残像   作:ぷーぷ

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残像を超えて

扉の向こうで、足音が止まったのがわかった。

 

静かな家だった。

音はほとんどない。

だからこそ、気配は隠れない。

 

征也だ。

 

足音の重さでわかる。

迷いのない、まっすぐな歩き方。

扉の前で、わずかに止まる気配。

 

――来るのかしら。

 

そう思ったが、ノックはなかった。

やがて、足音が遠ざかる。

規則正しいリズムのまま、階段を上がっていく。

 

彼女は、ベッドの上で静かに目を閉じた。

安堵はなかった。

 

むしろ――

 

(ああ、もう)

 

理解してしまったからだ。

 

あの子は、もうこちらに来ない。

相談する側ではない。

選ぶ側に立った。

 

その事実が、静かに胸に落ちる。

 

気配が完全に消えても、彼女はしばらく動かなかった。

部屋の明かりは消したまま、暗闇の中で、呼吸だけを整える。

 

涙は出ない。

泣く理由は、とうに過ぎている。

代わりにあるのは、確認だった。

 

―自分が、どこに立っているのか。

 

ゆっくりと身体を起こし、ベッドサイドのランプを点ける。

柔らかな光が、部屋を満たす。

 

鏡に映る自分の顔は、いつも通りだった。

化粧は落ちている。

それでも、感情は出ていない。

 

(……上出来ね)

 

顔ではなく、内側が整っている。

誰に見せるわけでもない顔。

それでも、整えることはやめなかった。

それが、この家での自分の在り方だった。

 

引き出しを開ける。

奥に、小さな箱。

ほとんど触れられていない、きれいな箱。

 

そっと開ける。

中には、数枚の手紙。

そして、一冊の本。

 

“黒子テツヤ”

 

あの日、会いに行ったあとに買ったもの。

理由は、わかっている。

 

知りたかったのだ。

 

夫が、何を見ていたのか。

息子が、何に触れてしまったのか。

 

本を開く。

 

静かで、優しくて、残酷な文章。

説明しない。

逃がさない。

読む者の内側に、何かを残していく。

 

(……確かに)

 

小さく息を吐く。

 

(これは、危ないわね)

 

理解している。

だからこそ、怖かった。

あの子が、この言葉に触れ続けることが。

 

そして、その結果が

 

―今日だ。

 

本を閉じ迷いなく箱に戻し蓋を閉じる。

 

(……終わりね)

 

確認だった。

誰に向けたものでもない。

ただ、自分の中で区切るための言葉。

 

立ち上がり、ドアへ向かう。

廊下は静かだった。

書斎の前で、足を止める。

 

灯りはついている。

彼は、起きている。

 

ノックはしない。

必要がない。

そのまま扉を開ける。

 

赤司征十郎は、椅子に座ったままだった。

 

振り向かない。

だが、気づいている。

 

「起きていたのか」

 

低い声。

 

「ええ」

 

短く返す。

 

部屋に入る。

扉は閉めない。

 

それも、いつも通り。

机の前まで進む。

 

「征也と話しましたね」

 

赤司は答えない。

だが、それで十分だった。

 

「行ったのね」

 

一拍。

 

「ああ」

 

予想通りの答え。

彼女は小さく頷く。

驚きも、怒りもない。

 

(……そうなるわよね)

 

「止めないのですか」

 

責める響きはない。

ただの確認。

 

赤司は少し沈黙し、言った。

 

「止められない」

 

正確な言葉だった。

 

彼女はそれを、そのまま受け入れる。

否定しない。

できるはずがない。

あの子は、止まる子ではない。

 

「そう」

 

長くもなく、短くもない、慣れた沈黙。

 

「離婚の準備をしましょう」

 

空気が、わずかに変わる。

赤司が顔を上げる。

初めて、正面から。

 

「……いいのか」

 

問いだった。

 

彼女は微笑む。

整えられた、いつもの笑顔。

 

「よくはないわ」

 

正直に言う。

 

「でも」

 

一拍。

 

「これ以上、歪んだまま続けるよりは、ましでしょう」

 

責めない。

嘆かない。

ただ、事実として置く。

 

赤司は何も言わない。

言えない。

 

「あなたは、最初から決めていたでしょう」

 

視線は穏やかだが、逃がさない。

 

「いつか終わらせるつもりだった」

 

赤司は目を伏せる。

否定しない。

 

「その“いつか”が、来ただけ」

 

それだけだった。

 

恨みはない。

怒りもない。

ただ、時間の到達点。

 

踵を返す。

扉の前で止まる。

振り返らない。

 

「征也は」

 

静かに言う。

 

「あなたより、うまくやるわ」

 

それは評価だった。

そして、ほんのわずかな願い。

 

「壊さずに済めば、いいわね」

 

それだけ残して、部屋を出る。

扉が閉まる。

 

静寂が戻る。

 

赤司は動かなかった。

ただ、座っている。

机の上の本を見る。

 

“黒子テツヤ”

 

触れない。

手は伸びない。

ゆっくりと目を閉じる。

 

(……遅かったな)

 

誰にも届かない声。

それが、彼の本音だった。

 

 

翌朝は、驚くほど静かだった。

 

何も変わらない朝。

整えられた食卓。

決まった時間。

いつも通りの母の声。

 

「おはよう、征也」

 

「おはようございます」

 

それだけのやり取り。

 

だが、昨夜とは明確に違っていた。

知ってしまったからだ。

 

母はすべてを知っていた。

 

父のこと。

黒子のこと。

そして、

自分のことも。

 

それでも、この日常を選び続けてきた。

 

征也は椅子に座りながら、母を見た。

 

変わらない。

穏やかで、美しくて、隙がない。

だが―

昨日までとは、見え方が違う。

 

朝食を終え、父は先に席を立った。

 

「今日は早い」

 

「はい」

 

それだけ言って、出ていく。

扉が閉まる音。

車が発進する音。

 

静寂。

 

家の中に、母と二人きりの時間が残る。

いつもと同じはずの空気。

だが、今日は違う。

 

征也はナプキンを置いた。

 

「母さん」

 

呼びかける。

母は顔を上げた。

 

「なあに?」

 

柔らかい声。

逃げ道を与える声。

だが今日は、それに乗らない。

 

「話があります」

 

母の手が、ほんのわずかに止まるが、すぐに整える。

 

「いいわよ」

 

「ここでいいですか」

 

「ええ」

 

覚悟している反応だった。

征也は一度だけ息を整えた。

そして、まっすぐに言った。

 

「黒子テツヤのことです」

 

沈黙。

今度は、誤魔化さなかった。

母は、視線を逸らさなかった。

 

「……そう」

 

短い肯定。

逃げない選択。

それだけで、すべてがわかる。

 

「会いに行きました」

 

「ええ」

 

知っていた。

それもまた、はっきりした。

 

「父さんとも、話しました」

 

「そうでしょうね」

 

ここまで来ると、確認ではない。共有だった。

 

「母さんは」

 

征也は少しだけ言葉を選ぶが、結局そのまま出した。

 

「なぜ、あの人に会いに行ったんですか」

 

核心だった。

 

あの日。

ホテルラウンジ。

あの静かな断絶。

 

母は、しばらく何も言わなかった。

カップに手を添えるが、持ち上げない。

その指先が、ほんの少しだけ強くなる。

 

「……あの子を守るためよ」

 

静かな答えだった。

だが、その言葉は正確だった。

 

「あの子?」

 

「あなたよ、征也」

 

まっすぐな視線。

嘘はない。

 

「あなたが、あの人に深く関わることが」

 

一拍。

 

「怖かった」

 

正直だった、驚くほどに。

征也は目を細めた。

 

「なぜですか」

 

母は微かに笑った。

 

「わからない?」

 

優しい声。

だが、逃げではない。

 

「あなたは、似ているから」

 

「父さんに?」

 

母は首を横に振った。

 

「それだけじゃない」

 

そこで、少しだけ言葉を探した。

 

「……強く心を向けたものを、手放さないところ」

 

征也は黙って聞いている。

 

「一度好きになったら、簡単には離れられない」

 

それは責めている言葉ではなかった。

ただの事実だった。

 

「だから、怖かったの」

 

その一言に、すべてが込められていた。

征也は静かに言う。

 

「母さんは」

 

視線を外さない。

 

「父さんのことを、愛してるんですか」

 

母の目が、ほんのわずかに揺れた。

だが、逃げなかった。

 

「ええ」

 

即答だった。

迷いはない。

 

「今でも?」

 

「ええ」

 

同じ答え。

揺れない。

 

征也は、少しだけ息を吐いた。

 

「それでも、知っていた」

 

「ええ」

 

「黒子テツヤのことも」

 

「ええ」

 

すべて、肯定。

隠さない。

 

「……つらくなかったんですか」

 

はじめて、征也の声にわずかな感情が乗った。

 

母は、その問いにすぐには答えなかった。

少しだけ視線を落とす。

そして、ゆっくりと言った。

 

「つらかったわ」

 

その言葉は、軽くなかった。

 

「とても」

 

ほんの少しだけ、笑う。

 

「でもね」

 

顔を上げる。

 

「それでも、いいと思ったの」

 

征也の目がわずかに動く。

 

「どうしてですか」

 

母は静かに答えた。

 

「選んだからよ」

 

それだけだった。

だが、それで十分だった。

 

「私は、あの人を選んだの」

 

逃げではない。

妥協でもない。

選択。

 

「全部知った上で」

 

征也は、言葉を失った。

 

「完璧な人ではないわ」

 

母は続ける。

 

「むしろ、ひどく不器用で、極端で」

 

少しだけ微笑む。

 

「でも、それでも、この人と生きるって決めたの」

 

静かな強さ。

揺れない人間の言葉。

 

「だから、後悔はしていない」

 

征也は、初めて理解した。

この人は、弱いのではない。

強い。

自分や父と違う形で。

 

「……自分には、できません」

 

素直に言った。

母は頷いた。

 

「そうでしょうね」

 

否定しない。

理解している。

 

「あなたは、違うものを選ぶ人だから」

 

征也は目を上げた。

 

「止めないんですか」

 

母は、少しだけ考え、静かに言った。

 

「止めても、行くでしょう?」

 

完全な理解だった。

征也は、ほんの少しだけ笑った。

 

「はい」

 

母も、微かに笑う。

 

「だったら、止めない」

 

それが答えだった。

 

「ただし」

 

そこで、初めて少しだけ厳しくなる。

 

「覚悟だけは、持ちなさい」

 

征也は頷いた。

 

「持っています」

 

母は、それを見て、ゆっくりと息を吐いた。

 

「……あの人も、同じことを言ったでしょう」

 

「はい」

 

「そう」

 

小さく頷く。

それは、夫婦としての共通理解だった。

 

征也は席を立った。

 

「母さん」

 

「なあに」

 

「ありがとうございます」

 

その言葉に、母の目がわずかに揺れる。

だが、すぐに整える。

 

「いいえ」

 

静かな声。

 

「あなたが選んだことよ」

 

征也は一礼して、部屋を出た。

 

 

一人になったリビングで、母はしばらく動かなかった。

 

カップの中の紅茶は、もう冷めている。

ゆっくりと手に取り一口だけ飲む。

味は、ほとんど感じなかった。

 

「……似てるわね」

 

小さく呟く。

誰に対してか。

それは、もうはっきりしている。

 

息子。

夫。

そして――

もう一人の人。

 

三人が、どこかで繋がっている。

それが、たまらなく怖くて、そして、少しだけ誇らしかった。

 

母はカップを置き、静かに目を閉じた。

その表情は、いつも通り穏やかだった。

 

だがその奥にあるものを、もう誰も知らない。

 

 

ホテルの高層階。

外の喧騒はガラス一枚で遮断され、夜景だけが遠くに浮かんでいる。

 

黒子はベッドの端に座ったまま、動かなかった。

 

征也が出ていってから、どれくらい時間が経ったのかもわからない。

ドアが閉まった音だけが、まだ耳の奥に残っている。

 

―付き合ってください。

 

あの言葉が、頭から離れなかった。

 

真っ直ぐだった。

あまりにも、迷いがなかった。

 

黒子はゆっくりと息を吐いた。

 

「……だめです」

 

自分で言った言葉を、もう一度なぞる。

 

正しかったはずだ。

正しい。

間違っていない。

 

だが、胸の奥に、微かな違和感が残る。

あのとき、ほんの一瞬だけ、心が揺れた。

認めるしかなかった。

 

窓辺に立つ。

東京の夜が広がっている。

光の海。

その中に、さきほど彼が帰っていった道もある。

 

「……だめです」

 

今度は、少しだけ声が低くなる。

自分に言い聞かせるように。

これは、選んだことだ。

自分で。

 

あの人と会わないことを選んだように。

あの子とも、距離を取ると決めた。

 

理由は単純だ。

 

関われば、壊れるからだ。

彼の家庭が。

そして、自分も。

 

黒子は目を閉じた。

浮かぶのは、征也の顔ではない。

別の顔。

 

もう二十年近く前で止まっているはずの、あの人の姿だった。

 

 

数日後。

帰国最終日。

 

黒子は、だいぶ早く空港に来ていた。

ホテルにいることが、できなかった。

理由は、考えないことにした。

 

チェックインは、すでに済ませていた。

荷物も預けている。

あとは、保安検査を通るだけだった。

出発までは、かなりの時間があった。

 

黒子は保安検査の方へ向かったが、足を止めた。

かわりに出発ロビーの右手奥へと方向を変える。

 

人の流れから、少しずつ外れていく。

観光客のざわめきが遠のき、

空気が、わずかに落ち着く。

 

さらに進むと、ガラス張りの小さな空間がある。

空港内の閲覧スペース。

搭乗前の客が、時間を潰すために使う場所。

だが、利用する人間はほとんどいない。

 

黒子は、何度かここを使っていた。

出発前に思考を整えるための場所。

ある意味で、黒子にとっては”祈り”に近い場所だった。

 

扉を開ける。

遠くから柔らかな光。

低く抑えられた空調音。

整然と並ぶソファと本棚。

 

誰もいない空間を黒子は、奥へ進む。

窓際に手をかけ、立ち止まる。

 

(……ここなら)

 

ようやく、呼吸が整う。

 

「やっぱり、ここにいましたね」

 

声。

振り返る。

そこに立っていたのは―

 

征也だった。

 

スーツ姿。

息は乱れていない。

だが、その目だけが、はっきりと意志を持っていた。

 

偶然ではない。

探してきた。

 

黒子は、何も言えなかった。

征也は一歩、近づく。

足音はほとんどしない。

 

距離が詰まる。

逃げようと思えば、逃げられる。

だが、動けない。

 

「もう一度、来ました」

 

静かな声。

主張ではなく、事実。

 

黒子は、ようやく口を開いた。

 

「……どうして」

 

同じ問い。

だが、意味は違う。

 

征也は答える。

 

「会いたいからです」

 

それだけだった。

黒子は視線を落とす。

 

「だめだと言ったはずです」

 

「聞きました」

 

「だったら」

 

「それでも来ます」

 

即答。

揺れない。

 

黒子の呼吸が、わずかに乱れる。

 

「……君は」

 

言葉が続かない。

 

征也は言った。

 

「父と同じにはなりません」

 

空気が変わる。

黒子の目が、はっきりと揺れる。

 

「全部、知っています」

 

「……どこまで」

 

「必要なところは」

 

それで十分だった。

この子は、理解している。

それでも来ている。

 

黒子は一歩、後ろに下がる。

ガラスに背が触れる。

それ以上は、下がれない。

 

「……帰国するんですよね」

 

「はい」

 

「また、来ますか」

 

黒子は答えない。

 

征也は続ける。

 

「待ちます」

 

静かな声。

 

「何年でも」

 

胸が締め付けられる。

 

ああ。

この感覚を、知っている。

昔、自分も同じことを思った。

 

「……やめてください」

 

声が、わずかに震える。

 

「それ以上は」

 

征也は止まらない。

 

「選びます」

 

黒子は目を閉じる。

 

「逃げません」

 

わかっている。

このままでは。

 

「……困ります」

 

やっと出た言葉。

だが、その弱さを、征也は見逃さない。

両手を窓につき、黒子の顔までほんの数センチまで距離を詰める。

 

「それでも」

 

低く言う。

 

「あなたを、諦めません」

 

その瞬間。

黒子の中で、何かが揺れた。

崩れる寸前だった。

 

 

―そのとき。

 

「……そこまでだ」

 

低い声。

空気が、一瞬で変わる。

二人とも、振り向く。

 

そこに立っていたのは

 

―赤司征十郎だった。

 

スーツ姿。

無駄のない立ち方。

視線だけで、場を制圧する。

 

なぜここにいるのか。

考えるより先に、理解してしまう。

 

来る。

この人は、来る。

必要なときに、必ず。

 

赤司は二人を見た。

 

征也。

黒子。

そして、その距離。

その空気。

 

すべてを、一瞬で把握する。

そして、もう一度言う。

 

「そこまでだ」

 

短い言葉。

命令。

場の支配が、移る。

 

征也は、動かなかった。

 

「いやです」

 

赤司の目が、わずかに細くなる。

 

「理由は?」

 

「まだ終わっていない」

 

静かな対峙。

 

黒子は、その二人を見ていた。

 

似ている。

あまりにも。

 

だが、違う。

決定的に。

 

「……やめてください」

 

黒子が身をよじって、征也の腕の中から逃げる。

 

「これ以上は」

 

呼吸が浅い。

だが、目は逸らさない。

 

「本当に、壊れます」

 

その言葉は、どちらにも、そして自分自身にも向けられていた。

 

赤司は、黒子を見た。

長く、何も言わずに。

その視線の中に、すべてがある。

 

過去。

選択。

後悔。

そして、

まだ残っているもの。

 

「……テツヤ」

 

名前を呼ぶ。

それだけで、空気が変わる。

黒子の指先が、わずかに強く握られるのを征也は見た。

 

遠くで、アナウンスが流れる。

搭乗案内。

 

赤司は言った。

 

「選べ」

 

低く。

静かに。

 

「今、ここで」

 

黒子の目が揺れる。

逃げ続けてきた時間を、終わらせる言葉。

 

征也は何も言わない。

ただ、見ている。

待つ。

 

黒子は、ゆっくりと目を閉じた。

 

そして――

開いたその瞳には、もう揺れはなかった。

 

「……簡単に言いますね」

 

ようやく絞り出した声は、静かだった。

責めるような響きはない。

だが、わずかな疲労が滲んでいた。

 

「簡単ではない」

 

赤司が言った。

 

「だが、避けて通れるものでもない」

 

黒子は小さく息を吐いた。

 

「……避けてきたつもりはありません」

 

「そうだな」

 

即答だった。

否定しない。

 

「だが結果として、お前は止まっている」

 

言葉は残酷なほどに冷静だった。

黒子の指先が、わずかに強く組まれる。

 

止まっている。

 

その言葉は、正確すぎた。

二十年前で止まっている。

自分で言った言葉が、今ここで返されている。

 

「……止まるしかなかったんです」

 

黒子は言った。

初めて、感情が乗る。

大きな声ではない。

だが、確かに揺れている。

 

「あなたは、家を選んだ」

 

視線が上がり、まっすぐに、赤司を見る。

 

「僕も、壊さない方を選んだ」

 

その言葉に、赤司の目がわずかに細くなる。

 

「それが間違いだったとは、思っていません」

 

黒子は続けた。

 

「誰も傷つけないための選択だった」

 

「……誰も、か」

 

赤司が低く返す。

黒子は、わずかに言葉を詰まらせた。

完全ではないことを、知っているからだ。

 

「少なくとも」

 

黒子は言い直した。

 

「これ以上、広げないための選択でした」

 

赤司は静かに言った。

 

「その結果が、これだ」

 

視線が、わずかに征也へと向く。

黒子の表情が、ほんの一瞬揺れた。

 

避けてきたもの。

切り離したはずのもの。

それが、形を変えてここにいる。

 

「征也くんは、関係ありません」

 

反射的だった。

守るように。

だが、その言葉に対して、征也が先に反応した。

 

「関係あります」

 

静かに、はっきりと。

 

「自分は、その結果です」

 

ただ、事実として置く。

 

「父さんが選んで、あなたが選んで」

 

一拍。

 

「その上で、自分がここにいます」

 

黒子は言葉を失った。

否定できない。

できるはずがない。

征也は続ける。

 

「だから、関係ないわけがない」

 

静かな声だった。

だが、その重みは軽くない。

 

赤司は、そのやり取りを黙って見ていた。

介入しない。なぜなら、ここはもう、自分が導く場所ではないと理解しているから。

 

黒子は一呼吸おいたあと、

まっずぐに、

そしてはっきりと二人に告げる。

 

「どちらも、選びません」

 

その場の空気が、わずかに軋む。

 

征也が、初めて言葉を探す。

 

「……それは」

 

否定しようとして、止まる。

黒子の目が、逃げていないからだ。

 

「逃げではありません」

 

黒子は言った。

先回りするように。

 

「今までの“選ばない”とは違います」

 

一歩、わずかに前に出る。

二人との距離は変わらない。

だが、立ち位置が変わる。

中心に立つ。

 

「僕は、止まっていました」

 

自分の言葉を、認める。

 

「壊さないために」

 

「広げないために」

 

「終わらせるために」

 

一つずつ、並べる。

そして。

 

「でも、それは選択ではなかった」

 

静かに言い切る。

 

赤司の目が、わずかに細くなる。

征也は、まっすぐに見ている。

 

「だから」

 

黒子は言う。

 

「今回は、選びます」

 

一拍。

 

「どちらも、選ばないという形で」

 

空港のアナウンスが流れる。

搭乗案内。

時間が、進んでいることを告げる音。

だが、この場所だけが、切り取られている。

 

「……意味がわかりません」

 

征也が言う。

初めて、わずかに感情が乗る。

黒子は、穏やかに答えた。

 

「簡単です」

 

ほんの少しだけ、口元が緩む。

 

「あなたのために、彼を選ぶことはしない」

 

征也の目が、わずかに揺れる。

 

「彼のために、あなたを拒絶することもしない」

 

今度は、赤司の指がわずかに動く。

 

「どちらかの論理で、もう一方を切ることはしません」

 

はっきりとした線引き。

そのどちらにも、従わない。

 

「僕は、僕の論理で動きます」

 

その言葉は、静かだったが、強かった。

 

「……それで、どうするんですか」

 

征也の問い。

黒子は、まっすぐに見返す。

 

「続けます」

 

一言。

 

「何を」

 

「全部です」

 

曖昧ではない。

だが、具体的でもない。

それが、この選択の本質だった。

 

征也は理解する。

完全に手に入れることはできない。

だが、失われるわけでもない。

 

「……ずるいですね」

 

思わず、言葉が漏れる。

黒子は、わずかに首を傾ける。

 

「そうでしょうか」

 

否定もしない。

肯定もしない。

ただ、受け取る。

 

赤司が、初めて口を開いた。

 

「それでは、同じことの繰り返しだ」

 

低い声。

冷静な指摘。

黒子は、視線を向ける。

 

「違います」

 

即答だった。

 

「今度は、止まりません」

 

一歩、後ろへ下がる。

出口の方へ。

 

「距離は取ります」

 

「でも、断ちません」

 

その言葉に、ほんのわずかに赤司の目が揺れる。

 

「僕は、僕のまま関わります」

 

静かな宣言。

誰のものでもない関係。

どちらにも回収されない位置。

 

「……それは」

 

赤司が言いかけて、止まる。

 

言葉にならない。

否定できない。

肯定もできない。

 

征也は、ゆっくりと息を吐いた。

 

理解する。

完全ではない。

だがゼロでもない。

 

「……待ちます」

 

それが、出た言葉だった。

黒子は、ほんの少しだけ目を細める。

 

「ありがとうございます」

 

形式的な言葉ではない。

本心だった。

 

アナウンスが、もう一度流れる。

Boadingだ。

 

黒子は、視線を二人から外した。

そして、戻す。

最後に、一度だけ。

 

「……終わりではありません」

 

静かに言う。

 

「でも、同じままでもありません」

 

その意味は、十分だった。

 

踵を返す。

足早に歩き出す。

その足は徐々にさらに速くなる。

それは逃げるためにではなく、新しい未来に向かって走るように。

 

 

保安検査場の手前で、一度だけ立ち止まる。

 

振り返らない。

それでも、言葉を残す。

独り言のように。

 

「次は、僕が決めます」

 

そして、歩いていく。

ゲートの向こうへ。

姿が見えなくなる。

完全に。

 

 

閲覧スペースに残された二つの影。

長い沈黙のあと、征也が、ゆっくりと息を吐く。

 

「……取りこぼしましたね」

 

赤司は、答えない。

ただ、わずかに口角を上げた。

ほんの少しだけ。

 

「いや」

 

低く言う。

 

「やっと、始まった」

 

その言葉に、征也は目を細めた。

悔しさもある。

だが、それ以上に理解がある。

 

完全には手に入らない。

だが、それでも進むしかない。

 

「……面倒ですね」

 

小さく呟く。

赤司は、静かに答えた。

 

「そういうものだ」

 

短い言葉。

だが、その中にすべてがあった。

 

空港のざわめきが戻る。

時間が、再び流れ始める。

 

三人の関係は、もう元には戻らない。

 

それでも、終わりはしなかった。

 

どんな形で続いていくのかは、まだ誰にもわからなかった。

 

ーーーーFinーーー

 

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