CRESCENT BAY ACADEMY   作:西野圭吾

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第10話 エマはエマだよ

 体育館から聞こえてくる音楽は、廊下の奥へ進むにつれて少しずつ遠ざかっていった。

 

 エマに手を引かれながら、高山時春は夜の校舎を歩いていた。先ほどまで何百人もの生徒が踊っていた体育館は、曲がり角を二つ越えたところで見えなくなり、代わりに窓の外には静かなキャンパスの風景が広がり始めた。街灯に照らされた歩道には細長い木の影が落ち、遠くの植え込みからは虫の鳴く声が聞こえてくる。

 

 少し前までの騒がしさが嘘のようだった。

 

 時春はエマの後ろ姿を眺めながら、何となく落ち着かない気分になっていた。

 

 淡いブルーのドレスに、緩くまとめられた茶色い髪。歩くたびに耳元のアクセサリーが小さく揺れている。

 

 そして何より、彼女の手が自分の手を握っていた。

 

 ……いや、ちょっと待って。

 

 手、つないでるじゃん。

 

 廊下で差し出された手を何となく取ってしまったが、よく考えれば、女の子とこうして手をつないで歩くなんて、いつ以来だろう。小学生の頃、学校行事で隣の子と手をつないだことはあった気がする。でも、それとは少し違うような気もする。

 

 時春はつながれた手へちらりと目を向けた。

 

 エマは特に気にしている様子もなく、慣れた足取りで廊下を進んでいる。

 

 ……俺だけ緊張してるのか?

 

 ついさっきまで体育館の音楽がうるさくて仕方なかったのに、今は自分の心臓の音が妙に大きく感じられる。

 

「トキ?」

 

「……えっ?」

 

 エマが振り返った。

 

「どうしたの? さっきから静かだけど」

 

「いや、何でも!」

 

「ふふっ。まだ疲れてる?」

 

「まあ、ちょっと」

 

 時春が苦笑すると、エマは小さく頷いた。

 

「もう少し歩くけど、大丈夫?」

 

「うん! 全然!」

 

「よかった」

 

 エマは再び前を向いた。

 

 やがて廊下の突き当たりにある扉へたどり着き、外へ出たところで二人の手が自然に離れた。

 

 時春は少しだけ肩の力を抜いた。

 

 ……ふう。

 

 別に何か変なことをしていたわけでもないのに、どうしてこんなに緊張するのだろう。

 

 自分でも少しおかしかった。

 

 校舎の外には、静かなカリフォルニアの夜が広がっていた。

 

     ◇

 

「ねえ、エマ」

 

「ん?」

 

「エマって、ダンスとか、ああいう場所好きなんだと思ってた」

 

 二人はキャンパスの裏手へ続く歩道を歩いていた。体育館の方角からはまだ音楽が聞こえていたが、もう歌詞まではわからない。夜風が低い木々の葉を揺らし、街灯が足元を柔らかく照らしている。

 

 エマは少し不思議そうに笑った。

 

「どうして?」

 

「だって、いつも楽しそうじゃん。友達も多いし、パーティーとか慣れてそうだから」

 

「ああ……」

 

 エマは納得したように頷き、軽く肩をすくめた。

 

「まあ、嫌いじゃないよ。今日だって楽しかったし」

 

「だよね」

 

「でも、私だって静かになりたいときはあるよ。ずっと大きい音を聞いてると疲れるし、たくさんの人と話したあと、一人になりたいときもあるから」

 

「……ああ、それはわかる!」

 

 時春は大きく頷いた。

 

「さっき、まさにそれだった!」

 

「うん、そんな顔してた」

 

「……そんな顔?」

 

「ちょっと困った犬みたいな顔」

 

「犬?」

 

 時春は眉を寄せた。

 

「それ、ジェイクじゃん!」

 

「あっ、確かに!」

 

 エマが声を上げて笑った。

 

 時春もつられて笑う。

 

 月曜日のパジャマ・デーで、ジェイクがゴールデンレトリバーの着ぐるみを着てきたことを思い出した。あれ以来、犬という言葉を聞くだけで、どうしてもジェイクの顔が浮かんでしまう。

 

 まったく、あいつのせいである。

 

 笑いが収まると、時春は隣を歩くエマを見た。

 

 彼女は学校でも誰とでも楽しそうに話すし、ダニーズ・ダイナーで働いているときも、忙しそうに店内を行き来しながら笑顔を絶やさない。

 

 だから、賑やかな場所が好きなのだと勝手に思っていた。

 

 もちろん、それも間違いではないのだろう。けれど、どれほど社交的な人でも疲れるときはあるし、一人になりたいと思うことだってある。

 

 考えてみれば、当たり前の話だった。

 

「……何か、ちょっと意外だな」

 

 時春が呟くと、エマは首を傾げた。

 

「そう?」

 

「うん。エマって、何でも楽しそうにできるからさ」

 

「……そう見える?」

 

「見える見える! 勉強もできるし、日本語も喋れるし、バイトもしてるし。友達もいっぱいいるじゃん」

 

「……数学はできないけどね」

 

「あはは! それはそう!」

 

「ちょっと!」

 

 エマが笑いながら時春の腕を軽く叩いた。

 

「そこは否定してよ!」

 

「いや、エマが言ったんじゃん!」

 

「もう!」

 

 二人は顔を見合わせて笑った。

 

 エマの笑顔は、いつもと変わらなかった。

 

 ただ、時春が何気なく前を向いたとき、彼女は少しだけ口を閉じ、遠くの暗い空へ目を向けていた。

 

     ◇

 

 キャンパスの端まで来ると、道は緩やかな上り坂になった。

 

 学校の裏手には小高い丘があり、その斜面には低い木々や乾いた草が生えている。校舎から少し離れているせいか、時春はこれまでほとんど足を踏み入れたことがなかった。

 

 舗装された歩道は坂に沿って続き、途中から街灯の設けられた細い遊歩道につながっている。

 

 エマは迷うことなく、その道へ入っていった。

 

「……エマ?」

 

「ん?」

 

「どこまで行くの?」

 

「もうすぐだよ」

 

「……もうすぐ?」

 

「うん。私のお気に入りの場所」

 

 エマは楽しそうに笑った。

 

「ちょっとした秘密の場所なの」

 

「……秘密!?」

 

 時春は思わず身を乗り出した。

 

 秘密の場所。

 

 何とも魅力的な響きだった。

 

 ゲームでいえば、マップの隅に隠されたエリアのようなものだろうか。普通にプレイしていたら気づかない道を進むと、急に珍しい宝箱が現れる。

 

 ……いや、現実に宝箱はないか。

 

 それでも、少しワクワクしてきた。

 

「エマ、よく来るの?」

 

「うん。ときどきね」

 

「一人で?」

 

「そう。一人で」

 

 エマは足元を確かめながら、ゆっくりと坂を上っていった。

 

「何か考えたいときとか、ちょっと疲れたときとか。ここに来ると落ち着くの」

 

「へえ……」

 

 時春は感心して頷いた。

 

 いつも大勢の友達に囲まれているエマが、一人で丘へ来て静かに過ごしている。そんな姿を想像すると、何だか少し不思議だった。

 

 ふと、時春は気になったことを尋ねた。

 

「……じゃあ、今日俺が来ちゃっていいの?」

 

 エマが振り返った。

 

「えっ?」

 

「だって、秘密の場所なんでしょ? 一人で来るところなのに」

 

 時春は少し申し訳なさそうに笑った。

 

 エマが大切にしている場所なら、勝手についてきてよかったのだろうか。

 

 すると、彼女は一瞬きょとんとしたあと、柔らかく微笑んだ。

 

「……いいよ」

 

「ほんと?」

 

「うん。トキなら」

 

「…………」

 

 時春は思わず足を止めかけた。

 

 ……えっ。

 

 トキなら?

 

 今、そう言った?

 

 エマは何事もなかったように歩き始めている。

 

 時春は慌てて後を追った。

 

 ……いやいや、落ち着け。

 

 友達だから案内してくれた。それだけだろ。

 

 そう自分に言い聞かせながらも、何となく嬉しかった。

 

 やがて、道の傾斜が緩やかになった。

 

 前方の木々が途切れ、その向こうに広い空が現れる。

 

「着いた!」

 

 エマが振り返り、少し得意げに両手を広げた。

 

「……どう?」

 

 時春は顔を上げた。

 

 そして、思わず足を止めた。

 

     ◇

 

 丘の向こうには、海が広がっていた。

 

 夜の太平洋は、昼間の鮮やかな青とはまるで違っていた。街の明かりが届かない沖合は深い紺色に沈み、空との境界もほとんど見えない。その手前には、ラグナビーチの街並みが斜面に沿って広がり、家々の窓や道路の街灯が無数の光を浮かべていた。

 

 白い光と橙色の光が入り交じり、遠くの車が動くたびに、細い光の筋が坂道を流れていく。海沿いの道路は夜景の中を曲がりくねり、遠くの岬には小さな灯りが点々と続いていた。

 

 空には雲が少なく、いくつかの星が静かに瞬いている。

 

 丘の上には低い木製の柵と、小さなベンチがあった。周囲には背の低い草が生え、風が吹くたびにさらさらと音を立てて揺れている。

 

 体育館の音楽は、もうほとんど聞こえなかった。

 

 時春はしばらく、その場に立ち尽くしていた。

 

「……うわあ……」

 

 思わず声が漏れる。

 

「……すげえ」

 

 エマが隣で笑った。

 

「気に入った?」

 

「めちゃくちゃ!」

 

 時春は目を輝かせて頷いた。

 

「何これ! すごいじゃん!」

 

「ふふっ。でしょ?」

 

 時春は柵の近くまで歩き、改めて景色を見渡した。

 

 遠くには海があり、その手前には街が広がっている。さらに近くには、CBAの校舎の明かりが小さく見えた。

 

 いつも自分が歩いているキャンパスも、友達と訪れたダイナーのある街も、ここから眺めると一つの風景の中に収まっている。

 

 ……こんな場所、あったんだ。

 

 アメリカへ来てから何度もラグナビーチの海を見てきたが、今夜の眺めは格別だった。

 

 昼間の海には、どこまでも青く広がっていくような開放感がある。けれど、夜の海は静かで、少しだけ寂しげだった。暗い水面の向こうに何があるのかは見えないのに、なぜかいつまでも眺めていたくなる。

 

「……いい場所だなあ」

 

 時春が呟くと、エマは小さく頷いた。

 

「うん。私も大好き」

 

 二人はしばらく、何も言わず景色を眺めていた。

 

     ◇

 

 エマが先にベンチへ腰を下ろした。

 

 時春も隣へ座り、背もたれに軽く体を預ける。

 

 夜風がジャケットの袖を揺らした。ダンスパーティーのために着てきた服は、普段のパーカーより少し薄かったが、丘の上は思ったほど寒くない。海から吹く風が火照った体を冷ましてくれて、むしろ心地よかった。

 

「……落ち着くね」

 

 時春が言った。

 

「でしょ?」

 

「うん。さっきまで、耳が壊れるかと思ってた」

 

「そんなに?」

 

「めっちゃうるさかったじゃん!」

 

 エマはくすくすと笑った。

 

「まあ、確かにね」

 

「ジェイクなんか、絶対まだ踊ってるよ」

 

「ふふっ。そうだろうね」

 

「帰ったら声枯れてるんじゃない?」

 

「それは毎日じゃない?」

 

「……確かに!」

 

 二人は声を上げて笑った。

 

 体育館にいた頃とは違い、笑い声が夜の空気に小さく溶けていく。誰かの歓声にかき消されることもなければ、相手に聞こえるように大声を出す必要もなかった。

 

 時春は背もたれに体を預け、夜景を眺めた。

 

 さっきまでのパーティーも楽しかったが、こうして静かな場所で話す時間も悪くない。

 

 隣にはエマがいて、目の前にはきれいな夜景が広がっている。

 

 別に何か特別なことをしているわけではない。ただ座って話しているだけなのに、妙に居心地がよかった。

 

「……ねえ、トキ」

 

 しばらくして、エマが口を開いた。

 

「ん?」

 

「一つ、聞いてもいい?」

 

「いいよ!」

 

 エマは少しだけ考えるように夜景へ目を向け、それから静かに尋ねた。

 

「……トキって、どうしてアメリカに来たの?」

 

「……えっ?」

 

 時春は目を瞬かせた。

 

 予想していなかった質問だった。

 

 もちろん、学校では何度か聞かれたことがある。日本から来た留学生だと知ると、友達や先生たちはよく「どうしてアメリカへ?」と尋ねてくる。

 

 そのたびに時春は、だいたい同じように答えてきた。

 

 バスケをするため。英語を勉強するため。アメリカで高校生活を送ってみたかったから。

 

 どれも嘘ではない。

 

 ただ、その奥にはもう一つ、ずっと大切にしてきた理由があった。

 

「……えっと……」

 

 時春は何となく頬を掻いた。

 

 エマがこちらを向く。

 

「どうしたの?」

 

「いや、何か……」

 

 時春は照れくさそうに笑い、視線を夜の海へ戻した。

 

 本当の理由を話したら、エマはどう思うだろう。

 

 日本にいた頃から、その夢を口にするたびに少し緊張した。家族やバスケに関わる人たちは知っているけれど、アメリカでできた友達には、まだちゃんと話したことがない。

 

 バスケが好きだということなら、いくらでも話せる。上手くなりたいことも、強い相手と試合をしたいことも、何度も口にしてきた。

 

 けれど、そのずっと先にある目標となると、話は別だった。

 

 あまりにも大きすぎて、声に出した途端、自分で自分が恥ずかしくなってしまう。

 

 時春は隣のエマをちらりと見た。

 

 彼女は急かすことなく、静かに待っていた。

 

 その表情を見ていると、何となく話してもいいような気がしてきた。

 

「……あのさ」

 

「うん」

 

「笑わないでね」

 

 エマが少し驚いた顔をした。

 

「え? どうして?」

 

「いや、たぶん、すごい変なこと言うから」

 

「変なこと?」

 

「うん。ちょっと、でかすぎる夢っていうか……」

 

 エマは時春の顔を見つめ、それから優しく笑った。

 

「笑わないよ」

 

「……ほんと?」

 

「うん。聞かせて」

 

 時春は一度、夜の海へ目を向けた。

 

 それから、小さく息を吸った。

 

「……俺さ、NBAの選手になりたいんだ」

 

     ◇

 

 口にしてしまうと、思っていたよりもあっさりした言葉だった。

 

 けれど、言った瞬間、急に恥ずかしくなった。

 

 ……うわ。言っちゃった。

 

 時春は慌てて笑った。

 

「……へへ。いや、何言ってんだって感じだよね」

 

 しかし、エマは笑わなかった。

 

 少し驚いたように目を丸くし、時春を見つめている。

 

「……NBA?」

 

「……うん」

 

「……あの、NBA?」

 

「そう。アメリカの」

 

 エマはもう一度瞬きをした。

 

 時春は何となく落ち着かなくなった。

 

 そりゃ、びっくりするよな。

 

 十五歳の日本人が、NBA選手になりたいなんて言い出したのだから。

 

 しかも、自分の身長は百七十センチほどしかない。バスケットボールの世界では、かなり小柄な方である。

 

「……あのさ」

 

 時春は照れ隠しに笑いながら、話を続けた。

 

「俺、日本にいたときは、結構バスケできたんだ」

 

「うん。知ってるよ」

 

「いや、こっち来てからも、まあ、ちょっとはできるんだけど」

 

「ちょっとどころじゃないと思うけど」

 

「……へへ」

 

 時春は頬を掻いた。

 

「日本の中学でさ、全国大会に出たんだよ。去年の夏」

 

「全国大会?」

 

「うん。日本中の中学校が出る大会で、俺たち……優勝したんだ」

 

「……えっ!?」

 

 エマが目を見開いた。

 

「優勝!? 日本一ってこと?」

 

「うん」

 

「すごいじゃん!」

 

「いや、まあ、チームのみんなが強かったから」

 

 時春は照れくさそうに笑った。

 

 けれど、あの日の光景は今でも鮮明に覚えている。

 

 夏の熱気に包まれた体育館。磨き上げられた床と、観客席から響く歓声。試合終了を告げるブザーが鳴った瞬間、チームメイトたちが一斉にコートへ駆け出してきた。

 

 誰かに抱きつかれ、別の誰かに頭を叩かれ、気づけば全員で笑いながら泣いていた。

 

 あの日、自分たちは日本一になった。

 

 中学生のバスケットボールという限られた世界でのことだ。それでも、時春にとっては人生で最も嬉しかった瞬間の一つだった。

 

「日本ではさ、俺たちのチームが一番になれたんだ。相手が大きくても、速くても、みんなで頑張れば勝てた。だから、何か……自分も結構すごいんじゃないかって思ってた」

 

 時春は少し笑った。

 

「でも、アメリカに来てびっくりした」

 

「どうして?」

 

「だって、みんなでかいじゃん!」

 

 エマが吹き出した。

 

「ふふっ、確かに!」

 

「ノアとかマイルズとかさ! 最初見たとき、何食ったらあんなでかくなるんだよって思った!」

 

「あはは! それ、本人に言った?」

 

「言えるわけないじゃん! 絶対チビ助って返される!」

 

 二人は声を上げて笑った。

 

 時春は笑いながらも、やがて少し真面目な表情になった。

 

「でもさ、そういう人たちと、もっとバスケしたかったんだ」

 

 時春は膝の上に置いた自分の手を見下ろした。

 

 小さい頃から、ずっとバスケットボールが好きだった。

 

 ボールを床についたときの反発。味方が走り込むタイミング。相手の重心がずれた瞬間に生まれる、ほんのわずかな隙間。

 

 そういうものを見つけるのが楽しかった。

 

 自分でシュートを決めるのも好きだが、それ以上に、自分のパスから味方が得点した瞬間が好きだった。

 

 自分が見つけたチャンスを、仲間が得点につなげてくれる。

 

 味方が嬉しそうに走って戻ってくると、今度はどんなパスを出そうかと考えてしまう。

 

 そんなバスケを、もっと高いレベルでやってみたかった。

 

「日本で勝てたからって、世界でも勝てるわけじゃないでしょ。でも、じゃあどこまでできるんだろうって思ってさ」

 

 エマは静かに頷いた。

 

「もっと上手いやつとやりたいし、もっと速いバスケをしたい。自分のプレーがどこまで通用するのか、試してみたかったんだ」

 

 時春は夜景へ目を向けた。

 

「それで、中学の大会をここのヘイズコーチが見てくれてたみたいで」

 

「ヘイズコーチ?」

 

「うん。CBAのバスケのコーチ」

 

 時春は頷いた。

 

「たまたま日本で俺の試合を見たらしくてさ。それがきっかけで、こっちの学校へ来られることになったんだ」

 

 今でも、あの知らせを聞いた日のことは忘れられなかった。

 

 アメリカの高校から、自分に関心が寄せられている。

 

 しかも、バスケットボールをするために。

 

 最初は何かの間違いだと思った。遠い国の、名前も知らなかった学校から、突然そんな話が届いたのだから当然だろう。

 

 けれど、実際に資料を見せられ、CBAの体育館やバスケットボールチームの写真を眺めているうちに、どうしようもなく胸が高鳴ってきた。

 

 ここへ行けば、もっと強い選手たちとバスケができる。

 

 もっと上手くなれる。

 

 そして、ほんの少しかもしれないけれど、あの夢に近づけるかもしれない。

 

「だから、来たんだ。アメリカに」

 

 時春は小さく笑った。

 

 エマは何も言わず、じっと話を聞いていた。

 

「でも、まだ俺、ここのチームに入れてないんだよね」

 

「あっ、トライアウト?」

 

「そう。十一月の」

 

 十一月の初めには、CBAのバスケットボールチームのトライアウトがある。

 

 オープンジムで何度もノアたちとプレーしているが、それだけで正式なメンバーになれるわけではない。上級生も新入生も、チームに入りたい生徒はそこで実力を見せなければならないのだ。

 

 時春はもちろん、Varsityを目指していた。

 

 けれど、一年生で最上級のチームへ入るのは簡単なことではない。今の自分が、ほかのガードたちよりも優れていると認めてもらわなければならない。

 

「だからさ、絶対に受かりたいんだ」

 

 時春の声に、少しだけ力が入った。

 

「せっかくチャンスもらったんだもん。ここに来て、英語も勉強して、みんなとバスケして……でも、肝心のチームに入れなかったら、悔しいじゃん」

 

「……うん」

 

「ノアたちと、同じユニフォーム着たいし」

 

 時春は少し照れくさそうに笑った。

 

「それに、そこから先にも行きたいんだ」

 

 高校でバスケを続け、大学でも強いチームでプレーする。そして、いつかはプロの舞台へ立つ。

 

 思い描いている道は、途方もなく長い。

 

 途中には、自分より上手い選手が何百人も、何千人もいるだろう。大きな怪我をするかもしれないし、努力したからといって結果が出るとも限らない。

 

 それでも、時春はその道を進んでみたかった。

 

「……いつか、NBAのコートでプレーしたい」

 

 時春は夜の海を見つめながら言った。

 

 幼い頃からテレビで見てきた、大きなアリーナ。

 

 何万人もの観客。

 

 世界中から集まった選手たち。

 

 その中で自分もボールを持ち、コートを走り回りたい。

 

 味方が走り込む姿を見つけたら、迷わずパスを出したい。

 

 あの場所で、自分のバスケットボールをやってみたい。

 

 ずっと胸の中にあった願いだった。

 

     ◇

 

 しばらく沈黙が続いた。

 

 時春は膝の上で両手を組み、何となく落ち着かない気分になっていた。

 

 ……やばい。めちゃくちゃ喋っちゃった。

 

 アメリカに来てから、こんなに真面目に自分の夢を話したのは初めてかもしれない。

 

 それも、よりによってエマに。

 

 時春は恐る恐る隣を見た。

 

 エマはまだこちらを見つめていた。

 

 その表情には、少し驚きが残っているようだった。

 

「……まあ、でもさ!」

 

 時春は照れ隠しに笑った。

 

「めちゃくちゃ難しいんだけどね!」

 

「……ん?」

 

「見てよ、この身長!」

 

 時春は自分の頭の上に手をかざした。

 

「百七十センチ! NBAって、二メートルくらいの人もいっぱいいるじゃん!」

 

 エマが少し笑った。

 

「確かに、背の高い選手が多いよね」

 

「でしょ? 俺なんか、あの中に入ったら子供だよ!」

 

「ふふっ、そんなことないと思うけど」

 

「いや、あるって!」

 

 時春は笑いながら首を振った。

 

 NBAには小柄な選手もいるが、百七十センチほどの身長で活躍する選手となれば、歴史を振り返ってもほんのわずかしかいない。

 

 世界中のバスケットボール選手が目指す場所だ。日本の中学校で全国優勝したくらいで、簡単に届くはずもない。

 

「普通に考えたら、ほぼ無理じゃん?」

 

 時春は自分で言って、少しおかしくなった。

 

「……へへ。まあ、夢だからさ。言うだけならタダだし」

 

 きっとエマも笑うだろう。

 

 そんなふうに考えていた。

 

 しかし、彼女は笑わなかった。

 

「……トキ」

 

「ん?」

 

「……かっこいいね」

 

「…………」

 

 時春は目を瞬かせた。

 

「……えっ?」

 

「かっこいいと思う」

 

 エマはまっすぐこちらを見ていた。

 

「叶うかどうかなんて、私にはわからないよ。NBAがすごく難しい場所なのは知ってるし」

 

「……うん」

 

「でも、トキはその夢のために日本からアメリカまで来たんでしょ?」

 

 エマは少し笑った。

 

「知らない国で、言葉も違う学校に通って、毎日頑張ってる。それって、すごいことだと思う」

 

 時春は何も言えなかった。

 

「しかも、ちゃんと自分でわかってるんだよね。簡単じゃないってことも、まだまだ頑張らないといけないってことも」

 

 エマは一度、夜景へ目を向けた。

 

「それでもやってみたいって思えるくらい、バスケが好きなんだなって」

 

 そして、もう一度時春を見た。

 

「……そういうの、かっこいいなって思うよ」

 

 時春は口を閉じた。

 

 胸の奥が、何だか熱くなった。

 

 褒められたことがないわけではない。

 

 バスケでいいプレーをすれば、チームメイトたちは喜んでくれたし、コーチだって評価してくれた。ノアやマイルズも、オープンジムでは時春のパスを何度も褒めてくれた。

 

 けれど、それとは少し違った。

 

 今、エマが褒めてくれたのは、試合の結果でも、バスケの技術でもない。

 

 まだ何も叶っていない、ただの夢だった。

 

 時春自身が笑ってごまかそうとした夢を、彼女は真面目に受け止めてくれた。

 

「……あ、ありがと」

 

 時春は小さく答え、視線を夜景へ戻した。

 

 ……やばいな、これ。

 

 めちゃくちゃ嬉しい。

 

 しかも、エマにかっこいいって言われた。

 

 ……かっこいいって!

 

 顔が熱くなってくる。

 

 夜でよかった。昼間だったら、絶対に赤くなっているのを見られていただろう。

 

「……トキ?」

 

「……ん?」

 

「顔、赤くない?」

 

「赤くない!」

 

「ふふっ、ほんと?」

 

「夜だから!」

 

「夜だから?」

 

「……いや、何でもない!」

 

 エマが声を上げて笑った。

 

 時春はますます恥ずかしくなり、慌てて話題を変えることにした。

 

「……あっ、そうだ!」

 

「ん?」

 

「エマは?」

 

「……私?」

 

「うん!」

 

 時春は笑顔で尋ねた。

 

「エマは、将来何になりたいの?」

 

     ◇

 

 その質問に、エマはすぐには答えなかった。

 

 時春は最初、単に考えているのだろうと思った。

 

 けれど、彼女の視線が少し下がったことに気づき、不思議に思った。

 

「……エマ?」

 

「……うん」

 

 エマは小さく頷き、夜景へ目を向けた。

 

「……私ね、ないんだ」

 

「……えっ?」

 

「夢」

 

 エマは少し困ったように笑った。

 

「何になりたいのか、まだわからないの」

 

 時春は思わず首を傾げた。

 

「……そうなの?」

 

「うん」

 

 エマは膝の上で手を組み直した。

 

「みんな、何かあるじゃん。トキはバスケだし、テオは野球。MJは映画で、イジーは音楽。ゾーイだって、新聞とか写真とか、すごく好きなことがあるし」

 

「……うん」

 

「ジェイクも、将来はイベントを企画する仕事がしたいって、この前話してた」

 

 時春は思わず笑った。

 

 あいつなら、確かにそういう仕事が似合いそうだ。毎日のように何か面白いことを考えているし、学校行事があれば誰よりも騒いでいる。

 

 しかし、エマは少し寂しそうな顔をしていた。

 

「みんな、やりたいことがあるんだよね。自分の好きなものがあって、それに向かって頑張ってる」

 

 エマは遠くの街の明かりを見つめた。

 

「でも、私にはそういうのがないんだ」

 

 その声は、普段のエマからは少し想像できないほど静かだった。

 

 時春は黙って聞いていた。

 

「……ダニーズは?」

 

 思いつくままに尋ねてみた。

 

「バイト、好きなんでしょ?」

 

「うん。好きだよ」

 

 エマは頷いた。

 

「ダニーはちょっと口うるさいけど、優しいし。常連のお客さんとも仲良くなれたし、働くのも楽しい」

 

「じゃあ……」

 

「でも、それが将来やりたいことなのかって聞かれると、違う気がするんだ」

 

 エマは小さく首を振った。

 

「今は好き。でも、これを一生続けたいかって言われたら、まだわからない」

 

「……そっか」

 

「クラブ・ラッシュのときもね」

 

 エマは膝の上へ視線を落とした。

 

「いろんなクラブがあったでしょ?」

 

「うん!」

 

「あの日、私もいろいろ見て回ったんだ。演劇とか、写真とか、ボランティアとか。どれも面白そうだったし、楽しそうだなって思った」

 

 時春はあの日の中央広場を思い出した。

 

 色とりどりのテントに、楽しそうに話す生徒たち。作った曲について熱心に説明していたイジーや、カメラの話になると止まらなくなるMJ。野球クラブのブースで目を輝かせていたテオの姿も覚えている。

 

 ラリーでさえ、ゲームクラブでは普段より楽しそうにしていた。

 

「でもね、どれを見ても、これがやりたい! ってならなかったんだ」

 

 エマは続けた。

 

「面白そうとは思うんだけど、それだけなの。みんなみたいに夢中になれるものが、私にはないんだよね」

 

 そう言って、少し笑った。

 

「だから、結局どこにも入らなかった」

 

 時春はふと、クラブ・ラッシュの日のことを思い出した。

 

 広場の木陰にあるベンチで、一人で座っていたエマ。

 

 何枚かのチラシを手に持ち、ぼんやりと人の流れを眺めていた。

 

 あのときは、数学の小テストが心配なのだろうと思っていた。実際、その話もしていたし、エマはいつも通り笑っていたからだ。

 

 けれど、もしかすると、あのときからこんなことを考えていたのかもしれない。

 

「……それにね」

 

 エマは少しだけ声を落とした。

 

「みんな、私のこと、何でもできるみたいに言うんだよね」

 

「……えっ?」

 

「勉強できるね、とか。誰とでも仲良くできるね、とか。日本語も英語も話せてすごいね、とか」

 

 エマは笑った。

 

「何でもできるんだから、将来もきっと大丈夫だよって」

 

 時春は何も言わなかった。

 

 自分も、ついさっき似たようなことを言ったばかりだった。

 

「もちろん、褒めてもらえるのは嬉しいよ。私のことをそんなふうに思ってくれるんだって」

 

 エマは少しだけベンチに深く座り直した。

 

「でも、何でもできるって言われると、たまに困っちゃうんだ」

 

「……どうして?」

 

「だって、私自身はそんなふうに思ってないから」

 

 エマは膝の上で指を組んだ。

 

「授業があれば勉強するし、バイトがあれば働くし、友達に誘われたら一緒に遊ぶ。それは好きだし、楽しいんだけど……」

 

 少し考えてから、続けた。

 

「自分から、これがやりたいって思えるものが、まだ見つからないんだよね」

 

 時春は隣のエマを見つめた。

 

 いつも明るく、誰とでも楽しそうに話している彼女が、そんなことを考えていたとは知らなかった。

 

「将来、何になりたいの? って聞かれるとさ」

 

 エマは少し困ったように笑った。

 

「何か答えなきゃいけない気がするの。でも、何を言っても、これじゃないなって思っちゃう」

 

「……うん」

 

「みんなには、あんまりこういう話してないんだ。何だか、自分だけ何も考えてないみたいで恥ずかしいから」

 

 エマはそこで言葉を切った。

 

 夜風が吹き、緩くまとめた茶色い髪が揺れた。

 

「……トキには、すごい夢があるんだね」

 

 彼女は微笑んだ。

 

「ちょっと羨ましいな」

 

     ◇

 

 時春はしばらく黙っていた。

 

 何を言えばいいのか、すぐには思いつかなかった。

 

 正直、少し驚いていた。

 

 エマがこんなふうに悩んでいるなんて、考えたこともなかったからだ。

 

 彼女はいつも明るく、困っている人を見かければ自然に声をかける。時春が学校で迷子になったときも、英語の授業についていけなかったときも、何度も助けてくれた。

 

 数学は苦手らしいが、それ以外のことは大抵上手くやっているように見える。

 

 そのエマが、自分には何もないと言っている。

 

 時春は夜景を眺めながら考えた。

 

 自分には、たまたまバスケットボールがあった。

 

 小さい頃から夢中になれるものがあって、ずっと続けてきた。その先にNBAという大きな夢を見つけ、アメリカへ来るチャンスまで手に入れた。

 

 けれど、もしバスケと出会っていなかったらどうなっていただろう。

 

 何が好きで、将来何になりたいのか。

 

 そんなことを聞かれても、何も答えられなかったかもしれない。

 

 それに、自分だってバスケ以外の将来については、ほとんど考えたことがない。

 

 ……そう考えたら、俺も同じか。

 

 エマが小さく息を吐いた。

 

「……ごめんね。変な話しちゃって」

 

「……え?」

 

「せっかく楽しいホームカミングなのに、何か暗い話になっちゃった」

 

 エマは慌てたように笑顔を作った。

 

「ほんとは、こんなこと話すつもりじゃなかったんだけど」

 

「……エマ」

 

「トキの夢、すごくかっこいいなって思ったら、何だか自分のことも考えちゃって」

 

 そこまで言うと、彼女は少し照れくさそうに視線を落とした。

 

 時春はその横顔を見つめた。

 

 何か励ましてあげたいと思った。

 

 将来の夢なんて、そのうち見つかるよ。

 

 そんなことないよ、エマはすごいよ。

 

 思いつく言葉はいくつかあったが、どれもしっくりこなかった。

 

 夢が見つからないことを悩んでいるエマに、適当なことを言っても仕方がない。

 

 そもそも、時春自身にだって、エマが将来何をしたいと思うようになるのかはわからないのだ。

 

 だったら、無理に答えを出さなくてもいいのではないだろうか。

 

 時春は少し考えてから、口を開いた。

 

「……ねえ、エマ」

 

「……ん?」

 

「俺さ、エマが将来何になりたいのか、今日まで知らなかったじゃん」

 

「……うん」

 

「でも、別に気にしたことなかったんだよね」

 

 エマが少し不思議そうな顔をした。

 

「……どういうこと?」

 

「いや、だから……」

 

 時春は頬を掻いた。

 

 日本語なら、もう少し上手く説明できるかもしれない。

 

 けれど、今は英語で伝えたかった。

 

 自分の言葉で、エマに話したかった。

 

「……俺、エマと友達になったとき、将来何になりたいとか、全然知らなかったでしょ?」

 

「……うん」

 

「でも、エマのこと、すごくいい人だなって思ったんだ」

 

 エマは黙っていた。

 

「今もそう思ってるし。将来の夢があるとかないとか、そんなの関係なく」

 

 時春は少し笑った。

 

「だからさ……エマは、エマじゃん」

 

 エマは、しばらく時春の顔を見つめていた。

 

「……え?」

 

「……だから、その……」

 

 時春は少し困ったように笑った。

 

 どうにも説明が難しい。

 

 言いたいことは頭の中にあるのに、上手くまとまらない。

 

 それでも、途中で諦めたくはなかった。

 

「俺、アメリカに来た最初の日、めちゃくちゃ困ってたんだよ」

 

「……最初の日?」

 

「うん。覚えてる? 英語の教室、見つけられなくてさ」

 

「あっ、H204?」

 

「そう!」

 

 時春は嬉しそうに頷いた。

 

「あの日、俺、完全に迷子だったんだよ。教室がどこにあるのかもわかんないし、誰に聞けばいいのかもわかんないし」

 

 思い出すと、今でも少し笑えてくる。

 

 広い校舎の廊下を、時間割を握りしめて歩き回っていた。すれ違う生徒たちは当たり前のように英語で話していて、自分だけがどこへ行けばいいのかわからずにいた。

 

 あのときは本当に心細かった。

 

「で、エマが声かけてくれたじゃん」

 

「……うん」

 

「教室、こっちだよって」

 

 時春は微笑んだ。

 

「……あれ、めちゃくちゃ嬉しかったんだ」

 

 エマは静かに聞いていた。

 

「それまで知らない人ばっかりでさ。日本から来たばっかりだったし、英語も今よりずっと下手だったし。正直、ちょっと不安だったんだよね」

 

 時春は夜景へ目を向けた。

 

「でも、エマが話しかけてくれた」

 

 あの日の廊下の風景を、今でも覚えている。

 

 行き交う生徒たちの間から、一人の女の子が笑顔で声をかけてくれた。

 

 最初は何を言われているのかよくわからなかったが、彼女が日本語を話せると知った瞬間、どれほど安心したことだろう。

 

 そのあと、教室まで案内してもらい、ジェイクやゾーイとも知り合った。

 

「ジェイクなんか、最初からめちゃくちゃうるさかったけどね」

 

 時春が言うと、エマが小さく吹き出した。

 

「ふふっ、そうだったね」

 

「あいつ、いきなり肩組んできたんだよ。俺、何が何だかわかんなかった!」

 

「あはは! ジェイクらしい!」

 

「でも、そのおかげで友達できたし。アメフトも一緒に見に行ったし、ダニーズにも行ったし」

 

 時春は楽しそうに笑った。

 

「それに、英語もずっと教えてくれてるじゃん」

 

「……うん」

 

「俺が変な英語使っても、ちゃんと聞いてくれるし。エッセイも手伝ってくれたし」

 

「ああ、あのエッセイ」

 

 エマは少しだけ笑った。

 

「最初、一文しか書いてなかったやつ?」

 

「ちょ、それは言わないで!」

 

「ふふっ、ごめん!」

 

 時春も苦笑した。

 

 あの図書館での勉強会も、今では楽しい思い出になっている。

 

 思い返してみれば、エマと出会ってから、本当にいろいろなことがあった。

 

 もちろん、今の友達がみんな彼女のおかげでできたというわけではない。ラリーとも、ノアたちとも、自分で少しずつ仲良くなってきた。

 

 それでも、最初に不安を和らげてくれたのはエマだった。

 

「……俺さ、こっち来てから、毎日すっごく楽しいんだ」

 

 時春は続けた。

 

「学校行けばジェイクがうるさいし、ゾーイには変な写真撮られるし。寮に帰ればラリーとゲームできるし、体育館に行けばノアたちがいる」

 

 思い出すだけで、自然と笑みがこぼれた。

 

「英語はまだ難しいし、失敗することもあるけどさ。でも、今はちゃんと友達がいるんだ」

 

 エマは小さく頷いた。

 

「うん。たくさんできたよね」

 

「そう! で、俺が学校で最初に友達になったの、エマたちだったじゃん」

 

 時春は彼女の方を向いた。

 

「あの日、エマが声かけてくれなかったら、俺、もっと長いこと迷子になってたと思う」

 

「ふふっ、そんなことないでしょ」

 

「いや、絶対そうだって!」

 

 時春は笑いながら首を振った。

 

「英語の教室にも遅刻してたかもしれないし、ジェイクたちと仲良くなるのも、もっと後だったかもしれない」

 

 エマは何か言いかけたが、時春はそのまま続けた。

 

「だからさ、俺にとってエマって、すごく大事な友達なんだよ」

 

 言ってから、少しだけ恥ずかしくなった。

 

 ……あっ、ちょっと待て。

 

 何か、すごいこと言ってない?

 

 いや、大事な友達って意味だから。

 

 そういう意味だから、大丈夫。

 

 時春は心の中で言い訳をしながら、もう一度エマを見た。

 

「……エマは、俺が困ってたら助けてくれるし、一緒にいると楽しいし。今日だって、こんなにきれいな場所に連れてきてくれたじゃん」

 

 丘の向こうに広がる夜景を指差した。

 

「俺、ここがこんなにきれいだって知らなかったよ」

 

 エマもつられるように海へ目を向けた。

 

「だから、将来何になるのか決まってなくても、俺にとってエマが大事な友達なのは変わらないんだよね」

 

 時春は少し考えた。

 

「……というか、エマが何かになりたいって言い出したら、もちろん応援するけどさ」

 

「……うん」

 

「でも、まだわかんないなら、それでもいいんじゃない?」

 

 エマは顔を上げた。

 

 時春は少しだけ笑った。

 

「だって、まだ十五歳じゃん」

 

 彼女は何も言わなかった。

 

「俺だって、たまたまバスケがあっただけだし。もしバスケしてなかったら、何になりたいのか全然わかんなかったと思う」

 

 時春は自分でもおかしくなって、少し笑った。

 

「ゲームばっかりしてたかもしれないし」

 

「……それ、今もじゃない?」

 

「……まあ、そうだけど!」

 

 エマが吹き出した。

 

 時春も笑ったが、すぐに言葉を続けた。

 

「だからさ、焦って何か決めなくてもいいと思うんだよね。いつか好きなことが見つかったら、それをやればいいし」

 

 エマは静かに聞いていた。

 

「それまで、別に今のエマのままでいいじゃん」

 

 時春は彼女の顔を見て、少し照れくさそうに笑った。

 

「……エマは、エマだよ」

 

     ◇

 

 夜風が吹き、丘の草がさらさらと音を立てて揺れた。

 

 エマは何も言わなかった。

 

 ただ、時春を見つめていた。

 

 その表情を見て、時春は少し不安になった。

 

 ……あれ、変なこと言ったかな。

 

 自分でも上手く説明できた自信はない。

 

 英語だって途中で何度か言い直したし、文法が合っていたのかも怪しい。

 

 それでも、言いたいことは何とか伝えられたと思う。

 

「……えっと」

 

 時春が何か付け加えようとしたとき、エマが小さく笑った。

 

「……ふふっ」

 

「……エマ?」

 

 彼女は少し俯き、それからもう一度笑った。

 

「……何それ、トキ」

 

「……えっ?」

 

「何か、すごいこと言うね」

 

 時春は首を傾げた。

 

「……そう?」

 

「うん」

 

 エマは少し照れくさそうに笑った。

 

「私、将来の夢がないって言ったのに、トキは全然気にしないんだね」

 

「……うん?」

 

「普通、何か見つけなよって言われるのかなって思ってた」

 

 時春は少し考えた。

 

「……まあ、見つかったら楽しいと思うけど」

 

「うん」

 

「でも、別に今すぐじゃなくてもいいじゃん」

 

 そう答えると、エマはしばらく黙っていた。

 

 それから、小さく息を吐いた。

 

「……そっか」

 

 彼女は夜景へ視線を戻した。

 

「私、ちょっと焦ってたのかもしれない」

 

「……焦ってた?」

 

「うん。みんな何かやりたいことがあるのに、私だけないから」

 

 エマは膝の上の手を見つめた。

 

「何でもできるって言われるたびに、じゃあ何をしたいのって聞かれたら答えられないなって、ずっと思ってたんだ」

 

 少し考えてから、彼女は続けた。

 

「でも、まだ決まってなくてもいいのかな」

 

 時春は頷いた。

 

「いいと思うよ!」

 

「……ふふっ」

 

 エマは笑った。

 

「トキって、こういうとき妙に自信満々だよね」

 

「……えっ?」

 

「さっきまでNBAなんて無理かもって言ってたのに」

 

「それとこれとは別じゃん!」

 

「そうなの?」

 

「そう!」

 

 時春が真面目な顔で頷くと、エマはとうとう声を上げて笑った。

 

 その笑顔を見て、時春もつられて笑った。

 

 しばらくすると、エマは少しだけ真面目な表情になった。

 

「……ありがとう、トキ」

 

「ん?」

 

「話してよかった」

 

 エマはゆっくりと頷いた。

 

「まだ何になりたいのかわからないし、きっとまた悩むと思うけど……ちょっと気が楽になった」

 

「……そっか」

 

 時春は嬉しくなった。

 

 自分が何か立派なことを言えたとは思わない。

 

 ただ、エマの話を聞いて、思ったことをそのまま伝えただけだった。

 

 けれど、それで彼女が少し楽になったのなら、話してよかったと思う。

 

「……それにね」

 

 エマが続けた。

 

「トキがさっき言ってくれたこと、嬉しかった」

 

「……何?」

 

「大事な友達だって」

 

「…………」

 

 時春は固まった。

 

 ……あっ。

 

 そこ、ちゃんと覚えてたんだ。

 

 エマは柔らかく微笑んだ。

 

「私も、トキのこと大事な友達だと思ってるよ」

 

「……お、おう!」

 

 時春は慌てて頷いた。

 

 自分でも少し変な返事だと思ったが、エマは気にしていないようだった。

 

「今日、ここに来てくれてよかった」

 

 彼女は夜景を眺めながら言った。

 

「普段は一人で来ることが多いんだけど、今日はトキと来られてよかったなって」

 

 時春は少しだけ黙った。

 

 胸の奥が、じんわりと温かくなる。

 

「……俺も」

 

 エマがこちらを向いた。

 

「ん?」

 

「俺も、エマと来られてよかった」

 

 言ってから、また恥ずかしくなった。

 

 ……何だよ、今日。

 

 さっきから、普段なら言わないようなことばっかり言ってるじゃん。

 

 けれど、今さら取り消すつもりもなかった。

 

 エマは嬉しそうに微笑んでいた。

 

 時春も小さく笑い、夜景へ視線を戻した。

 

     ◇

 

 それからしばらく、二人はベンチに並んで座っていた。

 

 会話は途切れたり、また始まったりした。

 

 時春は日本にいた頃のバスケットボールの話をした。全国大会のことやチームメイトのこと、試合前にみんなで緊張していたこと。優勝したあと、嬉しすぎて自分が何を叫んだのか覚えていないことまで話すと、エマは声を上げて笑った。

 

「じゃあ、トキって日本にいた頃からそんなにバスケしてたんだ」

 

「うん。ほとんど毎日」

 

「すごいね」

 

「ゲームもしてたけどね!」

 

「ふふっ。それは知ってる」

 

「ラリーのせいで最近もっと増えた!」

 

「ラリーが聞いたら怒りそう」

 

「絶対怒る!」

 

 二人は笑い合った。

 

 エマも少しずつ、自分のことを話してくれた。

 

 小さい頃からCBAの近くで暮らしてきたこと。ジェイクやゾーイとは昔から仲がよく、子供の頃には三人でよく遊んでいたこと。

 

 ダニーズ・ダイナーでアルバイトを始めたときには、注文を間違えないか緊張していたらしい。最初の頃はトレーを持つ手が震えてしまい、飲み物をこぼしかけたこともあったという。

 

「えっ、エマでもそんなことあるの?」

 

 時春が驚くと、彼女は笑いながら答えた。

 

「当たり前でしょ! 私だって最初から何でもできたわけじゃないよ」

 

「……そっか!」

 

「ほんと、トキって私のこと何だと思ってるの?」

 

「……スーパー・エマ?」

 

「またそれ!」

 

 エマは笑いながら時春の肩を軽く叩いた。

 

 時春も笑った。

 

 こんなふうにエマの話を聞くのは、初めてかもしれない。

 

 普段の教室では、どうしてもジェイクやゾーイを交えた賑やかな会話になる。二人で勉強したときも、数学や英語の宿題のことで精一杯だった。

 

 けれど今夜は、お互いのことをゆっくり話している。

 

 エマが小さい頃どんな子供だったのか。何が苦手で、どんなことに悩んでいるのか。

 

 知っているつもりで、まだ知らないことがたくさんあった。

 

 時春はそれが何だか面白かった。

 

 やがて会話が途切れると、二人はしばらく夜景を眺めていた。

 

 遠くの道路では、車の明かりがゆっくりと移動している。

 

 時春は空を見上げた。

 

 いくつかの星が瞬いていた。

 

 日本で見ていた空と同じようで、少し違って見える。星の位置が違うのか、周囲の景色が違うからなのか、自分にはよくわからない。

 

 そんなことを考えていると、隣でエマが小さく声を上げた。

 

「あっ、ねえ、トキ」

 

「ん?」

 

「ちょっと思いついたんだけど」

 

「……何?」

 

 エマは少しいたずらっぽく笑った。

 

「……私、トキの通訳になろうかな」

 

「…………」

 

 時春は目を瞬かせた。

 

「……通訳?」

 

「うん!」

 

 エマは楽しそうに頷いた。

 

「トキがNBA選手になったら、英語のインタビューとかいっぱい受けるでしょ?」

 

「……ああ」

 

「そのとき、私が隣で通訳するの!」

 

「……えっ!?」

 

 時春は思わず声を上げた。

 

「何それ!」

 

「いいアイデアじゃない?」

 

 エマは笑った。

 

「日本語も英語も話せるし、トキの言いたいこともわかるし!」

 

「いや、でも!」

 

 時春は慌てて首を振った。

 

「その頃には、俺だって英語ペラペラになってると思うけど!」

 

「えー? 本当に?」

 

「本当だって!」

 

「じゃあ、今、相似の問題を英語で説明してみて」

 

「……えっ?」

 

 時春は固まった。

 

 相似。

 

 対応する辺の比。

 

 角度の関係。

 

 日本語なら、簡単に説明できる。

 

 しかし、今すぐ英語で、しかも文法を間違えずに説明しろと言われると、なかなか難しい。

 

「……あー……」

 

 時春は少し考えた。

 

 エマは楽しそうにこちらを見ている。

 

「……えっと、トライアングル……」

 

「うん?」

 

「セイム……レシオ……アンド……」

 

 そこまで言って、時春は諦めた。

 

「……やっぱ通訳、お願いしていい?」

 

 エマが吹き出した。

 

「あはは! ほら!」

 

「……くっそ!」

 

 二人は声を上げて笑った。

 

 笑いが収まると、エマは少しだけ真面目な顔になった。

 

「……でもさ」

 

「ん?」

 

「そういうの、楽しそうだよね」

 

「通訳?」

 

「うん。トキが本当にNBA選手になったら、私も試合を観に行きたいな」

 

 時春は笑った。

 

「来てよ! 絶対!」

 

「ふふっ。じゃあ、一番いい席を用意してもらおうかな」

 

「えっ、俺が?」

 

「もちろん! NBA選手なんでしょ?」

 

「……そっか!」

 

 時春は嬉しそうに頷いた。

 

「じゃあ、コートサイド!」

 

「ほんとに?」

 

「うん! でも、めっちゃ高いらしいよ!」

 

「そこはトキが何とかしてよ!」

 

 エマが笑った。

 

 時春も笑いながら、頭の中で想像してみた。

 

 NBAの大きなアリーナ。

 

 何万人もの観客に囲まれたコートで、自分がバスケットボールをしている。

 

 観客席にはエマがいて、試合が終わったあとには、英語のインタビューを手伝ってくれる。

 

 ……何だそれ。

 

 めちゃくちゃ面白そうじゃん。

 

 時春は思わず笑った。

 

「……じゃあさ」

 

「ん?」

 

「俺がNBA行けたら、最初のインタビューお願いね」

 

 エマが目を丸くした。

 

 それから、嬉しそうに笑った。

 

「……うん!」

 

 少しだけ身を乗り出す。

 

「約束!」

 

「約束!」

 

 時春は笑顔で頷いた。

 

 そして、ふと思い出した。

 

 約束。

 

 そういえば、前にもエマと約束を交わしたことがある。

 

 数学を教える代わりに、英語を教えてもらう。

 

 入学して間もない頃、小指を絡めて交わした約束だった。

 

 あのときは、これからどんな学校生活になるのかもわからなかった。それが今では、こうして夜の丘に並んで座り、将来の夢について話している。

 

 しかも、今度の約束はNBA選手と通訳である。

 

 ……でかすぎるだろ。

 

 時春は自分でもおかしくなった。

 

「……エマ」

 

「ん?」

 

「小指」

 

 時春は笑いながら、小指を立ててみせた。

 

 エマは一瞬きょとんとしたが、すぐに思い出したように笑った。

 

「あっ! また?」

 

「また!」

 

 エマはくすくす笑いながら、小指を差し出した。

 

 二人の小指が、そっと絡まる。

 

「……約束ね」

 

「うん!」

 

 時春は頷いた。

 

 海からの風が吹き、遠くの街の明かりが夜の中で静かに瞬いている。

 

 エマは絡めた小指を少しだけ揺らしてから、笑顔で手を離した。

 

「でも、トキ」

 

「ん?」

 

「私、ほかにやりたいこと見つけるかもしれないからね?」

 

「もちろん!」

 

 時春は即座に頷いた。

 

「そしたら、それも応援する!」

 

 エマは少し驚いたように目を丸くし、それから嬉しそうに笑った。

 

「……ありがとう」

 

 時春も笑った。

 

 まだ何になるのかわからない彼女が、いつか何か夢中になれるものを見つける。

 

 それがどんなものなのかは、時春にも想像できない。

 

 けれど、エマが楽しそうにその話をしてくれる日が来たら、きっと自分も嬉しいだろう。

 

     ◇

 

 気がつけば、随分と時間が経っていた。

 

 時春がスマートフォンを確認すると、時計は午後八時半を少し回っていた。

 

「……あっ!」

 

 エマがこちらを向く。

 

「どうしたの?」

 

「もう八時半だ!」

 

「えっ?」

 

 エマもスマートフォンを取り出し、画面を確認した。

 

「ほんとだ。結構長くいたね」

 

「うん!」

 

 時春は頷いた。

 

 体育館を出たのは、たしか七時半を過ぎた頃だった。

 

 静かな場所で少し休むだけのつもりだったのに、気づけば一時間近く経っている。

 

 ……すげえ。めちゃくちゃ喋ったな。

 

 しかも、英語で。

 

 時春は少し驚いた。

 

 アメリカへ来たばかりの頃なら、こんなに長く英語で会話することなど考えられなかった。単語がわからず何度も止まり、言いたいことを伝えられなくて困っていたはずだ。

 

 もちろん、今夜だって何度も言葉に詰まった。

 

 特に自分の夢について話すときは、何をどう説明すればいいのかわからなくなった。

 

 それでも、話すことができた。

 

 完璧な文章ではなかったし、途中で日本語を混ぜたこともあった。エマに意味を確かめてもらいながら、何度も言い直した。

 

 けれど、最後にはちゃんと伝わった。

 

 時春はそれが嬉しかった。

 

「……エマ」

 

「ん?」

 

「今日、ここ来てよかった」

 

 エマが微笑んだ。

 

「……うん」

 

「景色もめちゃくちゃきれいだったし……」

 

 時春は少し考えた。

 

「……いろいろ話せたし」

 

 エマは一瞬、目を丸くした。

 

 それから、柔らかく微笑んだ。

 

「……私も」

 

 二人は少しのあいだ顔を見合わせていた。

 

 時春は何となく、視線を逸らした。

 

 さっきから、エマと話しているだけなのに妙に落ち着かなくなる。

 

 けれど、その時間が嫌なわけではなかった。

 

 むしろ、もう少しここにいたいような気がした。

 

「……戻ろっか?」

 

 エマが尋ねた。

 

「……うん!」

 

 時春は頷き、ベンチから立ち上がった。

 

 夜風がジャケットの裾を揺らす。

 

 時春はもう一度、丘の向こうに広がる景色を眺めた。

 

 暗い海と、無数の街の灯り。その向こうには、遠くの岬が夜の中にぼんやりと浮かんでいる。

 

 ここへ来たときと、景色は何も変わっていないはずだった。

 

 それでも、今はさっきよりも少し親しみを感じた。

 

 ……また来たいな。

 

 時春はそう思った。

 

 できれば、またエマと一緒に。

 

     ◇

 

 二人はゆっくりと坂道を下り始めた。

 

 来たときと同じ遊歩道を、今度は並んで歩いていく。

 

 エマはときどき足元を確かめながら、丘の周辺について教えてくれた。時春もそれに頷き、道端に生えている見慣れない植物を指差して質問したり、木の影を見て妙な冗談を言ったりした。

 

 しばらく歩くと、遠くからまた音楽が聞こえ始めた。

 

 ホームカミング・ダンスは、まだ続いているらしい。

 

 時春は思わず笑った。

 

 ……ジェイク、絶対まだ踊ってるだろ。

 

 あれほど体育館の音楽がうるさく感じられたのに、今はもう一度中へ戻ってもいいような気がする。

 

 もちろん、また十分くらいで疲れてしまうかもしれない。

 

 それでも、もう少し友達と一緒に楽しみたかった。

 

「……ねえ、トキ」

 

 隣でエマが声をかけてきた。

 

「ん?」

 

「一つ、お願いしてもいい?」

 

「……何?」

 

 エマは少しだけ歩く速度を落とした。

 

「……今日の話、しばらく二人だけの秘密にしてくれる?」

 

「……えっ?」

 

「私が将来のことで悩んでることとか、そういうの」

 

 時春は彼女の顔を見た。

 

 エマは少し照れくさそうに笑っていた。

 

「別に、みんなに知られたら困るってわけじゃないんだけど……まだ、あんまり話したくなくて」

 

 時春はすぐに頷いた。

 

「もちろん!」

 

 エマはほっとしたように微笑んだ。

 

「ありがとう」

 

「じゃあ、俺のNBAの話も秘密ね!」

 

「……えっ?」

 

「だって、こっちの友達にはまだちゃんと言ってないんだもん!」

 

 時春は照れくさそうに笑った。

 

「ジェイクに知られたら、絶対うるさいじゃん!」

 

 エマは一瞬きょとんとしたあと、声を上げて笑った。

 

「あはは! 確かに!」

 

「絶対『BRO! NBA!?』とか叫ぶでしょ!」

 

「言いそう!」

 

「で、次の日には学校中に広まってるんだよ!」

 

「ふふっ、想像できる!」

 

 二人は笑い合った。

 

 しばらくして、エマは小さく頷いた。

 

「……わかった。トキの夢も、秘密にするね」

 

「うん!」

 

 時春は笑顔で頷いた。

 

 自分の夢と、エマの悩み。

 

 どちらも、普段の友達との会話ではあまり話さないようなことだった。

 

 それを今夜、二人で話した。

 

 時春は隣を歩くエマをちらりと見た。

 

 今までのエマは、いつも明るくて、優しくて、学校のことなら何でも知っている女の子だった。

 

 もちろん、今でもそう思っている。

 

 けれど、将来について悩んでいたり、ときには一人になりたくなったりすることを、今日初めて知った。

 

 そういう一面を知っても、彼女に対する印象が悪くなったわけではない。

 

 むしろ、前より少し親しくなれたような気がした。

 

 ……やっぱり、エマはエマだな。

 

 時春は小さく笑った。

 

     ◇

 

 体育館が見えてきた頃、エマは少しだけ歩く速度を落とした。

 

「……トキ」

 

「ん?」

 

「NBA、絶対行ってね」

 

 時春は驚いて彼女を見た。

 

 エマは笑っていた。

 

 いつもの明るい笑顔だったが、その目は真剣だった。

 

「私、応援してるから」

 

 時春は少し黙ったあと、ゆっくりと頷いた。

 

「……うん!」

 

 NBAという夢は、相変わらず遠い。

 

 そこへ到達できるかどうかなんて、誰にもわからない。十一月のトライアウトに受かるかどうかさえ、まだ決まっていないのだ。

 

 けれど、今夜その夢をエマに話せてよかったと思う。

 

 大きすぎる夢を笑われなかったことも、かっこいいと言ってもらえたことも、嬉しかった。

 

 それに、もしこれからバスケで上手くいかないことがあったら、今夜の会話を思い出すかもしれない。

 

 エマが応援すると言ってくれたことを。

 

「……じゃあ、エマ」

 

「ん?」

 

 時春は少し笑った。

 

「俺がNBA行ったら、ちゃんと通訳してね!」

 

 エマが声を上げて笑った。

 

「もちろん!」

 

「英語で難しい質問されたら頼むよ!」

 

「任せて!」

 

「でも、数学の質問だったら俺が答える!」

 

「あはは! それはお願い!」

 

 二人は笑い合った。

 

 遠くから音楽が聞こえてくる。

 

 体育館の入口には青と白の風船が揺れ、その向こうでは今も大勢の生徒たちが踊っているらしい。

 

 ホームカミングの夜は、まだ終わっていなかった。

 

 時春は隣を歩くエマの顔を見た。

 

 淡いブルーのドレスに、夜風に揺れる茶色い髪。耳元のアクセサリーが、街灯の光を受けて小さく輝いている。

 

 今日、彼女について新しく知ったことがたくさんある。

 

 まだまだ知らないことだって、きっとあるだろう。

 

 学校でのエマ。

 

 ダニーズで働いているエマ。

 

 そして、誰もいない丘で静かに夜景を眺めているエマ。

 

 これから、どんな話を聞かせてもらえるのだろう。

 

 そう思うと、少し楽しみだった。

 

「……行こっか、トキ!」

 

 エマが笑顔で言った。

 

「うん!」

 

 時春も笑った。

 

 二人は並んで体育館へ向かった。

 

 入口へ近づくにつれて、音楽と歓声が大きくなっていく。

 

 さっきまであれほど静かな場所にいたのに、扉の向こうにはまた賑やかな世界が広がっている。

 

 時春は少しだけ笑った。

 

 きっと中へ戻れば、ジェイクがまた意味不明なダンスをしているだろう。ゾーイはそれを呆れた顔で撮影し、誰かが大声で笑っているに違いない。

 

 いつもの、騒がしい友達たちだ。

 

 けれど、今夜はそんな騒がしさも少し懐かしく感じられた。

 

「……準備いい?」

 

 時春が尋ねると、エマは満面の笑みで頷いた。

 

「もちろん!」

 

 時春は体育館の扉へ手を伸ばした。

 

 その瞬間、向こう側から聞き慣れた大声が響いた。

 

「HEEEEEY!! トキぃぃぃ!! エマぁぁぁ!! どこ行ってたんだよおおお!!」

 

「…………」

 

 時春は固まった。

 

 ジェイクだった。

 

 どうやら、二人が戻ってきたことに気づいたらしい。

 

 時春はゆっくりと目を閉じた。

 

 ……ああ、帰ってきた。

 

 しかも、想像通りめちゃくちゃうるさい。

 

「お前ら、ずっと二人で何してたんだよおおお!!」

 

「ジェイク!」

 

 エマが笑いながら叫んだ。

 

「ちょっと休んでただけだって!」

 

「へえええ!? 二人でえええ!?」

 

 ジェイクの声がさらに大きくなる。

 

 時春は大きく息を吸い込んだ。

 

「シャラァァァァップ!!」

 

 周囲の生徒たちが振り返り、何人かが笑い始めた。

 

 ゾーイも近づいてきて、呆れたように肩をすくめる。

 

「おかえり。二人とも、ジェイクの相手お願いね。もう限界だから」

 

「おい、ゾー!」

 

「こっちは一時間近く、この犬のダンスを見せられてたんだから」

 

「犬じゃねえって!!」

 

 ジェイクが叫び、エマが吹き出した。

 

 時春もとうとう笑ってしまった。

 

 ついさっきまで丘の上で、将来の夢について真面目に話していたのが嘘のようだ。

 

 けれど、どちらの時間も楽しかった。

 

 あの静かな丘でエマと交わした約束も、こうして友達と笑い合っている今も、時春にとっては大切なものだった。

 

「ほら、トキ! もう一回踊ろうぜ!」

 

 ジェイクが手を差し出した。

 

「えっ、また!?」

 

「当たり前だろ! まだ全然踊ってないじゃん!」

 

「いや、めっちゃ踊っただろ!」

 

「足りないんだよ!」

 

 ジェイクは時春の腕をつかみ、再びダンススペースへ引っ張っていこうとする。

 

 時春は思わずエマを振り返った。

 

 彼女は楽しそうに笑っていた。

 

「行っておいでよ、トキ!」

 

「エマも来てよ!」

 

「ふふっ、もちろん!」

 

 エマが頷き、ゾーイも笑いながら二人の後を追った。

 

 DJが新しい曲を流し始める。

 

 青と白の照明がフロアを照らし、大勢の生徒たちが音楽に合わせて体を揺らしていた。

 

 時春もその輪に加わった。

 

 さっきまでの疲れが完全になくなったわけではないし、ダンスだって相変わらず下手だった。

 

 それでも、今はもう少しだけ踊っていたかった。

 

 目の前ではジェイクが奇妙なステップを踏み、ゾーイがそれを笑いながら撮影している。

 

 エマも隣で楽しそうに踊っていた。

 

 時春は彼女と目が合い、思わず笑った。

 

 エマも笑い返してくれた。

 

 今夜、丘の上で話したことは、二人だけの秘密だ。

 

 NBA選手になりたいという夢も、エマが将来について悩んでいることも、ジェイクやゾーイはまだ知らない。

 

 だから、こうして戻ってきても、何かが大きく変わったわけではなかった。

 

 いつもの友達がいて、いつものように笑い合っている。

 

 ただ、時春には一つだけ、前より楽しみになったことがあった。

 

 明日も、来週も、その先も。

 

 エマともっといろいろな話をしてみたい。

 

 今夜はまだ知らなかった彼女のことを知ることができたし、自分のことも少しだけ知ってもらえた。

 

 それが、何だか嬉しかった。

 

「BRO! トキ! 見ろよ、この動き!」

 

 ジェイクが突然、両腕を大きく広げて回転した。

 

「うわっ! 危なっ!」

 

「どうよ!?」

 

「いや、何だよそれ!!」

 

 時春が笑うと、エマも吹き出した。

 

 そして、ジェイクはまた得意げに踊り始めた。

 

 ……まったく。

 

 こいつは本当に変わらないな。

 

 時春は声を上げて笑いながら、もう一度エマの方を見た。

 

 彼女も笑っていた。

 

 淡いブルーのドレスが、音楽に合わせて柔らかく揺れている。

 

 その姿を見て、時春は何となく思った。

 

 今夜は、きっと忘れられない夜になる。

 

 初めてのホームカミング。

 

 エマに案内してもらった、海の見える丘。

 

 そこで話した夢と、二人で交わした約束。

 

 そして、戻ってきたこの騒がしい体育館。

 

 どれも、今の自分にとって大切な思い出になるだろう。

 

 時春は笑顔で両手を上げ、音楽に合わせて軽くステップを踏んだ。

 

「トキ! いいじゃん!」

 

 エマが隣で笑った。

 

「……へへ!」

 

 時春も笑った。

 

 青と白の光が揺れる体育館で、二人の笑い声が音楽に溶けていく。

 

 ホームカミングの夜は、まだ続いていた。

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