離婚届は、驚くほどあっさりと受理された。
書類に不備はない。
財産分与も、住まいの手配も、今後の取り決めも、すべて整っていた。
弁護士は淡々と説明し、役所の窓口の職員も、必要な確認を済ませただけだった。
何も揉めない。
何も崩れない。
まるで最初から、ここへ辿り着くことまで含めて、赤司家の計画の一部だったように。
彼女は小さく息を吐いた。
驚きはなかった。
怒りも、ない。
ただ、納得だけがあった。
征十郎は、そういう人だ。
本当に何かを終わらせるときには、もうずっと前から終わらせている。
その決断が表に出るころには、迷いも未練も、すでに整理されている。
それが、赤司征十郎という男だった。
彼女はその男の妻だった。
長いあいだ。
政略結婚だったけれど、形だけの夫婦だったとは思っていない。
好意はあった。
尊敬もあった。
彼の隣に立つための努力も、惜しまなかった。
赤司家の妻として恥ずかしくない振る舞いを覚え、場所ごとの顔を使い分け、社交の場では微笑み、必要な沈黙も守った。
そして子を産んだ。
跡取りを残した。
その一点において、彼女は自分の役目を果たしたと思っている。
だから、みじめではなかった。
少なくとも、そう扱われる筋合いはない。
外に出ると、春の光が眩しかった。
柔らかな空気の底に、まだ少しだけ冷たさが残っている。
彼女はサングラスをかけた。
いつも通りの動作だった。
背筋を伸ばし、顎を引き、足元を乱さず歩く。
終わったのだ、と思った。
けれど、不思議と実感はない。
終わりというより、ひとつの役名を脱いだだけだった。
赤司夫人。
その名前が、今日から自分のものではなくなる。
それだけのこと。
彼女はその足で、駅前の書店に入った。
新刊の平積みの中に、目的の一冊はすぐ見つかった。
黒子テツヤ。
帯には、大きく「再生」とある。
彼女は少しだけ口元を緩めた。
「……再生、ね」
手に取って、ページを開く。
数行読んだだけで、わかった。
そこにいるのは、久しく見ていなかった少年だった。
静かで、強く、逃げない。
かつて征十郎の中にいて、しかし長いあいだ、どこかに閉じ込められていたもの。
彼は戻ったのだ。
黒子テツヤによって。
そして、おそらく息子も。
彼女は本を閉じた。
征十郎が黒子テツヤを手放せなかったことには、ずっと前から気づいていた。
それは恋という言葉だけでは足りない。
執着でも、友情でも、敗北でも、救済でもある。
赤司征十郎という男の奥に、誰も触れられない場所がある。
そこに最初からいたのが、黒子テツヤだった。
妻である自分ではなかった。
そのことに、傷つかなかったと言えば嘘になる。
けれど、取り乱すほど若くも、幼くもない。
彼女は彼女なりに、長い年月をかけて理解してきた。
人の心には、あとから与えられる席と、最初から誰かのために空いている席がある。
自分は、前者だった。
そして黒子テツヤは、後者だった。
そこへきて、息子までもが同じ名を追いかけていると知ったときには、さすがに少しだけ呆れた。
血とは、厄介なものだ。
征十郎も。
息子も。
違う顔をして、同じものに惹かれている。
彼女は静かに笑った。
「本当に、困った人たち」
声に出してみても、そこに棘はなかった。
本をレジへ持っていく。
「これをください」
袋は断った。
彼女はその本を、そのまま手に持って店を出た。
帰る場所は、もう赤司の家ではない。
用意されたのは、都内の一等地に建つ高級低層マンションだった。
派手さはない。
けれど、素材のよさと静けさだけで、十分に格が伝わる場所。
コンシェルジュが立ち上がり、丁寧に頭を下げる。
「おかえりなさいませ、五島様」
旧姓で呼ばれることに、彼女は一瞬だけ足を止めた。
五島。
久しぶりに聞く、自分の名前だった。
「ただいま」
そう返す声は、思ったより自然だった。
部屋は、一人で暮らすには少し広く、しかし持て余すほどではない。
彼女の好みに合わせた家具。
選び抜かれた食器。
必要なものだけが、美しく収まっている。
赤司家のものではない。
征十郎の趣味でもない。
息子のための部屋でもない。
彼女のためだけに整えられた場所だった。
テーブルに本を置く。
バッグを置き、時計を外し、ゆっくり椅子に座る。
静かだった。
誰の気配もしない。
誰かの帰宅を待つ必要もない。
食卓に余分な皿を置くこともない。
その静けさは、最初は少しだけ広すぎた。
彼女は本を開いた。
今度は、最初から読む。
黒子テツヤの文章は、余計な装飾が少なかった。
なのに、奥にあるものを隠さない。
淡々としているのに、逃げていない。
ああ、と彼女は思った。
征十郎が惹かれるはずだ。
息子が見つけてしまうはずだ。
この人は、赤司家の人間が最も苦手とするものを、当たり前のように差し出す。
支配ではなく、肯定。
所有ではなく、理解。
勝利ではなく、隣に立つこと。
ページをめくる手が、ふと止まった。
自分には、できなかった。
征十郎の妻であることはできた。
赤司家の嫁であることも、母であることも、相応に果たした。
けれど、彼の奥にある孤独に触れることはできなかった。
触れようとしなかったのかもしれない。
あるいは、触れる資格を最初から与えられていなかったのかもしれない。
どちらでもよかった。
今さら、答え合わせをする必要はない。
彼女は本を閉じた。
胸の奥に残ったものは、敗北感ではなかった。
痛みでもない。
少しの寂しさと、少しの可笑しさ。
そして、ようやく自分の名に戻っていくような軽さだった。
湯を沸かし、紅茶を淹れる。
その香りは、赤司の家で飲んでいたものと同じだった。
けれど、意味は違った。
これは、客を迎えるための紅茶ではない。
夫の帰宅を待つためのものでもない。
息子の様子を気にしながら飲むものでもない。
自分のための一杯だった。
彼女はカップを持ち上げ、ひと口飲んだ。
「……悪くないわね」
声は、静かな部屋に柔らかく落ちた。
テーブルの上には、黒子テツヤの本がある。
赤司征十郎の影も、息子の気配も、そこにうっすらと残っている。
関係は、完全には切れない。
夫婦ではなくなっても。
赤司家を出ても。
息子の母であることは変わらず、征十郎の過去に自分の名前があったことも消えない。
そして彼らはきっと、これからも黒子テツヤを中心に、奇妙な形で繋がっていくのだろう。
彼女はそれを、もう止めようとは思わなかった。
自分が入れなかった場所がある。
だからといって、自分に何もなかったわけではない。
愛されなかったのではない。
ただ、いちばん深い場所には届かなかった。
それだけだ。
そして、それだけのことを認められるくらいには、彼女は自分を失っていなかった。
カップを置く。
窓の外に、春の光が差している。
赤司夫人ではない。
誰かの妻でもない。
五島の娘であり、赤司家の跡取りを産んだ女であり、ひとつの結婚を品よく終えた女。
それが、今の自分だった。
彼女は目を閉じた。
部屋の中には、穏やかな静けさが満ちていた。
失ったあとの静けさではない。
役目を終えた者だけが持つ、凛とした静けさだった。