母を失った少女ティニーに手を差し伸べたのは、雷神イシュタルだった。
その名に守られ、やがて人々を救う喜びを知ったティニー。しかし、彼女が救った人々を苦しめていたのもまた、自らが属するフリージ家だった。

恩人への感謝と、自分自身の正義。
生き別れた兄アーサーとの再会を経て、少女は一つの決断を下す。
『聖戦の系譜』ティニーの成長を描く、原作補完短編。

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『ファイアーエムブレム 聖戦の系譜』の二次創作です。
ティニーを主人公に、原作では描かれなかった彼女の過去と成長を描いた、一話完結の短編です。
原作の設定や台詞を一部使用し、独自の解釈を加えています。


雷神の名を借りて

 母の手は、いつも温かかった。

 どれほど冷たい風が窓を鳴らす夜も、つらい出来事があって眠れない日も、その手に包まれていれば、ティニーは安心して目を閉じることができた。母の手には不思議な力がある。幼い彼女は、本気でそう思っていた。

 けれど、いつの頃からか、その手が震えるようになった。

「母さま、どうして泣いているの?」

「……何でもないのよ」

 ティルテュは笑ってみせた。いつもと同じように、娘を怖がらせまいとする笑顔だった。だが、頬を伝った涙の跡までは隠せない。ティニーが袖で拭ってあげると、母は困ったように目を伏せ、それから彼女を強く抱きしめた。

 アルスター城での暮らしは、穏やかとはほど遠かった。

 伯母のヒルダは母を嫌っていた。なぜそこまで憎まれるのか、ティニーには分からない。彼女が知っている母は、怒鳴ることも、人を傷つけることもない、誰より優しい人だった。

 ただ、ヒルダに呼び出された日は帰りが遅くなる。部屋へ戻ってきた母は、決まって口数が少なかった。背筋を伸ばして歩いていたはずなのに、扉を閉めた途端、その身体がひと回り小さくなったように見えた。

 ティニーは何度も尋ねた。何があったの、と。母はそのたび「大丈夫よ」と言い、ほかの話を始めてしまう。

 大丈夫ではないことくらい、子どもにも分かった。

 ある日、ティニーは廊下の向こうに伯父のブルームを見つけた。

 兵士たちが道を開けるなか、伯父はゆったりと歩いてくる。ティニーが駆け寄ると、その足が止まった。

「ブルームおじさま……」

「どうした、ティニー」

「どうして、ヒルダおばさまはお母さまをいじめるの?」

 何も考えずに言葉が飛び出した。言ってはいけないことなのかもしれない。それでも、母を助けてくれる大人がいるとすれば、この人しか思い浮かばなかった。

 ブルームの表情が、わずかに曇る。

「お母さま、毎日泣いてるの。最近はご飯も食べられなくて……」

「ティニー……」

 伯父はしばらく黙っていた。やがて、困ったように姪の頭へ手を置く。

「おまえが心配することではない。私に任せておきなさい」

「でも……」

「さあ、部屋に戻りなさい」

 優しい声だった。だから、ティニーはそれ以上何も言えなかった。

 廊下の角を曲がっていく伯父の背中を見送る。きっと大丈夫だ。ブルームおじさまは約束してくれたのだから。母の苦しみを知って、何もしないはずがない。

 そう信じることが、あの頃のティニーにできる精いっぱいのことだった。

 けれど、母の容体はよくならなかった。

 やがて寝台から起き上がることさえ難しくなった。呼びかければ返事はしてくれる。手を握れば握り返してくれる。それでも、以前のような明るい笑い声は部屋から消えていた。

 ある夜、母はティニーを枕元に呼んだ。

「……ティニー」

「はい、母さま」

「あなたは……幸せになってね」

「母さまも一緒です」

 当たり前のことを言ったつもりだった。母が幸せでなければ、自分だけ幸せになることなど考えられない。

 ティルテュは答えなかった。代わりに首元のペンダントを外し、細い鎖を娘の手に載せる。ティニーが不思議そうに顔を上げると、母はその髪をそっと撫でた。

 いつもなら温かいはずの指先が、ひどく冷たかった。

 翌朝、ティニーは母を失った。

 いくら泣いても、母の名を呼んでも、もう誰も返事をしてくれない。助けてと訴えた伯父も、城にいる大勢の大人たちも、母を救ってはくれなかった。

 ティニーは小さな両手でペンダントを握りしめた。

 この城では、弱い者は守ってもらえない。

 幼い少女の胸に、その思いだけが深く残った。

     *

「ティニー?」

 声に顔を上げると、廊下の向こうにイシュタルが立っていた。

 母を亡くしてから、ティニーは人の少ない場所を探しては座り込むようになっていた。誰かに顔を見られると、泣いていたことまで知られてしまいそうだったからだ。

「こんなところで、どうしたの?」

「……何でもありません」

「そう」

 イシュタルは追及しなかった。ただ、衣服の裾を整えて、ティニーの隣に腰を下ろした。

 ティニーは思わず目を見張る。城で誰もが一目置く王女が、冷たい床に座っている自分と同じ高さまで身を下ろしたのだ。

「何でもないなら、少し一緒にいてもいい?」

 ティニーは小さくうなずいた。

 しばらくのあいだ、二人は黙っていた。遠くで誰かの足音がして、それもやがて聞こえなくなる。イシュタルは何かを言わせようとも、元気づけようともせず、ただ隣にいた。

 その沈黙が、ティニーにはありがたかった。

「……イシュタル様」

「なあに?」

「母さまは、悪い人だったのでしょうか」

 口にした瞬間、胸の奥が痛んだ。そんなはずはないと誰より自分が知っている。それでも、母があれほど苦しめられ、誰にも助けてもらえなかった理由を考えると、答えが見つからなくなる。

 イシュタルはすぐには答えなかった。

「どうして、そう思うの?」

「だって……悪い人でなければ、あんなことには……」

 最後まで言えなかった。母のことを悪く言いたいわけではない。ただ、あんな結末に意味があるのだと思わなければ、耐えられなかった。

 イシュタルが、そっとティニーの手を取った。

「あなたのお母様は、悪い人ではなかったわ」

「……本当ですか?」

「ええ」

「でも、誰も助けてくれませんでした」

 握られた手に、わずかに力がこもった。

 イシュタルの横顔は静かだった。けれど、その沈黙の奥にあるものを、幼いティニーはうまく言葉にできなかった。

「……そうね」

 それだけだった。

 誰が悪いのか、これからどうすればいいのか。答えを教えてくれることはなかった。代わりにイシュタルは彼女の肩を抱き寄せた。

 そのぬくもりに触れた途端、ティニーの目から涙がこぼれた。

 もう十分に泣いたはずだった。それでも涙は止まらない。イシュタルは泣きやむまで、何も言わずに付き添ってくれた。

 それから、イシュタルは何かとティニーを気にかけるようになった。食事に誘い、話し相手になり、時には魔法の稽古にも付き合った。うまく術を放てずに落ち込むと、できなかったことではなく、少しできるようになったことを見つけてくれた。

 ティニーにとって、イシュタルは憧れだった。

 雷神イシュタル。その名はフリージの外にまで知れ渡り、屈強な兵士たちでさえ彼女を前にすると背筋を伸ばす。美しく、強く、揺るがない人。自分とはまるで違う世界にいる人。

 けれど、ティニーがいちばんよく知っているイシュタルは、冷たい廊下に座り、泣いている自分の手を握ってくれた少女だった。

 その二つの姿が同じ人のものだということを、ティニーは不思議に、そして誇らしく思っていた。

     *

 城下町へ出かける時間は、ティニーにとって数少ない楽しみだった。

 市場では商人たちの声が飛び交い、焼きたてのパンの香りが通りへ漂う。荷車を引く男が道を譲り、買い物帰りの女たちが立ち話をしている。城の中では聞こえない、暮らしの音があった。

 その日もティニーは、わずかな供を連れて町を歩いていた。

 ところが、広場の近くで人だかりができていた。賑やかさとは違う、張り詰めたざわめきが耳に届く。

「だから、もう納めるものなどありません!」

 人垣の向こうで、年老いた男が兵士に訴えていた。痩せた肩を震わせ、空になった手を広げている。

「知ったことか。命令だ!」

 兵士が男を突き飛ばした。老人は足をもつれさせ、石畳に倒れ込む。周囲から息をのむ音が上がったが、誰一人として前に出ない。

 ティニーも動けなかった。

 兵士の腰には剣があった。その怒鳴り声を聞いているだけで、母がヒルダに呼び出されていた日のことを思い出す。逆らえば何が起きるのか分からない。自分に矛先が向くかもしれない。

 すると、倒れた男に幼い少女が駆け寄った。

「おじいちゃん!」

 少女が老人を庇うように膝をつく。兵士は苛立たしげに、二人を見下ろした。

 ティニーの脳裏に、寝台の上の母が浮かんだ。

 あのときも、誰も動かなかった。

 気づけば、足が一歩前へ出ていた。

「……やめてください」

 声は自分でも驚くほど小さかった。兵士には届かなかったらしい。ティニーは胸元へ手を伸ばし、形見のペンダントを握った。掌に食い込む感触を確かめて、もう一度息を吸う。

「やめてください!」

 今度は届いた。兵士が勢いよく振り返る。

「何だ、おまえは」

 視線を向けられただけで身体が震えた。逃げ出したい。何も見なかったことにして帰ってしまいたい。それでも、背後にいる老人と少女を見てしまった以上、足は動かなかった。

「その方は、もう立てません。どうか……」

「部外者は引っ込んでいろ!」

 兵士が一歩詰め寄り、ティニーは思わず後ずさる。供の者たちも息をのんだ、そのときだった。

「お、おい!」

 別の兵士が慌てて駆け寄ってきた。

「何をしている! その方は……!」

「何だ?」

「ティニー様だ! ブルーム王の姪御様だぞ! イシュタル様の従妹にあたるお方だ!」

 その名が出た途端、先ほどまで高圧的だった兵士の顔色が変わった。

「……イシュタル様の?」

 兵士は慌てて頭を下げた。もう一人もそれにならう。

「し、失礼いたしました!」

 二人は逃げるように広場を去っていった。

 ティニーはその背中を呆然と見送った。魔法を使ったわけではない。剣を手にしたわけでもない。怖くて、最後まで言いたかったことすら言えなかった。

 ただ、イシュタルの名前が出ただけだった。

「ありがとうございます……!」

 振り返ると、老人が震える手をついて頭を下げていた。傍らの少女も何度も礼を言う。

「い、いえ、そんな……!」

 ティニーは慌てて首を振った。自分は何もしていない。そう言いかけて、少女の顔を見た。

さっきまで泣いていた子が、笑っていた。

 その笑顔を目にした瞬間、胸の奥に小さな灯がともるような気がした。

 母を失ってから、自分はずっと助けられる側にいるのだと思っていた。誰かの手が差し伸べられるのを待つことしかできないのだと。

 けれど、今日は違った。

 借り物の力でも、目の前の誰かを守ることができた。

     *

 それからティニーは、町へ足を運ぶ機会を増やした。

 困っている人に声をかけ、兵士の横暴を見かければ、震える足を前に出した。最初のうちは名前を告げるだけでも勇気が必要だったが、少しずつ口に出せるようになっていく。

「私は、フリージ家のティニーです」

 そう名乗ると、多くの兵士は態度を改めた。ときには自分より年長の兵士が、露骨に顔をこわばらせて頭を下げた。

 救われた人々は、ティニーに礼を言った。

「ティニー様のおかげです」

「ありがとうございます、ティニー様」

 その言葉は嬉しかった。誰かの役に立てたという実感が、母の死以来、動かなくなっていた心を少しずつ温めてくれる。

 けれど、回数を重ねるうちに、彼女はあることに気づいた。

 助けを求めている人々を苦しめていたのは、いつもフリージの兵士だった。

 税を取り立てる兵士。食糧を奪う兵士。命令に逆らった者を打ち据える兵士。その誰もが、フリージ家の名の下に行動していた。

 そしてティニーもまた、フリージ家の人間だった。

「……どうして?」

 ある夜、誰もいない部屋で思わずつぶやいた。

 自分が名乗ると、兵士は手を止める。ならば、最初からそんなことをさせない道もあるのではないか。どうして誰も、止めようとしないのだろう。

 そこで、遠い日の廊下がよみがえった。

 伯父に母を助けてほしいと訴えた。伯父は優しく頭を撫で、任せておけと言った。けれど、母は助からなかった。

 あのときと同じなのではないか。

 苦しんでいる人がいる。命令だからと従う人がいる。何も言わず、見て見ぬふりをする人がいる。そして、助けを求めても届かない人がいる。

 ティニーはペンダントを握った。

 フリージの名で人を救っているつもりだった。けれど、その名を掲げて人々を苦しめている者もいる。自分が救った相手は、そもそも救われる必要のない目に遭っていたはずなのだ。

 喜びは、容易には解けない苦しさへと変わっていった。

 それでも、ティニーは町へ出ることをやめなかった。

 目の前で泣いている人を、もう見捨てたくなかったからだ。

     *

 やがて戦争が始まった。

 各地で反乱が起こり、帝国軍はその鎮圧に追われた。ティニーも軍に加わり、部隊を任されることになった。

 戦場は、町で兵士に声をかける場所とはまるで違った。

 剣と剣がぶつかり、魔法が空を裂き、ついさっきまで立っていた人が目の前で倒れる。助けようと手を伸ばしても、すべてには届かない。命令を出すときには、誰かを危険な場所へ送り出さなければならなかった。

 自分は何のために戦っているのだろう。

 誰を守っているのだろう。

 イシュタルのように強ければ、答えも見つかるのだろうか。そう思うたび、彼女が黙って手を握ってくれた日のことを思い出した。

 けれど、答えを見つける前に、次の戦いがやってくる。

 そんな日々のなかで、ティニーは一人の青年と出会った。

「……ティニー?」

 青年は彼女の胸元を見た。母の形見であるペンダントに目を留めた途端、信じられないものを見るような顔になる。

「きみはティニーだね!」

「えっ、あなたは?」

「アーサー、きみの兄さんだ!」

 その名を聞いて、心臓が大きく跳ねた。

 アーサー。

 母が何度も聞かせてくれた名だった。遠い昔に引き離された兄。会えなくなってからも、母が忘れたことのなかった息子。

「……兄さま?」

「ああ! そうだ!」

 青年が駆け寄ってくる。ためらいのない足取りだった。

「やっと会えた……!」

 ティニーはすぐに答えられなかった。目の前の人が本当に兄なのだと、頭が追いつかない。

 母を亡くしてから、家族と呼べる人を失ったと思っていた。イシュタルは優しかった。イシュトーもよくしてくれた。それでも、母の声や、母が話してくれた故郷のことを、自分と同じ思い出として語れる人はいないと思っていた。

 その人が今、目の前にいる。

「兄さま……」

 ようやく声が出た。けれど、次に何を伝えるべきか考えると、喉が詰まった。

「母さまは……」

 アーサーの表情が変わる。ティニーは首を横に振った。それだけで兄には通じた。

「……そうか」

 アーサーは唇を噛んだ。しばらく言葉がなく、その沈黙を埋めるように、ティニーの頬を涙が伝った。

 今度は助けを求めて泣いているのではなかった。

 会いたかった家族に、ようやく会えたのだった。

 アーサーは、ティニーに解放軍へ加わるよう勧めた。

 その言葉に、ティニーの胸は揺れた。

 真っ先に浮かんだのはイシュタルの顔だった。母を失った日から、幾度となく支えてくれた人。自分の弱さを知っていて、それでも見捨てずにいてくれた人。今の自分があるのは、あの人のおかげだ。

 けれど、城下町で出会った人々の顔も浮かぶ。泣いていた少女。石畳に倒れた老人。兵士の怒声に身をすくませていた人々。

 彼らを苦しめていたのは、自分が属するフリージの軍だった。

 どちらかを憎めたなら、もっと簡単だったのかもしれない。だが、感謝していることと、間違っていると思うことは、同時に胸の中に存在していた。

 ティニーは長い間黙っていた。

 母は最期に、幸せになってほしいと言った。

 イシュタルは、つらいときに傍にいてくれた。

 そして町の人々は、ティニーのささやかな勇気に礼を言ってくれた。

 それらを、どれもなかったことにはしたくなかった。

 やがて、彼女は顔を上げた。

「……兄さま」

「何だ?」

「はい、兄さまの言われるとおりにします」

 アーサーが目を見開く。

「いいのか?」

「はい」

 ティニーは、今度ははっきりとうなずいた。

「わたし……これからは、自分で選べるようになりたいんです」

 兄の言葉に従うのではない。兄に会えたからこそ、ようやく自分で決める勇気が持てたのだ。

アーサーは少し驚いたようだったが、やがて嬉しそうに笑った。

「そうか。よし、行こう!」

 ティニーも笑った。

 借り物の名前に守ってもらうだけではなく、自分の意思で、誰かを守るために歩きたい。

その願いに、初めて自分の言葉を与えられた気がした。

     *

「……ティニー、どうして敵に?」

 その声を聞いた瞬間、ティニーは息をのんだ。

 イシュタルだった。

 久しぶりに見る従姉は、記憶の中と同じように美しかった。だが、その眼差しに、いつか廊下で見た柔らかさはなかった。

「裏切ったのね……」

 ティニーは答えられなかった。

 覚悟していたはずだった。解放軍へ加わると決めたときから、いつかこうして向き合う日が来ることは分かっていた。それでも、実際にその声で告げられると、胸が締めつけられた。

「見損なったわ、ティニー!」

 裏切り者。

 そう呼ばれても仕方がないのかもしれない。自分を救ってくれた人と、今は敵として向き合っているのだから。

「イシュタル従姉さま……」

 ようやく声を絞り出した。けれど、その先が続かない。

 言いたいことは、いくらでもあった。

 あの日、冷たい床に座ってくれたこと。母の死を一緒に悲しんでくれたこと。稽古で励ましてくれたこと。町で人を救えたのも、イシュタルの名があったからだということ。

 そして、その町の人々が、同じフリージの軍に苦しめられていたこと。

 ありがとうと伝えたい。どうしてと尋ねたい。どちらも偽りではないのに、どこから話せばよいのか分からなかった。

 イシュタルがティニーを見つめていた。

 その瞳に宿るものが怒りなのか、悲しみなのか、ティニーには読み取れない。もしかしたら、両方なのかもしれなかった。

 やがて、イシュタルは背を向けた。

「ごめんなさい……」

 届いたかどうかも分からないほど、小さな声だった。

 ティニーはその背中を見送った。呼び止めれば、もっと言葉を交わせたのだろうか。けれど、今の自分には、引き止めてよい理由さえ見つからない。

 胸が痛んだ。それでも、自分の選んだ道を後悔してはいなかった。

 イシュタルを大切に思う気持ちも、消えてはいなかった。

 その二つを抱えたまま、歩いていくしかないのだと思った。

     *

     *

     *

 戦いは続き、解放軍はやがてフリージへと向かうことになった。

 出発を前にした陣では、兵士たちが忙しく行き交っていた。荷をまとめる者、馬の具合を確かめる者、互いの無事を祈って言葉を交わす者。ティニーはその喧騒から少し離れ、兄と肩を並べて歩いていた。

「ティニー」

 アーサーが口を開く。

「もうすぐ母さんの故郷、フリージだな」

「うん。わたし、フリージに行くのは初めてなの」

 ティニーは進む先へ目を向けた。まだ見たことのない土地なのに、母から何度も聞かされたせいか、その名だけはずっと身近に感じていた。

「母さまの故郷だから、一度は行ってみたいと思っていたわ。でも……少し怖い気もするの」

「……そうか」

「兄さまは、どう?」

 アーサーはしばらく黙った。いつもならすぐに答えが返ってくるのに、その日は足音だけが二人の間に残った。

「俺か……」

 普段の明るさが、声から消えていた。

「おまえや母さんを奪ったフリージ家を、俺はずっと恨んでいた。いつか、この手で叩きつぶしてやりたいと思っていたさ」

 ティニーは兄の横顔を見た。

 自分は母を亡くしたあと、城で生きてきた。兄はその間ずっと、母と妹を奪われた悲しみを抱え、離れた場所で自分を探していたのだ。二人が過ごした時間は違う。だから、同じ悲しみを知っていても、同じ思いを抱くとは限らない。

「……でもね、兄さま」

「ん?」

「ブルーム伯父様やイシュタル様、それにイシュトー様は、わたしや母さまによくしてくれたの」

 アーサーは口を挟まず、耳を傾けていた。

 ティニーは胸元のペンダントに指を添えた。伯父に助けを求めた日のことを、忘れたわけではない。あの約束が母を救わなかったことも、今なお心に残っている。それでも、優しい言葉をかけてもらった日々まで嘘にしたくはなかった。

「つらい思い出がたくさんあるわ。でも……優しくしてもらったことまで忘れたくないの」

 冷たい廊下で隣に座ってくれたイシュタル。町の広場で、その名によって救われた老人と少女。

そして、最後に聞いた言葉。

 ――裏切ったのね。

 ティニーは目を伏せ、胸の奥に残る痛みをそっと押し込めた。

「……そうか」

 アーサーは静かに答えた。妹の気持ちを否定しようとはしなかった。

 しばらく歩いてから、兄は言った。

「でも、母さんを死に追いやったのはヒルダだったんだな」

「うん」

 自分でも驚くほど、硬い声が出た。

「あの人だけは、わたしも許せない。できることなら……わたしの手で、と思っていたわ」

 その言葉に、アーサーが足を止めた。

「ティニー」

「はい?」

「もう、おまえには悲しい思いはさせない」

 兄はまっすぐにティニーを見た。冗談を言うときとは違う、真剣な眼差しだった。

「俺が守ってやる。いいな、ティニー!」

 ティニーは思わず目を丸くした。

 母を守れなかったことも、町の人々を守るためにフリージの名を借りていたことも、兄にはすべて話したわけではない。自分で道を選びたいと言ったばかりなのに、兄はこんなにもまっすぐ、守ると言ってくれる。

 おかしくなったわけではない。ただ、その不器用な優しさが嬉しくて、自然に笑みがこぼれた。

「……はい、兄さま」

 

 

【挿絵表示】

 

 

 母を失ったあの日、自分は何もできなかった。イシュタルに助けられた日も、泣くことしかできなかった。だからこそ、人を守れるようになりたくて、借り物の力にすがった。

 今は違う。

 自分にも守りたい人がいる。自分の意思で進みたい道がある。そのために、怖くても一歩を踏み出せる。

 それでも、誰かが自分を守ると言ってくれることが、こんなにも嬉しいとは思わなかった。

「兄さま」

「何だ?」

「……ありがとう」

 アーサーは少し照れくさそうに笑った。

「当たり前だろ。俺は、おまえの兄さんなんだからな!」

 ティニーは空を見上げた。雲の切れ間から柔らかな光が差し、遠くの道を薄く照らしていた。

 母が生まれた国。

 そして、これから自分たちが向かう国。

 そこで何が待っているのか、まだ分からない。許せない相手もいる。忘れたくない優しさもある。戦いの先で、そのどちらとも向き合わなければならないのだろう。

 ティニーは胸元のペンダントを確かめた。

 母の手の温かさを、今でも覚えている。

 イシュタルが差し出してくれた手も。そして今、隣を歩く兄の力強い声も。

 もう、一人ではなかった。

 ティニーは兄と歩幅をそろえ、前へ進んだ。

 今度は、自分の足で。




最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回はティニーを主人公に、彼女の過去と成長、そしてイシュタルやアーサーとの絆を描いてみました。原作では語られなかった部分を、少しでも楽しんでいただけたなら幸いです。

次回は11月1日(日)17:00公開予定の『遠い日のあなたへ』。
アーサーを主人公とした短編小説です。
よろしければ、こちらもお楽しみください!

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