CRESCENT BAY ACADEMY   作:西野圭吾

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第6話 小さな人気者

 一月も半ばを迎え、クレセントベイ・アカデミーには、冬休み前とは少し違う活気が戻ってきていた。カリフォルニアの冬は相変わらず穏やかで、日中の陽射しには春を思わせる温かささえあったが、海から吹き込む風にはまだ冷たさが残っている。青く澄んだ空の下、生徒たちは再び教室へ集まり、冬休みの思い出や新年の予定を話し合っていた。

 

 そんなキャンパスの中で、今もっとも勢いのある集団の一つが、男子バスケットボール部のブレイカーズだった。

 

 十一月の開幕戦から順調に勝利を積み重ねてきたチームは、年明けから始まったリーグ戦でも好調を維持していた。地区の強豪校を相手に接戦をものにする試合もあれば、序盤から主導権を握って大差で勝利する試合もあった。マイルズ・カーターを中心とした堅いインサイドの守備と、ノア・レイノルズの爆発的な得点力。そこにマイク・トンプソンの正確なスリーポイントと、イーサン・コールの落ち着いたゲームメイクが加わり、チームはリーグ上位に名を連ねていた。

 

 もちろん、すべてが順風満帆だったわけではない。強いディフェンスを仕掛けてくる相手には攻撃が停滞することもあったし、接戦の終盤で判断を誤り、ヘイズコーチから厳しく叱責される場面もあった。それでも、去年のチームとは違うという手応えが選手たちの間に生まれ始めていた。練習では以前にも増して声が飛び交い、誰かが良いプレーをすれば、ベンチから自然と歓声が上がった。

 

 そして、そんなブレイカーズの中で、少しずつ注目を集め始めている選手がいた。

 

 高山時春。

 

 身長百七十センチの日本人ガードである。

 

 開幕当初は控えのポイントガードとして短い時間しか出場できなかった時春だったが、十二月から一月にかけて、そのプレータイムは徐々に増えていた。イーサンが休む時間帯に攻撃を任されるだけでなく、相手のガードに対してスピードで優位に立てる場面では、積極的にコートへ送り出されるようになっていた。

 

 時春の持ち味は、何といっても素早いドリブルとパスだった。

 

 大柄な選手たちが並ぶコートでは、彼の小さな体はひときわ目立つ。相手のディフェンダーが低く腰を落として進路を塞いでも、時春は細かなステップと低いドリブルで懐へ入り込み、次の瞬間には味方へボールを送り出していた。自分で得点する機会はまだ多くなかったが、マイルズのゴール下への走り込みや、ノアの速攻、マイクのスリーポイントへつながるパスは、試合を重ねるごとに精度を増していた。

 

 特に話題になったのは、一月上旬に行われたリーグ戦でのプレーだった。

 

 相手のガードからプレッシャーをかけられた時春は、背中側へ素早くボールを回してディフェンダーをかわし、そのままゴール方向へ切り込んだ。ヘルプに入ったセンターが両腕を広げた瞬間、時春はシュートを打つようにボールを持ち上げたが、次の瞬間にはそれを背後へ落としていた。

 

 走り込んできたのはノアだった。

 

 彼はそのパスを受け取ると、豪快なダンクを叩き込んだ。

 

 体育館は大歓声に包まれ、ノアは着地するなり時春を指差して叫んだ。

 

「THAT’S MY LITTLE MAN!!」

 

 その映像が、学校のスポーツ部門が運営するInstagramのアカウントに投稿されたのである。

 

 もちろん、豪快なダンクを決めたノアの方が目立っていた。しかし、何度も再生しているうちに、視聴者の関心はその直前のパスへ集まっていった。大きなディフェンダーたちの間をすり抜け、誰も予想していなかった位置へボールを送る小柄な日本人。短い動画のコメント欄には、彼のプレーを褒める言葉が次々と寄せられた。

 

 それを境に、時春の学校生活にも小さな変化が生まれ始めていた。

 

     ◇

 

「Hey、トキ!」

 

 一月中旬のある朝、時春が校舎の廊下を歩いていると、向こうから来た男子生徒に呼び止められた。

 

「ん? おはよう!」

 

「昨日の試合、見たぜ! あのパス、めちゃくちゃイケてたな!」

 

「えっ! 見てくれたの!?」

 

「ああ! 次のホームゲームも行くからな!」

 

「マジ!? ありがとう!」

 

 時春は嬉しそうに笑い、相手と拳を合わせた。

 

 その生徒と別れてしばらく歩くと、今度は女子生徒二人が声をかけてきた。

 

「トキ! この前の動画見たよ!」

 

「ノアへのパス、すごかった!」

 

「ええっ! ありがと!」

 

 時春が笑顔で答えると、二人も楽しそうに手を振って去っていった。

 

 最近は、こうしたことが珍しくなくなっていた。

 

 入学したばかりの頃、時春にとって学校の廊下は、迷路のような場所だった。どの教室へ行けばいいのかわからず、授業の場所を間違え、知らない生徒に声をかけることさえためらっていた。英語の聞き取りに苦労することも多く、相手の話す速度についていけず、何度も聞き返していた。

 

 しかし今では、廊下を歩けば顔見知りの生徒に挨拶される。教室へ入ると、バスケットボール部の試合について話しかけられることも増えた。すれ違いざまに「Nice pass!」と声をかけられたり、遠くから「Toki!」と呼ばれたりすることさえあった。

 

 最初のうちは、そのたびに驚いていた。

 

 自分はまだ控えの選手だし、チームにはマイルズやノア、イーサンのようにずっと上手な先輩たちがいる。得点を大量に取っているわけでもない。それなのに、自分のプレーを見てくれる人がこれほどいるということが、時春には不思議で仕方なかった。

 

 もっとも、嬉しくないわけがなかった。

 

 バスケットボールをするために日本から海を渡ってきた。その自分のプレーが、アメリカの生徒たちに少しずつ認められ始めているのである。コートで感じていた手応えが、学校生活の中にも広がっていくようだった。

 

 しかし、人気が出るということには、思いがけない面倒もあった。

 

「……トキ」

 

 隣を歩いていたラリー・ナードが、呆れたように声をかけた。

 

「ん?」

 

「君、さっきから何人に話しかけられてるの?」

 

「えっ? わかんない!」

 

「僕は数えてたけどね。教室を出てから、もう六人目だよ」

 

「そんなに!?」

 

「そんなに、じゃないよ。こっちは次の授業の教室へ行きたいんだけど」

 

 時春は慌てて時計を見た。

 

「あっ! やばい! 遅れる!」

 

「だから言ったのに……」

 

 二人は慌てて廊下を走り始めた。もっとも、時春はその途中でも別の生徒から声をかけられ、律儀に立ち止まって返事をしようとしたため、ラリーに腕を引っ張られることになった。

 

「もう! あとで返事すればいいでしょ!」

 

「だって話しかけてくれたんだよ!?」

 

「君は全員と立ち話するつもりなの!?」

 

 そんなやり取りをしながら、二人はどうにか授業開始前に教室へ滑り込んだ。

 

 ラリーは席に着くなり、深いため息をついた。

 

「……人気者って大変なんだね」

 

「いや、ラリーが勝手に焦ってただけじゃん!」

 

「誰のせいだと思ってるんだよ」

 

 時春が笑うと、ラリーは呆れたようにメガネを押し上げた。

 

 もっとも、その顔にはどこか楽しそうな色も浮かんでいた。

 

     ◇

 

 昼休みになると、時春はいつものようにカフェテリアへ向かった。

 

 広い食堂には生徒たちの話し声が満ちており、天井の高い空間に食器の触れ合う音が響いていた。大きな窓からは明るい日差しが差し込み、窓際の席では何人かの生徒が教科書を広げながら食事をしている。中央のテーブルにはスポーツ部の生徒たちが集まり、別の一角では音楽の話をしているグループが盛り上がっていた。

 

 時春はトレーにサンドイッチとフライドポテトを載せ、食堂の奥へ向かった。

 

 そこには、見慣れた顔ぶれが集まっていた。

 

 ラリーに加え、ゲームクラブのオーウェン、エイブリー、ニーナである。

 

 四人はすでに昼食を始めており、テーブルの中央に置かれたタブレットを覗き込みながら、何やら真剣な話し合いをしていた。

 

「Hey! みんな!」

 

 時春が声をかける。

 

「おっ、トキ!」

 

 オーウェンが顔を上げた。

 

「ちょうどよかった! お前にも聞きたいことがあったんだよ!」

 

「えっ? 何?」

 

 時春が席に着くと、オーウェンは待ってましたと言わんばかりに画面を差し出した。

 

「今度のクラブ内大会のことなんだけどさ。チーム分け、どうする?」

 

「チーム分け?」

 

「そう! 今週末の対戦イベント!」

 

 時春は画面を覗き込んだ。

 

 そこには、ゲームクラブのメンバーが参加する対戦イベントのルールが書かれていた。三人一組でチームを組み、いくつかのミニゲームで総合得点を競うらしい。

 

「へえ! 面白そう!」

 

「だろ!?」

 

 オーウェンは得意そうに笑った。

 

 するとエイブリーが、少し呆れたように口を挟んだ。

 

「でも、オーウェンと組むと毎回作戦を無視して突っ込むから困るんだよね」

 

「何だよ! 俺は積極的に攻めてるだけだろ!」

 

「それを無謀って言うんじゃない?」

 

 ニーナが笑いながら言う。

 

 ラリーも頷いた。

 

「そうそう。オーウェンは最後の一人になってからが弱いんだよ。焦って変なところへ飛び込むから」

 

「お前ら、そこまで言う!?」

 

 オーウェンが大げさに抗議し、時春は笑いながらサンドイッチを一口食べた。

 

 このテーブルでは、バスケットボールの話がほとんど出ない。

 

 最近、廊下ですれ違う生徒たちの多くは、時春を見るなり試合の話を始める。昨日のアシストがどうだったとか、次の対戦相手は強いのかとか、ノアのダンクがどれほどすごかったかとか。もちろん、それは嬉しいことだったし、バスケットボールの話なら何時間でも続けられる自信があった。

 

 けれど、ゲームクラブの仲間たちは違った。

 

 彼らにとって時春は、ブレイカーズの日本人ガードである前に、一緒にゲームをする友達だった。どれほど良いプレーをしても、次の日になれば何事もなかったようにゲームの攻略法を尋ねてくるし、時春が試合で何点取ったのかさえ、ろくに把握していないこともあった。

 

 それが、時春には何とも心地よかった。

 

「ところでトキ、昨日の夜はログインしてなかったよね?」

 

 ニーナが尋ねた。

 

「あっ、ごめん! 練習終わってから宿題してたら寝ちゃって!」

 

「やっぱり。ラリーが、トキは絶対寝落ちしたって言ってたよ」

 

「ええっ!? 何でわかったの!?」

 

 ラリーは涼しい顔で答えた。

 

「君が夜九時を過ぎてもメッセージを返さないときは、たいてい寝てるからね」

 

「うわっ、めっちゃ詳しい!」

 

「同じ部屋に住んでるんだから当然でしょ」

 

 オーウェンが笑い、エイブリーも口元を緩めた。

 

 そのとき、近くのテーブルを通りかかった男子生徒が時春に声をかけた。

 

「Hey、トキ! この前の試合の動画見たぜ!」

 

「あっ! ありがとう!」

 

「あのノールックパス、最高だったな!」

 

「ははっ! ありがと!」

 

 男子生徒は親指を立てて去っていった。

 

 時春が再びテーブルへ向き直ると、オーウェンが不思議そうな顔をしていた。

 

「……お前、最近めちゃくちゃ話しかけられるな」

 

「そうかな?」

 

「そうかな、じゃないでしょ」

 

 エイブリーが笑う。

 

「さっきも食堂に入ってくるまでに三人くらいに呼び止められてたよ」

 

「えっ、見てたの!?」

 

「そりゃ目立つからね」

 

 ニーナも頷いた。

 

「しかも、みんなバスケの話してるよね。最近すごいんだ?」

 

「うーん、チームは調子いいよ! 俺も前より長く出られるようになったし!」

 

「へえ、よかったじゃん!」

 

 ニーナは素直に笑ったが、すぐにタブレットへ視線を戻した。

 

「それで、週末の大会なんだけどさ。トキは誰と組みたい?」

 

「切り替え早っ!」

 

 時春が思わず突っ込むと、全員が笑い出した。

 

 ゲームクラブの昼休みは、いつもこんな調子だった。

 

     ◇

 

 その様子を、少し離れたテーブルから眺めている女子生徒がいた。

 

 エマ・パーカーである。

 

 彼女はゾーイ・ウォーカーと向かい合って昼食を取っていたが、先ほどから何度も視線を食堂の奥へ向けていた。

 

 そこでは時春が、ゲームクラブの仲間たちと楽しそうに笑っている。ときどき別の生徒が近づいて声をかけ、そのたびに彼は明るい笑顔で応えていた。

 

 その光景を見ていると、エマは何とも言えない気分になった。

 

 もちろん、時春が学校で人気者になっていることは嬉しかった。

 

 彼がどれほどバスケットボールを頑張っているのか、エマはよく知っている。練習後に疲れ切った顔でダイナーへ来ることもあったし、思うようにプレーできなかった試合では落ち込んでいることもあった。それでも次の日には再び体育館へ向かい、少しでも上手くなろうと練習を続けてきた。

 

 だから、その努力が周囲に認められ始めていることは、素直に喜ばしかった。

 

 ただ、少しだけ不思議でもあった。

 

 初めて会った頃の時春は、今とはまるで違っていた。

 

 教室の場所がわからず、広いキャンパスの中を迷っていた。英語の会話にも慣れておらず、先生に何か質問されるたびに困ったような顔をしていた。友達もまだ少なく、食堂ではどこへ座ればいいのかわからずに立ち尽くしていることさえあった。

 

 あの頃の時春には、エマの助けが必要だった。

 

 教室まで案内したり、先生の説明をわかりやすく言い直してあげたり、学校の行事について教えたりした。彼が何かを理解できずに困っていれば、自然と隣へ行って声をかけていた。

 

 それが今ではどうだろう。

 

 廊下を歩けば誰かが名前を呼び、食堂へ入れば笑顔で迎えられる。授業にもすっかり慣れ、バスケットボールでは多くの生徒から応援されるようになった。

 

 気づかないうちに、時春の世界はずいぶん広くなっていた。

 

 エマはフォークを動かしながら、そのことをぼんやりと考えていた。

 

「……ねえ、エマ」

 

 向かいから声が聞こえた。

 

「ん?」

 

 顔を上げると、ゾーイが妙に楽しそうな表情でこちらを見つめていた。

 

「さっきから、ずっとトキの方見てるよね」

 

「えっ!?」

 

 エマは慌てて視線を戻した。

 

「べ、別に! そんなことないよ!」

 

「へえ?」

 

 ゾーイは笑った。

 

「じゃあ、今あのテーブルで何してるか知らない?」

 

「えっ? ゲームの話してるんじゃないの?」

 

「……見てるじゃん」

 

「ち、違うって!」

 

 エマが抗議すると、ゾーイはますます楽しそうに頬杖をついた。

 

「まあ、気持ちはわからなくもないけどね。トキ、最近すっかり人気者だもんね」

 

「うん……。そうだね」

 

「最初はエマがいないと教室にも行けなかったのにね」

 

 その言葉に、エマは少しだけ目を見開いた。

 

 まるで、自分が考えていたことをそのまま言われたようだった。

 

 ゾーイはその反応を見逃さなかった。

 

「……あっ、図星?」

 

「えっ?」

 

「私だけのトキだったのに、とか思ってるんでしょ」

 

「思ってないから!」

 

 エマは即座に否定した。

 

 あまりに勢いよく答えたので、近くの席にいた生徒が一瞬こちらを振り返ったほどだった。

 

 ゾーイは吹き出した。

 

「そんな必死に否定しなくてもいいじゃん!」

 

「だって違うもん!」

 

「気にしてるくせに」

 

「してない!」

 

 エマは頬を赤くしながら言い返した。

 

 ゾーイは楽しそうに笑い、ストローでアイスティーを一口飲んだ。

 

「まあ、いいけどさ。トキって本当に人気出てきたよね。バスケ部だし、明るいし、誰にでも話しかけるし」

 

「……うん」

 

「しかも、あの見た目でしょ?」

 

「見た目?」

 

「小柄で、可愛い感じもあるけど、よく見ると結構かっこいいじゃん。最近、他の女子も話してるの聞くよ」

 

 エマはフォークを持つ手を止めた。

 

「……そうなの?」

 

「うん。試合の動画を見て、トキのこと知った子もいるみたい」

 

「へえ……」

 

 エマはできるだけ普通の声で答えたつもりだったが、ゾーイには少しも通用しなかったらしい。

 

「……エマ」

 

「何?」

 

「顔に出てるよ」

 

「出てない!」

 

 ゾーイは声を上げて笑った。

 

 エマは困ったように口を結び、再び時春のいるテーブルへ目を向けた。

 

 彼は相変わらず楽しそうに笑っていた。今はオーウェンが何かを身振り手振りで説明しており、時春はそれを聞きながら大きく頷いている。

 

 何も変わっていないようで、ずいぶん変わってしまった。

 

 もちろん、それは良いことなのだ。

 

 エマ自身も、時春がもっとたくさんの友達を作ってくれたらいいと思っていた。

 

 それなのに、なぜだろう。

 

 ほんの少しだけ、胸の奥が落ち着かなかった。

 

     ◇

 

 その頃、時春たちのテーブルでは、ゲームクラブの大会についての議論が白熱していた。

 

「だからさ、三人チームならバランスが大事なんだって!」

 

 エイブリーが言った。

 

「オーウェンみたいに全員突撃型だったら、すぐ負けちゃうでしょ」

 

「だから俺を例に出すなって!」

 

 オーウェンが抗議する。

 

「でも、事実だし」

 

 ラリーが平然と言うと、ニーナが笑った。

 

「じゃあトキはどう? バスケでも司令塔みたいなことしてるんでしょ? ゲームでも作戦担当に向いてそうじゃない?」

 

「えっ!? 俺?」

 

 時春は少し考えたあと、首を傾げた。

 

「いや、ゲームだと結構すぐ突っ込んじゃうかも」

 

「ほら! 俺と同じじゃん!」

 

 オーウェンが嬉しそうに声を上げる。

 

「喜ぶところじゃないでしょ」

 

 エイブリーが呆れたように言った。

 

 そのときだった。

 

 オーウェンが何気なく食堂の入口へ目を向け、突然動きを止めた。

 

「……おい」

 

 それまでの騒がしさとは違う、妙に低い声だった。

 

「ん?」

 

 時春が顔を上げる。

 

 オーウェンは少し身を乗り出し、時春へ小声で囁いた。

 

「おい、トキ。マドンナが近づいてくるぞ」

 

「……え?」

 

 時春は首を傾げた。

 

「マドンナ?」

 

「いいから、あっち見ろって!」

 

 オーウェンが目線で示した先には、一人の女子生徒が歩いていた。

 

 明るいブロンドの髪を肩のあたりで緩く巻き、白いトップスにデニムジャケットを羽織っている。足元には流行のスニーカー。片手にはスマートフォンを持ち、もう片方の手で髪を軽くかき上げながら、友達と何かを話していた。

 

 その女子生徒が歩くたびに、周囲の生徒たちが自然と声をかけている。

 

 本人もそれに慣れているようで、誰に対しても気さくに笑い、軽く手を振っていた。

 

「……誰?」

 

 時春が尋ねると、オーウェンが信じられないという顔をした。

 

「お前、マディソン・リード知らねえの!?」

 

「マディソン?」

 

「マディだよ、マディ! 学校でもめちゃくちゃ有名な子!」

 

 オーウェンは興奮した様子で説明し始めた。

 

 マディソン・リード。通称マディ。

 

 クレセントベイ・アカデミーでも指折りの人気者で、明るく社交的な性格と、モデルのような華やかな雰囲気で知られている女子生徒だった。ファッションや音楽に詳しく、Instagramにも頻繁に写真を投稿しているらしい。校内のイベントにも積極的に参加し、男女問わず多くの知り合いがいるという。

 

 オーウェンが「マドンナ」と呼んだのも、彼女のあまりの華やかさをからかう、男子生徒たちの間の言い方なのだろう。

 

「へえ……」

 

 時春は素直に感心した。

 

「すごいね!」

 

「いや、すごいね、じゃなくて!」

 

 オーウェンは慌てたように声を潜めた。

 

「こっち来てるって!」

 

 時春が顔を上げると、ちょうどその女子生徒と目が合った。

 

 彼女はにっこりと笑い、迷うことなく時春たちのテーブルへ向かってきた。

 

「Hey!」

 

 明るい声が響いた。

 

「あなた、トキだよね?」

 

「……えっ?」

 

 時春は思わず背筋を伸ばした。

 

 目の前に立っていたのは、先ほどオーウェンが紹介したばかりのマディソンだった。

 

 近くで見ると、彼女は思っていた以上に華やかな雰囲気を持っていた。明るい髪が肩の上で柔らかく揺れ、笑うと目元が楽しそうに細くなる。人と話すことに少しもためらいがないらしく、初対面の時春に対しても、昔からの友達のように自然な距離で話しかけてきた。

 

「う、うん! そうだけど!」

 

「よかった! ちょっと話したかったんだ!」

 

「俺に?」

 

「そう!」

 

 マディソンは嬉しそうに頷き、時春の隣に空いている椅子を指差した。

 

「ねえ、隣いい?」

 

「えっ? もちろん!」

 

 時春が答えると、彼女は迷わず椅子を引いて腰を下ろした。

 

 しかも、その距離が近かった。

 

 椅子を少し寄せ、時春の方へ体を向ける。肩が触れそうなほど近い位置に座ったマディソンは、そんなことをまるで気にしていない様子だった。

 

 時春は一瞬、どう反応すればいいのかわからなくなった。

 

 目の前では、オーウェンが完全に固まっていた。エイブリーは口元を押さえて笑いをこらえ、ニーナも興味津々といった様子で二人を見つめている。ラリーに至っては、何か非常に面倒なことが始まったとでも言いたげな顔をしていた。

 

 そんな空気などお構いなしに、マディソンは明るく自己紹介した。

 

「私、マディソン・リード! マディって呼んで!」

 

「俺は時春! トキって呼んで!」

 

 時春も笑顔で答えた。

 

 すると、マディソンは楽しそうに笑った。

 

「知ってる!」

 

「……えっ?」

 

「だって、人気者だもん!」

 

 時春は目を丸くした。

 

「俺が!?」

 

「そうだよ! 最近、みんなあなたの話してるし!」

 

 マディソンは当然のことのように答えた。

 

「小さい日本人のバスケ選手がすごいって! 私も動画見たよ!」

 

「ええっ! ほんと!?」

 

「うん! あの、背の高い男の子にパスしたやつ!」

 

「あっ! ノアのダンクの動画?」

 

「そう! それそれ!」

 

 マディソンは嬉しそうに手を叩いた。

 

「私、バスケのルールはあんまり詳しくないんだけど、あのパスめっちゃかっこよかった!」

 

「ほんと!? ありがとう!」

 

「あと、前の試合のシュートも見たよ! 相手の横をスッて抜けて、ポンって入れたやつ!」

 

 彼女は身振りを交えながら説明した。

 

 どうやらバスケットボールの専門用語はほとんど知らないらしいが、時春が実際にプレーしている動画をいくつも見てくれたようだった。

 

「ドリブルもすごいよね! 何かめっちゃ速いし!」

 

「いや、まだまだだよ!」

 

「そんなことないって! かっこいいもん!」

 

 時春は照れくさそうに笑った。

 

 しかし、マディソンはそこで終わらなかった。

 

「それにさ、何より顔がかっこいい!」

 

「……えっ?」

 

 時春は固まった。

 

 テーブルの向かい側では、オーウェンが飲みかけていたジュースを吹き出しそうになっていた。エイブリーが慌てて顔を背け、ニーナは声を殺して笑っている。

 

 マディソンだけが、何事もなかったように笑顔を浮かべていた。

 

「だって、普通にイケメンじゃん!」

 

「い、イケメン!?」

 

「うん! 私、そういう顔すごく好き!」

 

 時春は何度も瞬きをした。

 

 日本でもアメリカでも、友達から「可愛い」とからかわれることはあった。背が低いことをいじられるのも珍しくない。しかし、女の子から真正面に「顔がかっこいい」と言われたのは、少なくとも時春の記憶にはなかった。

 

 まして、初対面の相手からこんなに堂々と言われるとは思っていなかった。

 

「えっ……あ、ありがとう……!」

 

 どうにか答えると、マディソンは満足そうに笑った。

 

「ふふっ! 照れてる!」

 

「そ、そりゃ照れるよ!」

 

 時春は慌ててジュースを飲んだ。

 

 その様子を眺めていたラリーが、小さく呟いた。

 

「……何なんだ、この状況」

 

 オーウェンは何も答えなかった。

 

 彼はただ、目の前で起きている出来事を信じられないような顔で見つめていた。

 

     ◇

 

「ねえ、トキって日本出身なんだよね?」

 

 マディソンが尋ねた。

 

「うん! そうだよ!」

 

「いいなあ! 私、日本にも行ってみたいんだよね!」

 

「えっ! そうなの!?」

 

「うん! アジアの文化とか、音楽とか好きなんだ!」

 

 彼女はそう言って、スマートフォンを取り出した。

 

「特に韓国のアイドルが大好きなの! BTSとか、SEVENTEENとか!」

 

「あっ! 名前は聞いたことある!」

 

「ほんと!?」

 

 マディソンは嬉しそうに身を乗り出した。

 

「SEVENTEEN、めっちゃかっこいいんだよ! ダンスもすごいし、歌もいいし! もう最高!」

 

 時春は少し圧倒されながら頷いた。

 

「へえ! そうなんだ!」

 

「特にライブ映像がすごくてさ。みんな動きが揃ってて、見てると本当にびっくりするの!」

 

 マディソンは夢中になって話し始めた。

 

 それまでバスケットボールのことをよく知らないと言っていた彼女が、韓国のアイドルの話になると驚くほど詳しくなる。その様子は、NBAについて話し始めると止まらなくなる時春に、どこか似ていた。

 

「だからさ、トキ見たときもちょっと思ったんだよね」

 

「……何を?」

 

「韓国アイドルっぽいなって!」

 

「……ええっ!?」

 

 時春は驚いたように顔を上げた。

 

「俺が!?」

 

「うん! アジア系の綺麗な顔立ちだし、髪型とか雰囲気も何かそれっぽい! 笑うと可愛いし!」

 

「い、いやいや! 全然そんなことないって!」

 

 時春は慌てて首を振った。

 

 韓国のアイドルがどれほど人気なのかは知っていたが、自分がそんな人たちに似ていると言われるとは思っていなかった。バスケットボールをしているときのプレーを褒められるのは嬉しい。しかし、顔や雰囲気についてこうして褒められると、どうにも落ち着かなくなる。

 

 そんな時春を見て、マディソンはますます楽しそうに笑った。

 

「ふふっ! ほんと照れ屋なんだね!」

 

「だって、そんなこと言われたの初めてだし!」

 

「えー! 絶対嘘!」

 

「ほんとだって!」

 

 時春は思わず両手を振った。

 

 それから、どうにか話題を変えようと頭を働かせた。

 

 韓国の音楽。

 

 BTSやSEVENTEENについては、名前こそ知っているものの、詳しく話せるほど曲を聴いたことはない。しかし、何か一曲くらいは知っているはずだった。

 

 そう考えているうちに、ふと一つの記憶が浮かんだ。

 

「あっ! そうだ!」

 

 時春が声を上げる。

 

「俺も韓国の曲、知ってるよ!」

 

「えっ、ほんと!?」

 

 マディソンが目を輝かせた。

 

 時春は嬉しくなって続けた。

 

「ダイナミック・デュオの『AEAO』なら知ってる! NBA 2K16っていうバスケゲームで流れてたから!」

 

 マディソンは一瞬、きょとんとした。

 

「……え?」

 

「AEAO! 韓国のヒップホップの曲!」

 

「……ごめん、それは知らないけど!」

 

「……そ、そう」

 

 時春は少しだけ肩を落とした。

 

 マディソンは思わず吹き出した。

 

「ちょっと! 何でバスケゲームから韓国の音楽にたどり着くの!?」

 

「だって、知ってる曲それだったんだもん!」

 

「もう! トキって面白いね!」

 

 マディソンは声を上げて笑った。

 

 向かい側ではニーナも笑いをこらえきれなくなっていた。

 

「……トキ、結局バスケに戻ってるじゃん!」

 

「えっ!? ほんとだ!」

 

 時春が驚いたように答えると、エイブリーも笑い始めた。

 

「音楽の話をしててもバスケゲームが出てくるんだね」

 

「いや、だっていい曲なんだって!」

 

 時春は慌てて弁解した。

 

 その隣でマディソンは、笑いながらスマートフォンを操作していた。

 

「じゃあ、あとで聴いてみる!」

 

「えっ、ほんと!?」

 

「うん! トキが好きな曲なら気になるし!」

 

 さらりと言われたその一言に、時春はまた少し照れくさくなった。

 

 マディソンはそんな反応を面白がるように、さらに椅子を寄せた。

 

 すでに肩が触れそうな距離だった。

 

 時春は無意識のうちに背筋を伸ばしたが、彼女はまったく気にしていないらしい。スマートフォンの画面を二人で見られるように傾けながら、楽しそうに次の話題を始めていた。

 

「ねえ、そういえば!」

 

「ん?」

 

「トキ、Instagramやってる?」

 

「あっ! やってるよ!」

 

「じゃあ交換しよ!」

 

「うん! いいよ!」

 

 時春は何のためらいもなくスマートフォンを取り出した。

 

 その瞬間、オーウェンが静かに顔を伏せた。

 

 ラリーはメガネの奥で目を細め、エイブリーは口元を押さえた。ニーナは楽しそうに二人の様子を眺めている。

 

 どうやらこのテーブルで、状況の重大さを理解していないのは時春だけのようだった。

 

     ◇

 

 マディソンのInstagramは、ひと目見ただけで時春のものとはずいぶん違っていた。

 

 プロフィール写真は明るい陽射しの下で撮影されたもので、髪を軽くかき上げながら笑っている彼女が写っている。投稿には友達とビーチへ出かけたときの写真や、街のお洒落なカフェで撮影した写真、学校のイベントで着飾った姿などが並んでいた。

 

 どの写真も色使いが鮮やかで、まるで雑誌の一ページのようだった。

 

 さらに驚いたのは、フォロワーの数だった。

 

「……えっ!?」

 

 時春は目を丸くした。

 

「マディ、フォロワーめっちゃ多くない!?」

 

「ん? ああ、そうかな?」

 

 マディソンは平然と答えた。

 

「友達とか、友達の友達とか、音楽の話で繋がった人とか! 気づいたら増えてた!」

 

「すっご……!」

 

 時春は感心したように画面を眺めた。

 

 学校で人気者だとは聞いていたが、彼女の華やかな生活はInstagramにもそのまま表れていた。友達と笑い合う写真には多くのコメントが寄せられ、コンサートへ出かけたときの動画には大量の「いいね」がついている。

 

 それに比べると、自分のアカウントはずいぶん地味だった。

 

 プロフィールには名前と学校名、バスケットボールの絵文字が並んでいる。投稿の大半はバスケットボールに関するもので、試合中の写真や練習後の集合写真、体育館で仲間たちと撮った自撮りが中心だった。

 

 その中には、アメリカへ来てから撮った日常の写真も少しだけ混じっている。

 

 エマとジェイク、ゾーイと一緒にダイナーで撮影した写真。感謝祭にカーター家で撮ってもらった写真。クリスマスにモナークス・アリーナの前で撮った五人の集合写真。そして、大晦日の海辺で新年を迎えたときの一枚。

 

 しかし、時春の投稿を見ていると、何より目立つのはバスケ部の先輩たちだった。

 

 ノアが両手を広げて大騒ぎしている写真。

 

 ノアがマイルズの肩へ腕を回し、二人とも笑い転げている写真。

 

 ノアが試合後に時春を持ち上げ、時春が慌てている写真。

 

 別の投稿では、ライアンとジェイスまで加わり、四人がよくわからないポーズを取っていた。

 

「……ふふっ!」

 

 画面をスクロールしていたマディソンが笑い始めた。

 

「何これ! めっちゃ面白い!」

 

「えっ? どれ?」

 

「この人たち! いつもこんな感じなの!?」

 

「ああ、ノアたち? うん! だいたいいつもこんな感じ!」

 

 時春は笑いながら説明した。

 

「特にノアはすっごくうるさいんだよ! 練習中もずっと喋ってるし!」

 

「そうなんだ!」

 

「でも、めちゃくちゃいい先輩なんだ!」

 

 マディソンは楽しそうに笑ったあと、別の写真を開いた。

 

「あっ、これ可愛い!」

 

 そこには、カウントダウンの夜に撮った集合写真が映っていた。時春の隣にはエマが立ち、手には青いイルカのぬいぐるみを持っている。その後ろではジェイクが両手を突き上げ、ゾーイは呆れたように笑い、ラリーは少し困った顔をしていた。

 

「へえ、みんな仲良しなんだね!」

 

「うん! アメリカ来てからできた友達!」

 

「いいなあ! 楽しそう!」

 

 マディソンは写真を眺めながら微笑んだ。

 

 それから、自分のスマートフォンを時春の方へ差し出した。

 

「はい! フォローしたよ!」

 

「あっ、俺も!」

 

 時春も画面を操作し、マディソンのアカウントをフォローした。

 

「よし! できた!」

 

「ありがと!」

 

 マディソンは満足そうに笑った。

 

「今度、DMしてもいい?」

 

「えっ? もちろん!」

 

「やった!」

 

 彼女は嬉しそうに手を叩いた。

 

「じゃあ、今度おすすめの曲送るね! BTSもSEVENTEENも!」

 

「うん! 聴いてみる!」

 

「あと、トキの試合もまた見に行きたいな!」

 

「ほんと!?」

 

「うん! だってかっこいいし!」

 

 時春はまたしても頬が熱くなるのを感じた。

 

「ははっ……ありがとう!」

 

 マディソンはその様子を眺めながら、楽しそうに目を細めた。

 

 そして、スマートフォンの時計を確認すると、少し残念そうな顔をした。

 

「あっ、そろそろ行かなきゃ! 次の授業の前に友達と約束してたんだった!」

 

「そっか!」

 

「今日は話せてよかった!」

 

 マディソンは椅子から立ち上がり、ジャケットの裾を軽く整えた。

 

「私も楽しかった!」

 

 時春が笑顔で答えると、彼女はにっこりと微笑んだ。

 

「じゃあね、トキ!」

 

「うん! またね!」

 

 そして、去り際。

 

 マディソンは時春の方を振り返り、片目をぱちりと閉じてみせた。

 

 ウインクだった。

 

「See you!」

 

 それだけ言うと、彼女は軽やかな足取りで歩き去っていった。

 

 時春はしばらく、その後ろ姿を見送っていた。

 

「……へえ」

 

 思わず呟く。

 

「何か、すごい子だったなあ」

 

 そして何事もなかったようにサンドイッチへ手を伸ばそうとした。

 

 しかし、その手がパンへ届くことはなかった。

 

「……おい」

 

 向かい側から、低い声が聞こえた。

 

 オーウェンだった。

 

「……ん?」

 

 時春が顔を上げると、彼は両手で頭を抱えていた。

 

「BROOOOO!!」

 

「うわっ!? 何!?」

 

 突然の叫び声に、時春は思わず体をのけぞらせた。

 

 オーウェンが勢いよく立ち上がる。

 

「お前! 今! 何が起きたかわかってんのか!?」

 

「えっ!? 何!?」

 

「マディだぞ!? マディソン・リードだぞ!?」

 

「う、うん! さっき聞いたけど!」

 

「何であんな普通に喋ってんだよ!!」

 

「だって話しかけてくれたんだもん!」

 

「そういうことじゃねえええ!」

 

 オーウェンが大げさに叫んだ。

 

 その隣でエイブリーが肩を震わせて笑っている。

 

「……トキ、すごいね」

 

「えっ? 何が!?」

 

「隅に置けないね」

 

 ニーナがにやりと笑った。

 

「いやいや! 何の話!?」

 

 時春が困惑していると、オーウェンがテーブルを回り込んできた。

 

「お前さ! あのマディが自分から隣に座ってきたんだぞ!? しかもめちゃくちゃ距離近かったし!」

 

「えっ? そうだった?」

 

「そうだった? じゃねえよ!」

 

 オーウェンは時春の肩を掴み、軽く揺さぶった。

 

「しかも顔がかっこいいって言われてたじゃねえか! 何だよあれ!」

 

「ちょ、ちょっと! 揺らさないで!」

 

 時春が慌てる。

 

 すると、今度はラリーが立ち上がった。

 

「……トキ」

 

 その声には、いつもとは違う妙な迫力があった。

 

「ん? ラリー?」

 

「君はなんなんだ最近!」

 

「……えっ!?」

 

 ラリーはメガネを押し上げた。

 

「人気者になったと思ったら、今度はマドンナのマディソンまで! 僕と同じ部屋で夜中にゲームしてる君が、どうしてそんなことになってるんだよ!」

 

「な、なんだよラリー!?」

 

「こっちが聞きたいよ!」

 

 ラリーは心底納得がいかないという顔をした。

 

「昨日なんか、ゲームで三回連続ミスして僕に助けてもらってたくせに!」

 

「それ今関係ある!?」

 

「大ありだよ! 君のどこにそんな人気が出る要素があるのか、僕にはさっぱりわからない!」

 

 エイブリーが吹き出し、ニーナも声を上げて笑った。

 

「ラリー、完全に嫉妬してるじゃん!」

 

「してないよ!」

 

「いや、今のはどう聞いても嫉妬でしょ」

 

「違うって! ただ理不尽だと思ってるだけ!」

 

 ラリーが必死に否定すると、オーウェンも大きく頷いた。

 

「わかるぜ、ラリー! 俺も同じ気持ちだ!」

 

「君まで一緒にしないで!」

 

 結局、二人は時春を挟むようにして肩へ腕を回し、あれこれと質問を浴びせ始めた。

 

「いつからマディと知り合いなんだよ!」

 

「今日初めて喋ったって!」

 

「じゃあ何であんなに仲良くなってんだ!?」

 

「わかんないよ!」

 

「インスタ交換したんでしょ!?」

 

「う、うん!」

 

「BROOOOO!!」

 

「だから何なんだよおおお!!」

 

 時春はすっかり揉みくちゃにされていた。

 

 オーウェンが肩を揺らし、ラリーが横から文句を言い、エイブリーとニーナがそれを見て大笑いしている。時春は何がそんなに大変なことなのかわからないまま、ただひたすら弁解を続けるしかなかった。

 

 周囲のテーブルからは、何事かと振り返る生徒もいた。

 

 しかし、ゲームクラブの面々はそんなことを少しも気にしていないようだった。

 

     ◇

 

 そして、その一部始終を見ていた二人の女子生徒がいた。

 

 エマとゾーイである。

 

 マディソンが時春たちのテーブルへ近づいた瞬間から、ゾーイはすべてを見ていた。明るい笑顔で時春の隣に座ったことも、妙に距離が近かったことも、何かを楽しそうに話しながらスマートフォンを交換していたことも、最後にウインクをして去っていったことも。

 

 もちろん、その隣に座っているエマも同じ光景を見ていた。

 

 いや、正確に言えば、エマの方がずっと熱心に見ていた。

 

 マディソンが時春の隣に座ったあたりから、エマのフォークはほとんど動かなくなっていた。最初は何となく気になっているという程度だったが、マディソンが身を寄せて話し始めると、次第に表情が固まっていった。

 

 そして、インスタを交換していたあたりで、とうとう完全に動かなくなってしまった。

 

 ゾーイはその様子を横目で見ながら、内心では笑いをこらえるのに必死だった。

 

 昼休みの始まりには、時春が人気者になっていることを気にしていないと言い張っていたエマである。その目の前に、よりによって学校でも有名なマディソン・リードが現れたのだ。しかも、ただ話しかけるだけではなく、あからさまに時春へ興味を示していた。

 

 マディソンはああいう性格だから、初対面の相手にも気軽に話しかける。しかし、今日の彼女が時春をかなり気に入ったらしいことは、少なくともゾーイにはよくわかった。

 

 そして、エマにもわかったのだろう。

 

 それだけに、何とも気の毒で、何とも面白い状況だった。

 

 ゾーイはしばらくエマの反応を眺めたあと、ゆっくりと口を開いた。

 

「……ねえ、エマ」

 

 返事はなかった。

 

「エマ?」

 

 それでも、エマは動かなかった。

 

 彼女は口をわずかに開けたまま、時春たちのテーブルを見つめていた。目は大きく見開かれ、手にはフォークを持っている。しかし、皿の上のサラダへ伸ばす気配はまったくない。

 

 ゾーイはとうとう笑いそうになった。

 

「……今の見ても気にしてないって?」

 

 エマは答えなかった。

 

 ただ、遠くでオーウェンとラリーに揉みくちゃにされている時春を、呆然と見つめている。

 

 どうやら頭の中で、先ほどの出来事をまだ処理しきれていないらしい。

 

 マディソンが隣に座った。

 

 しかも距離が近かった。

 

 何かを話して、二人で楽しそうに笑っていた。

 

 スマートフォンまで交換していた。

 

 そして最後には、ウインク。

 

 エマはその一連の出来事を思い返すたびに、胸の奥が落ち着かなくなるのを感じていた。

 

 もちろん、時春が誰と友達になろうと自由だ。それはわかっている。マディソンだって悪い子ではないし、ただ時春と話してみたかっただけなのかもしれない。

 

 けれど。

 

 あんなに近づかなくてもいいじゃない。

 

 そんな考えが頭に浮かんだ瞬間、エマはますます混乱した。

 

 自分は一体、何を考えているのだろう。

 

 ゾーイはそんなエマをしばらく眺め、静かに首を振った。

 

「……こりゃ重症だな」

 

 そのときだった。

 

「おいっす!」

 

 背後から、聞き慣れた元気な声が響いた。

 

 ジェイク・ハリスだった。

 

 片手にトレーを持ち、いつものように陽気な笑顔を浮かべている。どうやら午前中の授業が少し長引いたらしく、ほかの生徒たちより遅れて昼食を取りに来たようだった。

 

「Yo! 二人とも! 何してんの?」

 

「お疲れ、ジェイク」

 

 ゾーイが答えた。

 

 ジェイクはエマの隣に空いていた椅子を引き、勢いよく腰を下ろした。

 

「いやー、腹減った! 今日の授業マジ長かったわ!」

 

 そう言ってサンドイッチを手に取ったが、すぐに何かがおかしいことに気づいた。

 

 隣に座っているエマが、まったく反応していない。

 

 いつもなら「お疲れ!」くらいは返してくれるはずなのに、今日は口をわずかに開けたまま、一点を見つめている。

 

 ジェイクは眉をひそめた。

 

「……あれ?」

 

 もう一度、エマの顔を覗き込む。

 

「エマ?」

 

 返事はなかった。

 

「……おーい?」

 

 ジェイクは軽く手を振った。

 

 それでもエマは動かない。

 

 ジェイクはとうとうゾーイへ顔を向けた。

 

「……あれ? エマどした?」

 

 ゾーイはしばらく黙っていた。

 

 それから、何でもないことのように答えた。

 

「トキがマディに口説かれてた」

 

「……えっ?」

 

 ジェイクの手が止まった。

 

 数秒間、彼はその言葉の意味を考えているようだった。

 

「……マディ?」

 

「うん。マディソン・リード」

 

「……あのマディ!?」

 

「そう」

 

 ゾーイは頷き、顎で食堂の奥を示した。

 

 ジェイクはそちらへ顔を向けた。

 

 そこでは、時春がオーウェンとラリーに挟まれ、何やら必死に弁解していた。エイブリーとニーナは腹を抱えて笑い、オーウェンは両手を振り回しながら叫んでいる。

 

「だから! 普通に話しただけだって!」

 

「普通に話しただけでインスタ交換すんのかよ!」

 

「えっ!? するでしょ!?」

 

「BROOOOO!!」

 

「もう! 何なんだよおおお!!」

 

 騒々しい声が、遠くのテーブルから聞こえてきた。

 

 ジェイクはしばらくその光景を眺め、それから隣へ視線を戻した。

 

 口を半開きにしたまま固まっているエマ。

 

 その向こうで、笑いをこらえているゾーイ。

 

 そして、何もわかっていない様子で仲間たちに揉みくちゃにされている時春。

 

 三人の様子を順番に見たジェイクは、ようやく事情を理解したらしかった。

 

「……ああ、納得」

 

 それだけ呟き、何事もなかったようにサンドイッチを一口かじった。

 

 ゾーイはとうとう我慢できず、声を上げて笑い始めた。

 

 エマはまだ、固まったままだった。

 

 一方、食堂の奥では、時春の受難が続いていた。

 

「トキ! マディからDM来たら絶対教えろよ!」

 

「何でオーウェンに教えなきゃいけないの!?」

 

「情報共有だろ!」

 

「意味わかんない!」

 

「……お願いだから、少し静かにしてよ」

 

 ラリーが呆れたように言った。

 

「そもそも、君は人気者になりすぎなんだよ。こっちは普通にゲームの話をしたいだけなのに」

 

「俺だってゲームの話したいよ!」

 

「だったら早く座って!」

 

「ラリーが立たせたんじゃん!」

 

 その言葉に、エイブリーとニーナがまた大笑いした。

 

 食堂の大きな窓からは、一月の明るい陽射しが差し込んでいた。新しい年を迎え、ブレイカーズのシーズンはますます熱を帯びている。時春もまた、コートの内外で少しずつ存在感を増し、以前より多くの人々の目に留まるようになっていた。

 

 けれど、その変化が周囲にもたらすものを、当の本人はまだよく理解していない。

 

 試合で良いパスを出せば褒められる。声をかけられれば嬉しい。友達が増えれば楽しい。時春にとっては、ただそれだけのことだった。

 

 だから、今日も彼は不思議そうな顔で首を傾げている。

 

 なぜオーウェンがあんなに騒いでいるのか。

 

 なぜラリーまで怒っているのか。

 

 そして、少し離れたテーブルでエマが完全に固まっていることなど、今の時春は知る由もなかった。

 

 こうして、小さな日本人ガードの人気は、本人の知らないところでさらに広がっていく。

 

 ただし、その人気がバスケットボールの試合とは別の騒動を引き起こし始めていることに、時春が気づくのは、もう少し先のことになりそうだった。

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