に嬉しそうだった。
少女は地面に広げていた花札を丁寧に集め、袖の中へとしまっていく。どうやら、これで遊びは終わりらしい。
オール・フォー・ワンは少女を見下ろした。
「ところで、イマリちゃん」
「うん?」
「もし僕が間違えていたら、どうなっていたのかな?」
少女は不思議そうに首を傾げた。
「んー……」
少し考えてから、にっこりと笑う。
「イマリのおともだちになってもらうの」
「……お友達?」
「うん。ちっちゃくて、かわいいおともだち。ずっと一緒に遊んでくれるんだよ」
少女は両手を広げ、何か小さなものを抱きしめるような仕草をした。
「でも、おじさんは当てたから。今日はおしまい」
「そうかい。それは残念だね」
「うん……イマリも、ちょっと残念」
そう言って少女は少しだけ寂しそうに俯いた。
「でもね、ちゃんと当ててくれたから。イマリ、嬉しかったよ」
オール・フォー・ワンは何も答えなかった。
イマリはそんな彼の様子を気にすることなく、小さく手を振った。
「また遊んでほしいな。今度も、いっぱい考えてね」
「ああ。機会があればね」
「うん。約束だよ」
少女は満足そうに微笑んだ。
その瞬間、ふわりと花びらが舞った。
夜風に運ばれた数枚の花びらが、男の視界を横切る。ほんの一瞬、それに目を奪われた。
そして、気がつけば少女の姿は消えていた。
「…………」
しばらく、その場に沈黙が流れた。
オール・フォー・ワンはゆっくりと息を吐き、額に手を当てた。
冷や汗をかいていた。
結局、あの少女がどんな個性を持っていたのかは分からなかった。ただの花札遊びに見えたが、最初に攻撃しようとした瞬間、あの感知系の個性は明確な警告を発していた。そして、問題に正解した途端、その警告は消え失せた。
小さな笑いが漏れた。
もし、最初に攻撃していたら。
あるいは、あの問題に間違えていたら。
何が起きていたのか、彼には想像もつかない。
だが、確信だけはあった。
どちらか一つでも選択を誤っていれば、取り返しのつかないことになっていただろう。
オール・フォー・ワンはもう一度、少女が消えた場所へと視線を向けた。
長い年月を生きてきた彼が、名も知らぬマイナーヒーローとの花札遊びで冷や汗をかくことになるとは。
実に奇妙な夜だった。
続きません。