アメリカに来てから、一週間あまりが経っていた。
その間に高山時春は、新入生向けのオリエンテーションに参加し、学生証を受け取り、教科書を揃え、何度かキャンパスを歩き回った。そして、いくつかの重要な発見をした。
まず、アメリカのスーパーは牛乳がやたら大きい。寮の先輩であるベンに連れられて買い物へ行ったとき、冷蔵棚に並んだ巨大な容器を見て思わず二度見した。あれは牛乳というより、もはや筋トレ器具である。
次に、カフェテリアのピザは思っていたより美味しい。しかも一切れが大きい。日本の宅配ピザの感覚で二切れ取ったら、なかなかの強敵だった。
そして何より、ルームメイトのラリーは、ゲームをしているときだけ異常によく喋る。
いや、本当に。
普段は「Hi(やあ)」と「Whatever(どうでもいいけど)」で会話を終わらせようとするくせに、Minecraftの話になると突然三倍くらいの速度で英語を喋り始めるのだ。しかも、こちらが理解していなくても止まらない。
おまけに先日、二人でスマブラを遊んだときはもっと酷かった。ラリーは自分が吹っ飛ばされるたびに「No way!(嘘だろ!)」だの「That’s unfair!(今のは反則だろ!)」だのと叫び、勝ったときには聞いたこともないような英語をまくしたてる。どうやら彼にとって、ゲーム中の言葉遣いは別物らしい。
おかげで時春の英語力は、この一週間で少しだけ向上した。ただし、覚えた単語の大半はゲーム用語である。
クリーパー、エンチャント、リスポーン、レッドストーン。スマブラならエッジガード、スパイク、それからコンボ。ついでに「Shut up!(うるさい!)」も覚えた。
ラリー曰く、仲のいい友達同士なら冗談で使うこともあるが、先生や知らない人には絶対に言うな、とのこと。
……これ、学校で役に立つのかな。
そんな疑問を抱えたまま迎えた、八月の月曜日。いよいよ、クレセントベイ・アカデミーでの授業が始まる。
◇
朝。
スマートフォンのアラームが鳴るより先に、時春は目を覚ました。カーテンの隙間から差し込む朝日が部屋の床を明るく照らし、窓の外では鳥が鳴いている。遠くからは、芝刈り機らしき低い音も聞こえていた。
時計を見ると、午前六時四十五分だった。
「……よしっ」
初登校の日だというのに、目覚めはすこぶるいい。昨日の夜から少し興奮していたせいかもしれない。新しい学校、新しいクラス、新しい友達。何もかも初めてだ。緊張はあるが、それ以上に楽しみだった。
時春はベッドから起き上がり、大きく伸びをした。そして隣を見る。
もう一つのベッドでは、ラリーが布団を蹴飛ばして眠っていた。ぼさぼさの髪に、半開きの口。枕元には外したメガネが無造作に置かれている。
「ぐごぉ……ぐごぉ……」
なかなか立派ないびきである。
昨夜も遅くまでゲームをしていたのだ。時春が先に寝ようとしたときも、ラリーはヘッドホンをつけて何やら叫んでいた。おそらく、あのあともしばらく遊んでいたのだろう。
「……ラリー?」
返事はない。
「ラリー、モーニング!」
「ぐごぉ……」
まるで起きる気配がない。時春は少し考えた末、ラリーの肩を揺すった。
「ラリー! ウェイクアップ!」
「……Mmm……five more minutes……(……んん……あと五分だけ……)」
ファイブ・モア・ミニッツ。あと五分、ということらしい。
「ノー! スクール!」
「……Ugh……(……うぅ……)」
ラリーは布団を頭まで引っ張り上げた。
こいつ、学校に行く気あるのか?
時春がもう一度肩を揺すると、ラリーはようやく顔を出した。寝ぼけた目でこちらを睨みつける。
「Oh my god……Toki……(勘弁してよ……トキ……)」
「Do you have any idea what time it is?(今、何時だと思ってるのさ?)」
「シックス・フォーティファイブ!」
「……Exactly. That’s the problem.(……そう。まさにそこが問題なんだよ)」
「?」
「It’s way too early for this much enthusiasm……(こんな朝っぱらから、よくそんなに元気でいられるね……)」
何を言っているのかは半分くらいしかわからないが、要するに朝から元気すぎると文句を言われているらしい。
失礼な。健康的な高校生は朝から元気なものなのだ。
……たぶん。
ラリーは渋々ベッドから起き上がり、メガネをかけた。
「You’re like a human alarm clock……(君って、まるで人間目覚まし時計だね……)」
「サンキュー!」
「That wasn’t a compliment.(褒めてないからね)」
そんなやり取りをしながら、二人は朝の準備を始めた。
CBAには決まった制服がない。もちろん服装に関するルールはあるが、基本的には私服で登校する。時春は白いTシャツに黒のカーゴパンツを合わせ、スニーカーを履いた。鏡の前で髪を軽く整える。
うん。悪くない。
対するラリーは、ゲームのキャラクターが大きくプリントされた黒いTシャツに、色の褪せたジーンズ。寝癖は直さないらしい。
「ラリー、ヘアー……」
「What about it?(髪がどうかした?)」
時春は自分の頭を指差し、手で髪を整える仕草をした。
ラリーは鏡をちらりと見た。
「……It’s fine.(……別に問題ないでしょ)」
いや、ファインじゃないだろ。右側だけ妙に跳ねてるぞ。
もっとも、本人が気にしていないなら仕方ない。時春は余計なことを言わず、リュックを背負った。
初めての高校生活。
いざ、出発である。
◇
朝食を済ませて寮を出ると、キャンパスの雰囲気はこの一週間とはまるで違っていた。
「……うわ、すっげえ」
思わず声が漏れる。
先週までは、キャンパスを歩いているのは寮生や新入生、教職員くらいだった。広い敷地はどこか静かで、時折聞こえるのも鳥の声や風に揺れる木々の音ばかりだった。
ところが今日は違う。正門からは次々と生徒が入ってきて、校舎へ続く歩道は人で溢れている。スケートボードを片手に歩く少年、大きなヘッドホンをつけた少女、友達同士で肩を組みながら大声で笑う男子たち。髪を鮮やかな青色に染めた生徒もいれば、見たこともないような派手なスニーカーを履いている生徒もいる。
服装も実にさまざまだ。パーカーにジーンズという普通の格好から、モデルみたいにおしゃれな服装まで。スポーツウェア姿の生徒も少なくない。
そして、とにかく背が高い。
時春だって百七十センチある。日本にいた頃は、そこまで小さいとは思っていなかった。なのに、すれ違う男子生徒には自分より頭一つ大きな人間がごろごろいる。
高校生だよね? 大学生が紛れ込んでない?
「Welcome to the first day of school.(ようこそ、新学期初日へ)」
隣でラリーが欠伸をした。
時春は周囲をきょろきょろと見回した。
これがアメリカの高校。映画やドラマで何度も見た光景が、今まさに目の前に広がっている。校舎の壁には学校のエンブレムが描かれ、中庭にはベンチやテーブルが並んでいた。芝生に座って話している生徒もいれば、早くもバスケットボールを手にしている男子もいる。その向こうでは、アメリカンフットボールのジャージを着た大柄な少年たちが談笑していた。
なんか、すごい。本当に海外ドラマみたいだ。
ただし、ここには日本語字幕がない。それだけが、少々問題だった。
「Hey, Toki.(ねえ、トキ)」
ラリーに肩を叩かれる。
「My class is in the science building. I gotta go.(僕の授業は理科棟なんだ。もう行かなきゃ)」
「オーケー!」
「You know where you’re going?(君、自分の行き先はわかってる?)」
「……?」
「Your classroom. Do you know where it is?(教室のことだよ。場所、ちゃんとわかってる?)」
ああ、教室の場所がわかるかってことね。
時春は胸を張った。
「イエス! オブコース!」
舐めてもらっちゃ困る。この一週間、何度もキャンパスを歩き回ったのだ。学生証だって受け取ったし、教室の場所も事前に確認してある。それに、スマートフォンには学校の地図も保存済みだ。
完璧である。
「……You sure?(……本当に?)」
「イエス!」
「Alright. Don’t get lost.(まあいいけど。迷子にならないでよ)」
「ノー・プロブレム!」
ラリーは疑わしそうにこちらを見たが、やがて肩をすくめた。
「Whatever. See you later, Toki.(ま、いいや。またあとでね、トキ)」
「シー・ユー!」
ラリーは片手を上げ、人混みの中へ消えていった。
時春も時間割を確認する。
最初の授業は、English 9。いわゆる英語の授業だ。日本でいう国語に近い科目らしく、文学作品を読んだり、文章を書いたり、ディスカッションをしたりするらしい。
……いや、待って。
英語を学ぶためにアメリカへ来たのに、英語で国語の授業を受けるの?
これ、難易度おかしくない?
もっとも、留学生向けのESLという英語支援授業もある。そちらで基礎を補いながら、普通の授業にも参加する仕組みなのだそうだ。
何にせよ、まずは教室へ行かなければならない。
時春は時間割と地図を見比べた。教室番号は、H-204。確かHumanities Building、つまり人文系の校舎だったはずだ。
よし。
時春は自信満々に歩き始めた。
そして、十分後。
時春は見知らぬ廊下に立っていた。
目の前の扉には、『S-118』と書かれている。
……S?
いや、違う。ここじゃない。さっきまでHって書いてあった気がするんだけど。
時春は慌てて廊下を引き返し、階段を上がって別の建物へ入ってみた。そこにあったのは、『A-205』という教室だった。
……A?
惜しい!
いや、全然惜しくない。
というか、どこで間違えた?
スマートフォンでキャンパスマップを確認してみても、現在地がよくわからない。建物が多すぎるうえに、似たような通路があちこちへ伸びている。しかも周囲の生徒たちは、みんな迷いなく歩いていた。
誰かに聞けばいいのだろうが、何と話しかければいい?
エクスキューズ・ミー。ウェア・イズ……ウェア・イズ、イングリッシュナイン? いや、教室番号も言った方がいいか。
そんなことを考えているうちに、廊下の壁にある時計が目に入った。授業開始まで、あと五分。
「……やっべえ〜……」
思わず日本語が漏れた。
初日から遅刻。それだけは避けたい。
ラリーにはあんなに自信満々で「ノー・プロブレム」と言ってしまったのだ。これで遅刻したら、絶対に笑われる。いや、笑われるだけならいい。今後しばらくネタにされる。あいつはそういう男だ。
時春が本気で焦り始めた、そのときだった。
「……あれ、日本人?」
「え?」
突然、聞き慣れた言葉が耳に飛び込んできた。
日本語。
間違いなく、日本語だった。
時春は勢いよく振り返った。
そこに立っていたのは、一人の女の子だった。
ふわりと巻かれた艶のある茶色い髪。大きな瞳に、すっと通った鼻筋。整った顔立ちはどこかアメリカ人らしい華やかさがありながら、日本人を思わせる柔らかな雰囲気もある。
白いクロップド丈のTシャツに淡い色のデニム。足元は清潔感のあるスニーカーで、小さなアクセサリーがさりげなく光っていた。派手すぎないのに、妙に目を引く。
これが本場のアメカジというやつだろうか。
いや、そんなことより。
……か、可愛い。
めちゃくちゃ可愛い。
日本にいた頃だって、可愛い女の子くらい見たことはある。でも、目の前の少女は何というか、雰囲気そのものが違った。笑顔が自然で、立っているだけなのに華がある。アイドルみたいに整った顔立ちなのに、近寄りがたい感じはしない。
時春は思わず見惚れてしまった。
「あれ……違ったかな?」
少女が不思議そうに首を傾げる。
「さっき、日本語が聞こえた気がしたんだけど……」
「ち、違くない!」
時春は慌てて我に返った。
「日本人! 俺、日本人! 留学生なんだ!」
「あ、やっぱり!」
少女の顔がぱっと明るくなった。
「よかった! 日本語、合ってた!」
そう言って、嬉しそうに笑う。
……うわ。笑顔も可愛い。
ちょっと待って。アメリカってこんな子が普通に廊下を歩いてるの?
「私、エマ。エマ・パーカー!」
「あっ、俺、高山時春!」
「トキハル?」
「うん!」
「トキハル……合ってる?」
「合ってる合ってる!」
「よかった!」
エマはほっとしたように笑った。少しだけ日本語の発音に独特な響きがあるものの、会話は十分に通じる。何より、一週間ぶりに家族以外の誰かと日本語で話せている。それだけで、妙に嬉しかった。
「それで、どうしたの? もしかして道に迷ってる?」
「……うん」
時春は情けない顔で頷いた。
「イングリッシュナインって授業なんだけど、教室がわかんなくて……」
「English 9?」
「そう! それ!」
「ホントに!? 私もそれ取ってるよ!」
「マジ!?」
思わず声が大きくなった。
「じゃ、じゃあさ! 連れてってもらっていい!?」
「もちろん!」
エマは楽しそうに笑い、廊下の先を指差した。
「Come on!(ほら、行こ!) ついてきて!」
……天使だ。
アメリカに来て初めて、天使に会った。
◇
エマに案内され、時春はようやく正しい校舎へ向かうことができた。どうやら途中で道を一本間違えたらしい。
たった一本。
そのせいで、キャンパスの反対側まで歩いてしまっていた。
地図の意味とは。
「トキハルは、いつアメリカに来たの?」
「一週間くらい前!」
「Oh, really?(えっ、そうなの?) じゃあ、まだ来たばっかりなんだね!」
「うん! エマは日本人なの?」
「半分だけ!」
エマは自分を指差して笑った。
「My mom is Japanese.(私のお母さん、日本人なの) お母さんが日本人で、お父さんがアメリカ人なの」
「あー! ハーフなんだ!」
「うん! 日本には何回か行ったことあるよ!」
「そうなんだ!」
「でも日本語、まだちょっと難しい。お母さんとは話すけど、難しい言葉はわかんないときある」
そう言って、エマは少し照れくさそうに笑った。
なるほど。だから日本語を話せるのか。それにしても、かなり上手い。時春の英語なんかより、ずっと流暢である。
……いや、比べちゃだめか。
今の自分は、ラリーに「Shut up(黙れ)」を教わって喜んでいるレベルなのだから。
「じゃあ、エマはずっとこっちに住んでるの?」
「うん! 生まれも育ちもカリフォルニア!」
「へえ〜!」
「トキハルは? 日本のどこから来たの?」
「えっと――」
二人は歩きながら、簡単な自己紹介を続けた。
エマは十五歳で、時春と同じフレッシュマン。小さい頃からこの辺りに住んでいて、CBAにも地元の友達が何人も進学しているらしい。だから、こんなに学校に慣れているのか。
そう思っていたところで、向こうから歩いてきた女子生徒がエマに手を振った。
「Hey, Em!(やっほー、エム!)」
「Hey!(やっほー!)」
エマも笑顔で手を振り返す。
さらに数歩進むと、今度は背の高い男子生徒が声をかけてきた。
「Yo, Emma!(よう、エマ!)」
「Morning!(おはよう!)」
そのすぐあとには、別の女子生徒がエマの服装を褒めた。
「Emma! Love your outfit!(エマ! その服、めっちゃ可愛い!)」
「Aww, thank you!(わあ、ありがとう!)」
……すごい。さっきから、めちゃくちゃ挨拶されてる。
廊下を歩いているだけなのに、次々と知り合いが現れるのだ。しかもエマは、誰に対しても明るく笑顔で返事をしている。
どうやら、相当な人気者らしい。
まあ、そうだろうな。これだけ可愛くて、しかも感じがいいのだ。人気がない方がおかしい。
「トキハル?」
「えっ?」
「大丈夫?」
「あっ、うん!」
「もうすぐ着くよ!」
エマは歩く速度を少し上げた。時春も慌てて後を追う。
そして、ようやく探し求めていた教室番号が目の前に現れた。
『H-204』
「あった……!」
「Here we are!(さあ、着いたよ!)」
「サンキュー! マジで助かった!」
「どういたしまして!」
エマは嬉しそうに笑うと、教室の扉を開けた。時春もその後ろに続く。
……危なかった。
初日から遅刻せずに済んだ。これも全部、エマのおかげだ。
そして、できれば今後も彼女に道案内をお願いしたい。
いや、さすがにそれは情けなさすぎるか。
◇
教室に入ると、すでに多くの生徒が席についていた。
日本の学校とは違い、机は横にいくつか並べられ、教室の奥には本棚や掲示板もある。壁には英語のポスターが貼られ、大きなホワイトボードの横にはプロジェクターのスクリーンが下がっていた。
そして、何より驚いたのは生徒たちの自由さだった。机に腰掛けて話している男子、イヤホンを片耳につけている女子、飲み物を片手に友達と笑っている生徒。みんな、思い思いに過ごしている。
日本の教室とは、ずいぶん雰囲気が違う。
「Emma! Over here!(エマ! こっちこっち!)」
突然、教室の奥から大きな声が飛んできた。
声の主は、茶色い髪を短く整えた男子生徒だった。明るい色のTシャツにジーンズというラフな格好で、椅子に座ったまま大きく手を振っている。
「Jake!(ジェイク!)」
エマが笑顔で応える。
男子生徒は隣の空席を指差した。
「Saved you a seat!(席、取っといたぜ!)」
「Thanks!(ありがと!)」
エマはその男子のもとへ歩いていくと、隣に座っていた女子にも手を振った。
「Morning, Zo!(おはよう、ゾー!)」
「Hey, Em.(おはよ、エム)」
女子生徒は片手を上げて応えた。
黒い肌に、きれいに編み込まれた髪。シンプルなトップスにアクセサリーを合わせた、どこか大人っぽい雰囲気の女の子だった。
……何というか、めちゃくちゃイケてる。
エマとはまた違った意味で、アメリカの女子高生という感じがする。
「Who’s your friend?(ねえ、その子は誰?)」
男子生徒が時春を見た。
「あっ!」
エマがこちらを振り返る。
「This is Tokiharu! He’s from Japan.(この子はトキハル! 日本から来たんだよ)」
「Japan!? Yo, that’s awesome!(日本!? マジかよ、すげえじゃん!)」
男子生徒は勢いよく立ち上がり、時春に手を差し出した。
「I’m Jake! Jake Harris! Nice to meet you, man!(俺はジェイク! ジェイク・ハリスだ! よろしくな!)」
「あっ、ジェイク! ナイス・トゥ・ミート・ユー!」
時春が握手すると、ジェイクはぶんぶんと手を振った。
元気すぎる。この男、朝からテンションが高い。
……いや、朝からラリーを叩き起こしていた自分が言うことでもないか。
「And I’m Zoe. Zoe Walker.(私はゾーイ。ゾーイ・ウォーカーよ)」
もう一人の女子が微笑んだ。
「ゾーイ?」
「Yep. You can call me Zo, too.(そう。ゾーって呼んでくれてもいいわよ)」
「オーケー! ナイス・トゥ・ミート・ユー!」
「Nice to meet you, Toki……haru?(よろしくね、トキ……ハル?)」
「あ、トキでいいよ!」
時春は自分を指差した。
「コール・ミー、トキ!」
「Toki? Got it!(トキ? オーケー、覚えたぜ!)」
ジェイクがにやりと笑う。
「Alright, Toki! Welcome to CBA!(よし、トキ! CBAへようこそ!)」
「サンキュー!」
こうして時春は、エマの友達であるジェイクとゾーイにも出会った。
ジェイクはとにかく明るく、話し始めると止まらないタイプらしい。ゾーイはそんな彼に慣れているのか、時折呆れた顔をしながらも楽しそうに会話している。そしてエマは、そんな二人の間で自然に笑っていた。
どうやら三人は、かなり仲がいいらしい。
「You can sit here, Toki!(トキ、ここに座っていいよ!)」
エマが近くの空席を指差してくれた。
「サンキュー!」
時春はリュックを下ろし、その席に座った。
ほっと一息。何とか教室に辿り着き、話せる相手までできた。初日としては、なかなか順調じゃないか。
……と思ったのも、束の間だった。
教室の前方で、一人の女性教師が立ち上がった。
「Alright, everyone! Good morning! Let’s get started!(さあ、みんな! おはよう! それじゃあ授業を始めましょう!)」
生徒たちが少しずつ席につく。時春も慌てて背筋を伸ばした。
いよいよ、初めての授業だ。
◇
結論から言おう。
English 9。
意味がわからん。
「Today, we’re going to talk about what makes a story compelling, and how an author’s choice of words can influence the reader’s interpretation……(今日は、物語が読者を惹きつける要素とは何か、そして作者の言葉の選び方が読者の解釈にどう影響するのかについて考えていきましょう……)」
先生が何かを説明している。もちろん英語で。アメリカの学校なのだから当たり前だが、それにしても速い。
最初の自己紹介くらいは理解できた。名前や出身地、夏休みに何をしたか。そこまでは何とかなる。
ところが授業が始まった途端、急に難しくなった。
オーサー。インタープリテーション。コンペリング。
……何ですか、それ。
時春は必死にノートへ単語を書き写した。書いてはいる。書いてはいるのだが、意味はほとんどわかっていない。先生の話を聞きながら書こうとすると、今度は次の説明を聞き逃してしまう。
聞く。考える。書く。
その三つを同時にこなすのが、こんなに難しいとは思わなかった。
日本にいた頃は、授業中に眠そうにしている友達を見て、なんで寝るんだろうと思っていた。
今ならわかる。
これは寝る。
脳みそが勝手に現実逃避しようとしている。
「Now, I’d like you to discuss this question with the person next to you.(それでは、隣の人とこの質問について話し合ってみてください)」
先生がホワイトボードを指差した。そこには英文が一つ映し出されている。
『What makes a character memorable?(印象に残るキャラクターとは、どんなキャラクターか?)』
キャラクター。メモラブル。
……印象に残るキャラクター?
あっ、これなら何となくわかる!
そう思った瞬間、周囲の生徒たちが一斉に話し始めた。
「I think――(私は――)」
「Yeah, but――(うん、でも――)」
「What about――(じゃあ、これは――)」
だめだ。速い。
日本語なら普通に理解できる内容でも、英語になった途端に難しくなる。
時春が固まっていると、隣から小さな声がした。
「トキ?」
エマだった。
「大丈夫?」
「……あんまり」
正直に答えると、エマはくすっと笑った。
「今ね、印象に残るキャラクターってどんな人か、話してみようって」
「あっ! それならわかる!」
「Good!(よかった!) どんなキャラクターが好き?」
「えーっと……」
時春は少し考えた。印象に残るキャラクターなら、アニメにいくらでも思いつく。
「アー……ストロング! アンド、クール!」
「Strong and cool?(強くて、かっこいいキャラクター?)」
「イエス!」
エマは楽しそうに笑った。
「それだけ?」
「……アンド、ファニー!」
「Funny! I like that!(面白いキャラね! いいじゃん!)」
エマは時春の言葉を聞き、ノートに何かを書き込んだ。そのあと、今度はゆっくりとした英語で質問してくれる。
時春は何とか答えようと、頭の中から知っている単語を総動員した。わからないところは日本語で聞ける。エマは意味を教えてくれる。それだけで、さっきまで暗号にしか見えなかった英文が少しずつ理解できるようになった。
……ありがてえ。マジでありがてえ。
時春は心の底から思った。もしエマがいなかったら、初日から完全に沈没していたかもしれない。
やっぱり天使だ。
授業の終わりには、短い文章を書く課題まで出された。
時春は真剣な顔でノートを見つめた。英語を書くこと自体は、そこまで苦手ではない。文法も勉強してきた。ただ、頭の中で日本語を英語に変換しているため、どうしても時間がかかる。
一文書いて、消す。もう一度書いて、また消す。
隣ではエマがすらすらと文章を書き進めている。
……すごいなあ。
これがネイティブというやつか。
やがて、授業終了を知らせるチャイムが鳴った。
「Alright, that’s all for today! See you next class!(はい、今日はここまで! また次の授業で会いましょう!)」
先生が笑顔で言う。生徒たちが一斉に荷物をまとめ始めた。
時春も大きく息を吐いた。
「……終わったぁ」
たった一コマ。それだけなのに、妙に疲れた。バスケで走り回ったあととは、また違う疲労感だ。
頭が疲れるって、こういうことなのか。
「You did good, Toki!(よく頑張ったね、トキ!)」
エマが笑顔で親指を立ててくれた。
「サンキュー!」
時春はほっとして笑った。
するとジェイクが何かを言いながら近づいてきた。
「Man, that was a lot of writing for the first day!(いやあ、初日から書かせすぎだろ!)」
「Tell me about it.(まったく、その通りね)」
ゾーイが肩をすくめる。
ジェイクは時春を見た。
「You okay, Toki?(大丈夫か、トキ?)」
「あ、イエス!」
「Good! Ready for the next one?(よかった! じゃあ、次の授業もいけるな?)」
次。
そうだ。まだ授業は始まったばかりだった。
時春はスマートフォンで時間割を確認する。
次の科目は――。
『Geometry』
数学。
それを見た瞬間、時春の顔が少し明るくなった。
おっ。数学じゃん。
これなら、いけるかもしれない。
「Hey, what’s your next class?(なあ、次は何の授業だ?)」
ジェイクが尋ねてくる。
「ジオメトリー!」
「Wait, seriously?(待て、マジで?)」
ジェイクが目を丸くした。
「Us too!(俺たちもだぜ!)」
「えっ!?」
時春はエマを見る。エマも嬉しそうに頷いた。
「そう! 次も一緒!」
「マジ!?」
「うん!」
これは嬉しい。英語の授業を乗り切れただけでもありがたいのに、次の授業まで同じとは。
エマは笑いながら、時春のリュックを指差した。
「一緒に行こ! 今度は迷わないように!」
「……はい!」
時春は少し照れくさそうに頭をかいた。
隣でジェイクが何かを言い、ゾーイが笑う。何を言われたのかはわからなかったが、たぶん道に迷ったことをからかわれたのだろう。
まあ、仕方ない。事実なのだから。
こうして時春は、エマ、ジェイク、ゾーイの三人と一緒に次の教室へ向かった。
◇
Geometry。日本語でいえば、幾何学。主に図形や角度、面積などを扱う数学の授業だ。
時春にとって、数学は昔から得意科目だった。数字には国境がない。日本でもアメリカでも、一足す一は二だし、三角形の内角の和は百八十度である。
少なくとも、英語の長文を読むよりはずっと気が楽だ。
……そう思っていた。
「Alright, everyone. Let’s start with a quick review of some basic geometric concepts before we move on to proofs.(さあ、みんな。証明問題に進む前に、まずは幾何学の基本を軽くおさらいしておこう)」
先生が話し始める。
時春は固まった。
ごめん。やっぱり何言ってるかわかんない。
ベーシック。ジオメトリック。プルーフ。
ところどころ単語は拾えるが、それを文章として理解するのはまた別問題だ。
時春はノートを開き、先生の説明を必死に追いかける。だが、しばらくするとホワイトボードに図形が描かれ始めた。
三角形。平行線。角度を表す数字。そして、アルファベットの書かれた点。
「……あっ」
時春の表情が変わった。
わかる。
何を説明しているのか、わかるぞ。
先生の英語は相変わらず速い。けれど、ホワイトボードに描かれた図形は見慣れたものだった。合同、相似、角度、比。日本で勉強した内容が、次々と頭の中に浮かんでくる。
英語の説明を全部理解しなくても、数字と図形を見れば何をしているのか大体わかる。
……おお。
数学、すげえ。
時春はちょっと感動した。世界共通語って、英語じゃなくて数学だったのかもしれない。
「Okay, let’s try this one.(よし、じゃあこの問題を解いてみよう)」
先生が新しい問題をホワイトボードに映し出した。
大きな三角形の中に、底辺と平行な線が一本引かれている。辺の長さがいくつか示され、残りの長さを求める問題らしい。
周囲の生徒たちがノートを開く。
時春も問題を眺めた。
……あれ?
これ、相似じゃん。
対応する辺の比を使えば、すぐに解ける。
時春はシャープペンシルを走らせた。式を書き、数字を代入し、計算する。
……うん、できた。
顔を上げると、先生はまだ黒板の前で説明していた。周囲の生徒たちはみんな真剣な顔で問題を解いている。隣のエマも、眉間に小さく皺を寄せていた。
「……Hmm……(……うーん……)」
ノートに数字を書き、消しゴムで消す。もう一度書く。また消す。
……あれ? もしかして、苦戦してる?
時春がそんなことを考えていると、先生が教室を見回した。
「Anyone got an answer?(誰か、答えがわかった人は?)」
アンサー。答え。これはわかる。
時春は少し迷ってから、そっと手を上げた。
先生の視線がこちらへ向く。
「Yes? You in the back.(はい、そこの後ろの君)」
時春は立ち上がり、ホワイトボードの問題を指差しながら答えを口にした。
「アー……トゥエルブ!」
十二。
先生は一瞬、目を丸くした。
「Twelve?(十二?)」
「イエス!」
「Already?(もう解けたのかい?)」
「……?」
先生が少し笑う。
「Alright, come show us how you got it.(よし、じゃあ前に出て、どうやって解いたのか見せてくれ)」
……ん?
カム? ショウ?
時春が固まっていると、先生はホワイトボードの前を指差した。
あっ。前に来いってこと?
まさかの黒板に書くやつか。
時春は少し緊張しながら教室の前へ向かった。渡されたマーカーを握り、ホワイトボードに二つの三角形の対応する辺を書き込む。そして比の式を作り、計算を進め、最後に答えを書いた。
『x = 12』
先生はそれを見て、満足そうに頷いた。
「Exactly right! Nice work!(大正解だ! よくやった!)」
おっ。褒められた。
「サ、サンキュー!」
「What’s your name?(君、名前は?)」
「トキハル・タカヤマ!」
「Tokiharu. Great job, Tokiharu.(トキハルか。見事だったよ、トキハル)」
先生が笑顔で言うと、教室のあちこちから小さな声が上がった。
「Whoa, that was fast.(うわ、めっちゃ速かったな)」
「He already knew that?(あいつ、もう解き方知ってたのか?)」
「Nice.(やるじゃん)」
時春は何となく照れくさくなり、足早に席へ戻った。
「Toki!(トキ!)」
ジェイクが身を乗り出してきた。
「Dude! How did you do that so fast!?(おいおい! どうやったらあんな速く解けるんだよ!?)」
「えっ?」
「That problem! You finished it in, like, thirty seconds!(さっきの問題だよ! 三十秒くらいで解いちまったじゃん!)」
「アー……」
どう説明すればいいんだろう。えーっと、相似を使って……相似って英語で何だ?
困っていると、エマがノートを差し出した。
「トキ、これ教えてくれる?」
「あ、うん!」
時春はエマのノートを覗き込んだ。途中までは合っている。ただ、対応する辺の位置を取り違えているようだった。
「あ、ここ!」
時春はノートを指差した。
「ディス……アンド、ディス!」
「These two?(この二つ?)」
「イエス! セイム……レイシオ!」
比。確か、レイシオだったはずだ。
時春は図形の対応する辺を線で結び、簡単な式を書いた。
エマが目を丸くする。
「Oh! Wait, I get it!(あっ! 待って、わかった!)」
「わかった?」
「うん! そういうこと!?」
エマは嬉しそうに笑った。
「トキ、すごい!」
「えっ、いや、そんな……」
日本語で褒められると、妙に照れくさい。しかも相手は、あのエマだ。
ちょっと嬉しい。
いや、かなり嬉しい。
すると、今度はジェイクが椅子ごと近づいてきた。
「Me too! Me too! Help me!(俺も! 俺も頼む! 助けてくれ!)」
「えっ?」
ジェイクのノートを見る。
……白い。
びっくりするほど白い。
問題文は写してある。それだけ。あとは何も書かれていない。
おい。せめて何か書けよ。
ジェイクは申し訳なさそうに笑った。
「I’m terrible at math, man. Like, seriously terrible.(俺、数学が壊滅的にダメなんだよ。いや、マジでシャレにならないくらい)」
「……オーケー!」
時春は苦笑しながら、ジェイクのノートにも図形を書き始めた。まず対応する辺を探し、そこから比を作って計算する。
するとジェイクは、大げさに目を見開いた。
「WAIT! That’s it!?(待て待て! それだけでいいのか!?)」
「イエス!」
「Dude! Why didn’t the teacher explain it like that!?(おい! なんで先生もそうやって説明してくれないんだよ!?)」
いや、たぶん先生も説明してたと思うけど。
時春は心の中でそう突っ込んだ。
そのやり取りを見ていたゾーイも、興味深そうにノートを差し出してきた。
「Okay, genius. What about this one?(ねえ、天才くん。じゃあ、これはどう?)」
「えっ?」
「This one. I keep getting the wrong answer.(この問題よ。何回やっても答えが合わないの)」
ゾーイのノートには、きちんと途中式が書かれていた。ただ、最後の計算で符号を間違えている。
「あ、ヒア!」
時春が指差すと、ゾーイはすぐに気づいた。
「Oh my god. A minus sign? Seriously?(嘘でしょ。マイナスの符号? たったそれだけ?)」
そして、呆れたように額を押さえる。
「I hate math.(ほんっと、数学って嫌い)」
わかる。そういうミス、あるよね。
時春は思わず笑った。
すると今度は、近くに座っていた別の生徒まで声をかけてきた。
「Hey, can you check mine too?(なあ、俺のも見てくれない?)」
「えっ?」
「I think I messed something up.(どっかで間違えたみたいなんだ)」
「あ、オーケー!」
時春はノートを受け取り、問題を見る。
また相似だ。これなら大丈夫。
その後も、何人かの生徒に問題を聞かれた。時春は英語で説明することこそ苦手だったが、図形を書き、数字を使えば何とか伝えられた。むしろ、英語をあまり使わなくていい分、さっきの授業よりずっと楽しい。
気づけば、周囲には小さな人だかりができていた。
「Toki, you’re a genius!(トキ、お前天才だよ!)」
ジェイクが大げさに両手を広げる。
「A freaking genius!(マジもんの天才だぜ!)」
「いやいやいや!」
時春は慌てて手を振った。
そんな大したことはしていない。少なくとも、日本では普通に習う範囲の問題だ。
だが、ジェイクの興奮は収まらない。
「Emma! We found our math guy!(エマ! 俺たち専属の数学の天才を見つけたぞ!)」
「I know!(ほんとだね!)」
エマが笑う。
「He’s amazing!(トキ、すっごいよ!)」
「And he’s sitting with us from now on. No arguments!(しかも今日から俺たちの席に決定だ! 異論は認めねえ!)」
「Jake, you’re being dramatic.(ジェイク、大げさすぎるって)」
ゾーイが呆れたように言った。しかし、その口元も少し笑っていた。
……何だか、すごいことになってきたぞ。
ついさっきまで、英語の授業で何もわからず固まっていたのに、今度はみんなに数学を教えている。
何この落差。
アメリカの高校生活、忙しすぎない?
時春は苦笑しながら、再びノートへ視線を落とした。
すると隣で、エマが小さな声で言った。
「ねえ、トキ」
「ん?」
「また数学、教えてくれる?」
エマは少し照れくさそうに笑った。
「私、数学ちょっと苦手なんだ」
「もちろん!」
時春は即答した。
いや、だって。英語の授業では散々助けてもらったのだ。これくらい、いくらでも教える。
「じゃあ、俺は英語教えてもらっていい?」
「Of course!(もちろん!)」
エマはにっこり笑った。
「Deal!(約束ね!)」
そう言って、小指を差し出してくる。
……ん?
指切り?
アメリカでもやるんだ、これ。
時春は少し驚きながら、自分の小指を絡めた。
「ディール!」
二人は顔を見合わせて笑った。
その向こうで、ジェイクが何やらにやにやしていたことには、時春は気づかなかった。
◇
それからも授業は続き、時春は初めてのアメリカの高校生活にすっかり圧倒されていた。
教室を移動するたびに見知らぬ生徒が現れ、廊下では誰かが大声で笑っている。教室では先生が冗談を言い、生徒たちは遠慮なく質問をする。
日本にいた頃とは、何もかもが違った。
もちろん、困ることも多い。先生の英語が聞き取れず、教科書のページを間違えたこともあった。教室の移動では、また道を一本間違えそうになった。
でも、そのたびに誰かが助けてくれた。
特に、エマたち三人には随分と世話になった。ジェイクはとにかくよく喋る。時春が理解できていようがいまいが、お構いなしだ。ゾーイはそんな彼を止めたり、時春に簡単な言葉で説明したりしてくれる。
そしてエマは、時々日本語を交えながら、時春が会話についてこられているか気にかけてくれた。
ありがたい。実にありがたい。
今朝、道に迷ったときはどうなることかと思ったが、終わってみれば悪くない一日だった。
……いや、かなりいい一日かもしれない。
少なくとも、友達ができた。しかも三人も。
ラリーに報告したら驚くだろうか。
いや、あいつなら「Good for you(そりゃよかったね)」とか言いながら、またゲームに戻りそうだ。
そんなことを考えているうちに、放課後を迎えた。
◇
「Hey, Toki!(よう、トキ!)」
校舎を出たところで、ジェイクに呼び止められた。
夕方のキャンパスには、まだ多くの生徒が残っていた。中庭のベンチで話す生徒もいれば、スポーツバッグを肩にかけて体育館へ向かう生徒もいる。日差しは相変わらず強いが、海から吹いてくる風が心地よかった。
「You got Instagram?(お前、インスタやってる?)」
「インスタグラム?」
「Yeah! Insta!(そう! インスタ!)」
「あ、イエス!」
時春はスマートフォンを取り出した。
もちろん、Instagramくらい使っている。日本にいた頃から、友達との写真やバスケの動画を時々投稿していた。
ジェイクは嬉しそうに笑った。
「Nice! Let’s follow each other!(いいね! 相互フォローしようぜ!)」
「オーケー!」
時春がアカウントを開くと、ジェイクはすぐに自分のスマートフォンを取り出した。
「Here, that’s me!(ほら、これが俺!)」
画面を見せてくる。
時春はそのプロフィールを覗き込んだ。
「…………」
何だこれ。
アイコンは、変顔。いや、変顔というか、もはや人間の顔の原形を留めていない。目を見開き、口を大きく開け、顔が異常に引き伸ばされている。
投稿一覧もひどかった。友達と撮った写真、謎のダンス動画、巨大なピザを前にした自撮り。そして、芝生の上に倒れ込んでいる本人の写真。
キャプションには『I survived Monday(月曜日を生き延びた)』と書かれていた。
月曜日を生き延びた。
……何と戦ってたんだよ。
「……ジェイク」
「Yeah?(ん?)」
「……ファニー」
「HAHA! Thanks, bro!(ハハハ! ありがとな、相棒!)」
ジェイクは満足そうに笑った。
……バカだ。
こいつ、絶対バカだ。
でも、何だか憎めない。
「Me too!(私も!)」
ゾーイもスマートフォンを取り出した。
彼女のアカウントには、街の風景や海辺の写真が並んでいた。夕暮れの海、カフェの窓際、学校の行事らしき写真。どれも構図がきれいで、雰囲気がある。
「ワオ……ナイス・フォト!」
「Thanks! I like photography.(ありがと! 写真撮るのが好きなの)」
ゾーイは少し嬉しそうに笑った。
ジェイクとはずいぶん違う。同じInstagramでも、ここまで差が出るものなのか。
そして。
「トキ、私も!」
エマが隣からスマートフォンを差し出してきた。
「あっ、うん!」
時春は少し緊張しながら、彼女のアカウントを開いた。
……うわ。
やっぱりおしゃれだ。
プロフィール写真は、海を背景に微笑むエマ。投稿一覧には、友達と撮った写真やカフェのスイーツ、ビーチでの風景が並んでいる。夕暮れの海を背にした写真、大きなサングラスをかけて笑っている写真、友達と並んでピースしている写真。どれも自然体なのに、何だか雑誌みたいだった。
しかも、フォロワーが多い。
……すご。
やっぱり人気者なんだな。
時春は自分のアカウントを見た。体育館の写真、バッシュの写真、友達と撮った写真、それからバスケットボールの動画。
……うん。
男子高校生って感じだ。
いや、まだ男子高校生になったばかりなんだけど。
「Oh!(あっ!)」
エマが時春のプロフィールを見て声を上げた。
「トキ、バスケットボールやってるの?」
「えっ?」
時春は画面を覗き込む。
そこには、日本にいた頃のバスケットボール部の集合写真が映っていた。試合後、ユニフォーム姿で撮った一枚。みんな汗だくで、何人かは変顔をしている。
懐かしい。
まだ一週間しか経っていないのに、妙に昔のことのように感じた。
「あ、うん! バスケやってる!」
「Really? That’s cool!(ほんと? かっこいいじゃん!)」
エマは興味深そうに画面を見つめた。
すると、隣からジェイクが顔を突っ込んできた。
「Wait, you play basketball!?(待て、お前バスケやるのか!?)」
「イエス!」
「No way! Like, on a team?(マジかよ! ちゃんとチームに入ってたのか?)」
「イエス!」
「That’s awesome, dude!(すっげえじゃん、お前!)」
ジェイクはやたらと興奮している。
時春は少し笑った。この男、リアクションがいちいち大きい。
エマが日本語で尋ねてくる。
「じゃあ、こっちでもバスケするの?」
「うん! そのつもり!」
「ブレイカーズ?」
「そう!」
「わあ、すごい!」
エマの顔が明るくなる。
「うちのバスケチーム、結構有名なんだよ!」
「そうなんだ!」
時春は少し嬉しくなった。
ブレイカーズ。CBAに来てから、何度もその名前を目にしている。体育館の壁、学校のパンフレット、廊下に飾られた過去の写真。
まだ正式にチームへ入れたわけではないが、こうして名前を聞くと、やっぱり胸が高鳴る。
「トキは、どうしてCBAに来たの?」
エマが尋ねた。
「えっ?」
「留学したかったから? それとも、バスケットボール?」
「あー……」
時春は少し考えた。
どう説明すればいいだろう。
「えっとね、日本でバスケの試合をしてたときに、ここのコーチが見てくれたんだ」
「Really?(ほんとに?)」
「うん。それで、こっちの学校に来ないかって話になって……」
「Wait, you were scouted!?(待って、それってスカウトされたってこと!?)」
エマが驚いたように目を丸くした。
スカウテッド。ああ、スカウトされたのかってことか。
時春は少し照れくさくなりながら頷いた。
「うん……まあ、そんな感じ!」
「That’s amazing!(すごいじゃん!)」
エマが嬉しそうに笑う。
ジェイクも目を見開いた。
「Dude! You got scouted all the way from Japan!?(おいおい! わざわざ日本からスカウトされたってのか!?)」
「アー……イエス!」
「That’s insane!(マジかよ! とんでもねえな!)」
何やら興奮している。
時春は思わず苦笑した。
確かに、珍しいことなのかもしれない。でも、まだ何かを成し遂げたわけではない。ただ、チャンスをもらっただけだ。
ここから先は、自分の実力で何とかしなければならない。
「So, are you gonna play varsity?(それで、一軍でプレーするつもりなの?)」
ゾーイが尋ねた。
「バーシティ……」
聞き覚えのある単語だ。確か、高校の一軍チームのことだったはず。
「アー……アイ、ウォント・トゥ!」
時春は頷いた。
入りたい。もちろん、入りたい。それが、まず最初の目標だ。
ゾーイは感心したように頷いた。
「That’s cool. Good luck!(いいじゃない。頑張ってね!)」
「サンキュー!」
エマも笑顔を向けてくれた。
「トキならできそう!」
「いやいや、まだわかんないよ!」
「でも、頑張ってね!」
「うん!」
時春は笑った。
そして、ふと思った。
……NBAのことは、まだ言わなくていいか。
本当の夢は、NBA選手になること。世界最高峰のリーグでプレーすること。日本では何度も口にしてきた夢だ。
でも、アメリカへ来てみると、その言葉が急に大きく感じられる。
ここには、自分よりずっと背の高い選手がたくさんいる。体も大きく、運動能力も高い。そんな場所で、百七十センチの日本人がNBAを目指しているなんて言ったら、どう思われるだろう。
笑われるかもしれない。無理だと言われるかもしれない。
もちろん、だからといって夢を諦めるつもりはない。ただ、初めて会ったばかりの友達に話すには、少しだけ勇気が必要だった。
だから、今はまだ。
時春はスマートフォンをポケットへしまい、エマたちに笑いかけた。
「サンキュー!」
それだけで、十分だった。
◇
しばらく話していると、エマが腕時計を見た。
「あっ、もうこんな時間!」
「ん?」
「ごめん、私そろそろ行かなきゃ!」
「えっ、そうなの?」
「うん! ちょっと用事があって」
エマはリュックを肩にかけ直した。
「じゃあ、また明日ね!」
「あ、うん! また明日!」
「Bye, Toki!(バイバイ、トキ!)」
「バイ!」
エマは笑顔で手を振ると、校舎の向こうへ歩いていった。
時春も手を振り返す。
ふわりと揺れる茶色い髪。軽やかな足取り。途中ですれ違った女子生徒に声をかけられ、立ち止まって笑う姿。
……やっぱり可愛いなあ。
時春は何となくスマートフォンを取り出した。さっき交換したばかりのInstagramを開く。画面には、海を背景に微笑む彼女の写真が映っていた。
……いや、ほんとに可愛い。
もう一度、顔を上げる。エマは少し離れたところを歩いている。
また画面を見る。そして、もう一度エマを見る。
……うん。
やっぱり実物の方が可愛いな。
そんなことを考えていた、そのときだった。
「……Heeeeey.(……おやおやぁ〜?)」
「……ん?」
妙に気持ち悪い声が、隣から聞こえてきた。
振り返ると、そこにはにやにやと笑うジェイクがいた。
ジェイクは時春のスマートフォンをちらりと見る。そして、遠ざかっていくエマを見た。さらに、もう一度時春を見る。
「Ooooooh!(おおお〜っ!)」
……何だよ。その顔。
ジェイクは肘で時春の脇腹をつついた。
「Toki~!(トキく〜ん!)」
「な、何?」
「You like Emma, huh?(お前、エマのこと好きなんだろ〜?)」
「…………」
ライク。エマ。
……待て。ちょっと待て。
こいつ今、何て言った?
「No way!(おいおい、マジかよ!)」
ジェイクは楽しそうに笑いながら、もう一度肘でつついてくる。
「Come on, man! I saw that!(隠すなって! 俺、ちゃーんと見てたぜ!)」
「ち、違っ……!」
時春は慌てて首を振った。
違う。
いや、違わないというか。
可愛いとは思ったけど。
別に、まだ会ったばっかりだし。
そもそも、好きとかそういう話じゃ――。
「Oooooh! Toki and Emma!(おおお〜! トキとエマかぁ〜!)」
「お、おい!」
ジェイクが口笛を吹く。
「Wheeeew!(ヒュ〜〜ッ!)」
さらに肘でつついてくる。
「Stop it, Jake.(やめなさいよ、ジェイク)」
ゾーイが呆れたように言った。だが、その顔も少し笑っている。
「You’re embarrassing him.(トキが困ってるでしょ)」
「What? I’m just saying!(何だよ! ちょっと言ってみただけじゃん!)」
ジェイクは悪びれる様子もない。むしろ、ますます楽しそうだ。
「Our boy Toki’s got a crush!(俺たちのトキが恋しちゃったってよ!)」
「…………」
時春の顔が熱くなる。
……くっそ。
こいつ、絶対面白がってるだろ!
何か言い返したい。でも、こういうときに限って英語が出てこない。
やめろ。うるさい。黙れ。
えーっと、英語で何だっけ。
その瞬間、時春の頭に、ある単語が浮かんだ。
そうだ。ラリーが教えてくれた、あの言葉。
先生や知らない人には使うなと言われたが、友達同士なら冗談で使えるらしい。
ならば。
今こそ、使うときだ!
「ジェイク!」
「Yeah?(ん?)」
時春はびしっと指を突きつけた。そして、覚えたての英語を力いっぱい放つ。
「シャラァァァップ!!」
「…………」
一瞬の沈黙。
ジェイクが目を丸くした。ゾーイも驚いたように時春を見る。
……あれ?
もしかして、言っちゃまずかった?
時春が不安になった、その直後。
「PFFFT――HAHAHAHAHA!!(ぶふっ――アハハハハハ!!)」
ジェイクが爆笑した。
「OH MY GOD! TOKI!!(マジかよ! トキ、お前最高だな!!)」
腹を抱えて笑っている。ゾーイも口元を押さえ、肩を震わせていた。
「Where did you learn that!?(どこでそんな言葉覚えたんだよ!?)」
「えっ?」
「WHO TAUGHT YOU THAT!?(誰に教わったんだって!?)」
時春は少し考えた。
誰に教わったか。
そんなの、決まっている。
「……マイ、ルームメイト!」
「Your roommate!?(ルームメイト!?)」
「イエス! ラリー!」
その名前を聞いた瞬間、ジェイクはさらに笑い始めた。
「LARRY!? LARRY NARD!?(ラリー!? ラリー・ナードのことか!?)」
「イエス!」
「NO WAY!(嘘だろ!?)」
ジェイクはとうとう、近くのベンチに手をついて笑い出した。ゾーイも呆れたように首を振っている。
「Of course it was Larry……(そりゃラリーに決まってるわよね……)」
……何だ?
何がそんなに面白いんだ?
時春にはさっぱりわからなかった。
ただ、二人があまりにも楽しそうに笑うので、何だか自分までおかしくなってくる。
「……ははっ」
時春も笑った。
ジェイクはそんな時春の肩を叩き、満面の笑みで言った。
「Dude, you’re hilarious!(お前、マジで面白すぎるぜ!)」
「……サンキュー!」
何を褒められたのかは、よくわからない。
でも、悪い気はしなかった。
こうして、高山時春のアメリカ高校生活初日は、なかなか賑やかに幕を閉じた。
英語の授業では撃沈した。
数学では、思いがけずちょっとしたヒーローになった。
道に迷ったおかげで、可愛い女の子に出会えた。
そして、新しい友達もできた。
……うん。
最高じゃないか。
時春は夕日に照らされたキャンパスを眺めながら、満足そうに笑った。
明日は、どんな一日になるだろう。
少なくとも、今日より英語が聞き取れるようになっていたら嬉しい。
ちなみに、その日の夜、寮に戻ってラリーへ出来事を話すと、彼はメガネを押し上げながら一言だけ呟いた。
「……You said WHAT?(……君、何て言ったって?)」
そして、時春が得意げに「シャラップ!」を披露した瞬間。
「Oh my god, Toki……(ああ、もう……トキ、君ってやつは……)」
ラリーは両手で顔を覆った。
……あれ?
もしかして、使い方間違えた?
どうやら、高山時春の英語教育には、まだまだ改善の余地がありそうだった。