征也は手紙を書くことをやめなかった。
返事が来ないとわかっていても、書いた。
最初の頃は、どこかでまだ期待していたのかもしれない。
次こそは届くのではないか。
たまたま忙しかっただけなのではないか。
けれど、三通目、四通目と重ねるうちに、その期待は形を変えていった。
――返ってこなくてもいい。
そう思うようになった。
書くこと自体が、自分と黒子を繋ぎとめる行為になっていた。
相手に届くかどうかではなく、自分が手放さないための行為。
征也は便箋に向かいながら、ふと気づいた。
これは、会話ではない。
一方通行だ。
けれど、その一方通行が、むしろ自分の中の何かを研ぎ澄ませていくようでもあった。
返事がないからこそ、言葉は削ぎ落とされる。
無駄な飾りを削り、必要なことだけを書くようになる。
気づけば、彼の文章は以前よりも短く、そして静かに強くなっていた。
それは、彼自身もまだ自覚していない変化だった。
中学生活は順調だった。
学業は問題ない。
むしろ余裕があった。
教師からの評価も高く、クラスの中でも自然と中心に置かれる存在になっていた。
誰かと衝突することもなかった。
必要以上に近づきすぎることもない。
征也は、人との距離の取り方を本能的に理解していた。
それは父譲りの能力だった。
だが、放課後になると、征也は決まって図書室へ向かった。
理由はひとつだった。
黒子の本が、そこにあるからだ。
貸出カードの裏面には、同じ名前が何度も並んでいた。
赤司征也。
誰にも気づかれないように、同じ本を何度も借りた。
すでに内容は頭に入っている。
それでもページをめくる。
文章のリズム。
言葉の選び方。
余白の取り方。
読むというより、なぞるに近かった。
最近の作品には、少年がいない。
以前は必ずどこかにいた存在が、完全に消えている。
最初は偶然かと思った。
次は、意図的なのだと気づいた。
その事実を認識した瞬間、胸の奥にひやりとした感覚が広がった。
消された。
そう感じた。
自分が、ではない。
だが、自分に重ねていた何かが、意図的に排除された。
それがどれほど個人的な意味を持つことなのか、征也はまだうまく言葉にできなかった。
けれど確かに、そこには「切断」の意志があった。
ある日、図書室からの帰り道、同級生に声をかけられた。
「赤司、お前最近ずっと本ばっか読んでるよな」
「そうかな」
「うん。なんかさ、難しそうなのばっか」
征也は少しだけ首を傾げた。
「難しくはないよ」
「いやいや、純文学ってやつだろ?俺無理だわ」
軽い笑いとともに言われた言葉だったが、征也はそのまま流さなかった。
「無理って、何が?」
「え?なんかこう、意味わかんなくない?」
「意味はあるよ」
征也は淡々と答えた。
「ただ、全部説明されないだけで」
同級生は少しだけ困った顔をした。
「……やっぱ難しいわ、それ」
「そうかもね」
征也はそれ以上言わなかった。
説明しようとは思わなかった。
あの文章は、理解するものではない。
受け取るものだ。
そして一度受け取ってしまえば、もう元には戻れない。
自分がそうだったように。
帰宅すると、父はまだ帰っていなかった。
母はリビングで紅茶を飲んでいた。
いつも通り、穏やかな笑顔だった。
「おかえりなさい、征也」
「ただいま」
征也は鞄を置きながら、母を見た。
あの日の顔は、もうどこにもなかった。
あの青ざめた表情。
言葉を失っていた姿。
まるで最初から存在しなかったかのように、完全に消えていた。
「今日は学校どうだった?」
「普通」
「そう」
母はそれ以上踏み込まなかった。
それもまた、いつも通りだった。
征也は少しだけ間を置いてから言った。
「母さん」
「なあに?」
「黒子テツヤって、知ってる?」
カップを持つ手が、一瞬だけ止まった。
ほんのわずかだったが、征也は見逃さなかった。
「……ええ、名前は」
「父さんの本棚にあった」
「そうなのね」
母は静かにカップを戻した。
「征也は、好きなの?」
「うん」
短く答える。
「面白いよ」
「そう」
それだけだった。
それ以上、母は何も言わなかった。
肯定も否定もしない。
止めもしない。
勧めもしない。
ただ、その話題を深めない。
その沈黙の意味を、征也は理解し始めていた。
ここも、踏み込んではいけない場所だ。
その夜、父は珍しく早く帰宅した。
食卓を囲む三人。
会話は穏やかだった。
学校のこと、仕事のこと、
何気ない日常のやり取り。
どこから見ても、理想的な家族の風景だった。
だが征也は、父を見ていた。
言葉の選び方。
視線の動き。
母に向ける声のトーン。
どこにも不自然さはない。
だが、どこかに決定的な何かが欠けている。
それが何かまでは、まだわからない。
食事が終わり、席を立つとき、征也はふと口を開いた。
「父さん」
「なんだ」
「黒子テツヤって、知ってる?」
ほんの一瞬だった。
赤司の動きが止まったのは。
だがすぐに、何事もなかったかのように返す。
「作家だな」
「うん」
「読んでいるのか」
「少し」
赤司は数秒だけ征也を見た。
その視線は、評価するものでも、咎めるものでもなかった。
測っている。
そんな感覚だった。
「そうか」
それだけ言って、席を立った。
何も言われなかった。
止められもしなかった。
だが、その沈黙は、母のものとは違っていた。
――知っている。
父は、すべてを知っている。
その確信だけが、静かに胸に落ちた。
夜。
机に向かい、征也は便箋を広げた。
ペンを持つ。
少しだけ考える。
そして、書き始める。
入学式でした。
挨拶を任されました。
あなたの小説を思い出して、言葉を選びました。
届かないことは、もうわかっている。
それでも書く。
書くことでしか、繋がれないから。
最後に、少しだけ迷う。
書くべきか、やめるべきか。
けれど結局、書いた。
いつか会いに行きます。
必ず。
その一文を書いたあと、征也はペンを置いた。
呼吸が静かに整う。
不思議と、迷いはなかった。
返事がなくてもいい。
拒絶されてもいい。
これはもう、相手に許されるための言葉ではない。
自分が進むための言葉だった。
封筒に入れ、丁寧に封をする。
その動作のひとつひとつに、無駄はなかった。
十二歳の少年とは思えないほどに。
窓の外では、春の名残の風が吹いていた。
その風の中で、征也の中の何かが、静かに形を変えていく。
それはまだ「恋」と呼ぶには早すぎる。
だが、ただの憧れでもない。
執着。
あるいは、継承。
父から受け継いだものが、別の方向へと芽を出し始めていた。
誰にも気づかれないまま。
そしてそれは、やがて必ず、再びあの人のもとへ辿り着く。
時間をかけて。
決して逸れることなく。
――会いに行く。
その約束だけを胸に、征也は静かに目を閉じた。
春はまだ終わっていなかった。
それは、二年の冬だった。
征也はすでに、手紙を書くことをやめていた。
正確には、「送ること」をやめただけで、書くこと自体は続けていた。
机の引き出しの奥。
鍵付きの小さな箱の中に、誰にも見せることのない便箋が積み重なっていく。
日付だけが進んでいく手紙。
宛名は、いつも同じだった。
――黒子テツヤ様
けれど、その先に届くことはない。
それでもいいと思っていた。
むしろ、届かないからこそ、嘘を書かずに済む。
取り繕う必要がない。
言葉がまっすぐに、自分の奥へと降りていく。
気づけば、手紙は「報告」ではなくなっていた。
思考だった。
黒子の新作は、相変わらず出続けていた。
毎年一冊。
外れることはない。
評価も落ちない。
むしろ、年々研ぎ澄まされていく。
だが――
少年は、戻らなかった。
一度も。
それは偶然ではない。
確信に変わっていた。
消したのだ。
意図的に。
その事実は、征也の中で静かに固定されていった。
そして同時に、別の理解も生まれていた。
――父も、同じものを見ている。
三年に上がる直前のある夜だった。
征也はまた、眠れずに部屋を出た。
理由ははっきりしていた。
新刊を読み終えたばかりだったからだ。
今回も、少年はいなかった。
その代わり、主人公は壮年の男だった。
何かを選び、何かを捨てた人間の話だった。
静かで、冷たくて、どこまでも正確な物語。
そして、ひどく痛かった。
征也は水を飲もうとして、足を止めた。
書斎の明かりがついている。
父がいる。
迷いはなかった。
ノックをする。
一拍。
「入れ」
低い声。
征也は扉を開けた。
赤司征十郎は、机に向かっていた。
書類の山。
だが、その横に、やはり一冊の本が置かれている。
黒子テツヤ。
征也はそれを見て、もう驚かなかった。
「どうした」
「少し、お話いいですか」
赤司はペンを置いた。
そして、椅子の背にもたれず、まっすぐに征也を見た。
「構わない」
その姿勢は、父親ではなく、対等な相手として向き合うものだった。
征也は一歩、室内に入った。
扉は閉めない。
逃げ道ではない。
ただ、閉じる必要がないと判断しただけだった。
「父さんは」
言葉を選ぶ。
だが迷いはない。
「黒子テツヤを知っていますね」
赤司は瞬きひとつしなかった。
「知っている」
「どの程度ですか」
一瞬の間。
赤司は、ほんのわずかに口角を上げた。
「お前が思っている以上には、知っている」
征也は頷いた。
予想通りだった。
「母さんが、会いに行きましたね」
今度は、空気がわずかに変わった。
赤司は何も言わない。
否定もしない。
それが答えだった。
「手紙が止まりました」
「そうだな」
「新作から、少年が消えました」
沈黙。
だが、それもまた肯定だった。
征也はゆっくり息を吐いた。
「僕のせいですか」
はじめて、問いの形になった。
赤司はすぐには答えなかった。
だが、逃げなかった。
「半分は違う」
「半分は?」
「お前のせいではない」
言い換えだった。
征也はわずかに目を細めた。
「つまり、関係はある」
「ある」
はっきりとした肯定。
その瞬間、征也の中で、すべてが一本につながった。
父。
黒子。
母。
自分。
ばらばらだった点が、ようやく意味を持つ。
「……そうですか」
声は静かだった。
だが、その静けさの奥で、何かが決定的に変わった。
赤司は征也を見ていた。
逃げるかどうかを見ていた。
だが、征也は逸らさなかった。
「父さん」
「なんだ」
「あなたは、後悔していますか」
初めての踏み込みだった。
完全に一線を越えた問い。
空気が凍る。
だが赤司は、怒らなかった。
むしろ、少しだけ目を伏せた。
「している」
即答だった。
征也は、ほんの一瞬だけ息を止めた。
「だが」
赤司は続ける。
「選び直すつもりはない」
「なぜですか」
「選び直せば、今度は別の誰かを壊す」
淡々とした声だった。
だが、その言葉には、取り返しのつかない時間の重さがあった。
征也は理解した。
この人は、もう戻らない。
戻れない。
だからこそ――
「なら」
征也は一歩、踏み出した。
「僕は、違う選択をします」
赤司の視線が、わずかに鋭くなる。
「どういう意味だ」
「同じにはなりません」
征也は静かに言った。
「父さんのように、捨てる選択はしない」
空気が張り詰める。
普通の家庭なら、叱責が飛ぶ言葉だった。
だが赤司は動じなかった。
ただ、じっと征也を見ている。
「覚悟はあるのか」
低い問い。
試す言葉。
征也は即答した。
「あります」
迷いはなかった。
「何を失うことになっても?」
「それでも」
その一言に、赤司はしばらく沈黙した。
そして、ゆっくりと息を吐いた。
「……そうか」
それだけだった。
否定もしない。
止めもしない。
ただ、受け取った。
それが、赤司征十郎という人間だった。
「もういい。部屋に戻れ」
「はい」
征也はそれ以上言わず、踵を返した。
扉の前で一度だけ止まる。
振り返らない。
ただ、静かに言った。
「いずれ、会いに行きます」
赤司は何も答えなかった。
だが、その沈黙は、すべてを理解した上でのものだった。
扉が閉まる。
征也は廊下を歩きながら、ようやく気づく。
手が震えている。
だが、怖くはなかった。
むしろ、奇妙なほど澄んでいた。
自分が何を選ぶのか。
もう、決まっている。
書斎の中で、赤司はしばらく動かなかった。
机の上には、一冊の本。
黒子テツヤ。
ゆっくりとそれを手に取る。
ページを開く。
だが、文字は目に入らない。
代わりに浮かぶのは、さきほどの征也の言葉だった。
――同じにはなりません。
小さく息を吐く。
「……似ているな」
呟きは、誰にも届かない。
自分に似ているのか。
それとも――
「いや」
否定する。
あの目は、自分だけではない。
あの静かな執着は。
あの、逃げない意志は。
「……おまえに、似ている」
かつて手放したものの名を、心の中で呼ぶ。
それはもう、触れることのないもの。
だが、確かにここに残っているもの。
残像。
赤司は本を閉じた。
そして、机の上に静かに置いた。
その手は、ほんのわずかに震えていた。