CRESCENT BAY ACADEMY   作:西野圭吾

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第7話 トーナメント

 一月も半ばを迎え、南カリフォルニアの高校バスケットボールは、シーズンでもっとも熱を帯びる時期へ差しかかっていた。

 

 冬休みが終わり、各校のリーグ戦が本格的に始まると、地区の順位表は毎週のように姿を変えていた。昨シーズンの強豪が思わぬ敗戦を喫することもあれば、無名だったチームが連勝を重ね、一躍注目を集めることもある。二月のCIFサザンセクション・プレーオフを見据え、どの学校も一つの勝利に以前にも増して執着するようになっていた。

 

 そんな中、クレセントベイ・アカデミーのブレイカーズは、好調な戦いを続けていた。

 

 マイルズ・カーターを中心としたインサイドの強さは地区でも高く評価され、ノア・レイノルズの爆発的な得点力も対戦相手にとって大きな脅威になっていた。イーサン・コールは落ち着いた試合運びでチーム全体を統率し、マイク・トンプソンは正確なアウトサイドシュートで相手の守備を広げている。控え選手たちも少しずつ経験を積み、先発メンバーが休む時間帯にも大きく崩れることが減っていた。

 

 その変化は、勝敗にもはっきりと表れていた。

 

 リーグ戦では上位を維持し、地区のバスケットボール関係者の間でも、今年のブレイカーズは侮れないという声が聞かれるようになっていた。去年はプレーオフ一回戦で敗れたチームが、今年はどこまで勝ち進むのか。そんな話題が、学校のスポーツニュースにも取り上げられるようになっていた。

 

 そして、その勢いをさらに確かなものにする機会が訪れた。

 

 Crescent Coast MLK Invitational(クレセントコーストMLK招待大会)。

 

 マーティン・ルーサー・キング・ジュニアを記念する祝日の週末に合わせて開催される、南カリフォルニアの高校バスケットボール大会である。クレセントコースト周辺の地域を中心に、そのシーズンで好成績を収めている十六校が招待される大会で、参加校の多くは地区プレーオフ進出を有力視されているチームだった。

 

 主催者から招待を受けたブレイカーズの選手たちは、その知らせを聞いた瞬間から色めき立っていた。普段のリーグ戦では対戦する機会の少ない学校と戦えることに加え、優勝すれば地区の有力校として存在感を示せる。何より、強い相手と真剣勝負ができるというだけで、選手たちの気持ちは十分に高まっていた。

 

 もっとも、注目されているのは彼らだけではなかった。

 

 ロサンゼルスの名門、ウェストゲート・プレップ・ウルブズは、すでに年末のパシフィック・ホリデー・クラシックで優勝を飾っていた。ダリウス・ジェームズ・ジュニア、通称DJを擁するそのチームは、全米から注目される新入生の活躍もあって、今シーズンの地区優勝候補としてさらに評価を高めている。

 

 今回のMLK招待大会にウェストゲートは参加しない。彼らは別の大会日程を選んでおり、ここで顔を合わせることはなかった。

 

 それでも、その存在はブレイカーズの選手たちにとって無視できないものだった。

 

 地区の頂点を目指すなら、いずれはそうした強豪とも戦わなければならない。今度の大会は、そのために自分たちの実力を試す絶好の機会だった。

 

     ◇

 

 一月十四日、木曜日。

 

 招待大会の初戦を控えたブレイカーズのロッカールームには、普段とは違う緊張感が漂っていた。

 

 壁際のベンチには選手たちが並び、各自のユニフォームやシューズを確認していた。ノアはいつものように誰かへ冗談を飛ばしていたが、その声はどこか落ち着かず、ライアンとジェイスも普段より口数が少なかった。マイクは静かにシューズの紐を結び直し、イーサンは今日の対戦相手について書かれた資料を眺めている。

 

 時春もベンチに座り、膝の上に置いたユニフォームを見つめていた。

 

 十一月の開幕戦では、正式なVarsityの試合に出場するだけで精いっぱいだった。それが今では、チームの一員として遠征大会に参加し、地区の強豪校と戦おうとしている。アメリカへ来る前に想像していた生活が、少しずつ現実のものになっているようだった。

 

 そのとき、ロッカールームの扉が開いた。

 

 グラント・ヘイズコーチだった。

 

 選手たちの話し声が自然と小さくなる。

 

 ヘイズは全員の顔を一通り見渡すと、ホワイトボードの前に立った。その手には対戦表が握られていたが、彼はすぐにそれを広げようとはしなかった。

 

「よし。全員、こっちを見ろ」

 

 低く、よく通る声が室内に響いた。

 

「お前たちも知っている通り、今日からCrescent Coast MLK Invitationalが始まる。出場するのは十六校。どこも今シーズン、地区で結果を残してきたチームばかりだ」

 

 ヘイズはそこで一度言葉を切った。

 

「つまり、簡単な相手はいないということだ。これまでのリーグ戦でやってきたように、相手の弱点を突けば何となく勝てる、そんな甘い大会じゃない」

 

 選手たちは黙って聞いていた。

 

「だが、俺たちがここに呼ばれたのにも理由がある」

 

 ヘイズはゆっくりと歩き始めた。

 

「去年のブレイカーズは、地区プレーオフの一回戦で敗れた。誰も俺たちのことを優勝候補だとは思っていなかったし、シーズンが終わればすぐに忘れられるようなチームだった」

 

 マイルズの表情が引き締まった。

 

 ノアも、いつもの笑みを消していた。

 

「だが、今年は違う。お前たちは夏から努力を重ね、シーズンが始まってからも勝利を積み重ねてきた。強豪校を相手に食らいつき、接戦でも逃げずに戦ってきた。その結果が、今の成績につながっている」

 

 ヘイズは選手たちの前で足を止めた。

 

「しかし、それで満足している奴はいないだろうな?」

 

「NO, COACH!」

 

 ロッカールームに力強い声が響いた。

 

 ヘイズは大きく頷いた。

 

「いい返事だ。俺たちの目標は何だ?」

 

「チャンピオンシップです!」

 

 マイルズが先頭に立って答えた。

 

「その通りだ。地区プレーオフへ進み、そこで勝ち上がる。そして州大会へ進む。それが今年の俺たちの目標だったはずだ」

 

 ヘイズは壁に貼られたチームの年間目標へ目を向けた。

 

「この大会で結果を残せば、地区の強豪を相手に戦えるという証明になる。プレーオフへ向けた評価も高まり、シーズン後半を戦う自信にもつながるだろう。だが、何より大事なのは、お前たち自身がその実力を確かめることだ」

 

 彼は改めて選手たちへ向き直った。

 

「お前たちが、去年と同じブレイカーズだと思っている連中はまだいる。少し勝っているだけで、本当の強豪と当たればすぐに負けると考えている奴らもいるだろう」

 

 時春は思わず背筋を伸ばした。

 

「だったら、見せつけてやれ」

 

 ヘイズの声が、さらに力を帯びた。

 

「今年のブレイカーズは違うということを。俺たちはただ人数を揃えて試合に出ているわけじゃない。勝つために練習してきたんだ。勝つために汗を流してきたんだ。その成果を、今日からの試合ですべて出し切れ!」

 

 選手たちの表情が変わり始めた。

 

「俺は、お前たちに聞きたい」

 

 ヘイズは大きな声を張り上げた。

 

「この大会で、戦う準備はできているか!」

 

「YES, COACH!!」

 

「相手がどれだけ強くても、最後まで戦い抜けるか!」

 

「YES, COACH!!」

 

「仲間がミスをしたら、責めるのか!」

 

「NO, COACH!!」

 

「誰か一人の力だけで、勝てると思うか!」

 

「NO, COACH!!」

 

 ヘイズは満足そうに頷いた。

 

「そうだ。俺たちはチームだ。一人が倒れれば、ほかの四人が支える。ベンチにいる奴も、コートに立っている奴も、全員が同じ勝利を目指している。俺が見たいのは、そういうバスケットボールだ」

 

 彼は最後に、低い声で言った。

 

「いいか。優勝候補と呼ばれたいなら、まずは優勝するだけのプレーを見せろ。誰かが俺たちを認めてくれるのを待つ必要はない。自分たちで証明してこい」

 

「YES, COACH!!」

 

 ロッカールームが震えるほどの返事だった。

 

 ヘイズは大きく頷くと、マイルズへ視線を向けた。

 

「マイルズ。あとは任せる」

 

「Yes, Coach!」

 

 マイルズは立ち上がった。

 

 身長二メートル近いその体が前へ出るだけで、選手たちの視線が自然と集まった。

 

 マイルズはしばらく仲間たちの顔を見渡し、それから静かに口を開いた。

 

「……みんな、聞いてくれ」

 

 普段の彼らしい、落ち着いた声だった。

 

「俺たちはここまで、いいシーズンを送ってる。去年より勝ってるし、チームの雰囲気もいい。ノアは相変わらずうるせえし、マイクは相変わらず何考えてるかわかんねえけどな」

 

「おい、俺は関係ねえだろ!」

 

 ノアが笑いながら抗議する。

 

 マイクは無表情のまま肩をすくめた。

 

「俺もそう思う」

 

 ロッカールームに笑いが起こった。

 

 マイルズも口元を緩めたが、すぐに真剣な表情へ戻った。

 

「でもな、俺は本気で思ってる。今年の俺たちは、どこまでだって行ける」

 

 笑い声が静まった。

 

「去年、プレーオフで負けたときのことを、俺はまだ覚えてる。あの試合が終わったあと、俺たちは全員、何もできないままロッカールームに座ってた。誰も喋らなかった。もっとできたはずだって、みんな思ってたんだ」

 

 ノアは腕を組み、黙って話を聞いていた。

 

「今年は、あんな終わり方をしたくねえ。俺たちは夏からずっと練習してきた。新しい仲間も増えたし、できることも増えた。だからこそ、最後まで戦いたいんだ」

 

 マイルズの視線が、一瞬だけ時春へ向けられた。

 

「スターターだけがチームじゃない。控えも、全員が必要だ。誰が試合に出ても、ブレイカーズのバスケができる。そういうチームになろうって、俺たちはここまでやってきたんだろ?」

 

 時春は力強く頷いた。

 

 マイルズは拳を握った。

 

「だったら、今日からそれを見せようぜ。相手が誰だろうと関係ねえ。俺たちは、俺たちのバスケットボールで勝つ。全員で守って、全員で走って、全員で点を取る。勝ったときには、ここにいる全員で喜べるようにしようぜ!」

 

「YEAH!!」

 

 ノアが立ち上がった。

 

「それだ、マイルズ! その通りだ!」

 

 ライアンとジェイスも声を上げ、イーサンが笑顔で頷いた。トムは両手を握り締め、マイクも静かに立ち上がる。時春も胸の奥が熱くなるのを感じながら、仲間たちと一緒に立ち上がった。

 

 マイルズが円陣の中央へ手を伸ばす。

 

「よし。全員、来い!」

 

 選手たちが一斉に集まり、次々と手を重ねた。

 

 ノアの大きな手。

 

 マイクの細い指。

 

 イーサンの落ち着いた手。

 

 ライアン、ジェイス、トム、そして時春。

 

 全員の手が中央に重なると、マイルズは一人ひとりの顔を見渡した。

 

「BREAKERS ON THREE!」

 

 選手たちが大きく息を吸う。

 

「ONE!」

 

「TWO!」

 

「THREE!」

 

「BREAKERS!!!」

 

 凄まじい声が、ロッカールームに響き渡った。

 

 ブレイカーズの選手たちは互いの肩を叩き合い、勢いよく扉へ向かった。時春もその流れに加わりながら、自分の胸が高鳴っているのを感じていた。

 

 緊張もあった。

 

 しかし、それ以上に楽しみだった。

 

 強い相手と戦える。

 

 自分がどこまで通用するのか、確かめられる。

 

 そして何より、仲間たちと一緒に勝利を目指せる。

 

 時春は大きく息を吸い込み、ユニフォームの胸に描かれたブレイカーズの文字を軽く叩いた。

 

     ◇

 

 招待大会の舞台となったクレセントコースト・スポーツセンターは、海岸沿いの街から少し内陸へ入った場所にあった。

 

 大きな体育館を中心に複数の競技施設が並び、普段は地域のスポーツイベントや学校の大会などに利用されているという。建物の入口には『CRESCENT COAST MLK INVITATIONAL』と書かれた大きな横断幕が掲げられ、その下には出場校の名前とトーナメント表が並んでいた。

 

 参加する十六校は、いずれも今シーズンに好成績を収めているチームだった。

 

 クレセントベイ周辺の学校だけでなく、少し離れた地域から招待された強豪校も含まれている。体育館のロビーにはそれぞれのユニフォームを着た選手たちが行き交い、観客席には各校の応援団が集まっていた。

 

 ブレイカーズの初戦の相手は、ビスタ・デル・マー高校のセイラーズだった。

 

 素早いガード陣を中心に攻撃を組み立てるチームで、シーズン序盤から安定した成績を残している。特にアウトサイドからのシュートが得意で、相手に少しでも隙を与えれば、立て続けに得点を重ねてくる危険な相手だった。

 

 しかし、この日のブレイカーズは序盤から集中していた。

 

 イーサンは相手のプレッシャーを冷静にかわし、攻撃のテンポを丁寧に整えていった。マイルズはゴール下で強さを見せ、ノアは速攻から豪快なダンクを決める。マイクがコーナーからスリーポイントを沈めると、ベンチの選手たちが一斉に立ち上がった。

 

「LET’S GO!!」

 

 ノアの声が体育館に響く。

 

 時春にも出場機会が与えられた。

 

 第二クォーターの途中でイーサンに代わってコートへ入ると、最初の攻撃では少し判断が遅れ、相手のガードにボールを狙われた。しかし、次のプレーでは落ち着いてスクリーンを利用し、ゴール下へ走り込んだトムへパスを通した。トムがそのまま力強くシュートを決めると、時春は笑顔で拳を握った。

 

 さらに、相手のディフェンスがマイルズへ集中した場面では、時春が逆サイドへ素早くボールを送り、マイクのスリーポイントを演出した。

 

「Nice pass、トキ!」

 

 マイクが珍しく大きな声を上げた。

 

「Yeah!」

 

 時春も嬉しそうに応える。

 

 前半を終えた時点で、ブレイカーズは十二点のリードを奪っていた。後半も相手の反撃を受けながら落ち着いて試合を進め、終盤には控えの選手たちも積極的に起用された。

 

 最終スコアは、八十二対六十四。

 

 ブレイカーズは危なげなく初戦を突破した。

 

 試合終了後、選手たちはベンチの前で互いに拳を合わせた。ヘイズコーチは大きく喜ぶ様子こそ見せなかったものの、選手たちの集中力には満足しているようだった。

 

「悪くない試合だった。だが、喜ぶのはまだ早いぞ」

 

 コーチが言う。

 

「Yes, Coach!」

 

 マイルズが代表して答えた。

 

 ノアはその横で、時春の肩へ腕を回した。

 

「おい、リトルマン! 今日のパス、よかったぜ!」

 

「ありがと、ノア!」

 

「次も頼むぞ!」

 

「もちろん!」

 

 時春は笑顔で頷いた。

 

 強い相手との試合に勝ったという満足感が、胸の中に広がっていた。

 

 しかし、それはまだ、大会の第一歩にすぎなかった。

 

     ◇

 

 翌十五日、金曜日。

 

 ブレイカーズは準々決勝で、ハーバーリッジ高校のブルズと対戦した。

 

 ブルズは前日のセイラーズとは対照的に、強靱なフィジカルを武器とするチームだった。ゴール下には二メートル近い選手が二人並び、リバウンド争いでは一歩も引かない。ディフェンスも激しく、パスを受けた瞬間から体を寄せてくるため、ブレイカーズは思うように攻撃を組み立てられなかった。

 

 試合は序盤から接戦になった。

 

 第一クォーターではリードを許し、第二クォーターに入ってもブルズのインサイドを止められずに苦しんだ。マイルズは相手の大きなセンターと何度も体をぶつけ合い、ノアも得意のドライブを封じられる場面が増えた。

 

 前半終了時点では、ブレイカーズが四点を追いかける展開だった。

 

 ロッカールームでヘイズコーチは、選手たちへ厳しい言葉を向けた。

 

「相手の体格に付き合いすぎだ! 力比べをしたいなら、こんなところで試合をする必要はない。俺たちの強みは何だ!」

 

「ボールを動かすことです!」

 

 イーサンが答えた。

 

「そうだ。もっと速く、もっと広く使え! 相手がゴール下を固めるなら、外から崩せばいい!」

 

 後半に入ると、ブレイカーズは攻撃の形を変えた。

 

 イーサンがボールを動かしながら相手の守備を広げ、マイクが立て続けにスリーポイントを決めた。外側へ引き出されたディフェンダーの隙を突き、ノアが鋭くゴールへ切り込む。マイルズも相手の大きなセンターを押し込むのではなく、素早い動き出しでゴール下のスペースを確保した。

 

 第四クォーターに入る頃には、試合の流れが少しずつ変わっていた。

 

 時春も短い出場時間の中で、相手のプレッシャーをかわしながら攻撃のテンポを上げる役割を果たした。残り六分の場面では、自らドライブを仕掛けてディフェンダーを引きつけ、空いた位置にいたライアンへパスを送った。

 

 ライアンのスリーポイントが決まる。

 

「YEAH!!」

 

 ベンチが一斉に沸き上がった。

 

 その後も両チームは一歩も譲らなかったが、最後はマイルズがゴール下で重要なリバウンドを奪い、イーサンがフリースローを確実に沈めた。

 

 七十六対七十。

 

 ブレイカーズ、準々決勝突破。

 

 こうして、彼らは招待大会のベスト四へ進出した。

 

 試合終了後、選手たちは満面の笑みでハイタッチを交わした。初戦とは違い、最後まで気の抜けない厳しい試合だった。それだけに、勝利の喜びも大きかった。

 

「よっしゃあああ!!」

 

 ノアが叫んだ。

 

「ベスト四だぜ!!」

 

「まだ終わってねえぞ、ノア」

 

 マイルズが笑いながら言う。

 

「わかってるって! でも嬉しいだろ!?」

 

「そりゃな」

 

 マイルズも大きく頷いた。

 

 時春はその二人を見ながら、自然と笑顔になっていた。

 

 チームは確かに強くなっている。

 

 しかも、ただ勝っているだけではない。どんな相手にも、それぞれの戦い方を見つけながら勝利を掴んでいるのだ。

 

 だからこそ、もっと先へ進めるような気がした。

 

     ◇

 

 一月十六日、土曜日。

 

 Crescent Coast MLK Invitational、準決勝。

 

 ブレイカーズの対戦相手は、パシフィックリッジ高校のレイヴンズだった。

 

 黒と深紅のユニフォームを身につけたレイヴンズは、地区でも屈指の守備力を誇る強豪校だった。特に特徴的なのは、全員が積極的にリバウンドへ飛び込んでくることである。ガードであってもゴール下へ走り込み、体格の大きな相手にも臆することなくボールを奪いにいく。

 

 彼らはシーズンを通して接戦に強く、第四クォーターに入ってから逆転勝利を収めた試合も少なくなかった。

 

 準決勝の会場には、初戦や準々決勝を上回る数の観客が集まっていた。

 

 スタンドの一角にはブレイカーズの応援団が陣取り、学校の名前が書かれたボードやタオルを掲げている。その中にはエマ、ゾーイ、ジェイクの姿もあった。

 

「トキ! 今日も頑張ってー!」

 

 エマが大きく手を振る。

 

 時春はコートからその姿を見つけ、嬉しそうに手を振り返した。

 

「おーい! トキ! 今日は何本アシストすんだ!?」

 

 ジェイクが負けじと叫ぶ。

 

「いっぱいするよー!」

 

 時春が答えると、周囲の生徒たちが笑った。

 

 ゾーイはそんな二人を眺めながら、呆れたように肩をすくめた。

 

「もう、試合前からうるさいんだから」

 

「いいじゃん! 応援なんだから!」

 

 ジェイクが笑った。

 

 その声を聞いていたノアが、時春の背中を軽く叩いた。

 

「おい、リトルマン。今日はお前のファンも来てるな!」

 

「ははっ! うん!」

 

「だったらいいとこ見せてやれよ!」

 

「もちろん!」

 

 二人が笑い合っていると、マイルズが近づいてきた。

 

「お前ら、そろそろアップに集中しろよ。今日は簡単な相手じゃねえぞ」

 

「わかってるって、キャプテン!」

 

 ノアは大きく頷いた。

 

 マイルズの表情は、いつも以上に引き締まっていた。

 

 前日のブルズとの試合も激しいものだったが、今日のレイヴンズはさらに手強い。守備の連係が優れているだけでなく、攻撃でも一人ひとりが自分の役割を理解している。少しでも判断が遅れれば、そこを確実に突いてくる相手だった。

 

 時春はコートの反対側でウォーミングアップをしているレイヴンズの選手たちへ目を向けた。

 

 どの選手も体が大きく、動きに無駄がなかった。特に背番号二十四番のフォワードは、何度も豪快なリバウンドを奪い、ゴール下へ力強いシュートを叩き込んでいる。相手のガード陣もスピードがあり、ボールを持った瞬間から素早く攻撃を仕掛けていた。

 

 しかし、不思議と怖くはなかった。

 

 強い相手と戦うのは、もう初めてではない。

 

 開幕戦からこれまで、何度も大きな選手たちと向かい合ってきた。プレーが通用せずに悔しい思いをしたこともあるが、そのたびに少しずつできることが増えてきた。

 

 今日も、きっと同じだ。

 

 時春はそう思いながら、ボールを手の中で軽く弾ませた。

 

 試合開始まで、あと数分だった。

 

     ◇

 

 準決勝は、序盤から激しい展開になった。

 

 レイヴンズは開始直後から積極的にプレッシャーをかけ、イーサンがボールを運ぶ段階で攻撃のリズムを崩そうとしてきた。ブレイカーズも負けじと素早いパス回しで対応したが、相手の守備は想像以上にしつこく、なかなか良いシュートを打たせてもらえなかった。

 

 最初に得点を重ねたのはレイヴンズだった。

 

 背番号三番のガードがドライブからレイアップを決め、続く攻撃では外側からスリーポイントを沈める。さらに、ブレイカーズが放ったシュートをリバウンドで奪うと、一気に速攻を仕掛けて得点を追加した。

 

 開始早々、ブレイカーズは五点を追いかける展開になった。

 

「落ち着け!」

 

 イーサンが仲間たちへ声をかけた。

 

「まだ始まったばかりだ!」

 

 彼はゆっくりとボールを運び、マイルズへスクリーンを要求した。相手のガードが進路を塞ごうとするが、イーサンは無理に突破せず、空いたスペースへボールを運ぶ。

 

 そこでマイクが動いた。

 

 左コーナーへ走り込み、ディフェンダーの視線が外れた瞬間にパスを受ける。

 

 シュート。

 

 ボールは綺麗な弧を描き、リングを通り抜けた。

 

「THREE!!」

 

 ブレイカーズの応援席が沸き上がる。

 

 マイクは静かに拳を握った。

 

 続く守備ではマイルズがゴール下を固め、レイヴンズのシュートを難しい角度へ追い込んだ。ノアがリバウンドを奪い、そのままコートを走り抜ける。

 

 イーサンからのパスが届くと、ノアは迷わずリングへ跳び上がった。

 

 ドガァンッ!!

 

 豪快なダンクが決まった。

 

「LET’S GO!!」

 

 ノアが叫び、観客席から歓声が上がった。

 

 それでも、レイヴンズは簡単には崩れなかった。

 

 相手の選手たちはノアのダンクにも動じることなく、次の攻撃で確実に得点を取り返してきた。パスを回しながらブレイカーズの守備を少しずつ動かし、ゴール下にできた隙を突いてくる。

 

 第一クォーターは、十七対十六。

 

 ブレイカーズがわずか一点をリードして終えた。

 

 ベンチへ戻ってきた選手たちは、すでに肩で大きく息をしていた。試合開始から八分しか経っていないにもかかわらず、レイヴンズとの接触の激しさは、前日のブルズ戦を思い起こさせるものだった。

 

「いいか、相手のペースに飲まれるな!」

 

 ヘイズコーチが声を張り上げた。

 

「特にリバウンドだ! 一人に任せるな! 全員でボックスアウトしろ!」

 

「YES, COACH!」

 

 選手たちが答える。

 

 イーサンはタオルで汗を拭いながら、ベンチの端に座っていた時春へ視線を向けた。

 

「トキ。次、準備しておけ」

 

「……うん!」

 

 時春は大きく頷いた。

 

 第二クォーターに入って間もなく、ヘイズコーチから交代の指示が出た。

 

「トキ! イーサンに代われ!」

 

「Yes, Coach!」

 

 時春は勢いよく立ち上がった。

 

 コートを出てきたイーサンが、軽く拳を差し出してくる。

 

「落ち着いてやれよ。相手はボールを奪いにくるのが早い。無理に突っ込むな」

 

「うん! 任せて!」

 

 時春は拳を合わせ、コートへ走り出した。

 

 レイヴンズのガードは、彼の小柄な体を見るなり積極的に距離を詰めてきた。時春がボールを受けると、すぐに片手を伸ばし、ドリブルの進路を塞ごうとする。

 

 しかし、時春は慌てなかった。

 

 低い姿勢でボールを守り、一度後ろへ下がって相手との間合いを作る。そこでマイルズがスクリーンに入ると、時春はその横を素早く抜けた。

 

 相手のセンターがヘルプへ出てくる。

 

 時春はゴールへ向かうと見せかけ、右サイドへパスを送った。

 

 待っていたのはジェイスだった。

 

 ジェイスは素早くボールを受け取ると、迷わずミドルシュートを放った。

 

 シュッ。

 

「Nice!!」

 

 ベンチからライアンの声が飛んだ。

 

 時春は笑顔でジェイスと拳を合わせた。

 

 その後も時春は、短い出場時間の中で攻撃のテンポを落とさないように努めた。相手の厳しいプレッシャーに一度ボールを奪われそうになったが、すぐに体を入れて守り、味方へパスをつないだ。簡単なミスもあったものの、チームの攻撃を大きく崩すことなく役割を果たしていた。

 

 やがてイーサンが再びコートへ戻ると、時春はベンチへ下がった。

 

「Good job、トキ」

 

 イーサンがすれ違いざまに言った。

 

「ありがと!」

 

 時春は嬉しそうに答えた。

 

 前半終了時点で、スコアは三十五対三十五。

 

 完全な互角だった。

 

     ◇

 

 ハーフタイムのロッカールームでは、誰もが真剣な表情をしていた。

 

 ヘイズコーチはホワイトボードに相手の守備の形を描きながら、後半の戦い方を説明していた。レイヴンズのガード陣は積極的にボールを奪いにくるため、無理なドリブル突破は危険だった。一方で、プレッシャーをかわしてしまえば、ゴール下に一瞬だけスペースが生まれることもわかってきた。

 

「いいか、相手は強い。だが、完璧じゃない」

 

 ヘイズはそう言って、ボードを叩いた。

 

「俺たちが慌てなければ、必ずチャンスは来る。パスを急ぐ必要はないが、動かすべきときには迷うな。何より、リバウンドで負けるなよ。そこで負けたら、どれだけいい守備をしても意味がない」

 

 マイルズが大きく頷いた。

 

「わかってます、コーチ」

 

「頼むぞ、マイルズ。お前がゴール下を支えろ」

 

「Yes, Coach!」

 

 イーサンも立ち上がった。

 

「後半はもっと落ち着いて攻めよう。相手のディフェンスは激しいけど、ずっと同じ強さで守れるわけじゃない。俺たちがボールを動かせば、必ず隙ができる」

 

 ノアが力強く拳を握った。

 

「よし! 後半は一気に行こうぜ!」

 

「お前は無理なドライブするなよ」

 

 マイクが淡々と言う。

 

「わかってるって!」

 

 ノアが笑い、ロッカールームに小さな笑い声が起こった。

 

 その空気は決して楽観的ではなかった。しかし、選手たちの間には、強い相手と戦うことへの充実感があった。相手が簡単に崩れないからこそ、一本のシュートや一つのリバウンドの価値が大きくなる。こういう試合に勝つために、自分たちは練習してきたのだ。

 

 時春はイーサンの隣に座り、ペットボトルの水を飲んでいた。

 

「……イーサン」

 

「ん?」

 

「今日の相手、めっちゃしつこいね」

 

 イーサンは小さく笑った。

 

「ああ。いいチームだよ。ガードも速いし、守備の連係も上手い」

 

「うん。ドリブルしてても、すぐに二人目が来るんだよね」

 

「そうだな。だからこそ、ボールを離すタイミングが大事になる」

 

 イーサンは少し身を乗り出した。

 

「トキ、お前の速さなら相手の一人目は抜ける。でも、そのあと無理にシュートへ行くなよ。二人目が来た瞬間に味方を見つけられれば、いい攻撃になる」

 

 時春は真剣な顔で頷いた。

 

「……わかった!」

 

「お前のパスは十分通用する。自信持ってやれ」

 

 イーサンはそう言って、時春の肩を軽く叩いた。

 

 時春は嬉しくなって笑った。

 

「ありがとう、イーサン!」

 

 イーサンは頷き、再びコートへ向かう準備を始めた。

 

 時春はその背中を見つめながら、改めて頼もしい先輩だと思った。

 

 自分が試合に出られる時間は、まだイーサンよりずっと短い。それでも、彼は控えの自分に惜しみなく助言をくれる。ライバルでもあり、同じポジションを担う仲間でもある。その関係が、時春には何とも心強かった。

 

     ◇

 

 第三クォーターが始まると、ブレイカーズは少しずつ主導権を握り始めた。

 

 イーサンが試合のテンポを落ち着かせ、マイルズのスクリーンを利用しながら相手のディフェンスを動かしていく。ノアは無理なドライブを減らし、空いたスペースへ走り込むことで得点を重ねた。マイクも重要な場面でスリーポイントを沈め、チームは徐々にリードを広げていった。

 

 しかし、レイヴンズも簡単には引き下がらなかった。

 

 相手の背番号二十四番がゴール下でリバウンドを奪い、押し込むようにシュートを決める。続く攻撃では背番号三番のガードが鋭いドライブを仕掛け、ブレイカーズの守備を崩してきた。

 

 得点が入れば、すぐに取り返される。

 

 わずかなリードを奪っても、数分後には再び接戦になる。

 

 そんな展開が続いた。

 

 第三クォーター終了時点では、五十二対四十九。

 

 ブレイカーズが三点をリードしていた。

 

 ベンチへ戻った選手たちは、水を飲みながら大きく息をしていた。ノアはタオルを頭からかぶり、マイルズは膝に手を置いて呼吸を整えている。イーサンも汗で濡れた前髪をかき上げながら、スコアボードを見つめていた。

 

 ヘイズコーチは全員の前に立った。

 

「残り八分だ」

 

 その声に、選手たちが顔を上げる。

 

「ここまでよく戦っている。だが、まだ何も決まっちゃいない。相手は最後まで食らいついてくるぞ」

 

 ヘイズは一人ひとりの顔を見渡した。

 

「ここからは、一つの判断が勝敗を分ける。つまらないターンオーバーはするな。簡単なシュートを打たせるな。リバウンドには必ず全員で参加しろ」

 

「YES, COACH!」

 

 選手たちが答えた。

 

 マイルズが大きく手を叩く。

 

「よし! あと八分だ! 全員で勝つぞ!」

 

「YEAH!!」

 

 ノアが立ち上がり、仲間たちと拳を合わせた。

 

 時春もベンチから声を張り上げた。

 

「Let’s go、Breakers!」

 

 第四クォーターが始まった。

 

     ◇

 

 残り時間が減るにつれ、試合はさらに激しくなっていった。

 

 レイヴンズはディフェンスの圧力を高め、ブレイカーズのボール運びへ積極的にプレッシャーをかけてきた。イーサンは慎重にボールを扱いながら相手の隙を探し、仲間たちへ細かく指示を出していた。

 

 残り六分を切ったところで、マイクが重要なスリーポイントを決めた。

 

 ブレイカーズの応援席から歓声が上がる。

 

「NICE SHOT!!」

 

 ノアが叫び、マイクとハイタッチを交わした。

 

 しかし、次の攻撃ではレイヴンズのガードが強引にドライブを仕掛け、ファウルをもらってフリースローを二本沈めた。さらに、ブレイカーズがシュートを外した場面でオフェンスリバウンドを奪い、ゴール下から得点を決める。

 

 点差は再び縮まった。

 

 第四クォーター残り五分。

 

 スコアは、六十二対六十一。

 

 ブレイカーズがわずか一点をリードしていた。

 

 観客席は、試合開始時とは比べものにならないほどの熱気に包まれていた。両校の応援団がそれぞれのチームを励まし、シュートが決まるたびに歓声が上がる。ベンチの選手たちも座ってはいられず、立ち上がったままコートへ声をかけていた。

 

「ディフェンス! ディフェンス!」

 

 マイルズが大声で叫んだ。

 

 イーサンは相手のガードにしつこくつきまとわれながらも、落ち着いて攻撃を組み立てた。右サイドへボールを運び、マイクへパスを送る。相手のディフェンダーが素早く対応すると、マイクは無理にシュートを打たず、マイルズへボールを戻した。

 

 マイルズは一度ゴール下へ体を入れたが、相手のセンターがしっかりと守っていたため、外側へパスを送り返した。

 

 受け取ったのはイーサンだった。

 

 ショットクロックが減っていく。

 

※ショットクロック:オフェンスがボールを保持してから制限時間までにシュートを放たなければならない。時春の所属するCIFルールでは35秒間。

 

 イーサンは相手のガードと向き合い、一度だけドリブルをついた。

 

 そして、素早く左へ踏み込む。

 

 ディフェンダーが反応した瞬間、イーサンは体を止めてジャンプシュートを放った。

 

 シュッ。

 

 ボールは綺麗にネットを揺らした。

 

「YES!!」

 

 ブレイカーズのベンチが一斉に沸き上がった。

 

 六十四対六十一。

 

 残り四分十八秒。

 

 再び三点差となった。

 

「よし! いいぞ、イーサン!」

 

 時春もベンチから大きな声を上げた。

 

 イーサンは軽く拳を握ると、すぐに守備へ戻っていった。まだ喜んでいる場合ではない。レイヴンズの攻撃を止めなければ、三点のリードなど簡単に消えてしまう。

 

 相手のガードはゆっくりとボールを運び、右サイドのフォワードへパスを送った。

 

 そこからさらにボールが動き、左ウイングで待っていた背番号三番へ渡る。

 

 ブレイカーズのディフェンダーが詰め寄った。

 

 しかし、レイヴンズのガードは一瞬の隙を突いてスリーポイントを放った。

 

 ボールが高く上がる。

 

 観客席の視線が、リングへ集まった。

 

 ガンッ!

 

 シュートは外れた。

 

 ボールはリングの手前側に当たり、大きく左へ跳ねた。

 

「REBOUND!!」

 

 マイルズの声が響いた。

 

 ゴール下では両チームの選手たちが一斉に動き出した。マイルズが相手のセンターを押さえ、ノアも反対側からリバウンドへ飛び込む。

 

 そのとき、左側から走り込んできたのがイーサンだった。

 

 彼は跳ねたボールの落下地点を素早く予測し、体を入れてリバウンドを奪おうとした。ガードでありながら、試合終盤でもリバウンドへの参加を怠らない。その献身的な動きは、彼が普段から仲間たちに示してきた姿勢そのものだった。

 

 しかし、同じ場所へレイヴンズの選手も飛び込んできていた。

 

 背番号二十四番。

 

 大柄なフォワードだった。

 

 二人はほぼ同時にジャンプした。

 

 イーサンが右手を伸ばし、ボールへ触れようとする。

 

 その瞬間だった。

 

 ゴッ!

 

 鈍い音が響いた。

 

 リバウンドへ跳び上がった相手選手の腕が、イーサンの顔へ強く当たった。

 

「……っ!」

 

 イーサンの体が空中で傾いた。

 

 ボールは彼の指先をかすめ、そのまま別の選手の方へ跳ねていく。

 

 イーサンは着地した直後、顔を押さえながら膝をついた。

 

 ピーッ!!

 

 審判の笛が鋭く鳴った。

 

 体育館の空気が、一瞬で変わった。

 

     ◇

 

「イーサン!?」

 

 最初に駆け寄ったのは、マイルズだった。

 

 イーサンはコートに片膝をつき、左目のあたりを片手で押さえていた。指の隙間から赤いものが見え、やがて頬を伝って顎の方へ流れ始めた。

 

 血だった。

 

「おい、イーサン! 大丈夫か!?」

 

 マイルズが声をかける。

 

 イーサンは返事をしようとしたが、すぐには言葉が出てこなかった。片手で顔を押さえながら、何度も瞬きを繰り返している。

 

 ノアも慌てて近づいてきた。

 

「おい、何があった!?」

 

「腕が顔に当たったんだ!」

 

 マイルズが答えた。

 

 審判は試合を止め、ベンチへ向かって合図を送った。

 

 ヘイズコーチがすぐに立ち上がり、チームのトレーナーとともにコートへ向かった。

 

 時春もベンチから身を乗り出していた。

 

「……イーサン?」

 

 胸の奥が急に冷たくなった。

 

 先ほどまで、あんなに落ち着いてプレーしていたのに。

 

 わずか数秒前には、重要なジャンプシュートを決めていたのに。

 

 イーサンはまだコートに膝をついたままだった。

 

 トレーナーがそばへしゃがみ込み、彼の顔を慎重に確認する。左の眉の近くが切れているらしく、血を拭きながら状態を尋ねていた。

 

「イーサン、見えるか? 指は何本だ?」

 

 トレーナーが尋ねる。

 

 イーサンは顔を上げ、目を細めた。

 

「……見える。でも……」

 

「でも?」

 

「……何か、おかしい」

 

 その声は、普段の彼からは想像できないほど弱々しかった。

 

「距離が……うまく掴めない」

 

 イーサンは何度か瞬きを繰り返した。

 

「ぼやける。近いのか遠いのか、ちょっと……」

 

 トレーナーの表情が引き締まった。

 

「わかった。無理に動くな。まずはベンチへ戻ろう」

 

 ヘイズコーチもすぐに頷いた。

 

「そうだ。試合のことは気にするな」

 

 イーサンは悔しそうに唇を噛んだ。

 

「でも、コーチ……まだ四分あります」

 

「わかってる」

 

 ヘイズの声は、厳しくも落ち着いていた。

 

「だが、今のお前をコートへ戻すわけにはいかない。治療が先だ」

 

 その言葉に、イーサンは何も答えなかった。

 

 彼はトレーナーに支えられながら、ゆっくりと立ち上がった。顔を押さえていた手を少し離すと、眉のあたりから再び血が滲んでいた。タオルを当て直してもらい、慎重にベンチへ向かって歩き始める。

 

 観客席からは、心配そうなどよめきが広がっていた。

 

 エマは思わず両手を口元へ当てた。

 

「……イーサン、大丈夫かな」

 

 隣のゾーイも真剣な表情でコートを見つめている。

 

「……結構強く当たったよね」

 

 ジェイクはそれまでの陽気な様子を失い、黙ってベンチの方を見つめていた。

 

 ブレイカーズの選手たちも、明らかに動揺していた。

 

 イーサンはチームの司令塔だった。

 

 攻撃のテンポを調整し、相手の守備を見極め、仲間たちへ指示を出す。試合が荒れても慌てることなく、必要な場面で必ず正しい判断をしてくれる。その存在が、チーム全体に大きな安心感を与えていた。

 

 そんな彼が、残り四分という重要な時間帯でコートを離れようとしている。

 

 誰もが、その意味を理解していた。

 

     ◇

 

 時春はベンチの前で立ち上がっていた。

 

 スコアボードの数字が、やけにはっきりと見えた。

 

 六十四対六十一。

 

 残り四分二秒。

 

 三点差のリード。

 

 試合は、まだまったく決まっていない。

 

 相手は地区でも屈指の強豪、パシフィックリッジ高校のレイヴンズ。ここまで何度も追いつかれそうになり、そのたびに必死で守り抜いてきた。第四クォーターに入ってからも、わずかな点差を巡る激しい攻防が続いている。

 

 こんな場面で、イーサンが抜ける。

 

 時春は胸の奥が強く締めつけられるのを感じた。

 

 先ほどのハーフタイムで、イーサンは自分に助言をくれた。相手の守備は激しいが、慌てずにボールを動かせば隙はできる。お前のパスは通用するから、自信を持ってやれ、と。

 

 そのイーサンが、今はトレーナーに肩を支えられている。

 

 時春は思わず拳を握った。

 

 大丈夫だろうか。

 

 目はちゃんと治るのだろうか。

 

 そんな心配が次々と頭に浮かんできた。

 

 しかし、そのときだった。

 

「……トキ!」

 

 ヘイズコーチの声が響いた。

 

 時春は弾かれたように顔を上げた。

 

「はい!」

 

「準備しろ!」

 

 一瞬、何を言われたのかわからなかった。

 

 しかし、次の瞬間には理解していた。

 

 イーサンに代わって、コートへ入るのだ。

 

「……はい!」

 

 時春は大きく返事をした。

 

 ヘイズコーチは彼のそばへ歩み寄り、真剣な表情で言った。

 

「いいか、トキ。お前がポイントガードだ」

 

 時春は頷いた。

 

「Yes, Coach!」

 

「ここから四分。相手は間違いなくプレッシャーを強めてくる。だが、慌てるな。今まで練習してきたことをやれ」

 

 ヘイズは時春の肩をしっかりと掴んだ。

 

「自分一人で何とかしようとするな。仲間を使え。マイルズもノアもマイクもいる。全員でこの試合を勝ち切るんだ」

 

 時春はコーチの目を見つめた。

 

「……わかりました!」

 

「よし。行ってこい!」

 

 そのとき、イーサンがすぐ近くまで戻ってきていた。

 

 トレーナーに支えられ、左の眉のあたりへタオルを当てている。血はある程度拭き取られていたが、まだ痛々しい状態だった。片目を細めながら歩いている姿を見ると、時春は胸が苦しくなった。

 

「……イーサン」

 

 声をかけると、イーサンは顔を上げた。

 

 いつものような余裕のある表情ではなかった。

 

 それでも、彼は小さく笑った。

 

「……トキ」

 

「大丈夫? 目、痛い?」

 

「……ああ。ちょっとな」

 

 イーサンは苦笑した。

 

「まいったよ。こんなところで抜けるなんてな」

 

 時春は何と答えればいいのかわからなかった。

 

 試合は残り四分。

 

 三点差のリード。

 

 チームにとって、もっとも重要な時間帯だった。

 

 そして、その時間を任されるのが自分なのだ。

 

 イーサンは時春の表情を見て、何かを察したようだった。

 

「……おい、トキ」

 

「ん?」

 

「そんな顔すんなよ」

 

 イーサンは軽く笑った。

 

「別に負けたわけじゃないだろ?」

 

 時春は顔を上げた。

 

「……うん」

 

「俺たちはまだ勝ってる。残り四分、たった三点差だけどな」

 

 イーサンは少しだけ声を落とした。

 

「ここまで一緒に練習してきたじゃねえか。俺が教えたことも、お前が自分で覚えたことも、全部出せばいい」

 

 時春は黙って聞いていた。

 

「お前ならできるよ」

 

 イーサンはそう言って、右手を伸ばした。

 

 そして、時春の肩を軽く叩いた。

 

「……任せたぜ、相棒」

 

 時春の胸が、強く跳ねた。

 

 相棒。

 

 その言葉が、不思議なほど大きく響いた。

 

 イーサンはいつも、自分を後輩として指導してくれていた。厳しいことを言われたこともあるし、練習で何度もミスを指摘されてきた。それでも、彼は時春をただの控え選手として扱ったことはなかった。同じポジションを担う仲間として、いつも真剣に向き合ってくれていた。

 

 そのイーサンが、今、自分に試合を託そうとしている。

 

 時春はゆっくりと拳を握った。

 

「……うん!」

 

 そして、まっすぐにイーサンの顔を見た。

 

「任せて、イーサン!」

 

 イーサンは満足そうに笑った。

 

「……頼んだぞ」

 

 トレーナーに付き添われ、イーサンは体育館の奥にある処置室へ向かって歩き始めた。途中で一度だけ振り返り、時春へ親指を立ててみせる。時春も同じように親指を立てて応え、その背中が通路の向こうへ消えるまで見送った。

 

 それから、コートへ視線を戻した。

 

 レイヴンズの選手たちは、すでに試合再開の準備を始めていた。背番号三番のガードが仲間と何かを話し、二十四番のフォワードがゴール下の位置を確認している。観客席にはまだざわめきが残っていたが、ブレイカーズの応援団からは少しずつ新たな声が上がり始めていた。

 

「Let’s go、Breakers!」

 

 エマの声が聞こえた。

 

 時春が顔を向けると、彼女は観客席から大きく手を振っていた。その隣ではジェイクが立ち上がり、ゾーイも懸命に声を出している。

 

「トキ! 頑張れー!」

 

 時春は小さく頷いた。

 

 心臓が激しく鳴っていた。

 

 胸の奥から、熱いものが込み上げてくる。

 

 怖くないと言えば、嘘になる。

 

 これまで何度も試合に出場してきたが、こんな状況でコートへ入るのは初めてだった。相手は強豪校で、点差はわずか三点。残り時間も少なく、一つのミスが勝敗を左右するかもしれない。

 

 もしボールを奪われたら。

 

 もしシュートを外したら。

 

 もし、自分の判断でチームを負けさせてしまったら。

 

 そんな考えが一瞬だけ頭をよぎった。

 

 しかし、時春はすぐに首を振った。

 

 イーサンは、自分ならできると言ってくれた。

 

 ヘイズコーチも、迷わず自分を送り出そうとしている。

 

 マイルズも、ノアも、マイクも、コートで待っている。

 

 ここまで努力してきたのは、こんな場面で逃げるためではない。

 

 むしろ、こういう場面でチームを勝たせるために、毎日練習してきたのだ。

 

 時春は大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。震えそうになっていた指先を一度強く握り締め、ユニフォームの裾を軽く引いた。

 

 コートの向こうでは、マイルズがこちらを見つめていた。

 

「トキ!」

 

 大きな声が響いた。

 

 時春が顔を上げる。

 

「来い! 俺たちがついてる!」

 

 マイルズは力強く拳を握ってみせた。

 

 その隣でノアも大きく手を振っている。

 

「HEY、LITTLE MAN! 待ってたぜ!」

 

 時春は思わず笑った。

 

 こんなときでも、ノアはいつものノアだった。

 

 少しだけ肩の力が抜けた。

 

 審判が交代の準備を促し、ヘイズコーチが時春の背中を軽く叩いた。

 

「行け、トキ」

 

「Yes, Coach!」

 

 時春ははっきりと答えた。

 

 スコアボードには、六十四対六十一という数字が輝いている。

 

 第四クォーター、残り四分二秒。

 

 三点リード。

 

 ブレイカーズの司令塔、イーサン・コールは負傷退場。

 

 そして今、その代役を務めるのは、十五歳の日本人ガードだった。

 

 時春はもう一度だけ深く呼吸をした。足の裏に伝わるシューズの感触を確かめ、目の前に広がるコートを見つめる。胸の鼓動はまだ速かったが、そこには恐怖だけでなく、これから始まる勝負への確かな高揚もあった。

 

 仲間たちの声が聞こえる。観客席からはエマたちの応援が響き、目の前ではマイルズが手を上げて待っていた。イーサンから託された言葉を胸に、時春はゆっくりと前を向いた。

 

 そして、審判の合図に応え、白いユニフォームの小さな背中が、試合終盤のコートへと踏み出した。

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