第1話 新たなスタート
十一月二日、月曜日。
カリフォルニアの朝は、十一月になっても冬の気配が薄かった。窓の外にはよく晴れた青空が広がり、寮の中庭では、まだ青々とした芝生が朝日に照らされている。遠くから聞こえる鳥の声も、風に揺れるヤシの葉の音も、昨日までと何も変わらない。それなのに、高山時春には、いつもの朝が少し違ったものに感じられた。
ベッドの横には、日本から持ってきたバスケットシューズが揃えて置かれていた。昨日のトライアウトで履いたもので、靴底にはまだ体育館の床を踏みしめた感触が残っているような気がする。時春はベッドに腰掛けたまま、しばらくそのシューズを眺めていた。
昨日、十一月一日。高山時春は、クレセントベイ・アカデミーの男子バスケットボール部、ブレイカーズのVarsityに選ばれた。アメリカの高校スポーツにおいて、Varsityとは学校を代表して公式戦に出場する最上位チームのことだ。日本でいう一軍に近いが、学年による区別はない。実力を認められれば、最上級生でなくとも選ばれる。
十五歳、高校一年生。身長百七十センチ。周囲の選手たちに比べれば、明らかに小柄だった。それでも昨日、グラント・ヘイズコーチは確かに自分の名前を呼んだ。あの瞬間の喜びは、夜になっても消えることがなかった。
「……よしっ」
時春は立ち上がり、シューズをスポーツバッグへ入れた。今日はVarsityとして参加する、最初の正式なチーム練習がある。これまで何度も通った体育館だが、今日はもうオープンジムでもトライアウトでもない。自分は正式なチームの一員として、あのコートに立つのだ。
「……朝っぱらから、ずいぶん景気がいいね」
背後から眠たげな声が聞こえた。振り返ると、隣のベッドでラリー・ナードが布団から顔を出していた。ぼさぼさの髪に、まだ半分しか開いていない目。昨日は時春が合格を報告したあとも、遅くまでゲームをしていたらしい。
「おはよう、ラリー!」
「おはよう。で、今日は何? 世界征服にでも出かけるの?」
「違うって! 今日からVarsityの練習!」
「へえ。世界征服より疲れそうだ」
ラリーは欠伸をしながらメガネを手に取った。時春が嬉しそうにバッグのファスナーを閉めると、彼は少し呆れたように笑った。
「昨日からずっとその調子だね。よくそんなに元気が続くもんだよ」
「だって楽しみじゃん! 俺、ようやくブレイカーズに入れたんだよ!」
「うん。昨日、十二回くらい聞いた」
「そんなに言った?」
「数えるのを途中でやめただけ。もっと言ってたかもね」
時春は笑った。ラリーは再び布団へ潜ろうとしたが、何かを思い出したように顔を上げた。
「ねえ、トキ。ひとつだけ忠告しておくよ」
「ん?」
「昨日の夜、君が考えてたクリーパーの頭をかぶって練習に行くって案。あれだけはやめときなよ」
「えっ、覚えてたの?」
「忘れられると思う? 君の発想って、ときどき本当に怖いんだから」
ラリーはそう言うと、今度こそ布団を頭まで引き上げた。時春は机の上に置かれた四角いクリーパーの頭を見て、思わず吹き出した。
さすがに、今日はやめておこう。
初日からヘイズコーチに怒鳴られるのは、できれば避けたい。
◇
放課後の体育館には、これまでとは違う緊張感が漂っていた。
時春が更衣室を抜けてコートへ入ったとき、すでに十数人の選手たちがウォーミングアップを始めていた。ボールが床を叩く規則正しい音と、シューズがフロアを擦る鋭い音が、高い天井へ反響している。壁にはブレイカーズのエンブレムが掲げられ、その上には過去の優勝記録を示すバナーが並んでいた。
これまでのオープンジムでは、誰もが好きなタイミングでシュートを打ち、気が向けば一対一を始めていた。だが、今日のコートでは、それぞれの選手が決められたメニューに従って体を動かしている。アシスタントコーチがストップウォッチを確認し、壁際には練習用のコーンやボールラックが整然と並べられていた。
「Yo! 誰かと思えば!」
突然、背後から大きな声が飛んできた。振り返る間もなく、時春の肩に腕が回される。
「ブレイカーズ史上、最も小さくて最も騒がしい男のお出ましだ!」
「ノア!」
ノア・レイノルズだった。百九十センチを超える長身に、引き締まった体格。いつものように自信満々の笑みを浮かべ、時春の肩を抱いたままコートの中央へ歩き始める。
「どうした、リトルマン。昨日はちゃんと眠れたか? 嬉しくて天井に穴でも開けたんじゃないだろうな」
「寝たよ! 普通に!」
「そいつは残念だ。お前なら朝まで踊ってると思ったぜ」
「ノアじゃないんだから!」
「ハッ! 言うようになったじゃねえか!」
ノアが愉快そうに笑う。その向こうでは、マイルズ・カーターがストレッチをしていた。二メートル近い長身に分厚い肩、がっしりとした体つき。彼は時春に気づくと、片手を上げた。
「Yo、トキ。昨日の英雄様は遅刻せずに来られたらしいな」
「まだ時間前だよ!」
「いい心がけだ。だが喜んでる暇があったら体を温めろ。今日は昨日の倍は走らされるぞ」
「えっ、倍!?」
「心配するな。倒れたらノアに運ばせる」
「おい、何で俺なんだよ!」
「お前が一番うるさいからだ。少しは静かになるだろ」
ノアが大げさに両手を広げた。時春が笑っていると、コーナー付近からボールが転がってきた。拾い上げて顔を上げると、マイク・トンプソンがこちらへ歩いてきた。
「トキ」
「あっ、マイク!」
「昨日はよかった。最後のパス」
「ありがとう!」
「今日も頼む」
「任せて!」
マイクは小さく笑い、受け取ったボールを手の中で回した。普段は口数が少ないが、シュートについては誰よりも自信がある男だった。実際、彼のスリーポイントは時春がこれまで見てきた高校生の中でも、飛び抜けて正確だった。
少し離れたところでは、トム・ウェイクが一人でシュート練習をしていた。昨日、一緒にVarsity入りを果たした長身の少年だ。彼は時春の姿を見つけると、ほっとしたように笑った。
「トキ、おはよう……じゃないね。もう午後か」
「ははっ! トム、昨日はおめでとう!」
「ありがとう。まだちょっと信じられないけど……」
「俺もだよ!」
時春が拳を差し出すと、トムは少し照れくさそうにそれを合わせた。昨日のトライアウトで見せた豪快なダンクを思い出す。普段はおとなしい彼が、あれほど力強くリングへ向かって跳んだのだ。自分のパスから生まれたあの光景は、きっと長い間忘れないだろう。
しかし、時春が周囲を見渡していると、ふと見慣れない選手が目に留まった。
コートの中央でドリブルをしている、背の高い少年だった。短く整えた茶色い髪に、無駄のない引き締まった体つき。身長は百八十センチほどだろうか。ノアやマイルズほど大きくはないが、時春よりは明らかに背が高い。
彼は二つのボールを同時にドリブルしながら、一定のリズムでコートを移動していた。腰の高さでボールを交互に弾ませ、途中で片方だけを低く切り返す。それでも上体がほとんど揺れない。時春は思わず足を止めた。
……うまい。
単にドリブルが速いわけではなかった。ボールを扱う動作が小さく、必要以上に力を使っていない。視線は常に前へ向けられ、周囲の選手たちの位置を自然に確認しているように見える。
「気になるか?」
隣でマイルズが尋ねた。時春は素直に頷く。
「うん。あの人、めっちゃうまいね」
「ああ。イーサン・コール。ジュニアだ」
「ジュニア……ってことは、三年生?」
「そうだ。で、あいつがうちの正ポイントガードだ」
時春はもう一度、コートの中央へ目を向けた。
ポイントガード。チームの攻撃を組み立て、誰に、いつ、どこでボールを渡すかを判断する役割だ。まさに時春のポジション。
そして、その場所にはすでに先輩がいた。
「Hey、イーサン!」
ノアが突然声を張り上げた。
「お前の弟子が来たぞ! しかも海の向こうからだ!」
少年がドリブルを止め、こちらを振り返った。ノアの冗談に呆れたような表情を浮かべながら近づいてくると、時春の前で足を止める。
「君がトキか」
「はい! 高山時春です!」
「イーサン・コール。よろしく」
差し出された手を握る。思っていたよりも力強い握手だった。
「昨日のトライアウト、少し見てたよ。君、面白いパスを出すんだな」
「あっ、ありがとうございます!」
「褒めてるんだぜ。うちのノアと違って、俺は思ってもないことは言わない」
「おい、俺のどこが信用できねえってんだ!」
「今の発言を聞いて、それを聞き返せる神経がすごいよ」
マイクが横から静かに口を挟み、マイルズが声を上げて笑った。時春もつられて笑いながら、イーサンの顔を見た。彼は落ち着いた雰囲気の少年だったが、その目にはどこか鋭いものがあった。相手の話を聞きながらも、常に何かを観察しているような印象を受ける。
「トキ。ポジションはポイントガードだよな?」
「はい!」
「だったら、今日から俺たちは同じ仕事をすることになる。よろしく頼むよ」
イーサンはそう言って、もう一度軽く拳を差し出した。時春はそれに応えながら、胸の奥に小さな緊張が生まれるのを感じた。
同じポジション。
つまり、チームメイトであると同時に、自分が出場時間を勝ち取るために越えなければならない相手でもあるのだ。
◇
午後四時。体育館に鋭いホイッスルが響いた。
「集合!」
グラント・ヘイズコーチの声が、コート全体へ通った。選手たちはすぐにボールを置き、センターサークルを囲むように集まった。
ヘイズは青いポロシャツに黒いトレーニングパンツを身につけ、手にはクリップボードを持っていた。昨日と同じ格好だったが、時春にはその表情がいっそう厳しく見えた。
「まず、昨日のトライアウトを通過した全員に、おめでとうと言っておこう。だが、それはもう昨日の話だ。今日からは誰が選ばれたかではなく、誰がチームを勝たせられるかを見る」
選手たちが静かになる。ヘイズは一人ひとりの顔を確かめるように見渡し、言葉を続けた。
「ここにいるのはブレイカーズのVarsityだ。学年も、経歴も、身長も関係ない。全員が学校を代表して試合に出る資格を得た。だからこそ、全員に同じだけの責任がある。練習で手を抜く者に、試合のコートへ立つ資格はない」
時春は背筋を伸ばした。昨日までの自分なら、この話を聞くだけで緊張していたかもしれない。しかし今は、厳しい言葉の一つひとつが嬉しかった。ようやく、自分もその責任を負う立場になったのだ。
ヘイズは壁に設置されたホワイトボードへ向かった。そこには年間スケジュールが書き込まれ、十一月から翌年三月にかけて、いくつもの予定が並んでいた。
「いいか。これから二週間でチームを仕上げる。十一月十六日から公式戦が始まる。年明けにはリーグ戦が本格化し、その結果が俺たちのシーズンを左右することになる」
時春はホワイトボードを眺めた。十一月、十二月、一月、二月、そして三月。日本の高校バスケットボールとは、ずいぶん違う時期に大会があるらしい。
日本では、インターハイやウインターカップを目指し、都道府県予選を勝ち抜いて全国大会へ進む。時春も中学生の頃から、そうした大会をテレビや動画で何度も見てきた。だがアメリカの高校では、そもそも大会がどのような仕組みになっているのだろう。
ヘイズは予定表の一月の部分を指差した。
「俺たちがまず目指すのは、リーグの上位だ。同じリーグに所属する学校との直接対決で結果を残し、CIFのプレーオフ出場権を確実にする。そこから先は、一つ負ければ終わりの戦いになる」
CIF。
聞き慣れない略称だった。時春が小さく首を傾げると、隣にいたトムが気づいて囁いた。
「カリフォルニアの高校スポーツをまとめてる組織だよ」
「へえ……」
「うちの学校はSouthern Section。南カリフォルニアの学校が集まってる地区なんだ」
「サザン……セクション?」
「うん。だから、まずはその地区のプレーオフを戦うんだよ」
時春は小さく頷いた。つまり、カリフォルニア州全体でいきなり一つのトーナメントを行うわけではないのだ。
ヘイズはさらに話を続けた。
「忘れるな。去年、俺たちはCIFサザンセクションのプレーオフに進出した。だが、結果はどうだった?」
誰も答えなかった。体育館に一瞬、重たい沈黙が落ちる。
「一回戦敗退だ。たった一試合で、俺たちのシーズンは終わった」
マイルズの表情が変わった。先ほどまでノアと冗談を言い合っていた顔から笑みが消え、まっすぐヘイズを見つめている。イーサンも腕を組んだまま、何も言わずに立っていた。
「去年ここにいた連中なら、覚えているはずだ。試合が終わったあと、相手がコートで喜んでいるのを、俺たちは黙って見ているしかなかった。あの気分をもう一度味わいたい奴はいるか?」
「NO, COACH!」
数人の選手が声を揃えた。
「聞こえんぞ。もう一度聞く。あの悔しさを今年も味わいたい奴はいるか!」
「NO, COACH!!」
今度は体育館全体に声が響いた。ヘイズは力強く頷き、ホワイトボードの一番下に書かれた文字へ視線を向けた。
『CIF STATE CHAMPIONSHIPS』
「今年は違う。今年の目標は、まずリーグの上位に食い込んでプレーオフへの切符をつかむことだ。そしてサザンセクションのプレーオフを勝ち抜き、州大会へ進む。地区の一回戦で荷物をまとめるために、俺たちはここへ集まったんじゃない!」
「YEAH!!」
選手たちから大きな声が上がった。ノアが拳を突き上げ、マイルズがそれに応える。
州大会。
その言葉を聞いた瞬間、時春の胸が熱くなった。
ヘイズの説明を聞きながら、ようやく大会の流れが見えてきた。十一月から年内にかけてはリーグ外の学校とも試合を行い、年が明ければリーグ戦が本格化する。そこで上位に入ることが、地区プレーオフへ進むための大切な条件になる。地区の大会を勝ち抜いた先には、さらにカリフォルニア州の南部地区代表などが参加する州大会の地域トーナメントがあり、その先に州の決勝戦が待っているのだ。
日本なら全国大会を目指すところが、こちらでは州の頂点を目指す。しかも、カリフォルニア州は日本のどの都道府県よりもずっと広く、人口も多い。そこにある数えきれないほどの高校の中から勝ち上がらなければならないのだから、その道のりは想像以上に険しいはずだった。
「……すげえな」
時春は思わず呟いた。まだリーグの相手すらよく知らないのに、三月の決勝戦を想像しただけで胸が高鳴る。広い体育館に大勢の観客が詰めかけ、ブレイカーズのユニフォームを着た自分がコートに立っている。そんな光景を思い描くと、自然と頬が緩んでしまった。
そのとき、ヘイズが再び口を開いた。
「そして今年、チームを率いるキャプテンはマイルズ・カーターだ」
選手たちの視線が一斉にマイルズへ向けられた。彼は短く頷き、輪の中央へ進み出た。
「……よう、お前ら」
マイルズはゆっくりと仲間たちを見渡した。普段から堂々とした男だったが、このときの彼には、いつもとは少し違う迫力があった。
「去年のことは、俺も忘れてねえ。最後の試合が終わったあと、あの更衣室がどんな空気だったか、今でも覚えてる。誰も喋らねえし、誰も顔を上げねえ。あんな惨めな帰り道は、二度とごめんだ」
ノアが静かに頷いた。マイクも腕を組み、マイルズを見つめている。
「今年は新しい連中もいる。昨日まで一緒にプレーしたことすらなかった奴もいるだろう。だが、そんなことは関係ねえ。今ここにいるのは全員、ブレイカーズだ。コートで誰かが転んだら、別の誰かが引っ張り起こせ。一本外したら、次の一本を決めさせてやれ。誰かがミスしたからって、そこでそいつを見捨てるようなチームには絶対なるな」
時春はマイルズの言葉を聞きながら、昨日のトライアウトを思い出していた。最初の五対五では、全員が自分の実力を見せようとして空回りしていた。それが、互いを信じてパスを回し始めた途端に変わった。あのとき、自分の背中を押してくれたのもマイルズだった。
「いいか。俺たちは今年、プレーオフに顔を出して満足するつもりなんかねえ。去年の雪辱を果たして、もっと先まで行く。誰もが俺たちを相手にしたくねえと思うようなチームになってやろうぜ!」
「YEAH!!」
「ブレイカーズ、今年は何をする!?」
「WIN!!」
「聞こえねえぞ! 何をするんだ!!」
「WIN!!!」
マイルズはにやりと笑い、大きな拳を中央へ突き出した。
「だったら証明してやろうぜ。俺たちがどんなチームか、カリフォルニア中にな!」
選手たちが次々と拳を重ねた。時春もその輪へ加わり、声の限りに叫んだ。
「LET’S GO, BREAKERS!!」
ヘイズはそんな選手たちを少しだけ満足そうに眺めていた。だが、次の瞬間にはいつもの厳しい顔へ戻り、ホイッスルを口にくわえた。
「よし。感動のスピーチは終わりだ。全員、ベースラインに並べ!」
歓声が止まった。ノアが嫌な予感を覚えたように眉をひそめる。
「……コーチ、まさか」
「そのまさかだ。まずはコンディショニング。往復ダッシュから始めるぞ」
「Oh, man! 今のいい雰囲気はどこへ行ったんだ!?」
「ノア! 喋る元気があるなら、お前だけ追加で五本だ!」
「……Yes, Coach」
ノアが肩を落とすと、周囲から笑い声が上がった。時春も笑いながらベースラインへ走ったが、その数分後には、人を笑っている余裕など綺麗さっぱり消え失せることになった。
◇
練習は、想像していた以上に厳しかった。
最初の往復ダッシュが終わる頃には、時春の息はすっかり上がっていた。そこからさらに、ディフェンスのフットワーク、クローズアウト、二人一組のパス練習、そして速攻の反復へとメニューが移っていく。ひとつの練習が終わっても、休憩はほとんどなかった。ヘイズのホイッスルが鳴るたび、選手たちは次の位置へ走らなければならない。
だが、時春は不思議と苦痛には感じなかった。
むしろ、体を動かせば動かすほど、気持ちが高ぶっていく。日本にいた頃から何度も繰り返してきた基礎練習。毎日何百回と触れてきたバスケットボール。その積み重ねが、今ようやくアメリカの高校の正式な練習へつながっているのだ。
「トキ! 次、お前だ!」
アシスタントコーチの声が飛んできた。時春はすぐに列の先頭へ出た。目の前には、ディフェンス役としてイーサンが立っている。
「まずは一対一のボールハンドリング。ディフェンダーを抜いて、反対側のラインまで運べ。いいな?」
「はい!」
時春は腰を落とし、右手でボールをつき始めた。イーサンが両腕を広げ、じりじりと距離を詰めてくる。時春は相手の重心を見ながら、一度右へ視線を向けた。
次の瞬間、ボールを左へ切り返す。
イーサンの足が動いた。それを見た時春は、さらに背中の後ろでボールを右手へ戻し、鋭く踏み込んだ。低い姿勢のまま相手の横を抜け、二歩ほど進んだところで体を起こす。
「Whoa!」
ノアが声を上げた。時春はそのままラインを越え、ボールを止めた。
「Nice、トキ!」
「ありがとうございます!」
イーサンは振り返り、小さく笑った。
「速いな。しかもずいぶん低いところでボールを扱う」
「背が低いから、そこは負けたくなくて」
「なるほど。そいつは厄介だ」
イーサンは楽しそうに笑い、再びディフェンスの姿勢を取った。
「もう一本やろう。今度はそう簡単に抜かせないぜ」
その言葉通り、二回目は簡単にはいかなかった。最初のフェイントには反応せず、時春が切り返そうとした瞬間には、すでに進路を塞がれていた。無理に抜こうとすると、イーサンの長い腕が伸びてくる。時春はボールを失いかけ、慌てて体を反転させた。
……うまい。
さっきとはまるで違う。イーサンは一度相手の動きを見ただけで、次にどこへ進もうとするのかを予測しているようだった。時春も必死にボールを守ったが、結局ラインを越えることができず、コーチのホイッスルが鳴った。
「そこまで!」
時春は悔しそうに息を吐いた。イーサンが近づき、ボールを軽く叩く。
「いいハンドリングだ。でも、最初の一歩で全部決めようとするな。相手が動かないなら、もう一回揺さぶればいい」
「……なるほど」
「急いで答えを出す必要はないさ。ポイントガードには、時間を使う仕事だってあるんだぜ」
時春はその言葉を頭の中で繰り返した。時間を使う。これまでの自分は、相手を抜くことやパスを出すことに意識を向けるあまり、試合の速度そのものをコントロールすることまで十分には考えられていなかったのかもしれない。
練習はその後、パスを中心としたメニューへ移った。
三人一組でコートを走り、ボールを素早く運ぶ。時春はここで、自分の得意なプレーを存分に発揮した。走りながら左右の選手を確認し、ディフェンスの位置を見てパスを出す。相手が中央へ寄れば外側へ、外側を警戒すればゴール下へ。小さな体を利用して相手の腕の下からボールを通し、狭い隙間にも正確なパスを届けていった。
「トキ、こっち!」
右サイドからマイクの声が聞こえた。時春はすぐにそちらを見たが、ディフェンダーも同じ方向へ動いた。
その瞬間、マイクが反対側へ走り出す。
時春は迷わず床へボールを叩きつけた。ディフェンダーの足元を抜けたバウンドパスが、ちょうどマイクの進行方向へ届く。
マイクはボールを受け取ると、一度もドリブルをせずにシュートへ移った。
ボールが高い弧を描き、ネットを揺らす。
「Nice pass!」
マイクが親指を立てた。時春は嬉しくなって拳を握った。
「Nice shot!」
「当たり前だろ。あんな場所でもらったら、外す方が難しい」
「Bro! 相変わらず可愛げのねえ野郎だな!」
ノアが反対側から叫んだが、マイクは涼しい顔で次のボールを受け取っていた。
時春の活躍はパスだけではなかった。シューティングドリルでは、トップ付近からボールを受け、一定のリズムでジャンプシュートを打ち続けた。膝を柔らかく使い、肘の位置を安定させ、指先で最後までボールを送り出す。派手な動きはないが、一つひとつの動作が丁寧で、繰り返すうちに自然と同じ軌道でボールが飛ぶようになっていた。
一本目が決まる。二本目はリングの奥に当たって跳ねたが、三本目からは再びネットを揺らした。時春はシュートを打つたび、足の向きとリリースの感触を確かめた。日本にいた頃、何度も一人で練習してきたフォームだ。背の高い相手の上から無理に打つことはできない。だからこそ、わずかな空間でも素早く、正確に打てるようにしてきた。
「いいフォームだ、トキハル!」
ヘイズが声をかけた。
「はい!」
「だが、試合ではその前にディフェンスがいる。ボールを受ける前から足を準備しておけ。打てると判断したら、余計な動きを入れるな」
「Yes, Coach!」
時春はすぐに足の位置を修正した。次のパスを受けると同時に体をリングへ向け、ほとんど迷うことなく跳び上がる。
シュートは綺麗に決まった。
「そうだ。それを忘れるな!」
短い言葉だったが、時春には何よりも嬉しかった。コーチが自分のプレーを見てくれている。それも、昨日のトライアウトだけではなく、今日の練習でも。
周囲には自分より大きく、速く、力の強い選手が何人もいる。だからといって、何もかもで彼らに負けているわけではない。ボールを扱う技術も、仲間を生かすパスも、積み重ねてきたシュートも、自分がこのチームで戦うための確かな武器なのだ。
◇
練習の後半、五対五のスクリメージが始まった。
※スクリメージ:実戦に近い形式で行う練習試合。
ヘイズはまず、イーサン、マイク、ノア、マイルズらを中心とした組み合わせをコートへ送り出した。時春はベンチの端に腰掛け、選手たちの動きをじっと見つめていた。
イーサンのプレーは、先ほどの一対一以上に印象的だった。
彼は決して一人で派手に攻めるタイプではなかった。ドリブルでボールを運びながら、常に周囲へ声をかけている。マイルズにスクリーンの位置を指示し、マイクにはコーナーへ広がるよう手で合図する。ノアが強引にボールを要求しても、簡単には渡さなかった。
「Hey、イーサン! こっちだ!」
「まだだ、ノア! お前の前には二人いる!」
「一人くらいどうにかするって!」
「だったらまず数の数え方から教えてやるよ!」
イーサンはそう言い返しながら、反対側へ鋭いパスを送った。マイクがシュートを打つと同時に、イーサンはすでに次の守備へ備えて走り始めている。
時春はその姿に見入った。
……すごいな。
自分も仲間へパスを出すことは得意だ。しかしイーサンは、パスを出す前から味方全員の次の動きを考えているように見える。チームの攻撃が滞りそうになると、彼が一度ボールを受けるだけで、選手たちの位置が整理されていく。まるで、見えない糸でコート全体を動かしているようだった。
それから数分後、ヘイズのホイッスルが鳴った。
「トキハル! イーサンと交代だ!」
「はい!」
時春は勢いよく立ち上がった。ベンチを離れてコートへ向かうと、イーサンがすれ違いざまに肩を叩いた。
「頼んだぞ、トキ。うちの連中、口は悪いが走るのは速い。遠慮なく使ってやれ」
「はい!」
時春はセンターライン付近でボールを受け取った。相手のポイントガードがこちらを見下ろし、腰を落とす。背丈は自分より二十センチほど高い。だが、その程度の身長差には、もう驚かなくなっていた。
まずは落ち着いてボールを運ぶ。右にマイク、左にノア。ゴール下ではマイルズが相手のビッグマンと体をぶつけ合っている。時春は一度ゆっくりとドリブルしながら、全員の位置を確かめた。
「トキ! スクリーンだ!」
マイルズが上がってくる。時春はその肩の横を抜け、右方向へドリブルを進めた。ディフェンスが二人、こちらへ寄ってくる。その瞬間、反対側のコーナーにいたマイクが空いた。
時春は左手でボールを押し出した。
鋭いパスがコートを横切る。
「よし!」
マイクがボールを受け取り、迷わずシュートを放った。放たれたボールはほとんどリングに触れることなく、ネットの中心を通過した。
「THREE!!」
ノアが叫んだ。時春はマイクと拳を合わせ、そのまま守備へ戻った。
次の攻撃では、自分でリングへ向かった。マイルズのスクリーンを使って相手を抜き、フリースローライン付近で急停止する。追いかけてきたディフェンダーが一瞬遅れたのを見て、時春はその場からジャンプシュートを放った。
ボールは綺麗な弧を描いた。
シュッ、とネットが鳴る。
「Whoa! リトルマン!」
ノアが笑いながら駆け寄ってきた。
「やるじゃねえか! お前、あんなのも持ってんのか!」
「へへっ!」
「だったら次は俺にも回せよ! マイクばっかり美味しい思いしてるぞ!」
「自分で走って空けばいいだろ」
マイクが淡々と答えると、ノアがわざとらしく胸を押さえた。
「Bro! ひでえ! 俺たち、チームメイトだろ!?」
「だから言ってるんだよ」
時春は笑いながらボールを受け取った。こんなやり取りをしながらプレーできることが、何だか不思議だった。二か月前には名前すら知らなかった少年たちが、今では自分のパスを待ち、自分のシュートを喜んでくれている。
しかし、練習のすべてが順調だったわけではない。
次の攻撃で、時春はゴール下へ走り込むトムを見つけた。昨日のトライアウトと同じように、ディフェンスの裏へパスを通そうとする。だが、ボールを出した瞬間、相手のガードが進路へ飛び込んできた。
「あっ!」
パスが奪われた。相手はそのまま速攻へ走り、時春が追いかけたときには、すでにレイアップを決められていた。
「ストップ!」
ヘイズのホイッスルが鳴る。
「高山! 今のパスは何だ!」
「すみません!」
「誰が空いていた?」
「……トムです」
「違う! お前が見ていたのはトムだけだ! その手前にディフェンダーがいただろう!」
時春は言葉に詰まった。確かに、トムが空いた瞬間に意識を奪われ、手前のディフェンダーが動いていることに気づかなかった。
「いいか。お前のパスには才能がある。だが、見える場所へ何でも投げればいいわけじゃない。判断を間違えれば、一本のパスが相手の二点になる。ポイントガードがそれを忘れるな!」
「Yes, Coach!」
ヘイズは短く頷き、再びプレーを始めさせた。時春は汗を拭いながら、さっきの場面を頭の中で繰り返した。トムへ通せると思った瞬間、相手のガードがどこに立っていたのか。もう半歩待てば、違う選択ができたのではないか。
その後も小さなミスは続いた。速攻で一歩早くパスを出してしまったり、守備の切り替えで相手に先を取られたりする。体格の大きな選手にぶつかられれば、簡単にバランスを崩されることもあった。
それでも、時春は下を向かなかった。
失敗した次の攻撃では、ボールを失わないよう落ち着いてドリブルを続け、マイルズがスクリーンをかけるタイミングを待った。ノアがゴールへ切り込むのを確認し、相手のディフェンスがそちらへ寄った瞬間、今度は無理にパスを出さず、自分でジャンプシュートを放った。
ボールがリングへ吸い込まれる。
ベンチからイーサンの声が飛んできた。
「Nice、トキ! 今のはいい判断だ!」
時春は思わず顔を上げた。イーサンが立ち上がり、こちらへ親指を向けている。
……よし。
自分にはまだ足りないものが多い。だが、そのことは決して恥ずかしいことではなかった。足りないものを知るために、こうしてアメリカへ来たのだから。
◇
練習が終わったのは、午後六時を少し過ぎた頃だった。
体育館には汗の匂いが漂い、選手たちはベンチや床へ腰を下ろしていた。時春もタオルを首へかけ、冷たい水を飲んだ。全身の筋肉が重たく、太腿の奥には鈍い疲労が残っている。日本にいた頃も厳しい練習は経験してきたが、今日のメニューはそれとは少し違う疲れ方だった。
ヘイズは選手たちを集め、今日の練習について簡単に振り返った。そして最後に、時春とイーサンを呼び止めた。
「イーサン、トキハル。二人には今シーズン、ポイントガードを任せる」
「はい、コーチ」
イーサンが頷く。時春も慌てて背筋を伸ばした。
「現時点でスターターはイーサンだ。去年からチームを知っているし、試合を組み立てる経験も十分にある。トキハル、お前はその控えとして準備してもらう」
「はい!」
「ただし、ベンチを温めるために選んだわけじゃない。試合ではイーサンを休ませる時間も必要になるし、お前の速さやパスが役立つ場面もある。出場する機会はあるだろう。だが、何分出られるかはお前次第だ」
時春は真剣な顔で頷いた。
「わかりました!」
「その返事をプレーで証明しろ。チャンスを与えるのは俺だが、それを自分のものにするのはお前だからな」
「Yes, Coach!」
ヘイズは満足そうに頷き、二人を解散させた。時春がバッグを取りに戻ろうとすると、隣からイーサンが声をかけてきた。
「控えって聞いて、がっかりしたか?」
「えっ? いや……」
時春は少し考えた。正直に言えば、試合ではできるだけ長くコートに立ちたい。自分もポイントガードとしてチームを動かしたいし、いつかはスターターになりたいと思っている。だが、今日のイーサンのプレーを見たあとでは、いきなりその座を奪えるなどと考えるほど自信過剰でもなかった。
「……もちろん、いつかはスタメンになりたいです」
思い切ってそう答えると、イーサンは一瞬目を丸くした。それから、嬉しそうに笑った。
「いいね。そのくらいじゃなきゃ困る」
「えっ?」
「俺だって、簡単にポジションを譲るつもりはない。でも、後ろに本気で追いかけてくる奴がいる方が、こっちも気合いが入るだろ?」
イーサンは時春の肩を軽く叩いた。
「遠慮するなよ、トキ。俺から学べるものは全部盗んでいい。その代わり、俺がお前に抜かれそうになったら、こっちも本気で抵抗するからな」
「……はい!」
「よし。じゃあ明日からも頼むぜ、相棒」
時春は思わず笑った。相棒。その言葉が嬉しかった。ポジションを争う相手であっても、同じチームを勝たせようとする仲間であることに変わりはない。
それに、控えだからといって試合に出られないわけではないのだ。イーサンがベンチへ下がったとき、次にコートを任されるのは自分かもしれない。限られた時間の中で結果を残すためには、普段の練習から何をすべきかを考えておかなければならない。
時春はバッグからシューズを取り出し、靴紐をほどきながら小さく笑った。
……やってやろうじゃん。
アメリカでのバスケは、まだ始まったばかりなのだから。
◇
「Alright! お前ら! 今夜の予定は決まった!」
更衣室の入口で、ノアが突然両手を叩いた。
着替えを終えたマイルズ、マイク、トム、そして時春が一斉に顔を上げた。ノアはまるで重大な発表でもするように胸を張り、満面の笑みを浮かべている。
「ダニーズだ! 今日は俺たちの新しいシーズンの始まりを祝って、盛大に食おうぜ!」
「お前、昨日もそんなこと言ってなかったか?」
マイルズが呆れたように尋ねた。
「昨日はトライアウトのお祝いだろ! 今日は正式な練習初日のお祝いだ。全然違うじゃねえか!」
「明日は何を祝うんだ?」
マイクがタオルで髪を拭きながら聞いた。
「明日? そりゃ……火曜日を祝うに決まってんだろ!」
「便利な人生だな、お前」
マイルズが笑った。ノアはまったく気にする様子もなく、今度は時春の肩を抱いた。
「どうだ、トキ! お前も来るだろ? 今日みたいに走り回ったあとには、でっかいハンバーガーが必要だ!」
「行く!」
「即答かよ! 気に入ったぜ!」
「でも、俺、宿題が……」
「おいおい、やめてくれ。せっかくいい話をしてるんだぜ? 宿題なんて言葉を食事の前に持ち出すなよ」
「でも明日までなんだよ!」
「人生にはな、優先順位ってもんがある。まず食事、次にバスケ、それから睡眠だ!」
「勉強は?」
「……今、それを考えてたところだ」
ノアが真剣な顔で答えたので、時春は思わず吹き出した。
「とにかく決まりだ! マイルズ、マイク、トム、トキ! Let’s go!」
「俺はまだ行くって言ってねえぞ」
「お前が来ねえと誰が会計するんだよ?」
「自分の分くらい自分で払え!」
「ハッ! やっぱりお前、最高のキャプテンだぜ!」
ノアはマイルズの抗議を聞き流し、さっさと更衣室を出ていった。マイクは肩をすくめ、トムは小さく笑いながらバッグを持ち上げる。時春も慌ててそのあとを追った。
外へ出ると、カリフォルニアの空はすでに夕暮れの色へ変わっていた。西の方角には太陽の名残があり、海から吹いてくる風には昼間よりもはっきりとした冷たさが混じっている。体育館の照明が背後で明るく輝き、キャンパスの歩道には長い影が落ちていた。
五人は並んで歩きながら、今日の練習について話し始めた。
「しかし、あのダッシュは殺人的だったな」
ノアが大げさに腰を押さえる。
「最初の一本で俺の魂は肉体から離れていったぜ」
「戻ってこなくてもよかったのにな」
マイクが淡々と答えた。
「Bro! お前、今日ずいぶん当たりが強くないか!?」
「シュートはいつも通りだったけど」
「そういう意味じゃねえよ!」
時春は二人のやり取りを聞きながら笑っていた。話す英語は相変わらず速かったが、以前ほど理解に苦しむことはなくなっていた。もちろん、冗談の意味がわからず置いていかれることもある。それでも、今では会話の流れを何となくつかめるようになっていた。
マイルズが時春の方を見た。
「それにしてもトキ、お前のジャンパーはなかなかいいな。あのフリースローライン付近からのやつ」
「ほんと!?」
「ああ。あの距離でしっかり決められるガードがいると助かる。相手がゴール下を固めてきても、攻め方が増えるからな」
「ありがとう!」
「ただし、ディフェンスはもっと鍛えろ。今日、お前の横を何回抜かれたと思ってる?」
「……三回?」
「五回だ」
「えっ、数えてたの!?」
「キャプテンだからな」
マイルズは涼しい顔で答えた。時春は思わず肩を落としたが、その隣でトムが小さく笑った。
「でも、トキのパスはすごかったよ。僕、今日も何回かいいところでもらえたし」
「ほんと? ありがとう、トム!」
「うん。僕ももっとちゃんと決められるように頑張るね」
時春は嬉しくなって頷いた。トムも自分と同じく、昨日Varsityに選ばれたばかりだ。二人とも経験では先輩たちに及ばないが、それぞれにチームへ貢献できる武器がある。これから一緒に成長していけると思うと、自然と気持ちが明るくなった。
やがて学校の敷地を離れると、街灯の並ぶ通りへ出た。少し先には見慣れた赤い屋根と、明るいネオンの看板が見えている。
『DANNY’S DINER』
ダニーズ・ダイナー。
初めて来たのは、金曜日のアメリカンフットボールの試合を観戦した夜だった。あのときは何もかもが新鮮で、ハンバーガーの大きさにも、バニラシェイクの美味しさにも驚いた。今ではすっかりお気に入りの店になり、友達と食事をする場所として自然と思い浮かぶようになっていた。
「さあ、諸君!」
ノアが店の前で立ち止まり、大げさに腕を広げた。
「ブレイカーズの新シーズン、記念すべき第一回ディナーミーティングの始まりだ!」
「ただの夕飯だろ」
マイルズが言った。
「夢がねえなあ、キャプテン!」
そんなやり取りをしながら、五人はガラスの扉を押して店内へ入った。
◇
ダニーズの中は、いつもと変わらない賑やかさに満ちていた。
赤いビニール張りのソファ、白と黒のタイルが敷き詰められた床、壁に飾られた古い映画のポスター。奥のカウンターではコーヒーメーカーが小さな音を立て、キッチンからは焼いた肉と揚げ物の香ばしい匂いが漂っている。窓際の席には地元の家族連れが座り、カウンターでは常連らしい男性が新聞を読みながらコーヒーを飲んでいた。
「Hey、ダニー! 腹を空かせた未来のチャンピオンたちが来たぜ!」
ノアが大声で叫ぶ。すると、カウンターの奥にいたダニーが顔を上げた。
がっしりした体格に、短く刈った髪。いつもの黒いTシャツの上からエプロンをつけ、眉間には深い皺を寄せている。
「……ノア」
「Yo! 今日も最高の顔してるな!」
「店の外まで声が聞こえたぞ」
「そいつはどうも! 宣伝効果は抜群だろ?」
「次は静かに入ってこい。警察を呼ばれたくなかったらな」
ダニーは低い声でそう言うと、再び手元の作業へ戻った。ノアはまるで気にせず笑っていたが、時春は思わず吹き出してしまった。
ダニーはいつも不機嫌そうに見える。だが、何度か店に通ううちに、それが彼の普段の顔なのだとわかってきた。言葉は少し乱暴だが、料理は美味しいし、客のこともよく見ている。初めて来た頃には少し怖かったこの店主にも、今では不思議と親しみを感じていた。
「いらっしゃいませ!」
そのとき、店の奥から明るい声が聞こえた。
時春が顔を上げると、赤いエプロンをつけたエマ・パーカーがトレーを持って立っていた。柔らかな茶色い髪を後ろでまとめ、いつもの人懐っこい笑顔を浮かべている。
「あっ、トキ!」
「エマ!」
エマは嬉しそうに駆け寄ってきた。
「今日、練習だったんでしょ? どうだった?」
「めっちゃ楽しかった!」
「ほんと? よかった!」
エマは自分のことのように喜んでくれた。昨日のトライアウトに合格したことをメッセージで伝えたときも、彼女は何度もお祝いの言葉を送ってくれた。その笑顔を目の前で見ると、時春は何だか少し照れくさくなった。
「Hey、ちょっと待った!」
ノアが二人の間へ顔を出した。
「エマ! 俺たちだっているんだぜ! トキだけ特別扱いってのは、ちょいと不公平じゃねえか?」
エマはにっこり笑った。
「あら、ノア。いたの?」
「いたよ! 最初に入ってきたの俺だろ!」
「ごめんね。声が大きすぎて、店の設備か何かだと思ってた」
マイルズが腹を抱えて笑った。マイクも口元を緩め、トムは必死に笑いをこらえている。
「Okay、わかった! 今のは一本取られた!」
ノアは両手を上げ、降参するように肩をすくめた。
エマは笑いながら五人を奥の大きなテーブルへ案内した。時春はソファに腰を下ろすと、メニューを開いた。ハンバーガー、サンドイッチ、パンケーキ、フライドポテト。何度見ても、写真に載っている料理の量はなかなか凄まじい。
「今日は何にする?」
エマが注文用の端末を手に尋ねた。
「俺、チーズバーガー!」
「はい、チーズバーガーね」
「あとポテト!」
「セットについてるよ」
「じゃあ、バニラシェイク!」
その瞬間、エマが楽しそうに笑った。
「ふふっ。やっぱりね!」
「えっ?」
「トキ、絶対バニラシェイク頼むと思ってた!」
「だって美味しいじゃん!」
「知ってるよ。最初に飲んだときの顔、まだ覚えてるもん」
エマはくすくす笑いながら注文を入力した。時春は少し恥ずかしくなって頬をかいた。確かに初めてこの店のシェイクを飲んだときは、あまりの美味しさに大騒ぎしてしまった。今でも、あの味だけは外せないと思っている。
やがて全員の注文が終わると、エマは端末を閉じた。
「じゃあ、ちょっと待っててね!」
「あっ、エマ!」
時春が呼び止めると、彼女は振り返った。
「ん?」
「あとで、今日の練習の話してもいい?」
エマは少しだけ目を丸くしたあと、柔らかく笑った。
「もちろん! 楽しみにしてるね」
そう言って、彼女はカウンターへ戻っていった。
時春はその後ろ姿をしばらく見送っていたが、向かい側から妙な視線を感じて顔を戻した。ノアがにやにやと笑っている。その隣ではマイルズまで、何やら意味深な表情を浮かべていた。
「……何?」
「いやあ、別に?」
ノアはわざとらしく視線を逸らした。
「ただ、リトルマンもずいぶんこの街に馴染んだもんだと思ってな」
「そう?」
「そうさ。来たばっかりの頃は、英語で注文するだけでも一苦労だったろ? それが今じゃ、可愛い女の子と楽しそうにお喋りだ」
「エマは友達だよ!」
「Whoa! 俺は何も言ってねえぞ!」
「ノア!」
時春が抗議すると、ノアは声を上げて笑った。マイルズも楽しそうに肩を揺らしている。マイクはそんな二人を横目に水を飲み、トムはどう反応していいのかわからない様子で微笑んでいた。
「お前ら、その辺にしとけ」
マイルズがようやく口を開いた。
「明日も練習だ。トキが変なこと考えて眠れなくなったら困るだろ」
「マイルズまで!?」
時春が情けない声を上げると、テーブルにはまた笑い声が広がった。
その後、料理が運ばれてくると話題は自然とバスケットボールへ移った。ノアは今日のスクリメージで決めたダンクについて大げさに語り、マイクはその前のパスが危なかったと冷静に指摘した。マイルズはチーム全体の守備について話し、トムは練習中にヘイズから教わったリバウンドの取り方を思い出していた。
時春はハンバーガーを食べながら、その会話を夢中で聞いていた。
「なあ、マイルズ」
「何だ?」
「今日コーチが言ってたCIFのプレーオフってさ、結構たくさん試合するの?」
「ああ。地区のトーナメントだからな。勝ち進めば何試合も戦うことになる」
「へえ……。じゃあ、去年は一回戦で負けちゃったんだよね?」
マイルズの手が、ほんの少し止まった。
「ああ」
短い返事だった。時春は少しだけ申し訳なくなったが、マイルズはすぐに言葉を続けた。
「俺たちはリーグ戦を乗り切って、ようやくプレーオフに進んだ。けど、そこで負けた。何か月も練習して、何十試合も戦って、それで終わりだ」
マイクも静かに頷いた。
「シーズンが終わると、本当に急に何もなくなるんだよ。昨日まで毎日のように練習してたのに、次の日からは体育館へ行く理由がなくなる」
「……そっか」
時春は手元のハンバーガーを見つめた。
勝てば次へ進める。負ければ終わる。その仕組み自体は、日本の大会と変わらない。しかし、アメリカの高校バスケットボールでは、数か月もの長いシーズンを戦い、その最後にプレーオフが待っている。レギュラーシーズンで積み重ねた勝利も、仲間と過ごした時間も、たった一度の敗戦によって突然終わってしまうのだ。
「だから今年は勝つ」
マイルズが静かに言った。
「去年より一つでも多く。できれば最後までな」
その言葉には、さっきまでの冗談めいた調子がなかった。時春が顔を上げると、マイルズはまっすぐこちらを見ていた。
「トキ。お前もトムも、今年初めてVarsityに入った。まだわからねえことだらけだろうが、心配するな。俺たちが教えてやる」
「……うん!」
「その代わり、試合じゃ遠慮するなよ。お前がコートに立ったら、俺たち全員の命運がかかってると思え」
「それ、結構プレッシャーなんだけど!」
「ハッ! いいじゃねえか。少しくらい緊張感があった方が、男前に見えるぜ!」
ノアが笑いながら口を挟んだ。マイルズも笑い、テーブルの空気が再び和らいだ。
やがてエマが追加の水を持ってきたときには、五人ともすっかり食事を楽しんでいた。彼女は空になった皿を見て少し驚いたように笑い、時春のシェイクがまだ半分ほど残っていることに気づくと、嬉しそうに声をかけた。
「トキ、練習の話、もう少し聞ける?」
「うん! 今日ね、イーサンっていう先輩と一対一したんだけど、めっちゃうまくて!」
「イーサン・コール? 知ってるよ!」
「えっ、知ってるの?」
「もちろん! バスケ部では有名だもん。ポイントガードでしょ?」
時春は驚いた。エマは当たり前のように頷き、少し得意そうに笑った。
「私だって、ブレイカーズのことくらい知ってるよ?」
「そっか!」
「それで、トキはイーサンの控えになるんだよね?」
「うん。でも、試合には出してもらえるかもしれないって!」
「本当に? すごいじゃん!」
エマの目が輝いた。
「じゃあ、私も応援に行かなきゃね!」
「えっ、来てくれるの?」
「もちろん! トキが試合に出るところ、見たいもん!」
時春は思わず笑顔になった。今日の練習で感じた疲れが、少しだけ軽くなったような気がする。
「じゃあ、頑張る!」
「うん! でも無理しすぎないでね。怪我したら大変だから」
「大丈夫! 俺、結構丈夫だから!」
「そういう人が一番心配なんだけどなあ」
エマは困ったように笑った。そのとき、カウンターの方からダニーの低い声が飛んできた。
「エマ! テーブル六番だ!」
「あっ、はーい!」
エマは慌ててトレーを持ち直した。
「ごめんね、トキ! また学校で話そう!」
「うん! バイト頑張って!」
彼女は笑顔で手を振り、忙しそうに店の奥へ向かっていった。
時春はその姿を見送りながら、残っていたバニラシェイクを一口飲んだ。甘く冷たい味が、疲れた体へゆっくりと染み込んでいく。
その隣でノアが満足そうにハンバーガーを食べ終え、背もたれへ深く体を預けた。
「あー、最高だ。バスケして、飯食って、あとは寝るだけ。これぞ人生ってもんだろ!」
「お前の場合、宿題を忘れてるだけだ」
マイクが言った。
「……なあ、誰か数学の課題やったか?」
「ほらな」
マイルズが呆れたように笑うと、時春もトムも声を上げて笑った。
気づけば、窓の外はすっかり夜になっていた。ネオンの光がガラスに映り込み、店内には客たちの話し声と食器の触れ合う音が穏やかに響いている。その賑やかさの中に身を置きながら、時春はふと、この店へ初めて来た夜のことを思い出した。
あの頃は、アメリカの高校生活というものが、まだ何もわからなかった。英語も十分に聞き取れず、周囲の会話についていくのが精いっぱいだった。それでも、エマやジェイクたちに出会い、ノアやマイルズたちとバスケをするようになり、少しずつこの場所での暮らしが自分のものになっていった。
そして今、こうしてVarsityの仲間たちと食事をしている。
自分がこの輪の中にいることを、もう不思議だとは思わなかった。
◇
ダニーズを出る頃には、夜の空気がすっかり冷たくなっていた。
五人は街灯の下を歩きながら、再びキャンパスへ向かった。道路には車のヘッドライトが流れ、遠くの丘には住宅の明かりが点々と灯っている。海の方角から吹く風には、微かな潮の匂いが混じっていた。
ノアとマイルズは相変わらず何かを言い合い、マイクがときどき冷静な一言を差し込んでいる。トムはその隣で笑いながら歩いていた。時春も会話に加わり、ときにはからかわれ、ときには言い返しながら、学校までの道を進んでいった。
キャンパスの門が見えてきたところで、マイルズがふと立ち止まった。
「……なあ、お前ら」
その声に、全員が顔を向ける。
「二週間後だ」
マイルズは体育館のある方角を見た。夜のキャンパスの奥に、大きな建物の輪郭が浮かんでいる。
「二週間後には、最初の公式戦が始まる。今日みたいに笑っていられるのも、勝ってる間だけかもしれねえ。だから、今のうちから覚悟だけは決めとけよ」
ノアがにやりと笑った。
「何言ってんだ、キャプテン。勝てばいいだけだろ?」
「簡単に言うな」
「簡単じゃねえことくらい、わかってるさ」
ノアはそう答え、少しだけ真剣な表情になった。
「でも、今年は去年と違うだろ。新しい奴もいるし、俺たちだって去年より上手くなってる。だったら、去年より先へ行けるはずだ」
マイクが頷いた。トムも小さく拳を握る。
時春は四人の顔を見渡した。今日一日、厳しい練習をこなし、何度も失敗し、何度も仲間に助けられた。まだチームとしては完成していないし、自分にも課題は山ほどある。それでも、同じ目標に向かって進もうとしていることだけは、はっきりとわかった。
「……俺も、勝ちたい」
気づけば、そう口にしていた。
マイルズがこちらを見る。
「そりゃそうだろ。何のためにアメリカまで来たんだ?」
「うん。俺、NBA選手になるのが夢なんだ。だからこそ、このチームでも絶対に頑張りたい。試合に出られたら、みんなが勝てるようにパスを出すし、自分でもシュートを決める。もっと練習して、もっと上手くなる!」
時春は少し照れくさくなりながらも、最後まではっきりと言った。
ノアはしばらく黙ってこちらを見つめ、それから大きく笑った。
「ハッ! 最高じゃねえか、リトルマン!」
マイルズも満足そうに頷いた。
「いいぞ、トキ。その意気だ」
マイクが時春の肩を軽く叩き、トムが嬉しそうに笑った。ノアは両腕を広げ、再び大きな声を上げる。
「決まりだな! 俺たち全員で、州大会まで行ってやろうぜ!」
「YEAH!!」
マイルズが拳を突き上げる。時春も笑顔でそれに応えた。
その夜、寮の部屋へ戻った時春は、シャワーを浴びてから机に向かい、明日の授業の準備を始めた。隣ではラリーがいつものようにゲームをしており、ときどきヘッドホン越しに小さな文句を呟いている。窓の外には静かなキャンパスが広がり、遠くの体育館にはまだいくつか明かりが残っていた。
時春は教科書を閉じると、ベッドの横に置いたバスケットシューズへ目を向けた。今日一日で、靴底には新しい埃がつき、紐にも汗が染み込んでいる。何度も走り、何度も跳び、何度もボールを追いかけた。その疲れが脚の奥に残っていることさえ、今はどこか心地よかった。
昨日までは、Varsityに入ることだけを考えていた。そこに選ばれれば、きっと何かが大きく変わると思っていた。実際には、今日も朝から授業があり、放課後には厳しい練習が待っていて、帰ってくれば宿題をしなければならなかった。夢に近づいたからといって、突然何もかもが特別になるわけではないらしい。
けれど、一つだけ確かに変わったことがある。
これから自分は、ブレイカーズの一員として試合を戦うのだ。
十一月には公式戦が始まり、その先にはリーグ戦が待っている。そこで結果を残せば、二月にはCIFサザンセクションのプレーオフへ進むことができる。そして地区の戦いを勝ち抜いた先には、まだ一度も見たことのない州大会の舞台がある。
それは遠い目標だった。今の自分はまだ控えのポイントガードで、試合に何分出られるのかさえわからない。それでも、今日イーサンと交わした言葉や、マイルズがチーム全員に向けて語ったことを思い出すと、不思議と不安よりも期待の方が大きくなっていった。
「……へへっ」
時春は小さく笑った。
「……トキ?」
隣の机からラリーの声がした。
「ん?」
「何、一人で笑ってんの? ちょっと怖いんだけど」
「いや、明日も練習あるなーって思って」
「……それが笑う理由になるの?」
「うん!」
ラリーは数秒間、時春を見つめていた。それから、いかにも呆れたように首を振る。
「まったく。バスケってのは、ずいぶん奇妙な宗教なんだね」
「あははっ! 違うって!」
時春が笑うと、ラリーも少しだけ口元を緩めた。
やがて部屋の明かりを落とすと、窓の外には穏やかなカリフォルニアの夜が広がっていた。明日もまた、いつも通り学校へ行き、授業を受け、放課後には体育館へ向かうのだろう。きっと練習は厳しく、失敗もする。イーサンには簡単に勝てないだろうし、ヘイズには何度も怒られるかもしれない。それでも、今日のようにボールを追いかけ、仲間と一緒に笑えるのなら、どんな一日も楽しみだと思えた。
高山時春、十五歳。
アメリカへ渡ってから、二か月と少し。ようやく手に入れたVarsityのユニフォームを着て、彼が本当の意味で挑戦する季節が近づいていた。
ブレイカーズの新しいシーズンは、まだ始まったばかりだった。