残像   作:ぷーぷ

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エピローグ1.赤司夫人の役目を終えた日

離婚届は、驚くほどあっさりと受理された。

 

書類に不備はない。

財産分与も、住まいの手配も、今後の取り決めも、すべて整っていた。

 

弁護士は淡々と説明し、役所の窓口の職員も、必要な確認を済ませただけだった。

何も揉めない。

何も崩れない。

 

まるで最初から、ここへ辿り着くことまで含めて、赤司家の計画の一部だったように。

 

彼女は小さく息を吐いた。

 

驚きはなかった。

怒りも、ない。

 

ただ、納得だけがあった。

 

征十郎は、そういう人だ。

本当に何かを終わらせるときには、もうずっと前から終わらせている。

その決断が表に出るころには、迷いも未練も、すでに整理されている。

 

それが、赤司征十郎という男だった。

 

彼女はその男の妻だった。

長いあいだ。

政略結婚だったけれど、形だけの夫婦だったとは思っていない。

 

好意はあった。

尊敬もあった。

彼の隣に立つための努力も、惜しまなかった。

赤司家の妻として恥ずかしくない振る舞いを覚え、場所ごとの顔を使い分け、社交の場では微笑み、必要な沈黙も守った。

 

そして子を産んだ。

跡取りを残した。

 

その一点において、彼女は自分の役目を果たしたと思っている。

だから、みじめではなかった。

少なくとも、そう扱われる筋合いはない。

 

外に出ると、春の光が眩しかった。

柔らかな空気の底に、まだ少しだけ冷たさが残っている。

 

彼女はサングラスをかけた。

いつも通りの動作だった。

背筋を伸ばし、顎を引き、足元を乱さず歩く。

 

終わったのだ、と思った。

 

けれど、不思議と実感はない。

 

終わりというより、ひとつの役名を脱いだだけだった。

赤司夫人。

その名前が、今日から自分のものではなくなる。

それだけのこと。

 

彼女はその足で、駅前の書店に入った。

新刊の平積みの中に、目的の一冊はすぐ見つかった。

 

黒子テツヤ。

 

帯には、大きく「再生」とある。

彼女は少しだけ口元を緩めた。

 

「……再生、ね」

 

手に取って、ページを開く。

数行読んだだけで、わかった。

そこにいるのは、久しく見ていなかった少年だった。

静かで、強く、逃げない。

かつて征十郎の中にいて、しかし長いあいだ、どこかに閉じ込められていたもの。

 

彼は戻ったのだ。

黒子テツヤによって。

そして、おそらく息子も。

 

彼女は本を閉じた。

 

征十郎が黒子テツヤを手放せなかったことには、ずっと前から気づいていた。

それは恋という言葉だけでは足りない。

執着でも、友情でも、敗北でも、救済でもある。

 

赤司征十郎という男の奥に、誰も触れられない場所がある。

そこに最初からいたのが、黒子テツヤだった。

妻である自分ではなかった。

 

そのことに、傷つかなかったと言えば嘘になる。

けれど、取り乱すほど若くも、幼くもない。

彼女は彼女なりに、長い年月をかけて理解してきた。

 

人の心には、あとから与えられる席と、最初から誰かのために空いている席がある。

自分は、前者だった。

そして黒子テツヤは、後者だった。

 

そこへきて、息子までもが同じ名を追いかけていると知ったときには、さすがに少しだけ呆れた。

血とは、厄介なものだ。

 

征十郎も。

息子も。

違う顔をして、同じものに惹かれている。

 

彼女は静かに笑った。

 

「本当に、困った人たち」

 

声に出してみても、そこに棘はなかった。

本をレジへ持っていく。

 

「これをください」

 

袋は断った。

彼女はその本を、そのまま手に持って店を出た。

 

帰る場所は、もう赤司の家ではない。

用意されたのは、都内の一等地に建つ高級低層マンションだった。

派手さはない。

けれど、素材のよさと静けさだけで、十分に格が伝わる場所。

 

コンシェルジュが立ち上がり、丁寧に頭を下げる。

 

「おかえりなさいませ、五島様」

 

旧姓で呼ばれることに、彼女は一瞬だけ足を止めた。

五島。

久しぶりに聞く、自分の名前だった。

 

「ただいま」

 

そう返す声は、思ったより自然だった。

 

部屋は、一人で暮らすには少し広く、しかし持て余すほどではない。

彼女の好みに合わせた家具。

選び抜かれた食器。

必要なものだけが、美しく収まっている。

 

赤司家のものではない。

征十郎の趣味でもない。

息子のための部屋でもない。

 

彼女のためだけに整えられた場所だった。

 

テーブルに本を置く。

バッグを置き、時計を外し、ゆっくり椅子に座る。

 

静かだった。

 

誰の気配もしない。

誰かの帰宅を待つ必要もない。

食卓に余分な皿を置くこともない。

その静けさは、最初は少しだけ広すぎた。

 

彼女は本を開いた。

今度は、最初から読む。

 

黒子テツヤの文章は、余計な装飾が少なかった。

なのに、奥にあるものを隠さない。

淡々としているのに、逃げていない。

 

ああ、と彼女は思った。

征十郎が惹かれるはずだ。

息子が見つけてしまうはずだ。

 

この人は、赤司家の人間が最も苦手とするものを、当たり前のように差し出す。

支配ではなく、肯定。

所有ではなく、理解。

勝利ではなく、隣に立つこと。

 

ページをめくる手が、ふと止まった。

 

自分には、できなかった。

 

征十郎の妻であることはできた。

赤司家の嫁であることも、母であることも、相応に果たした。

 

けれど、彼の奥にある孤独に触れることはできなかった。

触れようとしなかったのかもしれない。

あるいは、触れる資格を最初から与えられていなかったのかもしれない。

 

どちらでもよかった。

今さら、答え合わせをする必要はない。

 

彼女は本を閉じた。

 

胸の奥に残ったものは、敗北感ではなかった。

痛みでもない。

少しの寂しさと、少しの可笑しさ。

そして、ようやく自分の名に戻っていくような軽さだった。

 

湯を沸かし、紅茶を淹れる。

 

その香りは、赤司の家で飲んでいたものと同じだった。

けれど、意味は違った。

 

これは、客を迎えるための紅茶ではない。

夫の帰宅を待つためのものでもない。

息子の様子を気にしながら飲むものでもない。

 

自分のための一杯だった。

彼女はカップを持ち上げ、ひと口飲んだ。

 

「……悪くないわね」

 

声は、静かな部屋に柔らかく落ちた。

 

テーブルの上には、黒子テツヤの本がある。

赤司征十郎の影も、息子の気配も、そこにうっすらと残っている。

 

関係は、完全には切れない。

夫婦ではなくなっても。

赤司家を出ても。

息子の母であることは変わらず、征十郎の過去に自分の名前があったことも消えない。

 

そして彼らはきっと、これからも黒子テツヤを中心に、奇妙な形で繋がっていくのだろう。

 

彼女はそれを、もう止めようとは思わなかった。

 

自分が入れなかった場所がある。

だからといって、自分に何もなかったわけではない。

愛されなかったのではない。

ただ、いちばん深い場所には届かなかった。

 

それだけだ。

 

そして、それだけのことを認められるくらいには、彼女は自分を失っていなかった。

 

カップを置く。

窓の外に、春の光が差している。

 

赤司夫人ではない。

誰かの妻でもない。

五島の娘であり、赤司家の跡取りを産んだ女であり、ひとつの結婚を品よく終えた女。

 

それが、今の自分だった。

 

彼女は目を閉じた。

部屋の中には、穏やかな静けさが満ちていた。

 

失ったあとの静けさではない。

役目を終えた者だけが持つ、凛とした静けさだった。

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