体育館から聞こえてくる音楽は、廊下の奥へ進むにつれて少しずつ遠ざかっていった。
エマに手を引かれながら、高山時春は夜の校舎を歩いていた。先ほどまで何百人もの生徒が踊っていた体育館は、曲がり角を二つ越えたところで見えなくなり、代わりに窓の外には静かなキャンパスの風景が広がり始めた。街灯に照らされた歩道には細長い木の影が落ち、遠くの植え込みからは虫の鳴く声が聞こえてくる。
少し前までの騒がしさが嘘のようだった。
時春はエマの後ろ姿を眺めながら、何となく落ち着かない気分になっていた。
淡いブルーのドレスに、緩くまとめられた茶色い髪。歩くたびに耳元のアクセサリーが小さく揺れている。
そして何より、彼女の手が自分の手を握っていた。
……いや、ちょっと待って。
手、つないでるじゃん。
廊下で差し出された手を何となく取ってしまったが、よく考えれば、女の子とこうして手をつないで歩くなんて、いつ以来だろう。小学生の頃、学校行事で隣の子と手をつないだことはあった気がする。でも、それとは少し違うような気もする。
時春はつながれた手へちらりと目を向けた。
エマは特に気にしている様子もなく、慣れた足取りで廊下を進んでいる。
……俺だけ緊張してるのか?
ついさっきまで体育館の音楽がうるさくて仕方なかったのに、今は自分の心臓の音が妙に大きく感じられる。
「トキ?」
「……えっ?」
エマが振り返った。
「どうしたの? さっきから静かだけど」
「いや、何でも!」
「ふふっ。まだ疲れてる?」
「まあ、ちょっと」
時春が苦笑すると、エマは小さく頷いた。
「もう少し歩くけど、大丈夫?」
「うん! 全然!」
「よかった」
エマは再び前を向いた。
やがて廊下の突き当たりにある扉へたどり着き、外へ出たところで二人の手が自然に離れた。
時春は少しだけ肩の力を抜いた。
……ふう。
別に何か変なことをしていたわけでもないのに、どうしてこんなに緊張するのだろう。
自分でも少しおかしかった。
校舎の外には、静かなカリフォルニアの夜が広がっていた。
◇
「ねえ、エマ」
「ん?」
「エマって、ダンスとか、ああいう場所好きなんだと思ってた」
二人はキャンパスの裏手へ続く歩道を歩いていた。体育館の方角からはまだ音楽が聞こえていたが、もう歌詞まではわからない。夜風が低い木々の葉を揺らし、街灯が足元を柔らかく照らしている。
エマは少し不思議そうに笑った。
「どうして?」
「だって、いつも楽しそうじゃん。友達も多いし、パーティーとか慣れてそうだから」
「ああ……」
エマは納得したように頷き、軽く肩をすくめた。
「まあ、嫌いじゃないよ。今日だって楽しかったし」
「だよね」
「でも、私だって静かになりたいときはあるよ。ずっと大きい音を聞いてると疲れるし、たくさんの人と話したあと、一人になりたいときもあるから」
「……ああ、それはわかる!」
時春は大きく頷いた。
「さっき、まさにそれだった!」
「うん、そんな顔してた」
「……そんな顔?」
「ちょっと困った犬みたいな顔」
「犬?」
時春は眉を寄せた。
「それ、ジェイクじゃん!」
「あっ、確かに!」
エマが声を上げて笑った。
時春もつられて笑う。
月曜日のパジャマ・デーで、ジェイクがゴールデンレトリバーの着ぐるみを着てきたことを思い出した。あれ以来、犬という言葉を聞くだけで、どうしてもジェイクの顔が浮かんでしまう。
まったく、あいつのせいである。
笑いが収まると、時春は隣を歩くエマを見た。
彼女は学校でも誰とでも楽しそうに話すし、ダニーズ・ダイナーで働いているときも、忙しそうに店内を行き来しながら笑顔を絶やさない。
だから、賑やかな場所が好きなのだと勝手に思っていた。
もちろん、それも間違いではないのだろう。けれど、どれほど社交的な人でも疲れるときはあるし、一人になりたいと思うことだってある。
考えてみれば、当たり前の話だった。
「……何か、ちょっと意外だな」
時春が呟くと、エマは首を傾げた。
「そう?」
「うん。エマって、何でも楽しそうにできるからさ」
「……そう見える?」
「見える見える! 勉強もできるし、日本語も喋れるし、バイトもしてるし。友達もいっぱいいるじゃん」
「……数学はできないけどね」
「あはは! それはそう!」
「ちょっと!」
エマが笑いながら時春の腕を軽く叩いた。
「そこは否定してよ!」
「いや、エマが言ったんじゃん!」
「もう!」
二人は顔を見合わせて笑った。
エマの笑顔は、いつもと変わらなかった。
ただ、時春が何気なく前を向いたとき、彼女は少しだけ口を閉じ、遠くの暗い空へ目を向けていた。
◇
キャンパスの端まで来ると、道は緩やかな上り坂になった。
学校の裏手には小高い丘があり、その斜面には低い木々や乾いた草が生えている。校舎から少し離れているせいか、時春はこれまでほとんど足を踏み入れたことがなかった。
舗装された歩道は坂に沿って続き、途中から街灯の設けられた細い遊歩道につながっている。
エマは迷うことなく、その道へ入っていった。
「……エマ?」
「ん?」
「どこまで行くの?」
「もうすぐだよ」
「……もうすぐ?」
「うん。私のお気に入りの場所」
エマは楽しそうに笑った。
「ちょっとした秘密の場所なの」
「……秘密!?」
時春は思わず身を乗り出した。
秘密の場所。
何とも魅力的な響きだった。
ゲームでいえば、マップの隅に隠されたエリアのようなものだろうか。普通にプレイしていたら気づかない道を進むと、急に珍しい宝箱が現れる。
……いや、現実に宝箱はないか。
それでも、少しワクワクしてきた。
「エマ、よく来るの?」
「うん。ときどきね」
「一人で?」
「そう。一人で」
エマは足元を確かめながら、ゆっくりと坂を上っていった。
「何か考えたいときとか、ちょっと疲れたときとか。ここに来ると落ち着くの」
「へえ……」
時春は感心して頷いた。
いつも大勢の友達に囲まれているエマが、一人で丘へ来て静かに過ごしている。そんな姿を想像すると、何だか少し不思議だった。
ふと、時春は気になったことを尋ねた。
「……じゃあ、今日俺が来ちゃっていいの?」
エマが振り返った。
「えっ?」
「だって、秘密の場所なんでしょ? 一人で来るところなのに」
時春は少し申し訳なさそうに笑った。
エマが大切にしている場所なら、勝手についてきてよかったのだろうか。
すると、彼女は一瞬きょとんとしたあと、柔らかく微笑んだ。
「……いいよ」
「ほんと?」
「うん。トキなら」
「…………」
時春は思わず足を止めかけた。
……えっ。
トキなら?
今、そう言った?
エマは何事もなかったように歩き始めている。
時春は慌てて後を追った。
……いやいや、落ち着け。
友達だから案内してくれた。それだけだろ。
そう自分に言い聞かせながらも、何となく嬉しかった。
やがて、道の傾斜が緩やかになった。
前方の木々が途切れ、その向こうに広い空が現れる。
「着いた!」
エマが振り返り、少し得意げに両手を広げた。
「……どう?」
時春は顔を上げた。
そして、思わず足を止めた。
◇
丘の向こうには、海が広がっていた。
夜の太平洋は、昼間の鮮やかな青とはまるで違っていた。街の明かりが届かない沖合は深い紺色に沈み、空との境界もほとんど見えない。その手前には、ラグナビーチの街並みが斜面に沿って広がり、家々の窓や道路の街灯が無数の光を浮かべていた。
白い光と橙色の光が入り交じり、遠くの車が動くたびに、細い光の筋が坂道を流れていく。海沿いの道路は夜景の中を曲がりくねり、遠くの岬には小さな灯りが点々と続いていた。
空には雲が少なく、いくつかの星が静かに瞬いている。
丘の上には低い木製の柵と、小さなベンチがあった。周囲には背の低い草が生え、風が吹くたびにさらさらと音を立てて揺れている。
体育館の音楽は、もうほとんど聞こえなかった。
時春はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
「……うわあ……」
思わず声が漏れる。
「……すげえ」
エマが隣で笑った。
「気に入った?」
「めちゃくちゃ!」
時春は目を輝かせて頷いた。
「何これ! すごいじゃん!」
「ふふっ。でしょ?」
時春は柵の近くまで歩き、改めて景色を見渡した。
遠くには海があり、その手前には街が広がっている。さらに近くには、CBAの校舎の明かりが小さく見えた。
いつも自分が歩いているキャンパスも、友達と訪れたダイナーのある街も、ここから眺めると一つの風景の中に収まっている。
……こんな場所、あったんだ。
アメリカへ来てから何度もラグナビーチの海を見てきたが、今夜の眺めは格別だった。
昼間の海には、どこまでも青く広がっていくような開放感がある。けれど、夜の海は静かで、少しだけ寂しげだった。暗い水面の向こうに何があるのかは見えないのに、なぜかいつまでも眺めていたくなる。
「……いい場所だなあ」
時春が呟くと、エマは小さく頷いた。
「うん。私も大好き」
二人はしばらく、何も言わず景色を眺めていた。
◇
エマが先にベンチへ腰を下ろした。
時春も隣へ座り、背もたれに軽く体を預ける。
夜風がジャケットの袖を揺らした。ダンスパーティーのために着てきた服は、普段のパーカーより少し薄かったが、丘の上は思ったほど寒くない。海から吹く風が火照った体を冷ましてくれて、むしろ心地よかった。
「……落ち着くね」
時春が言った。
「でしょ?」
「うん。さっきまで、耳が壊れるかと思ってた」
「そんなに?」
「めっちゃうるさかったじゃん!」
エマはくすくすと笑った。
「まあ、確かにね」
「ジェイクなんか、絶対まだ踊ってるよ」
「ふふっ。そうだろうね」
「帰ったら声枯れてるんじゃない?」
「それは毎日じゃない?」
「……確かに!」
二人は声を上げて笑った。
体育館にいた頃とは違い、笑い声が夜の空気に小さく溶けていく。誰かの歓声にかき消されることもなければ、相手に聞こえるように大声を出す必要もなかった。
時春は背もたれに体を預け、夜景を眺めた。
さっきまでのパーティーも楽しかったが、こうして静かな場所で話す時間も悪くない。
隣にはエマがいて、目の前にはきれいな夜景が広がっている。
別に何か特別なことをしているわけではない。ただ座って話しているだけなのに、妙に居心地がよかった。
「……ねえ、トキ」
しばらくして、エマが口を開いた。
「ん?」
「一つ、聞いてもいい?」
「いいよ!」
エマは少しだけ考えるように夜景へ目を向け、それから静かに尋ねた。
「……トキって、どうしてアメリカに来たの?」
「……えっ?」
時春は目を瞬かせた。
予想していなかった質問だった。
もちろん、学校では何度か聞かれたことがある。日本から来た留学生だと知ると、友達や先生たちはよく「どうしてアメリカへ?」と尋ねてくる。
そのたびに時春は、だいたい同じように答えてきた。
バスケをするため。英語を勉強するため。アメリカで高校生活を送ってみたかったから。
どれも嘘ではない。
ただ、その奥にはもう一つ、ずっと大切にしてきた理由があった。
「……えっと……」
時春は何となく頬を掻いた。
エマがこちらを向く。
「どうしたの?」
「いや、何か……」
時春は照れくさそうに笑い、視線を夜の海へ戻した。
本当の理由を話したら、エマはどう思うだろう。
日本にいた頃から、その夢を口にするたびに少し緊張した。家族やバスケに関わる人たちは知っているけれど、アメリカでできた友達には、まだちゃんと話したことがない。
バスケが好きだということなら、いくらでも話せる。上手くなりたいことも、強い相手と試合をしたいことも、何度も口にしてきた。
けれど、そのずっと先にある目標となると、話は別だった。
あまりにも大きすぎて、声に出した途端、自分で自分が恥ずかしくなってしまう。
時春は隣のエマをちらりと見た。
彼女は急かすことなく、静かに待っていた。
その表情を見ていると、何となく話してもいいような気がしてきた。
「……あのさ」
「うん」
「笑わないでね」
エマが少し驚いた顔をした。
「え? どうして?」
「いや、たぶん、すごい変なこと言うから」
「変なこと?」
「うん。ちょっと、でかすぎる夢っていうか……」
エマは時春の顔を見つめ、それから優しく笑った。
「笑わないよ」
「……ほんと?」
「うん。聞かせて」
時春は一度、夜の海へ目を向けた。
それから、小さく息を吸った。
「……俺さ、NBAの選手になりたいんだ」
◇
口にしてしまうと、思っていたよりもあっさりした言葉だった。
けれど、言った瞬間、急に恥ずかしくなった。
……うわ。言っちゃった。
時春は慌てて笑った。
「……へへ。いや、何言ってんだって感じだよね」
しかし、エマは笑わなかった。
少し驚いたように目を丸くし、時春を見つめている。
「……NBA?」
「……うん」
「……あの、NBA?」
「そう。アメリカの」
エマはもう一度瞬きをした。
時春は何となく落ち着かなくなった。
そりゃ、びっくりするよな。
十五歳の日本人が、NBA選手になりたいなんて言い出したのだから。
しかも、自分の身長は百七十センチほどしかない。バスケットボールの世界では、かなり小柄な方である。
「……あのさ」
時春は照れ隠しに笑いながら、話を続けた。
「俺、日本にいたときは、結構バスケできたんだ」
「うん。知ってるよ」
「いや、こっち来てからも、まあ、ちょっとはできるんだけど」
「ちょっとどころじゃないと思うけど」
「……へへ」
時春は頬を掻いた。
「日本の中学でさ、全国大会に出たんだよ。去年の夏」
「全国大会?」
「うん。日本中の中学校が出る大会で、俺たち……優勝したんだ」
「……えっ!?」
エマが目を見開いた。
「優勝!? 日本一ってこと?」
「うん」
「すごいじゃん!」
「いや、まあ、チームのみんなが強かったから」
時春は照れくさそうに笑った。
けれど、あの日の光景は今でも鮮明に覚えている。
夏の熱気に包まれた体育館。磨き上げられた床と、観客席から響く歓声。試合終了を告げるブザーが鳴った瞬間、チームメイトたちが一斉にコートへ駆け出してきた。
誰かに抱きつかれ、別の誰かに頭を叩かれ、気づけば全員で笑いながら泣いていた。
あの日、自分たちは日本一になった。
中学生のバスケットボールという限られた世界でのことだ。それでも、時春にとっては人生で最も嬉しかった瞬間の一つだった。
「日本ではさ、俺たちのチームが一番になれたんだ。相手が大きくても、速くても、みんなで頑張れば勝てた。だから、何か……自分も結構すごいんじゃないかって思ってた」
時春は少し笑った。
「でも、アメリカに来てびっくりした」
「どうして?」
「だって、みんなでかいじゃん!」
エマが吹き出した。
「ふふっ、確かに!」
「ノアとかマイルズとかさ! 最初見たとき、何食ったらあんなでかくなるんだよって思った!」
「あはは! それ、本人に言った?」
「言えるわけないじゃん! 絶対チビ助って返される!」
二人は声を上げて笑った。
時春は笑いながらも、やがて少し真面目な表情になった。
「でもさ、そういう人たちと、もっとバスケしたかったんだ」
時春は膝の上に置いた自分の手を見下ろした。
小さい頃から、ずっとバスケットボールが好きだった。
ボールを床についたときの反発。味方が走り込むタイミング。相手の重心がずれた瞬間に生まれる、ほんのわずかな隙間。
そういうものを見つけるのが楽しかった。
自分でシュートを決めるのも好きだが、それ以上に、自分のパスから味方が得点した瞬間が好きだった。
自分が見つけたチャンスを、仲間が得点につなげてくれる。
味方が嬉しそうに走って戻ってくると、今度はどんなパスを出そうかと考えてしまう。
そんなバスケを、もっと高いレベルでやってみたかった。
「日本で勝てたからって、世界でも勝てるわけじゃないでしょ。でも、じゃあどこまでできるんだろうって思ってさ」
エマは静かに頷いた。
「もっと上手いやつとやりたいし、もっと速いバスケをしたい。自分のプレーがどこまで通用するのか、試してみたかったんだ」
時春は夜景へ目を向けた。
「それで、中学の大会をここのヘイズコーチが見てくれてたみたいで」
「ヘイズコーチ?」
「うん。CBAのバスケのコーチ」
時春は頷いた。
「たまたま日本で俺の試合を見たらしくてさ。それがきっかけで、こっちの学校へ来られることになったんだ」
今でも、あの知らせを聞いた日のことは忘れられなかった。
アメリカの高校から、自分に関心が寄せられている。
しかも、バスケットボールをするために。
最初は何かの間違いだと思った。遠い国の、名前も知らなかった学校から、突然そんな話が届いたのだから当然だろう。
けれど、実際に資料を見せられ、CBAの体育館やバスケットボールチームの写真を眺めているうちに、どうしようもなく胸が高鳴ってきた。
ここへ行けば、もっと強い選手たちとバスケができる。
もっと上手くなれる。
そして、ほんの少しかもしれないけれど、あの夢に近づけるかもしれない。
「だから、来たんだ。アメリカに」
時春は小さく笑った。
エマは何も言わず、じっと話を聞いていた。
「でも、まだ俺、ここのチームに入れてないんだよね」
「あっ、トライアウト?」
「そう。十一月の」
十一月の初めには、CBAのバスケットボールチームのトライアウトがある。
オープンジムで何度もノアたちとプレーしているが、それだけで正式なメンバーになれるわけではない。上級生も新入生も、チームに入りたい生徒はそこで実力を見せなければならないのだ。
時春はもちろん、Varsityを目指していた。
けれど、一年生で最上級のチームへ入るのは簡単なことではない。今の自分が、ほかのガードたちよりも優れていると認めてもらわなければならない。
「だからさ、絶対に受かりたいんだ」
時春の声に、少しだけ力が入った。
「せっかくチャンスもらったんだもん。ここに来て、英語も勉強して、みんなとバスケして……でも、肝心のチームに入れなかったら、悔しいじゃん」
「……うん」
「ノアたちと、同じユニフォーム着たいし」
時春は少し照れくさそうに笑った。
「それに、そこから先にも行きたいんだ」
高校でバスケを続け、大学でも強いチームでプレーする。そして、いつかはプロの舞台へ立つ。
思い描いている道は、途方もなく長い。
途中には、自分より上手い選手が何百人も、何千人もいるだろう。大きな怪我をするかもしれないし、努力したからといって結果が出るとも限らない。
それでも、時春はその道を進んでみたかった。
「……いつか、NBAのコートでプレーしたい」
時春は夜の海を見つめながら言った。
幼い頃からテレビで見てきた、大きなアリーナ。
何万人もの観客。
世界中から集まった選手たち。
その中で自分もボールを持ち、コートを走り回りたい。
味方が走り込む姿を見つけたら、迷わずパスを出したい。
あの場所で、自分のバスケットボールをやってみたい。
ずっと胸の中にあった願いだった。
◇
しばらく沈黙が続いた。
時春は膝の上で両手を組み、何となく落ち着かない気分になっていた。
……やばい。めちゃくちゃ喋っちゃった。
アメリカに来てから、こんなに真面目に自分の夢を話したのは初めてかもしれない。
それも、よりによってエマに。
時春は恐る恐る隣を見た。
エマはまだこちらを見つめていた。
その表情には、少し驚きが残っているようだった。
「……まあ、でもさ!」
時春は照れ隠しに笑った。
「めちゃくちゃ難しいんだけどね!」
「……ん?」
「見てよ、この身長!」
時春は自分の頭の上に手をかざした。
「百七十センチ! NBAって、二メートルくらいの人もいっぱいいるじゃん!」
エマが少し笑った。
「確かに、背の高い選手が多いよね」
「でしょ? 俺なんか、あの中に入ったら子供だよ!」
「ふふっ、そんなことないと思うけど」
「いや、あるって!」
時春は笑いながら首を振った。
NBAには小柄な選手もいるが、百七十センチほどの身長で活躍する選手となれば、歴史を振り返ってもほんのわずかしかいない。
世界中のバスケットボール選手が目指す場所だ。日本の中学校で全国優勝したくらいで、簡単に届くはずもない。
「普通に考えたら、ほぼ無理じゃん?」
時春は自分で言って、少しおかしくなった。
「……へへ。まあ、夢だからさ。言うだけならタダだし」
きっとエマも笑うだろう。
そんなふうに考えていた。
しかし、彼女は笑わなかった。
「……トキ」
「ん?」
「……かっこいいね」
「…………」
時春は目を瞬かせた。
「……えっ?」
「かっこいいと思う」
エマはまっすぐこちらを見ていた。
「叶うかどうかなんて、私にはわからないよ。NBAがすごく難しい場所なのは知ってるし」
「……うん」
「でも、トキはその夢のために日本からアメリカまで来たんでしょ?」
エマは少し笑った。
「知らない国で、言葉も違う学校に通って、毎日頑張ってる。それって、すごいことだと思う」
時春は何も言えなかった。
「しかも、ちゃんと自分でわかってるんだよね。簡単じゃないってことも、まだまだ頑張らないといけないってことも」
エマは一度、夜景へ目を向けた。
「それでもやってみたいって思えるくらい、バスケが好きなんだなって」
そして、もう一度時春を見た。
「……そういうの、かっこいいなって思うよ」
時春は口を閉じた。
胸の奥が、何だか熱くなった。
褒められたことがないわけではない。
バスケでいいプレーをすれば、チームメイトたちは喜んでくれたし、コーチだって評価してくれた。ノアやマイルズも、オープンジムでは時春のパスを何度も褒めてくれた。
けれど、それとは少し違った。
今、エマが褒めてくれたのは、試合の結果でも、バスケの技術でもない。
まだ何も叶っていない、ただの夢だった。
時春自身が笑ってごまかそうとした夢を、彼女は真面目に受け止めてくれた。
「……あ、ありがと」
時春は小さく答え、視線を夜景へ戻した。
……やばいな、これ。
めちゃくちゃ嬉しい。
しかも、エマにかっこいいって言われた。
……かっこいいって!
顔が熱くなってくる。
夜でよかった。昼間だったら、絶対に赤くなっているのを見られていただろう。
「……トキ?」
「……ん?」
「顔、赤くない?」
「赤くない!」
「ふふっ、ほんと?」
「夜だから!」
「夜だから?」
「……いや、何でもない!」
エマが声を上げて笑った。
時春はますます恥ずかしくなり、慌てて話題を変えることにした。
「……あっ、そうだ!」
「ん?」
「エマは?」
「……私?」
「うん!」
時春は笑顔で尋ねた。
「エマは、将来何になりたいの?」
◇
その質問に、エマはすぐには答えなかった。
時春は最初、単に考えているのだろうと思った。
けれど、彼女の視線が少し下がったことに気づき、不思議に思った。
「……エマ?」
「……うん」
エマは小さく頷き、夜景へ目を向けた。
「……私ね、ないんだ」
「……えっ?」
「夢」
エマは少し困ったように笑った。
「何になりたいのか、まだわからないの」
時春は思わず首を傾げた。
「……そうなの?」
「うん」
エマは膝の上で手を組み直した。
「みんな、何かあるじゃん。トキはバスケだし、テオは野球。MJは映画で、イジーは音楽。ゾーイだって、新聞とか写真とか、すごく好きなことがあるし」
「……うん」
「ジェイクも、将来はイベントを企画する仕事がしたいって、この前話してた」
時春は思わず笑った。
あいつなら、確かにそういう仕事が似合いそうだ。毎日のように何か面白いことを考えているし、学校行事があれば誰よりも騒いでいる。
しかし、エマは少し寂しそうな顔をしていた。
「みんな、やりたいことがあるんだよね。自分の好きなものがあって、それに向かって頑張ってる」
エマは遠くの街の明かりを見つめた。
「でも、私にはそういうのがないんだ」
その声は、普段のエマからは少し想像できないほど静かだった。
時春は黙って聞いていた。
「……ダニーズは?」
思いつくままに尋ねてみた。
「バイト、好きなんでしょ?」
「うん。好きだよ」
エマは頷いた。
「ダニーはちょっと口うるさいけど、優しいし。常連のお客さんとも仲良くなれたし、働くのも楽しい」
「じゃあ……」
「でも、それが将来やりたいことなのかって聞かれると、違う気がするんだ」
エマは小さく首を振った。
「今は好き。でも、これを一生続けたいかって言われたら、まだわからない」
「……そっか」
「クラブ・ラッシュのときもね」
エマは膝の上へ視線を落とした。
「いろんなクラブがあったでしょ?」
「うん!」
「あの日、私もいろいろ見て回ったんだ。演劇とか、写真とか、ボランティアとか。どれも面白そうだったし、楽しそうだなって思った」
時春はあの日の中央広場を思い出した。
色とりどりのテントに、楽しそうに話す生徒たち。作った曲について熱心に説明していたイジーや、カメラの話になると止まらなくなるMJ。野球クラブのブースで目を輝かせていたテオの姿も覚えている。
ラリーでさえ、ゲームクラブでは普段より楽しそうにしていた。
「でもね、どれを見ても、これがやりたい! ってならなかったんだ」
エマは続けた。
「面白そうとは思うんだけど、それだけなの。みんなみたいに夢中になれるものが、私にはないんだよね」
そう言って、少し笑った。
「だから、結局どこにも入らなかった」
時春はふと、クラブ・ラッシュの日のことを思い出した。
広場の木陰にあるベンチで、一人で座っていたエマ。
何枚かのチラシを手に持ち、ぼんやりと人の流れを眺めていた。
あのときは、数学の小テストが心配なのだろうと思っていた。実際、その話もしていたし、エマはいつも通り笑っていたからだ。
けれど、もしかすると、あのときからこんなことを考えていたのかもしれない。
「……それにね」
エマは少しだけ声を落とした。
「みんな、私のこと、何でもできるみたいに言うんだよね」
「……えっ?」
「勉強できるね、とか。誰とでも仲良くできるね、とか。日本語も英語も話せてすごいね、とか」
エマは笑った。
「何でもできるんだから、将来もきっと大丈夫だよって」
時春は何も言わなかった。
自分も、ついさっき似たようなことを言ったばかりだった。
「もちろん、褒めてもらえるのは嬉しいよ。私のことをそんなふうに思ってくれるんだって」
エマは少しだけベンチに深く座り直した。
「でも、何でもできるって言われると、たまに困っちゃうんだ」
「……どうして?」
「だって、私自身はそんなふうに思ってないから」
エマは膝の上で指を組んだ。
「授業があれば勉強するし、バイトがあれば働くし、友達に誘われたら一緒に遊ぶ。それは好きだし、楽しいんだけど……」
少し考えてから、続けた。
「自分から、これがやりたいって思えるものが、まだ見つからないんだよね」
時春は隣のエマを見つめた。
いつも明るく、誰とでも楽しそうに話している彼女が、そんなことを考えていたとは知らなかった。
「将来、何になりたいの? って聞かれるとさ」
エマは少し困ったように笑った。
「何か答えなきゃいけない気がするの。でも、何を言っても、これじゃないなって思っちゃう」
「……うん」
「みんなには、あんまりこういう話してないんだ。何だか、自分だけ何も考えてないみたいで恥ずかしいから」
エマはそこで言葉を切った。
夜風が吹き、緩くまとめた茶色い髪が揺れた。
「……トキには、すごい夢があるんだね」
彼女は微笑んだ。
「ちょっと羨ましいな」
◇
時春はしばらく黙っていた。
何を言えばいいのか、すぐには思いつかなかった。
正直、少し驚いていた。
エマがこんなふうに悩んでいるなんて、考えたこともなかったからだ。
彼女はいつも明るく、困っている人を見かければ自然に声をかける。時春が学校で迷子になったときも、英語の授業についていけなかったときも、何度も助けてくれた。
数学は苦手らしいが、それ以外のことは大抵上手くやっているように見える。
そのエマが、自分には何もないと言っている。
時春は夜景を眺めながら考えた。
自分には、たまたまバスケットボールがあった。
小さい頃から夢中になれるものがあって、ずっと続けてきた。その先にNBAという大きな夢を見つけ、アメリカへ来るチャンスまで手に入れた。
けれど、もしバスケと出会っていなかったらどうなっていただろう。
何が好きで、将来何になりたいのか。
そんなことを聞かれても、何も答えられなかったかもしれない。
それに、自分だってバスケ以外の将来については、ほとんど考えたことがない。
……そう考えたら、俺も同じか。
エマが小さく息を吐いた。
「……ごめんね。変な話しちゃって」
「……え?」
「せっかく楽しいホームカミングなのに、何か暗い話になっちゃった」
エマは慌てたように笑顔を作った。
「ほんとは、こんなこと話すつもりじゃなかったんだけど」
「……エマ」
「トキの夢、すごくかっこいいなって思ったら、何だか自分のことも考えちゃって」
そこまで言うと、彼女は少し照れくさそうに視線を落とした。
時春はその横顔を見つめた。
何か励ましてあげたいと思った。
将来の夢なんて、そのうち見つかるよ。
そんなことないよ、エマはすごいよ。
思いつく言葉はいくつかあったが、どれもしっくりこなかった。
夢が見つからないことを悩んでいるエマに、適当なことを言っても仕方がない。
そもそも、時春自身にだって、エマが将来何をしたいと思うようになるのかはわからないのだ。
だったら、無理に答えを出さなくてもいいのではないだろうか。
時春は少し考えてから、口を開いた。
「……ねえ、エマ」
「……ん?」
「俺さ、エマが将来何になりたいのか、今日まで知らなかったじゃん」
「……うん」
「でも、別に気にしたことなかったんだよね」
エマが少し不思議そうな顔をした。
「……どういうこと?」
「いや、だから……」
時春は頬を掻いた。
日本語なら、もう少し上手く説明できるかもしれない。
けれど、今は英語で伝えたかった。
自分の言葉で、エマに話したかった。
「……俺、エマと友達になったとき、将来何になりたいとか、全然知らなかったでしょ?」
「……うん」
「でも、エマのこと、すごくいい人だなって思ったんだ」
エマは黙っていた。
「今もそう思ってるし。将来の夢があるとかないとか、そんなの関係なく」
時春は少し笑った。
「だからさ……エマは、エマじゃん」
エマは、しばらく時春の顔を見つめていた。
「……え?」
「……だから、その……」
時春は少し困ったように笑った。
どうにも説明が難しい。
言いたいことは頭の中にあるのに、上手くまとまらない。
それでも、途中で諦めたくはなかった。
「俺、アメリカに来た最初の日、めちゃくちゃ困ってたんだよ」
「……最初の日?」
「うん。覚えてる? 英語の教室、見つけられなくてさ」
「あっ、H204?」
「そう!」
時春は嬉しそうに頷いた。
「あの日、俺、完全に迷子だったんだよ。教室がどこにあるのかもわかんないし、誰に聞けばいいのかもわかんないし」
思い出すと、今でも少し笑えてくる。
広い校舎の廊下を、時間割を握りしめて歩き回っていた。すれ違う生徒たちは当たり前のように英語で話していて、自分だけがどこへ行けばいいのかわからずにいた。
あのときは本当に心細かった。
「で、エマが声かけてくれたじゃん」
「……うん」
「教室、こっちだよって」
時春は微笑んだ。
「……あれ、めちゃくちゃ嬉しかったんだ」
エマは静かに聞いていた。
「それまで知らない人ばっかりでさ。日本から来たばっかりだったし、英語も今よりずっと下手だったし。正直、ちょっと不安だったんだよね」
時春は夜景へ目を向けた。
「でも、エマが話しかけてくれた」
あの日の廊下の風景を、今でも覚えている。
行き交う生徒たちの間から、一人の女の子が笑顔で声をかけてくれた。
最初は何を言われているのかよくわからなかったが、彼女が日本語を話せると知った瞬間、どれほど安心したことだろう。
そのあと、教室まで案内してもらい、ジェイクやゾーイとも知り合った。
「ジェイクなんか、最初からめちゃくちゃうるさかったけどね」
時春が言うと、エマが小さく吹き出した。
「ふふっ、そうだったね」
「あいつ、いきなり肩組んできたんだよ。俺、何が何だかわかんなかった!」
「あはは! ジェイクらしい!」
「でも、そのおかげで友達できたし。アメフトも一緒に見に行ったし、ダニーズにも行ったし」
時春は楽しそうに笑った。
「それに、英語もずっと教えてくれてるじゃん」
「……うん」
「俺が変な英語使っても、ちゃんと聞いてくれるし。エッセイも手伝ってくれたし」
「ああ、あのエッセイ」
エマは少しだけ笑った。
「最初、一文しか書いてなかったやつ?」
「ちょ、それは言わないで!」
「ふふっ、ごめん!」
時春も苦笑した。
あの図書館での勉強会も、今では楽しい思い出になっている。
思い返してみれば、エマと出会ってから、本当にいろいろなことがあった。
もちろん、今の友達がみんな彼女のおかげでできたというわけではない。ラリーとも、ノアたちとも、自分で少しずつ仲良くなってきた。
それでも、最初に不安を和らげてくれたのはエマだった。
「……俺さ、こっち来てから、毎日すっごく楽しいんだ」
時春は続けた。
「学校行けばジェイクがうるさいし、ゾーイには変な写真撮られるし。寮に帰ればラリーとゲームできるし、体育館に行けばノアたちがいる」
思い出すだけで、自然と笑みがこぼれた。
「英語はまだ難しいし、失敗することもあるけどさ。でも、今はちゃんと友達がいるんだ」
エマは小さく頷いた。
「うん。たくさんできたよね」
「そう! で、俺が学校で最初に友達になったの、エマたちだったじゃん」
時春は彼女の方を向いた。
「あの日、エマが声かけてくれなかったら、俺、もっと長いこと迷子になってたと思う」
「ふふっ、そんなことないでしょ」
「いや、絶対そうだって!」
時春は笑いながら首を振った。
「英語の教室にも遅刻してたかもしれないし、ジェイクたちと仲良くなるのも、もっと後だったかもしれない」
エマは何か言いかけたが、時春はそのまま続けた。
「だからさ、俺にとってエマって、すごく大事な友達なんだよ」
言ってから、少しだけ恥ずかしくなった。
……あっ、ちょっと待て。
何か、すごいこと言ってない?
いや、大事な友達って意味だから。
そういう意味だから、大丈夫。
時春は心の中で言い訳をしながら、もう一度エマを見た。
「……エマは、俺が困ってたら助けてくれるし、一緒にいると楽しいし。今日だって、こんなにきれいな場所に連れてきてくれたじゃん」
丘の向こうに広がる夜景を指差した。
「俺、ここがこんなにきれいだって知らなかったよ」
エマもつられるように海へ目を向けた。
「だから、将来何になるのか決まってなくても、俺にとってエマが大事な友達なのは変わらないんだよね」
時春は少し考えた。
「……というか、エマが何かになりたいって言い出したら、もちろん応援するけどさ」
「……うん」
「でも、まだわかんないなら、それでもいいんじゃない?」
エマは顔を上げた。
時春は少しだけ笑った。
「だって、まだ十五歳じゃん」
彼女は何も言わなかった。
「俺だって、たまたまバスケがあっただけだし。もしバスケしてなかったら、何になりたいのか全然わかんなかったと思う」
時春は自分でもおかしくなって、少し笑った。
「ゲームばっかりしてたかもしれないし」
「……それ、今もじゃない?」
「……まあ、そうだけど!」
エマが吹き出した。
時春も笑ったが、すぐに言葉を続けた。
「だからさ、焦って何か決めなくてもいいと思うんだよね。いつか好きなことが見つかったら、それをやればいいし」
エマは静かに聞いていた。
「それまで、別に今のエマのままでいいじゃん」
時春は彼女の顔を見て、少し照れくさそうに笑った。
「……エマは、エマだよ」
◇
夜風が吹き、丘の草がさらさらと音を立てて揺れた。
エマは何も言わなかった。
ただ、時春を見つめていた。
その表情を見て、時春は少し不安になった。
……あれ、変なこと言ったかな。
自分でも上手く説明できた自信はない。
英語だって途中で何度か言い直したし、文法が合っていたのかも怪しい。
それでも、言いたいことは何とか伝えられたと思う。
「……えっと」
時春が何か付け加えようとしたとき、エマが小さく笑った。
「……ふふっ」
「……エマ?」
彼女は少し俯き、それからもう一度笑った。
「……何それ、トキ」
「……えっ?」
「何か、すごいこと言うね」
時春は首を傾げた。
「……そう?」
「うん」
エマは少し照れくさそうに笑った。
「私、将来の夢がないって言ったのに、トキは全然気にしないんだね」
「……うん?」
「普通、何か見つけなよって言われるのかなって思ってた」
時春は少し考えた。
「……まあ、見つかったら楽しいと思うけど」
「うん」
「でも、別に今すぐじゃなくてもいいじゃん」
そう答えると、エマはしばらく黙っていた。
それから、小さく息を吐いた。
「……そっか」
彼女は夜景へ視線を戻した。
「私、ちょっと焦ってたのかもしれない」
「……焦ってた?」
「うん。みんな何かやりたいことがあるのに、私だけないから」
エマは膝の上の手を見つめた。
「何でもできるって言われるたびに、じゃあ何をしたいのって聞かれたら答えられないなって、ずっと思ってたんだ」
少し考えてから、彼女は続けた。
「でも、まだ決まってなくてもいいのかな」
時春は頷いた。
「いいと思うよ!」
「……ふふっ」
エマは笑った。
「トキって、こういうとき妙に自信満々だよね」
「……えっ?」
「さっきまでNBAなんて無理かもって言ってたのに」
「それとこれとは別じゃん!」
「そうなの?」
「そう!」
時春が真面目な顔で頷くと、エマはとうとう声を上げて笑った。
その笑顔を見て、時春もつられて笑った。
しばらくすると、エマは少しだけ真面目な表情になった。
「……ありがとう、トキ」
「ん?」
「話してよかった」
エマはゆっくりと頷いた。
「まだ何になりたいのかわからないし、きっとまた悩むと思うけど……ちょっと気が楽になった」
「……そっか」
時春は嬉しくなった。
自分が何か立派なことを言えたとは思わない。
ただ、エマの話を聞いて、思ったことをそのまま伝えただけだった。
けれど、それで彼女が少し楽になったのなら、話してよかったと思う。
「……それにね」
エマが続けた。
「トキがさっき言ってくれたこと、嬉しかった」
「……何?」
「大事な友達だって」
「…………」
時春は固まった。
……あっ。
そこ、ちゃんと覚えてたんだ。
エマは柔らかく微笑んだ。
「私も、トキのこと大事な友達だと思ってるよ」
「……お、おう!」
時春は慌てて頷いた。
自分でも少し変な返事だと思ったが、エマは気にしていないようだった。
「今日、ここに来てくれてよかった」
彼女は夜景を眺めながら言った。
「普段は一人で来ることが多いんだけど、今日はトキと来られてよかったなって」
時春は少しだけ黙った。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
「……俺も」
エマがこちらを向いた。
「ん?」
「俺も、エマと来られてよかった」
言ってから、また恥ずかしくなった。
……何だよ、今日。
さっきから、普段なら言わないようなことばっかり言ってるじゃん。
けれど、今さら取り消すつもりもなかった。
エマは嬉しそうに微笑んでいた。
時春も小さく笑い、夜景へ視線を戻した。
◇
それからしばらく、二人はベンチに並んで座っていた。
会話は途切れたり、また始まったりした。
時春は日本にいた頃のバスケットボールの話をした。全国大会のことやチームメイトのこと、試合前にみんなで緊張していたこと。優勝したあと、嬉しすぎて自分が何を叫んだのか覚えていないことまで話すと、エマは声を上げて笑った。
「じゃあ、トキって日本にいた頃からそんなにバスケしてたんだ」
「うん。ほとんど毎日」
「すごいね」
「ゲームもしてたけどね!」
「ふふっ。それは知ってる」
「ラリーのせいで最近もっと増えた!」
「ラリーが聞いたら怒りそう」
「絶対怒る!」
二人は笑い合った。
エマも少しずつ、自分のことを話してくれた。
小さい頃からCBAの近くで暮らしてきたこと。ジェイクやゾーイとは昔から仲がよく、子供の頃には三人でよく遊んでいたこと。
ダニーズ・ダイナーでアルバイトを始めたときには、注文を間違えないか緊張していたらしい。最初の頃はトレーを持つ手が震えてしまい、飲み物をこぼしかけたこともあったという。
「えっ、エマでもそんなことあるの?」
時春が驚くと、彼女は笑いながら答えた。
「当たり前でしょ! 私だって最初から何でもできたわけじゃないよ」
「……そっか!」
「ほんと、トキって私のこと何だと思ってるの?」
「……スーパー・エマ?」
「またそれ!」
エマは笑いながら時春の肩を軽く叩いた。
時春も笑った。
こんなふうにエマの話を聞くのは、初めてかもしれない。
普段の教室では、どうしてもジェイクやゾーイを交えた賑やかな会話になる。二人で勉強したときも、数学や英語の宿題のことで精一杯だった。
けれど今夜は、お互いのことをゆっくり話している。
エマが小さい頃どんな子供だったのか。何が苦手で、どんなことに悩んでいるのか。
知っているつもりで、まだ知らないことがたくさんあった。
時春はそれが何だか面白かった。
やがて会話が途切れると、二人はしばらく夜景を眺めていた。
遠くの道路では、車の明かりがゆっくりと移動している。
時春は空を見上げた。
いくつかの星が瞬いていた。
日本で見ていた空と同じようで、少し違って見える。星の位置が違うのか、周囲の景色が違うからなのか、自分にはよくわからない。
そんなことを考えていると、隣でエマが小さく声を上げた。
「あっ、ねえ、トキ」
「ん?」
「ちょっと思いついたんだけど」
「……何?」
エマは少しいたずらっぽく笑った。
「……私、トキの通訳になろうかな」
「…………」
時春は目を瞬かせた。
「……通訳?」
「うん!」
エマは楽しそうに頷いた。
「トキがNBA選手になったら、英語のインタビューとかいっぱい受けるでしょ?」
「……ああ」
「そのとき、私が隣で通訳するの!」
「……えっ!?」
時春は思わず声を上げた。
「何それ!」
「いいアイデアじゃない?」
エマは笑った。
「日本語も英語も話せるし、トキの言いたいこともわかるし!」
「いや、でも!」
時春は慌てて首を振った。
「その頃には、俺だって英語ペラペラになってると思うけど!」
「えー? 本当に?」
「本当だって!」
「じゃあ、今、相似の問題を英語で説明してみて」
「……えっ?」
時春は固まった。
相似。
対応する辺の比。
角度の関係。
日本語なら、簡単に説明できる。
しかし、今すぐ英語で、しかも文法を間違えずに説明しろと言われると、なかなか難しい。
「……あー……」
時春は少し考えた。
エマは楽しそうにこちらを見ている。
「……えっと、トライアングル……」
「うん?」
「セイム……レシオ……アンド……」
そこまで言って、時春は諦めた。
「……やっぱ通訳、お願いしていい?」
エマが吹き出した。
「あはは! ほら!」
「……くっそ!」
二人は声を上げて笑った。
笑いが収まると、エマは少しだけ真面目な顔になった。
「……でもさ」
「ん?」
「そういうの、楽しそうだよね」
「通訳?」
「うん。トキが本当にNBA選手になったら、私も試合を観に行きたいな」
時春は笑った。
「来てよ! 絶対!」
「ふふっ。じゃあ、一番いい席を用意してもらおうかな」
「えっ、俺が?」
「もちろん! NBA選手なんでしょ?」
「……そっか!」
時春は嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、コートサイド!」
「ほんとに?」
「うん! でも、めっちゃ高いらしいよ!」
「そこはトキが何とかしてよ!」
エマが笑った。
時春も笑いながら、頭の中で想像してみた。
NBAの大きなアリーナ。
何万人もの観客に囲まれたコートで、自分がバスケットボールをしている。
観客席にはエマがいて、試合が終わったあとには、英語のインタビューを手伝ってくれる。
……何だそれ。
めちゃくちゃ面白そうじゃん。
時春は思わず笑った。
「……じゃあさ」
「ん?」
「俺がNBA行けたら、最初のインタビューお願いね」
エマが目を丸くした。
それから、嬉しそうに笑った。
「……うん!」
少しだけ身を乗り出す。
「約束!」
「約束!」
時春は笑顔で頷いた。
そして、ふと思い出した。
約束。
そういえば、前にもエマと約束を交わしたことがある。
数学を教える代わりに、英語を教えてもらう。
入学して間もない頃、小指を絡めて交わした約束だった。
あのときは、これからどんな学校生活になるのかもわからなかった。それが今では、こうして夜の丘に並んで座り、将来の夢について話している。
しかも、今度の約束はNBA選手と通訳である。
……でかすぎるだろ。
時春は自分でもおかしくなった。
「……エマ」
「ん?」
「小指」
時春は笑いながら、小指を立ててみせた。
エマは一瞬きょとんとしたが、すぐに思い出したように笑った。
「あっ! また?」
「また!」
エマはくすくす笑いながら、小指を差し出した。
二人の小指が、そっと絡まる。
「……約束ね」
「うん!」
時春は頷いた。
海からの風が吹き、遠くの街の明かりが夜の中で静かに瞬いている。
エマは絡めた小指を少しだけ揺らしてから、笑顔で手を離した。
「でも、トキ」
「ん?」
「私、ほかにやりたいこと見つけるかもしれないからね?」
「もちろん!」
時春は即座に頷いた。
「そしたら、それも応援する!」
エマは少し驚いたように目を丸くし、それから嬉しそうに笑った。
「……ありがとう」
時春も笑った。
まだ何になるのかわからない彼女が、いつか何か夢中になれるものを見つける。
それがどんなものなのかは、時春にも想像できない。
けれど、エマが楽しそうにその話をしてくれる日が来たら、きっと自分も嬉しいだろう。
◇
気がつけば、随分と時間が経っていた。
時春がスマートフォンを確認すると、時計は午後八時半を少し回っていた。
「……あっ!」
エマがこちらを向く。
「どうしたの?」
「もう八時半だ!」
「えっ?」
エマもスマートフォンを取り出し、画面を確認した。
「ほんとだ。結構長くいたね」
「うん!」
時春は頷いた。
体育館を出たのは、たしか七時半を過ぎた頃だった。
静かな場所で少し休むだけのつもりだったのに、気づけば一時間近く経っている。
……すげえ。めちゃくちゃ喋ったな。
しかも、英語で。
時春は少し驚いた。
アメリカへ来たばかりの頃なら、こんなに長く英語で会話することなど考えられなかった。単語がわからず何度も止まり、言いたいことを伝えられなくて困っていたはずだ。
もちろん、今夜だって何度も言葉に詰まった。
特に自分の夢について話すときは、何をどう説明すればいいのかわからなくなった。
それでも、話すことができた。
完璧な文章ではなかったし、途中で日本語を混ぜたこともあった。エマに意味を確かめてもらいながら、何度も言い直した。
けれど、最後にはちゃんと伝わった。
時春はそれが嬉しかった。
「……エマ」
「ん?」
「今日、ここ来てよかった」
エマが微笑んだ。
「……うん」
「景色もめちゃくちゃきれいだったし……」
時春は少し考えた。
「……いろいろ話せたし」
エマは一瞬、目を丸くした。
それから、柔らかく微笑んだ。
「……私も」
二人は少しのあいだ顔を見合わせていた。
時春は何となく、視線を逸らした。
さっきから、エマと話しているだけなのに妙に落ち着かなくなる。
けれど、その時間が嫌なわけではなかった。
むしろ、もう少しここにいたいような気がした。
「……戻ろっか?」
エマが尋ねた。
「……うん!」
時春は頷き、ベンチから立ち上がった。
夜風がジャケットの裾を揺らす。
時春はもう一度、丘の向こうに広がる景色を眺めた。
暗い海と、無数の街の灯り。その向こうには、遠くの岬が夜の中にぼんやりと浮かんでいる。
ここへ来たときと、景色は何も変わっていないはずだった。
それでも、今はさっきよりも少し親しみを感じた。
……また来たいな。
時春はそう思った。
できれば、またエマと一緒に。
◇
二人はゆっくりと坂道を下り始めた。
来たときと同じ遊歩道を、今度は並んで歩いていく。
エマはときどき足元を確かめながら、丘の周辺について教えてくれた。時春もそれに頷き、道端に生えている見慣れない植物を指差して質問したり、木の影を見て妙な冗談を言ったりした。
しばらく歩くと、遠くからまた音楽が聞こえ始めた。
ホームカミング・ダンスは、まだ続いているらしい。
時春は思わず笑った。
……ジェイク、絶対まだ踊ってるだろ。
あれほど体育館の音楽がうるさく感じられたのに、今はもう一度中へ戻ってもいいような気がする。
もちろん、また十分くらいで疲れてしまうかもしれない。
それでも、もう少し友達と一緒に楽しみたかった。
「……ねえ、トキ」
隣でエマが声をかけてきた。
「ん?」
「一つ、お願いしてもいい?」
「……何?」
エマは少しだけ歩く速度を落とした。
「……今日の話、しばらく二人だけの秘密にしてくれる?」
「……えっ?」
「私が将来のことで悩んでることとか、そういうの」
時春は彼女の顔を見た。
エマは少し照れくさそうに笑っていた。
「別に、みんなに知られたら困るってわけじゃないんだけど……まだ、あんまり話したくなくて」
時春はすぐに頷いた。
「もちろん!」
エマはほっとしたように微笑んだ。
「ありがとう」
「じゃあ、俺のNBAの話も秘密ね!」
「……えっ?」
「だって、こっちの友達にはまだちゃんと言ってないんだもん!」
時春は照れくさそうに笑った。
「ジェイクに知られたら、絶対うるさいじゃん!」
エマは一瞬きょとんとしたあと、声を上げて笑った。
「あはは! 確かに!」
「絶対『BRO! NBA!?』とか叫ぶでしょ!」
「言いそう!」
「で、次の日には学校中に広まってるんだよ!」
「ふふっ、想像できる!」
二人は笑い合った。
しばらくして、エマは小さく頷いた。
「……わかった。トキの夢も、秘密にするね」
「うん!」
時春は笑顔で頷いた。
自分の夢と、エマの悩み。
どちらも、普段の友達との会話ではあまり話さないようなことだった。
それを今夜、二人で話した。
時春は隣を歩くエマをちらりと見た。
今までのエマは、いつも明るくて、優しくて、学校のことなら何でも知っている女の子だった。
もちろん、今でもそう思っている。
けれど、将来について悩んでいたり、ときには一人になりたくなったりすることを、今日初めて知った。
そういう一面を知っても、彼女に対する印象が悪くなったわけではない。
むしろ、前より少し親しくなれたような気がした。
……やっぱり、エマはエマだな。
時春は小さく笑った。
◇
体育館が見えてきた頃、エマは少しだけ歩く速度を落とした。
「……トキ」
「ん?」
「NBA、絶対行ってね」
時春は驚いて彼女を見た。
エマは笑っていた。
いつもの明るい笑顔だったが、その目は真剣だった。
「私、応援してるから」
時春は少し黙ったあと、ゆっくりと頷いた。
「……うん!」
NBAという夢は、相変わらず遠い。
そこへ到達できるかどうかなんて、誰にもわからない。十一月のトライアウトに受かるかどうかさえ、まだ決まっていないのだ。
けれど、今夜その夢をエマに話せてよかったと思う。
大きすぎる夢を笑われなかったことも、かっこいいと言ってもらえたことも、嬉しかった。
それに、もしこれからバスケで上手くいかないことがあったら、今夜の会話を思い出すかもしれない。
エマが応援すると言ってくれたことを。
「……じゃあ、エマ」
「ん?」
時春は少し笑った。
「俺がNBA行ったら、ちゃんと通訳してね!」
エマが声を上げて笑った。
「もちろん!」
「英語で難しい質問されたら頼むよ!」
「任せて!」
「でも、数学の質問だったら俺が答える!」
「あはは! それはお願い!」
二人は笑い合った。
遠くから音楽が聞こえてくる。
体育館の入口には青と白の風船が揺れ、その向こうでは今も大勢の生徒たちが踊っているらしい。
ホームカミングの夜は、まだ終わっていなかった。
時春は隣を歩くエマの顔を見た。
淡いブルーのドレスに、夜風に揺れる茶色い髪。耳元のアクセサリーが、街灯の光を受けて小さく輝いている。
今日、彼女について新しく知ったことがたくさんある。
まだまだ知らないことだって、きっとあるだろう。
学校でのエマ。
ダニーズで働いているエマ。
そして、誰もいない丘で静かに夜景を眺めているエマ。
これから、どんな話を聞かせてもらえるのだろう。
そう思うと、少し楽しみだった。
「……行こっか、トキ!」
エマが笑顔で言った。
「うん!」
時春も笑った。
二人は並んで体育館へ向かった。
入口へ近づくにつれて、音楽と歓声が大きくなっていく。
さっきまであれほど静かな場所にいたのに、扉の向こうにはまた賑やかな世界が広がっている。
時春は少しだけ笑った。
きっと中へ戻れば、ジェイクがまた意味不明なダンスをしているだろう。ゾーイはそれを呆れた顔で撮影し、誰かが大声で笑っているに違いない。
いつもの、騒がしい友達たちだ。
けれど、今夜はそんな騒がしさも少し懐かしく感じられた。
「……準備いい?」
時春が尋ねると、エマは満面の笑みで頷いた。
「もちろん!」
時春は体育館の扉へ手を伸ばした。
その瞬間、向こう側から聞き慣れた大声が響いた。
「HEEEEEY!! トキぃぃぃ!! エマぁぁぁ!! どこ行ってたんだよおおお!!」
「…………」
時春は固まった。
ジェイクだった。
どうやら、二人が戻ってきたことに気づいたらしい。
時春はゆっくりと目を閉じた。
……ああ、帰ってきた。
しかも、想像通りめちゃくちゃうるさい。
「お前ら、ずっと二人で何してたんだよおおお!!」
「ジェイク!」
エマが笑いながら叫んだ。
「ちょっと休んでただけだって!」
「へえええ!? 二人でえええ!?」
ジェイクの声がさらに大きくなる。
時春は大きく息を吸い込んだ。
「シャラァァァァップ!!」
周囲の生徒たちが振り返り、何人かが笑い始めた。
ゾーイも近づいてきて、呆れたように肩をすくめる。
「おかえり。二人とも、ジェイクの相手お願いね。もう限界だから」
「おい、ゾー!」
「こっちは一時間近く、この犬のダンスを見せられてたんだから」
「犬じゃねえって!!」
ジェイクが叫び、エマが吹き出した。
時春もとうとう笑ってしまった。
ついさっきまで丘の上で、将来の夢について真面目に話していたのが嘘のようだ。
けれど、どちらの時間も楽しかった。
あの静かな丘でエマと交わした約束も、こうして友達と笑い合っている今も、時春にとっては大切なものだった。
「ほら、トキ! もう一回踊ろうぜ!」
ジェイクが手を差し出した。
「えっ、また!?」
「当たり前だろ! まだ全然踊ってないじゃん!」
「いや、めっちゃ踊っただろ!」
「足りないんだよ!」
ジェイクは時春の腕をつかみ、再びダンススペースへ引っ張っていこうとする。
時春は思わずエマを振り返った。
彼女は楽しそうに笑っていた。
「行っておいでよ、トキ!」
「エマも来てよ!」
「ふふっ、もちろん!」
エマが頷き、ゾーイも笑いながら二人の後を追った。
DJが新しい曲を流し始める。
青と白の照明がフロアを照らし、大勢の生徒たちが音楽に合わせて体を揺らしていた。
時春もその輪に加わった。
さっきまでの疲れが完全になくなったわけではないし、ダンスだって相変わらず下手だった。
それでも、今はもう少しだけ踊っていたかった。
目の前ではジェイクが奇妙なステップを踏み、ゾーイがそれを笑いながら撮影している。
エマも隣で楽しそうに踊っていた。
時春は彼女と目が合い、思わず笑った。
エマも笑い返してくれた。
今夜、丘の上で話したことは、二人だけの秘密だ。
NBA選手になりたいという夢も、エマが将来について悩んでいることも、ジェイクやゾーイはまだ知らない。
だから、こうして戻ってきても、何かが大きく変わったわけではなかった。
いつもの友達がいて、いつものように笑い合っている。
ただ、時春には一つだけ、前より楽しみになったことがあった。
明日も、来週も、その先も。
エマともっといろいろな話をしてみたい。
今夜はまだ知らなかった彼女のことを知ることができたし、自分のことも少しだけ知ってもらえた。
それが、何だか嬉しかった。
「BRO! トキ! 見ろよ、この動き!」
ジェイクが突然、両腕を大きく広げて回転した。
「うわっ! 危なっ!」
「どうよ!?」
「いや、何だよそれ!!」
時春が笑うと、エマも吹き出した。
そして、ジェイクはまた得意げに踊り始めた。
……まったく。
こいつは本当に変わらないな。
時春は声を上げて笑いながら、もう一度エマの方を見た。
彼女も笑っていた。
淡いブルーのドレスが、音楽に合わせて柔らかく揺れている。
その姿を見て、時春は何となく思った。
今夜は、きっと忘れられない夜になる。
初めてのホームカミング。
エマに案内してもらった、海の見える丘。
そこで話した夢と、二人で交わした約束。
そして、戻ってきたこの騒がしい体育館。
どれも、今の自分にとって大切な思い出になるだろう。
時春は笑顔で両手を上げ、音楽に合わせて軽くステップを踏んだ。
「トキ! いいじゃん!」
エマが隣で笑った。
「……へへ!」
時春も笑った。
青と白の光が揺れる体育館で、二人の笑い声が音楽に溶けていく。
ホームカミングの夜は、まだ続いていた。