四トンの山車が直角の辻を全速力で駆け抜けるだんじり祭り。その「蔵前の辻」ではここ数年、死人が絶えない。そんな中、幼なじみを目の前で喪ったライターの坂下は、事故の裏に隠された不自然な点に気づく。

なろうなどにもマルチ!

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Xでだんじり祭りの炎上騒ぎを見て思いついた


逢魔が辻

『祭りが明けて、町に静けさが戻った。今年も蔵前の辻で事故があり、外からは規制を求める声が聞こえてくる。亡くなった方には気の毒だが、あの辻を外の物差しで測られるのは、地元の人間としてどうにも据わりが悪い。市役所広報課の紹介で、浜口庄三さん(91)を訪ねた。毎年、祭りの朝には辻の角へ椅子を出してきた人である。事故の話を向けると、浜口さんは湯呑みを置いて「だんじりはな、悪いもんを轢くんや。昔からそうや」と笑った。確かにここ数年、町の治安は向上しているように思える。だんじりのあの勇ましさが人々の悪心を轢き潰しているのだろうか』

(坂下透/ライター/地域情報誌『月刊うしお』より)

 

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坂下透は一眼レフのダイヤルを親指で回し、露出をマイナスに一段補正した。

 

ファインダーの枠内で秋の斜光を浴びたアスファルトが白く反射しており、それがなにやら後光のようにも見えて坂下はにやりと笑う。

 

坂下が撮っているのはだんじりだ。

 

神社の秋祭りに町ごとで曳き出す、欅造りの巨大な山車である。太鼓と鉦の鳴り物を響かせ、百人を超す男たちが一本の綱を握り締めて町中を全速力で駆け抜けるのがだんじり祭りだ。

 

危険ではないのか、という批判が毎年必ず出るが、これはもちろん危険だ。なにせだんじりの重量は四トンに達するのだから。これに百人を超える男たちの前進運動が上乗せされて直角の辻を全速で駆け抜けるわけで、曲がりきれなければ家屋へ突っ込み、転倒すれば下敷きになった人間を木片と肉の塊に変えてしまう。

 

死人?

 

もちろん出る。

 

国内には探せば危険な祭りはゴロゴロとあるが、だんじり祭りほどに危険なものはそうそうないだろう。ゆえに外の人間には荒々しい奇祭としか映らない。だが汐見浦で育った者にとっては血の巡りそのものであり、生活のすべてでもあり、他ならぬ坂下自身も二十代半ばまでは前梃子を握り、骨を二度折りながら歓声を浴びてきた。

 

危ないことは百も承知の上で、しかしだんじりには漢(おとこ)を惹(ひ)きつける魅力がある──坂下はもう何年もずっとだんじり祭りに魅せられてきたのだ。

 

◆

 

辻の四つ角には黄色い単管パイプと青いネットフェンスで安全柵が組まれていた。その外側にできた畳半畳ほどの隙間に蛍光ベストを着た汐浦警備保障の警備員が二人立っている。観客の波はフェンスの内側に幾重にも重なって熱気を立ち上らせていた。

 

「透くんmお茶淹れたで。飲むか」

 

階下から家主の老女が声をかけてくる。毎年この二階からの撮影を許してくれている遠縁の叔母だった。

 

「おおきに、後でいただくわ」

 

坂下はファインダーから目を離さずに答える。遠くの直線道路から鳴り物の音が届き始めていた。大太鼓の腹に響く鈍い振動と甲高く響く鉦の打音。それに合わせて男たちの野太い掛け声が古い瓦屋根の並びを震わせながら近づいてくる。

 

望遠端八十ミリで辻の対角線、もっとも遠心力がかかる南東の角を捉える。鉄パイプ柵の外側にある電柱とトタン塀の隙間に黒いパーカーの男が立っていた。両手をポケットに突っ込んで足元のアスファルトを見つめている。

 

ファインダーの中でピントが合った瞬間、坂下は目を大きく見開いた。

 

見覚えのある横顔だった。肉の削げ落ちた頬と尖った顎。高校の途中で姿を消して裏仕事に手を染めていると噂されていた幼なじみ、真鍋恭平だった。

 

真鍋の家は埋立地側の市営住宅だった。町会費を払わず寄付も出さない家の子供はだんじりの綱に触ることすら許されない。子供の頃に揃いの法被を着て駆けていく同級生たちを、真鍋は路地の奥から唾を吐いて見送っていた。祭りの二日間は決まって市外のサウナへ逃げ出す男だったはずだ。それでも気はいいやつで、坂下と真鍋はそこそこ話す、友達以上、親友未満くらいの関係だったのだが──。

 

なぜここに立っているのか。疑問が形になる前に、辻の奥から怒号が噴き上がった。

 

「やりまわしじゃあ!」

 

角の先から大工方が屋根の上で跳ねて団扇を翻す姿が視界へ飛び込んでくる。先頭の綱を引く百人余りの青年団が猛烈な勢いで交差点へ雪崩れ込んできた。地下足袋の擦過音が乾いた音を立て、アスファルトの粉塵が舞い上がる。

 

「いけえ!」

 

笛の合図とともに前梃子が欅のコマの隙間へ強引にねじ込まれた。

 

けたたましい摩擦音。火花が散って木塊が横滑りしながら旋回を始める。遠心力に引っ張られた後梃子の男たちが全身の体重を預けて外側へ煽った。美しく完璧な弧を描くはずの軌道だった。

 

しかし、だんじりの右後輪が路面の深い窪みに落ち、大きく跳ね上がった。

 

車体が外側へ膨らむ。わずか数十センチのズレ。全速で疾走する質量の偏りは木造の壁となって南東の角へなだれ込んだ。

 

歓声が一瞬で裂けて甲高い悲鳴へと裏返る。

 

ファインダーの中、だんじりの後部が黄色い単管パイプの柵を薙ぎ払った。鉄パイプがひしゃげて跳ね、防護ネットが引きちぎられる。

 

電柱とトタン塀の間に立っていた黒いパーカーの男が逃げ場を失って顔を上げた。

 

坂下の指は無意識にシャッターボタンを連写で押し込んでいた。高速で落ちるミラーの機械音が耳元で硬質なリズムを刻む。

 

だんじりの頑丈な泥幕が男の身体を壁ごと押し潰し、木材とトタンが軋む激音があたりを制圧した。鈍い衝撃音は鉦の音と怒号の波にかき消される。

 

「止めえ! 止めんかい!」

 

大工方が屋根の上で団扇を叩きつけ、前梃子の男たちが必死に木塊を抉る。数メートル先でだんじりが軋みながら停止した。

 

砂煙の向こうに折れ曲がったパイプと崩れたトタンの波板が残された。青いネットの残骸の下から投げ出された片足が見えている。履き古された白いスニーカーが片方だけ辻の中央へ転がっていた。

 

直後、辻の四方から警笛が鳴り響いた。曳き手たちが呆然と立ち尽くす脇を抜け、すでに青いビニールシートを広げた汐浦警備保障の職員たちが駆け寄ってくる。一分と経たずに現場は青い幕で幾重にも覆い隠され、警察官が素早く観客たちを後方へ押し戻した。

 

坂下は二階の窓辺でカメラを下ろし、小刻みに震える両手を見つめた。液晶モニターには最後に切られたコマ──泥幕の角が迫る瞬間、電柱の陰で逃げ場を塞がれた真鍋の姿が映し出されていた。坂下は親指で電源を切った。その手前の連写のコマを巻き戻して見返すことは、どうしてもできなかった。

 

その日の宵の口、坂下が地元の居酒屋『いわし亭』のカウンターで冷めたビールを喉へ流し込んでいると、ポケットの中のスマートフォンが震えた。

 

液晶画面には町内の若頭連中が参加するグループLINEの通知が並んでいる。

 

『本宮の事故、仏さん出たらしいで』

 

『どこの誰や?』

 

『真鍋の恭平やと。市営の奥におるやつ』

 

画面を見つめたまま、坂下はジョッキの結露を爪の先でなぞった。

 

返信は途切れず、いくつかの短い文が続けて流れてくる。

 

『なんや、あいつか』

 

『あいつならな』

 

『祭りの日にうろうろしてるからや。自業自得やろ』

 

『だんじりは悪いもんを轢くちゅうのは、ほんまやな』

 

最後のメッセージを書き込んだのは今年年番を務める有力者の息子だった。

 

カウンターの奥でテレビの地方ニュースが、本日のだんじり祭りで男性一人が巻き込まれて死亡した事故を淡々と伝えている。アナウンサーの無機質な声と居酒屋の座敷から漏れ聞こえる乾杯のざわめきが重なり合っていた。

 

真鍋の死を悼む声はこの町のどこからも聞こえてこない。最初から路上のゴミが一つ片付けられただけであるかのように、夜の空気は祭りの昂揚に満たされたままだった。

 

◆

 

九月下旬の強い日差しがプレハブ造りの葬儀場のスレート屋根を白く焼いていた。

 

旧市街の外れにある民営斎場の小さな告別式場には生花の一対すら飾られていない。パイプ椅子が二十脚ほど並べられた薄暗い空間に、安い線香の煙だけが立ち込めていた。

 

祭壇の中央に置かれた真鍋の遺影は、数年前に更新した運転免許証の顔写真を無理やり引き伸ばしたものだった。粗い画素の隙間から苛立ったような目つきがこちらを睨みつけている。

 

坂下が受付で不祝儀袋を差し出すと、くたびれた喪服を着た真鍋の母親が深く頭を下げた。腰の曲がった小柄な身体が言葉すら発さずに機械的な礼を繰り返す。参列者は坂下のほかに作業着姿の初老の男が二人いるだけだった。

 

「坂下くんかいな。わざわざすまんなあ」

 

焼香を終えた坂下に母親が掠れた声で茶を差し出した。紙コップの縁からぬるい麦茶の匂いが漂う。

 

「あの子な、祭りの二日間は毎年難波のサウナへ泊まりに行っとったんよ。ちっこい頃からだんじりの太鼓の音が嫌いや言うてな。耳塞いで布団に潜り込んどった子やのに」

 

母親の手には黒ずんだ洗剤の荒れが残り、薄い骨の浮いた甲がかすかに震えていた。

 

「なんであんなとこにおったんか、警察の人に聞いても教えてくれへんのよ。ただ立ち入り禁止の柵を越えたからやって。自業自得やって言われてしもてな」

 

坂下は何も言えずに紙コップを見つめた。

 

五年前に観光客の女子大生が辻で巻き込まれて死亡した際、全国的な非難を浴びた祭り側を擁護するため、坂下は地域情報誌『月刊うしお』のコラムで筆を振るった。

 

『だんじりは規律の神事である。命を落とすのは自ら定められた境界を越え、警告を無視して危険に身を晒した者たちに他ならない』

 

自らが書いた理屈がそのまま真鍋の母親の口から投げ返されるのは、何やら堪らないものがあった。

 

斎場を辞して外へ出ると、潮風に混じって虫の鳴き声が聞こえてくる。スマートフォンを開くとネットの掲示板やSNSでは事故の顛末が消費され尽くしていた。

 

『だんじり事故の死者、地元で有名な半グレだった件』

 

『神様がゴミ拾いしてくれたんやろ』

 

『悪いもんを轢くって言い伝え、ガチやったんやな』

 

無数の匿名のアカウントによって、真鍋の死はていの良い玩具にされていた。

 

◆

 

十月に入り、潮風に混じる湿り気が消えて乾いた埃が路地を転がるようになった。

 

坂下は臨海地区のコンテナ埠頭に面したコンビニの駐車場で銀色の軽自動車を止めて待っていた。約束の時間を十分ほど過ぎた頃、マフラーを改造したビッグスクーターが吸気音を響かせて滑り込んできた。

 

運転席から降りてきたのは派手なスウェット上下を着た二十代半ばの男だった。真鍋が面倒を見ていた後輩で、地元の土木会社に出入りしているヤスという男だ。

 

「真鍋さんのこと、何か知らんか」

 

坂下が缶コーヒーを差し出すと、男は無愛想に受け取ってプルタブを引いた。

 

「知らんすよ。警察にも聞かれたけど、事故っしょ。だんじりに突っ込まれただけやんすか」

 

「あいつは祭りが嫌いやった。蔵前の辻に行く理由がないやろ。お前、なんか隠してるんとちゃうか」

 

ヤスは喉を鳴らしてコーヒーを飲み干すと、灰色の空を見上げて鼻を鳴らした。

 

「金っすよ」

 

「金? はっきり言わんかい」

 

「怒らんでくださいよ……ええと、あの日、上の人から使いを頼まれてたんす。蔵前の辻の角、電柱の陰で待っとけって。三時に紙袋持ったやつが来るから、受け取って車まで運ぶだけの簡単な仕事やからって」

 

「上の人って誰や」

 

「黒田さんっすよ。オレオレの受け子の元締めやってる人で──まあ、その黒田さんも先月、別件の詐欺であっさりパクられましたけどね」

 

「なんでそんな人混みの中で受け渡しをするんや」

 

「人が多い方が紛れるやろって言われたらしいす。祭りの日は警察も手薄やから誰も怪しまんって。真鍋さん、小遣い欲しさにホイホイ行ってもうたんすよ」

 

ヤスは煙草に火をつけ、紫色の煙を吐き出した。

 

その日の夜、坂下は自室の作業デスクで地元の青年団や祭礼関係者のSNSを遡った。

 

ケンジという若い衆のアカウントに、本宮前夜の日付で投稿された写真が残されていた。酒宴の席でビールジョッキを掲げる若者たちの顔。その下に添えられた短い文面が癪に障る。

 

『明日は本宮。今年は誰轢くやろなwww』

 

──なんやこれ、人が死んでんねんぞ。

 

坂下は舌打ちをして画面をスクロールしかけ、指を止めた。

 

『誰』。

 

怪我人が出るやろな、ではない。誰かが轢かれるやろな、ですらない。毎年かならず一人、誰かが選ばれることが最初から決まっているかのような書き方だった。

 

加えて、ヤスの話も妙だ。祭りの最中の蔵前の辻は、警察官と警備員が最も密集する場所だ。裏仕事の受け渡し場所に指定するには不自然すぎる。黒田という男が事故の直後に逮捕されているのも引っかかった。

 

◆

 

十一月の初旬、八汐神社の境内にある青年団の詰所を訪ねた。

 

板張りの広間にはだんじりの修繕具や提灯が積まれ、ストーブの上でやかんが白い湯気を噴き上げている。パイプ椅子に腰掛けていたケンジは坂下の顔を見るなり露骨に顔を背けた。

 

「あのSNSの投稿、どういう意味や」

 

坂下が画面を見せるとケンジは舌打ちをして頭を掻いた。

 

「なんすかそれ。あれ悪ふざけっすよ。ここんとこ毎年一人死んでるから、適当に書いただけやんすか」

 

「誰を轢くか、最初から決まってたんやないんか」

 

「はあ? 何言ってんすか。だんじりですよ? 人が狙ってぶつけられるわけないやないですか」

 

「おい、透。何を聞いとるんや」

 

奥の戸が開き、若頭筆頭の大森が入ってきた。浅黒い肌に鋭い光を宿した男で、現役時代の坂下の先輩にあたる。

 

「ケンジ、お前は外で提灯の片付けしてこい」

 

大森は若い衆を追い出すと長椅子に腰を下ろし、坂下を正面から見据えた。

 

「お前、どっちの人間や。町の外の週刊誌みたいな真似してだんじりにケチつける気か」

 

「真鍋が死んだんや、大森君。あいつがなんであの場所に立ってたか」

 

「知らんわ、そんなもん」

 

大森は吐き捨てるように言った。

 

「だんじりはな、悪いもんを轢くんや。昔からそう決まっとる。町を清めるための神事やぞ。あいつに後ろ暗いところがあったからだんじりに撥ねられたんや」

 

「……なあ、大森君、だんじりは人が操っとるんやろ。狙って角の外側へ突っ込ませることなんか──」

 

「できるわけないやろが!」

 

大森が机を平手で叩いた。乾いた破裂音が狭い詰所に響き渡る。

 

「四トンの欅やぞ。百五十人が死に物狂いで引いて命懸けで梃子入れて曲がるんや。一歩間違えたら曳き手が死ぬんやぞ。特定の人間狙ってぶつけるような真似ができるかい。だんじりの線はな、毎年一本きりや。コンクリートに刻まれた傷見てみい。毎年同じところを走っとるわ!」

 

大森の荒い呼気が机を震わせた。その眼に嘘はない。

 

「五年前に警察と市から規制されかけた時もな、わしらは全部撥ね付けたんや。だんじりの走る道は神さんの道やから曲げられんてな。唯一呑んだんは警備の人数増やすくらいのもんや。警察のお偉いさんが警備計画にハンコ押すちゅうから認めたったんや。わしらが勝ったんやぞ」

 

大森は煙草を取り出して乱暴に火をつけた。

 

詰所を出た坂下は、神社の石段を下りながら立ち止まった。

 

時速三十キロで疾走する木塊で特定の個人を標的にすることなど不可能だ。大森の言う通り、曳き手たちはただ真っ直ぐに神事の線を走っている。

 

それでも、喉の奥に刺さった小骨のような違和感が消えない。

 

『だんじりは悪いもんを轢く』。

 

大森も、年番の息子も、ネットの連中も、判で押したように同じ言葉を口にする。だが、だんじり祭りは本来、五穀豊穣や豊漁を祈願するもののはずだ。悪しき者を轢いて穢れを祓うといった血生臭い言い伝えなど、昔からあっただろうか。

 

三年前に『月刊うしお』であのコラムを書いたのは、取材相手の浜口老人がそう語ったからだ。最初から祭り寄りに書くことが決まっていた小さなコラムだったため、当時は文献を漁って裏取りをすることもしなかった。

 

あの老人は、どこからその話を聞いたのか。

 

◆

 

臨海部の埋立地に建つ特別養護老人ホーム『さわやか』。坂下は面会室の丸テーブルで車椅子に座る老人の前に腰を下ろしていた。浜口庄三、九十四歳。三年前に伝承の語り手として取材した相手だ。当時、取材を仲介してくれたのは市役所広報課の宮園という男だった。

 

「浜口さん、だんじりが悪いもんを轢くちゅう言い伝えのことなんですが」

 

老人は落ちくぼんだ眼を瞬かせ、坂下の顔をぼんやりと見つめた。膝の上のガーゼを握りしめ、掠れた声を漏らす。

 

「……なんやったかいな。役所の兄ちゃんがな、昔はそう言うたもんやって紙を見せられてな。ああそうやったかもしれんなあ、言うて頷いただけや……わしらの若い頃はそんな言い伝えは聞いたことなかったがな」

 

老人の頭が前に垂れ、そのまま静かな眠りへと沈んでいく。

 

坂下は唇を噛んだ。三年前、老人が紙を見て頷いただけの言葉を、「湯呑みを置いて笑った」と脚色して記事に仕立てたのは坂下自身だった。

 

その足で市立図書館の郷土資料室へ向かった。

 

明治から昭和の町史や八汐神社の祭礼縁起、戦後の地元新聞縮刷版を片端からめくった。だんじりの事故事例は何百件と残されている。電柱への激突や転倒、曳き手の圧死。しかしどこを読んでも『悪しき者を祓う』『だんじりは穢れを轢く』といった記述は一行たりとも見つからなかった。

 

言葉の初出は三年前の秋。市役所広報課の宮園が古老に吹き込み、坂下が書いて町中へ流通させた、あのコラムだった。

 

◆

 

年が明けた一月、凍てつく深夜の蔵前の辻に坂下は一人で立っていた。

 

肩にかけた鞄からファイルを取り出す。過去六年間に自分が叔母の家の二階から撮影した辻のパノラマ写真が並んでいた。

 

だんじりが描く黒いコマの擦過痕。大森の言葉どおり、六年間の写真すべてにおいて寸分違わず同じ軌跡を描いていた。削れたアスファルトの筋や旋回軸のすべてが重なっている。

 

そして、車体が跳ね上がる位置も毎年まったく同じだった。

 

坂下は辻の中央へ歩み寄り、スマートフォンのライトで路面を照らした。九月の本宮でだんじりの右後輪が落ちた深い窪みは、今は真新しいアスファルト合材で平らに埋められている。だが手元のファイルを開けば、過去六年分の九月の写真には、毎年きっちり同じ位置に黒い窪みが写り込んでいた。市道であるにもかかわらず、祭りの前になると誰かが同じ場所の補修を剥がし、祭りが終わるとまた埋めていることになる。

 

さらに写真を交互に見比べた坂下は、もう一つの違いに気づいた。

 

写真の隅に写る黄色い単管パイプの防護柵。その位置が年ごとにわずかずつ移動している。

 

南東の角へ駆け寄り、足元のアスファルトを照らした。鉄パイプの支柱を固定するための直径三センチほどのアンカーボルトの穴が空いている。その穴は一つではなかった。

 

セメントで雑に埋められた古い穴の隣に、数十センチずらして穿たれた穴がある。六年前から年を追うごとに柵が少しずつ後退し、だんじりが膨らんで飛び込んでくる電柱とトタン塀の前にだけ、人間一人が立てるほどの切れ目を作っていた。

 

坂下は震える指で鞄からカメラを取り出し、九月以来一度も開けなかったSDカードのデータを再生した。

 

真鍋が潰される直前の連写コマを一つずつ巻き戻す。

 

画面の端、真鍋が立つ電柱の数歩手前で、蛍光ベストを着た汐浦警備保障の警備員が右手を差し出していた。まるで航空機を誘導するマーシャラーのように、手のひらでその狭い隙間の位置を示している。

 

だんじりの軌道が最初から決まっているなら、走る山車を操る必要はない。

 

──つまりは、そこに……人を。

うすら寒い考えに至った坂下は慌てて首を何度か横に振った。ありえない話だし、あってはならない話だったからだ。

 

◆

 

二月、坂下は自室のデスクに過去十五年分の地元新聞の縮刷版コピーを広げ、赤ペンで死亡事故の記事に印をつけていった。手元にはネットの地域掲示板のログを印刷した紙束がある。

 

切り抜きを年代順に並べると、歪な境界線が浮かび上がった。

 

十二年前までは、死者は数年に一度、それも綱を引く曳き手や屋根の大工方が転落して亡くなるケースばかりだった。

 

最初の転機は十一年前だ。見物客の女性が辻で巻き込まれて死亡している。記事の見出しは大きく、被害者の父親が当時汐見浦署の交通課長だった久住幸四郎であることも報じられていた。

 

その翌年から四年間は死者は出ていない。そして六年前、観光客の女子大生が同じ蔵前の辻で死亡した。全国的なバッシングが起き、廃止論まで噴出した年だ。坂下が「境界を越えた者が悪い」と最初の擁護コラムを書いたのもこの時だった。

 

異変は、その翌年──五年前から始まっていた。

 

五年前、一人。四年前、一人。三年前、一人。二年前、一人。そして昨年の真鍋恭平。

 

警察と市が介入し、警備計画が刷新されたはずの五年前から、毎年きっちり一人ずつ、蔵前の辻で見物客が死んでいる。

 

坂下は五年分の死者の名前をノートに書き出し、掲示板の過去ログと照らし合わせた。

 

五年前の死者は、地元で恐喝を繰り返していた元暴力団員。

 

四年前の死者は、高齢者を狙った押し買い業者の男。坂下が『だんじりは悪いもんを轢く』というコラムを書いたのは、まさにこの男の死の直後だった。

 

三年前の死者は、薬物の売人と噂されていた風俗店のスカウト。

 

二年前の死者は、飲酒運転でひき逃げを起こし、証拠不十分で不起訴になった男。

 

どいつもこいつも、町で誰もが顔をしかめる厄介者ばかりだった。

 

六年前の事故を機に批判が激化したはずなのに、四年前のコラム以降、町から安全面を問う声はぱったりと消えていた。毎年一人が死んでいるにもかかわらず、業務上過失致死の捜査が本格化した形跡もない。

 

◆

 

三月の半ば、汐見浦警察署の署長室に坂下はいた。

 

この二年ほど署長を務め、春の定期異動で定年退官を迎える久住へのインタビューだった。長年祭りの安全対策に尽力した功労者としての取材で、市役所広報課の宮園から打診されたものだった。宮園の名を聞いた時はさすがにためらったが、断ればこちらの腹を探られる気がして、坂下は予定通り署へ足を運んだ。

 

「坂下さん、いつも祭りを温かく書いてくれて感謝していますよ」

 

応接ソファーに腰掛けた久住は柔和な笑みを浮かべて緑茶を勧めてきた。眼鏡の奥にある眼差しは穏やかで、警察権を持つ者特有の圧はない。

 

執務机の上には、六年前の年度から綴じられた分厚い『祭礼警備実施計画書』のバインダーと、退官祝いの胡蝶蘭が並んでいた。白い花弁の脇に添えられた木札には、『汐浦警備保障株式会社』と記されている。

 

「祭りの安全について一言いただけますか。ここ数年、毎年のように事故が続いていて、ネットなどでは妙な噂も流れていますが──」

 

坂下がボイスレコーダーを置くと、久住は立ち上がり、窓辺へ歩み寄った。三階の窓からは、春霞に煙る汐見浦の街並みと、遠くに蔵前の辻の瓦屋根が見渡せる。

 

「十一年前にね、娘があの辻で亡くなりましてね」

 

久住は窓の外へ視線を向けたまま、世間話をするような調子で言った。

 

「あの子は柵の内側にいたんですが、後ろから酔っ払いに押されて前に出たところを、膨らんできただんじりに撥ねられたんです。押した男は特定できませんでした。祭りの熱狂の中では、誰が誰を押したかなんて分かりませんからね」

 

久住が窓辺でゆっくりと振り返った。

 

「でもね、私は祭りを恨んだことはないんですよ。祭りは悪うないんです。何百年と続いてきた神事ですからね。だんじりはただ、決められた道を真っ直ぐ走っているだけです」

 

久住はソファーへ戻ると、坂下の目を真っ直ぐに見て微笑んだ。

 

「だんじりは神事です。神事っていうのはね、色々守らなければいけないルールがあるんだ。命を落してしまうのは、自ら定められた境界を越え、警告を無視して危険に身を晒したからです。坂下さん、あなたもそう思いませんか?」

 

久住から発される得体の知れぬ妖気が部屋の室温を低下させているかのようだった。

恨んだことはない──本当に?

久住の目に滾るモノを見れば、誰だってそんな言葉を神事やしないだろう。坂下は喉が張りついたようになり、頷くことも声を出すこともできなかった。

 

◆

 

その年の九月中旬、祭礼の前夜。

 

秋の夜風が路地を吹き抜け、町中の軒先に吊るされた献灯提灯が微かに揺れていた。

 

坂下の郵便受けに一通の角形二号の茶封筒が投函されていた。差出人の欄には整ったゴシック体で『汐浦警備保障株式会社 祭礼警備本部』と印刷されている。この春に警察を退官した久住の名はどこにもなく、ただ無機質な社名と事務印だけが押されていた。

 

封を破ると、中から一枚のプレス用腕章とA4サイズの案内図が出てきた。

 

青いナイロン製の腕章には白抜きで『撮影許可』の文字が刻まれている。

 

同封された案内図の表題には、『本宮・蔵前における報道位置の指定について』と記されていた。毎年、坂下がカメラを構えていた叔母の家の二階窓には赤い斜線が引かれている。『安全確保のため本年度より使用不可』という注記が添えられているが、坂下の注意を惹いたのは何よりも──新しく指定された撮影位置を示す赤い丸が、南東の角に一つだけ打たれている事だった。

(了)


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