第四クォーター、残り四分二秒。
六十四対六十一。
クレセントベイ・アカデミー、三点リード。
審判からボールが渡されると、時春はサイドラインの外に立ち、コート全体へ視線を走らせた。イーサンの負傷によって中断されていた試合が、ようやく再開されようとしていた。相手選手のリバウンド時の接触がファウルと判定され、ブレイカーズのスローインから始まる。
イーサンに代わってポイントガードを務めるのは、時春だった。
コートにはマイルズ、ノア、マイク、トムが残っている。これまで何度も一緒に練習し、試合でも組んできた仲間たちだった。しかし、今は少し違って見えた。普段ならイーサンが立っている場所に、自分がいる。誰かの指示を待つのではなく、自分が攻撃の始まりを作らなければならないのだ。
時春は喉の奥が乾くのを感じた。
観客席からはまだざわめきが聞こえている。レイヴンズの選手たちはすでに守備の位置につき、ボールが入る瞬間を待ち構えていた。相手の背番号三番のガードは、時春を見るなり腰を落とし、両腕を大きく広げた。
小柄な日本人にボールを運ばせる。
そこを狙うつもりなのだろう。
時春は一度だけ深く息を吸った。
大丈夫。
いつも通りだ。
審判の合図に合わせてマイクが動き、時春は彼へスローインを送った。すぐにコートへ入り直すと、戻ってきたボールを受け取り、ゆっくりとドリブルを始めた。
相手のガードがすかさず距離を詰めてくる。
しかし、時春は慌てなかった。
左手でボールをつき、相手との距離を確かめながらセンターラインを越える。背中側へ一度ボールを回すと、ディフェンダーはそれにつられるように足を動かした。時春は無理に抜こうとせず、再び正面を向いて仲間たちへ手で合図を送った。
「落ち着いていこう!」
自分でも驚くほど、はっきりとした声が出た。
マイルズが頷き、ノアは左コーナーへ移動する。マイクは右サイドへ広がり、トムはゴール下で相手のセンターと位置を争っていた。
スコアボードの時計が少しずつ減っていく。
リードしているのはこちらだ。
今、無理に攻める必要はない。
時春はショットクロックを確認した。まだ時間は十分に残っている。レイヴンズのガードは素早くボールを奪おうとしてきたが、時春は低いドリブルでボールを守りながら、慎重に攻撃の形を整えていった。
ベンチではヘイズコーチが腕を組み、じっとコートを見つめていた。
時春が急がずに時間を使っているのを確認すると、小さく頷いた。
「……いい判断だ」
コーチは誰にともなく呟いた。
三点差のリードを持つ終盤で、相手の守備が激しくなっている。ここで焦ってシュートを打てば、外した瞬間に速攻を許す可能性がある。できる限り攻撃時間を使い、確実なシュート機会を作ることが重要だった。
時春はそのことを理解していた。
イーサンから何度も教わってきたからだ。
残り十秒。
時春はマイルズへ視線を送った。
マイルズがすぐに動く。
大きな体で相手ガードの進路を塞ぎ、しっかりとスクリーンをセットした。
「Go!」
マイルズの声が響いた。
時春はその横を鋭く抜けた。
ピック・アンド・ロール。
マイルズのスクリーンによって相手ガードが遅れ、時春は一瞬だけ自由なスペースを手に入れた。しかし、レイヴンズのセンターがすぐにヘルプへ出てくる。時春がゴールへ向かうと、その大きな体が進路を塞いだ。
同時に、マイルズがスクリーンから体を反転させ、ゴール下へ走り込む。
相手のフォワードが慌ててマイルズを止めようとした。
その瞬間、右サイドに立っていたマイクが空いた。
時春の目が、そこを捉えた。
「マイク!」
鋭いキックアウトパス。
ボールはディフェンダーの横を抜け、マイクの胸元へ正確に届いた。
マイクは迷わずシュートモーションに入った。
スリーポイント。
ボールが高い弧を描く。
観客席から歓声が上がりかけた。
しかし。
ガンッ!
シュートはリングの後ろ側に当たり、大きく跳ね返った。
「REBOUND!!」
レイヴンズの選手たちが一斉に動いた。
だが、その誰よりも高い位置に腕を伸ばしていた選手がいた。
トム・ウェイクだった。
相手のセンターがボールへ跳びついた瞬間、トムの長い腕がその上から伸びた。大きな手がボールを掴み、落下する勢いをそのまま利用して、ゴールへ押し込む。
ドンッ!!
リングが大きく揺れた。
「YEAH!!」
ブレイカーズのベンチが一斉に立ち上がった。
六十六対六十一。
五点差。
トムが着地すると、マイルズがすぐに駆け寄り、力強く背中を叩いた。
「NICE、トム!」
「うん!」
普段は控えめなトムも、このときばかりは嬉しそうに拳を握った。
時春も笑顔で駆け寄った。
「ナイスリバウンド!」
「トキのパスもよかったよ」
「いや、マイク外したからな〜」
時春が笑うと、マイクが無表情のまま肩をすくめた。
「次は入れる」
短い笑いが起こったが、すぐに全員の表情が引き締まった。
残り時間は、まだ三分以上ある。
レイヴンズが簡単に諦めるはずはなかった。
◇
次の守備で、時春は自分へ言い聞かせていた。
無理なことはしない。
ボールを奪おうとして飛び込まない。
相手に簡単なドライブを許さない。
自分より背の高いガードと向かい合うとき、時春はつい積極的に手を伸ばしてしまうことがあった。スティールを狙えば、成功したときには一気に速攻へつながる。しかし、読みを外せば体を抜かれ、背後の仲間へ余計な負担をかけることになる。
今は、それをする場面ではなかった。
レイヴンズの背番号三番がボールを運んでくる。
時春は低く腰を落とし、相手との距離を慎重に保った。
右へドリブルをつく。
時春も右へ動く。
相手が鋭く左へ切り返すと、時春は細かなステップで対応した。腕を伸ばしてボールを奪おうとはせず、体の正面へ相手を入れ続けることに集中する。
できる限り、ゴール下へ行かせない。
マイルズがいるとはいえ、相手に簡単なレイアップを打たせるわけにはいかなかった。
「いいぞ、トキ!」
背後からマイルズの声が聞こえる。
相手ガードは一度ドライブを諦め、右ウイングのフォワードへパスを送った。
そこからさらにボールが動き、背番号二十四番のフォワードがゴール下へ入ろうとする。
マイルズが体を寄せた。
レイヴンズのフォワードは強引に背中で押し込み、ゴールへ向かってターンした。大きな体を使って距離を詰め、そのまま右手でシュートを放つ。
しかし、マイルズの守備は崩れなかった。
腕を高く上げ、相手のシュートコースへしっかりとプレッシャーをかける。
ガンッ!
ボールはリングの手前側へ当たった。
その瞬間、マイルズが跳び上がった。
両手でボールを掴み、しっかりと胸元へ引き寄せる。
ディフェンスリバウンド。
そして、その頃にはもう、時春は走り出していた。
相手のフォワードがシュートを打った瞬間、時春はボールの軌道を見ていた。マイルズがリバウンドを取れると判断するや否や、相手ガードの横をすり抜けて前方へ駆け出していたのである。
「MILES!」
時春の声が響いた。
マイルズが顔を上げる。
次の瞬間、鋭いアウトレットパスが放たれた。
※アウトレットパス:リバウンドを取った選手が、速攻を始めるために前方の味方へ素早く出すパス。相手の守備が整う前に攻撃できるため、ファストブレイクの重要な起点になる。
ボールはコートの中央を一直線に飛び、走り込む時春の手元へ届いた。
時春は減速することなくボールを受け取り、そのままリングへ向かった。
目の前には、ほとんど誰もいなかった。
追いかけてくる相手ガードの足音が背後から聞こえる。しかし、今の時春には十分な距離があった。
最後の一歩で大きく踏み切る。
右手でボールを持ち上げ、バックボードの四角い枠へ向かって優しく放った。
トンッ。
ボールはバックボードへ当たり、ゆっくりとリングへ落ちた。
「YEAHHHH!!」
ブレイカーズのベンチが爆発した。
六十八対六十一。
七点差。
時春は着地すると、思わず両手を握り締めた。
「よっしゃあ!!」
観客席からも歓声が上がっていた。
「トキーーー!!」
エマが立ち上がって叫ぶ。
隣ではジェイクが両手を振り回し、ゾーイも嬉しそうに拍手している。
「やった! やったじゃん!」
ジェイクは興奮した様子で叫んだ。
コートへ戻ってきたマイルズは、時春の背中を強く叩いた。
「Nice run、トキ!」
「ナイスパス、マイルズ!」
二人は拳を合わせた。
マイルズのリバウンドから、時春の速攻。
わずか数秒で生まれた得点だった。
そして何より、相手が攻撃の態勢を整える前に走り出した時春の判断が、ブレイカーズへ大きなリードをもたらしていた。
◇
しかし、レイヴンズも強豪校だった。
七点差をつけられた直後、相手の背番号三番が素早くボールを運び、右サイドからスリーポイントを沈めた。時春は必死に距離を詰めたが、相手のシュートはわずかに早く、伸ばした手の先を越えていった。
六十八対六十四。
残り二分五十四秒。
あっという間に四点差へ戻された。
「切り替えろ!」
マイルズの声が響いた。
時春は大きく頷いた。
自分が得点を決めたからといって、試合が終わったわけではない。一瞬でも気を抜けば、相手はすぐに追いついてくる。
時春は再びボールを受け取り、慎重にドリブルを始めた。
レイヴンズはここから、さらにプレッシャーを強めてきた。
背番号三番が時春へ激しく体を寄せ、センターライン付近では二人目のディフェンダーまで近づいてくる。時春が少しでもボールを高くつけば、そこを狙って奪おうとするつもりだった。
しかし、時春は無理にドリブルで突破しようとはしなかった。
マイクへ短いパスを送り、すぐに空いた場所へ走る。マイクから戻ってきたボールを受け取ると、今度はマイルズへ送った。
パスが三本、四本とつながっていく。
相手は必死に追いかけるが、ブレイカーズはボールを止めなかった。
残り時間を使いながら、少しずつ相手の守備を広げていく。
そして、時春が左サイドでボールを受けたときだった。
ノアがゴール下へ向かって走り込んだ。
時春はすぐにその動きを見つけた。
相手のフォワードがノアを追いかける。
しかし、その一歩が遅れていた。
「NOAH!」
時春は鋭いパスを送った。
ノアは走りながらボールを受け取り、大きな一歩でゴールへ踏み込んだ。
ディフェンダーが跳び上がる。
しかし、ノアは体を空中でわずかにひねり、相手の腕をかわすようにボールを放った。
シュッ。
レイアップが決まった。
「AND THAT’S TWO!!」
ノアが叫ぶ。
七十対六十四。
残り二分二十二秒。
再び六点差となった。
時春はノアと拳を合わせながら、思わず笑った。
「ナイスシュート!」
「お前のパスのおかげだぜ、リトルマン!」
ノアは豪快に笑った。
だが、すぐに守備へ戻りながら表情を引き締めた。
レイヴンズは、まだ諦めていなかった。
◇
残り二分を切ると、両チームの攻防は一層激しさを増した。
レイヴンズの背番号二十四番がゴール下で粘り強くボールを受け、マイルズの守備をかわしてシュートを決める。七十対六十六。再び四点差となり、相手の応援席から大きな歓声が上がった。
ブレイカーズは次の攻撃で時間を使い、確実なシュートを狙ったが、マイクのミドルシュートはわずかにリングを外れた。リバウンドを奪ったレイヴンズはすぐに速攻へ移り、時春も懸命に戻ったものの、相手ガードに右サイドから切り込まれてしまった。
しかし、ゴール下にはマイルズが待っていた。
「NO!」
マイルズが大きく声を上げ、両腕を広げる。
相手ガードはレイアップを放ったが、その直前にマイルズの長い腕が伸びた。ボールは彼の指先に触れ、バックボードへ当たって跳ね返った。
「BLOCK!!」
ノアの声が響いた。
トムがこぼれ球を拾い、マイクへパスを送る。
ブレイカーズは再びボールを確保した。
残り一分を切っていた。
ここでヘイズコーチがタイムアウトを要求した。
選手たちがベンチへ戻ってくると、コーチはすぐにホワイトボードを取り出した。
「いいか、残り一分を切った。四点差だ。まだ勝ったと思うなよ」
「YES, COACH!」
選手たちが答える。
「相手はここからファウルを使ってでもボールを取りにくる。無理なパスはするな。確実にボールをつなげ。フリースローになったら、一本ずつ落ち着いて決めろ」
ヘイズはそこで時春へ視線を向けた。
「トキ」
「はい!」
「よくやっている。お前の判断は悪くない。そのまま続けろ」
時春は胸の奥が熱くなるのを感じた。
「Yes, Coach!」
「ただし、最後まで集中しろ。今の点差なら、一度のターンオーバーで流れが変わる」
「わかりました!」
時春は力強く答えた。
マイルズがそばへ近づいてきた。
「いいか、トキ。ボールが詰まったら俺に預けろ。無理に一人で運ぶ必要はねえからな」
「うん!」
「お前は今まで通りやればいい」
マイルズはそう言って、時春の肩を軽く叩いた。
その言葉は、不思議なほど心強かった。
イーサンがいない。
それでも、コートには仲間がいる。
自分一人で何もかも背負う必要はないのだ。
◇
試合再開。
残り五十八秒。
ブレイカーズボール。
時春は慎重にスローインを受け取り、マイルズのスクリーンを利用してセンターラインを越えた。レイヴンズのガードは激しくプレッシャーをかけてきたが、時春は体を低くし、ボールを守りながらドリブルを続けた。
相手が二人で囲もうとした瞬間、マイルズへパスを送る。
マイルズはボールを受け取り、すぐに反対側へ展開した。
そこにはノアがいた。
ノアは一瞬だけシュートを狙うように体を向けたが、ディフェンダーが前へ出てきたのを見て、素早く右へ切り込んだ。
相手のセンターがゴール下へ戻ろうとする。
しかし、ノアの加速がわずかに勝っていた。
大きな一歩でリングへ向かい、力強いレイアップを決める。
七十二対六十六。
残り三十八秒。
「LET’S GOOOO!!」
ノアが叫んだ。
観客席からは大きな歓声が上がり、ブレイカーズのベンチでもライアンとジェイスが飛び跳ねていた。
それでも、レイヴンズは最後まで攻撃を続けた。
残り二十秒、相手のガードが鋭いドライブからシュートを決め、再び四点差へ迫る。
七十二対六十八。
レイヴンズはすぐにファウルを使って時計を止めようとした。
ブレイカーズはスローインからボールをつなぎ、最終的にマイクがファウルを受けた。
フリースロー。
マイクは落ち着いた表情でボールを受け取り、二本とも確実に沈めた。
七十四対六十八。
残り十三秒。
六点差。
レイヴンズには、もはやほとんど時間が残されていなかった。
それでも相手のガードは最後の攻撃を仕掛け、ゴールへ向かって全力でドライブした。時春も必死に追いかけ、マイルズはゴール下で最後の守備に備えていた。
相手がシュートを放つ。
しかし、そのボールはマイルズの伸ばした腕に阻まれ、リングへ届かなかった。
ノアがこぼれ球を掴む。
レイヴンズの選手が追いかけてくるが、ノアは無理に攻撃せず、ボールをしっかりと抱えたまま時間を使った。
そして。
ブザーが鳴った。
試合終了。
最終スコア、七十四対六十八。
ブレイカーズの勝利だった。
◇
「YEEEEAAAHHH!!」
ノアの叫び声が体育館に響き渡った。
ブレイカーズのベンチから選手たちが一斉に飛び出し、コートの中央へ駆け寄ってくる。
ライアンとジェイスが飛び跳ね、トムが嬉しそうに拳を握る。マイクも珍しく大きな笑顔を浮かべていた。
時春はしばらく、その光景を呆然と眺めていた。
勝った。
本当に、勝ったのだ。
イーサンが負傷し、残り四分というもっとも厳しい時間帯でコートへ送り出された。最初は心臓が飛び出しそうなほど緊張していたが、気がつけば夢中で走り続けていた。
ボールを運び、パスを出し、守り、走った。
仲間たちと声をかけ合いながら、目の前のプレーに集中していた。
そして今、ブレイカーズは決勝進出を決めたのである。
「トキィィィ!!」
ノアが大声で叫びながら駆け寄ってきた。
「うわっ!?」
次の瞬間、時春の体がふわりと浮いた。
ノアが彼を抱き上げていた。
「お前、やったじゃねえか!!」
「ちょ、ちょっとノア! 降ろして!」
「最高だったぜ、リトルマン!!」
ノアは豪快に笑いながら時春を揺らした。
マイルズも駆け寄り、その背中を力強く叩いた。
「よくやった、トキ!」
「マイルズ!」
「お前が落ち着いてボールを運んでくれたおかげで、俺たちも自分のプレーに集中できた。助かったぜ」
時春は思わず目を丸くした。
「……ほんと?」
「当たり前だろ」
マイルズは笑った。
「イーサンだって、きっと喜んでる」
その言葉に、時春は少しだけ胸が詰まった。
嬉しかった。
しかし、それと同時に、イーサンのことが気になった。
あの怪我は大丈夫なのだろうか。目が見えにくいと言っていたが、今はどうしているのだろう。勝利の喜びが広がる中で、そのことだけが心の片隅に残り続けていた。
観客席では、エマとゾーイ、ジェイクが満面の笑みで拍手していた。
「トキ! すごかったよ!」
エマが叫ぶ。
時春は顔を上げた。
そして、大きく手を振った。
「ありがとー!!」
ジェイクも両手を振り回している。
「お前、マジでやるじゃん!!」
ゾーイはその隣で笑いながら拍手していた。
時春は三人の姿を見つめながら、ようやく実感し始めていた。
自分は、あの四分間を戦い抜いたのだ。
しかも、チームを勝利へ導くことができた。
それは、十一月の開幕戦で初めてVarsityのコートへ立った頃には、想像もできなかったことだった。
◇
試合後、ブレイカーズのロッカールームには、勝利の興奮が残っていた。
選手たちは互いのプレーを振り返りながら笑い合い、ノアは何度も時春の速攻について大げさな説明を繰り返していた。
「いや、マジですごかったんだって! マイルズがリバウンド取った瞬間、もうあいつ走ってんだぜ!」
「見てたって!」
ライアンが笑う。
「しかも、相手のガードが全然追いつけなくてさ! あの小さい体でスーッと抜けて……」
「ノア、説明長い!」
時春が抗議すると、ロッカールームに笑い声が起こった。
しかし、ヘイズコーチが入ってくると、選手たちの表情は自然と引き締まった。
「よし。全員、聞け」
コーチは選手たちを見渡した。
「まず、よくやった。厳しい試合だったが、最後まで集中力を切らさずに戦えた。特にイーサンが抜けたあと、チーム全体が崩れなかったことは評価している」
時春は思わず顔を上げた。
ヘイズは続けた。
「トキ。お前もよくやった。落ち着いてボールを動かし、必要な場面では自分で得点した。あの時間帯に新人がコートへ入って、あれだけ冷静にプレーできたのは立派だ」
「……ありがとうございます!」
時春は大きく頭を下げた。
「だが、勘違いするなよ」
ヘイズは少しだけ表情を引き締めた。
「今日勝てたのは、お前一人のおかげじゃない。マイルズの守備、ノアの得点、トムのリバウンド、マイクのシュート、全員の働きがあったからだ」
「Yes, Coach!」
「そうだ。忘れるな」
ヘイズは頷いた。
そして、少しだけ言いにくそうに口を開いた。
「……それから、イーサンのことだ」
ロッカールームが静まり返った。
ノアも笑みを消し、マイルズはまっすぐコーチを見つめていた。
「イーサンは現在、医師の診察を受けている。眉の近くを切って出血したことに加えて、目の周囲に強い腫れが出ている。本人はまだプレーしたがっているが、見え方にも異常があった以上、軽く考えるわけにはいかない」
時春は膝の上で拳を握った。
「明日の決勝戦には出さない。これは決定事項だ」
その言葉が、ロッカールームに静かに響いた。
誰もすぐには声を出さなかった。
イーサンがいない。
それは、ブレイカーズにとって非常に大きな問題だった。
これまでチームの攻撃を組み立ててきた司令塔であり、もっとも経験豊富なガードである。難しい試合でも落ち着いてボールを運び、味方の動きを整理することができる。その存在がどれほど大きかったかを、選手たちは誰よりもよく知っていた。
マイルズが口を開いた。
「……コーチ。イーサンは大丈夫なんですか?」
「今のところ、意識ははっきりしている。だが、目の腫れが引かず、視界にも問題がある状態でプレーするのは危険だ。医師から安全だと判断されるまでは、復帰させない」
「……わかりました」
マイルズは静かに頷いた。
ヘイズは全員の顔を見渡した。
「明日は決勝だ。イーサンがいないからといって、棄権するわけにはいかない。俺たちはここまで勝ち上がってきた。その意味を考えろ」
選手たちは黙って聞いていた。
そして、ヘイズは時春へ視線を向けた。
「トキ」
「……はい!」
「明日は、お前をスターターで使う」
時春の呼吸が止まった。
「……えっ?」
ヘイズははっきりと続けた。
「ポイントガードはお前だ。イーサンの代わりに、試合開始からコートへ立ってもらう」
時春はしばらく言葉を失っていた。
スターター。
先発メンバー。
これまでベンチから試合を見つめ、イーサンに代わって短い時間だけコートへ入っていた自分が、明日は最初から試合に出るというのだ。
しかも、決勝戦である。
時春は思わず唾を飲み込んだ。
「……俺が、ですか?」
「そうだ」
ヘイズは迷わず頷いた。
「今日のプレーを見て決めた。お前ならチームの攻撃を任せられる」
その言葉は嬉しいはずだった。
これまで必死に練習してきたことを、コーチに認めてもらえたのだから。
しかし、時春の胸に広がったのは、喜びだけではなかった。
むしろ、急に大きな責任を背負わされたような気がして、落ち着かなくなっていた。
ヘイズは他の選手たちへも視線を向けた。
「ただし、トキにすべてを背負わせるつもりはない。トキがベンチへ下がる時間帯は、ライアンにボールを運んでもらう」
「Yes, Coach!」
ライアンが真剣な表情で答えた。
「そのときのゲームメイクは、マイルズを中心に組み立てる。ハイポストでボールを受け、そこからノアやマイクへ展開する。必要ならライアンがドライブで仕掛けてもいい」
※ゲームメイク:味方に指示を飛ばし攻撃全体の作戦を組み立てること
※ハイポスト:フリースローライン周辺のエリア
マイルズは大きく頷いた。
「任せてください、コーチ」
「明日は全員でイーサンの穴を埋める。誰か一人が代わりを務めようとするんじゃない。チームとして戦うんだ」
「YES, COACH!!」
選手たちの声が揃った。
ヘイズは最後に大きく頷いた。
「よし。今日はしっかり休め。明日は決勝だ。優勝して帰るぞ」
「YES, COACH!!」
ロッカールームに再び力強い声が響いた。
しかし、時春だけは少し遅れて返事をしていた。
スターター。
その言葉が、頭の中で何度も繰り返されていた。
◇
その日の夜。
クレセントベイ・アカデミーの学生寮は、いつものように静かだった。
廊下には薄い明かりが灯り、窓の外では海から吹いてくる風が木々の葉を揺らしていた。遠くの道路を走る車の音が、ときどき夜の空気を伝わって聞こえてくる。
時春は部屋のベッドに横になっていた。
隣のベッドでは、ラリーがすでに眠っているらしかった。机の上に置かれたパソコンの画面は暗くなり、普段なら夜遅くまで響いているキーボードの音も聞こえない。
時春は天井を見つめていた。
眠れなかった。
疲れていないわけではない。今日の試合ではいつも以上に走り、最後の四分間には全身の力を使い切ったような感覚があった。シャワーを浴び、夕食を食べ、寮へ戻ってきた頃には、今すぐ眠れそうなほど疲れていたはずだった。
しかし、ベッドに入ると、急にいろいろなことを考え始めてしまった。
明日の決勝戦。
イーサンは出られない。
自分がスターターになる。
その事実が、時間が経つほど大きく感じられるようになっていた。
試合直後には、仲間たちから褒められて嬉しかった。ヘイズコーチに先発を告げられたときも、ほんの一瞬は興奮した。日本からアメリカへ来て、Varsityに入り、ついにスターターとして試合に出られるのだ。
本来なら、飛び上がるほど嬉しいことだった。
けれど、今は違った。
今日の四分間は、何とかうまくいった。
でも、明日は?
試合開始から相手のガードと向かい合い、何十分も攻撃を組み立てなければならない。相手は決勝まで勝ち上がってきた強豪校だ。こちらの弱点を狙い、イーサンのいないブレイカーズへ厳しいプレッシャーをかけてくるに違いない。
その中心に、自分が立つのだ。
時春は布団の中で、そっと拳を握った。
指先が、わずかに震えていた。
最初は気のせいかと思った。
しかし、力を抜いても震えは収まらなかった。冷えているわけではない。部屋の暖房は効いているし、毛布に包まれた体は十分に温かかった。
それでも、胸の奥には冷たいものが広がっていた。
時春は目を閉じた。
すると、明日の試合で起こるかもしれない失敗ばかりが浮かんできた。
相手のガードにボールを奪われる。
パスを読まれる。
ディフェンスで狙われる。
自分の判断が遅れ、仲間たちが走っているのにボールを出せない。
ヘイズコーチがベンチで怒鳴る。
マイルズやノアが、困ったような顔をする。
そして、試合終了のブザーが鳴る。
ブレイカーズの敗戦。
その原因が、自分だったら。
時春は思わず目を開けた。
心臓が速く鳴っていた。
今日の試合では、あれほど落ち着いてプレーできたのに。イーサンが肩を叩いてくれたときには、自分ならできると思えたのに。明日のことを考え始めると、どうしても悪い想像ばかりが浮かんできてしまう。
時春は布団を引き上げ、顔の半分を隠した。
静かな部屋の中で、時計の針が小さな音を立てていた。
しばらくして、時春は隣のベッドへ顔を向けた。
「……ラリー、起きてる?」
返事はなかった。
もう眠っているのだろう。
時春は少しだけ後悔した。
こんな時間に話しかけても、迷惑なだけかもしれない。
そう思って再び天井へ目を向けたとき、隣から低い声が聞こえた。
「……今ので起こされた」
「……ごめん」
ラリーは布団の中でもぞもぞと動き、眠たそうに顔を出した。
「……なに?」
時春はすぐには答えられなかった。
何から話せばいいのかわからなかった。
今日の試合のこと。
イーサンの怪我のこと。
明日の決勝のこと。
自分がスターターになること。
どれも話したいのに、言葉がまとまらなかった。
しかし、ラリーは急かさなかった。
薄暗い部屋の中で、ただ時春の返事を待っていた。
やがて、時春は小さく口を開いた。
「……俺、怖い」
ラリーは黙っていた。
「……明日さ、決勝なんだ」
「……うん」
「イーサンが怪我しちゃって、出られなくなったんだよ。だから俺がスターターになった」
「へえ……」
ラリーは眠たそうに相槌を打った。
時春は天井を見つめながら続けた。
「今日の試合は、何とかなったんだ。最後の四分だけだったけど、パスも出せたし、点も取れたし、チームも勝った」
「……よかったじゃない」
「うん。でも……」
時春は一度言葉を切った。
胸の奥に溜まっていたものが、少しずつ溢れ出してくるようだった。
「もし、明日うまくいかなかったらどうしよう」
ラリーは何も言わなかった。
「もし、俺がスタメンのせいでチームが負けたら? 俺のパスが全部読まれたら? 相手のガードにずっと狙われて、ボール運べなくなったら?」
時春は布団を握り締めた。
「ディフェンスで抜かれたらどうしよう。俺が小さいからって、そこばっかり狙われたら? イーサンだったら簡単にできることが、俺にはできなかったら?」
声が少し震えていた。
時春は自分でも驚いた。
こんなふうに弱音を吐くつもりはなかった。
普段なら、誰かに心配されれば笑って大丈夫だと言う。強い相手と戦うと聞けば、楽しみだと答える。練習で失敗しても、次こそは成功させてやると考える。
しかし、今夜はその言葉が出てこなかった。
「……俺さ」
時春は小さく息を吐いた。
「今日、みんなにすごい褒めてもらったんだ。コーチにも、マイルズにも、ノアにも。イーサンも、俺に任せたって言ってくれた」
「……うん」
「だから、明日は絶対に頑張らなきゃって思うんだけど……」
時春は一度目を閉じた。
「何か、嫌な予感しか出てこないんだよ」
ラリーは静かに聞いていた。
「ちゃんとやらなきゃって思えば思うほど、失敗するところばっかり想像しちゃう。変だよな。スターターになれたんだから嬉しいはずなのに、今は全然嬉しくないんだ」
時春は布団の中で震える手を見つめた。
握り締めても、少しも落ち着かなかった。
「……手もさ、ずっと震えてる」
その言葉を最後に、時春は黙った。
部屋の中には、再び静けさが戻った。
窓の外では風が吹き、遠くで木の葉が触れ合う音が聞こえている。ラリーはしばらく何も言わず、布団の中から時春を見ていた。
やがて、眠たそうな声で口を開いた。
「……僕はバスケのこと、よく知らないけどさ」
時春は隣へ顔を向けた。
「うん」
「コーチは、君しかいないから君に頼んだんだろ」
時春は瞬きをした。
「……それは、まあ」
「じゃあ、やればいいじゃない」
「……えっ?」
ラリーは当たり前のことを言うように続けた。
「だって、明日スターターなんでしょ? だったら、いくら怖がったところで、試合に出るしかない」
「……うん」
「君がここで朝まで悩んでたら、明日の試合が簡単になるわけでもないし。パスが読まれるかどうかなんて、実際にやってみなきゃわからないでしょ」
ラリーは大きくあくびをした。
「つべこべ言わずにやるしかないんだよ」
時春は黙って聞いていた。
ラリーは少しだけ寝返りを打ち、枕に頭を沈めた。
「勝っても負けても、別に僕はどうでもいいし」
「……えっ?」
「バスケの勝敗なんて、僕にはよくわからないからね」
ラリーは眠そうな声で続けた。
「それより、帰ってきたら一緒にやってほしいゲームがあるんだ」
「……ゲーム?」
「うん。エルデンリング買ったから」
時春は思わず目を丸くした。
「……えっ?」
「前から気になってたんだけど、セールで安くなってたから買ったんだ。まだあんまり進めてないから、君にも一緒にやってほしい」
「……いや、ちょっと待って」
時春は呆れたように笑った。
「俺、明日決勝なんだよ?」
「知ってるよ」
「めっちゃ大事な試合なんだよ?」
「だから?」
ラリーは不思議そうに答えた。
「試合が終わったら帰ってくるでしょ」
「……まあ、そうだけど」
「じゃあ、帰ってきたらすればいい」
ラリーは当然のように言った。
「勝っても負けても、僕はゲームやるつもりだし。君が帰ってきたら一緒に遊びたい。それだけだよ」
時春はしばらく何も言えなかった。
ラリーの声には、特別な励ましも、熱い応援の言葉もなかった。
明日の試合に勝てるとは言ってくれない。
君なら絶対に大丈夫だとも言わない。
努力してきたんだから自信を持て、と背中を押してくれるわけでもなかった。
ただ、試合が終わったら帰ってきて、一緒にゲームをしようと言っている。
それだけだった。
しかし、時春はその言葉を聞いているうちに、胸の奥にあった重たいものが少しずつ軽くなっていくのを感じた。
そうか。
明日、どんな試合をしたとしても、自分はまたこの部屋へ帰ってくるのだ。
勝っても、負けても。
良いパスを出せても、出せなくても。
スターターとして活躍できても、思うようにいかなくても。
ラリーはたぶん、いつも通り机の前に座ってゲームをしている。そして、自分が帰ってくれば、画面から顔を上げて「おかえり」とでも言うのだろう。
そこには、バスケットボールの結果とは関係のない日常がある。
自分がスターターになったからといって、ラリーが急に敬語を使い始めるわけでもないし、試合でミスをしたからといって、友達でなくなるわけでもない。
時春はそのことに気づいたとき、思わず小さく笑った。
「……なんだよそれ」
ラリーが目を細めた。
「何が?」
「いや……普通、もっとこう、頑張れとか言わない?」
「頑張ってるんでしょ、もう」
「……えっ?」
「毎日練習してるじゃない。帰ってきたら疲れて寝てるし、たまに僕との約束も忘れるし」
ラリーは呆れたように言った。
「それだけやってるんだから、明日もいつも通りやればいいんじゃないの。僕にはそれ以上わからないよ」
時春はしばらくラリーを見つめていた。
そして、ふっと笑った。
「……そっか」
「そうだよ」
「……うん」
ラリーは布団を引き上げた。
「じゃあ、もう寝るよ。君もちゃんと寝なよ。明日寝不足でミスしたら、さすがに僕もちょっと悪い気がするから」
「ははっ! それはそうだね!」
「笑ってる場合じゃないでしょ」
「うん、ごめん!」
時春は笑いながら答えた。
ラリーは小さくため息をつき、再び枕へ顔を埋めた。
「……おやすみ、buddy」
「おやすみ、ラリー」
部屋は再び静かになった。
時春は仰向けになり、天井を見つめた。
明日の決勝戦が怖くなくなったわけではなかった。スターターとしてコートへ立つことを考えれば、今でも胸が少し緊張する。相手のディフェンスに苦しめられるかもしれないし、思うようにパスを出せない時間帯もあるだろう。イーサンのように落ち着いて試合を組み立てられる保証など、どこにもなかった。
しかし、それでもいいのかもしれないと思えた。
自分はイーサンではない。
イーサンと同じプレーをする必要もない。
自分には自分の速さがあり、自分なりのパスがある。それを必要としてくれる仲間たちがいて、信じて送り出してくれるコーチがいる。うまくいかないことがあっても、そのたびに考え、仲間に助けてもらいながら戦えばいいのだ。
そして、試合が終われば、またこの部屋へ帰ってくる。
ラリーはきっと、バスケットボールの結果よりも、自分がエルデンリングを一緒に遊んでくれるかどうかを気にしているだろう。
時春はその光景を想像し、もう一度小さく笑った。
無愛想で、下手くそな慰めだった。
バスケットボールのことなどほとんど知らないラリーが、眠い目をこすりながら、思ったことをそのまま口にしただけなのだろう。
けれど、今の時春が欲しかったのは、きっとそういう言葉だった。
勝たなければならないと肩に力を入れるのではなく、目の前の試合を自分らしく戦えばいい。勝敗に関係なく、また帰ってこられる場所がある。そのことを思い出すだけで、先ほどまで胸を締めつけていた不安が、少しずつほどけていくようだった。
時春は布団の中で、そっと右手を開いた。
指先の震えは、いつの間にか収まっていた。
窓の外では、南カリフォルニアの静かな夜が続いている。遠くの街灯が薄いカーテンを通して淡い光を落とし、部屋の隅にはぼんやりとした影ができていた。隣のベッドからは、ラリーの規則正しい寝息が聞こえ始めている。
時春は目を閉じた。
明日は決勝戦だ。
イーサンがいないブレイカーズで、自分がスターターとしてコートに立つ。これまで経験したことのないほど、大きな役割を任されている。
その責任は消えない。
それでも、今はもう、朝まで失敗を想像し続ける必要はないように思えた。
明日になれば、嫌でも答えは出る。
だったら、今夜は眠ろう。
時春はゆっくりと息を吐き、毛布を肩まで引き上げた。遠くから聞こえる風の音を耳にしながら、やがて意識が穏やかに薄れていく。
最後に頭へ浮かんだのは、決勝戦のスコアボードでも、相手のディフェンダーでもなかった。
自分が寮へ帰ってきたとき、いつものように机の前で待っている、少し無愛想なルームメイトの姿だった。
時春は小さく微笑み、そのまま眠りについた。