CRESCENT BAY ACADEMY   作:西野圭吾

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第4話 クリスマス・ゲーム

 十二月二十五日、金曜日。

 

 カリフォルニアの冬は、日本で過ごしてきた十五年間の記憶とはずいぶん違っていた。街路樹にはまだ緑の葉が茂り、日中には薄手のシャツで歩いている人もいる。雪の代わりに降り注ぐのは明るい陽光で、住宅街の庭先ではヤシの木が穏やかな風に揺れていた。それでも、家々の軒先を彩るイルミネーションや、店の入口に飾られた大きなリースを見れば、この街にも確かにクリスマスが訪れているのだとわかった。

 

 クレセントベイ・アカデミーも冬休みに入り、普段は賑やかなキャンパスが静まり返っていた。学生寮に残っている生徒は少なく、多くはそれぞれの実家へ帰っている。日本から来た高山時春にとって、家族と離れて迎える初めてのクリスマスだった。

 

 もっとも、寂しさに浸っている暇はなかった。

 

 十一月に始まったブレイカーズのシーズンは、十二月に入っても好調を維持していた。強豪校との対戦では苦しい敗戦も経験したが、チームは着実に勝利を積み重ね、年明けから本格化するリーグ戦へ向けて順調に準備を進めていた。

 

 時春も控えのポイントガードとして出場時間を増やし、イーサンから攻撃の組み立て方を学びながら、少しずつチームの戦力になりつつあった。体格の大きな相手には苦労することも多かったが、速さを生かしたドライブや仲間へのパスは十分に通用している。公式戦の緊張にも慣れ始め、最近ではコートへ送り出される瞬間が待ち遠しく感じられるほどだった。

 

 そんな十二月のある日、練習が終わった更衣室で、ノア・レイノルズが突然妙なことを言い出した。

 

「Hey、トキ! お前、クリスマスは暇か?」

 

「クリスマス?」

 

「ああ。家族は日本だろ? 何か予定あんのか?」

 

「うーん……特にないかな。ラリーとゲームでもするつもりだけど」

 

 時春が答えると、ノアは待ってましたと言わんばかりに笑った。

 

「よし! だったら俺と出かけようぜ!」

 

「えっ、どこに?」

 

「ロサンゼルスだ!」

 

「ロサンゼルス?」

 

 時春は首を傾げた。ロサンゼルスといえば、世界的に有名な大都市だ。アメリカへ来てから何度か近くを通ったことはあるものの、ゆっくり観光した経験はまだなかった。

 

 ノアはもったいぶるように胸を張った。

 

「今年のクリスマスゲーム、チケットが手に入ったんだよ!」

 

「……クリスマスゲーム?」

 

「おいおい、まさか知らねえのか?」

 

 ノアは信じられないという顔をした。

 

「NBAだよ、NBA! クリスマスにやる特別な試合だ! しかも今年はモナークスのホームゲームだぜ!」

 

 その名前を聞いた瞬間、時春の目が大きく開いた。

 

「……えっ?」

 

「だから、ロサンゼルス・モナークスだって!」

 

「……マジ?」

 

「マジだ!」

 

「ええええっ!? モナークス!?」

 

 時春は思わず立ち上がった。

 

 ロサンゼルス・モナークス。

 

 NBAを代表する名門チームであり、数々のスーパースターを生み出してきた、世界中にファンを持つ人気球団だ。そして現在、そのモナークスには、バスケットボールを知る者なら誰もが名前を聞いたことのある選手が所属している。

 

 ダリウス・ジェームズ。

 

 通称、キングD。

 

 時春にとって、その名前は特別だった。

 

「キングDがいるチームじゃん!!」

 

「そうだよ! わかってんじゃねえか!」

 

「えっ、待って! キングDを生で見られるの!?」

 

「怪我でもしてなきゃ、当然そうなるな!」

 

「うわあああっ! 行く! 絶対行く!」

 

 あまりの勢いにノアが声を上げて笑い、近くで着替えていたマイルズが呆れたように振り返った。

 

「お前ら、少し静かにしろ。更衣室が壊れるぞ」

 

「聞いてくれよ、マイルズ! リトルマンをキングDの試合に連れてってやるんだ!」

 

「へえ。そりゃいいな」

 

 マイルズは笑って時春の方を見た。

 

「よかったじゃねえか、トキ。本物を見てこいよ」

 

「うん!!」

 

 そのときの時春は、クリスマスまであと何日あるのかを、頭の中で何度も数え直していた。NBAの試合は動画やテレビで数えきれないほど見てきたが、実際にアリーナへ足を運んだことは一度もない。まして、キングDのプレーを生で見ることができるなど、アメリカへ来る前には想像すらしていなかった。

 

 しかも今回は、ノアの親戚のつてで五人分のチケットを確保できたらしい。すでにエマ、ゾーイ、ジェイクにも声をかけているという。

 

 こうして、時春にとって忘れられないクリスマスの予定が決まったのだった。

 

     ◇

 

 クリスマス当日の昼過ぎ、ノアの運転する車はクレセントベイを出発した。

 

 車内には時春のほか、エマ・パーカー、ゾーイ・ウォーカー、ジェイク・ハリスが乗っていた。助手席を確保したジェイクは出発してからずっと喋り続け、ノアもそれに負けない声量で応じている。後部座席の時春たちは、二人の会話を聞いているだけで何度も笑わされていた。

 

「なあノア! 今日キングDが四十点取ったらどうする!?」

 

「決まってんだろ! 立ち上がって叫ぶ!」

 

「じゃあ五十点なら!?」

 

「椅子の上で踊る!」

 

「それ、警備員に止められない?」

 

 ゾーイが呆れたように口を挟むと、ノアはバックミラー越しに笑った。

 

「大丈夫だって! 俺より騒がしい奴なんか何千人もいるぜ!」

 

「その自信がどこから来るのか知りたいわ」

 

 エマが笑う。

 

 時春も窓の外を眺めながら、自然と頬を緩めていた。高速道路にはクリスマスの外出を楽しむ車が行き交い、遠くにはロサンゼルスの街並みが広がっている。日本で暮らしていた頃は、クリスマスといえば家族で夕食を食べたり、友達と街へ出かけたりする日だった。それが今年は、NBAの試合を観に行こうとしている。アメリカへ渡ってから四か月近くが経った今でも、こういう瞬間には不思議な気分になるのだった。

 

「それにしても、トキって本当にNBAが好きなんだね」

 

 隣に座っていたエマが尋ねた。

 

「もちろん!キングDなんて、小さい頃からずっと動画で見てたんだよ! ダンクもすごいし、パスも上手いし、何でもできるんだ!」

 

 時春は興奮した様子で話し始めた。エマは楽しそうに聞いてくれたが、途中から選手の記録や過去の試合についての説明が増えてくると、少し困ったように笑った。

 

「ちょっと待って。トキ、説明が速い!」

 

「あっ、ごめん!」

 

「いいよ。楽しそうだから」

 

 そう言われると、時春は少し照れくさくなった。

 

 その横でゾーイが腕を組み、にやりと笑った。

 

「エマって、トキのバスケの話は本当にちゃんと聞くよね」

 

「えっ? 何それ!」

 

「別に? そう思っただけ」

 

 エマが抗議する一方、時春は会話の意味がよくわからず首を傾げた。すると前方からジェイクが突然振り返り、余計なことを言おうとしたので、ノアが大声で笑いながら運転に集中させた。

 

 騒々しい車内は、その後も静かになることがなかった。

 

 やがて高速道路を降りると、周囲には大きな商業施設やホテルが増え始めた。歩道には観光客や買い物客が行き交い、モナークスのロゴが入ったユニフォームを着た人々も目につくようになった。

 

 そして、大きな交差点を曲がった先。

 

 時春は思わず窓へ顔を近づけた。

 

「……うわあ」

 

 目の前に、巨大なアリーナが現れた。

 

     ◇

 

 ロサンゼルス・モナークスの本拠地、モナークス・アリーナ。

 

 銀色の外壁を持つ巨大な建物の周囲には、すでに大勢の観客が集まっていた。入口の広場には巨大なクリスマスツリーが設置され、紫と金色のイルミネーションが華やかに輝いている。アリーナの壁面に取り付けられた大型スクリーンでは、今日の対戦カードとともに、モナークスの選手たちの映像が繰り返し流されていた。

 

 その中央に映し出されていたのは、背番号二十三番の大きな背中だった。

 

『DARIUS JAMES — KING D』

 

「……うわっ」

 

 時春は車の中から、その映像に見入った。

 

 キングDが豪快なダンクを決め、観客席が揺れる。続いて、相手ディフェンダーを引きつけながら、コーナーへ鋭いパスを送る映像が流れた。

 

 何度も見てきたはずのプレーだった。

 

 それなのに、今日はまるで違って見えた。

 

 あと少しで、あの選手が実際に目の前のコートへ現れるのだ。

 

「ほら、トキ! 早く降りろよ!」

 

 ノアに声をかけられ、時春は慌てて車を降りた。

 

 駐車場からアリーナへ向かう途中も、周囲の光景に圧倒されっぱなしだった。ユニフォームを着た家族連れ、選手の名前が書かれた応援ボードを抱える子供たち、クリスマスの帽子をかぶったファンたち。アリーナの外ではモナークスのマスコットが観客と写真を撮り、音楽に合わせて踊っていた。

 

 時春は何度も足を止め、そのたびにジェイクやノアから急かされた。

 

「トキ! そんなところで立ち止まってたら、試合始まっちゃうよ!」

 

「だって、すごいんだもん!」

 

「中に入ったらもっとすごいって!」

 

 ジェイクの言葉は、決して大げさではなかった。

 

 チケットを確認して入場ゲートを抜けると、広いコンコースには食べ物の香りが漂い、壁一面にモナークスの歴史を紹介する写真が飾られていた。過去の優勝シーン、往年の名選手たち、そしてキングDがチャンピオンシップのトロフィーを掲げている巨大な写真。

 

 時春はその一枚の前で、思わず立ち止まった。

 

 ダリウス・ジェームズ。

 

 四度のNBAチャンピオン、四度のシーズンMVP。二十年以上にわたってリーグの頂点に君臨し、歴代最多得点記録を塗り替えた男。数えきれないほどのオールスター選出を誇り、その名前はバスケットボールという競技の枠を越えて、世界中に知られていた。

 

 史上最高の選手は誰か。

 

 そんな議論が交わされるたび、必ず名前が挙がる存在だった。

 

 長くプレーしているだけではない。時代が変わり、対戦相手が入れ替わっても、彼は第一線で結果を残し続けてきた。圧倒的な身体能力と優れたバスケットボールIQを兼ね備え、得点だけでなく、リバウンドやアシストでも試合を支配する。若い頃の爆発的なプレーは伝説になり、ベテランとなった今では、コート全体を見通すような判断力でチームを導いている。

 

 そして何より、彼は数えきれないほど多くの少年たちに、バスケットボール選手になる夢を与えてきた。

 

 時春も、その一人だった。

 

「……キングD」

 

 大きな写真を見上げながら、時春は小さく呟いた。

 

 日本にいた頃、夜遅くまでNBAのハイライトを見ていたことを思い出す。画面の中のダリウスは、いつも信じられないようなプレーを見せていた。大きな選手たちの間を抜けて豪快なダンクを決め、長いパス一本で試合の流れを変えてしまう。その姿に憧れ、何度も同じ映像を再生していた。

 

 その選手が、今は同じ建物の中にいる。

 

「トキ?」

 

 エマの声に振り返ると、彼女が少し離れたところで待っていた。

 

「大丈夫? みんな先に行っちゃったよ」

 

「あっ、ごめん!」

 

 時春は慌てて歩き出した。

 

 エマは写真へ一度目を向け、それから時春に微笑んだ。

 

「そんなに好きなんだね、キングDのこと」

 

「うん。俺にとって、本当にすごい選手なんだ」

 

「そっか。じゃあ、今日はいっぱい楽しもうね」

 

「うん!」

 

 二人は並んで、観客席へ続く通路を進んでいった。

 

     ◇

 

 アリーナの内部に足を踏み入れた瞬間、時春は言葉を失った。

 

 目の前には、想像をはるかに超える巨大な空間が広がっていた。何層にも重なった観客席がコートを取り囲み、その上部には巨大なスクリーンが吊り下げられている。照明に照らされた木製のフロアは眩しいほど輝き、中央にはモナークスの王冠をかたどったエンブレムが描かれていた。

 

 すでにウォーミングアップが始まっており、選手たちがコートのあちこちでシュートを打っている。その一つひとつの動きが、学生の試合とはまるで違う速度で行われていた。

 

 選手たちが大きい。

 

 それは、テレビで見ていた頃からわかっていた。

 

 だが、実際に目にすると、その体格は想像以上だった。二メートルを超えるような男たちが軽々と走り、鋭い方向転換を繰り返す。遠くから眺めているだけでも、身体能力の高さが伝わってきた。

 

「……マジですげえ」

 

 時春は呆然と呟いた。

 

 ノアが隣で得意そうに笑った。

 

「だろ? これがNBAだぜ!」

 

「やばい! 本当にやばい!」

 

「ハハッ! 語彙力なくなってんぞ!」

 

 五人はチケットに書かれた座席へ向かった。コートからは少し距離があったものの、全体を見渡すには十分な場所だった。ノアは早速ホットドッグを買いに行こうと言い出し、ジェイクもそれに賛成したが、時春は座席に腰を下ろすなり、コートから目を離せなくなっていた。

 

 しばらくして、場内の照明が落とされた。

 

 音楽が切り替わり、巨大スクリーンにモナークスの歴代の名場面が映し出される。観客席を埋め尽くした人々が立ち上がり、紫と金色のライトが暗くなったアリーナを照らした。

 

 そして、選手紹介が始まった。

 

 名前を呼ばれるたびに大歓声が上がり、選手たちが次々とコートへ駆け出していく。

 

 最後の一人を残したところで、音楽が止まった。

 

 ほんの数秒の静寂。

 

 次の瞬間、場内アナウンサーの声がアリーナ全体へ響き渡った。

 

『And now……DARIUS JAMES!!』

 

「WOOOOOOOO!!」

 

 凄まじい歓声だった。

 

 耳の奥が震え、足元の床まで揺れているように感じられた。

 

 通路の奥から、一人の大きな男が姿を現した。

 

 背番号二十三番。

 

 二メートルを超える長身に、厚い胸板と力強い肩。年齢を重ねた顔には深い皺が刻まれていたが、その歩き方には少しの迷いもなかった。

 

 ダリウス・ジェームズ。

 

 キングD。

 

 彼はゆっくりとコートへ歩き出し、仲間たちと拳を合わせた。そして観客席へ片手を上げると、再び巨大な歓声が沸き起こった。

 

 時春は立ち上がったまま、その姿を見つめていた。

 

 小さなスマートフォンの画面でも、テレビでもない。

 

 同じ場所にいる。

 

 ずっと憧れてきた選手が、目の前にいる。

 

「……すげえ」

 

 その言葉しか出てこなかった。

 

 隣でエマが笑っていたが、時春は気づかなかった。ジェイクが何か叫び、ノアが両手を振り上げている。しかし、時春の意識はコート中央に立つ背番号二十三番へ向けられたままだった。

 

     ◇

 

 この日の対戦相手は、東地区の強豪、ボストン・アトラスだった。

 

 堅いディフェンスと組織的なオフェンスを武器とするチームで、モナークスにとっても簡単な相手ではない。両チームともにスター選手を揃えており、クリスマスゲームにふさわしい注目のカードだった。

 

 試合開始のブザーが鳴ると、アリーナの空気が一変した。

 

 最初の攻撃はアトラスだった。ガードがボールを運び、スクリーンを使いながらリングへ向かう。モナークスのディフェンダーが素早く対応し、ゴール下でシュートを外させた。

 

 リバウンドを取ったのはキングDだった。

 

 その瞬間、彼の周囲の選手たちが一斉に走り出した。

 

 時春は思わず身を乗り出した。

 

 ダリウスはボールを抱えたまま一歩前へ踏み出し、コートの反対側へ視線を向けた。すると、次の瞬間には長いパスが放たれていた。

 

 ボールはディフェンダーの頭上を越え、左サイドを走っていた味方選手の手元へ正確に届く。

 

 そのまま豪快なダンク。

 

「OH MY GOD!!」

 

 ノアが叫んだ。

 

 観客席が一斉に沸き上がる。

 

「今のパス見たか、トキ!?」

 

「見た! 見た!!」

 

 時春は目を輝かせて答えた。

 

 ただ遠くへ投げたのではなかった。ダリウスは、味方が走り出した瞬間にはすでにその進路を読んでいたのだ。ディフェンダーがボールを追いかけても間に合わない位置へ、最初から計算してパスを出していた。

 

 時春には、その判断が何よりも衝撃的だった。

 

 自分もポイントガードとして、仲間の動きを見ながらパスを出している。しかし、ダリウスはコート全体を一瞬で把握し、誰がどの位置へ走るのかを予測しているように見えた。

 

 しかも、彼は本職のポイントガードではない。

 

 大きな体を持ちながら、誰よりも優れた司令塔のように攻撃を組み立てているのだ。

 

 試合開始から数分後、今度はダリウス自身が得点を狙った。

 

 左ウイングでボールを受けると、ディフェンダーを正面に置いたまま、ゆっくりとドリブルを始める。相手が腰を落とし、腕を広げた。

 

 ダリウスは一度だけ体を揺らした。

 

 次の瞬間、長い一歩で右へ踏み込む。

 

 相手のディフェンダーが遅れる。

 

 ヘルプに入ったセンターが腕を伸ばしたが、ダリウスはその横をすり抜けるように跳び上がった。

 

 ドガァンッ!!

 

 リングが大きく揺れた。

 

「LET’S GOOOO!!」

 

 アリーナが爆発した。

 

 時春は思わず頭を抱えた。

 

「……嘘だろ」

 

 長いキャリアを重ね、若い頃ほどの爆発力はないと言われている。

 

 それでも、目の前で見せつけられたプレーには、年齢などという言葉を忘れさせる迫力があった。

 

 ただ跳ぶだけではない。相手の重心を読み、体を入れる角度を選び、もっとも効率よくゴールへ向かう。大きな体が動き始めたときには、ディフェンダーはすでに不利な位置へ追いやられていた。

 

 その一連の動きが、あまりにも自然だった。

 

「やっぱりすごいね……」

 

 エマが呟いた。

 

「うん。ほんとにすごい」

 

 時春は頷いたが、視線はコートから離せなかった。

 

 ダリウスが次に何をするのか、その一瞬さえ見逃したくなかった。

 

     ◇

 

 試合は序盤から激しい点の取り合いになった。

 

 アトラスは堅い守備から素早い攻撃を仕掛け、モナークスもそれに応えるように得点を重ねていく。キングDは第一クォーターだけで二桁得点を記録しながら、味方へのアシストも次々と積み重ねていた。

 

 時春はそのプレーを見ながら、自分が普段ブレイカーズで教わっていることを何度も思い出した。

 

 イーサンは、相手の守備がどう動くかを見てから判断しろと言う。マイルズは、パスを出したあとの動きも大切だと教えてくれる。ヘイズコーチは、味方の位置だけではなく、その手前にいるディフェンダーまで確認するよう繰り返し指導してきた。

 

 ダリウスのプレーには、そのすべてが含まれていた。

 

 相手がダブルチームを仕掛ければ、空いた味方へパスを出す。ディフェンダーが距離を取れば、迷わずジャンプシュートを打つ。ゴール下が混雑していれば、無理に攻め込まず、仲間のスクリーンを利用して別の攻撃を組み立てる。

 

 派手なダンクばかりが注目される選手だと思っていたが、実際に見ていると、それ以上に判断の速さと正確さが際立っていた。

 

「……なんかさ」

 

 時春が小さく呟くと、エマが顔を向けた。

 

「ん?」

 

「キングDって、すごい頭いいんだね」

 

「えっ?」

 

「いや、もちろん知ってたんだけど。何ていうか……全部見えてるみたいなんだよ。誰がどこにいるかとか、次にどう動くかとか」

 

 時春は言葉を探しながら続けた。

 

「俺だったら、あそこまで考える前にボール取られちゃうと思う」

 

 エマはコートへ目を向けた。

 

「……そういうところも見てるんだね、トキは」

 

「えっ?」

 

「私はダンクとか見るとすごいって思うけど、トキは何でそのプレーができたのかまで考えてるんだなって」

 

 そう言われて、時春は少し照れくさくなった。

 

「いや、だって勉強になるし!」

 

「ふふっ。ほんと、バスケが好きなんだね」

 

 エマは楽しそうに笑った。

 

 そのとき、前の席にいたノアが振り返った。

 

「Hey、そこの二人! 何だよ、ずいぶん楽しそうじゃねえか!」

 

「ノア! 試合見てよ!」

 

「見てるって! 俺は後ろにも目がついてんだよ!」

 

「そんなわけないでしょ!」

 

 ゾーイが呆れたように言うと、ノアは豪快に笑った。

 

 ちょうどその瞬間、モナークスの選手がスリーポイントを決め、全員の視線が再びコートへ戻った。

 

 前半終了時点では、モナークスがわずかにリードしていた。

 

 ハーフタイムになると、アリーナ中央でクリスマスをテーマにしたショーが始まった。ダンサーたちが音楽に合わせて踊り、巨大スクリーンには観客席の家族連れが次々と映し出される。ジェイクは自分たちも映るのではないかと期待して何度も手を振り、ノアはそれに便乗して大騒ぎしていた。

 

 時春はそんな二人を笑いながら眺めていた。

 

 日本の高校でバスケットボールをしていた頃、試合といえば勝敗のことばかりを考えていた。もちろん、今も自分がコートに立つときは同じだ。しかし、こうして観客として試合を楽しむと、バスケットボールが多くの人々にとって娯楽であり、家族や友人と過ごす大切な時間でもあるのだと実感する。

 

 アリーナには、年齢も国籍も違う何万人もの人々が集まっている。

 

 その全員が、同じ一つのコートを見つめていた。

 

 時春はその光景を眺めながら、いつか自分も、このような場所でプレーしてみたいと思った。

 

     ◇

 

 後半が始まると、試合はさらに激しさを増した。

 

 アトラスのガード陣が立て続けにスリーポイントを決め、モナークスは一時リードを奪われた。相手の守備も次第に強くなり、ダリウスがボールを持つたびに複数のディフェンダーが寄ってくるようになった。

 

 しかし、キングDは決して慌てなかった。

 

 第三クォーターの終盤、モナークスが六点を追いかける場面だった。ダリウスはトップ付近でボールを受けると、味方へ手で合図を送った。

 

 スクリーンがセットされる。

 

 ダリウスはそれを利用してゆっくりと右へ動き、相手のセンターを引きつけた。

 

 時春は思わず身を乗り出した。

 

 ……パスだ。

 

 そう思った瞬間、ダリウスの腕が動いた。

 

 ボールは右へ向かうと見せかけ、鋭く左コーナーへ飛んだ。

 

 ディフェンダーの視線が一斉にそちらへ向く。

 

 そして、待っていた味方選手がスリーポイントを放った。

 

 シュッ。

 

「THREE!!」

 

 会場が沸き上がる。

 

 続く守備ではダリウス自身がリバウンドを奪い、すぐにボールを前へ運んだ。ディフェンダーが進路を塞ごうとしたが、彼は強引に突破せず、走り込んできた味方へ短いパスを送る。

 

 レイアップが決まり、点差は一点。

 

 その次の攻撃では、今度は自分でスリーポイントを沈めた。

 

「OH MY GOD!!」

 

 ジェイクが頭を抱えた。

 

「何なんだよ、あの人!!」

 

「KING D!!」

 

 ノアが大声で叫ぶ。

 

 時春も立ち上がり、夢中で拍手した。

 

 試合の流れが変わっていた。

 

 ダリウスが得点するだけではなく、彼のプレーによって周囲の選手たちまで勢いづいている。モナークスのベンチは立ち上がり、アリーナ全体の歓声がさらに大きくなった。

 

 まさに、チームを勝たせる選手だった。

 

 第四クォーターに入っても、その存在感は変わらなかった。

 

 残り三分を切ったところで、モナークスはわずか二点差をリードしていた。アトラスも最後まで食い下がり、どちらが勝ってもおかしくない展開が続く。

 

 そんな中、ダリウスは右サイドでボールを受けた。

 

 相手のエースが正面に立つ。

 

 アリーナ全体が、次のプレーを待っているように静かになった。

 

 ダリウスは低くドリブルをつき、相手の足元を見つめた。数秒間、ほとんど動かないまま間合いを測る。

 

 そして、突然加速した。

 

 右へ一歩。

 

 すぐに左へ切り返す。

 

 相手が反応した瞬間、ダリウスはその肩の横を抜け、リングへ向かって跳び上がった。

 

 ゴール下にはセンターが待ち構えていた。

 

 大きな腕が伸びる。

 

 しかしダリウスは空中で体をひねり、ディフェンダーの接触を受けながらボールを放った。

 

 バンッ。

 

 バックボードに当たったボールが、ゆっくりとリングへ落ちる。

 

 そして、ホイッスル。

 

 バスケットカウントだった。

 

「AND ONE!!」

 

 ノアが叫んだ。

 

 アリーナが揺れた。

 

 ダリウスは着地すると、静かに拳を握った。仲間たちが駆け寄り、背中を叩く。彼は大きく頷くと、落ち着いた表情でフリースローラインへ向かった。

 

 時春は、その姿から目を離すことができなかった。

 

 観客席の熱狂とは対照的に、ダリウスの動きには不思議なほどの余裕があった。何万人もの視線を集めながら、まるで普段の練習と同じようにボールを受け取り、呼吸を整える。

 

 そして、放たれたフリースローは綺麗にネットを揺らした。

 

 試合の残り時間が減っていく。

 

 アトラスは最後まで粘ったが、モナークスはダリウスを中心にリードを守り切った。

 

 試合終了。

 

 最終スコアは、百十八対百十一。

 

 モナークスの勝利だった。

 

     ◇

 

 試合終了のブザーが鳴ると、アリーナには再び大歓声が響き渡った。

 

 時春は立ち上がり、夢中で拍手していた。隣ではノアとジェイクが肩を組んで叫び、ゾーイも笑いながら手を叩いている。エマはそんな四人の様子を楽しそうに見つめていた。

 

 巨大スクリーンには、今日の試合で活躍したダリウス・ジェームズの姿が映し出された。

 

 三十八得点、十一リバウンド、十二アシスト。

 

 トリプルダブル。

 

 四十歳を超えてなお、リーグのトップレベルで戦い続ける男が、クリスマスの大舞台で再び圧倒的な結果を残したのだ。

 

「……やばいな」

 

 時春は思わず呟いた。

 

 テレビで見ているときもすごいと思っていた。

 

 だが、実際に見たキングDは、それ以上だった。

 

 単に身体能力が高いだけではない。シュートも、パスも、リバウンドも、試合を読む力も、あらゆる面で完成されていた。そして、何よりも勝負どころで必ず結果を残す強さがあった。

 

 あれほど大きな舞台で、あれほど多くの人々に期待されながら、当然のようにその期待へ応える。

 

 それが、世界最高峰の選手なのだ。

 

「どうだ、トキ!」

 

 ノアが時春の肩を叩いた。

 

「キングD、すげえだろ!?」

 

「うん! 本当にすごかった!」

 

「ハッ! 俺もいつかあんなダンク決めてえな!」

 

「ノアならできるんじゃない?」

 

「おっ! わかってんじゃねえか!」

 

 ノアは得意そうに笑った。

 

 その隣でジェイクが呆れたように口を挟む。

 

「いや、キングDと張り合おうとするなよ!」

 

「うるせえ! 夢を見るのは自由だろ!」

 

 二人は再び言い合いを始めた。

 

 時春はそんなやり取りを聞きながら、もう一度コートへ目を向けた。選手たちはすでにロッカールームへ戻り始め、アリーナのスタッフが片づけを進めている。

 

 数時間前まで、ここでキングDがプレーしていた。

 

 自分が目指しているNBAという場所は、こんなにも遠く、こんなにも眩しい世界なのだ。

 

 その事実を実感すると、胸の奥に憧れとともに、わずかな緊張が生まれた。

 

 けれど、それは決して不快なものではなかった。

 

 むしろ、もっと上手くなりたいという気持ちが、これまで以上に強くなっていた。

 

     ◇

 

 試合が終わり、五人はアリーナの外へ出た。

 

 ロサンゼルスの夜は、クリスマスのイルミネーションに彩られていた。アリーナ周辺にはまだ大勢の観客が残っており、今日の試合について興奮した様子で話し合っている。子供たちはキングDのユニフォームを着たまま走り回り、家族連れが記念写真を撮っていた。

 

 時春はその光景を眺めながら、何度も今日のプレーを思い返していた。

 

 最初のロングパス。豪快なダンク。第四クォーターのバスケットカウント。どの場面も鮮明に記憶に残っていた。

 

 そんなとき、ノアが突然スマートフォンを取り出した。

 

「そういやトキ、お前、DJって知ってるか?」

 

「……DJ?」

 

 時春は首を傾げた。

 

「音楽の?」

 

「違えよ! ダリウス・ジェームズ・ジュニアだ!」

 

 ノアは笑った。

 

「キングDの息子だよ!」

 

「あっ! 息子いるんだっけ!」

 

「いるんだっけ、じゃねえよ。あいつ、お前と同い年だぜ」

 

「……えっ?」

 

 時春は思わず聞き返した。

 

「同い年?」

 

「ああ。十五歳。しかも俺たちと同じCIFサザンセクションでバスケやってる」

 

「……マジ?」

 

「マジだって!」

 

 ノアは画面を操作し、ある動画を見せてきた。

 

 そこには、高校の体育館でプレーしている一人の少年が映っていた。

 

 黒い髪を短く整え、引き締まった体つきをした少年だった。身長は時春より明らかに高く、百九十センチ近くはありそうだった。

 

 画面の中の少年は、ディフェンダーを正面に置いたまま低くドリブルをついていた。

 

 次の瞬間、鋭いクロスオーバー。

 

 相手が反応したところで一気にドライブし、ゴール下へ走り込む。

 

 そして、ディフェンダーの頭上から豪快なダンクを叩き込んだ。

 

「……うわっ」

 

 時春は思わず声を漏らした。

 

 ノアがにやりと笑う。

 

「すげえだろ?」

 

「うん……。めっちゃ上手い」

 

「こいつがDJ。キングDの息子で、今アメリカの高校バスケ界でもめちゃくちゃ注目されてる一年生だ」

 

 ノアは画面をスクロールし、別の動画を表示した。

 

 そこには同じ少年が、今度はスリーポイントを決める場面が映っていた。続いて、速攻から味方へノールックパスを送る映像。さらに、相手のシュートをブロックし、自らボールを運んでダンクを決める場面。

 

 時春は画面に見入った。

 

 同い年。

 

 自分と同じ十五歳。

 

 それなのに、こんなプレーをしている。

 

「……すごいな」

 

 思わず呟くと、ノアは少しだけ真剣な表情になった。

 

「しかもな、トキ。こいつ、俺たちにとっては他人事じゃねえんだよ」

 

「えっ?」

 

「DJがいるのは、ウェストゲート・プレップ。チーム名はウルブズだ」

 

 ウェストゲート・プレップ・ウルブズ。

 

 ロサンゼルスにあるバスケットボールの強豪校で、毎年のように州大会進出を争う名門チームだった。全国的に注目される選手も多く、すでに今シーズンも地区の優勝候補として名前が挙がっているという。

 

「ウェストゲートって、そんなに強いの?」

 

「強いなんてもんじゃねえよ。去年も地区の上位まで勝ち上がってるし、今年はDJが入ったことでさらに騒がれてる。高校の試合なのに、プロのスカウトやら取材陣やらが押し寄せてるらしいぜ」

 

 時春はもう一度、スマートフォンの画面へ目を向けた。

 

 そこには、観客席が満員になった体育館でプレーするDJの姿が映っていた。

 

 ノアは続けた。

 

「リーグは違うから、レギュラーシーズンのリーグ戦で当たることはねえ。でも、CIFサザンセクションのプレーオフとなれば話は別だ」

 

「……プレーオフ?」

 

「ああ。俺たちが今年目指してる地区大会だよ。ウェストゲートは同じディビジョンの優勝候補だからな。地区を勝ち抜いて州大会を目指すなら、あいつらは絶対に避けて通れねえ相手になる」

 

 時春は黙って聞いていた。

 

「去年は一回戦で終わっちまったから、そこまで進めなかった。でも今年は違うだろ? 俺たちだって本気で勝ち上がるつもりなんだからな」

 

 ノアは楽しそうに笑った。

 

「つまり、運がよけりゃお前もDJと同じコートに立てるかもしれねえってことさ!」

 

 その言葉を聞いた瞬間、時春の胸が小さく跳ねた。

 

 DJと。

 

 ダリウス・ジェームズ・ジュニアと。

 

 同じコートで戦う。

 

 さっきまでキングDのプレーに圧倒されていた自分が、その息子と試合をするかもしれない。

 

 しかも、相手は同い年だ。

 

「……そうなんだ」

 

 時春はゆっくりと頷いた。

 

 ノアはその反応を見て、少し意外そうに笑った。

 

「何だよ。もっと驚くと思ったぜ」

 

「いや……びっくりしてるよ」

 

 時春は画面の中の少年を見つめた。

 

 キングDの息子。

 

 その言葉だけでも十分に大きな存在だった。

 

 けれど、今見せられたプレーは、父親の名前だけで説明できるものではなかった。鋭いドリブルも、迷いのないシュートも、仲間へのパスも、すべてが高い水準でまとまっている。

 

 もちろん、動画は成功した場面を集めたものだ。実際の試合を通して見れば、弱点だってあるのかもしれない。

 

 それでも、この少年が特別な才能を持っていることは、短い映像だけでも伝わってきた。

 

「……へえ」

 

 時春は小さく呟いた。

 

 ノアはスマートフォンをポケットへ戻し、いつもの調子で笑った。

 

「ま、今からビビっててもしょうがねえ! まずはリーグ戦を勝ち抜くことだな!」

 

「うん!」

 

「よし! じゃあ帰るぞ! 腹減った!」

 

 ノアが歩き出すと、ジェイクがすぐにその隣へ並んだ。二人はまた今日のキングDのプレーについて話し始め、ゾーイは呆れたように肩をすくめた。

 

 時春もみんなのあとを追ったが、頭の片隅には先ほどの少年の姿が残っていた。

 

 同い年なのに。

 

 同じカリフォルニアで高校バスケットボールをしているのに。

 

 自分がまだ知らないほど遠い場所で、すでに大勢の人々から注目されている選手がいる。

 

 その事実が、妙に気になっていた。

 

     ◇

 

 帰りの車内は、行き以上に騒がしかった。

 

 運転席のノアと助手席のジェイクは、試合が終わってからずっとキングDの話をしていた。第四クォーターのバスケットカウントがいかに凄まじかったか、審判の判定が正しかったかどうか、そして今日のモナークスがどこまで勝ち進めるのか。二人の話題は次々と変わり、互いの意見が食い違うたびに声が大きくなっていく。

 

「だから言ってんだろ! あの場面は完全にファウルだったって!」

 

「いや、あれはちょっと怪しかっただろ!」

 

「Bro! お前、本当に試合見てたのか!?」

 

「見てたよ! ノアよりちゃんと見てた!」

 

「何だと!?」

 

 前方では相変わらずの言い合いが続いていた。

 

 ゾーイはそんな二人に呆れ果てたのか、後部座席の右側でイヤホンをつけ、窓の外を眺めている。エマも最初は会話に加わっていたが、やがて静かになり、隣の時春へ目を向けた。

 

 時春はスマートフォンを見つめていた。

 

 画面には、先ほどノアに教えてもらったDJの動画が流れている。

 

 ダリウス・ジェームズ・ジュニア。

 

 通称、DJ。

 

 検索すると、驚くほど多くの動画が見つかった。

 

 高校の試合で豪快なダンクを決める映像。鋭いクロスオーバーで相手を抜く場面。ディフェンダーを二人引きつけながら、コーナーへ正確なパスを送るプレー。さらに、トレーニング中の様子や、有名なバスケットボール関係者が彼について語る動画まで並んでいた。

 

 再生回数も桁違いだった。

 

 数十万回。

 

 数百万回。

 

 中には、世界中から何千件ものコメントが寄せられているものまであった。

 

 時春は無言で画面をスクロールした。

 

 動画の中のDJは、どの場面でも自信に満ちた表情をしていた。大きなディフェンダーを前にしても慌てず、狭い隙間へ鋭く切り込んでいく。シュートフォームは滑らかで、パスを出す瞬間の判断も速い。父親であるキングDの影響を感じさせるプレーもあったが、単なる物真似には見えなかった。

 

 むしろ、若い選手らしい勢いと、驚くほど落ち着いた判断が同居していた。

 

 特に時春の目を引いたのは、ある試合の終盤を切り取った映像だった。

 

 残り十秒。

 

 DJのチームは二点を追いかけている。

 

 相手は当然、彼が最後のシュートを打つと思っていたのだろう。ディフェンダーが二人、DJの進路を塞ごうとする。

 

 しかし、彼はそこで無理にシュートを打たなかった。

 

 一度ドリブルで相手を引きつけ、鋭いパスを逆サイドへ送る。

 

 完全に空いた味方がスリーポイントを決め、試合は逆転。

 

 ブザーと同時に、体育館が歓声に包まれた。

 

 時春はその場面を何度も繰り返し再生した。

 

 ……うまい。

 

 単純に、そう思った。

 

 最後のシュートを自分で決めれば、大きな注目を集めることができたはずだ。キングDの息子という立場なら、なおさら周囲から派手な活躍を期待されているだろう。

 

 それでもDJは、もっとも勝つ可能性が高い選択をした。

 

 味方を信じて、パスを出したのだ。

 

 時春は画面を見つめながら、胸の奥に奇妙な感覚が広がっていくのを感じた。

 

 この選手は、強い。

 

 単に父親が有名なだけではない。今の自分より、ずっと高い場所でバスケットボールをしている。

 

 そこには、間違いなく実力の差があった。

 

 自分はようやくCBAのVarsityに入り、控えのポイントガードとして試合に出られるようになったばかりだ。出場時間もまだ短く、イーサンから学ぶべきことは山ほどある。

 

 一方のDJは、すでに名門校の中心選手として活躍し、全米から注目を集めている。

 

 同じ十五歳。

 

 同じ高校一年生。

 

 それなのに、これほどまでに違う。

 

 時春は知らず知らずのうちに、スマートフォンを握る手へ力を込めていた。

 

 窓の外ではロサンゼルスの夜景が流れ、遠くのビル群が色とりどりの光を放っている。前方ではノアとジェイクが相変わらず騒ぎ続けていたが、その声は次第に遠く感じられるようになっていた。

 

 DJのプレーを見れば見るほど、自分との差がはっきりと見えてくる。

 

 ドリブルの速さ。

 

 シュートの精度。

 

 体の強さ。

 

 そして、勝負どころでの落ち着き。

 

 自分にも得意なプレーはある。小柄な体を生かした低いドリブルや、仲間へ素早くパスを送る技術には自信があった。しかし、画面の中の少年は、それらをはるかに高い水準でこなしながら、自分にはない身体能力まで備えているように見えた。

 

 もし、今の自分がこの選手と対戦したら。

 

 そんなことを考えた瞬間、背中を冷たいものが走った。

 

 簡単には抜けないだろう。

 

 ディフェンスでも、体格差に苦しむかもしれない。

 

 自分のパスを読まれ、ボールを奪われる場面だってあるだろう。

 

 実際に同じコートへ立ったとき、自分はどこまで戦えるのだろうか。

 

 時春は画面を見つめたまま、静かに息を吐いた。

 

 そのときだった。

 

「……トキ?」

 

 隣からエマの声が聞こえた。

 

 時春は顔を上げた。

 

「ん?」

 

「大丈夫?」

 

 エマは少し心配そうな表情をしていた。

 

「えっ? 何が?」

 

「さっきからずっとスマホ見てるから。何かあったのかなって」

 

「いや、別に……」

 

 そう言いかけたとき、時春は自分の手元に気づいた。

 

 スマートフォンを握っている右手が、わずかに震えていた。

 

 寒いわけではない。

 

 車内の暖房は十分に効いているし、体調が悪いわけでもなかった。

 

 それなのに、指先が小さく震えている。

 

 時春はしばらく、その手を見つめた。

 

 何だろう。

 

 怖いのだろうか。

 

 確かに、DJのプレーを見ていると、自分との差を思い知らされる。今の実力では簡単に勝てないことも、十分にわかっていた。あれほど多くの人々に注目される選手と対戦することを想像すると、胸の奥が落ち着かなくなる。

 

 けれど、それだけではなかった。

 

 恐怖と同じくらい、あるいはそれ以上に、強い興奮があった。

 

 同い年の選手が、自分の知らない世界でこれほど高い水準のバスケットボールをしている。その事実に驚くと同時に、いつか自分も同じ場所へ立ってみたいと思っていた。

 

 そして、何より。

 

 この選手と、戦ってみたい。

 

 画面の中でしか知らない少年が、自分の前に立つところを想像する。

 

 同じコートで向かい合い、ボールを奪い合う。相手のドリブルを止め、自分のパスで仲間に得点させる。何度も攻撃を仕掛け、何度も守りながら、最後に勝敗を決めるブザーを聞く。

 

 そんな光景を思い浮かべると、胸の奥が熱くなった。

 

 時春はもう一度、スマートフォンの画面へ目を向けた。

 

 そこではDJが、ディフェンダーを抜き去って豪快なダンクを決めていた。

 

 観客席が沸き上がり、仲間たちが駆け寄ってくる。

 

 堂々としたその姿は、今日アリーナで見た父親の背中をどこか思わせた。

 

 キングDは、時春にとって憧れの存在だった。

 

 その偉大さを知り、少しでも近づきたいと願ってきた。

 

 けれど、DJは違う。

 

 同じ時代に生まれ、同じ年齢で、同じカリフォルニアの高校バスケットボールを戦っている。

 

 まだ会ったこともない相手だった。それでも、いつか同じコートで向かい合う可能性があるというだけで、これほどまでに心を揺さぶられている。

 

「……トキ?」

 

 エマがもう一度、静かに声をかけた。

 

 時春はゆっくりと顔を上げた。

 

 彼女は何も急かさず、ただ隣で時春を見つめていた。その表情には、いつもの柔らかな優しさがあった。

 

 時春はスマートフォンを膝の上へ置いた。

 

 そして、小さく笑った。

 

「……大丈夫、エマ」

 

「ほんと?」

 

「うん」

 

 時春は一度だけ窓の外へ目を向けた。夜の高速道路には車のライトが長く連なり、その向こうには街の明かりが広がっている。遠く離れた日本を出て、アメリカへ渡ってから四か月。何もかもが新しかったこの国で、ようやく自分の居場所を見つけ始めたところだった。

 

 あの日、空港に降り立ったときの自分は、アメリカの高校バスケットボールがどんな世界なのかも知らなかった。身長百七十センチの自分が本当に通用するのか、不安になることもあった。それでも、仲間たちと出会い、練習を重ね、公式戦のコートに立つことができた。

 

 だからこそ、今は思う。

 

 ここまで来たのなら、もっと先へ進みたい。

 

 まだ見たことのない相手と戦い、自分がどこまでできるのか確かめたい。

 

 たとえ、その相手が世界最高の選手の息子だったとしても。

 

 時春はエマを見た。

 

「俺、勝つよ」

 

 エマは少しだけ目を丸くした。

 

「……勝つ?」

 

「うん。さっきノアが教えてくれたDJって選手。俺と同い年なんだって。しかも、地区大会で当たるかもしれないんだ」

 

 時春は言葉を選びながら続けた。

 

「今の俺よりずっと上手いと思う。正直、すごすぎてびっくりした。でも、だからって最初から負けるって決めたくないんだ」

 

 エマは黙って聞いていた。

 

「俺、もっと練習する。イーサンからも、マイルズからも、まだまだ学べることがあるし。今より速くなりたいし、もっといいパスも出せるようになりたい。そしたら、いつかあいつと同じコートに立てるかもしれない」

 

 時春は少し照れくさくなって笑った。

 

「……って、まだリーグ戦も始まってないのに、気が早いかな」

 

 エマは首を横に振った。

 

「そんなことないよ」

 

 その声は、思っていたよりもはっきりとしていた。

 

「トキがそう思うなら、目指していいと思う」

 

「……うん」

 

「私、トキがバスケしてるところ、何回も見てきたけどさ。すごい選手がいるって聞いても、結局いつも楽しそうにしてるよね」

 

 エマはくすくすと笑った。

 

「最初はちょっと緊張するくせに、コートに立つとすぐ夢中になっちゃうんだもん」

 

「えっ、そうかな?」

 

「そうだよ。だから、きっと大丈夫。トキらしく頑張ればいいんじゃないかな」

 

 時春は少しだけ考えたあと、ゆっくりと頷いた。

 

「……ありがとう、エマ」

 

「どういたしまして」

 

 エマは笑顔で答えた。

 

 そのとき、前方からノアの大声が聞こえた。

 

「Hey! お前ら、後ろで何をこそこそ喋ってんだ!?」

 

「ノア! 前見て運転して!」

 

 ゾーイがすかさず声を上げた。

 

「見てるって!」

 

「だったらこっちに話しかけないで!」

 

 ジェイクが腹を抱えて笑い、ノアは何やら不満そうに言い返した。車内は再び賑やかになり、ラジオから流れるクリスマスソングが二人の声にかき消されていった。

 

 時春も笑いながら、スマートフォンをもう一度手に取った。

 

 画面には、ウェストゲート・プレップのユニフォームを着たDJの姿が映っている。

 

 ダリウス・ジェームズ・ジュニア。

 

 世界的なスーパースターの息子として生まれ、幼い頃から注目を浴びながら育ってきた少年。時春には、彼がどんな思いでバスケットボールをしているのかはわからなかった。父親と比べられることも、特別な期待を背負うことも、きっと簡単ではないはずだ。

 

 それでも、コートに立てば、そんな事情は関係ない。

 

 目の前にいるのは、一人のバスケットボール選手なのだ。

 

 自分と同じ十五歳の少年であり、いつか倒さなければならないかもしれない相手だった。

 

 時春は画面を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。

 

 先ほどまで震えていた手は、もう落ち着いていた。

 

 胸の奥には、まだ少しだけ怖さが残っている。しかし、それ以上に大きくなっていたのは、これから先に待っている試合への期待だった。

 

 今日、キングDのプレーを見たことで、NBAという夢の大きさを改めて思い知った。その一方で、DJという同世代の選手を知ったことで、その遠い夢へ続く道が、ほんの少しだけ具体的な形を持ち始めたように思えた。

 

 いつかNBAのコートに立つこと。

 

 それは、まだ遥か先にある目標だ。

 

 けれど、ウェストゲート・プレップと戦う機会は、今シーズン中に訪れるかもしれない。

 

 そう考えると、二月の地区プレーオフは、突然それまでとは違う意味を帯びて感じられた。

 

 窓の外では、ロサンゼルスの街の明かりが次第に遠ざかり、車はクレセントベイへ続く高速道路を走っていた。ノアとジェイクの騒がしい声を聞きながら、時春は座席へ深く体を預けた。

 

 クリスマスの夜に見た、伝説の選手。

 

 そして、その息子。

 

 憧れの存在だった父親とは違い、息子の方はこれから同じ舞台で競い合うことになるかもしれない。そう思うだけで、胸の奥には熱いものが込み上げてきた。

 

 時春は暗くなったスマートフォンの画面を見つめながら、心の中で静かに呟いた。

 

 ――こいつに勝ちたい。DJに。

 

 それは、まだ誰にも知られていない、小さな決意だった。

 

 しかし、その夜を境に、時春にとってチャンピオンシップへの道は、ただ遠くにある目標ではなくなった。

 

 その先には、自分と同じ年齢の少年が待っている。

 

 いつか同じコートに立ち、真正面から勝負するために。

 

 高山時春の胸には、新たな闘志が確かに芽生えていた。

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