「新入生代表、赤司征也!」
「はい!」
よく通る、凛とした声だった。
講堂の空気が、わずかに引き締まる。
赤司征也は、椅子から静かに立ち上がった。
黒い詰襟の制服の裾を乱すことなく壇上へ進み、演台の前に立つ。
一礼して顔を上げたとき、その表情には、十二歳の少年にありがちな落ち着きのなさはどこにもなかった。
「柔らかく暖かな風に舞う桜とともに、僕たちは今日、この帝光中学校の門をくぐりました。咲き誇る桜の花々は、まるで僕たちの入学を歓迎しているかのようです」
抑揚は穏やかで、しかし一言一言がはっきりとしていた。
原稿を読み上げているだけの声ではない。
自分の言葉として、目の前の人間に届けようとする声だった。
新入生、在校生、教職員、保護者――広い講堂を埋めた人々の視線が、自然と一人の少年へと集まっていく。
後方の父兄席では、小さなざわめきが起きていた。
「やっぱり、そっくりだわ」
「赤司征十郎さんの息子さんでしょう」
「立ち居振る舞いまで……」
「昔の生徒会長時代を知ってる先生が、“再来だ”って仰ってたわ」
古参の教員たちがささやき合うのも無理はなかった。
壇上に立つ征也の姿は、その父・赤司征十郎の中学時代を知る者にとって、あまりに鮮やかな既視感を呼び起こしたからだ。
整った姿勢。
揺るがぬ目線。
言葉を支配するような静かな自信。
それは、血筋と一言で片づけるには、あまりにもよく似ていた。
けれども、征也の内側では、講堂の誰も知らない別の感情が、微かに脈打っていた。
この挨拶文を作るとき、彼の頭に浮かんでいたのは、父ではなかった。
――黒子先生なら、どう書くだろう。
あの人の小説は、桜をただ「美しい」とは書かない。
花の色の向こうにある寂しさや、散ることを前提として咲くものの残酷さまで、そっと掬い上げる。
征也は、それを知っていた。
だから原稿用紙の前で、何度も言葉を選び直した。
あまりに子供っぽい表現は消した。
けれど大人びすぎた言葉も、借り物のようで嫌だった。
最後に残ったのが、この一文だった。
柔らかく暖かな風に舞う桜とともに――。
それはたぶん、十二歳の自分が届きうるぎりぎりの場所にある言葉だった。
挨拶を終え、もう一度深く礼をする。
控えめながらも大きな拍手が起こり、征也は静かに席へ戻った。
壇上から降りる途中、父兄席の最前列に座る父と目が合った。
赤司征十郎は拍手をしていた。
その表情は満足げで、誇らしげで、どこから見ても非の打ちどころのない父親の顔だった。
隣に座る母も、美しく微笑んでいた。
薄桜色のスーツを上品に着こなし、胸元に小さな真珠のブローチを留めている。
彼女は人前で取り乱すことなど決してない人だった。
社長夫人として磨かれた柔らかい物腰、相手を不快にさせない受け答え、控えめでいながら華のある佇まい。
そのすべてが、赤司家の「完璧な家族」という輪郭を整えていた。
誰が見ても、理想の一家だった。
だが征也は、幼いころから、家の中にときおり流れる微かな冷たさを知っていた。
父は優しかった。
少なくとも、征也に対しては。
多忙な人間にしてはよく家にいたし、休日になれば一緒に食事をし、勉強も見てくれた。
征也が熱を出したときには、夜中でも仕事を切り上げて帰ってきた。
誕生日や入学、進級など、節目ごとの行事も忘れない。
厳しいところはあるが、不在の父ではなかった。
母にも優しかった。
誰もがそう思った。
誕生日には必ず花束を贈り、外の会合には夫人として伴い、周囲に恥をかかせることなど一度もない。
口調も穏やかで、ぞんざいな物言いをすることはなかった。
けれど、征也は知っていた。
父と母の寝室は別だった。
父は夜遅く帰ると、母の部屋ではなく、必ず書斎にこもる。
母はそれを責めない。
責めるどころか、何も見ていないように振る舞う。
それが、幼い頃からずっと、赤司家の日常だった。
征也はその異質さを、明確な言葉としては理解していなかった。
けれど、本能のようなところで感じ取っていた。
この家には、決して踏み込んではならない場所がある。
それは部屋ではなく、沈黙だった。
入学式から数日後の夕方、征也は学校から帰ると、制服のまま二階の自室へ向かおうとした。
そのとき、階下の居間から、低く押し殺した男の声が聞こえた。
父の声だった。
普段の彼は、感情を露わにしない。
怒鳴ることもない。
だからこそ、その低く地を這うような声音は、幼い征也の足を止めるには十分だった。
「……もう一度言う。余計なことはするな」
言葉は短く、静かだった。
だが静かな分だけ、そこに含まれる圧は凄まじかった。
息を殺して、階段の途中からそっと下を窺う。
居間には父と母がいた。
母はソファの前に立ち尽くしていた。
顔色が青ざめ、唇はわずかに震えている。
父に向けた視線には、怯えと、困惑と、言い表せない悲しみが入り混じっていた。
征也は一度も、母があんな顔をするのを見たことがなかった。
「でも……あの子は……」
「征也のことなら、オレが考える」
遮るように父が言った。
「君が口を出せば、余計に拗れる」
その声音は、冷静だった。
冷静であることが、かえって恐ろしかった。
母は何か言いかけて、言葉を飲み込んだ。
細い指先が、スカートの布を強く握りしめている。
征也は胸の奥がひやりとするのを感じた。
父と母は、喧嘩をしない。
少なくとも、征也の前では一度も。
互いを思いやる、静かな夫婦。
そう見えていた。
いや、そう見せていたのかもしれなかった。
これ以上見てはいけない。
そう思った瞬間、征也は音を立てないよう、そっと階段を引き返した。
部屋に入って扉を閉めると、急に呼吸が浅くなる。
机の引き出しを開け、一冊の文庫本を取り出した。
黒子テツヤ。
父の書斎で最初に見つけた、あの作家の本だった。
手に取るだけで、不思議と気持ちが落ち着いた。
ざわついていた胸の中に、静かな水が流れ込むようだった。
ページを開く。
何度も読んだ一節に視線を落とす。
――人は失くしたものの大きさではなく、それがどれほど静かに失われていったかによって、より深く傷つくのかもしれない。
征也はその文章を指でなぞった。
なぜだかわからないが、その夜、彼ははじめて、父と母の間には自分の知らない「何か」があるのだと、はっきり感じた。
その数日前、黒子テツヤは、都内のホテルのラウンジで、目の前に座る女性を見つめていた。
春らしい淡いベージュのワンピースに、上質なジャケット。
派手さはないのに、育ちの良さが滲む装いだった。
姿勢がよく、化粧も控えめで、声も静かだ。
一見して、余裕のある家庭の奥方だとわかる。
赤司征十郎の妻。
名刺には、そうではなく、きちんと個人名が記されていた。
だが黒子にとって、その情報は十分すぎるほどだった。
彼女は紅茶にも口をつけないまま、丁寧に頭を下げた。
「突然お時間をいただき、申し訳ありません。しかも勝手に車でお迎えに上がってしまって、さぞかし驚かれたでしょう。」
「いえ。編集部の方から、どうしても会ってほしい方がいると伺っていましたので」
黒子の声はいつも通り平坦だったが、胸の奥には冷たい予感があった。
彼女はしばらく言葉を探すように沈黙したのち、静かに切り出した。
「息子のことです」
やはり、と思った。
征也。
毎年、新刊のサイン会に来る少年。
黒子が帰国するたび必ず姿を現し、少しずつ背を伸ばし、言葉を増やし、大人びた表情を見せるようになっていった少年。
編集部を通して届く手紙も、最初は感想ばかりだったのに、次第に日常のことや学校のこと、自分が何を考えているのかまで綴るようになった。
黒子も、ごく短い返事しか書かなかったが、それでも返し続けていた。
彼の言葉は驚くほど真っ直ぐで、繊細だった。
年齢のわりに聡いくせに、聡いことをひけらかさない。
読めば読むほど、胸の奥に遠い痛みを呼び起こす文章を書いた。
――あの人に似ている。
そう思ってしまう自分を、黒子はずっと戒めていた。
「息子は、先生に憧れています」
「……ええ」
「憧れというより、もっと深く傾倒しているのかもしれません」
黒子は何も言わなかった。
彼女の唇が小さく震えた。
「母親として、それが怖いのです」
その声音に、黒子ははっとした。
嫉妬や敵意ではなかった。
そこにあったのは切実な怯えだった。
「征也は、もともと父親によく似ています。性質も、きっと……。一度強く心を向けたものから、そう簡単には離れない子です。先生の本を読み、先生のことを知るにつれ、あの子の中で何かが大きくなっていくのが、見ていてわかるんです」
黒子はテーブルの上で指先を組んだ。
爪の先が、わずかに白くなる。
彼女は一度息を整え、はっきりと告げた。
「どうか、これ以上、あの子と関わらないでください」
言葉は静かだった。
だがその一言は、黒子の胸の中央にまっすぐ届いた。
「手紙のお返事も、今後は……」
そこで彼女は少しだけ目を伏せた。
「これは、主人の意思でもあります」
黒子の表情が、ほんの僅かに揺れた。
それを彼女は見逃さなかっただろう。
だが続けるしかなかった。
「主人は、先生のお気持ちを……いえ、過去のことを、すべてではなくても知っています。だからこそ、これ以上はだめだと」
黒子は、窓の外を見た。
春の光が柔らかくラウンジの床に落ちている。
遠くに見える街路樹の若葉が、風に揺れていた。
長い沈黙のあと、黒子はようやく口を開いた。
「……征也くんは、何も悪くありません」
「わかっています」
「むしろ、とても聡明で、優しい子です」
「ええ」
「それでも、ですか」
問いではなかった。
確認だった。
彼女はゆっくり頷いた。
「それでも、です」
黒子は目を閉じた。
胸の奥に、古い傷が静かに開く。
赤司征十郎。
十三年前、自分から離れていった人。
けれど、離れたあとも決して消えなかった人。
会わないまま、想い合っていることを、黒子は知っていた。
知らされなくてもわかっていた。
あの人が自分を忘れていないことも。
自分と同じように、会わないことでしか守れないものを抱えていることも。
それでも。
それでも、息子にまでその残像が届いてしまったのだとしたら。
黒子は、ゆっくりと顔を上げた。
「わかりました」
彼女が息を呑む気配がした。
「もう、返事は出しません。サイン会で会っても、必要以上には関わりません」
「……ありがとうございます」
その言葉には安堵だけでなく、深い疲労が滲んでいた。
黒子は静かに首を振った。
「お礼を言われることではありません」
少し間を置いてから、続ける。
「あなたも、つらかったでしょう」
その瞬間、彼女の目が揺れた。
完璧に整えられていた表情が、ほんの一瞬だけ崩れる。
けれど彼女はすぐに微笑んだ。
社長夫人の、隙のない微笑みだった。
「……私は、十分に幸せです」
黒子はそれ以上、何も言わなかった。
その言葉が真実であり、同時に真実ではないことを、互いに理解していたからだ。
それから、征也の手紙に返事は来なくなった。
最初の一通は、ただの行き違いだと思った。
多忙なのだろう。
締切前なのかもしれない。
海外に戻ってしまえば、編集部を通すやり取りに時間がかかることだってある。
だから征也は、少し待ってから二通目を書いた。
入学式のこと、クラスで学級委員に推されたこと、図書委員になったこと。
自分で書いていても、黒子に伝えたい話ばかりだった。
返事は、来なかった。
三通目では、文体を変えてみた。
あまり重くならないよう、簡潔にした。
最近読んだ本の感想と、黒子の旧作の好きな場面についてだけを書いた。
返事は、やはり来なかった。
四通目を書くころには、征也はすでに気づき始めていた。
――返したくないのだ。
その事実を認めるのは、ひどく苦しかった。
編集部のミスではない。
郵便事故でもない。
返せない事情があるのでもない。
返さない、と決められたのだ。
征也はそれでも書くことをやめなかった。
月に一度、あるいは二か月に一度。
長すぎないよう気をつけながら、けれど切らさぬように。
まるで、細い糸を手繰り寄せるみたいに、言葉を送った。
しかし糸の先は、ぴくりとも動かなかった。
その年の秋に出た黒子の新刊には、いつものような少年主人公がいなかった。
征也は発売日にそれを手に入れ、学校から帰る車の中で読み始め、夜には読み終えた。
三十代半ばの女性が主人公の、静かで研ぎ澄まされた長編だった。
美しい小説だった。
文句なく傑作だと思った。
けれど読み終えたとき、胸の内に残ったのは感嘆ではなく、鈍い痛みだった。
それまでの数作品には、いつもどこかに少年がいた。
主役でなくても、準主役として。
あるいは物語の核心に触れる存在として。
その少年たちの瞳や沈黙や、年齢に似合わぬ聡さに、征也は勝手に自分を重ねていた。
重ねてしまうくらいには、愚かで、幸福だった。
だが、もうそこにはいなかった。
まるで最初から存在しなかったもののように。
征也はベッドの上で本を閉じ、天井を見上げた。
捨てられた。
不意に、その言葉が胸の底から浮かび上がった。
両親に見捨てられたわけではない。
学校で孤立しているわけでもない。
成績は常に上位で、教師の受けもいい。
クラスの人間関係も順調だ。
何不自由ない生活を送っている。
なのに、その一つの感情だけが、他のすべてを押しのけて胸の中央に居座った。
征也は目を閉じる。
サイン会で初めて会った日のことを思い出す。
黒子は自分の頬に触れた。
泣き出しそうな顔で、自分を見つめていた。
あれは勘違いではなかったはずだ。
自分だけが特別だったと思いたかったわけではない。
確かに、あの人は何かを感じていた。
なのに、いまは何も返ってこない。
小さな喪失ではなかった。
世界の奥行きが一段失われるような、静かな損失だった。
その夜、珍しく眠れなかった征也は、水を飲もうと部屋を出た。
廊下を歩いていると、書斎の扉の隙間から光が漏れているのが見えた。
父が帰っていた。
深夜一時を回っている。
だが父はまだスーツ姿のまま、書斎の中にいた。
扉は完全には閉まっておらず、細い隙間から中の様子が見えた。
机に向かう父の横顔。
その手元には仕事の書類ではなく、一冊の本が置かれていた。
征也の呼吸が止まる。
その装丁は見覚えがあった。
黒子テツヤの、初期の長編。
父はその本を開いたまま、しばらく頁をめくるでもなく見つめていた。
読むというより、そこにあるものをただ確かめているような視線だった。
やがて父はそっと本を閉じ、額に手を当てた。
その横顔には、昼間会社で見せるような完璧な社長の顔も、家族に向ける穏やかな父親の顔もなかった。
あるのは、どうしようもなく疲れた、一人の男の顔だけだった。
征也は息を殺したまま、その場に立ち尽くした。
父もまた、黒子の本を読む。
それも、隠すように、夜更けの書斎で。
なぜ。
その問いはすぐには形にならなかった。
ただ、その瞬間、いくつかの点が、音もなくつながり始めた。
母の青ざめた顔。
父の低い声。
途絶えた返事。
黒子の小説から消えた少年。
そして、父の机上に置かれた一冊の本。
何かがある。
自分の知らない、しかし自分と無関係ではない何かが。
征也はコップの水を飲むことも忘れ、自室へ引き返した。
机の引き出しを開ける。
そこには、編集部から届いた返信用の封筒や、黒子から過去にもらった数少ない返事が大切にしまってあった。
短い文章ばかりだった。
本を読んでくださってありがとうございます。
学校生活が実りあるものになりますように。
あなたの言葉はいつもまっすぐで、読んでいて静かな気持ちになります。
たったそれだけの文なのに、何度も読み返した痕跡で紙は少し柔らかくなっていた。
征也はその一枚を見つめ、やがて静かに封筒へ戻した。
胸の奥に痛みはあった。
けれど、泣きたいわけではなかった。
むしろ、妙に冷えていた。
捨てられたのなら、追いつけばいい。
子供だから届かなかったのなら、大人になればいい。
今はだめでも、いつか必ず。
誰にも見えない場所で、征也はゆっくりと拳を握った。
――会いに行く。
もう一度、必ず。
返事がなくても。
物語から自分が消えても。
この想いが間違いだと言われても。
大人になったら、必ず会いに行く。
その決意は、叫びではなく、氷のように静かだった。
そして、その静けさこそが、赤司征十郎の息子である証のようでもあった。
窓の外では、春の終わりの風が庭木を揺らしていた。
散り残った桜の花びらが一枚、夜の闇に吸い込まれていく。
征也は机の上の便箋を見つめた。
次の手紙を書くべきか、一瞬だけ迷う。
だが、すぐにペンを取った。
返事が来なくても、構わない。
これはもう、誰かに受け取ってもらうための言葉ではなかった。
いつかあの人の前に立つために、自分が自分へ繋ぎとめるための言葉だった。
十二歳の春。
その日、赤司征也は初めて、本当の意味で何かを失い、同時に、一生かけて追いかけるものを手に入れた。