今日は、久しぶりの日本でのサイン会だった。
都内の大手書店の特設ステージ前には長蛇の列ができていた。
いつもと変わらず無表情で、黙々とサインをしながら握手をこなしていく黒子の前に、9歳くらいの少年が黒子の新刊を差し出した。
ふと顔を上げると、制服だろうか、黒い半ズボンに白いシャツ、水色のジャケットをまとった、いかにもお育ちの良さそうな少年がまっすぐに黒子を見つめていた。
心臓がトクンと鳴った気がした。
目が合った瞬間に、少年の長い睫毛が琥珀色の美しい瞳にかぶさり、頬がほんのりと赤らんだ。
サインする手を止めた黒子は、恥じらうように目をそらした少年に微笑みかけた。
「ご両親の本ですか?」
少年はさっと顔を上げ、強い眼差しで黒子を正面から見つめ、子ども特有の少し高い声で、よどみなく言葉を発した。
「いいえ、僕のです。あなたの本はすべて読みました。新刊が出るのをずっと待っていました。今日はあなたに会えてうれしいです。」
「それは……ありがとうございます。」
黒子の頬が緩んだ。
いつも無表情な黒子がこうした公の場で笑顔を見せるのは珍しい。
後ろに並んでいたファンや、周りを取り囲んでいた関係者の間から、小さなざわめきが漏れた。
「君のお名前は?」
サインのために名前を聞く。
「あかしせいやです。赤い司で赤司、行人偏に正しい、也と書いて征也です。」
黒子の心臓が今度はドクリと大きく跳ねた。
サインをする手がわずかに震えた。
サインを終えるとペンを置き、本を左手で差し出し、右手でそっと少年のふっくらとした白い頬に触れた。
清らかな空色の大きな瞳をうっすらと潤ませ、今にも泣きだしそうな表情を見せる黒子に、少年は驚いたように目を見開き、尋ねた。
「また会えますか?」
黒子は無言のまま微笑んだ。
2人の間に少しの沈黙があり、横に控えていたスタッフが「次の方どうぞ」と叫んだ。
「ええ、会いに来ます」
少年は、安心したような表情でそっとステージを離れていった。
ダークスーツを着た大人に付き添われ、少年が会場を去っていくその姿をじっと見つめる黒子。
すると少年は、おもむろに振り返り、唇の両端をきゅっと上げ、黒子に笑いかけた。
子どもとは思えないほど強い意志を持って。
ああ、知っている、あの表情(かお)は—
「先生?」
とスタッフに声をかけられるまで、黒子は出ていく少年の後ろ姿を呆然と見つめていた。
残りのサインを黙々とこなし、終わった時にはいつも以上の疲労感を感じた。
ホテルに帰るとベッドの上に倒れ込み、東京の摩天楼を一望できる大きなガラス窓に顔を向ける。
日本経済を牽引する大企業ひしめくオフィスビル街を、ぼうっと眺めた。
「幸せですか、赤司君……」
彼の口から無意識に漏れる言葉が、摩天楼に吸い込まれるように消えていった。
帰りの車の後部座席で、少年は真新しい帯のついた一冊の本を膝の上に置き、大事そうに両手を添えながら表紙をじっと見つめていた。
今日初めて会った憧れの作家。
物心ついたころからさまざまな本を読んできた少年であったが、ある日、偶然、父親の書斎でこの作家の本を見つけた。
純文学など読みそうにない父親の、壁一面を埋め尽くす本棚の中で、この本だけが浮いていた。
机の横のすぐ手の届く場所に置いてあるのが、ビジネス書でもないこの本だったのが、よけいに違和感を与えた。
恐る恐る手に取ってみると、あっという間に引き込まれてしまった。
それ以来、こっそり書斎にあるこの小説家のすべての本を読破した。
ある時、この作家が1年ぶりに出した新刊のサイン会が、自宅からそう遠くはない都内の大型書店で開かれることを知った。
ーー大好きな小説家の新刊が出る、本人に会える。
少年は久しぶりに心が昂揚する日々を過ごした。
そして、やっと会えたその瞬間。
大きな水色の瞳に吸い込まれた。
慈愛と懐かしさと、どこか悲しさをまとった憂いのある瞳で見つめられた。
ああ、この人の瞳は、彼の書く小説と同じだ。
今まで感じたことのない不思議な感情が腹の底から湧き上がり、小さな胸を締め付けた。
また、会う、必ず。
車が見慣れた街路樹の通りを右折した。
もうすぐ家に着く。
速度を落とした車が、ゆっくりと左右内側に開かれた大きな門に吸い込まれるように入っていった。
少年は膝の上に抱えていた本の表紙をそっと開き、黒いサインペンで書かれている自分と作家の名前をじっと見つめ、小さく華奢な指でそっとなぞった。
赤司征也、9歳の春であった。
黄瀬が都内一等地にあるこのFMラジオ局で、自分の冠番組をもって5年が経った。
10代のころから学生の傍らモデルをはじめ、20代になってからは俳優業へと転じ、本格的な芸能活動を開始して早15年。
当初は、モデル上がりのイケメン若手俳優としてトレンディドラマなどに引っ張りだこだった黄瀬だったが、20代も終わりを告げるころ、大河ドラマの主役に抜擢された。
そのドラマは大当たりし、一気に実力派俳優の仲間入りを果たした。
30代に入り、ワンランク上の大人イメージ戦略として、所属事務所が取ってきた仕事がこのラジオ番組だった。
この番組では、文化人や財界人などをゲストに迎え、30分さまざまな話を伺うもので、黄瀬の人懐っこく、飾らない率直な質問に、お堅い財界人も、気難しい文化人も思わず普段と違う顔を見せ、わかりやすく話してくれる。
若い世代から中高年まで幅広く人気があった。
その日の収録は、始まる前から黄瀬のテンションがいつもと違って異常に高かった。
一方で、正面に座るゲストの存在感が感じられず、はたしてどんな収録になるのかと番組スタッフを心配させていた。
「今日のゲストは、日本の純文学界の次世代を担う旗手、そして俺の20年来の恋人、黒子テツヤ先生ッス!」
「先生はやめてください。黄瀬君にそう呼ばれると、なんだかよそよそしいです。それと、僕は一度たりとも、君の恋人だったことはありません。」
「俺の片思い20年ってやつッスかね。じゃあ、いつもどおりに呼ばせてもらいます、くろこっち。俺たちは中学時代に同じバスケットボール部で、高校ではライバル校として戦ったという大親友なんス。中学時代のくろこっち、超かわいかったっスよ〜、俺、もうメロメロだったッス。30過ぎたおっさんになっても相変わらず老けないッスね、くろこっち。」
初っ端から、黒子に一刀両断に切り捨てられてしまっても、ご機嫌で番組を進める黄瀬だった。
30代に入ってからは、彼の話し方の癖である「ッス」も自粛中であったはずだが、今日は旧友との再会で昔に戻ってしまっていた。
事務所マネージャーが思わず外からカンペを出し、注意を促したほどだった。
「既にみなさん、ご存知だとは思いますが、とりあえず、くろこっちの略歴を紹介しますね。大学在学中から小説を書き始め、大学4年の時に、純文学の新人賞である文芸界新人賞を受賞、現役大学生の受賞ということで注目を集めました。卒業後に渡米し、そのまま西海岸で小説を書き続けていらっしゃいます。毎年一冊出す長編小説は、ことごとくヒットし、この15年間で15冊出されています。近年は、芥川賞にもノミネートされていらっしゃいます。くろこっち、ここ2〜3年、すごく筆が乗ってるみたいッスね。最近は主人公や準主人公が少年なんだけど、子ども時代が懐かしくなったとか?」
「自分自身では普段どおりで、特に調子がいいとかいうのはないです。ただ、ぼく、若い友達ができて。」
「え? 誰ッスかそれ?!」
「数年前にぼくのサイン会に来てくれた当時小学生の少年です。それが初対面だったんですが、無意識のうちに、創作にインスピレーションを与えてくれているのかもしれません。」
「そんな……俺のくろこっちにそんな影響を与えるなんて……まるで赤司っちみたいじゃ……」
ハッとして一瞬躊躇する黄瀬だったが、すぐに持ち直して言い直した。
「ああ、赤司っちっていうのは、俺たちの中学時代のバスケ部主将ね。それで?
いまでもその少年とは?」
「はい。ぼくが毎年開く新刊のサイン会には必ず来てくれます。」
「えー、俺なんか、なかなかくろこっちに会えないのに〜っ。」
「毎年、僕らのところに遊びに来てくれてるじゃないですか。」
「ああ、くろこっちのところ行くと、青峰っちと火神っちもセットでついてくるの、あれ、どうにかなんないッスかね?」
黒子が住む地域に、今でもNBAで現役で活躍している青峰と火神、中学・高校時代からのライバル兼友達も住んでいる。
黄瀬がたまの休暇で黒子を訪ねると、必ずその二人も呼んで一緒に遊ぶのだと紹介する。
「ところで、なんでアメリカにいきなり行っちゃったわけ?」
黒子の無表情に一瞬の陰りが見えたのを、黄瀬は見逃さなかった。
「当時はいろいろ、現役大学生の新人賞受賞で騒がれていたので、落ち着いて小説が書ける環境に行きたかったからです。ちょうど、火神くんと青峰くんがあっちにいて、気晴らしついでに遊びに行ったら、居心地がよくて、そのまま居ついてしまいました。」
「最初は火神っちの家で居候?」
「はい。彼は家事全般できるし、英語も帰国子女だったので達者ですし。なにもできないぼくが慣れるまで、よく面倒を見てくれました。でも彼も現役NBA選手でしたし、いつまでもお世話になっていてもと思って、近くにアパートを借りて。その時に物件紹介からなにから手伝ってくれたのが、火神くんの幼なじみの氷室さんです。今、あっちでスポーツ選手のマネジメント業をやってますよ。」
「氷室さんって、あの陽泉高校の?すごいッスね、このバスケネットワーク。」
「今では僕のマネジメントもお任せしています。」
「へー、そうなんだ。じゃあ、俺もハリウッドデビューの時には、ぜひお願いしよっかな。」
いつもよりざっくばらんなトークで盛り上がった収録が終了した。
ブースから出るときに、黄瀬が黒子にそっと声をかけた。
「アメリカ行きとか、赤司っちのこととか出しちゃってごめん。でも、もういいよね、くろこっち?」
黒子には、黄瀬がなぜあえて番組の中でそれを聞いたのかわかっていた。
黄瀬なりに、ずっと心配してくれていたのだ。
「ええ、大丈夫ですよ。もう昔のことです。」
ほんの少し微笑みながら、黄瀬を見た。
「うん、よかった。あのさ、俺、これからすぐに次の現場に行かなきゃいけなくて。また連絡する。あっちに戻る前に食事しよっ?くろこっち!」
黒子は黄瀬の気づかいに感謝し、明るくうなずいた。
そして、マネージャーにせっつかれながら早足で去っていく黄瀬の姿を見送った。
ラジオ局のあるビルから出て、大きく深呼吸をすると、頬に何かが触れた。
手に取ると、ピンクの花びらだった。
正面玄関に面した歩道に沿って植えられている桜が満開だった。
自分の母校・帝光中学も、校門のそばに大きな桜の木があった。
桜舞い散る中を歩いていったことを思い出した。
あの子も今頃、あの校門をくぐっているのだろうか。
桜の木の前で思いを巡らせていると、黒子のそばに、黒塗りの車が音もなく停車した。