数年が経った。
赤司征也は、社長になっていた。
就任して三年。
大きな失敗は、一度もない。
小さなトラブルはいくつもあった。
だが、そのすべてを自分の手で処理してきた。
会議では、結論を先に出す。
曖昧な意見は、その場で切る。
決めたことは、簡単には変えない。
「早いですね」
そう言われることが多かった。
征也は、そのたびに、ただ頷いた。
速さに意味はない。
止まらないことの方が大事だった。
止まれば、考えてしまう。
考えれば、名前をつけてしまう。
名前をつけた瞬間に、壊れるものがあることを、征也はもう知っていた。
年に何度か、海外へ出る。
今回もアメリカだった。
五日間の出張。
初日から三日目までは、分刻みで予定が埋まっている。
会議。
視察。
会食。
現地法人との調整。
そして最終日だけ、何も入れていない。
「予備日ですか」
秘書に聞かれて、征也は書類から目を上げずに答えた。
「そうです」
嘘ではない。
ただ、その予備が何のためのものなのかを、説明する必要がないだけだった。
最終日の夕方。
ホテルの部屋で着替えを済ませ、征也は一人で外へ出た。
指定したわけではない。
けれど、いつもこの時間になる。
一日の終わりに近い時間。
街の灯りが、まだ夜になりきらない空の下で、少しずつ輪郭を持ち始める時間。
タクシーに乗り、住所を告げる。
運転手が何かを聞き返すことはない。
征也も、それ以上は話さない。
窓の外を、知らない街の光が流れていく。
何度も来ているはずなのに、この街はいつも他人のものに見えた。
黒子がいる場所だけが、征也にとって、かろうじて意味を持つ。
建物の前で降りる。
扉の前に立ったとき、征也はいつものようにインターホンを押さなかった。
軽くノックする。
二回。
少し間がある。
その沈黙の長さまで、もう身体が覚えていた。
足音が近づく。
扉が開いた。
「……来ると思っていました」
黒子が言った。
驚いていない。
待っていたとも言わない。
ただ、そうなることを知っていた人の声だった。
征也は頷く。
「そうでしょうね」
それだけで、会話は終わった。
部屋に入る。
テーブルには資料が広がっていた。
パソコンは開いたまま。
画面の光が、夕暮れの薄暗さの中に浮いている。
仕事の途中だったことは、すぐにわかった。
「忙しいですか」
「少し」
「なら、あとでいいです」
征也はそう言って、ソファに座った。
黒子は一瞬だけこちらを見た。
それから、何も言わずに作業に戻る。
征也は足を組み、頬杖をついて、黒子の横顔を見ていた。
急かさない。
許可も求めない。
ここにいる理由も、改めて言わない。
それも、いつもの流れだった。
昔なら、待つことを敗北だと思っていたかもしれない。
だが、今は違う。
待っているのではない。
そこにいることを選んでいる。
黒子が顔を上げるまで。
黒子が自分を見るまで。
黒子が、今日も拒まないと決めるまで。
その時間ごと、征也は欲しがっていた。
しばらくして、黒子がパソコンを閉じた。
部屋の中から、機械音が消える。
黒子はキッチンへ行き、水を二つ持って戻ってきた。
一つを征也に手渡す。
そのとき、指が重なった。
ほんの一瞬。
けれど、黒子はすぐには手を引かなかった。
「仕事は順調ですか」
黒子が聞く。
征也は水を一口飲んだ。
「問題ありません」
短く答える。
詳しくは話さない。
聞かれない限り。
黒子も、それ以上踏み込まない。
その距離の取り方を、征也はよく知っていた。
黒子は、昔からそういう人なのだろう。
相手の領域へ入りすぎない。
けれど、完全には突き放さない。
だから父は、この人を手放せなかった。
そして、自分も。
テーブルの上で、黒子のスマートフォンが一度だけ震えた。
黒子は見ない。
征也も見なかった。
画面に誰の名前が出ているのか。
確認する必要はない。
黒子と父の関係が、まだ続いていることを、征也は知っている。
遠い場所で。
遠い時間で。
途切れそうで、途切れないものとして。
なら、自分は何なのか。
奪っているのか。
入り込んでいるのか。
父が届かない時間にだけ、黒子へ手を伸ばしているのか。
答えは出さない。
名前をつければ、終わらせなければならなくなる。
沈黙が落ちる。
テレビはついていない。
時計の音だけが、かすかに聞こえる。
征也は立ち上がった。
黒子との距離が、自然に近くなる。
黒子は動かない。
避ける様子はない。
むしろ、ほんのわずかに身体の向きが変わる。
それだけで、距離が詰まった。
「……懲りませんね」
黒子が言う。
その言葉は、何度も聞いている。
自分に向けられたものなのか。
それとも、父と自分を含めた、赤司という人間そのものに向けられたものなのか。
征也には、もう区別がつかなかった。
「そうですね」
否定はしない。
する理由がない。
もう一歩だけ近づく。
黒子は目を細めた。
次の瞬間、視線を逸らさないまま、征也のシャツの裾を軽く引いた。
止めるためではない。
引き寄せるほどでもない。
ただ、そこにいることを確かめるように。
その動きで、距離は決まった。
征也が手を伸ばす。
黒子はそれを受け止める。
拒まないのではない。
外さない。
それだけで十分だった。
テーブルのコップの水が揺れて、少しこぼれた。
誰も気にしない。
床に落ちた水滴が、部屋の灯りを小さく映していた。
そのまま、二人は奥の部屋へ移った。
言葉はほとんどなかった。
だが、完全に静かでもなかった。
熱を含んだ呼吸。
布の擦れる音。
近づいて、離れて、また近づく気配。
そのどれにも、意味は付けない。
特別なものでもない。
約束でもない。
裏切りでもない。
ただ、そうなるから、そうしている。
黒子の手が、一度だけ征也の肩に触れた。
父と似ていると思っているのか。
父とは違うと思っているのか。
征也は聞かない。
聞いてしまえば、どちらの答えでも足りなくなる。
終わりも、決まっている。
黒子が、先にベッドから出た。
シーツが小さく音を立てる。
黒子は床に落ちたシャツを拾い上げ、何も言わずに袖を通した。
それだけで、距離が戻る。
「……今日は、ここまでにしましょう」
いつもと同じ言い方だった。
だが、その声は、最初に会った頃よりも低い。
少しだけ掠れている。
征也は頷いた。
引き止めない。
理由も聞かない。
必要がないからだ。
黒子が先に部屋を出る。
征也は少し遅れて起き上がった。
乱れたシーツを一度だけ見下ろす。
そこに残っているものはある。
だが、持ち帰れるものは何もない。
それでいい。
玄関脇の鏡で、身なりを整える。
乱れは消える。
触れていた痕跡も、残らない。
いつもの顔に戻る。
社長の顔。
赤司の顔。
父の息子の顔。
そして、それでも黒子の前へ来る人間の顔。
コートを取る。
黒子は見送らない。
呼び止めることもない。
それが、いつもの終わり方だった。
ドアを開ける前に、少しだけ止まる。
振り返らないで言う。
「また来ます」
黒子は答えない。
だが、否定もしない。
外に出ると、夜の空気は、少しだけ冷たかった。
翌朝、日本へ戻る。
空港の搭乗口で、征也はスマートフォンを確認した。
通知はない。
問題ない。
最初から、そういう関係だ。
黒子から連絡が来るとは思っていない。
来てほしいと、はっきり願っているわけでもない。
ただ、確認してしまう。
昨夜の沈黙の続きが、どこにも届いていないことを。
黒子が何も言わなかったことを。
そして、否定もしなかったことを。
通知のない画面は、いつも通りだった。
それを見て、征也はようやく息を吐いた。
帰国後、そのまま出社した。
会議室には、役員たちが揃っている。
征也は席につき、資料を開いた。
「では、始めましょう」
声はいつも通りだった。
迷いはない。
昼が過ぎる。
午後の会議が終わる。
決裁書類に目を通す。
誰も、征也の中に残っている熱には気づかない。
気づかれる必要もなかった。
夜。
自宅に戻る。
征也の部屋は、高層マンションの上階にあった。
玄関を抜け、照明をつける。
広いリビングに、白い光が落ちる。
窓の向こうには、東京の夜景が広がっていた。
道路を走る車の列。
小さく流れていく人影。
ビルの窓に灯る無数の明かり。
すべてが、自分の足元よりずっと下にある。
ここまで上がっても、何かを手に入れた気はしなかった。
社長になった。
数字も出した。
父の名前に傷をつけるような失敗もしていない。
それでも、下に広がる街を見ていると、自分がまだ何かを追い続けていることだけがわかる。
征也はデスクの引き出しを開けた。
中に、数枚の紙がある。
手紙ではない。
報告書でもない。
ただのメモだ。
日付と、短い文章だけ。
――会いました。距離の取り方が、前とは少し違っていました。
それだけ。
封もしていない。
送る予定もない。
父に見せるつもりもない。
それでも、いつか読まれるかもしれないと思って書いている自分を、征也は否定しなかった。
紙を引き出しへ戻し、窓際へ歩く。
眼下で、街の灯りが揺れている。
父も。
黒子も。
自分も。
それぞれ別の場所にいて、別の時間を生きている。
それでも、終わってはいない。
終わらせる人間がいない限り、この関係は続いていく。
征也は、そう思った。
そして、おそらく誰も終わらせない。
黒子も。
父も。
自分も。
窓の下を、車のライトが細い線になって流れていく。
どれだけ遠くへ進んでも、線は完全には切れない。
征也はその光を見下ろしたまま、静かに目を細めた。
続いている。
それだけを思った。
それで十分だった。