残像   作:ぷーぷ

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エピローグ3.遅すぎた始まり

「来月も、アメリカですか」

 

征也がそう言ったのは、役員会が終わったあとの会長室だった。

 

社長になって三年。

 

赤司征也は、もう誰かの後ろに立つ男ではなくなっていた。

 

会議では迷わない。

数字を見る目もある。

人の嘘にも気づく。

必要な切り捨てもできる。

 

赤司征十郎が育てた後継者として、申し分なかった。

 

だからこそ、征十郎はこの部屋にいる時間を減らしていた。

 

社長室ではなく、会長室。

執務机も、以前より少し小さい。

 

けれど、そこに座る男の存在感だけは、何ひとつ薄くなっていなかった。

 

「そうだよ」

 

征十郎は書類から目を上げずに答えた。

 

征也は、手元のタブレットを閉じた。

 

「視察ですか」

 

「そういう名目にしてある」

 

「名目」

 

「実際には、黒子に会いに行く」

 

一拍、空いた。

 

征也は笑わなかった。

 

征十郎も、笑わなかった。

 

親子の間に流れる沈黙は、昔から冷たいものではない。

 

けれど、柔らかくもなかった。

 

「隠さないんですね」

 

「君も隠さなかっただろう」

 

征也は返事をしなかった。

 

小学生の頃、父の書斎で見つけた本。

 

白い背表紙。

静かな文章。

派手な事件は起こらないのに、読み終わったあと、自分の中に何かが残る物語。

 

それが、黒子テツヤとの最初だった。

 

サイン会に行った。

何度も会いに行った。

大人になってからは、仕事の出張にかこつけて、アメリカまで行った。

 

そして、気づいた。

 

黒子テツヤは、父の過去だった。

 

父が政略結婚で手放した人。

それでも、何十年も忘れなかった人。

 

征也は、それを知っても退かなかった。

 

父のものだから欲しくなったわけではない。

 

ただ、好きになった相手が、父の忘れられなかった人だった。

 

それだけだった。

 

「父さん」

 

「何だ」

 

「僕の出張日程を、また動かしましたか」

 

征十郎の指が、書類の上で止まった。

 

「必要な調整だ」

 

「必要?」

 

「社長が不在にするには、少し案件が重なりすぎている」

 

「その案件、半分は父さんが増やしましたよね」

 

征十郎は、ようやく顔を上げた。

 

赤と金の瞳が、静かに征也を見た。

 

昔なら、その視線だけで誰もが黙った。

 

けれど、征也は黙らなかった。

 

「僕を黒子先生に会いに行かせないためですか」

 

「社長としての仕事をしてもらうためだ」

 

「便利な言い方ですね」

 

「事実だよ」

 

征也は小さく息を吐いた。

 

怒ってはいない。

 

怒れば、負けだと知っている。

 

この父は、感情を荒らした相手から順に崩していく。

 

「父さんは、ずるいです」

 

「どのあたりが」

 

「何十年も忘れなかった人に、今さら会いに行っているところです」

 

征十郎は少しだけ目を細めた。

 

「今さらではない」

 

「はい?」

 

「今、ようやく行けるようになっただけだ」

 

征也は、その言葉に少しだけ黙った。

 

征十郎は、ずっと持っていた。

 

別れたあとも。

結婚したあとも。

父になったあとも。

会社を背負ったあとも。

 

黒子テツヤという名前を、自分の人生から消さなかった。

 

けれど、取り戻しには行かなかった。

 

行けなかったのか。

行かなかったのか。

 

その差は、征也にはまだ分からない。

 

「父さん」

 

「何だ」

 

「黒子先生は、父さんのものではありません」

 

征十郎は、静かに笑った。

 

それは、勝者の笑みではなかった。

 

もっと長く、もっと苦いものを抱えてきた男の笑みだった。

 

「知っている」

 

征也は眉を寄せた。

 

「知っていて、行くんですか」

 

「知っているから、行くんだ」

 

征也は、それ以上言えなかった。

 

その答えが、あまりにも父らしくて。

 

そして、あまりにも本気だったから。

 

 

 

黒子テツヤの部屋は、相変わらず静かだった。

 

アメリカの街の端にある、古いアパートメント。

 

窓の外には街路樹があり、季節が変わるたびに色を変える。

 

本棚には日本語の本と英語の本が並び、机の上には原稿が積まれていた。

 

生活感はある。

けれど、無駄なものは少ない。

 

黒子らしい部屋だった。

 

「また来たんですか」

 

ドアを開けた黒子は、最初にそう言った。

 

歓迎の言葉ではない。

 

けれど、拒絶でもなかった。

 

征十郎はコートを脱ぎながら答えた。

 

「来ると言っただろう」

 

「先月も来ました」

 

「今月も来た」

 

「会長職というのは、そんなに暇なんですか」

 

「必要な時だけ出ればいい」

 

「ほとんどFireですね」

 

「完全に手を離すには、征也が少し若い」

 

「そう言いながら、かなり任せているでしょう」

 

「任せられるように育てた」

 

黒子は、少しだけ目を伏せた。

 

「似ていますね」

 

「誰に」

 

「あなたにです」

 

征十郎は何も言わなかった。

 

黒子はキッチンへ向かい、湯を沸かした。

 

昔から、黒子はそうだった。

 

人の心の中心に触れるようなことを言う。

それなのに、自分では何もなかったように、湯を沸かす。

 

征十郎は、その背中を見ていた。

 

学生時代の黒子とは違う。

 

肩は少し薄くなった。

声も、昔より落ち着いた。

笑い方も、泣き方も、もう征十郎の知らない時間を含んでいる。

 

それでも、黒子テツヤだった。

 

目を離せない。

 

失ってから何十年経っても、まだ。

 

「テツヤ」

 

黒子の手が止まった。

 

その名前で呼ぶのを、黒子はもう止めなくなった。

 

それだけで、征十郎には十分すぎる変化だった。

 

「何ですか」

 

「来月も来る」

 

黒子は急須に茶葉を入れながら言った。

 

「仕事ですか」

 

「君に会いに」

 

「……そういう言い方を、普通にするようになりましたね」

 

「しないでいた時間が長すぎた」

 

黒子は返事をしなかった。

 

湯気が上がる。

 

その向こうで、黒子の表情が少しだけ揺れた。

 

征十郎は、言葉を急がなかった。

 

昔の自分なら、答えを求めた。

 

好きか。

戻るのか。

自分を選ぶのか。

 

けれど、今は違う。

 

選ばせることが愛ではないと、ようやく知った。

 

自分の正しさで相手の人生を囲うことが、守ることではないと知った。

 

知るのに、長くかかった。

 

長すぎた。

 

「赤司くん」

 

黒子が言った。

 

「なんだ」

 

「僕は、あなたを許したわけではありません」

 

「分かっている」

 

「忘れたわけでもありません」

 

「それも分かっている」

 

「でも」

 

黒子は湯呑みを置いた。

 

小さな音がした。

 

「あなたが来る日を、少し待つようにはなりました」

 

征十郎は、しばらく動けなかった。

 

勝った、とは思わなかった。

 

取り戻した、とも思わなかった。

 

ただ、胸の奥が静かに痛んだ。

 

何十年も前、自分が手放した人が。

 

今、ほんの少しだけ、自分の方へ扉を開けている。

 

それを乱暴に開けることだけは、絶対にしてはいけないと思った。

 

「それは、嬉しいな」

 

黒子は目を逸らした。

 

「そういう顔をしないでください」

 

「どんな顔だ」

 

「昔より、ずるい顔です」

 

「昔は?」

 

「もっと正しくて、もっとひどかったです」

 

征十郎は、低く笑った。

 

黒子も、少しだけ笑った。

 

その笑い方を見た瞬間、征十郎は思った。

 

ああ。

 

まだ好きだ。

 

過去の黒子ではない。

学生時代のまま止まった黒子でもない。

自分が捨てた恋でもない。

 

今、目の前にいるこの人を。

 

もう一度、最初から好きになっている。

 

夕食は、外に出なかった。

 

黒子が簡単なものを作った。

 

征十郎は、手伝うと言った。

 

黒子は、一度だけ彼を見た。

 

「料理、できるんですか」

 

「できる」

 

「本当に?」

 

「失礼だな」

 

「昔のあなたは、包丁を持つより人を動かす方が早い人でした」

 

「今もその方が早い」

 

「では座っていてください」

 

結局、征十郎は座らされた。

 

だが、黒子は味噌汁の味見だけを渡した。

 

「どうですか」

 

「少し薄い」

 

「では、あなたには薄いままで出します」

 

「なぜ」

 

「健康のためです」

 

「僕はそこまで老いていない」

 

「若くもありません」

 

征十郎は黙った。

 

黒子は平然としていた。

 

昔から、黒子だけはこうだった。

 

赤司征十郎を、赤司として扱わない。

 

家柄も。

会社も。

権力も。

誰も逆らえない空気も。

 

黒子の前では、意味を持たない。

 

ただの、赤司征十郎になる。

 

それが、怖かった。

 

それが、欲しかった。

 

「テツヤ」

 

「はい」

 

「僕は、君と一緒に暮らしたいと思っている」

 

黒子の手が止まった。

 

今度の沈黙は、少し長かった。

 

征十郎は続けなかった。

 

畳みかけることはできた。

条件を提示することもできた。

日本に戻る選択肢も、アメリカに拠点を作る選択肢も、いくらでも用意できる。

 

けれど、それをしなかった。

 

黒子が答えるまで、待った。

 

黒子は鍋の火を弱めた。

 

「いきなりですね」

 

「何十年も待った」

 

「僕は今日初めて聞きました」

 

「だから、いきなりだな」

 

黒子は少し困ったように眉を下げた。

 

「赤司くん」

 

「うん」

 

「僕は、あなたの人生の空白を埋めるためにいるわけではありません」

 

「分かっている」

 

「あなたが戻れなかった昔の代わりにもなれません」

 

「分かっている」

 

「それに」

 

黒子は一度、言葉を切った。

 

「征也くんのこともあります」

 

征十郎の表情が、ほんの少し変わった。

 

黒子はそれを見逃さなかった。

 

「嫌な顔をしましたね」

 

「していない」

 

「しました」

 

「息子の名前が出ると、少し複雑になるだけだ」

 

「大人げないです」

 

「君に関しては、昔から大人げない」

 

黒子は、ため息をついた。

 

けれど、怒ってはいなかった。

 

「征也くんは、真っ直ぐです」

 

「知っている」

 

「あなたに似ています」

 

「それも知っている」

 

「でも、あなたより少し優しいです」

 

征十郎は黙った。

 

その評価は、痛かった。

 

同時に、少し誇らしかった。

 

「いい子に育ったでしょう」

 

「そうだね」

 

「あなたが育てたんでしょう」

 

「そうだ」

 

「なら、逃げないでください」

 

征十郎は黒子を見た。

 

黒子は、まっすぐに征十郎を見返していた。

 

「僕とあなたがもう一度何かを始めるなら、征也くんを傷つけずに済むわけがありません」

 

「分かっている」

 

「でも、傷つけないふりをしたら、もっと傷つくと思います」

 

「そうだな」

 

「だから、急がないでください」

 

征十郎は、静かに息を吐いた。

 

「断られたわけではないと思っていいのかな」

 

黒子は少しだけ目を逸らした。

 

「そういうところです」

 

「どこが」

 

「すぐ答えを取ろうとするところです」

 

征十郎は笑った。

 

昔なら、黒子はその笑みに怯まなかった。

 

今も、怯まない。

 

ただ、昔より少しだけ、頬が赤くなる。

 

それだけで、征十郎はもう十分だった。

 

「分かった」

 

「本当に分かっていますか」

 

「急がない」

 

「はい」

 

「だが、退かない」

 

黒子は、困ったように目を伏せた。

 

「そこは、変わらないんですね」

 

「変えられない」

 

「変えてください」

 

「努力する」

 

「信用できません」

 

「それでも、来月も来る」

 

黒子はしばらく黙っていた。

 

それから、小さく言った。

 

「……部屋は、片づけておきます」

 

征十郎は、その返事だけで満たされた。

 

その夜、征十郎は黒子の部屋に泊まらなかった。

 

ホテルを取っていた。

 

黒子は少し驚いた顔をした。

 

「泊まるつもりだと思っていました」

 

「泊まりたいよ」

 

「なら、なぜ」

 

「君が、急ぐなと言ったから」

 

黒子は何も言えなくなった。

 

征十郎はコートを着た。

 

玄関先で、黒子が見送る。

 

外は冷えていた。

 

街灯の明かりが、二人の足元を薄く照らしていた。

 

「赤司くん」

 

「何だ」

 

「次に来る時は、先に連絡してください」

 

「している」

 

「三日前は、先とは言いません」

 

「では、一週間前にする」

 

「二週間前です」

 

「分かった」

 

「あと」

 

黒子は少し迷ってから言った。

 

「征也くんの日程を、勝手に動かさないでください」

 

征十郎は、わずかに目を細めた。

 

「君は彼にも優しいな」

 

「あなたにも優しいつもりです」

 

「知っている」

 

「なら、拗ねないでください」

 

「拗ねてはいない」

 

「拗ねています」

 

征十郎は、返事をしなかった。

 

黒子は小さく笑った。

 

その笑顔を見た瞬間、征十郎は思った。

 

この人を手放した自分は、本当に愚かだった。

 

けれど、もう過去には戻れない。

 

戻れないなら、今から先を作るしかない。

 

「テツヤ」

 

「はい」

 

「キスしても?」

 

黒子は目を丸くした。

 

それから、少しだけ呆れたように言った。

 

「聞くようになったんですね」

 

「君がそういう僕を望むなら」

 

黒子はしばらく黙っていた。

 

そして、自分から一歩近づいた。

 

唇が触れたのは、一瞬だった。

 

若い頃のような熱ではない。

 

奪うような強さでもない。

 

けれど、確かにそこにあった。

 

何十年も遠回りしたあとに、ようやく置かれた、静かな約束のようなキスだった。

 

黒子が離れる。

 

征十郎は、追わなかった。

 

そのかわり、黒子の指先にそっと触れた。

 

「また来る」

 

黒子は頷いた。

 

「はい」

 

「待っていてくれる?」

 

黒子は少しだけ考えた。

 

そして、いつもの静かな声で言った。

 

「少しなら」

 

征十郎は笑った。

 

「十分だ」

 

ドアが閉まる。

 

征十郎は廊下に一人残された。

 

だが、不思議と寂しくはなかった。

 

閉め出されたのではない。

 

次に開く扉が、そこにある。

 

それだけで、もう昔とは違っていた。

 

 

翌朝。

 

征十郎の携帯に、征也からメッセージが入っていた。

 

『来月のニューヨーク出張、予定通り行きます』

 

征十郎はホテルの窓際で、それを見た。

 

続けて、もう一通。

 

『仕事です。ついでに黒子先生にも会います』

 

征十郎は、しばらく画面を見つめた。

 

そして、短く返した。

 

『社長として、仕事を優先しなさい』

 

すぐに既読がついた。

 

返事も早かった。

 

『父さんも、会長として節度を持ってください』

 

征十郎は思わず笑った。

 

まったく、よく育った。

 

面倒なほどに。

 

数分後、黒子からもメッセージが届いた。

 

『二人とも、僕の予定を勝手に争奪戦に使わないでください』

 

征十郎は声を出して笑った。

 

その笑い声は、誰にも聞かれなかった。

 

赤司征十郎は、窓の外を見た。

 

遠い国の朝は、日本より少し乾いていて、少し眩しい。

 

会社は息子に渡した。

 

家の名前も、役割も、背負うべきもののほとんどは、もう次の世代へ移り始めている。

 

けれど、最後にひとつだけ。

 

自分の手で、取り戻しに行きたいものがあった。

 

いや。

 

取り戻すのではない。

 

今度こそ、ちゃんと始めに行く。

 

黒子テツヤと。

 

何十年も遅れた、その続きを。

 

征十郎は携帯を手に取り、黒子へ返信した。

 

『分かった。争わない』

 

少し考えてから、もう一行足した。

 

『ただし、譲るつもりもない』

 

送信してから、征十郎はコートを手に取った。

 

空港へ向かう時間だった。

 

日本に戻れば、会長としての仕事がある。

 

社長になった息子がいる。

 

そしてまた、次にこの街へ来る理由がある。

 

それだけで、人生はまだ終わらない。

 

遅すぎたはじまりは、思っていたよりずっと、静かで。

 

思っていたよりずっと、手強かった。

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