※エースコンバット8の前日談実写ショートムービー「アワーゼロ」第二話がベースです。
彼女は最前線と言う世界を知らない。砲弾が飛び交い、身体を貫き、肉を抉り、四肢を引き千切り、或いは魚雷で足を吹き飛ばされる硝煙と血の匂いに満ち、命を奪い合う最前線を。
彼女は確かに艦娘だったが、最前線に赴いて、砲撃と雷撃の技術を駆使して戦う艦娘では無かった。彼女の戦場は、最前線は後方と呼ばれるエリアにある、野戦病院にあった。
そこには砲弾も魚雷も飛んで来ない。鼻を突く硝煙の匂いもしない。だが、間違いなくそこは「最前線」の一つだった。
惚けた様に歩く彼女の耳に、今日も昨日、一昨日、一週間前と変わらず運び込まれる負傷した艦娘、一般将兵達が後を絶たない。野戦病院内は血と医薬品の匂いと、負傷者の呻き声、泣き声、怒号の様な医療従事者達の大声が飛び交い、その喧騒に埋もれる様に、手当も虚しく命の炎が消えて、息を引き取っていく者のか細い最後の息遣いが漏れる。
「急いで、急いで!」
「あと二人、共に重傷だ」
また重傷者が運び込まれて来る。「UN」の水色の旗が掲げられた入口のドアが開け放たれ、頭に包帯を巻かれた地上部隊兵士を載せたストレッチャーが慌ただしく運び込まれて来て、女性看護師の一人が駆け寄って来る。
「トリアージ中に安定させるわよ」
もう一人、遅れて運び込まれて来る。血まみれと言うより辛うじて人の姿をしている、と言うべき姿の兵士を見て、看護師は即座にストレッチャーを押していた別の兵士に言う。
「彼を手術台に運んで」
言われた通り、野戦病院の奥の手術室へと運ばれていく兵士を見送りながら、女性看護師は大きな溜息を吐く。そして医薬品の棚の前に立ち尽くす様に立って、一つの薬品の瓶を手にしている彼女の元へ歩み寄ると、その背中に彼女の艦名を呼びかける。
重々しい動作で振り返る彼女に女性看護師は懇願する様に言った。
「もう三六時間も寝ていません。貴女も休んでください。少なくとも少しでも眠らないと」
「……悪夢を見たくないのです。仕事もありますし」
疲れ切った表情に微かな微笑を浮かべて彼女は言った。
「私達を頼って下さい。働き詰めて、貴女まで倒れられたら人の役に立てなくなりますよ」
暗に彼女が病院船艦娘と言う艦種の艦娘である事を示した発言をする女性看護師に、彼女も溜息を交えながら応える。
「深海棲艦は兵器だけでなく、悲しみでも人を苦しめますね」
疲弊した端正な顔立ちに無理やり浮かべる笑みに、女性看護師が困った顔を返す中、二人の傍らのテレビからニュース番組の中継映像が流れて来る。振り返る二人の視線の先で、ディスプレイに映し出される実況映像の中で、煤け、所々焦げて縮れている制服を纏いながらもインタビューに答える艦娘を見て、女性看護師が微かに笑みを浮かべる。
「義理の妹さんですね」
字幕に「第六艦隊特設潜水母艦艦娘平安丸」と艦名が表示されている眼鏡をかけた艦娘を見て、多少なりとも彼女の姉妹艦娘の事を知る女性看護師は言う。
「戦闘艦系の艦娘でないにもかかわらず、危険を顧みない勇敢な方ですね」
「私の母上もそうでした。日枝丸と姉妹揃って補助艦娘でありながら最前線に立つ事を選んだ……これを投与したら、少し休んできます」
ようやく自発的に休むと言った彼女に、女性看護師はそれが正解です、と頷いた。
ニュース番組の映像が切り替わり、野戦病院から数百キロしか離れていない南洋の都市部で繰り広げらる国連軍と深海棲艦との市街戦の中継映像が映し出された。
「深海棲艦の容赦ない進撃は続いています。その勢いは止まる気配を知らず、国連軍は各地の戦線で苦戦を強いられているとの事です」
野戦病院の中を歩く彼女のローファーの靴底をべとり、べとりと纏わりつく物があった。連日連夜運び込まれる負傷者から零れ落ちた赤い命の液体の跡が、掃除される暇もなく残され、時間の経過と共に凝固して床にこびり付いたままだった。それを避けて歩く事の出来るスペースはとうになく、彼女が一歩歩く度に、べとり、べとりと不快な感覚が伝わって来た。最も今の彼女にはそれを不快と思う感情すら無くしていた。
心電図の電子音が鳴る病床の傍らへと彼女は歩み寄った。同じような心電図の電子音が鳴る病床に傷ついた体格の良い地上部隊兵士達が横たわる中、その病床には場違いな程に小柄な少女が横たえられていた。
一般人の少女では無かった。そこに横たえられている少女もまた、彼女と同じ艦娘だった。大破と呼ばれる重傷を負い、この野戦病院へと後送されて来た駆逐艦級の艦娘の一人だった。だが、その傷は最早完治のしようがない程に酷く、この病床に繋ぎ留めておくくらいなら、安楽死をさせてあげた方が彼女の為になる、と言う程に既に手の施し様のない傷を負っていた。
駆逐艦娘の名を呼びながら、彼女は上着の白衣のポケットに入れていた薬瓶を取り出して、言った。
「最後のケタミンです……お救いする事はもう叶いませんが、苦しむ事無く穏やかに最期を迎えられます」
安楽死の話をされる事に、取り乱した様子も見せず、ただ苦しそうな息遣いで駆逐艦娘は彼女に問うた。
「この戦争に、一体何の意味があったんでしょうか……?」
「いつの時代も戦争に意味はありません」
頭を振って彼女は優しい声音で否定する。
「目の前の事にただひたすら尽力するだけです。私が正義の側にいるのなら、それが崇高な役目だと思いたい」
それが例え一人の、かけがえの無い艦娘の命を穏やかに終わらせるものだとしても。
「お母さんみたいですね」
苦しそうな表情の中で浮かべられる精一杯の笑顔を浮かべて駆逐艦娘は言う。
「私の母もお医者様だったんです」
「つまり、何処かでお母様も頑張っておられる?」
きっとそうだと駆逐艦娘は表情で語る。そして絞り出す様な声で、自身の最期の前に少しでもと自身の過去を語った。
「戦争が始まる前、観艦式に連れて行って貰いました。その時、私は直ぐにフネと言うモノに夢中になり、あれから今では自分自身が艦娘と言う存在に……」
傷が彼女の身体の中で命を削り取っているのだろうか、苦しそうな息遣いの中、駆逐艦娘は涙を両目に浮かべて叶わない希望を口にする。
「お母さんにもう一度会いたい……軍人にならないで、と言うお母さんを失望させてしまった……」
「この惨禍は誰のせいでもありません」
ふと、病床への入り口が開けられ、一人の地上部隊兵士が入って来て彼女の名を呼んだ。振り返る彼女に兵士は言う。出血が酷いので治療を、と。
また重傷者が、と思った時、彼女の前に重巡艦娘二人に引き連れられて両手の先に手錠をかけられた人型の存在が姿を見せた。異形なその人型は、間違えようのない深海棲艦だった。
「何者です?」
「深海棲艦の重巡洋艦ネ級。避難船団を襲撃した敵艦隊の旗艦。船団襲撃中の所を拿捕したの」
右胸のネームプレートに「足柄」と言う名前が書き込まれている妙高型重巡艦娘が前に出て来て、事情を語り始める。
「大勢の避難民を乗せた客船を撃沈し、漂流者を殺めて回った挙句、戦争孤児の子供を連れ去ろうとしたわ」
「何故救うのです?」
表情を険しくして問う彼女に足柄は真顔で答える。確かにネ級の腹部には不発弾らしき艦娘の射撃の弾痕が穿たれ、そこから深海棲艦の体液が、人間でいう血液に相当する液体が溢れ出ている。
彼女がネ級を治療する事を拒んだのは、ネ級の犯した行為への嫌悪だけでは無い。幾ら後方の野戦病院とは言え、連日連夜運び込まれる負傷者の治療に消費される医薬品の需要に対し、供給すべき医薬品を積んだ補給艦が来航出来る頻度は低下している。慢性的な医薬品不足になりつつある中、ケタミンと言う麻酔はその中でも最も不足しがちな医薬品であった。
「奴が重要情報を握っているからよ。深海棲艦艦隊の配置、敵泊地の位置、深海棲艦とは何なのか……入手出来れば、この地獄の戦況が変わるわ」
事情を説明する足柄の言葉を遮る様に、くくくと苦しそうながらも嗤う声がその場に響きだす。
「上手ク口ヲ割ラセタトシテモ、戦況ガ変ワル事ハ無イ」
一同を嘲笑うネ級に、ネ級の両脇で拘束している「那智」と「摩耶」と書かれたネームプレートを付けた重巡艦娘が表情を強張らせる中、足柄がネ級の右頬に、自身の右手の甲を勢いよく叩き付けた。
傷と手加減無しの張り飛ばしにネ級が激しく喘ぐ中、足柄はネ級の顔の前に自身の顔を寄せて冷酷に言い放つ。
「私達が勝利した時、貴女がどんな顔をしているのか、是非見てみたいものね」
「夢デモ見テイロ」
ネ級の嗤いが止まる事は無い。
「私達ハ、選バレタ存在達ダ。ダカラ喜ンデ約束ノ世界ヘ赴コウ」
「好きになさい。三〇人が治療を待っているのですよ」
語る言葉の節々にカルティスト的な思想を連想させるネ級への強い嫌悪感を露に、彼女は語気を強めて言った。
「このお薬は被害者の為のものです。殺人鬼の為のものではありません」
「頼みでは無いのよ。艦隊総司令部の提督からの『命令』よ」
「……少佐、貴女はここで命令する権限はありません……命令は私が下します」
少佐の階級章を付けている足柄に対し、中佐の階級を持つ彼女は曲がりなりにも立場が上である艦娘として、足柄の要求を退ける。
それを聞いた足柄は結構と言う様に頷いた。
「なら、協力出来る方に頼ませて貰うわ……貴女の件は後で対処を」
そう言って足柄は彼女に背を向けると、他の医者を探す様に兵士に命じた。那智と摩耶に引きずられる様にネ級が連行され、その前後に小銃を持った兵士が囲い、手負いのネ級を何処かへと引き連れていく。
背を返す一団に彼女も背を向け、なけなしの薬を駆逐艦娘に投与すべく注射器に手を伸ばす。すると、一部始終を聞いていたらしい駆逐艦娘が「止めて」と懇願する様に辛うじて動く左腕で彼女の腕を掴みながら制止する。
「何故ですか」
「お願い、止めて……私の苦しみを和らげるより、あのネ級を……助けてあげて」
「助ける価値など有りません」
「あのネ級を救えば、もっと多くの命を……救えます……それこそ、崇高な役目だと言えませんか?」
そこまでが限界だった。深い傷によって日夜削られて来た駆逐艦娘の命が遂に尽き、苦し気な表情の中、それでも必死に息を吸おうとする駆逐艦娘の手を彼女は手に取り、握りしめる。
「大丈夫ですわよ……大丈夫……大丈夫……」
心電図の電子音が乱れ、急激にその電子音が駆逐艦娘の死を知らせていく。虫の息となる駆逐艦娘の口から微かに「お母さん、お父さん……」と言う言葉が零れ、そして平坦に鳴り響く電子音と共に一人の駆逐艦娘の命の時間が永久に停止した。
「どうか、安らかに……」
また一人、救えなかった、苦く、辛い現実を噛み殺しながら、もう何も見ていない駆逐艦娘の両目をそっと閉じさせ、彼女はそっと囁く様に言った。
とうに涙腺は枯渇しているだけに、落命した駆逐艦娘に涙を流してやる事も出来なかった。ただ、医療従事者の一人として、助けてあげる事も、苦痛から解放して安らかに最期を迎えさせる事も出来なかった悔恨だけが彼女に残された。
天井を仰ぎ、もう握力を失った駆逐艦娘の手をそっと置いて、彼女は病床を後にした。
気分転換にもならない放浪をする様に野戦病院の廊下を彼女は歩いた。そこも医療従事者やまだ歩ける負傷者が何人か行き交っていたが、少なくとも彼女が詰めていた病院内よりかはまだ気分の紛れる空間だった。
海辺の野戦病院からは海が一望出来、絶えず南洋の波間の音と、波濤が砕ける飛沫の音が響いていた。
白衣のポケットに手を突っ込んだ彼女は、その中にあった小瓶に指が触れるのを感じ、瓶を取り出す。本来なら苦痛の中に沈む駆逐艦娘をその苦しみから解放し、この世の理不尽からも解き放ってあげる為に確保してあった最後の一瓶だった。最後の麻酔薬の小瓶を見つめながら、彼女は暫く考えに耽った。いっそ地面に叩き付けて、無駄にしてしまおうか、と言う考えすら湧く中、この小さな小瓶でも果たせる崇高な役目とは何なのかを彼女の中で考えた。
汽笛が海の方から聞こえて来た。野戦病院のある島を警護する艦娘三人の小艦隊が近くを通りかかった挨拶がてらの汽笛だった。以前この病院に世話にでもなったのだろうか、と汽笛を鳴らした艦娘の方を振り返り、もう一度ケタミンの小瓶に視線を落とす。
そして決意の表情と共に、彼女は小瓶をポケットにしまい歩き出した。
手術室、と言っても専用の手術室では無く即席の簡易手術室の中で、心電図の音と、ネ級の呻き、喘ぐ声が響いていた。
足柄、那智、摩耶と警備の兵士達に見守られる中、都合の付いた外科医師がネ級の体内から不発弾を摘出しようと手術を行っていた。人類の兵士に投与すべき麻酔が不足する中、ネ級は麻酔無しの手術を受けていた。
外科医が鉗子でネ級の体内から砲弾を出そうとする度、ネ級の呻く声は大きくなり、心電図の電子音が危険を示す荒々しいトーンになる。足柄達は同情した様子は無く、ただ情報源たるネ級が死なないか、と言う不安だけを浮かべて手術を見守っていた。
「どいてください」
ふと、簡易手術室の入り口を潜って来る人影があった。手術衣に着替えた彼女が外科手袋をはめながら入って来る。
「痛みでショック状態になる可能性があります」
そう言って彼女はケタミンの小瓶を取り出し、注射器の針を小瓶のゴムの蓋に刺し、中の薬剤を吸い取らせる。その間にもネ級は荒々しい声を上げ、麻酔無しの手術の痛みに歯を食いしばって堪えていた。
彼女が来る前までネ級の施術を担当していた外科医を補佐していた女性看護師が、本当に使うのですか? と目で問うてくるが、彼女は迷わず、注射器の針をネ級に刺した。荒々しい息遣いのネ級が急に静かになり、乱れていた心電図の電子音が秩序を取り戻し始める。
「話すべき事を話しなさい」
ネ級を見下ろしながら彼女は言った。努めて自我を抑えて言ったつもりだった。そんな彼女の感情なぞ知らぬと言う様にネ級は聞く。
「何故私ガ? 我々ノ仲間ヲ打チ負カス事等出来ナイ」
そう言ってネ級は手術を見守る足柄達に胡乱な視線を向ける。
「私ガ此処デ死ンデモ、約束ノ世界ヘ行クダケダ……」
「では、ケタミンは一五分で効果が切れます。急いで手術を進めましょう」
ネ級の言葉など私は知らない。その思いを胸に彼女は外科医と女性看護師を交互に見て言った。足柄達にもネ級の両足を抑える様に頼み、急ぎ弾片の摘出が始まった。
金属トレーに摘出された全ての不発弾が金属音を立てて転がる音が響き、彼女は溜息と共に鉗子を置き、マスクを外して足柄に向き直る。
「もっと設備の整った医療施設に移す必要があります。深海棲艦の身体の事は分かりませんが、恐らく失血し過ぎている」
「尋問は終わっていないわ。電気ショックでも与えなさい」
足柄が首を横に振る。彼女なりに焦りが滲んでいる顔を見て彼女は一言、脅しにも似た言葉を放つ。
「死なせてもよろしいのですか?」
「さっきまで、救われる事自体を拒んでいたのよ」
「恐怖よりも理性の声に耳を傾けるべきですわ。このネ級の為に犠牲になった方もおられるのですよ」
なるほど、と足柄は頷きながらも、階級では上に当たる彼女に語気を強めて言い返す。
「この悪魔のせいで何千人と言う避難民が命を落としたのよ。その苦しみが貴女には分かるの?」
「痛い程分かりますわ……私も母を深海棲艦の攻撃で失いました。私の目の前で亡くなられたのです、遺す物も殆ど無いまま……だから分かっています」
「……ならば、時間の重要さもお判りいただけますわよね? 情報が必要なのよ」
「しかし、焦ればネ級は死に、何も得られずただ全てが徒労に終わるだけです。何も手に入らず、全て無駄になる……足柄さんは、どちらを選ぶのですか?」
「一旦、落ち着かないか」
議論が白熱しかける二人に、那智が声を上げて割って入った。不毛な言い争いで時間を浪費している暇まない、と那智なりの意見から、彼女と足柄に意図的に距離を取らせる。
「お互い、距離を置くんだ」
仕方ないわね、と足柄は従い、彼女も溜息交じりに引き下がる。
「良いわ……でも、口を割る前にネ級が死んだら、貴女の責任になるわよ」
階級の差など知った事か、と迫る足柄の姿勢に、彼女も距離を取りながらも視線をそらさずに凝視する。さてどうしたものか、とその険悪になりかける場の空気に摩耶が困惑した視線を泳がせた時、泳いだ視線の先でネ級がメスを手に取っているのが見えた。
「止めろ! 止せ!」
遅かった。
彼女と足柄の問答に一同が気を取られている隙をついて、メスを手に取ったネ級は、自らの心臓のある位置へそれを躊躇いも無くその刃先を突き立てた。
一斉にその場の全員の視線がネ級に向く中、急激に心電図の電子音が弱まる中、ネ級の嗤う声が上がる。
「私ガ本当ニ口ヲ割ルトデモ?」
哄笑も無く、ただ満足気な笑みと自害の為に突き立てたメスに突かれた心臓が機能を失っていく中で上げる最後の荒い息を遺し、程なくネ級は死亡した。無情に鳴り響く心電図の平坦な電子音を発車メロディにして、ネ級の言う約束の世界とやらに自ら旅発ってしまったのだった。
そんな、と言う信じられない表情で足柄はネ級の死体を凝視した。何も情報は引き出せていない。これから尋問を行っていくと言う時に、拿捕出来る深海棲艦自体が極めて稀な中で、やっとの思いで拿捕した深海棲艦が自ら命を絶ってしまった。形は違うが彼女の言う通り、何も得られず、ただ全てが徒労に終わってしまった。
「……何とか出来ないかしら……?」
絞り出す様なその足柄の一言に、彼女も絶望の二文字をその目に浮かべてネ級を見た。
「もう、出来る事はありません」
なけなしのケタミンもこれで無駄になった。本来、そのケタミンを投与されるべきだった駆逐艦娘の死も無駄になった。ネ級を拿捕する為に足柄達が重ねた苦労も無駄になった。ネ級が殺めた避難民たちの犠牲も、何もかも無駄の二文字の前に終わってしまったのだった。
愕然、唖然とした視線と、絶望が手術室内に広がっていった。
手術衣の上から両腰に手を当てて、彼女もまた凝然と立ち尽くすしかなかった。
負傷者は尚絶えず運び込まれて来る。最前線で砲火が飛び交い、その下で傷つき斃れる者が出る度に、野戦病院に運び込まれて来る負傷者の数は終わる所を知らない。
確かにここは戦闘と言う概念が起きない後方の安全な場所ではあった。だが命を救う現場と言う意味において、この野戦病院もまた、熾烈な最前線であったのだった。砲弾が飛び交わない代わりに、医療従事者達の怒号が飛び交い、硝煙では無く血と薬品の匂いに常に溢れ、希望と絶望の両方が隣り合わせになって存在する最前線。
その負傷者と医療従事者が忙しく行き交い、絶えず喧騒が鳴り響く野戦病院のフロアで、力なく立ち尽くす彼女の姿があった。全てを失い、あらゆる希望を失い、絶望以外の何も見えなくなってしまった病院船艦娘氷川丸が、へたり込む事も忘れて立っていた。
枯渇し始める野戦病院の医薬品とは関係なく、運び込まれて来る負傷者達の姿を前に、最早万策尽き果て、私はどうしたらいいのだろうか、これから何をすべきなのかと言う回答の出ない自問自答を繰り返すだけの抜け殻と化して立ち尽くしていた。
希望は、ここに、この世界に希望は無いのですか、そう口に出す事も出来ずに問う氷川丸に、答えを示してくれる存在は無かった。
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