高校に進学してから、征也の生活は目に見えて変わった。
変えられた、と言った方が正確だった。
「時間は有限だ」
それが、赤司征十郎の口癖だった。
入学から一ヶ月も経たないうちに、征也の一週間はほぼ隙間なく埋められていった。
平日は学校。
放課後は家庭教師、語学、ディベート、経済の基礎講義。
週末は企業見学や会食への同席。
表向きは「経験を積ませるため」だった。
周囲から見れば、将来を期待される跡取りにふさわしい教育だった。
だが征也は、すぐに気づいた。
このスケジュールには、ひとつだけ明確な機能がある。
――空白を作らせない。
考える時間を削るためではない。
むしろ逆だ。
「余計な行動」を取る余地を消すためだった。
黒子テツヤ。
その名前は、もう口に出されることはなかった。
だが、消されたわけではない。
むしろ、触れられないことで、輪郭がくっきりと残っていた。
高校一年の春。
黒子が帰国している、という情報を征也は知っていた。
毎年変わらない。
新刊発売。
サイン会。
数日の滞在。
編集部経由の情報。
書店の告知。
すべて把握していた。
場所も時間も、正確に。
だが、その日は。
見事なまでに予定が入っていた。
「どうしても外せない会食だ」
父はそう言った。
理由は明確だった。
取引先との顔合わせ。
征也にとっても「必要な経験」だと説明された。
反論の余地はなかった。
いや、反論しようと思えばできた。
だが、その時点ではまだ、征也は“従う側”にいた。
結果、サイン会には行けなかった。
その夜、会食の帰りの車内で、征也は何も言わなかった。
父も何も言わなかった。
沈黙は、確認だった。
――わかっているな。
その圧は言葉よりもはっきりしていた。
征也は窓の外を見ながら、静かに思った。
やはり、そういうことか。
二年目。
同じことが起きた。
今度は予定をずらそうとした。
数週間前から調整を試みた。
だが、そのすべてが、寸分違わず塞がれていた。
「その日は海外から客が来る」
「この案件はお前にも関わる」
「今後を考えれば優先順位はわかるだろう」
すべて正論だった。
逃げ道がない。
その夜、征也は初めて、父に直接言った。
「行きたい場所があります」
赤司は視線を上げた。
「どこだ」
「……書店です」
一瞬の沈黙。
「理由は」
「新刊が出ます」
それだけで、通じた。
赤司は数秒だけ征也を見つめた。
そして言った。
「今回は無理だ」
「来年は」
「状況次第だ」
それは否定だった。
遠回しでもなく、はっきりと。
征也は頷いた。
「わかりました」
それ以上は言わなかった。
だが、その時点で、完全に理解した。
これは偶然ではない。
意図的だ。
自分は、会わせないようにされている。
三年目。
征也は動かなかった。
予定も調整しない。
希望も言わない。
ただ、静かに過ごした。
その代わり、別の行動を取った。
黒子の宿泊先を調べた。
情報は思っているより簡単に手に入る。
特に、金と人脈があれば。
編集部関係者。
書店側。
ホテル関係。
直接ではなく、間接的に辿る。
辿れば、見える。
場所も、日程も。
征也はそれを確認しただけだった。
その年も、サイン会には行かなかった。
だが、もう焦りはなかった。
行くべき場所は、別にあると理解していたからだ。
大学に入る頃には、征也は完全に父の側にいた。
経営の実務。
意思決定のプロセス。
人の動かし方。
すべて叩き込まれていく。
逃げる気はなかった。
むしろ、必要だと理解していた。
この力がなければ、手に入れられないものがある。
そして同時に、征也は確信していた。
父は、自分を止めない。
条件付きで。
「力を持てば、選べる」
それが、この家の論理だった。
そして、その年。
征也は動いた。
黒子の一時帰国。
例年通りのスケジュール。
そして例年通り、完璧に埋められた自分の予定。
だが今回は違った。
征也は、すべて終えたあとで動いた。
夜。
黒子が宿泊しているホテルの前に立つ。
高層ビル。
都内一等地。
警備も厳しい。
だが、入れない場所ではない。
フロントに近づく。
落ち着いた声で告げる。
「黒子テツヤ様に、お取次ぎをお願いしたいのですが」
名乗る。
「赤司征也と申します」
一瞬、空気が変わった。
フロントのスタッフが、わずかに目を見開く。
すぐに整えるが、遅かった。
名前は、通る。
やはり、そうか。
征也は確信した。
――父は、ここまで遮断していない。
完全には。
それは制御であって、封鎖ではない。
つまり。
行ける。
部屋の前に立つ。
ドアの向こうにいる。
十年以上、会っていない人。
手を上げる。
ノックをする。
一回。
二回。
返事は、すぐにはなかった。
だが、気配はある。
いる。
わかる。
三回目を叩こうとした、その瞬間。
ドアが開いた。
黒子が、そこにいた。
時間が、止まる。
「……あかし、くん」
その声は、驚きと、理解と、わずかな動揺を含んでいた。
スーツ姿。
背が伸びている。
体つきも、少年ではない。
最後にあったときの赤司を彷彿とさせた。
大人になった征也を見て、胸が一瞬痛む。
まっすぐに、こちらを見ている。
逃げない視線。
十二歳のときと同じように。
いや、それ以上に。
「来ました」
それだけを言った。
黒子は、数秒、何も言わなかった。
だが、その沈黙の中に、すべてがあった。
「……どうして」
ようやく絞り出した言葉。
征也は一歩、踏み出した。
「約束したので」
あの日の言葉。
"また会えますか。”
”ええ、会いに来ます。”
「入ってもいいですか」
黒子は答えなかった。
だが、ドアを閉めなかった。
それが、答えだった。
征也は部屋に入る。
ドアが静かに閉まる。
もう、外には戻らない。
その瞬間、空気が変わった。
子供の頃の関係ではない。
読者と作家でもない。
別の何かに、変わる。
征也は、まっすぐに言った。
「付き合ってください」
一切の躊躇がなかった。
黒子の瞳が、大きく揺れる。
そして、静かに息を吐いた。
「……だめです」
即答だった。
だが、拒絶ではなかった。
それが、征也にはわかった。
「理由を聞いてもいいですか」
黒子は少しだけ目を伏せた。
「父をまだ好きだからですか?」
その言葉に、黒子の目がわずかに見開かれる。
だが、すぐに戻る。
理解していた。
その可能性は。
「……違います」
黒子は首を振った。
「もう、昔の彼の残像しかない」
静かな声だった。
「今の赤司君は知らない。二十年前で止まっているんです」
征也は一歩、近づいた。
「だったら」
その声は低く、確信に満ちていた。
「今の自分を見てください」
逃げない。
揺れない。
「自分なら、あなたをそんな風にさせない」
その言葉に、黒子の表情が揺れる。
ほんのわずかに。
だが、確かに。
「……君は」
黒子はゆっくりと言った。
「赤司家を継ぐ人です」
それが、境界線だった。
「僕に関わってはいけない」
はっきりとした拒絶。
だが、それでも。
征也は、笑った。
ほんの少しだけ。
「関係ないです」
静かに言った。
「自分で決めます」
その瞬間、黒子は、初めてはっきりと理解した。
この子は、もう、子供ではない。
そして――
あの人と、同じではない。
似ているのに、決定的に違う。
それが、怖かった。
そして同時に、少しだけ、救いにも見えた。
ホテルを出たとき、夜はすでに深く沈んでいた。
春の名残の空気がわずかに冷え、街の光がにじんで見える。
征也は振り返らなかった。
振り返れば、戻る理由が生まれる。
あるいは、戻れなくなる。
どちらにしても、今は必要なかった。
足取りは迷いなく、まっすぐだった。
自宅に戻ると、すでに灯りは落とされていた。
だが、書斎だけが静かに光っている。
予想通りだった。
征也はネクタイを緩めることもせず、そのまま廊下を進んだ。
扉の前で止まる。
ノックはしない。
そのまま、開けた。
赤司征十郎は、机に向かっていた。
だが、ペンは動いていない。
入ってきた気配を、すでに察していた。
「来たか」
低い声。
振り返らない。
征也は扉を閉めた。
今度は、はっきりと。
逃げ道を断つように。
「行ってきました」
それだけを告げる。
赤司はゆっくりと椅子を回した。
その視線は鋭くもなく、穏やかでもなかった。
ただ、正確だった。
「そうか」
短い肯定。
そこに驚きはなかった。
予想していた。
あるいは、そうなるように“残していた”。
完全に遮断しなかった理由。
それが、ここにある。
征也は一歩、近づいた。
「会いました」
「だろうな」
「話しました」
「そうか」
淡々とした応答。
だが、その奥にある緊張は隠れていない。
征也は、もう一歩踏み込む。
「断られました」
そこで初めて、赤司の指がわずかに動いた。
机の上で、ほんの一瞬だけ。
それを征也は見逃さなかった。
「理由は?」
「父さんです」
空気が、止まる。
完全な静止。
その一言で、すべてが露わになる。
赤司はゆっくりと目を閉じた。
そして、開く。
「……そうか」
その声は、かすかに低くなっていた。
征也は続ける。
「まだ好きだと、思いました」
否定ではない。
断定でもない。
だが、限りなくそれに近い。
赤司は答えなかった。
否定しないことが、答えだった。
沈黙が落ちる。
重く、長い沈黙。
やがて赤司は言った。
「座れ」
命令ではなかった。
だが、逆らう余地もない声音だった。
征也は椅子には座らなかった。
そのまま立っている。
「そのままでいいです」
赤司は何も言わなかった。
ただ、頷いた。
「……話がある」
それは、予定されていた言葉だった。
準備されていたもの。
征也は静かに待つ。
「私は、社長を退く」
予想外ではなかった。
だが、そのタイミングが、今である意味は理解できた。
「後任は?」
「決めていない」
征也の目がわずかに動く。
「お前に任せるかどうかも、だ」
完全な自由。
だが、それは同時に試練でもある。
「継ぐかどうかは、お前が決めろ」
赤司の声は静かだった。
「嫌なら継がなくていい」
「……代わりは?」
「いる」
即答だった。
「親類の中に、優秀な者が何人かいる。問題はない」
つまり、赤司家は、征也がいなくても成立する。
個人に依存しない構造。
それが、この家の強さだった。
そうなるように、赤司征十郎は動いていた。
「自由に生きればいい」
そう言ったあと、赤司はわずかに間を置いた。
そして続ける。
「ただし」
ここからが、本題だった。
「黒子には手を出すな」
空気が鋭く張り詰める。
命令だった。
はっきりとした、拒絶。
征也は一瞬も迷わなかった。
「無理です」
即答だった。
赤司の目が、わずかに細くなる。
「理由は?」
「約束したので」
静かな声。
だが、揺れはない。
「守ります」
赤司は数秒、征也を見つめた。
その目は、かつて自分がしていたものと同じだった。
何かを決めた人間の目。
引かない目。
「……母さんはどうする」
問いではなく、確認。
征也は一瞬だけ息を吸った。
そして、逆に問うた。
「捨てるんですか?」
その言葉に、空気が凍る。
普通なら、ありえない言葉。
だが赤司は怒らなかった。
ただ、ゆっくりと答えた。
「違う」
一拍。
「母さんは、知っている」
征也の瞳が揺れる。
「ずっと前からな」
静かな事実だった。
だが、その重みは大きい。
「結婚したときからかどうかはわからない。だが、気づいていた」
赤司は続ける。
「何も言わなかった」
それは、愛だったのか。
諦めだったのか。
あるいは、その両方か。
「……それでいいんですか」
征也の声が、わずかに低くなる。
赤司は答える。
「よくはない」
即答だった。
「だが、それでも成り立っていた」
「成り立っているように見えていただけでは」
鋭い指摘。
赤司は否定しなかった。
「そうかもしれないな」
そして、静かに言う。
「だから、お前には同じことをしてほしくない」
征也は眉をわずかに寄せた。
「どういう意味ですか」
赤司はまっすぐに見た。
「誰も、本当に幸せにはなれない」
その言葉は、経験から出たものだった。
理屈ではない。
積み重ねた時間の重さ。
選び続けた結果。
「だから」
赤司は言った。
「お前は、選ぶな」
その言葉に、征也はわずかに笑った。
ほんの少しだけ。
「無理です」
静かに、だが確実に否定する。
「自分は、選びます」
赤司の視線が鋭くなる。
「何を」
征也は一歩、踏み出した。
「両方です」
迷いはない。
「捨てません」
赤司はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと息を吐く。
「不可能だ」
「やってみます」
即答。
「壊れるぞ」
「壊しません」
静かな衝突。
どちらも引かない。
だが、叫びはない。
似ている。
あまりにも。
赤司は、ふと目を閉じた。
そして小さく呟いた。
「……やはりな」
目を開く。
その中に、わずかな諦めと、ほんの少しの期待が混じっていた。
「好きにしろ」
それは、許可だった。
同時に、突き放しでもあった。
「ただし」
最後に、もう一度だけ言う。
「結果はすべて、自分で引き受けろ」
「はい」
征也は頷いた。
それで十分だった。
もう、誰にも止められない。
部屋を出る。
廊下は静かだった。
母の部屋の前を通る。
灯りは消えている。
だが、起きている気配があった。
足を止める。
数秒。
ノックはしない。
そのまま通り過ぎる。
まだ、その時ではない。
征也は自室に戻ると、机の引き出しを開けた。
鍵付きの箱を取り出す。
中には、書き続けた手紙。
誰にも送られなかった言葉。
それを一枚、取り出す。
新しい便箋を広げる。
ペンを持つ。
迷いはない。
書く。
――会いに行きました。
静かに始まる、新しい言葉。
もう、子供ではない。
逃げない。
選ぶ。
そのすべてを背負った上で。
赤司征也は、初めて本当の意味で、父を越えようとしていた。
そしてそれは、黒子テツヤという「残像」を、現実へ引き戻すための、最初の一歩だった。