十一月一日、日曜日。午前六時四十二分。
高山時春は、目覚まし時計が鳴るより十八分も早く目を覚ました。
カーテンの隙間から薄い朝の光が差し込んでいる。窓の外はまだ青白く、遠くでは鳥が鳴いていた。昨日のハロウィーンで賑わったキャンパスも、今は静まり返っている。
時春はベッドに横になったまま、天井を見つめた。
……今日か。
十一月一日。
ずっと待っていた、Crescent Bay Breakersのトライアウト当日だった。
九月に初めてオープンジムへ参加してから、もう二か月近くが経っている。その間、ノアやマイルズたちと何度もバスケをした。授業が終われば体育館へ向かい、週末にも時間を見つけてシュートやドリブルの練習を続けてきた。
そして今日、正式にチームのメンバーが決まる。
時春は布団の中で両手を握り締めた。
……やばい。もう緊張してる。
まだベッドから起き上がってすらいないのに、心臓がいつもより速く動いていた。胃のあたりも何となく落ち着かない。
この調子では、体育館に着く頃にはどうなっているのだろう。
……吐く?
いや、待て。さすがに吐かないだろ。
時春は一度、大きく息を吸った。
日本では全国大会の決勝を経験した。何千人もの観客に囲まれ、優勝がかかった試合でポイントガードを務めたのだ。あのときだって緊張したけれど、最後までプレーできた。
だから、今日だって大丈夫なはずだった。
もっとも、相手はアメリカの高校生である。
ノアは百九十二センチ。マイルズは百九十八センチ。トムに至っては二百十二センチもある。しかも、彼ら以外にも体の大きな選手がいくらでもいるのだ。
……いや、やっぱでかすぎるだろ。
時春は布団の中で寝返りを打った。
あの連中と同じコートに立つこと自体は、もう慣れている。けれど、今日のトライアウトにはノアたちだけでなく、まだ一緒にプレーしたことのない上級生も参加する。
全員がVarsityのメンバー入りを目指して、本気でぶつかってくるのだ。
そう考えると、また胃のあたりがきゅっと縮んだ。
……ああ、もう!
朝から何で負けることばっかり考えてんだよ、俺!
時春は頭まで布団をかぶった。
そのときだった。
「……ぐごおおおお……」
時春の動きが止まった。
「……ぐごっ……ふごおおお……」
反対側のベッドから、地鳴りのような音が聞こえてくる。
ラリー・ナードのいびきだった。
時春は布団から顔を出し、ルームメイトの方を見た。
ラリーは毛布を半分蹴飛ばし、口を少し開けたまま、実に気持ちよさそうに眠っている。丸いメガネは机の上に置かれ、くるくるした髪が枕の上で好き勝手な方向へ広がっていた。
「……ぐごお……ごっ……」
時春はしばらく黙って聞いていたが、とうとう吹き出した。
……何だよ、その音。
Minecraftの洞窟にいそう。
しかも、昨日スティーブの格好してたやつが出していい音じゃないだろ。
時春は声を殺して笑った。
昨日のハロウィーンでは、二人とも大騒ぎだった。時春はクリーパー、ラリーはスティーブの仮装をして、校内のイベントを楽しんだ。部屋へ戻ってからもゲームの話で盛り上がり、気づけばすっかり夜も遅くなっていた。
そのとき、ラリーと少し真面目な話もした。
『君がトライアウトに受かっても、受からなくても、僕のルームメイトであることは変わらない』
時春はその言葉を思い出した。
たしかに、ラリーの言う通りだ。
今日上手くいっても、いかなくても、明日になればいつもの授業がある。寮へ帰ればラリーがいて、またくだらないことで言い合いをするのだろう。
そして、明日の朝もきっと、こいつは同じようにいびきをかいている。
「……ぐごおおお……」
……いや、うるせえな。
時春はもう一度笑った。
さっきまで胸を締めつけていた緊張が、少しだけ和らいだ気がした。
「……ありがとな、Buddy」
聞こえないくらいの声で呟く。
もちろん、ラリーは返事をしなかった。
◇
時春はベッドから起き上がり、洗面台で顔を洗った。
冷たい水が頬に触れると、ようやく頭がはっきりしてくる。鏡の中には、少し眠そうな顔をした、いつもの自分が映っていた。
身長百七十センチ。
アメリカの高校生に混ざると、どうしても小さく見える。
……まあ、今日になって急に背が伸びるわけでもないしな。
時春はタオルで顔を拭き、昨日のうちに用意しておいた練習着へ着替えた。
バスケットシューズ、替えの靴下、タオル、水筒。バッグの中身は昨夜三回も確認したので、忘れ物はないはずだ。
それでも念のため、もう一度シューズを取り出してみた。
当然、何の問題もない。
……よし。靴は大丈夫。
あとは俺だけだな。
そこで、スマートフォンが小さく震えた。
画面を見ると、エマからの新着メッセージが表示されていた。
Emma
おはよう、トキ!
ついに今日だね!
緊張してるかもしれないけど、いつものトキで大丈夫だよ。
応援してるからね!
あと、昨日のクリーパーみたいに爆発しちゃダメだよ!
時春は最後の一文を読んで、思わず吹き出した。
……何だよ、それ!
昨日のハロウィーンで、魔女の格好をしたエマから散々からかわれたことを思い出す。
それにしても、こんな朝早くからメッセージを送ってくれるとは思わなかった。
時春はもう一度画面を眺めてから、返信欄をタップした。
Emma
ふふっ、頑張ってね!
送信してすぐに既読がつき、エマからの返事が届いた。
時春は思わず口元を緩めた。
……よし。頑張ろう。
スマートフォンをポケットへしまったところで、背後から眠そうな声がした。
「……トキ」
「ん?」
振り返ると、ラリーが片目を開けていた。
「……何で朝からそんなに嬉しそうなの」
「えっ!?」
「まだ七時前なんだけど」
「いや、何でもない!」
「……ふうん」
ラリーは大きく欠伸をし、時計を見た。
「ああ……今日だっけ。トライアウト」
「うん!」
「そっか」
それだけ言って、ラリーはまた布団へ潜り込もうとした。
「じゃあ、行ってくる!」
時春が声をかけると、ラリーは眠そうなまま片手を上げた。
「頑張ってね、Buddy」
「…………」
時春は目を瞬かせた。
「……ラリー?」
「……何?」
「今、Buddyって言った?」
一瞬の沈黙。
ラリーはゆっくりと布団を頭まで引き上げた。
「……おやすみ」
「ちょっと!」
「…………」
「聞こえてるだろ!」
時春が笑いながら抗議すると、布団の中からくぐもった声が返ってきた。
「……遅刻するよ」
「……あっ!」
時計を見ると、そろそろ朝食へ向かった方がいい時間だった。
時春は慌ててバッグを肩にかけた。
「じゃあ、本当に行ってくる!」
今度こそ扉へ向かう。
すると、背後からもう一度声がした。
「……トキ」
「ん?」
「……ちゃんと楽しんできなよ」
時春は立ち止まった。
布団の中から聞こえてくる、いつもの気だるそうな声だった。
けれど、その一言が妙に嬉しかった。
「……うん!」
時春は笑顔で頷き、静かにドアを閉めた。
廊下へ出ると、窓から朝の光が差し込んでいた。
十一月最初の日曜日が、始まろうとしていた。
◇
午前八時を少し過ぎた頃、時春はCBAの体育館へ到着した。
朝食のトーストは、ほとんど味がしなかった。食堂では緊張していないつもりだったのだが、結局いつもの半分くらいしか食べられず、少し後悔していた。
体育館の入口には、すでに何人もの選手が集まっていた。
受付のテーブルで名前を伝えると、アシスタントコーチが一枚のビブスを手渡してくれる。
二十七番。
時春は練習着の上からそれを着て、コートへ足を踏み入れた。
磨き上げられた木製の床に、青と白のライン。中央にはブレイカーズの大きな波のエンブレムが描かれ、壁には学校名と過去のチームの写真が並んでいる。
奥の壁には、二〇〇九年の州優勝を記念したバナーが吊るされていた。
時春はそれを一度見上げてから、周囲へ視線を戻した。
初めてこの体育館へ来たのは九月だった。
あの頃はノアやマイルズの名前すら知らず、ただバスケができることに興奮していた。自分より大きな選手たちに囲まれて驚いたものの、いざボールを持てば夢中になってプレーした。
今日は、少し事情が違う。
この体育館で、正式にブレイカーズのメンバーを選ぶのだ。
しかも時春が目指しているのは、最上級チームのVarsityだった。
……よし。
時春はバッグをベンチへ置き、シューズの紐を結んだ。
何度も確認した靴紐は、やはり何の問題もなく結べた。
顔を上げると、反対側のゴールでノア・レイノルズがダンクを決めたところだった。
長い腕がリングへ伸び、ボールが勢いよくネットを通り抜ける。
着地したノアは、隣の選手と笑いながら何かを話していた。
その近くではマイルズ・カーターがゴール下のシュートを繰り返し、少し離れたコーナーからは、マイク・トンプソンが黙々と三ポイントシュートを打っていた。
一本目が決まる。
二本目も入る。
三本目も、ネットだけを揺らした。
……いや、外さないの?
時春は思わず見入った。
何度も一緒にプレーしているのだから、三人が上手いことはよく知っている。それでも、改めてこうして眺めると、やはりすごい。
ノアには圧倒的なスピードと跳躍力があり、マイルズはゴール下で誰にも負けない強さを持っている。マイクは派手なプレーこそ少ないが、空いた場所でボールを受けると恐ろしく正確にシュートを決めた。
……この人たちと、同じチームに入りたいんだよな。
時春がそんなことを考えていると、近くで誰かが小さく息を吐いた。
振り返ると、ひときわ大きな男子生徒が立っていた。
「……トム?」
声をかけると、その大男はびくりと肩を揺らした。
「あ……トキ」
トーマス・ウェイク。
身長二百十二センチ。長い腕と脚を持ち、コートに立つと誰よりも目立つ選手だった。
普段から口数が少なく、どちらかといえば控えめな性格をしている。オープンジムでは何度も一緒にプレーしたが、今朝はいつも以上に表情が硬かった。
「大丈夫?」
時春が尋ねると、トムは小さく首を振った。
「……あんまり」
「緊張してる?」
「……うん。こういうの、苦手なんだ」
トムは両手でボールを握り直した。
「みんな見てるし……失敗したらどうしようって」
「ああ、わかる!」
時春はすぐに頷いた。
「俺もめちゃくちゃ緊張してるよ!」
トムが驚いたように目を丸くした。
「……本当に?」
「うん! 今朝なんか、起きた瞬間から心臓バクバクだった!」
時春が大げさに胸を押さえると、トムは少しだけ笑った。
「でも、トキは上手いから」
「いやいや、トムだってすごいじゃん!」
「……僕は、背が高いだけだよ」
「その背がすごいんだって!」
時春はトムを見上げた。
自分との差は四十二センチ。
何度見ても、とんでもない身長差である。
……ほとんど別の生き物じゃん。
時春は思わず笑いそうになったが、何とかこらえた。
「トム、リバウンドめっちゃ取れるし、ブロックも上手いじゃん。いつも通りやればいいんだって!」
「……そうかな」
「そうだよ! 俺もいつも通りやるからさ」
そう言いながら、時春は自分にも言い聞かせていた。
全国大会を勝ち抜いたときだって、最初から自信があったわけではない。緊張しながらコートへ立ち、最初のパスを出し、一本ずつプレーを重ねていった。
今日も、まずは自分のできることをやればいい。
「一緒に頑張ろうぜ!」
時春が拳を差し出すと、トムは少し戸惑ったあと、大きな拳を合わせてくれた。
「……うん」
そのとき、背後から聞き慣れた声がした。
「おーい、チビ助!」
振り返ると、ノアが笑顔で近づいてきた。
「準備できてるか?」
「ノア!」
「今日はいよいよ本番だぞ。せいぜい俺を驚かせてくれよ!」
時春は少し笑った。
「もちろん!」
「その意気だ!」
ノアが大きな手で時春の肩を叩く。
思いのほか力が強く、時春の体が少し揺れた。
……うわ、やっぱ強え。
しかし、その一撃のおかげで、不思議と気合いが入った。
時春は立ち上がり、コートへ向かった。
◇
午前九時。
体育館に鋭いホイッスルが響いた。
「集合!」
グラント・ヘイズコーチの声だった。
選手たちが一斉にセンターラインへ集まる。
ヘイズは青いポロシャツに黒いトレーニングパンツを着ており、手にはクリップボードを持っていた。その隣にはアシスタントコーチたちが並んでいる。
「今日ここにいる全員が、ブレイカーズでプレーしたいと思っているはずだ」
選手たちが静かになる。
「だが、全員が同じチームに入れるわけじゃない。Varsity、JV、Freshman。それぞれに人数の限りがある」
※
【Varsity(バーシティ)】
アメリカの高校スポーツにおける、学校の代表チーム。いわゆる一軍にあたる。基本的に実力で選ばれるため、一年生でも参加できる。時春が目指していたのがこのチーム。
【JV(Junior Varsity/ジュニア・バーシティ)】
Varsityの一つ下に位置するチーム。いわゆる二軍に近く、主に経験を積んでいる途中の選手たちが所属する。
【Freshman(フレッシュマン)】
高校一年生のこと。スポーツでは、一年生を中心に編成されたチームを指す場合もある。なお、一年生が必ずFreshmanチームに入るわけではない。
時春は背筋を伸ばした。
「俺たちは、去年の成績だけでメンバーを決めるつもりはない。去年Varsityだった選手も、新しく入ってきた選手も、今日のプレーをしっかり見て判断する」
ヘイズは選手たちを見渡した。
「見たいのは、派手なシュートやダンクだけじゃない。基本技術、判断の速さ、ディフェンス、それからチームの中で何ができるかだ」
時春は小さく頷いた。
派手なプレーだけではない。
ヘイズが何を求めているのか、少しわかった気がした。
「いいか。今日は全員、自分の力を見せてくれ」
ヘイズは短く頷いた。
「始めるぞ!」
ホイッスルが鳴った。
いよいよ、トライアウトが始まった。
最初は全員でウォームアップを行った。
コートを走り、ストレッチをし、サイドステップや短いダッシュを繰り返す。普段なら何でもない動きなのに、今日は周囲の足音やコーチのホイッスルまで、妙にはっきり聞こえた。
それでも、体を動かしているうちに少しずつ落ち着いてきた。
シューズが床を捉え、足が自然に前へ出る。呼吸も一定になり、肩の力が抜けていく。
……うん、これだ。
いつもの感覚。
やがて、最初のテストが始まった。
◇
最初の種目はドリブルだった。
コート上に並べられたコーンの間を、決められた順番で抜けていく。左右の手を使い、スピードを落とさず、できるだけ正確にボールを扱うテストである。
時春の前に挑戦した選手たちは、それぞれ懸命にコーンを抜けていった。緊張からかボールを大きく弾ませてしまう選手もいれば、方向転換の際にバランスを崩す選手もいた。
やがて、時春の番号が呼ばれる。
「二十七番!」
「はい!」
時春はスタートラインへ立った。
ボールを右手でつきながら、前方に並ぶコーンを見つめる。
……大丈夫。いつも通り。
ホイッスルが鳴った。
時春は一歩目からスピードを上げた。
右手でボールを押し出し、最初のコーンを抜ける。次は低いクロスオーバーで左へ切り返し、すぐにレッグスルーで右手へ戻した。
※ 【クロスオーバー】
ドリブル中、ボールを体の前で右手から左手、または左手から右手へ素早く切り替える技。相手の動きを揺さぶり、抜き去るために使われる。
【レッグスルー】
ドリブル中にボールを自分の股の下へ通し、反対の手へ持ち替える技。相手にボールを奪われにくくしながら、進む方向を変えられる。
コーンの位置を確かめながら、迷わず進んでいく。
トン、トン、トン。
ボールが床を叩く、聞き慣れた音。
不思議なことに、ドリブルを始めた瞬間、さっきまでの緊張がほとんど気にならなくなった。
日本で何千回も繰り返してきた動きだった。
放課後の体育館でも、学校の外のコートでも、飽きるほどボールをついてきた。相手がいなくても、雨が降っていても、時間があればドリブルの練習をしていた。
その感覚が、ちゃんと指先に残っている。
時春は最後のコーンを抜け、スピードを落とさずゴールへ向かった。
右手から左手へボールを移し、ディフェンスをかわすイメージで一歩踏み込む。
レイアップ。
ボールはバックボードへ当たり、きれいにリングを通過した。
「よし!」
時春は小さく拳を握った。
アシスタントコーチが時計を確認し、クリップボードへ何かを書き込む。
ヘイズコーチも黙って見ていた。
次はパスのテストだった。
動いている味方へ、正確なタイミングでボールを届ける。チェストパスやバウンズパスに加え、走る選手の進行方向へボールを出すリードパスも求められた。
さらに、途中からはディフェンス役の選手がパスコースを妨害してくる。
時春は落ち着いてボールを持った。
右へ走る選手には、その少し前へ。
ディフェンスの手が上がれば、地面を使って下から通す。
味方が急にスピードを落としたら、すぐにボールの軌道を変える。
日本でプレーしていたときから、パスを出すのは得意だった。
相手がどちらへ動くのか、次にどこが空くのか。そういうことを考えるのが好きだったし、上手く予想が当たると、何とも言えない嬉しさがあった。
「ナイスパス!」
ボールを受け取った選手が声を上げた。
時春は笑顔で親指を立てた。
次のパスも、その次も、ほとんど乱れなかった。
後ろの列から、誰かが小さく声を上げる。
「……あいつ、上手いな」
「日本から来た一年生だろ?」
時春にもその声が聞こえた。
少し嬉しかったが、振り返る余裕はなかった。
目の前では、次の味方がすでに走り始めている。
時春はすぐにボールを構えた。
……よし。いける。
日本でやってきたことは、ここでも通用する。
その手応えが少しずつ積み重なっていった。
しかし、全員が順調だったわけではない。
トムの番になると、様子は一変した。
長い脚と大きな体を持つトムは、細かい方向転換をどうしても苦手としていた。ドリブルが高く弾み、コーンを回り込む際にバランスを崩す。持ち替えようとしたボールが足に当たり、思わず手を伸ばした。
パスのテストでも、力加減が合わなかった。
近い味方へ強すぎるボールを投げてしまい、次は逆に弱くなりすぎて途中で床へ落ちてしまう。
「……ごめん」
トムは申し訳なさそうに頭を下げた。
「謝るな! 次のプレーに集中しろ!」
ヘイズコーチの声が響く。
時春は少し離れたところから、その様子を見ていた。
トムはますます肩を縮めてしまっている。
二百十二センチもあるのに、今は何だか小さく見えた。
……トム、大丈夫かな。
声をかけたかったが、テストは次々と進んでいく。時春自身も次の種目へ移らなければならなかった。
◇
続いて、ディフェンスのテストが始まった。
そして今度は、時春が苦しむことになった。
「二十七番、ディフェンス!」
「はい!」
時春の前に立ったのは、二年生のガードだった。
身長は百八十五センチほど。時春より十五センチほど高く、肩幅も広い。
相手はボールを持つと、軽くドリブルをついた。
「準備いいか?」
「うん!」
時春は腰を落とした。
ホイッスルが鳴る。
相手は右へ一歩踏み出し、素早く左へ切り返した。
時春も反応して横へ動く。
……よし、ついていける!
しかし、次の瞬間、相手の肩が時春の体へ当たった。
「……っ!」
押し込まれた分だけ、足が止まる。
相手はその隙を逃さず、一気にリングへ向かった。
時春も必死に追いかけたが、一歩届かなかった。
レイアップ。
得点。
「……くっ!」
時春は歯を食いしばった。
次のプレーでは、相手が背中を向けてきた。
ポストアップだった。
時春は体を密着させ、押し込まれないように踏ん張る。しかし、相手が腰を落として力をかけてくると、どうしても少しずつ後ろへ下がってしまう。
最後は振り向きざまのシュートを決められた。
別の選手との一対一でも、似たような場面が続いた。
スピードならついていける。
相手の動きを読むこともできる。
けれど、体をぶつけられた瞬間に不利になる。何とか足を動かしても、相手の長い腕が頭の上から伸びてくるのだ。
……きっついな、これ。
時春は荒くなった息を整えた。
わかっていたことだった。
日本でも小柄な選手として戦ってきたし、体格差をどう埋めるかはずっと考えてきた。
けれど、ここでは相手の大きさも、力も違う。
ヘイズコーチがホイッスルを吹いた。
「高山!」
「はい!」
「足は悪くない。だが、相手の進みたい場所を簡単に与えるな! 先に角度を取れ!」
「はい!」
「その体格で正面から力比べをしても勝てない。もっと頭を使え!」
時春は強く頷いた。
確かに、相手の動きについていくことばかり考えていた。先に進路を塞いだり、苦手な方向へ追い込んだりする余裕がなかったのだ。
……まだまだだな。
時春は小さく息を吐いた。
そのとき、反対側のコートから大きな音が響いた。
バシッ!
「おおっ!」
何人かの選手が声を上げる。
時春が振り返ると、トムが相手のシュートを豪快にブロックしたところだった。
ゴール下へ切り込んできた選手がレイアップを放つ。その瞬間、トムの長い腕が伸び、ボールをバックボードの手前で叩き落としたのである。
次のプレーでも、トムは相手のシュートをしっかり妨害した。
ボールがリングへ当たると、今度は長い腕を伸ばしてリバウンドを確保する。
……すげえ。
時春は思わず笑った。
ドリブルではあんなに苦戦していたのに、ゴール下へ入るとまるで別人だった。
トム自身も少し驚いたような顔をしているが、周囲の選手たちは素直に感心している様子だった。
時春はその光景を見ながら、ふと考えた。
自分はドリブルやパスが得意だが、体格を使った守備ではどうしても不利になる。
一方、トムはボールを運ぶのが苦手でも、ゴール下では誰にも負けない高さがある。
……俺とトム、得意なことが全然違うんだな。
そのことを改めて実感したところで、ホイッスルが鳴った。
「全員、給水!」
ヘイズコーチの声が響く。
時春はタオルで汗を拭きながら、コートの端へ向かった。
次はいよいよ、五対五のゲーム形式だった。
◇
短い休憩のあと、ヘイズコーチが選手たちを集めた。
「これから五対五に入る。個人の能力だけじゃなく、チームの中で何ができるかも見るぞ!」
選手たちの表情が引き締まった。
「自分が目立つことばかり考えるな。周りを見てプレーしろ!」
時春は静かに頷いた。
アシスタントコーチがメンバーを読み上げ始める。
「ポイントガード、高山!」
「はい!」
※ 【ポイントガード(PG)】
主にボールを運び、味方へパスを出して攻撃を組み立てるポジション。チームの司令塔とも呼ばれる。
「シューティングガード、ライアン・ブルックス!」
「はい!」
※ 【シューティングガード(SG)】
シュートやドライブで得点を狙うことが多いポジション。
「スモールフォワード、ジェイス・ミラー!」
「はい!」
※ 【スモールフォワード(SF)】
外からのシュートやゴールへの切り込みなど、幅広いプレーをこなすポジション。
「パワーフォワード、マイルズ・カーター!」
「おう!」
※ 【パワーフォワード(PF)】
ゴール付近での得点やリバウンド、スクリーンなどでチームを支えるポジション。
「センター、トーマス・ウェイク!」
「……はい!」
※ 【センター(C)】
主にゴール下でプレーするポジション。長身の選手が多く、リバウンドやシュートのブロックで重要な役割を担う。
時春は周囲を見渡した。
ライアン、ジェイス、マイルズ、トム。
オープンジムで何度も顔を合わせてきた選手たちだったが、この五人で同じチームになったことはなかった。
反対側のチームを見ると、ノアとマイクの姿があった。
さらに、さっき一対一で時春を苦しめた二年生のガードまでいる。
……うわ、あっち強くない?
時春は思わず苦笑した。
ノアはこちらに気づくと、にやりと笑った。
「遠慮なくいくぞ、チビ助!」
「もちろん!」
時春も笑い返した。
しかし、内心では少し焦っていた。
ノアのドライブを止めるのは簡単ではないし、マイクは少しでも空けばシュートを決めてくる。
さらに、あの体の強いガードだ。
かなり厳しい組み合わせだった。
隣にいたマイルズが、時春の肩を叩いた。
「トキ、ボールは任せたぞ」
「うん!」
「俺たちを使え。お前なら見えてるだろ」
時春は少し驚いた。
それから、力強く頷いた。
「わかった!」
マイルズは笑い、ゴール下へ向かった。
トムもその後を追う。ライアンとジェイスは、それぞれ反対側の位置へ移動した。
時春は一度、全員の背中を見た。
……よし。やるしかない。
ホイッスルが鳴った。
五対五が始まった。
◇
最初の数分間は、散々だった。
ジャンプボールでトムがボールに触れ、時春のチームが最初の攻撃権を得た。
時春は落ち着いてボールを運ぶ。
右にライアン、左にジェイス。ゴール下にはマイルズとトムがいる。
まずは一本、確実に得点したかった。
時春がライアンへパスを出すと、彼はボールを受け取るなり、目の前のディフェンスを気にせずジャンプシュートを打った。
相手の手が伸びる。
ボールはリングの手前に当たり、大きく跳ねた。
「……あっ!」
リバウンドは相手チームへ渡った。
そのまま速攻。
ノアが勢いよく走り込み、パスを受けると、軽々とダンクを決めた。
「LET’S GO!」
ノアが拳を突き上げる。
時春は急いでボールを拾った。
……まだ一本。大丈夫。
しかし、次の攻撃でも上手くいかなかった。
今度はジェイスがボールを受け取り、ディフェンス二人に囲まれたまま強引にシュートを打った。
ボールはバックボードへ当たり、そのまま相手に回収される。
ノアが左サイドから一気に走り込んだ。
ジェイスが追いかけるが、一歩届かない。
レイアップ。
また得点。
さらに、次の攻撃ではマイクがコーナーから三ポイントシュートを決めた。
ネットが静かに揺れる。
時春は思わず息を吐いた。
……やばい。全然噛み合ってない。
自分自身のプレーも上手くいっていなかった。
相手のガードは体格差を利用し、ボールを運ぶ時春へ強いプレッシャーをかけてくる。ドリブルを高くついた瞬間に手を伸ばされ、何度もボールを奪われそうになった。
何とかパスを出しても、味方の位置が悪い。
ライアンはボールを欲しがって外側へ広がり、ジェイスも同じ場所へ走り込んでしまう。
マイルズはゴール下で相手を押し込んでいるが、そこへボールを入れるコースがない。
トムは長い腕を持て余すように、リングの横へ立っていた。
「ライアン、右!」
時春は声を上げた。
「ジェイス、こっち! トム、スクリーン!」
※【スクリーン】
味方が動きやすくなるように、相手ディフェンスの進路に立って壁になるプレー。
しかし、五人の動きはなかなか合わなかった。
ライアンが右へ動いたと思えば、ジェイスも同じ方向へ走ってくる。トムは誰にスクリーンをかければいいのかわからず、途中で足を止めてしまった。
時春も次第に焦り始めた。
……何とかしなきゃ。
そう思って自分でドライブを仕掛けたものの、相手の長い腕に進路を塞がれ、無理なレイアップを打ってしまう。
ボールはブロックされた。
ノアがそれを拾い、あっという間に反対側のゴールへ走る。
また二点。
気づけば、点差は二桁に広がっていた。
「おい!」
マイルズが大きな声を上げた。
「何やってんだ、お前ら!」
ライアンが振り返る。
「……何だよ!」
「無理なシュートばっか打つな! パスをつなげ!」
「だって、打てると思ったんだよ!」
「打ててねえだろ!」
マイルズは苛立った様子で言い返した。
「ジェイスもだ! ディフェンス二人いるのに突っ込むな!」
「……わかってるよ」
「わかってねえから言ってんだ!」
ジェイスは唇を噛み、それ以上何も言わなかった。
時春は一瞬、口を挟めなかった。
マイルズの言っていることは正しい。
ライアンもジェイスも、無理なシュートが多すぎる。
けれど、怒鳴られた二人はますます動きが硬くなっている。トムも困った顔で、そのやり取りを見ているだけだった。
このままでは、もっとひどくなる。
時春は何とか声をかけようとしたが、その前にヘイズコーチのホイッスルが鳴った。
「給水! 二分!」
選手たちがコートの端へ向かう。
時春のチームもベンチ付近へ集まったが、誰もすぐには口を開かなかった。
マイルズはタオルで汗を拭き、ライアンは不満そうに床を見つめている。ジェイスは黙って水を飲み、トムは長い腕を膝の上に置いていた。
時春はその様子を見ながら、考えた。
みんな、上手いはずなのに。
ライアンはオープンジムで何度も鋭いドライブを見せていたし、ジェイスはボールを持っていないときの動きが上手かった。
マイルズはゴール下で誰よりも強く、トムにはあの高さがある。
それなのに、今は誰も自分の力を出せていない。
……何でだろ。
時春はライアンの顔を見た。
彼は何度も無理なシュートを打っていた。普段ならそんなに強引なプレーをする選手ではないのに、今日はボールを受けるたびにリングばかり見ている。
ジェイスも同じだった。
いつもならディフェンスの裏へ走り込むのが得意なのに、今日はボールを受けると、その場から無理に攻めようとしている。
……ああ、そうか。
時春はようやく気づいた。
ここはトライアウトなのだ。
みんな、コーチへ自分の実力を見せたい。
シュートを決めて、得点を重ねて、選んでもらいたいと思っている。
だから、普段ならしないようなプレーまでしてしまうのかもしれない。
……でも、それじゃバスケにならないじゃん。
時春は一度、息を吸った。
そして、顔を上げた。
「……ねえ、みんな」
四人がこちらを向く。
マイルズが眉を上げた。
「何だ?」
「ちょっと話していい?」
時春はベンチの前へ立った。
心臓が少し速く動いている。
試合の前とは違う緊張だった。
自分より年上で、体も大きい選手たちに何かを言うのは、やはり少し勇気がいる。
それでも、今のままでは駄目だと思った。
「……今さ、みんなちょっと焦ってるよね」
ライアンが小さく肩をすくめた。
「そりゃそうだろ。トライアウトなんだから」
「うん、わかる。俺もめちゃくちゃ緊張してる」
時春は苦笑した。
「でも、みんないつものプレーしてなくない?」
ジェイスが顔を上げた。
「……いつもの?」
「うん。ライアン、ちょっと聞いていい?」
「……何?」
「一番得意なのって、ジャンプシュートだっけ?」
ライアンは少し戸惑った。
「いや……」
しばらく考えてから、答える。
「ドライブだけど。最初の一歩で抜くのが得意なんだ」
「そうだよね!」
時春は頷いた。
「オープンジムのとき、めちゃくちゃ速かったじゃん。なのに今日は、ほとんど外から打ってる」
ライアンは何も言わなかった。
時春は次に、ジェイスを見た。
「ジェイスは、ディフェンスの裏へ走るのが上手いじゃん」
「……まあ」
「俺、何回もパス出したことあるでしょ。ああいうの、またやろうよ」
ジェイスは少し考えてから、小さく頷いた。
時春は二人を見渡した。
「……何で、今日はいつもと違うプレーしてるの?」
短い沈黙があった。
やがて、ライアンがぽつりと言った。
「……コーチに見せなきゃって思って」
ジェイスも頷いた。
「俺も。得点取った方が目立つかなって」
「……うん」
時春は静かに頷いた。
「わかるよ。俺もさっき、無理に自分で攻めちゃったし」
相手のガードに追い込まれ、何とかしようとして放ったレイアップを思い出す。
あれも、自分で何とかしなければという焦りから生まれたプレーだった。
「でもさ、俺たち五人でプレーしてるじゃん」
マイルズが腕を組んだまま聞いている。
「ライアンが抜いたら、俺がそこへパス出す。ジェイスが裏へ走ったら、ちゃんと見つける。マイルズにはスクリーンお願いしたいし、ゴール下でボール持てたら、どんどん勝負してほしい」
時春は一度、全員の顔を見た。
「俺、一人じゃ点取れないし。でも、みんなが動いてくれたら、パスは出せるから」
そこで、トムへ目を向けた。
「……トム」
「……えっ?」
「ゴールの近くで、ちゃんと手を上げてて」
トムは目を丸くした。
「……手?」
「うん!」
時春は笑った。
「トム、めちゃくちゃ高いじゃん。ディフェンスより上でボール取れるんだから」
「……でも、僕、さっきパスも失敗したし……」
「難しいことしなくていいよ。リングの近くにいてくれたら、俺がボール出すから!」
トムは戸惑ったように自分の手を見た。
大きな手だった。
時春の手よりずっと大きく、腕も長い。
あの高さは、時春にはどう頑張っても真似できない。
「トムはトムの得意なことやってよ。俺、ちゃんと見てるから」
時春がそう言うと、トムは少し驚いた顔をした。
それから、小さく頷いた。
「……うん」
時春は最後にマイルズを見た。
「……マイルズ」
「何だ?」
「俺がボール運ぶ。だから、みんな動けるようにしてほしい」
マイルズはしばらく時春を見つめていた。
そして、ふっと笑った。
「……ようやく言ったな、チビ助」
「……えっ?」
「最初からそれをやれってんだよ」
マイルズは大きな手で時春の背中を叩いた。
「ボールはお前が持て。俺たちは動く!」
時春は思わず笑った。
「……うん!」
ライアンも少しだけ表情を緩めた。
「じゃあ、次は抜いてみる。空いたらパス頼むぞ」
「もちろん!」
ジェイスも頷いた。
「俺、裏へ走るから。見逃すなよ」
「任せて!」
トムは胸の前で両手を握り、少しだけ笑った。
「……僕も、頑張る」
「うん!」
そのとき、ホイッスルが鳴った。
「休憩終了! 戻れ!」
五人は立ち上がった。
マイルズが大きな声を上げる。
「よし、行くぞ!」
「おう!」
ライアンとジェイスが応え、トムも頷いた。
時春は一度、深く息を吸った。
……よし。
今度こそ、いつものバスケをしよう。
◇
再開後、最初の攻撃。
時春はゆっくりとボールを運んだ。
正面には、さっき何度も自分を苦しめた大柄なガードが立っている。
時春は軽くドリブルをつきながら、味方の位置を確かめた。
マイルズが上がってきて、スクリーンをかける位置に入る。
時春は一瞬、右へ抜くふりをした。
ディフェンスが反応する。
そこへ、マイルズがスクリーンに入った。
相手の足が止まる。
時春は左へ切り返した。
その瞬間、右サイドからライアンが一気にリングへ走り込んだ。
……いた!
時春は迷わずパスを出した。
ボールは床で一度弾み、ディフェンスの足元を抜けてライアンの進行方向へ滑り込む。
ライアンは走ったままボールを受け取り、二歩でリングへ向かった。
レイアップ。
得点。
「よし!」
ライアンが拳を握った。
時春も笑顔で手を上げた。
「ナイス!」
ライアンが嬉しそうに笑う。
「ナイスパス!」
たった二点だった。
まだ大きな点差がある。
それでも、時春は少しだけ手応えを感じた。
次の守備では、ノアが鋭いドライブを仕掛けてきた。
ジェイスを抜き、一気にリングへ向かう。
しかし、今度はトムがゴール下で待っていた。
ノアがレイアップへ踏み切る。
トムも長い腕を伸ばした。
バシッ!
ボールにトムの手が触れ、シュートはリングを大きく逸れた。
「おおっ!」
時春は思わず声を上げた。
「トム! ナイス!」
トムは少し驚いたような顔をしていたが、すぐにボールを追いかけ、リバウンドを確保した。
時春が近づく。
「トム!」
トムはこちらを見て、両手でしっかりパスを出した。
今度は落ち着いていた。
時春はボールを受け取り、すぐに前を向く。
左サイドをジェイスが走っている。
時春は長いパスを出した。
ジェイスが受け取り、そのままリングへ向かう。
相手が前へ出た。
しかし、ジェイスは無理にシュートを打たなかった。
いったん後ろから走ってきたライアンへボールを預け、自分はディフェンスの背後へ回り込む。
時春には、その動きが見えていた。
「ライアン!」
パスを受け取った時春は、すぐさまジェイスへボールを戻した。
ジェイスはリングの近くでキャッチすると、柔らかいシュートを放った。
ネットが揺れる。
「よっしゃ!」
ジェイスが叫んだ。
時春も笑った。
「ナイスカット!」
そこから、少しずつ流れが変わり始めた。
マイルズがスクリーンに入ると、時春がディフェンスを引きつける。ライアンが空いたスペースへ走り、ジェイスは反対側からリングへ切り込む。
トムはゴール下で長い腕を上げ、ボールが来るのを待った。
五人が、それぞれの得意な場所へ動き始めた。
時春はコート全体を見渡した。
右にはライアンがいる。
左ではジェイスがディフェンスの背後を狙っている。
マイルズが相手を押さえ込み、トムはゴールの近くで準備している。
誰かが動けば、別の場所が空く。
そこへパスを出すと、また次の選手が動き始める。
……ああ、これだ。
時春は自然と笑っていた。
日本でプレーしていた頃も、こんな瞬間が好きだった。
自分がパスを出すことで、味方が動きやすくなる。
五人の動きが少しずつ噛み合い、誰か一人ではできない攻撃が生まれる。
その感覚が、ようやく戻ってきた。
次の攻撃では、時春がマイルズへパスを入れた。
マイルズはゴール下で相手を押し込み、力強いシュートを決める。
さらに、ライアンがドライブから得点し、ジェイスもカットインでリングを揺らした。
トムはリバウンドを取り続け、相手がゴール下へ入ってくると、長い腕で簡単にはシュートを打たせなかった。
もちろん、ノアたちも黙ってはいない。
ノアは鋭いドライブから得点を重ね、マイクは相変わらず正確な三ポイントシュートを決め続けた。相手のガードも、時春の小柄な体を狙って何度も仕掛けてくる。
実際、時春は何度か抜かれた。
体をぶつけられ、バランスを崩す場面もあった。
けれど、今度は後ろにトムがいる。
トムの長い腕が上がると、相手はシュートの軌道を変えなければならない。その隙にマイルズが寄り、ジェイスがボールへ手を伸ばした。
時春も懸命に足を動かし、相手が進みたい方向を少しでも塞ごうとした。
完璧なディフェンスではなかった。
体格差が消えたわけでもない。
それでも、五人で守ることで、さっきよりずっと戦えていた。
「いいぞ! そのまま行け!」
マイルズが声を上げた。
時春は頷いた。
「うん!」
試合時間が進むにつれて、点差は少しずつ縮まっていった。
十点差が八点差になり、やがて五点差になる。
ノアたちが得点すれば、こちらも負けずに返す。
最後にはトムのリバウンドから速攻が決まり、ついに同点まで追いついた。
時春は大きく息を吐いた。
最初は、あんなにバラバラだったのに。
今はみんな、互いの動きを見ながらプレーしている。
……やっぱ、楽しいな。
体は疲れているはずなのに、もっとプレーしていたかった。
◇
残り一分。
スコアは三十四対三十四だった。
体育館の雰囲気は、すっかり変わっていた。
周囲で休憩していた選手たちも、いつの間にかコートの近くへ集まっている。最初はただのトライアウトの一試合だったはずが、今では誰もが真剣にボールの行方を追っていた。
ノアが左サイドでボールを受け取った。
ジェイスが腰を落として守る。
ノアは軽くドリブルをつきながら、時春の方を見てにやりと笑った。
「やるじゃん、チビ助!」
時春も笑い返した。
「ありがと!」
「でも、まだ終わってねえぞ!」
次の瞬間、ノアが動いた。
鋭いクロスオーバーでジェイスの重心をずらし、一気に右へ切り込む。
ジェイスが一歩遅れる。
マイルズがヘルプへ寄った。
しかし、ノアはそこで急停止し、短く跳び上がった。
体を少し後ろへ反らしながらのジャンプシュート。
ボールが高い弧を描く。
リングの後ろに当たり、一度跳ねたあと、ネットを通過した。
「……くっ!」
ジェイスが悔しそうに顔を歪めた。
三十六対三十四。
残り時間は四十秒を切っている。
時春はすぐにボールを受け取った。
……まだいける。焦るな。
ゆっくりとボールを運び、味方の位置を確かめる。
ライアンが右サイドへ広がり、ジェイスは左へ走る。マイルズがスクリーンに上がってきた。
時春はライアンへパスを出した。
ライアンがドライブを仕掛ける。
ディフェンスが寄ってくる。
以前の彼なら、ここで無理にシュートを打っていたかもしれない。
しかし、今度は違った。
ライアンはいったんマイルズへボールを戻し、反対側へ走り込んだ。
マイルズがゴール下へ向かうと、相手のセンターが前に立つ。
時春はその動きに合わせて、反対側へ回り込んだ。
「マイルズ!」
マイルズがこちらを見る。
パス。
時春は受け取ると、すぐに左サイドを見た。
ジェイスがベースラインを走っている。
……いた!
時春は迷わずボールを出した。
ジェイスがリングの近くで受け取り、追いかけてきたディフェンスより一歩早く踏み切る。
バックボードを使ったレイアップ。
得点。
三十六対三十六。
「よし!」
ジェイスが叫んだ。
時春も拳を握った。
残り十八秒。
ノアのチームが最後の攻撃へ出る。
相手のガードがゆっくりとボールを運び、左サイドのノアへパスを出した。
ノアは正面からドライブを仕掛ける。
ジェイスが懸命についていくが、ノアの一歩目は速かった。
ディフェンスを抜き、一気にリングへ向かう。
トムが前へ出た。
長い腕が上がる。
ノアは空中で体をひねり、その腕を避けるようにボールを放った。
シュートはバックボードへ当たり、リングを通過した。
三十八対三十六。
残り七秒。
時春はすぐにボールを拾った。
タイムアウトはない。
最後の攻撃だった。
……七秒。
行ける。
時春はボールを受け取ると、一気に前へ走り出した。
右にはライアンがいる。
ジェイスは左サイドを走っている。
マイルズが中央へ上がってきた。
そのさらに向こうで、トムがリングへ向かっていた。
時春は素早く周囲を見渡した。
……どうする?
相手のガードが前へ出る。
時春は右へ切り返した。
そこへマイルズがスクリーンに入る。
相手の足が一瞬止まった。
時春はすぐに左へ抜けた。
残り五秒。
ノアがヘルプへ寄ってくる。
時春は一瞬、左のジェイスへ視線を向けた。
ノアもそちらを見る。
ライアンが右へ広がり、相手のガードを引きつけた。
ゴール下ではトムが、両手を上げていた。
時春はその姿を見つけた。
……あそこだ。
トムの前にはディフェンスがいる。
けれど、トムはその相手よりも頭一つ高い。両手を伸ばせば、ボールを取れる位置にいる。
朝のドリブルテストでは、あんなに苦労していた。
パスを出すときも、何度も失敗した。
それでも、今のトムはリングの近くで、自分の得意なプレーをしようとしている。
時春は一瞬だけ笑った。
「トム!」
右手を振り抜く。
ボールが高く浮かんだ。
ノアが振り返る。
相手のセンターが腕を伸ばす。
しかし、ボールはその上を越えていった。
トムが跳ぶ。
長い腕が伸び、大きな両手がボールをつかんだ。
そのままリングへ。
ダンッ!!
ボールが勢いよくネットを突き抜けた。
次の瞬間、体育館から大きな歓声が上がった。
「うおおおおおっ!!」
時春も思わず拳を突き上げた。
……よっしゃあ!!
トムが着地し、驚いたように自分の手を見つめる。
相手チームが慌ててボールを拾い、スローインから最後の攻撃へ移ろうとした。
しかし、ノアへパスが届いたところで終了のホイッスルが鳴った。
試合は三十八対三十八の引き分けだった。
時春は得点板を見上げた。
……あれ? 同点か!
最後のダンクがあまりにも気持ちよく決まったので、一瞬勝ったような気分になっていた。
……いや、勝ってないじゃん!
思わず笑ってしまった。
けれど、そんなことを気にしている選手はほとんどいなかった。
「トム!!」
マイルズが大きな声を上げた。
ジェイスが駆け寄る。
「今のダンク、最高だったぞ!」
ライアンも笑いながら拳を突き上げた。
「やるじゃん!」
トムはまだ少し呆然としていた。
自分の手を見つめ、それからリングを見上げる。
「……僕が……?」
「トム!!」
時春は笑顔で駆け寄った。
「めちゃくちゃすごかった!!」
トムは時春を見下ろした。
それから、ゆっくりと笑った。
「……トキのパスがよかったんだよ」
「いや、トムが決めたんだって!」
「どっちもだろ!」
マイルズが笑いながら言った。
五人は自然と輪になり、互いの背中や肩を叩き合った。
勝ったわけではない。
最初は大差をつけられていたし、ミスもたくさんあった。
それでも、最後には追いつくことができた。
何より、途中からは五人全員が、自分の得意なプレーを出せていた。
時春は汗を拭いながら、周囲の顔を見渡した。
……楽しかったなあ。
心からそう思った。
そのときだった。
「高山!」
ヘイズコーチの声が響いた。
時春は反射的に振り返った。
「はい!」
ヘイズは少し離れた場所に立っていた。
手にはクリップボード。表情はいつも通り厳しかった。
「最後のパス、よかったぞ」
時春は目を瞬かせた。
「……ありがとうございます!」
「途中から周りがよく見えていた。判断も悪くなかった」
時春は嬉しくなった。
しかし、ヘイズはすぐに続けた。
「だが、ディフェンスはまだまだだな」
「……はい!」
「体の強い相手にも簡単に抜かれない方法を考えろ。それから、プレッシャーをかけられたときのボールの扱いもだ」
時春は背筋を伸ばした。
「はい!」
ヘイズは小さく頷いた。
「もっと強くなれ」
「……はい!」
時春が大きな声で答えると、ヘイズはそれ以上何も言わず、アシスタントコーチの方へ向かっていった。
時春はその後ろ姿を見送った。
まだまだ足りないところはある。
今日は何度も抜かれたし、最初の五対五では自分も焦って無理なプレーをしてしまった。
でも、最後には自分らしいバスケができた。
時春は一度、深く息を吐いた。
……うん。
やれることは、やった。
あとは結果を待つだけだった。
◇
トライアウトがすべて終了したのは、昼過ぎだった。
選手たちは体育館の端へ集まり、コーチたちの話し合いが終わるのを待っていた。
時春はベンチに座り、タオルで汗を拭いていた。
足が重い。
肩も少し張っている。
久しぶりに全力でバスケをしたせいか、体のあちこちが疲れていた。
しかし、それ以上に落ち着かなかった。
……どうなんだろ。
受かったかな。
ドリブルとパスは、かなりよかったと思う。
五対五でも、最後にはいいプレーができた。
でも、ディフェンスでは何度も抜かれたし、ヘイズコーチにも注意された。
Varsityに入れるだけの実力を見せられたのだろうか。
時春はタオルを握り直した。
……うわあ。考え始めたら止まらない。
隣にはトムが座っていた。
彼も落ち着かない様子で、何度も両手を握ったり開いたりしている。
「……トム」
「……ん?」
「緊張するね」
トムは小さく笑った。
「……うん」
「さっきのダンク、すごかったよ」
「……ありがとう」
トムは少し照れくさそうに笑った。
「でも、トキのパスがなかったら、僕、あんなことできなかったよ」
「いやいや! 俺じゃダンクできないし!」
時春が笑うと、トムも笑った。
朝と同じように、二人とも緊張している。
ただ、今は少し違った。
自分たちができることは、もう全部やった。
あとは、コーチの判断を待つしかない。
やがて、ヘイズコーチが戻ってきた。
体育館が静かになる。
「全員、集合!」
選手たちが一斉に立ち上がった。
時春も急いで列へ並ぶ。
ヘイズはクリップボードを持ち、選手たちを見渡した。
「まず、今日は全員よく頑張った」
選手たちは黙って聞いていた。
「簡単な判断ではなかった。いいプレーを見せた選手も多かったし、どのチームに入ってもらうか、最後まで迷った選手もいる」
時春は両手を握った。
「これから、各チームのメンバーを発表する。名前を呼ばれた者は前へ出ろ」
心臓が大きく跳ねた。
……来た。
ついに、結果発表だ。
ヘイズは紙へ視線を落とした。
「まず、Varsity」
時春は息を止めた。
「ノア・レイノルズ」
「はい!」
ノアが笑顔で前へ出る。
「マイク・トンプソン」
マイクが静かに頷き、前へ進んだ。
「マイルズ・カーター」
「おう!」
マイルズが力強く答えた。
時春は両手を握り締めた。
ここまでは予想通りだった。
三人は、すでにVarsityの主力として十分な実力を持っている。
問題は、その次だ。
「ライアン・ブルックス」
ライアンが驚いたように顔を上げた。
それから、嬉しそうに前へ出る。
「ジェイス・ミラー」
「……よし!」
ジェイスが小さく拳を握った。
時春は胸の奥が熱くなった。
二人とも選ばれたのだ。
あの五対五で一緒にプレーした仲間たちが、Varsityのメンバーになった。
……よかった!
しかし、まだ自分の名前は呼ばれていない。
時春はじっとヘイズコーチを見つめた。
紙が一枚めくられる。
さらに数人の選手の名前が呼ばれた。
そのたびに時春の心臓が跳ねた。
……頼む。
お願い。
ヘイズは次の名前を読み上げた。
「トーマス・ウェイク」
隣にいたトムが固まった。
時春も思わず顔を向ける。
「……トム!」
「……えっ?」
「呼ばれたよ!」
トムは信じられないような顔をしていた。
「……僕?」
「そうだよ! 行って!」
時春は笑顔で背中を押した。
トムは慌てて前へ進んだ。
その大きな背中を見送りながら、時春は嬉しくなった。
朝はあんなに緊張していたトムが、最後には見事なブロックとダンクを決めた。
コーチにも、その力を認めてもらえたのだ。
……本当によかったな、トム。
しかし、すぐに自分のことが頭へ戻ってきた。
まだ名前が呼ばれていない。
時春はもう一度、両手を握った。
ヘイズコーチが紙へ目を落とす。
「……そして」
時春は思わず息を止めた。
「高山時春」
「…………」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
自分の名前。
今、呼ばれた?
時春は顔を上げた。
ヘイズコーチがこちらを見ている。
「高山!」
「……は、はいっ!!」
「前へ出ろ!」
時春は慌てて一歩を踏み出した。
「はい!!」
周囲の選手たちが道を空けてくれる。
時春はその間を通り、ノアたちの方へ歩いていった。
何だか、足元がふわふわしていた。
Varsity。
今、確かにそう言った。
ヘイズコーチがVarsityのメンバーとして、自分の名前を呼んだのだ。
ノアたちの隣に並ぶと、マイルズがにやりと笑った。
「ようこそ、チビ助」
ノアも笑顔で肩を叩いてくる。
「やるじゃん、リトルマン!」
ライアンとジェイスが拳を差し出した。
時春も笑顔でそれに応える。
隣ではトムが、まだ少し信じられないような顔をしていた。
時春はその全員を見渡した。
そして、ようやく実感が湧いてきた。
……受かった。
俺、Varsityに受かったんだ。
その瞬間、こらえきれずに声が出た。
「よっしゃあああああ!!」
体育館に大きな声が響いた。
何人かの選手が笑い、ノアも楽しそうに声を上げた。
しかし、ヘイズコーチがすぐにこちらを向いた。
「高山!」
「……はい!」
「まだ発表の途中だ!」
「……あっ!」
時春は慌てて口を閉じた。
「すみません!」
周囲から笑い声が起こった。
ノアは肩を震わせ、マイルズは時春の背中を叩いている。
時春も顔を赤くしながら笑った。
……やっちゃった。
でも、仕方ないじゃん。
嬉しいんだから。
時春は頬が緩むのを、どうしても止められなかった。
◇
すべての発表が終わると、Varsityに選ばれた選手たちはコートの中央へ集められた。
ヘイズコーチは全員を見渡し、少しだけ表情を緩めた。
「まずは、おめでとう」
時春は背筋を伸ばした。
「だが、勘違いするな。今日選ばれたことはゴールじゃない」
選手たちの表情が引き締まる。
「むしろ、ここからが始まりだ」
ヘイズは一度、壁に掲げられたバナーへ目を向けた。
二〇〇九年。
州優勝。
その文字が、体育館の照明を受けていた。
「ブレイカーズが最後に州の頂点へ立ったのは、もうずいぶん昔のことだ」
時春もバナーを見上げた。
「今年は、その歴史を変えたい」
ヘイズは再び選手たちへ向き直った。
「だが、上手い選手を集めただけでは勝てない。今日の五対五でも見ただろう。個人の技術がどれだけ高くても、チームとして動けなければ意味がない」
時春は小さく頷いた。
最初の五対五では、ライアンもジェイスも無理なプレーを繰り返していた。マイルズは苛立ち、トムも自分の高さを使いきれずにいた。
時春自身も焦っていた。
けれど、みんなが自分の得意なプレーを始めた途端、少しずつ状況が変わっていった。
ライアンの速いドライブ。
ジェイスのカットイン。
マイルズの力強いスクリーン。
トムの高さ。
それぞれのプレーがつながり、最後にはあのダンクが生まれた。
時春は思い出して、少しだけ笑った。
……あれ、最高だったな。
「全員が自分の役割を理解し、互いを信頼すること。それができなければ、強いチームにはなれない」
ヘイズは続けた。
「明日から正式に練習が始まる。今日の自分に満足するな。もっと上手くなれ」
そして、短く頷いた。
「ブレイカーズへようこそ」
その瞬間、ノアが大きな声を上げた。
「LET’S GO!!」
マイルズも拳を突き上げる。
ライアンとジェイスが笑い、トムは少し照れくさそうに頷いた。
時春も、思いきり拳を握った。
「よっしゃあああ!!」
今度はヘイズコーチも止めなかった。
体育館には、選ばれた選手たちの歓声と笑い声が響いていた。
◇
午後二時過ぎ。
時春は体育館を出て、寮へ向かって歩いていた。
十一月になっても、カリフォルニアの昼間はまだ暖かい。青い空には薄い雲が浮かび、海から吹く風が頬を撫でていく。
遠くに見えるラグナビーチの街は、いつもと変わらず穏やかだった。
しかし、時春の頭の中は大騒ぎだった。
……受かった。
何度考えても、嬉しかった。
CBAへ来てから二か月近く、ずっと目指してきたVarsity。そのメンバーに、自分の名前が加わったのだ。
正式に発表されたときのことを思い出すだけで、また笑いそうになる。
ヘイズコーチに呼ばれた瞬間は、本当に頭が真っ白だった。
ノアやマイルズが笑って迎えてくれたことも、トムと顔を見合わせて喜んだことも、まだ信じられないくらい嬉しかった。
時春は歩きながら、スマートフォンを取り出した。
画面には、朝届いたエマからのメッセージが残っていた。
『いつものトキで大丈夫だよ :)』
時春は小さく笑った。
エマにも、早く報告したかった。
あの丘で、自分の夢を話した夜。
NBA選手になりたいと言ったとき、エマは笑わなかった。難しい夢だとわかっていても、応援すると言ってくれた。
今日のトライアウトに受かったことを知ったら、きっと喜んでくれるだろう。
ジェイクにも報告したい。あいつなら、たぶん体育館中に聞こえるくらい大騒ぎするに違いない。
ゾーイやテオ、MJ、イジーにも伝えたかった。
日本にいる家族にも、もちろん連絡しなければならない。
時春はしばらく画面を眺めた。
けれど、最初に報告したい相手はもう決まっていた。
スマートフォンをポケットへ戻し、歩く速度を上げる。
寮の建物が見えてきた。
入口の前には、昨日のハロウィーンで使われた小さなカボチャがまだ並んでいる。玄関を抜け、階段を上ると、いつもの廊下に出た。
見慣れたドアがある。
時春は一度、立ち止まった。
ここへ来たばかりの頃は、自分の部屋の場所を覚えるのにも少し時間がかかった。寮の廊下はどこも似ているし、英語の案内板を見ても、何がどこにあるのかよくわからなかった。
それが今では、考えなくてもこの部屋へ戻ってこられる。
時春は小さく笑った。
そして、勢いよくドアを開けた。
「ラリー!!」
「うわっ!?」
部屋の中でラリーが飛び上がった。
椅子に座ってゲームをしていたらしく、手元のコントローラーを落としかけ、慌てて両手でつかみ直している。
「ちょっと! トキ!」
「ラリー!!」
「何!? どうしたの!?」
時春は満面の笑みだった。
嬉しすぎて、上手く言葉が出てこない。
「俺さ!」
「……うん?」
「俺、今日!」
ラリーは少しだけ目を細めた。
「……もしかして」
時春は大きく頷いた。
「受かった!!」
ラリーが目を丸くした。
「……えっ?」
「Varsity! 俺、Varsityに受かったんだよ!!」
一瞬、部屋が静かになった。
ラリーは時春を見つめていた。
それから、ゆっくりと口元を緩めた。
「……へえ」
「……へえ!?」
「よかったじゃん」
「それだけ!?」
「……何が?」
「もっと何かあるでしょ!?」
時春は大げさに両手を広げた。
「俺、一軍だよ!? ブレイカーズのVarsityだよ!?」
ラリーは少し考えた。
それから、いつものようにメガネを押し上げた。
「……まあ、僕はバスケ詳しくないけど」
「うん!」
「君がずっと頑張ってたのは知ってるから」
時春は口を閉じた。
ラリーは少しだけ笑った。
「……おめでとう、トキ」
時春は目を瞬かせた。
ラリーの言葉は、いつも通りだった。
大騒ぎするわけでもなく、大げさに褒めるわけでもない。ただ、少し嬉しそうに笑っている。
それが何だか、いつも以上に嬉しかった。
「……ありがと」
時春が言うと、ラリーは小さく頷いた。
「どういたしまして」
そして、何事もなかったようにゲームへ戻ろうとした。
しかし、時春はまだ話し足りなかった。
「ねえ、ラリー!」
「……今度は何?」
「昨日言ってたじゃん!」
「……何を?」
「受かっても受からなくても、ルームメイトなのは変わらないって!」
ラリーはゆっくりと振り返った。
「……うん。言ったね」
時春は嬉しそうに笑った。
「本当だったね!」
「……当たり前でしょ」
ラリーは肩をすくめた。
「トライアウトに受かったからって、君が急に別の部屋へ引っ越すわけじゃないんだし」
「……あはは!」
時春は笑った。
ラリーも少しだけ口元を緩めた。
「まあ、明日からは練習が忙しくなるんでしょ?」
「うん! 正式な練習、明日からだって!」
「じゃあ、宿題を忘れないようにね」
「えっ、今その話!?」
「当然でしょ。バスケ部に入ったからって、授業がなくなるわけじゃないんだから」
ラリーは冷静に答えた。
時春は思わず頭を抱えた。
……そうだった。
明日、普通に月曜日じゃん。
英語の宿題もあるし、Geometryの課題もある。
あれだけ嬉しいことがあったのに、現実は容赦がなかった。
時春が苦笑していると、ラリーがもう一度口を開いた。
「……でもさ」
「ん?」
「君が嬉しそうでよかったよ」
時春は顔を上げた。
ラリーはいつものように椅子へ座ったままだったが、その表情は少し柔らかかった。
「昨日、結構緊張してたでしょ。何回も持ち物確認してたし」
「……見てたの?」
「そりゃ、同じ部屋にいるんだから」
ラリーは肩をすくめた。
「君が夜中に靴紐を結び直してる音まで聞こえてたよ」
「……あっ」
時春は思わず笑った。
確かに昨日は、なかなか寝つけなかった。
バッグの中身を確認し、シューズを取り出し、靴紐を結び直す。それを何度も繰り返していたら、ラリーから「いい加減寝たら?」と言われたのだった。
「……ごめん」
「別にいいよ。僕もゲームしてたし」
ラリーは少し笑った。
「とにかく、よかったね」
時春は大きく頷いた。
「うん!」
そして、突然両手を広げた。
「……ラリー!」
「……何?」
「ハグ!」
「……えっ?」
ラリーが固まった。
「いや、ちょっと待って。僕、そういうのは――」
「ありがとう、Buddy!!」
「うわあっ!!」
時春は勢いよくラリーへ抱きついた。
ラリーは椅子の上で慌てふためいた。
「ちょっと! トキ! 汗! 君、汗かいてる!」
「うわあああ! 嬉しいいいい!!」
「聞いてる!? シャワー浴びてからにして!!」
時春は声を上げて笑った。
ラリーは必死に逃れようとしていたが、結局途中で諦めたらしく、大きなため息をついた。
「……まったく、君ってやつは」
それから、ぽつりと言った。
「……おめでとう、Buddy」
時春はますます嬉しくなった。
「ありがと、ラリー!」
「わかったから! もう離して!」
二人はしばらく笑い合った。
時春がようやく手を離すと、ラリーは服のしわを直しながら、呆れたようにこちらを見上げた。
「……ほんと、騒がしいルームメイトを持つと大変だよ」
「へへ、ごめん!」
「全然反省してないでしょ」
「うん!」
「そこは否定してよ!」
時春はまた吹き出した。
窓の外には、明るいカリフォルニアの空が広がっている。
机の上には、昨日のハロウィーンで使ったスティーブとクリーパーの頭が並んでいた。床にはゲームのコントローラーが置かれ、ラリーのベッドには朝のまま少し乱れた毛布が残っている。
ほんの二か月前、初めてこの部屋へ入ったときには、ラリーがどんな人なのかもわからなかった。
無愛想そうで、ゲームばかりしていて、何を考えているのか少しわかりにくい男の子。
最初は、上手くやっていけるか心配だった。
けれど今では、真っ先に結果を伝えたい相手になっている。
時春は改めて部屋を見渡した。
この二か月、本当にいろいろなことがあった。
初めての授業で迷子になり、英語がわからなくて困り、ジェイクに散々からかわれた。
エマやゾーイとダニーズへ行き、ノアたちとバスケをして、金曜日にはアメフトの試合を観た。
ホームカミングではパジャマのまま学校へ行き、ダンスパーティーにも参加した。エマに案内してもらった丘から見た夜景は、今でも鮮明に覚えている。
そして今日、ようやくブレイカーズのVarsityに入ることができた。
時春はバッグの中へ目を向けた。
そこには、今朝まで何度も確認していたバスケットシューズが入っている。
明日からは、そのシューズを履いて正式なチーム練習へ参加することになるのだ。
ノアやマイルズ、マイク、トムたちと同じユニフォームを着て、同じチームで戦う。
そう考えると、また胸が高鳴った。
もちろん、まだ公式戦には出ていない。
アメリカの高校で、一勝もしていない。
NBAという夢は、今でも気の遠くなるほど遠いところにある。
それでも、少しだけ近づくことができた。
時春は嬉しそうに笑った。
「……ラリー」
「……何?」
「俺、アメリカ来てよかった!」
ラリーは少しだけ目を丸くした。
それから、いつものように肩をすくめた。
「……うん」
小さく笑う。
「僕も、君が来てよかったと思ってるよ」
時春は一瞬、言葉を失った。
いつものラリーが、そんなことを言うとは思わなかった。
しかも、今度はからかったり、すぐに話題を変えたりもしない。
ただ、こちらを見て笑っている。
時春は少しだけ照れくさくなった。
そして、にっこりと笑った。
「……ラリー!!」
「……えっ?」
「もう一回ハグ!!」
「いや、だからシャワー!!」
時春が両手を広げて近づくと、ラリーは慌てて椅子から立ち上がった。
「待って! 本当に待って! せめてシャワー浴びてからにして!」
「えー! いいじゃん!」
「よくない! 絶対よくない!」
時春が笑いながら追いかけると、ラリーは机の反対側へ逃げ込んだ。
その拍子に、机の上にあったスティーブの頭が少し傾く。
「あっ、スティーブ!」
「トキ! そっち押さえて!」
「了解!」
時春が慌てて手を伸ばし、落ちかけた段ボールの頭を受け止める。
ラリーはほっとしたように息を吐いた。
「……まったく。トライアウトに受かっても、君は全然変わらないね」
「……そう?」
「そうだよ。朝から騒いで、帰ってきても騒いで、最後には僕の部屋を破壊しようとしてる」
「いや、ここ俺の部屋でもあるから!」
「だから余計に困るんでしょ!」
二人は顔を見合わせ、また笑った。
時春はスティーブの頭を机へ戻し、隣に置いてあったクリーパーの頭を手に取った。
緑色の四角い顔が、こちらを見つめている。
昨日はこれをかぶって学校を歩き回っていたのだ。
あれからまだ一日も経っていないのに、今日の出来事のせいで、随分と昔のことのように感じられた。
「……ねえ、ラリー」
「今度は何?」
時春はクリーパーの頭を持ち上げ、にやりと笑った。
「Varsityの練習に、これかぶって行ったらどうなるかな?」
「……は?」
「ヘイズコーチ、びっくりするかな?」
ラリーは数秒間、黙って時春を見つめていた。
そして、深いため息をついた。
「……初日でチームから追い出されるんじゃない?」
「……あはは!」
時春は声を上げて笑った。
確かに、あのヘイズコーチの前でそんなことをしたら、笑い話では済まないだろう。
クリーパーの頭を机へ戻し、今度こそバッグを片づけようとしたところで、スマートフォンが震えた。
画面を見ると、エマからのメッセージが届いていた。
Emma
トキ!
トライアウトどうだった?
終わったら教えてね!
時春は嬉しくなった。
ラリーがすぐに気づく。
「……今度は何?」
「エマから!」
「……ああ、なるほど」
ラリーは何かを察したように頷いた。
時春はベッドへ腰を下ろし、エマとのチャットを開いた。
早く結果を伝えたくて、返信欄をタップする指にも自然と力が入った。
Emma
ええええええ!!!!
トキ!!!!!
おめでとう!!!!
すごい!! 本当にすごいよ!!!!
送信してすぐに既読がついたと思ったら、エマから勢いよく返信が届いた。
画面いっぱいに並んだ感嘆符を見て、時春は吹き出した。
……うわ、めっちゃ喜んでくれてるじゃん!
さらに、続けてメッセージが届く。
Emma
やっぱりトキならできるって思ってた!
今度いっぱい話聞かせてね!
本当におめでとう!
時春はしばらく、その文章を眺めていた。
朝、エマは「いつものトキで大丈夫」と言ってくれた。
実際、今日のトライアウトでは失敗もあったけれど、最後には自分らしいバスケができた。得意なパスで仲間の力を引き出し、あのトムのダンクにつなげることができたのだ。
時春は笑顔で返信した。
Emma
ふふっ、それはトキが頑張ったからだよ!
でも嬉しい!
月曜日楽しみにしてるね!
すぐに届いた返事を読んで、時春は小さく笑った。
そういえば、前にも似たようなことを言われた気がする。
図書館でエッセイを書いていたとき、友達ができたのはエマのおかげだと言ったら、彼女は「トキが自分で頑張ったからだよ」と返してくれた。
今日も同じだった。
時春はスマートフォンを手にしたまま、次に会ったら何から話そうかと考えていた。
すると、ラリーが椅子に座り直しながら言った。
「……で、トキ」
「ん?」
「エマに報告したのはいいけど」
「うん!」
「……君、いつシャワー浴びるの?」
「…………」
時春は自分の格好を見下ろした。
汗をかいた練習着。
肩にかけたタオル。
そして、さっきからずっと着替えずに騒いでいる自分。
……あっ。
そうだった。
「……今から!」
「やっとか」
ラリーは呆れたように笑った。
時春も笑いながらバッグを持ち直した。
シャワーを浴びたら、日本の家族にも連絡しよう。それからジェイクやゾーイたちにも報告したいし、明日の授業の準備もしなければならない。
そして、明日からはいよいよ、ブレイカーズの正式な練習が始まる。
時春はバスケットシューズを取り出し、ベッドの横へ揃えて置いた。
見慣れた、自分のシューズだった。
日本から持ってきて、何度も練習で履いてきた。アメリカへ来てからも、オープンジムのたびにこの靴を履いてコートへ立っていた。
明日からは、正式なブレイカーズの選手として、このシューズを履くことになる。
そう考えると、また少し笑ってしまった。
「……へへ」
「……トキ?」
「ん?」
「君、まだ笑ってるの?」
「うん!」
時春は満面の笑みで答えた。
「だって、めっちゃ嬉しいんだもん!」
ラリーは一瞬きょとんとした。
それから、小さく笑った。
「……まあ、今日くらいはいいんじゃない?」
「でしょ!?」
「でも、シャワーは浴びて」
「あはは! わかったって!」
時春はタオルを肩にかけ直し、バスルームへ向かった。
ドアを閉める直前、もう一度部屋を振り返る。
ラリーはいつもの椅子へ座り、ゲームの画面へ戻ろうとしていた。
窓の外には、明るいカリフォルニアの空が広がっている。
昨日のハロウィーンの飾りも、机の上のゲームも、少し散らかった部屋も、何もかもがいつも通りだった。
けれど、時春にとって今日は特別な日になった。
ようやく、ずっと目指していたチームに入ることができたのだ。
そして、その喜びを真っ先に伝えたい相手が、こんなにも近くにいる。
「……ラリー!」
「……今度は何!?」
時春は笑顔で親指を立てた。
「明日から、ブレイカーズだぜ!」
ラリーはゆっくりと振り返り、少しだけ口元を緩めた。
「……うん。頑張ってね、トキ」
「うん!」
時春は大きく頷いた。
明日からは、もっと忙しくなるだろう。
バスケの練習が始まり、授業も宿題も今まで通り続いていく。強い相手と試合をすることもあれば、思い通りにプレーできない日もあるに違いない。
それでも、時春は楽しみだった。
次はどんな選手と戦うのだろう。
Varsityの練習は、どれくらい厳しいのだろう。
そして、自分はどこまで上手くなれるのだろう。
知りたいことも、やってみたいことも、まだまだたくさんあった。
時春は笑いながらバスルームの扉へ手をかけた。
すると、背後からラリーの声が飛んできた。
「……あっ、トキ!」
「ん?」
「シャワー終わったら、昨日のゲームの続きやる?」
時春は振り返った。
ラリーはいつものように、何でもないことのような顔をしている。
けれど、時春にはその言葉が嬉しかった。
「……もちろん!」
そして、にっこりと笑った。
「今日こそ絶対勝つからな!」
「……君、昨日も同じこと言って負けてたけど」
「シャラップ!!」
ラリーが吹き出した。
時春も笑った。
いつもの寮の部屋に、二人の笑い声が響く。
高山時春、十五歳。
日本から海を越え、カリフォルニアの私立高校へやってきた少年。
知らない言葉や文化に戸惑いながらも、少しずつ友達を作り、自分の居場所を見つけてきた。
そして今日、ようやく憧れのブレイカーズの一員になった。
けれど、まだ公式戦には出ていないし、目指しているNBAまでは長い道のりが続いている。
時春はベッドの横に揃えたバスケットシューズを、もう一度ちらりと見た。
明日はあれを履いて、体育館へ行くのだ。
そう思うだけで、また嬉しくなってきた。
「……へへ」
「トキ! いい加減シャワー!」
「はーい!」
時春は笑顔で返事をして、今度こそバスルームの扉を閉めた。
窓の外では、十一月の明るい日差しがキャンパスを照らしている。
明日も、きっと忙しい一日になる。
それでも今の時春は、その朝が来るのを心待ちにしていた。