釘崎から写真が届いたのは、放課後だった。
画面いっぱいに、背の高いパフェが写っている。果物とクリームが何層にも重なり、その横に、小さな文字で値段が添えられていた。
『東京に来たら、ここも行きましょう』
三輪は数字を見て、しばらく黙った。
おいしそうではある。
とても、おいしそうだ。
ただ、一人で全部食べるには大きい気がするし、今月は刀の手入れに使うものを買ったばかりだった。
『二人で分けても大丈夫なお店?』
返事を打つと、すぐに通知が鳴った。
『調べます』
それから、もう一通。
『三輪先輩、絶対そこ聞くと思いました』
三輪は思わず笑った。
「何を見ている」
向かいの席で、メカ丸が顔を上げた。
「釘崎さんがお店の写真を送ってくれたの。ほら」
携帯電話を向けると、彼は画面を見た。
「大きいな」
「そうなんだよね。二人で分けられるか、聞いてくれるって」
「一人で食べるものではないだろう」
「そうかな。虎杖くんなら食べられそう」
「それを基準にするな」
三輪は笑いながら、画面を自分の方へ戻した。
交流会のあと、東京校の一年生たちとは、以前よりよく連絡を取るようになった。
襲撃についての詳しい話は、先生たちを通して聞く。
だから、互いに送るのは、授業や買い物、ご飯の話が多かった。
「また、行く予定を立てているのか」
「うん。まだ日付は決まってないけど」
三輪は手帳を開いた。
交流会の日の下に書いてあった予定を、余白へ写してある。
取り消したのではなく、日にちが変わっただけ。
そう思うことにした。
「幸吉くんは、行ってみたいところってある?」
教室には、二人だけだった。
名前を呼ぶとき、三輪はまだ少し気をつける。
皆の前でどう呼ぶかは、本人ときちんと話していなかった。今のところは、以前頼んだとおり、二人のときだけだった。
メカ丸はすぐには答えなかった。
「……考えたことはある」
「どこ?」
「外だ」
三輪は顔を上げた。
彼は窓の方を見ていた。
「店でも、公園でも、どこでもいい。自分の足で行けるなら」
三輪は、携帯電話を机へ伏せた。
ついさっきまで、お店の値段を考えていた。
そのことが悪いわけではない。それでも、同じ外出という言葉で思い浮かべるものが、自分と彼では違うのだと分かった。
「そっか」
「別に、気を遣うな」
「うん」
彼は少し間を置いた。
「治ったら――」
そこまで言って、止まる。
三輪は待った。
メカ丸の指が、机の端へ触れた。
「……具合がよくなれば、そういう場所へ行くこともあるかもしれない」
三輪は、その言葉をゆっくり受け止めた。
家入との相談では、普通の身体へ作り直すことはできないと聞いた。
けれど、痛みを軽くする方法や、今の処置を見直す余地まで、なくなったわけではない。
少しでも楽になって、いつか会える。
彼は、その話をしているのかもしれなかった。
「じゃあ、そのときは案内してね」
「俺が?」
「うん。幸吉くんが行きたいところ」
「俺も、行ったことがない場所だぞ」
「じゃあ、一緒に調べよう」
三輪は手帳を軽く持ち上げた。
「私、調べるのは得意になってきたから。値段とか、乗り換えとか」
「そこまで決めるのか」
「行ってから帰れなくなったら困るでしょ」
彼は、ほんの少しだけ肩を動かした。
笑ったのかもしれないと思った。
「……そうだな」
三輪も笑った。
窓の外で、部活動の声に似た掛け声が聞こえた。
稽古場では、まだ誰かが訓練を続けている。
*
数日後、通信機材の確認が行われた。
襲撃の調査は続いていたが、任務は止まらない。使える機材を確かめ、問題のある部分は交換しなければならなかった。
三輪は歌姫の前で端末を操作し、受信側の反応を待った。
小さな音が鳴る。
「届いてるわ。次は、音声の方を」
「三輪です。聞こえますか」
『聞こえている』
メカ丸の声が返った。
彼は別室で、中継用の機材を確かめている。
「今、雑音は?」
『ない。少し移動してくれ』
三輪は廊下を進んだ。
曲がり角を一つ、二つ。
歌姫が後ろからついてくる。
「ここはどう?」
『問題ない』
「分かった。じゃあ、次は階段の下に行くね」
『了解した』
声が届くことを、一つずつ確かめる。
簡単な作業に見えるけれど、建物の中と外では違う。壁や扉の位置によって、聞こえ方も変わる。
試験が終わると、歌姫は二人を職員室へ呼んだ。
「次に、確認先の更新をします」
机の上には、連絡先をまとめた用紙があった。
「任務先からの連絡が戻らないとき、どこへ確認するか。本人の機材に連絡して、それでも応答がなければ、誰に引き継ぐか」
三輪は自分の欄を見た。
普段使う携帯電話。
任務を担当する補助監督。
校内にいるときの確認場所。
「家族にすぐ連絡が行くわけではないんですね」
「ええ。まず、こちらで状況を確かめる。必要になったら、学校から連絡するわ」
「分かりました」
メカ丸の前にも、別の用紙が置かれた。
ただし、そこには、三輪から見えないように表紙が重ねてあった。
療養場所や身体のことを、誰もが知ってよいわけではない。
三輪は自分の用紙へ目を戻した。
「メカ丸の方も、予備の連絡経路を更新するわ」
歌姫が言う。
「療養場所へ直接確認する場合の担当者と、設備の確認方法。以前の記録から変わったところは?」
「補助電源の位置が変わっています。入口から見える操作盤は同じですが、通信機材は奥の部屋へ移しました」
「図面に書き込んでもらえる?」
「はい」
彼は用紙を引き寄せた。
傀儡の指が、ペンを握る。
三輪は、その手元を見かけて、すぐに視線を外した。
身体の場所も、生活の様子も、まだ詳しくは知らない。
彼が話せることだけを聞くと、自分で決めた。
「それと、私用で接続を切る時間があるなら、事前に知らせて」
歌姫が言った。
「機材の整備や診察で応答できない時間を、異常と間違えないためよ。ただ、予定を過ぎても戻らなければ、こちらから確認します」
「分かりました」
「連絡できない事情があれば、全部説明する必要はないわ。いつまで応答できないかだけでも、分かる範囲で伝えて」
メカ丸は少し黙った。
それから、短く頷いた。
三輪は自分の用紙を揃え、歌姫へ渡した。
以前なら、こういう確認は、任務へ出るまでの準備の一つだと思っていた。
今は少し違う。
自分が返事をできなくなったとき、誰かが探してくれるための紙だ。
できれば、使われない方がいい。
けれど、書かずに済ませていいものでもなかった。
*
その日の夕方、三輪は部屋へ戻る途中で、メカ丸に呼び止められた。
「三輪」
「うん?」
「明後日、少し接続を切る」
「整備?」
「……そんなところだ」
三輪は頷いた。
「先生には話した?」
「今、伝えてきた」
「じゃあ、大丈夫だね」
彼は何も言わなかった。
三輪は刀袋を持ち直した。
「どれくらい?」
「長くはない。予定は学校に出してある」
「分かった。じゃあ、その時間は連絡しないようにする」
「急ぎなら、学校へ伝えろ」
「うん」
それで会話は終わるはずだった。
けれど、メカ丸は廊下の端へ視線を向けたまま、動かなかった。
三輪も、少し待った。
窓が開いていて、熱い風が入ってくる。
日中ほどではないが、まだ蒸し暑い。
「ねえ」
三輪が声をかけた。
「この前の、外に行く話なんだけど」
彼が顔を向ける。
「最初は、あんまり遠くないところでもいいよね」
「……ああ」
「学校の近くとか。静かなところを探しておこうか?」
「お前、また予定を立てるのか」
「立てるだけなら、ただだから」
メカ丸が黙った。
三輪は少し慌てた。
「あ、勝手に決めるって意味じゃないよ。候補だけ。嫌なら、別のところでいいし」
「嫌じゃない」
返事は、思ったより早かった。
三輪は口を閉じた。
彼は少し間を置いてから、続けた。
「……それでいい」
「そっか」
三輪は笑った。
「じゃあ、暑すぎなくなったら、歩きやすいところがいいね」
いつになるかは分からない。
だから、日付は言わなかった。
でも、行けるようになったら。
そのときの話をしてもいいと思った。
「三輪」
「何?」
「その話、覚えておけ」
三輪は不思議そうに彼を見た。
「覚えてるよ」
「そうか」
「幸吉くんも、忘れないでね」
彼は、ゆっくりと頷いた。
*
自分の部屋へ戻ってから、三輪は手帳を開いた。
次の任務の予定を確かめ、授業の提出物を書き足す。
そのあと、余白へ小さく書いた。
『近くの、静かなところ』
少し考え、日陰がある場所、と付け足す。
身体の状態を詳しく知らないまま、遠くへ連れていく予定を考えるのは違う。
まずは、本人が行ける範囲から。
必要なら、先生にも相談する。
そう決めて、手帳を閉じた。
携帯電話を開くと、釘崎から返事が届いていた。
『取り分け可でした。二人で行きましょう』
三輪は笑った。
『ありがとう。楽しみにしてるね』
送信したあと、もう一つ連絡先を開く。
メカ丸。
名前はまだ、登録したときのままだった。
三輪は少し迷い、表示名を変えようとして、やめた。
今度、本人に聞こう。
皆の前では、今までどおりの方がいいのか。
自分だけが違う呼び方をして、困ることはないのか。
聞きたいことは、まだあった。
けれど、それは急がなくてもいい。
三輪は携帯電話を机へ置き、明日の教科書を鞄へ入れた。
*
幸吉は、暗い部屋で文章を作っていた。
傀儡を通した操作ではない。
身体に無理のない位置へ固定された入力機器を、わずかに動く指で操作する。
一文字ずつ、時間をかけて打つ。
『三輪』
最初に名前を書いた。
そのあとが、続かなかった。
身体のことなら、話せた。
家入との相談も受けた。
名前も、自分から伝えた。
それで何かを始められたように思ったのは、ほんの短い間だった。
彼女が知らないことは、まだ残っている。
いや。
残っているのは、話の付け足しではない。
彼女が今、自分をどう見ているかを、根元から変えてしまう事実だった。
幸吉は文字を続けた。
『俺は、学校の情報を外へ渡していた』
画面の中に、その一文が残る。
言い換えようがなかった。
通信の空白。
結界の点検日。
敵が知るはずのない、校内のこと。
それらを、彼は伝えた。
身体を治すために。
『京都校の人間には手を出さないと約束させた』
打ち終えてから、幸吉は目を閉じた。
それが、何の弁明になる。
交流会で、三輪は実際に刀を抜いた。
真依も、加茂も、東堂も、西宮も、その場にいた。
彼女が無事に戻ったことを、自分は心から喜んだ。
同じ自分が、襲撃に使われる情報を渡していた。
幸吉は次の文を打った。
『それで、許されると思っているわけではない』
文章が長くなる。
けれど、どれだけ書いても、最初の一文は変わらなかった。
学校の情報を、敵へ渡していた。
彼は、画面の端にある送信先を見た。
三輪霞。
押せば、届く。
少なくとも、今この回線が繋がっている間なら。
届いたあと、三輪はどうするだろう。
先生へ話すだろう。
それは当然だ。
自分のことを守るために、彼女が黙っているとは思えない。彼女は友人だからといって、他の誰かを危険に置ける人間ではない。
学校が動く。
取引は止まる。
自分の身体は、このままかもしれない。
幸吉は、動かせる指へ力を込めた。
腕が欲しい。
脚が欲しい。
痛みのない皮膚が欲しい。
外へ出たい。
それを望むこと自体を、間違いだとは思えなかった。
けれど、そのために選んだ方法を、正しいとも言えなかった。
画面が少し滲む。
彼は目を開き直した。
三輪の声を思い出す。
『じゃあ、一緒に調べよう』
彼女は未来の話をした。
今の身体のままでも、楽に過ごせる方法を探しながら、いつか会えると思っている。
その未来と、自分が向かおうとしている場所は、同じところへ続いていない。
幸吉は文章を読み返した。
削除はしなかった。
送信も、しなかった。
下書きとして残し、画面を閉じた。
*
翌日、歌姫は更新された確認先の用紙を揃えていた。
メカ丸が接続を切る予定時刻と、復帰予定。
応答が戻らない場合の確認先。
療養場所の図面には、通信機材と補助電源の位置が追記されている。
「ここ、以前のものと違うわね」
隣の補助監督が、図面を見た。
「本人から更新がありました。予備の通信設備もあるそうです」
「分かった。古い方と混ざらないようにして」
歌姫は用紙へ日付を入れた。
調査中の記録も、別に机へ置いてある。
交流会で生じた数秒の空白。
まだ、その原因は確定していない。
本人への確認と、機材の調査は続けていた。
ただし、身体の事情による接続停止まで、すべて疑いの目で扱うわけにはいかない。
事前の予定を受け取り、時刻を過ぎれば確かめる。
誰に対しても、同じ手順で行う。
歌姫は、復帰予定時刻へ印をつけた。
*
その日の放課後、三輪は稽古場で刀を振った。
抜く。
踏み込む。
刃を返し、次の足を置く。
交流会で、根を断ったときの動きを確かめていた。
斬ること自体に、迷いはなかった。
けれど、敵を追うか、別の人を助けるかを選ぶ場面では、自分一人の技量だけでは済まない。
東堂が相手を見ていた。
加茂が根を止めた。
真依が道の先にいた。
その声を聞いて、三輪は走った。
次も、聞き落とさないようにする。
自分の声も、ちゃんと届ける。
三輪は刀を納めた。
腰の端末へ手を伸ばし、取り出す。
受信確認の操作をすると、少し遅れて音が鳴った。
『聞こえる』
メカ丸の声だった。
「三輪です。こっちも聞こえるよ」
『もう稽古は終わりか』
「うん。今日は、ここまで」
『刀袋の留め具、緩んでいないか』
三輪は足元の袋を見た。
「大丈夫。昨日も見たし、今日も見た」
『ならいい』
「何回も確かめてるって、前は言ってたのに」
『運ぶ前なら、構わん』
同じ返事を、前にも聞いた。
三輪は笑った。
「分かった。じゃあ、また戻ったら話そうね」
通信の向こうで、少し間があった。
『……ああ』
「近くのお店も、いくつか調べておく」
『そんなに急がなくていい』
「候補だけだよ」
『分かった』
通信が切れる。
三輪は端末を戻し、刀を袋へ入れた。
留め具を閉じる前に、もう一度だけ紐を見る。
問題はない。
肩へかけると、いつもの重さが収まった。
稽古場の戸を閉め、校舎へ戻る。
明日は任務がある。
帰りが遅くならなければ、夕方には教室へ顔を出せるだろう。
三輪は歩きながら、携帯電話の予定表を確かめた。
まだ日付のない約束が、いくつかある。
消さずに残した予定の一つを見て、彼女は画面を閉じた。