CRESCENT BAY ACADEMY   作:西野圭吾

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第1話 ようこそアメリカへ

飛行機の窓から見えたロサンゼルスは、想像していたよりもずっと茶色かった。

 

眼下には乾いた大地と、どこまでも続く建物の群れ。まっすぐに伸びた道路が巨大な碁盤の目を作り、その上を小さな車がせわしなく動いている。遠くには青い海が見えた。

 

あれが太平洋。日本から十時間近くかけて飛び越えてきた、あの海だ。

 

「……マジで来ちゃったな」

 

高山時春は、窓に額を近づけながら小さく呟いた。

 

十五歳。身長百七十センチ。将来の夢は、世界最高峰のバスケリーグ、NBA選手になること。その夢を叶えるため、今日からアメリカで暮らすことになった。

 

……なった、のだが。

 

『Ladies and gentlemen, welcome to Los Angeles International Airport. The local time is――(皆様、ロサンゼルス国際空港へようこそ。ただいまの現地時刻は――)』

 

「…………」

 

機内アナウンスが、何かを喋っている。

 

ロサンゼルス国際空港へようこそ。そこまではわかった。そこから先は、ちょっと怪しい。

 

いや、日本では英語をかなり勉強してきた。参考書も何冊も解いたし、リスニングだって毎日やった。英語の動画もたくさん見た。

 

だから、きっと何とかなる。

 

そう自分に言い聞かせながら、時春はシートベルトを外した。

 

そして数十分後、その自信は早くも揺らぎ始めることになる。

 

◇

 

「……広っ」

 

飛行機を降りて最初に出た感想が、それだった。

 

ロサンゼルス国際空港。通称、LAX。名前くらいは知っていた。世界的に有名な空港だし、旅行動画でも何度か見たことがある。だが、実物は想像していたものと少し違った。

 

とにかく、人が多い。

 

天井の高い通路を、大きなスーツケースを引いた旅行客たちが行き交っている。英語だけでなく、スペイン語らしき言葉や、聞いたこともない言語まで飛び交っていた。肌の色も、髪の色も、服装も、本当にさまざまだ。

 

背の高い男性が大きな声で電話をしているかと思えば、隣では小さな子供が母親に抱きついている。その向こうには、何やら楽しそうに笑っている若者たち。

 

映画で見たアメリカが、目の前に広がっていた。

 

いや、映画よりもずっと騒がしい。

 

「えーっと……Baggage Claim……」

 

時春は天井から吊り下がった案内板を見上げた。預けた荷物を受け取る場所。これはわかる。

 

矢印に従って歩き始めた時春は、途中にあった売店で足を止めた。喉が渇いていた。飛行機の中でも水は飲んだが、長時間の移動で口の中がカラカラだ。

 

透明な冷蔵ケースには、見慣れないラベルの飲み物がずらりと並んでいる。その中から、ごく普通のミネラルウォーターを一本手に取った。

 

値札を見る。

 

『$6.49』

 

「…………」

 

もう一度見る。

 

『$6.49』

 

六ドル、四十九セント。大体、多分千円くらい。思わず目を疑った。

 

……え? 水だよね? これ、水だよね? 特別な山から採ってきたとか、飲むと足が速くなるとか、そういう水じゃないよね?

 

時春はボトルをそっと元の位置へ戻した。

 

アメリカ、恐るべし。こんなところで無駄遣いはできない。まだ学校にも着いていないのだから。

 

結局、水は諦めて荷物の受け取り場所へ向かった。大きなターンテーブルから自分のスーツケースを見つけ、入国審査や税関も何とか通り抜ける。

 

英語でいくつか質問されたが、事前に準備しておいた学校の書類が大活躍した。正直、審査官が最後に何と言ったのかはわからなかった。ただ、笑顔で頷いてくれたので、たぶん問題はないのだろう。

 

到着ロビーへ出ると、時春は思わず足を止めた。

 

人、人、人。

 

誰かの名前を書いた紙を掲げる人。再会した家族と抱き合う人。スマートフォンを片手に忙しそうに歩く人。そんな人混みの向こうに、一枚の白いボードが見えた。

 

『CRESCENT BAY ACADEMY』

 

クレセントベイアカデミー。時春が通うことになる学校の名前だった。その下には、少し小さな文字で、

 

『TOKIHARU TAKAYAMA』

 

と書かれている。

 

「あっ!」

 

時春はスーツケースを引きながら、そのボードへ駆け寄った。

 

「エクスキューズ・ミー! アイム、トキハル・タカヤマ!」

 

ボードを持っていた男性が顔を上げた。四十代くらいだろうか。日に焼けた肌に短く刈った髪。胸元には学校のロゴが入ったポロシャツを着ている。

 

「Oh! Tokiharu! There you are! Welcome to California!(おお! 時春だな! やっと会えた! カリフォルニアへようこそ!)」

 

「サ、サンキュー!」

 

「How was your flight? You must be exhausted. Got everything? Passport, luggage, all that stuff?(フライトはどうだった? 長旅でクタクタだろ。忘れ物はないか? パスポートに荷物、一通り全部揃ってるか?)」

 

「…………」

 

速い。ちょっと待って。今、何個質問した?

 

「Uh……イエス!」

 

「Awesome. Let’s get you to campus. The car’s parked outside. You hungry? We can grab something on the way if you want.(よし、バッチリだ。じゃあ学校へ向かおう。車は外に停めてある。腹は減ってないか? よかったら途中で何か食っていこうぜ)」

 

正直マジで何言ってんのかわかんない。

 

「…………イエス!」

 

「Ha! Alright, sounds good!(ハハッ! よし、決まりだな!)」

 

男性は豪快に笑うと、時春のスーツケースを一つ持って歩き始めた。時春も慌てて後を追う。

 

……今の「イエス」は正解だったのだろうか。もしかして、何か買うか聞かれた? いや、食べ物の話だった気がする。

 

まあ、いいか。とにかく学校の人と合流できた。それだけでも大きな進歩だ。

 

空港の自動ドアを抜けた瞬間、むわっとした熱気が顔に当たった。

 

「うわ、暑っ!」

 

八月のカリフォルニア。真っ青な空から降り注ぐ日差しは強く、地面からは乾いた熱が立ち上っている。

 

けれど、日本の夏とは少し違った。湿気が少ない。汗がまとわりつくような不快感はなく、日陰に入ると意外なほど過ごしやすい。

 

時春は眩しさに目を細めながら、空を見上げた。雲一つない青空。その下を、巨大な車が次々と走り抜けていく。

 

どれもこれも、大きい。

 

日本ならちょっとした工事現場にいそうなピックアップトラックが、普通の乗用車みたいな顔で走っている。そして何より――。

 

「……ほんとに右側なんだ」

 

車が道路の右側を走っている。当たり前のことなのに、実際に目にすると妙な違和感があった。世界が左右反転したみたいだ。

 

「You ready, Tokiharu?(準備はいいか、時春?)」

 

「あっ、イエス!」

 

送迎スタッフに呼ばれ、時春は大きなワゴン車へ乗り込んだ。シートベルトを締めると、車のエンジンがかかる。窓の外では、ヤシの木が風に揺れていた。

 

こうして、高山時春のアメリカ生活が本当に始まった。

 

◇

 

ロサンゼルスの街は、どこを見ても新鮮だった。

 

空港周辺の道路を抜け、高速道路へ入る。片側だけで何車線あるのかわからないほど広い道路を、無数の車が走っていた。

 

白いセダン。巨大なSUV。荷台に何かを積んだピックアップトラック。見たこともないような長いトレーラー。日本で見慣れた軽自動車の姿は、ほとんどない。

 

時春は窓に顔を近づけ、流れていく景色を夢中で眺めた。英語で書かれた巨大な看板。平屋建ての店がずらりと並ぶショッピングエリア。カラフルな壁の建物。道路脇に植えられたヤシの木。時々現れる、映画に出てきそうなオープンカー。

 

何だこれ。めちゃくちゃアメリカだ。

 

いや、アメリカに来たんだから当たり前なんだけど。

 

「First time in the States?(アメリカは初めてか?)」

 

運転席から声が飛んできた。

 

「えっ?」

 

「Is this your first time in America?(アメリカに来るのは初めてかい?)」

 

「あ、イエス! ファースト・タイム!」

 

「Nice! You’re gonna love California.(そいつはいい! カリフォルニア、きっと気に入るぜ)」

 

「サンキュー!」

 

男性は満足そうに頷くと、ラジオの音量を少し上げた。

 

聞いたことのない洋楽が流れ始める。軽快なドラムのリズム。窓の向こうには青い空。エアコンの効いた車内には、ほんのりと芳香剤の匂いが漂っていた。

 

時春はシートに背中を預ける。

 

……何だか、すごいな。

 

数日前までは、いつもと変わらない日本の日常を過ごしていた。それが今、自分はアメリカの高速道路を走っている。

 

これから通うのは、カリフォルニアの私立高校。そこで四年間、勉強して、バスケットボールをして、暮らしていく。

 

四年間。改めて考えると、とんでもなく長い。

 

今の自分は十五歳だから、卒業する頃には十九歳になる。その頃、自分はどんな選手になっているだろう。身長は伸びているだろうか。英語はペラペラになっているだろうか。NBAという夢には、少しでも近づけているだろうか。

 

考え始めると、胸の奥がじわじわと熱くなった。

 

自分がどこまで通用するのか。正直、わからない。でも、確かめてみたかった。

 

ここで。バスケットボールの本場、アメリカで。

 

そんなことを考えているうちに、車はロサンゼルスの市街地を離れ、さらに南へ向かっていた。

 

やがて周囲の景色が変わり始める。背の高いビルが減り、低い建物と緑が増えた。遠くにはなだらかな丘が見える。坂道の向こうから、ちらりと青い海が姿を現した。

 

「わお……!」

 

時春は思わず身を乗り出す。

 

「ビューティフル……!」

 

運転席の男性が笑った。

 

「Pretty nice, huh? That’s the Pacific Ocean.(いい眺めだろ? あれが太平洋だ)」

 

パシフィックオーシャン、太平洋!知ってる。それは知ってる!

 

でも、すごい。

 

車が進むにつれて、海はどんどん大きく見えるようになった。青い水面が太陽の光を反射し、きらきらと輝いている。

 

沿道には白い壁の住宅が並び、坂の上には大きな家がいくつも建っていた。道路を歩く人たちの服装も、どことなくのんびりしている。半袖に短パン、サングラス、サーフボードを抱えた若者。

 

いかにも南カリフォルニア、といった風景だった。

 

そして、空港を出てからしばらく経った頃。

 

「Alright, Tokiharu. We’re almost there.(さあ、時春。もうすぐ到着だぞ)」

 

男性が前方を指差した。

 

時春が顔を上げる。緩やかな坂道の先に、大きな門が見えた。その奥には、白とベージュを基調とした建物がいくつも並んでいる。

 

青々とした芝生。背の高いヤシの木。手入れされた花壇。広い歩道。そして、門のそばに設置された大きな石の看板。

 

『CRESCENT BAY ACADEMY』

 

「……ここ?」

 

「Yep! Welcome to CBA!(そうさ! CBAへようこそ!)」

 

CBAって略すんだ。

 

車が門をくぐった。

 

時春は窓の外を食い入るように見つめる。キャンパスは、想像していたよりずっと広かった。

 

正面にはガラス張りの大きな建物があり、その向こうには中庭を囲むように教室棟が並んでいる。さらに奥には、図書館らしき建物。広い芝生の向こうには、巨大な照明設備を備えたアメリカンフットボール場まで見えた。

 

そして、その隣。

 

「あっ!」

 

時春の目が輝いた。

 

大きな体育館があった。建物の外壁には、力強い書体で文字が描かれている。

 

『CRESCENT BAY BREAKERS』

 

ブレイカーズ。

 

これから自分が入ることを目指す、バスケットボールチームの名前だ。

 

まだ入部できると決まったわけではない。トライアウトに合格しなきゃいけない。それでも、胸が高鳴るのを抑えられなかった。

 

あの中に、コートがある。これから何度も、何度も走ることになるかもしれないコートが。

 

車は体育館を通り過ぎ、キャンパスの奥へ進んでいく。木々に囲まれた道の先に、三階建てほどの建物が見えてきた。

 

窓が規則正しく並び、入口の前にはベンチと小さな花壇がある。どうやら、あれが学生寮らしい。

 

車がゆっくりと停車する。

 

「Here we are!(さあ、着いたぞ!)」

 

運転席の男性が振り返った。

 

「Welcome to your new home, Tokiharu.(新しい我が家へようこそ、時春)」

 

「……サンキュー!」

 

時春は満面の笑みで答えた。

 

新しい家。

 

そうか。ここが、これから四年間を過ごす場所なのか。

 

胸の中で、期待と緊張がぐるぐると混ざり合っていた。

 

◇

 

「Hey! You must be Tokiharu!(ヘイ! 君が時春だろ!)」

 

寮の入口で待っていたのは、背の高い金髪の少年だった。ラフなTシャツに短パン。日に焼けた顔には、人懐っこい笑顔が浮かんでいる。

 

「I’m Ben. Ben Foster. Nice to meet you!(俺はベン。ベン・フォスターだ。よろしくな!)」

 

ベンというらしい。流石にこの程度の英語はわかる。

 

「ナイス・トゥ・ミート・ユー!」

 

「You can just call me Ben. Everyone does.(ベンって呼んでくれ。みんなそう呼んでるからさ)」

 

「オーケー! ベン!」

 

「Perfect!(よし、バッチリだ!)」

 

ベンは親指を立てた。どうやら第一印象は悪くなさそうだ。

 

彼は自分が最上級生のシニアで、この寮の生徒リーダーをしているのだと説明してくれた。

 

……たぶん。

 

シニアと、ドーム・プリフェクトという単語は聞き取れた。ドーム? ドーム球場? いや、寮のことか。なるほど、寮長みたいなものらしい。

 

「Need a hand with those bags?(荷物、手伝おうか?)」

 

「えっ?」

 

「Your bags. Want some help?(その荷物だよ。持とうか?)」

 

「あっ! サンキュー!」

 

ベンは時春のスーツケースをひょいと持ち上げた。

 

「Come on. I’ll show you around.(さあ、行こうぜ。中を案内するよ)」

 

二人は寮の中へ入った。

 

入口を抜けると、広いラウンジがあった。大きなソファに壁掛けテレビ。隅にはテーブルゲームが置かれ、本棚には漫画や小説らしきものも並んでいる。

 

数人の生徒がソファに座り、何やら話していた。

 

「Yo, Ben!(よう、ベン!)」

 

「Hey, man!(おう、元気か!)」

 

ベンが片手を上げて応える。

 

「New roommate?(新しいルームメイトか?)」

 

「Yeah, just got here from Japan!(ああ! たった今、日本から来たんだ!)」

 

「Oh, cool!(へえ、いいじゃん!)」

 

視線が時春に集まる。

 

時春は慌てて頭を下げた。

 

「ハ、ハロー!」

 

「Hey!(よう!)」

 

「What’s up?(調子どうよ?)」

 

「…………」

 

ワッツアップ。出た。

 

英語の教材では何度か見た表現だ。確か「元気?」みたいな意味だったはず。

 

「アイム、ファイン!」

 

時春が元気よく答えると、ソファの少年たちが少し笑った。

 

……あれ? 何か変だった?

 

ベンは笑いながら、時春の背中を軽く叩いた。

 

「You’ll be fine, man. Come on.(大丈夫、すぐ慣れるさ。ほら、行こうぜ)」

 

何と言われたのかは全部わからなかったが、悪いことではなさそうだった。

 

時春は再びスーツケースを引いて歩き出す。

 

二階へ上がると、長い廊下が続いていた。左右には同じ形のドアが並び、ところどころに小さな掲示板がある。

 

ベンは廊下を進みながら、寮のルールを説明し始めた。

 

「So, a few things. Quiet hours start at ten. You gotta check in by then, unless you’ve got permission. Laundry room’s downstairs, bathrooms are down the hall, and――(じゃあ、いくつかルールを説明するぞ。夜十時からは静かにする時間だ。それまでに寮に戻って帰寮確認を済ませること。特別な許可がある場合は別だけどな。洗濯室は下の階、トイレとシャワーは廊下の奥。それから――)」

 

「…………」

 

待って。待って待って。

 

クワイエット? テン? 十時に静かにする? チェックイン? えっ、ホテルなの? いや、寮だよね?

 

「Got it?(ここまで大丈夫か?)」

 

「…………イエス!」

 

「Great!(よし、完璧だ!)」

 

やっべ。わかんないのに返事しちまった。イエスじゃないしグレートじゃない。全然わかってない。ノットグレートですよこいつぁ。

 

時春の頭の中では、理解できた単語たちがバラバラに転がっていた。テン、ランドリー、バスルーム、パーミッション。

 

とりあえず、洗濯機が下の階にあって、トイレかシャワーが廊下にあることはわかった。生きてはいける。たぶん。

 

やがてベンは、ある部屋の前で立ち止まった。

 

「Here we go. This is your room.(さあ、ここだ。ここが君の部屋だよ)」

 

ドアには二枚のネームプレートが貼られている。

 

『LARRY NARD』

 

『TOKIHARU TAKAYAMA』

 

自分の名前だ。

 

見慣れたアルファベットなのに、こうしてアメリカの寮のドアに貼られていると、妙に特別なものに見えた。

 

「Your roommate’s already here. He’s a good kid. A little……well, you’ll see.(ルームメイトはもう来てるよ。いい奴なんだ。ただ、ちょっと……まあ、会えばわかるさ)」

 

「?」

 

ベンが何やら意味深な笑い方をした。

 

そして、ドアをノックする。

 

「Larry! You in there?(ラリー! いるか?)」

 

返事はない。

 

「Larry?(ラリー?)」

 

もう一度呼ぶ。

 

やっぱり返事はなかった。

 

「……Yeah, he’s definitely in there.(……ああ、間違いなく中にいるな)」

 

ベンは苦笑しながらドアを開けた。

 

その瞬間、カチカチカチカチカチッ! 猛烈な勢いで何かを操作する音が聞こえてきた。

 

室内には二つのベッドと、二つの机。それほど広くはないが、窓からは青い空と中庭の木々が見える。

 

片方の机には、巨大なモニター。その前に、一人の少年が座っていた。

 

ぼさぼさの癖っ毛。丸いメガネ。ふっくらとした体型。大きなヘッドホンをつけ、画面に向かって何やら真剣な表情をしている。

 

「Larry!(ラリー!)」

 

ベンが少し大きな声で呼んだ。

 

「What!?(何さ!?)」

 

少年が不機嫌そうに振り返る。

 

「Your roommate’s here.(ルームメイトが来たぞ)」

 

「…………」

 

少年の視線が、時春へ向けられた。上から下まで、じろりと眺められる。

 

そして。

 

「……Oh, great.(……ああ、そりゃ最高だね)」

 

なにもグレートじゃなさそうな顔だ。

 

えっ。何? 俺、何かした? まだ一言も喋ってないんだけど。

 

「This is Tokiharu. He’s from Japan. Tokiharu, this is Larry.(こちらが時春。日本から来たんだ。時春、こいつがラリーだよ)」

 

「ハ、ハロー! アイム、トキハル・タカヤマ! ナイス・トゥ・ミート・ユー!」

 

時春は覚えてきた挨拶を精いっぱい口にした。

 

少年――ラリーは、しばらく時春の顔を見ていた。

 

「……Hi.(……どうも)」

 

それだけ言うと、またモニターへ向き直った。

 

カチカチカチカチ。

 

えーっと。これは、あれかな。人見知り? それとも、単純に嫌われた?

 

時春が困っていると、ベンが苦笑した。

 

「Don’t worry about him. He just needs some time.(気にするなよ。あいつ、慣れるまでちょっと時間がかかるんだ)」

 

ベンがスーツケースを空いているベッドの横へ置く。

 

「This one’s yours.(こっちが君のベッドだ)」

 

「サンキュー!」

 

時春は荷物を運び込んだ。背負っていたリュックを下ろすと、サイドポケットへ突っ込んでいたバスケットボールのキーホルダーが揺れた。

 

さらに、スーツケースの横へ置いた大きなスポーツバッグから、バスケットシューズが少し顔を覗かせる。

 

すると、ラリーが再び振り返った。

 

「……Wait.(……ちょっと待って)」

 

メガネの奥の目が、スポーツバッグをじっと見ている。

 

「Are those basketball shoes?(それ、バスケットシューズ?)」

 

「えっ? アー……イエス!」

 

「You play basketball?(君、バスケやるの?)」

 

「イエス! アイ、プレイ、バスケットボール!」

 

「……Of course you do.(……だろうね。そんな気はしたよ)」

 

ラリーは天井を見上げ、大げさなため息をついた。

 

「Fantastic. Just fantastic.(素晴らしい。ああ、実に素晴らしいね)」

 

……たぶん、褒められてない。ファンタスティックって言ったのに。

 

「Larry, be nice.(ラリー、もう少し愛想よくしろよ)」

 

ベンが呆れたように言う。

 

「I am being nice. I haven’t said anything mean. Yet.(十分愛想よくしてるだろ。まだ失礼なことなんて一言も言ってないよ。今のところはね)」

 

「Uh-huh. Sure.(はいはい、そうだな)」

 

二人の会話は速すぎてよくわからない。ただ一つ、はっきりしたことがある。

 

どうやらルームメイトは、バスケットボールがあまり好きではないらしい。というか、スポーツをする人間そのものが嫌いなのかもしれない。

 

ラリーは再び画面に向かい、ぼそりと何かを呟いた。

 

「Just don’t touch my stuff. And no basketballs bouncing in here.(とにかく、僕の物には触らないで。それと、この部屋でバスケットボールをドリブルするのは禁止だからね)」

 

バスケットボール。ノー。イン・ヒア。

 

……なるほど。部屋の中でドリブルするな、ということか。

 

さすがにしないよ!

 

「オーケー!」

 

時春が笑顔で返すと、ラリーはますます複雑そうな顔になった。ベンはそんな二人を見比べて、なぜか楽しそうに笑っていた。

 

◇

 

初めての寮生活は、予想以上に忙しかった。

 

まずは荷解きだ。スーツケースから服を取り出してクローゼットへしまい、教科書を置くための棚を整理する。日本から持ってきた文房具も机に並べた。

 

もちろん、バスケットボールも忘れない。日本で使っていたボールをベッドの横にそっと置くと、ラリーがちらりとこちらを見たが、何も言わなかった。

 

その後、ベンに連れられて寮の設備を見て回った。

 

共用のシャワールーム、洗濯室、自習スペース、ラウンジ、ちょっとしたキッチン。施設は思っていたよりずっと充実している。

 

特にラウンジは居心地がよさそうだった。大きなテレビの前でゲームをしている生徒もいれば、ソファに寝転んでスマートフォンをいじっている生徒もいる。

 

何となく、海外ドラマで見た学生寮みたいだ。

 

もっとも、ドラマと違って誰も日本語字幕をつけてくれない。これが結構、致命的だった。

 

「Any questions?(何か質問はあるか?)」

 

案内を終えたベンが尋ねた。

 

「アー……ノー! サンキュー!」

 

「You sure?(本当に大丈夫か?)」

 

「イエス!」

 

「Alright. If you need anything, just come find me, okay?(よし。何か困ったことがあったら、いつでも俺のところに来いよ。いいな?)」

 

「オーケー!」

 

ベンは笑顔で親指を立てると、別の新入生の対応に向かっていった。

 

親切な先輩だった。本当にありがたい。

 

ただ、説明の半分も理解できなかった。いや、流石に半分は嘘!理解できたのは三割くらいだ。

 

そんな不安を抱えたまま迎えた夕食も、なかなかの冒険だった。

 

寮生が利用するカフェテリアは、キャンパスの中央近くにあった。広い室内には長いテーブルがいくつも並び、天井からは暖かな色の照明が下がっている。

 

壁には学校のエンブレムが飾られ、奥のカウンターには料理がずらりと並んでいた。

 

肉料理、パスタ、ピザ、サラダ。そして、何なのかよくわからない茶色い料理。

 

全体的に、一つひとつが大きい。

 

さすがアメリカ。食べ物までフィジカルが強い。

 

「Hey there! What can I get you?(いらっしゃい! 何にする?)」

 

カウンターの女性が笑顔で話しかけてきた。

 

「アー……」

 

時春は料理の並んだカウンターを見る。

 

さっきから気になっている茶色い料理。肉っぽいものにソースがかかっていて、横には黄色い何かが添えられている。

 

正体はわからない。名前も知らんし味もわからん。でも、美味しそうではある。

 

「ディス、プリーズ!」

 

「The chicken? Sure! You want mashed potatoes or rice with that?(チキンね? もちろん! 付け合わせはマッシュポテトとライス、どっちにする?)」

 

「…………」

 

チキン。それはわかった。あと、ポテトとライス。どっちがいいか聞かれているのだろう。

 

時春は少し考えた。日本人としては米を選びたい。しかし、アメリカのポテトも気になる。ここはせっかくの留学初日だ。

 

「ポテト、プリーズ!」

 

「Gravy on top?(グレイビーソースはかける?)」

 

グレイビー?なにそれ?まあいいか。もらえるもんはもらっとこう。

 

「…………イエス!」

 

「You got it!(はいよ、任せて!)」

 

皿に料理が盛りつけられていく。思っていたよりも、ずっと大量に。

 

チキンの横には山盛りのマッシュポテト。その上から、とろりとした茶色いソースがかけられた。

 

……あれ? ポテトって、フライドポテトじゃないの?

 

まあ、いいか。

 

時春はトレーを受け取ると、空いているテーブルへ向かった。フォークを手に取り、まずはチキンを一口。

 

「……うまっ」

 

思わず日本語が漏れた。

 

柔らかい肉に、濃厚なソース。塩気は少し強いが、長旅で疲れた体にはちょうどいい。マッシュポテトも悪くない。むしろ、かなり美味しい。

 

問題は量だった。

 

食べても食べても、減らない。いや、正確には減っているのだが、なかなか皿の底が見えない。

 

アメリカの食事を甘く見ていた。この国では、マッシュポテトすら強敵らしい。

 

周囲からは、楽しそうな笑い声が聞こえてくる。数人の男子が大きな声で話し、別のテーブルでは女子たちがスマートフォンの画面を見せ合っていた。時折、誰かが大声で笑う。

 

何がそんなに面白いのか、時春にはわからなかった。聞き取れないからだ。

 

こういうとき、少しだけ不思議な気持ちになる。たくさんの人がいて、すぐ近くで誰かが笑っている。それなのに、自分だけが透明な壁の向こう側にいるような、そんな感じだった。

 

時春はフォークを動かしながら、窓の外へ目を向けた。オレンジ色に染まり始めた空。その向こうに、背の高いヤシの木が見える。

 

……友達、できるかな。

 

ふと、そんなことを考えた。

 

◇

 

夜、部屋へ戻った時春は、ようやく一息ついた。

 

シャワーを浴び、持ってきたTシャツに着替える。ラリーは相変わらずパソコンの前に座り、ヘッドホンをつけて真剣な顔で画面を見つめていた。

 

一体、何時間やっているのだろう。夕食のときも、いつの間にかどこかへ行っていたし。

 

時春は自分のベッドに腰を下ろし、スマートフォンを取り出した。画面には、日本から届いたメッセージが並んでいる。

 

母親から。

 

『着いたら連絡してね!』

 

父親から。

 

『無事に到着したか?』

 

その下には、出発前に送られてきた何通ものメッセージがあった。

 

時春は少し笑って、文字を打ち始めた。

 

『ちゃんと着いたよ! 大丈夫!』

 

『学校めっちゃ広い! 寮もきれい!』

 

『ご飯も美味しかった!』

 

送信すると、しばらくしてすぐに既読がついた。

 

『よかったー! お疲れさま!』

 

『今日はゆっくり休みなさい。困ったことがあったら何でも連絡してね』

 

母親からの返信だ。

 

続けて父親からも届く。

 

『まずは無事に着いて安心した。焦らず少しずつ慣れていけばいい』

 

『体調には気をつけろよ』

 

「……うん」

 

時春は小さく頷いた。

 

大丈夫。そう送ったのは嘘じゃない。

 

実際、空港から学校まで無事に来られた。寮の部屋もちゃんとある。夕食も美味しかった。親切な先輩だっていた。

 

何も問題はない。

 

……はずなのに。

 

スマートフォンを置くと、急に部屋が静かになった気がした。

 

もちろん、実際には静かではない。ラリーのキーボードを叩く音が聞こえる。廊下からは誰かの笑い声もする。遠くでドアが閉まる音もした。

 

それでも、何だか静かだった。

 

窓の外は、もう暗い。見慣れない天井。見慣れない家具。聞こえてくるのは、知らない言葉ばかり。

 

日本では、夜になれば当たり前のように家族の声が聞こえていた。何かあれば、すぐに話せた。くだらないことだって、何となく口にできた。

 

でも、ここにはいない。

 

当たり前だ。自分で決めて来たのだから。

 

時春はベッドに仰向けになり、天井を見つめた。

 

四年間。

 

その言葉が、昼間よりもずっと大きく感じられた。

 

……長いな。四年って。

 

日本の家族に会えるのは、次はいつだろう。冬休み? 夏休み? そもそも、簡単に帰れるものなのだろうか。

 

考えていると、少しだけ胸が苦しくなった。

 

寂しい。たぶん、そういうことなのだと思う。

 

けれど、今さら帰りたいとは思わなかった。ここに来たかったのは、自分だ。

 

NBA選手になりたい。子供の頃から抱いていた夢を、ただの夢で終わらせたくなかった。

 

だから海を渡った。その気持ちは、今も変わらない。

 

「……よし」

 

時春は小さく息を吐いた。

 

明日から頑張ろう。英語も、学校生活も、もちろんバスケも。

 

焦らなくていい。まずは一日ずつ。

 

そう自分に言い聞かせ、スマートフォンを枕元へ置いた。

 

そのときだった。

 

「Oh, come on! Are you kidding me!?(おい、冗談だろ! ふざけんなよ!?)」

 

「うわっ!」

 

突然、隣から大きな声が上がった。

 

ラリーだ。モニターに向かって、何やら文句を言っている。

 

「Stupid creeper! Every single time!(このクソクリーパー! 毎回毎回、いい加減にしてくれよ!)」

 

クリーパー。

 

その単語に、時春は反応した。

 

……クリーパー?

 

聞き覚えがある。というか、ものすごく聞き覚えがある。

 

時春はベッドから上半身を起こし、ラリーのモニターを覗き込んだ。

 

そこには、四角いブロックでできた世界が広がっていた。草原、木、石造りの家。そして、画面の端に見える緑色の、何とも言えない顔の生き物。

 

「あっ!」

 

思わず声が出た。

 

「マインクラフト!」

 

ラリーの手が止まった。

 

「……What?(……何?)」

 

振り返った顔には、露骨な警戒心が浮かんでいる。

 

時春は画面を指差した。

 

「マインクラフト! アイ、ノウ!」

 

「……You know Minecraft?(……君、マインクラフトを知ってるの?)」

 

「イエス! アイ、プレイ!」

 

「…………」

 

ラリーがゆっくりと時春を見た。そして、眉をひそめる。

 

「You play Minecraft?(君がマインクラフトをやるって?)」

 

「イエス!」

 

「Seriously?(本気で言ってる?)」

 

「イエス!」

 

「But……you play basketball.(でも……君、バスケやってるじゃないか)」

 

「?」

 

時春は首を傾げた。

 

バスケットボールをやっている。それはそうだ。でも、今はMinecraftの話じゃないの?

 

「アー……アイ、ライク、バスケットボール。アンド、ゲーム!」

 

時春は少し考えてから、付け加えた。

 

「アイ、ラブ、マインクラフト!」

 

ラリーはまるで信じられないものを見るような顔をした。

 

「……Huh.(……へえ)」

 

そして、再び画面へ向き直る。

 

「Well, that’s new.(……そいつは初耳だね)」

 

何やらぼそりと呟いた。

 

だが、先ほどまでの不機嫌そうな雰囲気が、ほんの少しだけ薄れた気がした。

 

時春は立ち上がり、ラリーの机へ近づく。

 

画面には、小さな石造りの建物が映っていた。その周囲には畑や柵があり、松明が等間隔に置かれている。

 

どうやらサバイバルモードらしい。

 

「ワオ……ナイス・ハウス!」

 

「……Thanks.(……どうも)」

 

ラリーは素っ気なく答えた。だが、少しだけ得意そうに見えた。

 

「It’s not finished, though. I’m building a storage room under it. The whole thing’s supposed to connect to an underground base, but creepers keep blowing up the entrance.(まあ、まだ完成してないんだけどね。今はこの下に倉庫を作ってるんだ。全部地下基地に繋がる予定なんだけど、クリーパーの連中が何度も入口を吹っ飛ばしてくれるおかげで、ちっとも進まないんだよ)」

 

「…………」

 

長い。

 

でも、ところどころわかった。

 

地下。倉庫。クリーパー。

 

つまり、地下に何か作っているけど、クリーパーに邪魔されているらしい。

 

「クリーパー……バッド!」

 

時春は真剣な顔で言った。必死に捻り出してこれ。

 

「……Yeah. Creepers are bad.(……ああ。クリーパーは最悪だね)」

 

ラリーが少し笑った。

 

初めて見た笑顔だった。ほんの一瞬だったが。

 

時春は嬉しくなって、さらに画面を覗き込んだ。

 

「ユー、プレイ、サバイバル?」

 

「Yeah. Survival. Hard difficulty.(ああ。サバイバルだよ。難易度はハード)」

 

「オー! ハード!」

 

「Obviously.(当然だろ)」

 

ラリーは胸を張った。

 

何だか、ゲームの話になると急に喋るようになった気がする。

 

時春は自分のベッドの横へ目を向けた。スーツケースの中には、日本から持ってきたノートパソコンが入っている。もちろん、Minecraftもインストール済みだ。

 

少し迷ってから、時春は勇気を出した。

 

「アー……ラリー?」

 

「What?(何?)」

 

「キャン、アイ……プレイ、ウィズ・ユー?」

 

ラリーが固まった。

 

「……You wanna play with me?(……君、僕と一緒に遊びたいの?)」

 

「イエス!」

 

「Minecraft?(マインクラフトを?)」

 

「イエス!」

 

「……With me?(……この僕と?)」

 

「イエス!」

 

何回確認するんだろう。

 

時春が不思議そうにしていると、ラリーはメガネを押し上げた。

 

「You have your own computer?(自分のパソコンは持ってる?)」

 

「イエス!」

 

「Java Edition?(Java版?)」

 

「イエス!」

 

「……Huh.(……ふうん)」

 

ラリーは少し考え込んだ。そして、椅子の背もたれに体を預ける。

 

「Well……I guess I could let you join.(まあ……別に、参加させてあげてもいいけど)」

 

「……?」

 

「I’m saying yes, dude.(だから、いいって言ってるんだよ)」

 

「オー!」

 

時春の顔がぱっと明るくなった。

 

「サンキュー!」

 

ラリーは少し呆れたように息を吐いた。

 

「Just don’t destroy anything, okay? I spent three days building this place.(ただし、何も壊さないでよ? ここを作るのに三日もかかったんだから)」

 

なにも壊すな。

 

「オーケー!」

 

「And don’t steal my diamonds.(それから、僕のダイヤモンドを盗まないこと)」

 

ダイアを盗むな。

 

「オーケー!」

 

「And for the love of God, don’t bring creepers into the house.(あと頼むから、クリーパーを家の中に連れ込むような真似だけは絶対にやめてよね)」

 

クリーパーを連れて帰ってくるな。

 

「オーケー!」

 

「……Do you actually understand what I’m saying?(……君さ、本当に僕の言ってることわかってる?)」

 

言ってることわかったか?

 

「…………」

 

時春は少し考えた。

 

ダイヤモンド。クリーパー。ハウス。

 

よし。

 

「……メイビー!」

 

ラリーは数秒間、時春を見つめた。

 

そして、

 

「Oh my god……(まったく、勘弁してよ……)」

 

片手で顔を覆った。

 

◇

 

それから十分後。

 

二台のパソコンの画面に、同じ世界が映し出されていた。

 

ラリーのサーバーへ接続した時春は、草原の上に立っていた。目の前には、先ほど見た石造りの家がある。

 

その前で、ダイヤモンド装備を身につけたプレイヤーがぴょんぴょん跳ねていた。

 

『LarryNard』

 

頭上に表示された名前を見て、時春は笑った。

 

「ハロー!」

 

時春もジャンプする。

 

ラリーのキャラクターがこちらを向いた。

 

「Alright. Follow me. I’ll show you around.(よし、僕についてきて。案内してあげるよ)」

 

多分ついてこいってことだろう。

 

「オーケー!」

 

二人はゲームの世界を歩き始めた。

 

ラリーは次々と施設を案内してくれた。畑、牧場、鉱石の保管庫、地下へ続く階段。自動でアイテムを仕分ける装置まである。

 

時春は素直に感心した。

 

「ワオ! アメイジング!」

 

「Heh. It’s pretty good, right?(へへっ。なかなかのもんだろ?)」

 

「イエス!」

 

「Took me forever to get the redstone working. You have no idea how annoying that was.(レッドストーン回路をちゃんと動かすまで、どれだけ時間がかかったと思う? あの面倒くささときたら、君には想像もつかないだろうね)」

 

「レッドストーン! オー、イエス!」

 

「……You have absolutely no idea what I just said, do you?(……君、今の話、これっぽっちも理解してないだろ?)」

 

「…………メイビー!」

 

「Seriously?(マジで?)」

 

ラリーが笑う。

 

さっきまでとは違う。今度は、はっきりと笑っていた。

 

時春もつられて笑った。

 

言葉はまだ十分に通じない。それでも、同じゲームをしているだけで、何となく楽しかった。

 

それから二人は、近くの洞窟を探索することにした。

 

時春はラリーから鉄の装備をいくつかもらい、剣を構えて後をついていく。

 

暗い洞窟。松明の灯り。遠くから聞こえるゾンビの唸り声。

 

久しぶりのMinecraftだ。しかも、アメリカで遊んでいる。

 

……なんか、すごくない?

 

日本から何千キロも離れた場所で、初めて会ったアメリカ人とMinecraft。

 

人生、何があるかわからない。

 

「Watch out! Skeleton!(危ない! スケルトンだ!)」

 

「オー!」

 

時春は慌てて盾を構えた。飛んできた矢を防ぎ、そのままスケルトンへ突っ込む。

 

剣を二回振る。

 

敵が倒れた。

 

「ナイス!」

 

「Not bad!(へえ、やるじゃないか!)」

 

ラリーが感心したように言う。

 

時春はちょっと得意になった。これでもゲームは結構やっているのだ。バスケットボールばかりしていると思われたら困る。ゲームだって立派な趣味である。

 

二人はさらに奥へ進む。

 

やがて、地下に大きな空間が現れた。底の方には溶岩が流れ、壁にはいくつもの鉱石が見える。

 

「Oh, nice! There’s iron over there.(おっ、いいね! 向こうに鉄があるぞ)」

 

ラリーが崖の向こうを指差した。

 

時春も画面を見つめる。なるほど。向こう岸に鉄鉱石がある。間には少し大きな穴。橋を作れば渡れそうだ。

 

「ラリー! アイ、ビルド、ブリッジ!」

 

「Wait, what?(待って、何だって?)」

 

「ブリッジ!」

 

「ああ、橋か」とでも言いたげに、ラリーが頷いた。

 

「Okay, sure. Just be careful.(ああ、いいよ。でも気をつけてね)」

 

時春は持っていた丸石を取り出した。崖の端にしゃがみ、一つずつブロックを置いていく。

 

一個。二個。三個。

 

順調だ。

 

さすがにこういう作業は慣れている。時春は鼻歌まじりに橋を伸ばした。

 

そのときだった。

 

「Toki! Behind you!(トキ! 後ろだ!)」

 

「……え?」

 

「BEHIND YOU!(後ろを見ろってば!)」

 

ラリーの声が大きくなった。

 

時春が振り返る。

 

そこには、緑色の、見慣れた顔。

 

「……あ」

 

シューッ。

 

「OH, NO――(ああ、嘘だろ――)」

 

ドォンッ!

 

画面が揺れた。足元のブロックが吹き飛ぶ。そして、橋の上にいた時春のキャラクターは、見事に奈落へ放り出された。

 

そのすぐ後ろにいたラリーも、一緒に。

 

赤い溶岩が、ぐんぐん近づいてくる。

 

「ああああああっ!」

 

「NO! NO! NO!(嫌だ! やめろ! 嘘だろぉぉっ!)」

 

ドボン。

 

画面に、無情な文字が表示された。

 

『You Died!』

 

時春は固まった。隣を見る。ラリーも固まっていた。

 

二人の間に、数秒間の沈黙が流れる。

 

「…………」

 

「…………」

 

ラリーがゆっくりとこちらを向いた。メガネの奥の目が、信じられないものを見るように見開かれている。

 

「……Dude.(……ねえ、君さ)」

 

「…………」

 

「I told you to be careful.(気をつけろって言ったよね)」

 

「…………ソーリー」

 

「We had iron. We had gold. I had my enchanted pickaxe.(鉄もあった。金もあった。僕のエンチャント付きツルハシだってあったんだよ)」

 

「…………ベリー、ソーリー」

 

「And then you――(それなのに君は――)」

 

ラリーはそこで言葉を切った。

 

時春は申し訳なさそうに肩を縮める。

 

やってしまった。初めて一緒にゲームをした相手の、大事な装備を全部失わせてしまった。これは怒られても仕方ない。

 

せっかく少し仲良くなれそうだったのに。

 

そう思ったとき、

 

「Pfft……(ぷっ……)」

 

変な音がした。

 

時春が顔を上げる。ラリーが口元を押さえていた。

 

「……Hah……(……ははっ……)」

 

肩が震えている。

 

「Hahahaha!(あははははっ!)」

 

次の瞬間、ラリーは吹き出した。

 

「Oh my god! We lasted, like, five minutes! Five minutes!(もう、信じられない! 僕ら、五分くらいしかもたなかったじゃないか! たったの五分だよ!)」

 

「…………」

 

「And you just――BOOM!(それで君がいきなり――ドッカーン!)」

 

ラリーが両手を広げ、爆発する真似をする。

 

「Gone! Everything’s gone!(全部パーだ! 何もかも吹っ飛んじゃったよ!)」

 

そして、また笑った。

 

時春は一瞬ぽかんとしていた。だが、ラリーの身振りを見ているうちに、自分でもおかしくなってきた。

 

確かに、ものすごく格好よく橋を作っていたつもりだったのに、背後から来たクリーパー一匹で二人まとめて全滅。しかも、さっきまでラリーは自慢の装備を見せてくれていたのだ。

 

「……ぷっ」

 

時春の口元も緩んだ。

 

「ははっ!」

 

そして、とうとう我慢できなくなった。

 

「あははははっ!」

 

「Dude! It’s not funny!(ちょっと! 笑い事じゃないんだからね!)」

 

そう言いながら、ラリーも笑っている。

 

「ソーリー! ソーリー!」

 

「Stop saying sorry!(もう謝るのやめてよ!)」

 

「あはははっ!」

 

ラリーは机を叩きながら笑った。時春もベッドの上で腹を抱えた。

 

何がそんなにおかしいのか。たぶん、説明しようとしても上手くできない。

 

ただ、二人でゲームをして、二人で失敗して、二人で笑った。

 

それだけだった。

 

でも、時春にとって、それはアメリカに来てから初めて、誰かと心から笑い合えた瞬間だった。

 

◇

 

「……Okay. One more time.(……よし。もう一回だ)」

 

ひとしきり笑ったあと、ラリーが言った。

 

時春は顔を上げた。

 

「ワン・モア?」

 

「Yeah. One more run. We need to get our stuff back. Well……what’s left of it.(そうさ。もう一度行くんだ。装備を取り戻さないとね。まあ……残ってればの話だけど)」

 

ラリーは画面を操作しながら、にやりと笑った。

 

「And this time, I’m building the bridge.(それと今度は、橋は僕が作るからね)」

 

「オーケー!」

 

時春も笑顔で頷いた。

 

どうやら、もう一回やるらしい。しかも今度は、ラリーが橋を作るそうだ。

 

それはそうだろう。自分に任せたら、また爆発するかもしれない。

 

ラリーは新しい装備を準備しながら、ふと思い出したように尋ねた。

 

「Hey, by the way. Tokiharu, right?(ねえ、そういえばさ。トキハル、だったよね?)」

 

「イエス!」

 

「That’s kinda hard to say. Got a nickname?(ちょっと呼びにくい名前だね。ニックネームとかないの?)」

 

「ニックネーム?」

 

「Yeah. Something shorter.(そう。もっと短いやつ)」

 

時春は少し考えて、答えた。

 

「トキ!」

 

「……Toki?(……トキ?)」

 

「イエス! トキ!」

 

「Toki……(トキ……)」

 

ラリーは一度、その名前を口の中で転がした。そして、小さく頷いた。

 

「Alright. Toki it is.(よし。じゃあ、トキで決まりだね)」

 

時春は嬉しくなって、笑った。

 

「サンキュー、ラリー!」

 

「Yeah, yeah. Don’t mention it.(はいはい。別にお礼なんていいよ)」

 

ラリーは照れくさそうに顔を背けた。そして、すぐにいつもの皮肉っぽい調子へ戻る。

 

「Now come on, Toki. We’ve got a disaster to fix. Your disaster, specifically.(さあ、行くよ、トキ。この大惨事を何とかしなくちゃ。念のため言っとくけど、君が起こした大惨事だからね)」

 

「……?」

 

全部は聞き取れなかった。でも、自分のせいで大変なことになったと言われている気がする。それくらいはわかった。

 

「オーケー!」

 

「Seriously, do you say anything other than okay?(まったく、君って『オーケー』以外に言える言葉はないわけ?)」

 

「…………メイビー!」

 

「Oh my god……(ああ、もう……勘弁してよ)」

 

ラリーがまた笑った。

 

時春も笑う。

 

いつの間にか、最初に感じた気まずさは消えていた。

 

窓の外では、カリフォルニアの夜が静かに更けていく。遠くの廊下からは、誰かの笑い声が聞こえた。空調の低い音。キーボードを叩く音。そして、隣に座る少年の、少し早口な英語。

 

相変わらず、わからない言葉は多い。

 

明日になれば、きっとまた困ることもあるだろう。授業が始まれば、今日なんかとは比べものにならないほど大変かもしれない。

 

それでも。

 

時春は画面に映る四角い世界を見つめながら思った。

 

アメリカでの初日。知らない土地に来て、知らない学校へ入って、知らない少年と同じ部屋になった。

 

そして今、その少年と一緒にゲームをしている。

 

まだ、友達と呼んでいいのかはわからない。

 

だけど。

 

「Hey, Toki! Come on!(おーい、トキ! 早く来なよ!)」

 

「オーケー!」

 

時春は笑いながら、キーボードへ手を伸ばした。

 

少なくとも今は、もう一人じゃない。

 

海を渡って始まった十五歳の新生活。その最初の夜にできた小さな繋がりが、これからどれほど大切なものになるのか。

 

このときの時春は、まだ知らなかった。

 

ただ一つ、確かなことがある。

 

アメリカに来て初めてできた友達は、バスケットボール選手ではなかった。

 

少し太っていて、メガネをかけていて、口が悪くて、皮肉屋で。

 

そして、Minecraftが大好きな少年だった。

 

――高山時春、十五歳。

 

アメリカ生活、一日目。

 

とりあえず、悪くないスタートである。

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