十月最後の金曜日、高山時春は、アメリカ人がハロウィーンという行事に対して抱いている情熱を、少々甘く見ていたことに気づいた。
きっかけは、朝の登校途中だった。いつものように寮を出て、中央広場へ続く歩道を歩いていた時春は、図書館の入口に立っている人影を見つけた。人影というには少し細く、妙に白い。しかも、青いCBAのパーカーを着て、片手にコーヒーのカップを持っているように見える。
近づいてみると、骸骨だった。
「うわあああああっ!」
思わず叫んだ時春に、隣を歩いていたラリー・ナードが迷惑そうな顔を向けた。
「……トキ、朝からうるさい」
「いや、あれ! あれ見て!」
「ああ、ボブね」
「ボブ!?」
「図書館の先生が名前つけたんだって」
ラリーは何でもないことのように答え、骸骨の前を通り過ぎていった。時春はその後ろ姿を見つめてから、もう一度骸骨に目を向けた。白い指先で紙コップを握り、歯をむき出しにした頭蓋骨が、こちらへ笑いかけている。
……いや、名前つけたら怖くなくなるってわけじゃないだろ。
図書館を過ぎても、異変は続いていた。中央広場の大きな木にはオレンジ色のランタンが吊るされ、校舎の窓にはコウモリや魔女の影が貼られている。カフェテリアの入口には大小さまざまなカボチャが並べられ、蜘蛛の巣を模した白い綿が掲示板から天井まで張り巡らされていた。よく見ると、数学の教室の扉には包帯を巻いたミイラの絵まで貼られている。昨日までは普通の私立高校だった場所が、たった一晩でハロウィーン映画の撮影現場に変わってしまったようだった。
「……すげえな」
時春が呟くと、ラリーは少しだけ口元を緩めた。
「明日はもっとすごいよ」
「……もっと?」
「ハロウィーン・フェスティバルがあるから」
十月三十一日、土曜日。CBAでは毎年、中央広場を使ったハロウィーン・フェスティバルが開催される。寮生だけでなく、自宅から通う生徒やその家族も参加できる行事で、仮装コンテスト、ゲーム、カボチャ彫り、屋台、演劇クラブによるお化け屋敷などが催されるらしい。日本の学校でいう文化祭に少し似ているが、参加者全員が仮装しているところが大きな違いだった。
「トキ、衣装は?」
「……えっ?」
「ハロウィーンの」
「……いや、ないけど」
ラリーの足が止まった。
丸いメガネの奥から、何とも言えない視線が向けられる。
「……ない?」
「うん」
「明日なのに?」
「……うん」
ラリーはしばらく黙っていた。やがて、何かを決心したように小さく頷くと、再び歩き始めた。
「……わかった」
「……何が?」
「帰ったら話がある」
「……えっ?」
その口調に妙な迫力があり、時春は少しだけ不安になった。ラリーがこんなふうに何かを決めた顔をするのは、ゲームで強敵を倒す作戦を立てているときくらいである。
……何だろう。
嫌な予感がする。
◇
その日の昼休み、カフェテリアでも話題はハロウィーン一色だった。
「見ろよ、トキ! これが俺の今年の衣装だ!」
ジェイク・ハリスが得意げに差し出したスマートフォンには、巨大な茶色いティラノサウルスが写っていた。空気で膨らむ着ぐるみらしく、丸々とした胴体の下から人間の足が二本突き出している。短い腕を左右に広げ、リビングの中央で威張っているその姿は、恐竜というより妙な生き物だった。
「……これ、ジェイク?」
「そうだ!」
「……何で恐竜?」
「かっこいいだろ!?」
時春は画面を見つめた。大きな頭、丸い腹、やたら短い腕、そして足首から下だけが妙に人間らしい。
我慢できずに吹き出した。
「あはははは! 何これ! 足!」
「そこが最高なんだよ!」
「去年は巨大なニワトリだったからね」
隣でサンドイッチを食べていたゾーイ・ウォーカーが、何気なく言った。
「……ニワトリ!?」
「その前はホットドッグ」
「ぶっ!」
「ゾーイ! 余計なこと言うな!」
時春が腹を抱えて笑っていると、向かいに座っていたエマ・パーカーも楽しそうに笑い始めた。彼女は淡い色のカーディガンを羽織り、いつものように茶色い髪を肩へ流している。ホームカミングから二週間ほどが経ち、学校生活は再び普段の賑やかさを取り戻していたが、時春にとってエマは、あの夜の丘で話したことを共有する、少し特別な友達になっていた。
もちろん、普段の二人の会話が大きく変わったわけではない。英語の宿題を教えてもらい、数学の問題を一緒に解き、ジェイクの冗談に呆れながら笑う。そんな毎日が続いている。ただ、廊下で目が合ったときや、授業の合間に短い会話を交わしたとき、以前よりほんの少しだけ、お互いのことをよく知っているような気持ちになることがあった。
あの丘で、自分は初めてNBAへの夢を話した。エマも、将来の夢が見つからないという悩みを話してくれた。二人だけの秘密になったその会話は、あれから誰にも話していない。
「ねえ、トキは何の仮装するの?」
エマに尋ねられ、時春は我に返った。
「……ああ、それがさ。まだ決まってなくて」
「えっ、明日なのに?」
「うん。でも、ラリーが何か考えてるみたい」
「ラリーが?」
エマは少し驚いた顔をした。
「ゲームクラブのみんなと仮装するって話してたよ」
「そうなの?」
「うん。最近すごく楽しそうなんだよね」
時春は頷いた。
それは自分も感じていた。九月のクラブ・ラッシュで、ラリーはゲームクラブの登録用紙に名前を書いた。あのときは最後まで「入部を決めたわけじゃない」と言い張っていたのだが、十月になる頃には木曜日の放課後に部室へ通うようになり、今では週末にオンラインでゲームをする友達までできていた。以前は寮の部屋で一人黙々と遊んでいたラリーが、最近はゲームの最中に誰かと笑ったり、通話をしながら冗談を言い合ったりしている。
ラリー自身は、そうした変化をわざわざ口にしない。それでも、時春には何となくわかっていた。
「エマは?」
時春が尋ねると、彼女は少しだけ得意げに笑った。
「私はもう準備できてるよ」
「……何の仮装?」
「秘密!」
「ええっ!?」
「明日のお楽しみ」
エマは楽しそうに笑い、時春は頬を膨らませた。すると、それまで黙っていたジェイクが突然にやにやし始めた。
「へえ。トキ、エマの仮装がそんなに気になるのか?」
「……えっ?」
「なるほどなあ」
「いや、普通に気になるだけだって!」
「俺、まだ何も言ってないけど?」
時春は言葉に詰まった。
ゾーイが静かにため息をつく。
「ジェイク、それ以上やるとまた怒鳴られるよ」
「いやいや、俺は純粋な好奇心で――」
「シャラァァァップ!!」
「ほらね」
カフェテリアに笑い声が広がった。
◇
その夕方、時春が寮の部屋へ戻ると、床が大変なことになっていた。
緑色の布、青い紙、段ボール、接着テープ、切り抜かれた正方形の色紙。机の上には何やら四角い顔が置かれ、その横には青と紫のピクセル模様が描かれた道具まで転がっている。
「……ラリー?」
「おかえり」
ラリーは机に向かったまま答えた。
「……何これ?」
「衣装」
「……衣装?」
時春はゆっくり近づいた。そして、机に置かれた四角い顔を見た瞬間、目を輝かせた。
「……スティーブ!?」
「そう」
ラリーは満足そうに頷いた。水色のシャツ、青いズボン、四角い頭。どう見ても『Minecraft』のスティーブである。段ボール製の頭はピクセルの模様まで丁寧に再現されており、近くにはゲームに登場するダイヤモンドのツルハシを模した小道具も置かれていた。
「うおお! すげえじゃん!」
「ゲームクラブのみんなと作ったんだ」
「……マジ!?」
「うん。昨日、部室で」
ラリーは何気なく答えたが、その声はどこか嬉しそうだった。
「オーウェンは『Fortnite』のピーリー。エイブリーはゼルダ姫。ニーナはカービィ。みんなでゲームキャラの仮装をすることになって」
「へえ! いいじゃん!」
「それで、君のもある」
「…………」
時春は固まった。
「……えっ?」
ラリーは足元の箱を指差した。
そこには、緑色の四角い頭が置かれていた。黒い四角形を組み合わせた、独特の顔。正面には視界を確保するための目立たない穴が開けられており、隣には緑色のパーカーとズボンまで畳んである。
時春はその顔を知っていた。
いや、ゲームをしている人間なら、知らない方が難しいだろう。
「……クリーパー!?」
「そう」
「……俺が!?」
「スティーブにはクリーパーが必要でしょ」
「いや、必要って何!?」
時春は思わず叫んだ。クリーパーといえば、Minecraftの世界でプレイヤーへ近づき、爆発することでおなじみのモンスターである。何時間もかけて建てた家を一瞬で破壊され、絶望した経験は時春にもあった。確かに知名度は抜群だが、わざわざ自分が仮装したいと思うかは別問題だった。
「俺、仮装するなんて言ってないじゃん!」
「だから作ったんだよ」
「……どういう理屈!?」
「衣装がないからできないんでしょ? じゃあ衣装があればできるじゃん」
ラリーは真顔だった。
時春はしばらく抗議したものの、結局、目の前に置かれた衣装を手に取ってしまった。段ボール製の頭は予想以上に丁寧に作られ、内側には柔らかい素材まで貼られている。緑色のパーカーも、ただの無地ではなく、濃淡の違う四角い模様でクリーパー特有の質感が再現されていた。
「……これ、全部ラリーが作ったの?」
「だいたいね。顔の模様はエイブリーが手伝ってくれた」
「……すごいなあ」
時春は素直に感心した。
ラリーは少し照れくさそうにメガネを押し上げた。
「……別に、そんな大したことじゃないよ」
「いや、すごいって!」
時春は緑色の頭を持ち上げた。これだけのものを作るには、きっとかなりの時間がかかったはずだ。しかも、最初から自分の分まで用意してくれていたらしい。ラリーが何を考えているのかよくわからないときは多いが、少なくとも今回の衣装には、妙に丁寧な気遣いが感じられた。
「……よし!」
時春は突然、クリーパーの頭をかぶった。
「じゃあ、明日これで行く!」
ラリーが顔を上げた。
「……本当に?」
「もちろん!」
時春は両手を広げた。
「せっかく作ってくれたんだもん!」
鏡の前へ立ってみると、そこには四角い頭をした緑色の怪物がいた。正面の穴から見える景色は少し狭かったが、首を動かすのに問題はない。横に並んだラリーがスティーブの頭をかぶると、二人の姿はまるでゲーム画面から飛び出してきたようだった。
「……おお!」
時春は鏡に向かって叫んだ。
「めっちゃいいじゃん!」
ラリーが笑った。
「似合ってるよ」
「……いや、似合ってるって何!?」
「君、普段から急に叫ぶし」
「……えっ?」
「爆発するところとか、クリーパーにそっくり」
「Hey!」
時春が抗議すると、ラリーはとうとう声を上げて笑った。その笑い声が何だか嬉しくて、時春も一緒になって笑った。窓の外では夕暮れの光が寮の中庭を照らしており、机の上のツルハシが青く光っていた。
翌日のハロウィーンが、少し楽しみになった。
◇
十月三十一日。
土曜日の午後、CBAの中央広場は完全に別世界になっていた。
芝生の上にはいくつもの屋台が並び、木々の枝から吊るされたオレンジ色のランタンが風に揺れている。大小さまざまなカボチャが道沿いに積み重ねられ、その中には恐ろしい顔に彫られたものもあれば、妙に間の抜けた笑顔を浮かべたものもあった。カフェテリアの前からは焼き菓子とシナモンの香りが漂い、奥の方では吹奏楽の生徒たちが陽気な音楽を演奏していた。
さらに驚いたことに、先生たちまで本気だった。
Geometryの先生は吸血鬼の格好でお菓子を配り、図書館の司書は黒猫の耳をつけていた。廊下ですれ違った歴史の先生は、まるで本物の中世の騎士のような鎧を身につけていた。校長先生に至っては海賊の帽子と眼帯をつけ、腰におもちゃの剣まで下げている。
「……マジか」
時春はクリーパーの頭の中で呟いた。
この学校、気合いが入りすぎている。
日本にもハロウィーンのイベントはある。お店にはカボチャのお菓子が並び、街には仮装した人たちが現れる。けれど、時春にとって日本のハロウィーンといえば、どうしても渋谷のニュースの印象が強かった。
大勢の若者が集まり、何だか大変な騒ぎになっている。昔、トラックがひっくり返された事件もあった。
……あれ、燃えてたんだっけ?
時春の記憶の中では、毎年十月の終わりになると、テレビの向こうで何かしらのトラックが大変な目に遭っているような気がする。
もちろん、そんなわけはない。
しかし、それくらい日本で見ていたハロウィーンと、目の前の光景は違っていた。
ここでは小さな子供も、親も、高校生も、先生も、みんな一緒になって仮装を楽しんでいる。奇妙な格好で歩いていても、誰も不思議そうに見ない。むしろ、知らない相手でも気軽に「いい衣装だね!」と声をかけてくる。
……何か、いいなあ。
時春は素直にそう思った。
「トキ、こっち!」
ラリーに呼ばれて振り返ると、そこにはスティーブが立っていた。水色のシャツに青いズボン、四角い頭。手にはダイヤモンドのツルハシを持っている。
「……ラリー!」
時春は元気よく手を振った。
「どう!? 俺!」
「……完璧」
「だろ!?」
「ただ、クリーパーはそんなに喋らないけどね」
「……えっ?」
「もっと静かに近づいてくるんだよ」
ラリーは真面目な声で言い、それから低く息を吐いた。
「……シュー……」
時春は一瞬固まった。
Minecraftでクリーパーが爆発する直前に鳴らす、あの音だった。
そこで、時春は思いついたように両手を広げた。
「……シューーーーー!」
ラリーが一歩後ずさる。
「……トキ?」
「BOOOOOOM!!」
「うわっ!」
時春が大声で叫ぶと、近くにいた生徒たちが一斉に振り返った。中にはすぐにキャラクターを理解し、笑いながらスマートフォンを向けてくる者もいた。
「見て! スティーブとクリーパー!」
「写真撮っていい?」
「もちろん!」
時春は嬉しくなり、クリーパーらしく両手を少し下げた姿勢を取った。ラリーもツルハシを構え、慣れないながらもポーズを作る。シャッター音が何度か響き、写真を撮り終えた生徒たちは楽しそうに去っていった。
「……すげえな」
時春が感心していると、向こうから黄色い巨大な物体が近づいてきた。
最初は何なのかわからなかった。人の背丈ほどある黄色いものが二本の足で歩き、こちらへ大きく手を振っている。近づいてくるにつれ、それが『Fortnite』に登場するバナナのキャラクター、ピーリーだと気づいた。
「ラリー! トキ!」
「オーウェン!」
ラリーが嬉しそうに手を上げた。
その後ろには二人の女子生徒がいた。一人は金色の装飾が施された衣装に、長い金髪のウィッグをつけている。『ゼルダの伝説』のゼルダ姫だった。もう一人はピンク色の丸いパーカーを着て、頬に小さな赤い丸を描いている。こちらは『星のカービィ』のカービィである。
「紹介するよ。オーウェン、エイブリー、ニーナ。ゲームクラブの友達」
ラリーがそう言ったとき、時春はほんの少し驚いた。
友達。
ラリーが、初対面の人たちを自分からそう紹介したのだ。
「よろしく! 俺、トキ!」
「聞いてるよ! ラリーのルームメイトだろ?」
巨大なバナナが陽気に答えた。
「そのクリーパー、めちゃくちゃいいじゃん!」
「ありがと! ラリーが作ってくれた!」
「ほらね、ラリー。やっぱり完成度高いよ!」
ゼルダ姫のエイブリーがそう言うと、ラリーは少し恥ずかしそうに視線を逸らした。カービィのニーナも嬉しそうに頷き、さっそく全員で記念写真を撮ろうと言い出した。
五人が並ぶと、何とも奇妙な光景になった。スティーブとクリーパー、巨大なバナナ、ゼルダ姫、それにカービィ。ゲームの世界が違いすぎて、同じ画面に登場したらいったい何が起こるのか想像もつかない組み合わせだった。
しかし、それがかえって面白かった。
近くにいた生徒に写真を頼むと、オーウェンはバナナの衣装で大げさにポーズを取り、エイブリーは剣を構える真似をし、ニーナは両手を頬に当てて笑った。ラリーもツルハシを持ち上げ、時春は爆発寸前のクリーパーになりきった。
写真を確認した瞬間、全員が笑い出した。
「何これ! 最高じゃん!」
「ピーリーだけ大きすぎる!」
「カービィがクリーパーに食べられそう!」
「いや、俺、爆発する方だから!」
冗談が飛び交う中、ラリーも声を上げて笑っていた。以前なら、こんな大勢の輪の中にいるだけで疲れた顔をしていたかもしれない。けれど、今の彼は自分からオーウェンに話しかけ、ニーナの衣装を褒め、エイブリーと次のゲームイベントの相談をしていた。
時春は少し離れたところから、その姿を眺めた。
……よかったなあ、ラリー。
入学したばかりの頃、二人はまだ互いのことをほとんど知らなかった。ラリーはいつもゲームをしていて、口数が少なく、人付き合いがあまり得意ではなさそうだった。時春も英語が苦手で、彼の冗談を理解できないことが何度もあった。
それが今では、寮の部屋でゲームをしたり、宿題の愚痴を言い合ったり、夜中にくだらない話をしたりする仲になっている。
さらに、ラリーにはゲームクラブという新しい居場所までできた。
そう考えると、何だか嬉しかった。
「……トキ!」
オーウェンに呼ばれ、時春は顔を上げた。
「今度さ、みんなでMinecraftの新しいワールド作るんだけど、一緒にやらない?」
「……えっ!?」
「ラリーがレッドストーンの仕掛け作ってくれるんだよ」
「マジ!? やるやる!」
時春が勢いよく頷くと、ニーナが笑い、エイブリーも嬉しそうに頷いた。ラリーは少しだけメガネを押し上げ、何でもないことのように言った。
「……まあ、君が来てもいいけどね」
「何だよそれ!」
「建築壊さなければ」
「壊さないって!」
時春が抗議すると、ラリーはにやりと笑った。
「君、今日クリーパーじゃん」
「……おい!」
また笑い声が広がった。
◇
午後三時を過ぎる頃、時春は中央広場の端で、ようやく見覚えのある友達を見つけた。
ゾンビのように顔を青白く塗り、破れた野球のユニフォームを着ていたのは、テオだった。帽子のつばからは赤い絵の具が垂れ、頬には傷のようなメイクが施されている。
「トキ! 見ろよ! ゾンビ野球選手!」
「……あはは! テオ!」
「どうだ!?」
「結局、野球じゃん!」
「当然だろ!」
テオは胸を張った。
少し離れたところでは、イジーが音楽制作クラブのテントで、ハロウィーン用に作った電子音楽を流していた。黒い衣装に銀色の飾りをつけ、近未来的な魔女のような格好をしている。彼女の音楽は不気味な低音から突然軽快なゲーム音楽へ変わり、通りかかった生徒たちが驚いたり笑ったりしていた。
さらに、カメラを構えたMJにも会った。彼は古い映画監督のような帽子をかぶり、顔にはゾンビ風のメイクをしていた。どうやら今日のフェスティバルを短い映像作品にするつもりらしい。
「トキ、その衣装いいね!」
「ありがと!」
「ちょっと撮っていい?」
「もちろん!」
クリーパーの頭をかぶった時春が大げさに手を広げると、MJは嬉しそうにカメラを構えた。その撮影が終わる頃には、時春もすっかりハロウィーンの雰囲気に馴染んでいた。
知らない人たちが、知らないキャラクターの格好をしている。
それだけなのに、どうしてこんなに楽しいのだろう。
日本ではあまり意識しなかったが、ハロウィーンというのは、誰もが一日だけ別の誰かになれるお祭りなのかもしれない。普段は静かなラリーがスティーブになり、いつもうるさいジェイクが恐竜になり、真面目な先生が吸血鬼になる。自分だって緑色の怪物になっているのだから、なかなか奇妙な話である。
時春はそんなことを考えながら、カボチャのランタンが並ぶ道を歩いた。
そのときだった。
「……ねえ、トキ?」
背後から、聞き慣れた声がした。
振り返ると、そこに小さな魔女が立っていた。
黒いとんがり帽子に、紫色のリボン。膝丈の黒いワンピースには淡い紫の刺繍が入り、肩には短いケープがかかっている。ゆるく波打つ茶色い髪は帽子の下から柔らかく流れ、耳元には小さな星のアクセサリーが揺れていた。手にはカボチャの形をしたお菓子入れを持ち、いつもより少しだけ華やかなメイクをしている。
エマだった。
「…………」
時春は立ち止まった。
「……トキ?」
「…………」
「……どうしたの?」
エマが不思議そうに首を傾げた。
時春は何とか口を開いた。
「……えっ。エマ?」
「そうだよ!」
エマは声を上げて笑った。
「誰だと思ったの?」
「いや! わかってたけど!」
慌てて答えながら、時春は自分の顔が熱くなるのを感じていた。
……いや。
ちょっと待って。
めちゃくちゃ可愛くない?
ホームカミングのときのドレスも可愛かったけど、今日の衣装はまた違った。黒と紫の落ち着いた色がよく似合っていて、帽子の下から覗く茶色い髪がやけに柔らかく見える。笑うと頬が少し上がり、星のアクセサリーが小さく揺れた。
「どう? 魔女!」
エマは楽しそうにその場で一回転した。
スカートがふわりと広がる。
時春は少しだけ見とれてから、慌てて頷いた。
「……すごい!」
「すごい?」
「うん! めっちゃ似合ってる!」
エマは一瞬目を丸くし、それから嬉しそうに微笑んだ。
「……ありがと、トキ」
時春は照れくさくなり、クリーパーの頭を抱え直した。
……よし。
ちゃんと言えた。
以前なら、似合っていると一言伝えるだけでも、英語が出てこなくて困っていたかもしれない。今も少し緊張しているが、少なくとも気持ちを伝えることはできるようになった。
「……ところで」
エマは時春の持っている頭を指差した。
「それ、何?」
「……クリーパー!」
「クリーパー?」
「Minecraftの!」
「あっ! ラリーがいつもやってるゲーム?」
「そうそう!」
時春は嬉しくなり、頭をかぶり直してみせた。
エマは笑った。
「ふふっ、可愛い!」
「……可愛い!?」
「うん。何か四角くて面白い」
「いや、こいつ爆発するんだよ!」
「えっ!? そうなの?」
「そう! 家とか壊す!」
時春が熱弁すると、エマはますます笑った。
「じゃあ、トキにぴったりかも」
「……何で!?」
「すぐ大きい声出すから」
「……それ、ラリーにも言われた!」
二人は顔を見合わせて笑った。やがて時春はクリーパーの頭を外し、脇に抱えた。四角い顔の穴からではエマの表情がよく見えないし、何より少し蒸し暑かったのである。
エマは小さなカボチャのお菓子入れを差し出した。
「トリック・オア・トリート!」
「……えっ!?」
「お菓子くれなきゃ、魔法かけちゃうよ」
「魔法!?」
「そう!」
エマは悪戯っぽく笑った。
「次の数学のテストで、全部間違える魔法!」
時春は思わず吹き出した。
「あははは! それエマじゃん!」
「ちょっと!」
エマが笑いながら時春の腕を軽く叩いた。時春は慌ててポケットを探り、先ほどカフェテリアでもらった小さなチョコレートを取り出す。
「……はい!」
包み紙のついたチョコレートをカボチャの中へ入れると、エマは嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう!」
「どういたしまして!」
それから二人は、屋台の並ぶ道を並んで歩いた。エマは昨日から友達と衣装を用意していたことや、帽子のリボンをつけるのに少し苦労したことを話してくれた。時春も、ラリーに半ば強引にクリーパーの衣装を渡された話をすると、彼女は何度も声を上げて笑った。
「でも、よかったね」
エマが言った。
「ん?」
「ラリー。ゲームクラブ、楽しそうじゃん」
「……うん!」
時春は笑顔で頷いた。
「めちゃくちゃ楽しそう。今日も朝からずっとみんなと一緒だし」
「ふふっ。よかった」
「最初、クラブ入るの嫌がってたのにね」
「そうだったね」
二人は少し笑った。
時春は広場の向こうに目を向けた。スティーブの格好をしたラリーが、巨大なバナナと何やら真剣に話している。どうやら写真の撮り方について相談しているらしかった。ニーナとエイブリーも隣にいて、全員が楽しそうだった。
「……何かさ」
時春は呟いた。
「アメリカ来てよかったなって思う」
エマがこちらを向いた。
「……どうして?」
「だって、最初は何もわかんなかったじゃん。英語も難しいし、学校で迷子になるし」
エマが少し笑った。
「ふふっ。懐かしいね」
「でも、今は友達いっぱいできたし、こういうイベントにも来られるし」
時春はクリーパーの頭を軽く持ち上げた。
「……ラリーまで楽しそうだしさ」
エマは少しのあいだ時春を見つめていた。それから、柔らかく微笑んだ。
「……うん。私もよかったと思う」
「……ん?」
「トキがCBAに来てくれて」
「…………」
時春は目を瞬かせた。
エマは何でもないことのように笑っていた。
「だって、トキが来てから、学校が前より面白くなったもん」
「……えっ!?」
「ジェイクと毎日喧嘩してるし」
「喧嘩じゃないって!」
「ふふっ。わかってるよ」
時春は少し恥ずかしくなり、視線を逸らした。
……何だろう。
この子、たまに急にこういうこと言うよな。
ホームカミングの夜もそうだった。あの丘の上で、NBAの夢を話したとき、エマは笑わずに「かっこいい」と言ってくれた。それがどれほど嬉しかったか、今でも覚えている。
その記憶が蘇ったところで、エマがふと声を落とした。
「……そうだ、トキ」
「ん?」
「明日だよね。トライアウト」
時春の笑顔が、わずかに止まった。
「……あっ」
明日。
十一月一日。
CBAバスケットボールチームのトライアウト。
その言葉を聞いた途端、胸の奥が急に落ち着かなくなった。
「……うん」
時春は頷いた。
「ついに、明日」
エマは少し心配そうに顔を覗き込んだ。
「緊張してる?」
「……めっちゃ」
時春は苦笑した。
「実は、すげえ緊張してる」
「……そうなんだ」
「うん。何か、考えれば考えるほど怖くなってくる」
そう口にすると、急に明日の体育館の光景が頭に浮かんだ。知らない選手たち。コーチの厳しい視線。床を鳴らすバッシュの音。自分の順番が来るまでの、あの独特な緊張感。
日本で何度も大事な試合を経験してきたはずなのに、今回ばかりは少し違う。
ここに来た理由が、明日の結果に結びついているからだ。
エマはしばらく考え、それから笑った。
「……でも、トキなら大丈夫だと思うよ」
「……ほんと?」
「うん。今まで、ずっと頑張ってきたんでしょ?」
時春は頷いた。
「だから、明日はいつも通りのトキでやってきて」
エマはそう言って、クリーパーの頭を指差した。
「……あ、でも」
「ん?」
「爆発しちゃダメだよ?」
「……えっ?」
「クリーパーだから!」
時春は吹き出した。
「あははは! 大丈夫!」
「ほんと?」
「うん! 明日は普通の人間だから!」
エマも笑った。
時春は彼女の笑顔を見て、少しだけ安心した。緊張が消えたわけではない。それでも、自分のことを応援してくれる人がいるのだと思うと、胸の奥がほんの少し温かくなった。
「……ありがと、エマ」
時春が言うと、エマは微笑んだ。
「どういたしまして!」
◇
その頃、少し離れた場所では、二人の様子をじっと見つめている生徒たちがいた。
一人は黒いワンピースに白い襟をつけ、長い三つ編みを垂らした少女。海外ドラマ『ウェンズデー』の主人公、ウェンズデー・アダムスに扮したゾーイだった。元々落ち着いた色の服を好む彼女には、妙によく似合っている。
そして、もう一人は巨大なティラノサウルスだった。
「……なあ、ゾー」
「何?」
ゾーイはカメラを構えたまま答えた。
「あの二人、何かあったと思わない?」
巨大な恐竜が短い腕をぱたぱたさせる。
「……何かって?」
「いや、ホームカミングのあとからさ! 何か、空気が違う気がするんだよ!」
ゾーイはレンズから目を離した。
少し離れたところでは、クリーパーの頭を脇に抱えた時春と、魔女の格好をしたエマが楽しそうに話していた。エマが笑うと、時春も笑う。時春が何かを言うと、今度はエマが顔を覗き込む。
それ自体は、以前からよく見てきた光景だった。
エマは入学したばかりの時春を何度も助けていたし、二人は図書館で一緒に勉強もしていた。ホームカミング以前から仲がよかったことは、ゾーイだって知っている。
ただ、最近は何となく、二人が自然に隣へ並ぶことが増えた気がする。
以前の時春は、エマに褒められるとわかりやすく慌てていた。今でもそういうところはあるが、最近はそれに加えて、少し落ち着いて話せるようになっている。
そして、エマも。
……ふうん。
ゾーイは小さく目を細めた。
「……まあ、何かあったのかもね」
「だろ!?」
恐竜が勢いよく振り返った。
「絶対そうだよな!?」
「声、大きい」
「だって気になるじゃん!」
「気になるのはわかるけど」
ゾーイはカメラを下ろした。
「……ホームカミングの夜、あの二人しばらくいなかったでしょ?」
「そう! それなんだよ!」
ジェイクは興奮したように恐竜の腕を振った。
「どこ行ってたんだと思う!?」
「知らないよ」
「何かロマンチックなことが――」
「ジェイク」
「……何?」
「今は放っておいてあげなよ」
ゾーイは静かに言った。
「本人たちが何も言わないんだから」
巨大な恐竜はしばらく黙っていた。
それから、短い腕を胸の前で組もうとした。
しかし、腕が短すぎて届かなかった。
「……くっそ!」
ゾーイは吹き出した。
「……何してんの」
「いや、この衣装! 腕が!」
「自分で選んだんでしょ」
ジェイクは不満そうに恐竜の頭を揺らした。ゾーイはもう一度、遠くの二人へ視線を向けた。時春とエマは何も知らず、カボチャの飾りが並ぶ道をゆっくり歩いている。
ゾーイは少しだけ笑った。
……まあ、いいか。
今のところ、あの二人はあの二人のペースで楽しそうなのだから。
◇
夕方になると、ハロウィーン・フェスティバルはますます賑やかになった。
中央広場のランタンには灯りがともり、カボチャの顔が橙色に輝き始める。校舎の壁には紫色の照明が当てられ、暗くなりかけた空に、黒いコウモリの飾りが揺れていた。カフェテリアではハロウィーン限定の焼き菓子が配られ、家族連れで訪れた小さな子供たちが、仮装した高校生たちの間を楽しそうに歩き回っている。
時春はゲームクラブの仲間たちとカボチャ彫りに挑戦し、そのあとエマたちとも合流した。
ジェイクは予定通り巨大なティラノサウルスになっていた。
ただし、想像以上に動きづらいらしく、屋台の椅子に座ろうとして何度も失敗していた。空気で膨らんだ胴体がテーブルにつかえ、短い腕では飲み物のカップを上手く持てないのである。
「おい! 誰かストロー!」
「自分で取れば?」
ゾーイが冷静に答えた。
「腕が届かねえんだよ!」
「かっこいい衣装なんでしょ?」
「そうだけど!」
時春は腹を抱えて笑った。
「あははは! ジェイク! 最高!」
「笑ってないで助けろよ!」
結局、エマが笑いながらストローを渡してあげると、ジェイクはようやく飲み物を口にできた。巨大な恐竜が小さな紙コップのジュースを飲む光景はあまりにも奇妙で、周囲の生徒たちまで写真を撮り始めた。
その後、全員で演劇クラブのお化け屋敷へ入ることになった。
時春は入口の時点で少し後悔していた。
普段は使われていない校舎の一角が、赤い照明と古びた家具で飾られ、不気味な音楽が低く流れている。壁には蜘蛛の巣が張り巡らされ、奥の暗闇からはときどき何かを引きずるような音が聞こえてきた。
「……ちょっと待って」
時春は入口で立ち止まった。
「俺、ホラー苦手なんだけど」
「大丈夫だって!」
ジェイクが威勢よく答えた。
「俺が守ってやる!」
時春は隣を見た。
短い腕の巨大な恐竜が、得意げに胸を張っている。
「……その腕で?」
「腕は関係ねえだろ!」
ゾーイが呆れたようにため息をつき、エマは笑っていた。
しかし、入って十分もしないうちに、威勢のよかったジェイクは別人のようになった。
暗い廊下の曲がり角から、突然ゾンビ役の上級生が飛び出してきたのである。
「うわああああああっ!!」
最初に叫んだのは、時春だった。
次に叫んだのは、ジェイクだった。
「うおおおおおおおっ!!」
巨大なティラノサウルスが勢いよく後ずさり、そのまま壁にぶつかった。空気で膨らんだ胴体がぼよんと跳ね返り、恐竜はその場でぐるりと回転した。
「ちょっと! ジェイク!」
エマが笑いながら叫んだ。
「大丈夫!?」
「大丈夫じゃねえ!!」
ゾーイは大笑いしながらカメラを構えていた。
「……最高。今の絶対撮れた」
「ゾーイ! 助けろよ!」
時春は恐怖も忘れて笑い始めた。
……何だよこれ。
お化けよりジェイクの方が面白いじゃん。
結局、四人は何度も叫び、笑い、出口へたどり着いた頃にはすっかり疲れきっていた。時春はクリーパーの頭を抱え、ベンチに腰を下ろしながら深く息を吐いた。
「……ああ、怖かった」
エマが隣で笑った。
「でも、楽しかったでしょ?」
「……うん!」
時春は頷いた。
「めちゃくちゃ!」
その答えに、エマは嬉しそうに微笑んだ。
遠くではラリーたちが、ゲームクラブの仲間と仮装コンテストの順番を待っていた。巨大なバナナがひときわ目立ち、その隣でスティーブとゼルダ姫が何やら相談している。
時春はその光景を見ながら、ふと笑った。
今日一日だけで、いったい何回笑っただろう。
日本にいた頃、ハロウィーンがこんなに楽しいものだとは思わなかった。仮装をして、お菓子をもらって、友達と笑って、知らない人と写真を撮る。何か特別な目的があるわけではない。それでも、学校中が一緒になって楽しんでいる。
……アメリカって、面白いなあ。
時春はそう思った。
◇
午後七時を過ぎる頃、フェスティバルは少しずつ終わりに近づいていた。
仮装コンテストの優勝は、全身を巨大なタコに変身させた上級生だった。八本の腕がそれぞれ別の方向へ動く仕掛けになっており、登場した瞬間、観客席から大きな歓声が上がった。
ゲームクラブの仲間たちも団体部門で紹介され、時春たちは壇上で記念写真を撮った。残念ながら優勝は逃したが、ラリーはまったく気にしていない様子だった。オーウェンと笑いながら写真を確認し、次はもっと凝った衣装を作ろうと話している。
広場のランタンが一つずつ消され始める頃、時春はラリーと並んで寮へ向かっていた。
昼間はあれほど賑やかだったキャンパスも、夜になると急に静かになった。芝生には片づけ途中のテーブルが並び、遠くでは先生たちが飾りを外している。十月の夜風は少し冷たく、時春は緑色のパーカーの袖を引っ張った。
「……いやあ、楽しかったな!」
時春が言うと、ラリーは小さく頷いた。
「……うん」
「マジで楽しかった!」
「さっきも言ってたよ」
「だって楽しかったんだもん!」
時春は笑った。
ラリーも少しだけ口元を緩めた。
二人はしばらく黙って歩いた。
やがて、ラリーがぽつりと言った。
「……僕さ」
「ん?」
「ゲームクラブ、入ってよかったと思う」
時春は顔を上げた。
ラリーは前を向いたまま続けた。
「最初は、ああいうの面倒くさいと思ってたんだよね。知らない人と話すの苦手だし、ゲームなんて一人でやってても楽しいし」
「……うん」
「だから、クラブ・ラッシュのときも、名前だけ書いて帰るつもりだった」
時春は思い出した。
あの日、ゲームクラブのテントの前で、ラリーはずっと迷っていた。登録用紙を差し出されても「忙しいから」と言い、何度も入部をためらっていた。
それなのに、最後には名前を書いた。
時春が横から大騒ぎしたことも、少しは影響していたのかもしれない。
「……でもさ」
ラリーは少しだけ笑った。
「入ってみたら、結構楽しかった」
「……うん!」
「オーウェンも、エイブリーも、ニーナも、みんないい人だし。ゲームの話もできるし、今日みたいなイベントも一緒に準備できるし」
ラリーは夜空を見上げた。
「……何か、学校に来る楽しみが一つ増えた感じ」
時春はしばらく黙っていた。
そして、笑った。
「……よかったじゃん!」
ラリーは少し驚いたように、こちらを見た。
「……うん」
「俺もさ、ラリーが楽しそうで嬉しいよ」
「……えっ?」
「だって、最初は部屋でずっとゲームしてたじゃん」
「今もしてるけどね」
「それはそうだけど!」
二人は笑った。
「でも、学校でも友達できたしさ。今日なんか、ずっと楽しそうだった」
時春は嬉しそうに頷いた。
「……クラブ・ラッシュで名前書いてよかったね」
ラリーは少しだけ黙った。
それから、何かを思い出したように小さく笑った。
「……まあ、君がうるさかったからね」
「……えっ?」
「『ラリー! ジョイン! ジョイン!』って」
ラリーは時春の真似をした。
時春は吹き出した。
「あははは! そんなだった!?」
「そんなだったよ」
「……いや、でもさ!」
「……何?」
「結果オーライじゃん!」
ラリーは少し考えた。
そして、頷いた。
「……うん。そうだね」
二人は並んで寮へ向かった。
遠くの海から、微かに潮風の匂いが漂っていた。
◇
その夜、時春は寮の部屋で、深刻な問題に直面していた。
明日。
十一月一日。
トライアウト。
その三つの言葉が頭の中をぐるぐると回り、どうにも落ち着かなかったのである。
ベッドの上には明日の練習着がきれいに畳まれていた。白いTシャツ、青いバスケットボールパンツ、靴下。そして、何度も履き慣らしたバスケットシューズ。
時春はそれを眺め、しばらく考えた。
……靴、これでいいよな。
いつも履いてるし。
でも、紐は大丈夫かな。
途中でほどけたりしないよな。
……いや。
そんなこと考えてどうすんだよ。
時春は小さくため息をついた。
机の上には、水の入ったボトルと、明日の持ち物を書き出したメモが置かれている。タオル、着替え、シューズ、ボトル。忘れ物がないか何度も確認したのに、どうしても不安が消えない。
時春はもう一度、バスケットシューズを手に取った。
靴紐を確かめる。
結び目を作ってみる。
ほどく。
もう一度結ぶ。
……いや。
何やってんだ、俺。
自分でもおかしくなってきた。
そのとき、背後から声がした。
「……トキ」
「……ん?」
振り返ると、ラリーが椅子に座ったまま、こちらを見ていた。
すでにスティーブの衣装は脱ぎ、いつものTシャツとスウェットパンツに着替えている。机にはゲームのコントローラーが置かれていたが、画面は一時停止になっていた。
「……さっきから何してるの?」
「……えっ?」
「靴紐、五回くらい結び直してるけど」
「…………」
時春は固まった。
……見られてた。
「……いや、その……」
ラリーは少しだけ首を傾げた。
「……明日のこと?」
時春は黙って頷いた。
「……うん」
ラリーは少し驚いたように目を瞬かせた。
「……トライアウト?」
「……うん」
時春はベッドへ腰を下ろした。
「……めちゃくちゃ緊張してる」
その言葉を口にした途端、胸の奥が少し重くなった。
今日一日は、ハロウィーンのおかげであまり考えずに済んでいた。友達と笑って、写真を撮って、エマと話して。あまりにも楽しくて、明日のことを忘れかけていたくらいだった。
けれど、こうして部屋へ戻り、静かな夜になると、どうしても考えてしまう。
もし、受からなかったら。
もし、自分の力が通用しなかったら。
もし、ヘイズコーチをがっかりさせてしまったら。
時春は膝の上で両手を組んだ。
「……俺さ」
ラリーが顔を上げた。
「……うん?」
「日本にいたとき、結構バスケできたんだよ」
「知ってるよ」
「……でも、こっち来たら、みんなめちゃくちゃ上手くてさ」
時春は小さく笑った。
「ノアとか、マイルズとか、めちゃくちゃでかいし。マイクはシュート外さないし。みんな、普通にすげえんだよ」
ラリーは黙って聞いていた。
「もちろん、一緒にやってて楽しいんだけどさ。でも、明日は違うじゃん」
時春は視線を落とした。
「ちゃんと選ばれなきゃいけないし」
日本での全国大会。
あの夏、自分たちは優勝した。
その結果をヘイズコーチが見つけ、CBAに来るチャンスをくれた。
しかし、アメリカへ来たからといって、そこで終わりではない。むしろ、ようやくスタート地点に立ったばかりだった。
時春は明日の体育館を思い浮かべた。
バスケットボールの音。
コーチの視線。
周囲の選手たち。
自分の順番。
そして、合否。
考えれば考えるほど、胸が落ち着かなくなった。
「……何かさ」
時春は少しだけ笑った。
「もし落ちたら、どうしようって」
その声は、普段より少し小さかった。
ラリーはしばらく時春を見つめていた。
それから、ぽつりと言った。
「……へえ」
「……へえ?」
「君でも緊張することあるんだ」
時春は顔を上げた。
「……えっ?」
ラリーは真面目な顔をしていた。
「だって、君いつも元気じゃん」
「……いや!」
「何があってもすぐ笑うし、知らない人にも平気で話しかけるし」
「……そうかな?」
「うん。今日だって、クリーパーの格好で知らない人と写真撮ってたでしょ」
「……それは!」
「だから、そんなに緊張してるの、ちょっと意外だった」
時春はしばらく黙っていた。
それから、苦笑した。
「……俺だって緊張するよ」
「……そっか」
「めちゃくちゃする」
ラリーは頷いた。
そして、椅子の背もたれに体を預けた。
部屋の中には、パソコンのファンが回る微かな音が聞こえていた。窓の外では、寮の中庭を照らす街灯が静かに輝いている。昼間のハロウィーンが嘘のように、夜は穏やかだった。
しばらくして、ラリーが口を開いた。
「……まあ」
「……ん?」
「別に、受かっても受からなくてもいいんじゃない?」
「…………」
時春は目を瞬かせた。
「……えっ?」
ラリーは何でもないことのように続けた。
「いや、もちろん君は受かりたいんだろうし、僕も受かってほしいと思ってるよ」
「……うん」
「でもさ」
ラリーは少しだけメガネを押し上げた。
「……君がトライアウトに受かっても、受からなくても、僕のルームメイトであることは変わらないでしょ」
時春は黙った。
ラリーは続けた。
「明日受かったら、たぶん君はめちゃくちゃ騒ぐだろうし」
「……うん」
「受からなかったら、きっと落ち込むだろうけど」
時春は小さく頷いた。
「……うん」
「でも、どっちにしたって、この部屋には帰ってくるわけじゃん」
ラリーは淡々と言った。
「で、僕はここでゲームしてるし、君はたぶんまた何か大声で喋るし」
時春は思わず笑いそうになった。
「……それは、まあ」
「だから、別に何も変わらないよ」
ラリーは小さく肩をすくめた。
「君がバスケのチームに入るかどうかと、僕らがルームメイトなのは、別の話でしょ」
時春はしばらく、何も言わなかった。
ラリーの言葉は、特別に格好いいものではなかった。
頑張れば絶対に受かるとか、君ならできるとか、そんな励ましでもない。
ただ、当たり前のことを言っているだけだった。
けれど。
……ああ。
そっか。
時春は、ゆっくりと息を吐いた。
明日、もしトライアウトに落ちたとしても、この部屋はなくならない。
ラリーが突然いなくなるわけでもない。
ジェイクやゾーイが友達でなくなるわけでもない。
エマと話せなくなるわけでもない。
もちろん、落ちれば悔しいだろう。きっと、しばらく立ち直れないかもしれない。
それでも、自分がここで過ごしてきた時間まで消えるわけではないのだ。
九月から始まった学校生活。
初めてのアメフト観戦。
ノアのホームパーティー。
クラブ・ラッシュ。
図書館での勉強。
ホームカミング。
そして、今日のハロウィーン。
そのどれも、バスケットボールのトライアウトの結果とは関係なく、自分の中に残っている。
時春は何となく笑った。
「……ねえ、ラリー」
「……何?」
「……それ、慰めてる?」
ラリーは一瞬きょとんとした。
そして、すぐに首を振った。
「……別に」
「……えっ?」
「事実を言ってるだけ」
いつもの、少し面倒くさそうな口調だった。
時春はしばらくラリーを見つめた。
それから、声を上げて笑った。
「あははは!」
「……何?」
「いや、ラリーらしいなって!」
「……どういう意味?」
「そのまんま!」
ラリーは少しだけ眉を寄せた。
「……意味わかんない」
時春は笑いながら、ベッドの上に置いていたバスケットシューズを床へ下ろした。
もう靴紐を結び直す必要はなさそうだった。
「……でもさ」
時春は小さく呟いた。
「ちょっと楽になった」
ラリーがこちらを見た。
「……そう?」
「うん」
時春は笑った。
「……ありがと」
ラリーは何も言わなかった。
ただ、小さく頷いた。
それから、ゲームの画面へ向き直った。
「……じゃあ、そろそろ寝たら?」
「……えっ?」
「明日早いんでしょ」
「……うん」
「寝不足でトライアウト行ったら、もっと緊張するんじゃない?」
時春は少し考えた。
確かに、その通りだった。
緊張して眠れないからといって、夜遅くまで起きていても仕方ない。明日は体を動かすのだから、少しでもしっかり休んだ方がいいに決まっている。
「……よし!」
時春は勢いよく立ち上がった。
「寝る!」
「……うん」
「おやすみ!」
「おやすみ」
時春は部屋の照明を落とし、ベッドへ潜り込んだ。
窓の外には、まだハロウィーンの名残が残っていた。中庭の片隅にはオレンジ色のランタンが一つ灯り、その柔らかい光が薄いカーテンを通して部屋の壁へ届いている。
机の上には、ラリーのスティーブの頭。
その隣には、時春のクリーパーの頭。
二つの四角い顔が、暗い部屋の中に並んでいた。
何ともおかしな光景だった。
……はは。
今日、楽しかったな。
時春は小さく笑った。
ラリーが作ってくれた衣装。
ゲームクラブのみんな。
巨大な恐竜になったジェイク。
ウェンズデーのゾーイ。
そして、魔女の格好をしたエマ。
思い出すだけで、少しだけ頬が緩んだ。
しかし、目を閉じると、やはり明日のことが頭に浮かんでくる。
体育館。
ボール。
コーチ。
トライアウト。
……ああ。
やっぱ緊張するなあ。
時春は小さく息を吐いた。
でも。
……大丈夫。
もし受かっても、受からなくても。
この部屋には帰ってこられる。
そう思うと、胸の奥がほんの少し落ち着いた。
「……ラリー」
暗い部屋の中で、時春は声をかけた。
「……何?」
机の方から返事がした。
ラリーはまだゲームをしているらしい。
「……今日、楽しかったね」
少しの沈黙があった。
それから、ラリーが答えた。
「……うん」
時春は小さく笑った。
「……ゲームクラブ、入ってよかったね」
「……さっきも言ったでしょ」
「……へへ」
時春は天井を見上げた。
何だか、もう少しだけ話していたかった。
けれど、明日は早い。
そろそろ眠らなければならない。
そう思いながら、時春は最後にもう一度、小さく声をかけた。
「……ありがとね、buddy」
※buddy:英語で「相棒」「親友」など、親しい友達を呼ぶときに使う言葉。
部屋の中が静かになった。
マウスをクリックする音が止まる。
「…………」
ラリーがゆっくりと振り返った。
「……トキ?」
時春は目を閉じたまま、返事をしなかった。
「……今、buddyって言った?」
しばらく沈黙が続いた。
それから、布団の中から元気な声が聞こえた。
「おやすみ!」
「……いや、ちょっと待って」
「おやすみ、ラリー!」
「……トキ!」
時春は布団を頭までかぶった。
ラリーはしばらくベッドの方を見つめていた。
そして、小さくため息をついた。
「……まったく」
そう呟いて、再びパソコンへ向き直った。
ただ、その口元は少しだけ緩んでいた。
暗い部屋の中で、時春もこっそり笑っていた。
明日、トライアウトがある。
結果がどうなるのかは、まだわからない。
それでも、今夜は少しだけ安心して眠れそうだった。
自分には、帰ってくる場所がある。
そして、そこには、一緒にゲームをして、くだらないことで笑って、時々不器用に励ましてくれるルームメイトがいる。
それだけで、何だか十分な気がした。
窓の外では、十月最後の夜が静かに更けていく。遠くの海から吹く風がカーテンを揺らし、机の上のスティーブとクリーパーが、並んで眠っているように見えた。
高山時春、十五歳。
アメリカで初めてのハロウィーンは、思っていた以上に騒がしく、楽しく、そして少しだけ温かい一日になった。
明日は十一月一日。
バスケットボールのトライアウト。
CBAへ来てからずっと待ち続けた、その日がやってくる。
時春は目を閉じた。
胸の奥にはまだ緊張が残っていたが、それと同じくらい、明日への期待もあった。
大丈夫。
いつも通り、自分のバスケをすればいい。
エマが言ってくれたように。
それから、もし何かあったら。
ラリーの言う通り、この部屋へ帰ってくればいい。
時春は布団の中で小さく笑った。
……おやすみ、buddy。
その言葉を、今度は声に出さずに呟いた。
夜は静かだった。
そして、次の朝は、もうすぐそこまで来ていた。