一月十七日、日曜日。
南カリフォルニアの冬空は、どこまでも青く澄み渡っていた。クレセントコーストの街には朝から穏やかな陽射しが降り注ぎ、道路沿いに並ぶヤシの木が、海から吹く風に大きな葉を揺らしている。普段なら観光客や買い物客がのんびりと行き交う休日だったが、この日のクレセントコースト・スポーツセンター周辺には、午前中から大勢の人々が集まっていた。
Crescent Coast MLK Invitational、最終日。
三日間にわたって行われてきた招待大会は、いよいよ決勝戦を迎えようとしていた。
出場した十六校のうち、最後まで勝ち残ったのは二校。地元クレセントベイ・アカデミーのブレイカーズと、サウスリッジ・プレップのタイタンズだった。
タイタンズは、今大会でもっとも優勝に近いと評価されていたチームの一つである。身長の高い選手を揃えているだけでなく、全員が高い守備意識を持ち、攻撃では素早いボール回しと正確なアウトサイドシュートを武器にしていた。これまでの三試合はいずれも二桁得点差で勝利しており、決勝進出を決めた準決勝でも、相手の攻撃をほとんど寄せつけなかったという。
しかし、ブレイカーズも負けてはいなかった。
初戦ではビスタ・デル・マー高校を圧倒し、準々決勝ではフィジカルに優れたハーバーリッジ高校との接戦を制した。そして昨日の準決勝では、パシフィックリッジ高校のレイヴンズを相手に、最後まで粘り強く戦って勝利を収めている。
もっとも、その代償は決して小さくなかった。
正ポイントガードのイーサン・コールが試合終盤に目を負傷し、決勝戦の欠場が決まったのである。左目の周囲には強い腫れが残り、遠近感にも一時的な異常が出ていたため、医師の許可が下りるまではプレーできない状態だった。
そして、彼に代わって決勝戦の先発ポイントガードを任されることになったのが、高山時春だった。
身長百七十センチ。
十五歳。
日本からやって来た高校一年生。
これまで控えとして経験を積んできた小柄なガードが、招待大会の決勝という大舞台で、初めてVarsityのスターティングラインナップに名を連ねることになったのである。
◇
決勝戦が始まる一時間ほど前、スポーツセンターの観客席はすでに大勢の人々で埋まり始めていた。
とりわけ目立っていたのは、ブレイカーズの応援席だった。
大会の開催地がクレセントベイから比較的近いこともあり、クレセントベイ・アカデミーからは予想以上に多くの生徒が駆けつけていた。バスケットボール部の下級生や、他のスポーツ部に所属する生徒たち、普段からホームゲームを欠かさず応援している学校の仲間たち。紫と青の校章が入ったパーカーを着た生徒も多く、客席の一角にはブレイカーズの名前が書かれた大きな応援ボードが掲げられていた。
その中には、時春にとってよく知っている顔もあった。
「エマ! あそこ! 結構いい席じゃん!」
ジェイク・ハリスが嬉しそうに声を上げた。
「だから、早く来ようって言ったでしょ?」
エマ・パーカーはそう答えながら、手すりの近くに並んだ席を確認した。隣にはゾーイ・ウォーカーがいて、すでにスマートフォンで会場の写真を撮っている。
「それにしても、すごい人だね」
ゾーイが周囲を見渡した。
「決勝だもん! そりゃ集まるでしょ!」
ジェイクは得意そうに言った。
「しかも今日はトキがスタメンだぜ! 絶対盛り上がるって!」
その言葉に、エマは嬉しそうに微笑んだ。
「うん。私も楽しみ」
しかし、その声にはわずかな緊張も混じっていた。
昨日の試合でイーサンが負傷したとき、エマは観客席からその様子を見ていた。時春が代わりに出場し、残り四分間を見事に戦い抜いたことも知っている。それでも、今日の決勝では最初から試合を任されるのだ。昨日とは違うプレッシャーがあることくらい、バスケットボールに詳しくないエマにも想像できた。
そんな三人の後ろから、聞き慣れた声がした。
「……人が多すぎる」
振り返ると、ラリー・ナードが立っていた。
その隣には、ゲームクラブのオーウェン、エイブリー、ニーナもいる。ラリーはいつものように少し眠たそうな顔をしていたが、今日はゲーム機もパソコンも持たず、ちゃんとブレイカーズの試合を観に来ていた。
「おっ! ラリー!」
ジェイクが嬉しそうに手を振った。
「来たじゃん!」
「……君たちが昨日から何度もメッセージ送ってくるからね」
「だって、トキの初スタメンだぞ!?」
「知ってるよ。昨日、本人から聞いたし」
ラリーは平然と答えた。
オーウェンは興奮した様子で体育館を見渡していた。
「いやー、すごいな! 俺、こんな大きな高校の試合初めて見るかも!」
「オーウェン、去年も学校の試合見たじゃん」
エイブリーが笑った。
「あれはこんな大会じゃなかっただろ!」
ニーナも笑いながら頷いた。
「今日はちゃんと応援しようね。トキ、すごく頑張ってるんでしょ?」
「そうだね」
ラリーは短く答えた。
そこへ、ESLのクラスで時春と一緒に英語を勉強している留学生たちもやって来た。普段は授業中に隣の席で辞書を見せ合ったり、難しい単語に苦戦したりしている仲間たちである。彼らも時春がバスケットボール部で活躍していることを知っており、今日は何人かで誘い合って観戦に来たらしかった。
「トキ、今日は最初から出るんだって!」
「すごいね!」
「絶対応援しよう!」
言葉も出身国も違う生徒たちが、同じ名前を口にして笑い合っている。
エマはその光景を眺めながら、何だか嬉しくなった。
去年の夏、初めて時春と会った頃には、こんな日が来るとは思っていなかった。教室の場所さえわからずに迷っていた日本人の男の子が、今では学校の多くの生徒から名前を呼ばれる存在になっている。
体育館の中央には、まだウォーミングアップをしている選手たちの姿があった。
エマは、その中から小柄な背中を探した。
「あっ……いた」
白いユニフォームを着た時春が、コートの端でドリブルをしていた。
彼の隣にはマイルズが立ち、何かを話している。ノアはその少し先で豪快なダンクを決め、観客席から小さな歓声を浴びていた。
「トキーー!」
ジェイクが大声で呼びかけた。
時春が顔を上げる。
すると、エマたちの姿に気づいたらしく、ぱっと表情を明るくして手を振った。
「Hey!!」
その笑顔を見て、エマも大きく手を振り返した。
いつもの時春だった。
少なくとも、遠くから見ている限りは。
◇
しかし、コートにいる時春の心の中は、決して穏やかではなかった。
昨夜、ラリーと話したあとには、少しだけ気持ちが落ち着いていた。勝っても負けても、試合が終われば寮へ帰ってくる。ルームメイトはいつも通りゲームをして待っている。そのことを思い出すだけで、肩にのしかかっていたものが軽くなったように感じられた。
それでも、決勝戦の会場へ着いてみれば、昨夜とはまるで違った。
観客席の数。
大きな照明。
コートの中央に掲げられた大会のロゴ。
そして、対戦相手の選手たちが見せる鋭い表情。
どれもが、今日という日の重要さを嫌というほど思い知らせてくる。
時春はドリブルを続けながら、自分の指先にいつもより力が入っていることに気づいていた。普段なら何も考えずにできるボールハンドリングでさえ、少しだけぎこちなく感じられる。シュート練習では簡単なミドルシュートを二本続けて外し、思わず顔をしかめた。
「……くそっ」
小さく呟くと、隣からマイルズの声がした。
「どうした、トキ」
「……いや、何でもない!」
時春は慌てて笑った。
マイルズはしばらくその顔を見つめていたが、深く追及しようとはしなかった。
「緊張してんのか?」
「……ちょっとだけ」
「そりゃそうだろ。初スタメンが決勝だからな」
マイルズは笑いながらボールを拾った。
「でも、昨日お前が何をしたか忘れるなよ。あのレイヴンズ相手に、最後の四分をちゃんと守り切ったんだ。今日も同じようにやればいい」
「……うん!」
時春は大きく頷いた。
マイルズは軽く肩を叩き、ゴール下へ戻っていった。
同じようにやればいい。
その言葉を聞いて、時春はもう一度深く息を吸った。
大丈夫。
俺ならやれる。
そう自分へ言い聞かせた。
しかし、胸の鼓動はなかなか落ち着かなかった。
ウォーミングアップが終わり、両チームがそれぞれのベンチへ戻る。時春も仲間たちと一緒にタオルで汗を拭き、水を飲んだ。
そのとき、場内アナウンスが始まった。
決勝戦のスターティングラインナップの紹介だった。
まずはサウスリッジ・プレップ・タイタンズ。
濃紺のユニフォームを着た選手たちが、一人ずつコートへ駆け出していく。背番号が呼ばれるたびにタイタンズの応援席から歓声が上がり、選手たちは堂々とした表情で仲間たちとハイタッチを交わしていた。
続いて、クレセントベイ・アカデミー。
マイク・トンプソン。
ノア・レイノルズ。
トム・ウェイク。
マイルズ・カーター。
四人の名前が呼ばれるたびに、ブレイカーズの応援席から大きな拍手が送られた。
そして、最後。
『Starting at point guard……freshman, number eleven……TOKIHARU TAKAYAMA!』
次の瞬間だった。
「TOKIIIIIIII!!」
観客席の一角から、凄まじい歓声が上がった。
ジェイクが両手を突き上げ、オーウェンも負けじと叫んでいる。エマとゾーイは立ち上がって大きく手を振り、ニーナとエイブリーも笑顔で拍手していた。ESLの仲間たちまで声を合わせて時春の名前を呼んでいる。
「LET’S GO、TOKI!!」
「トキーーー!!」
「YOU GOT THIS!!」
時春は思わず観客席を見上げた。
驚くほど多くの人たちが、自分の方を見ていた。
自分の名前を呼んでくれていた。
そこには、ただバスケットボールが好きで見に来た人もいれば、学校の友達として応援してくれている人もいる。ゲームクラブの仲間たちのように、バスケットボールにはほとんど興味がないはずの人まで混じっている。
それでも、みんなが笑顔で手を振ってくれていた。
時春は胸の奥が熱くなるのを感じた。
そして、笑顔で手を振り返した。
「ありがとう!!」
コートへ走り出すと、ノアが大きく両手を広げて待っていた。
「COME ON、LITTLE MAN!」
時春がその手を叩く。
「Let’s go!」
ノアはにやりと笑った。
「今日はお前のショーだぜ!」
時春は笑顔で頷いたが、心臓は激しく鳴っていた。
ついに、始まる。
初めての先発。
しかも、決勝戦。
時春はコート中央へ向かいながら、もう一度自分に言い聞かせた。
大丈夫。
俺ならやれる。
何度も、何度も。
その言葉を繰り返していた。
◇
しかし、その願いとは裏腹に、試合は最悪の形で始まった。
ティップオフ。
両チームのセンターが中央へ歩み寄り、審判の投げ上げたボールを追って跳び上がる。
トムの長い腕が、わずかに先に届いた。
ボールは時春の方へ弾かれる。
ブレイカーズボール。
時春はそれを受け取り、ゆっくりとドリブルを始めた。
まずは一本。
落ち着いて攻撃を組み立てよう。
そう考えた時春は、最初のプレーにマイルズとのピック・アンド・ロールを選んだ。
これまで何度も成功させてきた、自分たちの得意な形だった。時春がスクリーンを利用して相手ガードを引き離し、マイルズがゴールへ向かって走り込む。そこへパスを送るか、ディフェンスが寄ってくれば外側の味方へ展開する。前日の準決勝でも、このプレーから何度も良い攻撃が生まれていた。
時春は右手で合図を送った。
「マイルズ!」
マイルズが動く。
相手ガードの進路を塞ぐように、大きな体でスクリーンをセットした。
時春はその横を素早く抜けた。
しかし。
タイタンズのガードは、ほとんど遅れなかった。
スクリーンに引っかかる寸前で体を細くして抜け、すぐに時春の進路へ戻ってくる。同時に、マイルズを守っていた大柄なフォワードも、彼のロールにしっかりとついていった。
時春にも、マイルズにも、隙がない。
相手は完全に読んでいた。
昨日までの試合映像を研究してきたのだろう。時春がどのタイミングでマイルズへパスを出すのか、その動きまで把握しているかのようだった。
時春は一瞬、判断を迷った。
マイルズへパスを送るべきか。
外側のマイクへ展開すべきか。
いったん攻撃を作り直すべきか。
ほんの一秒にも満たない迷いだった。
しかし、時春はその迷いを振り払おうとするように、マイルズへパスを出してしまった。
強引なパスだった。
マイルズの前には、まだディフェンダーがいる。
時春自身も、そのことをわかっていた。
それでも、いつもの形なら通るはずだと、どこかで思っていたのだ。
「……っ!」
ボールがマイルズへ届く寸前、相手フォワードの腕が伸びた。
バシッ!
パスが弾かれた。
ボールはコートの反対側へ転がり、タイタンズのガードが素早く拾い上げた。
「FAST BREAK!」
相手ベンチから声が上がった。
時春は慌てて追いかけたが、すでに遅かった。
タイタンズのガードは一気に加速し、誰もいないゴールへ向かって走り込む。ノアが懸命に戻ったものの、わずかに間に合わず、相手は落ち着いてレイアップを決めた。
二対〇。
試合開始から、わずか十数秒。
ブレイカーズは、時春のターンオーバーから先制点を許した。
※ターンオーバー:シュートミス以外で相手にボールを渡してしまうこと
時春は思わず唇を噛んだ。
しまった。
あんなパス、出すべきじゃなかった。
マイルズが戻ってきて、時春の背中を軽く叩いた。
「気にすんな!」
その声は、いつもと変わらなかった。
「次だ、トキ。まだ始まったばかりだろ?」
「……うん!」
時春は頷いた。
大丈夫。
まだ、一回ミスしただけだ。
次は落ち着いてやればいい。
しかし、その考えは、すぐに崩れることになった。
◇
次の攻撃。
時春は再びボールを受け取り、センターラインへ向かった。
すると、タイタンズのガードが先ほどよりもさらに激しく距離を詰めてきた。
相手は身長百九十センチ近くあり、時春より明らかに体が大きい。長い腕を広げ、低い姿勢で左右の進路を塞いでくる。
時春が右へドリブルをつけば、すぐに体を寄せてくる。
左へ切り返そうとすると、反対側の腕が伸びてくる。
思うように前へ進めない。
時春は一度背中側へボールを回したが、相手ガードはそれにも落ち着いて対応してきた。
さらに、少し離れた場所から二人目のディフェンダーが近づいてきた。
挟まれる。
そう思った瞬間、時春は思わずドリブルを止めてしまった。
ボールを両手で抱える。
しかし、そこで初めて気づいた。
もうドリブルはできない。
※一度ドリブルしてボールを止めた場合再びそこからドリブルはできない。シュートかパスの二択。
相手ガードは両腕を大きく広げ、パスコースを塞いでくる。時春が顔を向けた先には、すでに相手のディフェンダーが待ち構えていた。
どうしよう。
マイルズはまだ遠い。
マイクもマークされている。
パスを出す場所がない。
「トキ!」
そのとき、ノアが近づいてきた。
「こっちだ!」
時春は救われたような気持ちで、すぐにボールを渡した。
しかし、ノアが受け取った場所は、決して良い位置ではなかった。
スリーポイントラインよりもかなり外側。
しかも、目の前にはディフェンダーがいる。
ノアは一瞬だけ周囲を見渡したが、時春はすでに動きを止めてしまっていた。マイクも右コーナーで相手に張りつかれ、トムはゴール下で位置を確保できずにいる。
ショットクロックが減っていく。
「……ちっ!」
ノアは舌打ちすると、強引にドライブを仕掛けた。
相手のガードを抜き去ろうとしたが、ヘルプのフォワードがすぐに進路へ入ってくる。
それでもノアは止まらなかった。
二人のディフェンダーに囲まれながら、無理な体勢でジャンプシュートを放つ。
ガンッ!
ボールはリングに強く当たり、跳ね返った。
タイタンズがリバウンドを奪う。
時春は慌てて守備へ戻ったが、相手はすでに攻撃を組み立て始めていた。
そして、今度は時春の守備が狙われた。
タイタンズのガードが右サイドでボールを受けると、時春を背中側へ押し込むようにして、ローポストへ移動したのである。
時春は必死に体を入れた。
しかし、相手は自分より二十センチ近く背が高く、体重も重い。
背中で押されるたびに、足元が少しずつ後ろへ下がってしまう。
相手ガードは一度だけ肩越しにリングを確認すると、素早くターンした。
時春が腕を伸ばす。
しかし、相手のシュートはその上を軽々と越えていった。
シュッ。
四対〇。
タイタンズの応援席から歓声が上がった。
時春は振り返り、リングを通り抜けたボールを見つめた。
自分のミスから二失点。
そして、自分の守備からさらに二失点。
試合開始からわずかな時間で、相手は明確に時春を狙い始めていた。
◇
タイタンズの守備は、想像以上に周到だった。
時春がマイルズとのピック・アンド・ロールを仕掛ければ、スクリーンをかわしたガードがすぐに戻り、マイルズのロールにも別の選手が対応する。ノアへパスを出そうとすれば、相手のフォワードがあらかじめパスコースへ手を伸ばしていた。マイクがコーナーで待っていても、ディフェンダーは簡単に離れようとしない。
まるで、ブレイカーズの次の動きをすべて知っているようだった。
そして、その中心には時春がいた。
彼がボールを持つたび、相手のガードは積極的にプレッシャーをかけてくる。さらに、ボールを運んでいる途中で二人目のディフェンダーが近づき、パスを出す方向を限定してくる。
時春は何度も逃げ道を探した。
しかし、焦れば焦るほど、正しい判断ができなくなっていった。
第一クォーター中盤には、右サイドにいたマイクへパスを出そうとして、相手の長い腕に引っかけられた。ボールを奪ったタイタンズはそのまま速攻へ移り、簡単なレイアップを決めた。
二度目のターンオーバー。
続く攻撃では、センターライン付近で二人に囲まれ、逃げようとしたところで足元がもつれた。時春はボールを守ろうと必死に体をひねったが、最後はサイドラインを踏んでしまった。
三度目。
「……くそっ」
時春は小さく呟いた。
ベンチからヘイズコーチの声が飛ぶ。
「トキ! 顔を上げろ! 全体を見ろ!」
「YES, COACH!」
返事だけは大きく出した。
しかし、実際には何も見えていなかった。
自分を守る相手の腕。
目の前の狭いスペース。
近づいてくる二人目のディフェンダー。
それらばかりが気になり、コートの反対側にいる仲間たちの動きが視界から消えていた。
時春は何とか立て直そうとしたが、次の攻撃でも相手のプレッシャーに追い込まれた。苦し紛れに出した横へのパスは、待ち構えていたディフェンダーに読まれ、あっさりと奪われてしまった。
四度目のターンオーバー。
観客席に、重苦しい空気が広がり始めた。
ブレイカーズは、明らかに自分たちのバスケットボールを見失っていた。
◇
それでも、マイルズは懸命に戦っていた。
ゴール下ではタイタンズの大きなセンターと何度も体をぶつけ合い、厳しい守備を受けながらも得点を重ねていた。背中で相手を押し込み、素早くターンしてシュートを決める。外したシュートを自ら拾い直し、もう一度押し込むこともあった。
ノアも必死だった。
しかし、その必死さは次第に空回りし始めていた。
「……ちくしょう!」
ノアはボールを受け取るたびに、強引にディフェンダーを抜こうとした。
自分が点を取らなければならない。
そんな焦りが、プレーの端々から伝わってきた。
相手が二人で守ってきても、その間を強引に突破しようとする。ゴール下に大きなセンターが待っていても、体をぶつけながらシュートを放つ。決まるときもあったが、それ以上に難しい体勢を強いられ、ボールは何度もリングを外れた。
マイクは右コーナーでボールを待ち続けていた。
しかし、そこへパスが届くことはほとんどなかった。時春が目の前の守備に追われ、ノアは自分で攻め込もうとする。マイルズもゴール下で必死に得点を狙っているため、ボールが外側へ展開されない。
マイクは何度も位置を変えようとしたが、攻撃の方向が定まらないため、結局コーナーで立ち止まる時間が増えていった。
トムも同じだった。
身長と長い腕を生かし、リバウンドやゴール下での得点に貢献できる選手だったが、タイタンズのセンターに押し込まれ、思うように動けていなかった。スクリーンをセットしようとしても、時春とのタイミングが合わない。リングへ走り込んでも、ボールが届かない。
結果として、ブレイカーズの攻撃はマイルズのポストプレーと、ノアの個人技に頼るものになってしまっていた。
マイルズが強引に得点を決める。
ノアが難しいシュートを偶然のように沈める。
しかし、それ以外の選手たちが攻撃に関わる場面は少なく、誰かが得点しても次の攻撃へつながっていかなかった。
普段のブレイカーズなら、イーサンがボールを持つことで自然と選手たちが動き始める。マイクがスクリーンを利用して外側へ走り、ノアがゴール下へ切り込み、マイルズが相手の守備を引きつける。そして、空いた場所へ素早くパスが送られていく。
だが、今のコートには、その流れがなかった。
五人がそれぞれ別のことを考え、別のタイミングで動いている。
時春は何度も声を出そうとしたが、その声はうまく仲間たちへ届かなかった。
自分の判断が間違っているかもしれない。
そう思うたび、指示を出すことが怖くなった。
そして、彼が黙るほど、チームの攻撃はさらに停滞していった。
◇
第一クォーターが終わったとき、スコアは十八対二十九だった。
十一点差。
ブレイカーズのベンチには、重苦しい沈黙が流れていた。
ヘイズコーチはホワイトボードを取り出し、何度も攻撃の位置を修正した。時春には無理なパスを出さないよう指示し、ノアには周囲を見るよう求めた。マイルズにはハイポストでボールを受け、そこから攻撃を組み立てるよう伝えた。
しかし、第二クォーターに入っても状況は大きく変わらなかった。
ライアンが交代でコートへ入った時間帯には、ボール運びこそ少し安定したが、タイタンズの守備を崩すことはできなかった。マイルズが高い位置でボールを受けても、その周囲の選手たちが十分に動いていなければ、相手のディフェンスは簡単に対応できてしまう。
ノアはさらに焦っていた。
シュートを外せば、次は自分が決めてやろうと考える。得点差が広がれば、それを一度のプレーで取り返そうとする。しかし、相手はそんな彼の性格を理解しているかのように、ドライブの進路を塞ぎ、難しいシュートを打たせ続けた。
時春も何とか立て直そうとした。
ボールを受け取ると、落ち着いて攻撃を組み立てようとする。しかし、相手ガードの長い腕が視界に入ると、どうしても次のパスを急いでしまう。マイルズのスクリーンを使おうとしても、最初のターンオーバーが頭をよぎり、思い切ってゴールへ向かうことができなかった。
さらに、守備では相手のガードが執拗に時春を狙ってきた。
スイッチを利用してマッチアップを作り直し、体格差を生かしたポストアップを仕掛けてくる。時春が必死に体を入れても、相手は高い位置から簡単にシュートを放ち、あるいはヘルプに来たマイルズの背後へパスを通した。
そのたびに、ブレイカーズの守備が少しずつ崩れていった。
時春はベンチに下がった時間も、落ち着くことができなかった。
タオルで汗を拭きながら、何度もコートを見つめた。自分がいなければ、チームはもう少しうまく戦えるのではないか。ライアンがそのままボールを運び、マイルズが攻撃を組み立てた方がいいのではないか。そんな考えが、頭から離れなかった。
そして、もう一度コートへ戻されても、失敗を恐れる気持ちは消えていなかった。
自分のせいで負けたくない。
そう思えば思うほど、時春は小さくなっていった。
ドリブルの歩幅も、パスを出す視野も、声も。
本来の彼が持っていた、自由で思い切りのよいバスケットボールは、どこかへ姿を消していた。
◇
やがて、前半終了のブザーが鳴った。
スコアボードには、残酷な数字が並んでいた。
ブレイカーズ 40 ― 55 タイタンズ
十五点差。
決勝戦の前半を終えた時点で、ブレイカーズは大きくリードを許していた。
観客席のブレイカーズ応援団も、すっかり静かになっていた。
試合開始前にはあれほど大きな声で応援していた生徒たちが、今は不安そうな表情でコートを見つめている。もちろん、まだ試合が終わったわけではない。後半には十六分間が残されており、十五点差なら逆転の可能性も十分にある。
しかし、問題は点差だけではなかった。
ブレイカーズが、まったく自分たちのバスケットボールをできていない。
そのことが、何よりも深刻だった。
「……トキ、大丈夫かな」
エマが小さく呟いた。
彼女は前半の間、ずっと時春を見つめていた。いつもなら、良いプレーが決まれば誰よりも嬉しそうに笑い、ミスをしてもすぐに仲間へ声をかける。ところが、今日の時春は違っていた。
パスを奪われるたびに顔をしかめ、守備で得点を許すたびに俯いてしまう。
試合が進むにつれて、彼がほとんど笑わなくなっていくのがわかった。
「……かなり苦しそうだよね」
ゾーイも心配そうに言った。
「相手、めちゃくちゃ強いじゃん……」
ジェイクは腕を組み、珍しく真剣な表情でコートを見つめていた。
「トキだけじゃなくて、ノアもマイルズも全然いつも通りじゃねえもんな」
オーウェンも大きく頷いた。
「俺、バスケ詳しくないけどさ。いつもみたいにパスが回ってないのはわかる」
エイブリーは黙ってスコアボードを見つめ、ニーナも不安そうに両手を握っていた。
ESLの仲間たちの間にも、重苦しい空気が広がっている。
エマはコートの端で俯いている時春を見つめた。
昨日まであんなに楽しそうにしていたのに。
みんなから応援され、スターターとして名前を呼ばれたときには、あんなに嬉しそうに笑っていたのに。
今は、ひどく小さく見えた。
「……やっぱり、初めてのスタメンが決勝って、大変だよね」
エマは静かに言った。
「トキ、昨日の夜も緊張してたのかな……」
その言葉を聞いて、ラリーが顔を上げた。
「……してたよ」
「えっ?」
エマが振り返る。
ラリーはコートを見つめたまま、静かに続けた。
「昨日、寝る前に話してた。明日の試合が怖いって。もし自分のせいで負けたらどうしようって、ずっと考えてたみたい」
エマは少しだけ目を見開いた。
「……そうだったんだ」
「うん」
ラリーは淡々と答えた。
「手も震えてた」
その言葉を聞いた瞬間、エマの表情が曇った。
クリスマスの夜、帰りの車内でDJの動画を見つめていた時春のことを思い出した。あのときも、彼の手はわずかに震えていた。
あの日の時春は、怖さと同時に、強い興奮を抱いていた。
そして最後には、DJに勝ちたいと笑っていた。
けれど、今日の時春は違って見えた。
目の前の勝負を楽しむ余裕さえ、なくしてしまっているようだった。
「……大丈夫かな」
エマはもう一度呟いた。
すると、ラリーは少しだけ首を傾げた。
「……トキなら大丈夫だよ」
その声には、妙な確信があった。
エマが驚いたように顔を向ける。
「……え?」
「じゃないと、昨日の夜の僕の言葉が台無しだろ」
ラリーはそう言って、少しだけ笑った。
「勝っても負けてもどうでもいいとは言ったけど、何もしないで諦めていいとは言ってないからね」
ゾーイが興味深そうに尋ねた。
「ラリー、昨日何て言ったの?」
「別に。つべこべ言わずにやるしかないって言っただけ」
「……それだけ?」
「うん。それだけ」
ラリーは平然と頷いた。
「あと、帰ったらゲームしようって」
ジェイクが思わず吹き出した。
「お前、マジでそれしか言ってねえの!?」
「だって、バスケのこと知らないし」
ラリーは肩をすくめた。
それから、もう一度コートへ目を向けた。
「でも、昨日のトキは最後に笑ってたよ」
その言葉に、エマは黙った。
ラリーは普段から、バスケットボールにほとんど興味を示さない。時春が試合で何点取ったのかも、誰が対戦相手なのかも、あまり気にしていない。しかし、彼は毎日同じ部屋で暮らしている。
練習から帰ってきた時春が、どれほど疲れているのか。
失敗した日には、どんな顔でベッドへ倒れ込むのか。
嬉しいことがあった日には、どれほど楽しそうに話すのか。
そんなことを、誰よりもよく知っているのかもしれなかった。
エマはもう一度、ブレイカーズのベンチへ視線を戻した。
そのときだった。
コートの反対側から、大きな声が響いた。
◇
「ちくしょう!!」
ノアだった。
ベンチへ戻ってくるなり、首にかけていたタオルを勢いよく引き抜き、床へ叩きつけた。
その音に、周囲の選手たちが一斉に振り返った。
「なんだよ全然うまくいかねえ!!」
ノアは苛立った様子で声を荒らげた。
その横でマイルズが立ち上がる。
「うまくいかねえじゃねえだろ! パスを回せ!」
ノアは振り返った。
「はあ!?」
「お前、何回無理なシュート打ってんだよ! 相手が二人来たら、空いてる味方にパス出せばいいだろ!」
「回んねえから俺が打つしかねえだろうが!」
ノアの声が、さらに大きくなった。
「パスしたって、誰も動いてねえじゃねえか! 俺が攻めなきゃ誰が点取るんだよ!」
マイルズの表情が険しくなった。
「その結果どうだ!? 外しまくって十五点差つけられてる!」
「じゃあどうすりゃいいんだよ!」
「パスを回せって!」
「だから! 回んねえんだって言ってんだろ!」
二人の声が、ベンチの周囲へ響き渡った。
普段からノアとマイルズは、練習中にもよく言い合いをしていた。しかし、それはたいてい冗談交じりのもので、最後には二人とも笑っていた。
今は違った。
ノアの顔には明らかな苛立ちが浮かび、マイルズも感情を抑えきれていない。二人とも勝ちたいという気持ちが強いからこそ、思うようにいかない現状を受け入れられずにいた。
ノアはチームを助けようとして、無理なシュートを打っていた。
マイルズはチームを立て直そうとして、ノアを責めていた。
どちらも間違っているつもりはなかった。
しかし、その言葉は互いを追い詰めるばかりだった。
「ねえ二人とも……」
トムが困ったように声をかけた。
だが、二人は聞いていなかった。
トムはノアとマイルズの間へ入ろうとして、どうすればいいのかわからず立ち止まった。大きな体を持ちながら、こういう場面では誰よりも気が弱くなる。彼は何度も二人の顔を見比べ、助けを求めるようにマイクへ視線を向けた。
しかし、マイクは黙ってスポーツドリンクを飲んでいた。
彼も不機嫌ではあったが、それを言葉にすることはなかった。ただ、ボトルを握る指先に少しだけ力が入っている。
ライアンとジェイスも、いつものような冗談を言う余裕をなくしていた。二人は離れた位置で顔を見合わせ、どうすればいいのかわからない様子だった。
そして、その中心から少し離れたベンチに、時春が座っていた。
俯いたまま。
膝の上で両手を組み、床の一点を見つめていた。
ノアとマイルズの言い合いが聞こえていないわけではなかった。
むしろ、一言一言が胸に突き刺さっていた。
パスが回らない。
誰も動いていない。
無理なシュートしか打てない。
その原因がどこにあるのか、時春にはわかっていた。
自分だ。
自分がポイントガードなのだ。
攻撃を組み立て、仲間たちがプレーしやすい状況を作る。それが自分の役割だったはずなのに、今日は何一つうまくできていない。
マイルズがどれほど頑張っても、ノアがどれほど得点しようとしても、自分が攻撃を整理できなければ、チームはまとまらない。
時春は強く唇を噛んだ。
昨夜、ラリーに話した不安が、次々と現実になっていた。
パスを読まれた。
ディフェンスで狙われた。
仲間たちへ良いパスを出せなかった。
イーサンのように、うまく試合を組み立てられなかった。
そして今、チームは十五点差をつけられ、仲間同士が言い争っている。
自分がスターターになったせいで。
その考えが頭から離れなかった。
時春は顔を上げることができなかった。
◇
「ENOUGH!!(黙れ!!)」
雷鳴のような声だった。
ロッカールームへ向かいかけていた選手たちまで、思わず足を止めた。
グラント・ヘイズコーチである。
普段から厳しい指導で知られる彼だったが、今の声には、これまでとは違う迫力があった。ノアもマイルズも、まるで悪戯を見つかった子供のように肩を震わせ、反射的に口を閉じた。
コーチはゆっくりと二人の前へ歩み寄った。
「……言い争いは終わりか?」
ノアは何も答えなかった。
マイルズも、視線を逸らした。
「十五点差をつけられているのは、俺にも見えている。お前たちが苛立っていることもわかっている。だがな、仲間を怒鳴りつけて点差が縮まるなら、俺はいくらでも怒鳴ってやるぞ」
低い声だった。
それだけに、かえって恐ろしかった。
「ノア。お前が点を取りたい気持ちはわかる。マイルズ。お前がチームを立て直したいこともわかる。だが、今のお前たちは何をしている?」
二人は黙ったままだった。
「自分の思い通りにいかないから、仲間に文句を言っているだけだろう。それでどうやって勝つつもりだ?」
ノアが悔しそうに唇を噛んだ。
「……すみません、コーチ」
マイルズも頭を下げた。
「……申し訳ありません」
ヘイズはしばらく二人を見つめていた。
そして、静かに息を吐いた。
「……座れ」
二人は黙ってベンチへ腰を下ろした。
周囲の選手たちも、誰一人として声を出さなかった。
ヘイズはホワイトボードを手に取った。
しかし、いつものように作戦を描き始めることはしなかった。
彼は少しだけ選手たちの顔を見渡し、それからベンチの端に座っている時春へ目を向けた。
時春はまだ、俯いたままだった。
両手を膝の上で握り締め、まるで自分の存在を小さくしようとするかのように背中を丸めている。
ヘイズはゆっくりと歩み寄った。
そして、時春の前で膝を折った。
大きな体を低くし、ベンチに座った時春と同じ高さまで視線を下げる。
「……トキ」
時春は小さく肩を震わせた。
「……はい」
しかし、顔を上げることはできなかった。
ヘイズはそのまま、しばらく時春を見つめていた。
怒鳴られるのだろうか。
四回のターンオーバー。
何度も判断を間違え、ディフェンスでは簡単に得点を許した。
試合を壊したのは、自分だ。
時春は、どんな言葉を向けられても仕方がないと思っていた。
しかし、ヘイズの口から出てきたのは、まったく予想していない言葉だった。
「……なぜ俺がお前をスカウトしたと思う?」
時春は瞬きをした。
「……え?」
「聞こえなかったか。なぜ俺が、お前を日本からこの学校へ呼んだと思う?」
時春は答えられなかった。
今まで、そんなことを真剣に考えたことはなかった。
アメリカでバスケットボールがしたい。
もっと強い選手たちと戦いたい。
いつかNBAのコートへ立ちたい。
そんな思いを胸に、日本を飛び出してきた。
もちろん、自分のプレーを評価してくれたからこそ、CBAへ来ることができたのだとは思っていた。しかし、ヘイズコーチが自分の何を見て、何を期待してくれたのか。それを直接聞いたことはなかった。
時春は俯いたまま、小さく首を振った。
「……わかりません」
ヘイズは頷いた。
「そうか」
それから、少しだけ声を和らげた。
「俺はな、日本で初めてお前のプレーを見たとき、感動したんだよ」
時春の指先が動いた。
「……え?」
「お前は、あの試合で一番背の高い選手じゃなかった。誰よりも速かったわけでもないし、シュートを大量に決めていたわけでもなかった」
ヘイズは静かに続けた。
「だが、お前がボールを持つと、チーム全体が変わった」
時春はまだ顔を上げられなかった。
「右の選手が走り出せば、そこへボールが届く。左の選手が空けば、お前は必ずそれを見つける。ゴール下の味方が困っていれば、自分から近づいてパスを受け、次の攻撃を作る。お前がボールを持つたびに、周りの四人が生き生きと動き始めた」
ヘイズはそこで一度言葉を切った。
「まるで、チームが本当に一つになったみたいだった」
時春は膝の上で握り締めていた拳を、わずかに緩めた。
日本でバスケットボールをしていた頃の記憶が、頭の中に浮かんできた。
体育館の床の匂い。
仲間たちの声。
汗で滑りそうになるボール。
パスがつながり、誰かがシュートを決めた瞬間の歓声。
時春は、誰か一人が目立つバスケットボールよりも、仲間全員で攻めるバスケットボールが好きだった。自分がシュートを決めるのも嬉しかったが、それ以上に、自分のパスから誰かが得点する瞬間が好きだった。
味方が気持ちよく走り、迷いなくシュートを放つ。
そのためのパスを考えることが、たまらなく楽しかった。
ヘイズは続けた。
「お前のプレーには、不思議な力があった。お前自身が目立つだけじゃない。周りの選手まで、普段以上にうまく見えるんだ」
ノアが顔を上げた。
マイルズも、静かにその言葉を聞いていた。
「誰もが自分の得意な場所でボールを受けられる。誰もが自分の力を出せる。お前は、それを当たり前のようにやっていた」
ヘイズは小さく笑った。
「だから、すぐに思ったよ」
そして、はっきりと言った。
「……うちに必要なピースだって」
時春の喉の奥が、熱くなった。
ヘイズの言葉は、決して大げさな慰めのようには聞こえなかった。
彼は本当にそう思っているのだ。
日本で見た、まだ十五歳にもなっていなかった小さなガードのプレーを覚えている。そして、そのとき感じたものを、今も信じてくれている。
時春は何か言おうとした。
しかし、言葉が出てこなかった。
ヘイズはそんな彼を急かさず、少しだけ間を置いた。
「……トキ」
「……はい」
「毎晩、寝る前に俺が何を願ってると思う?」
時春は小さく首を振った。
ヘイズは静かに笑った。
「俺が現役だった頃、君のようなガードが同じチームにいてくれたらってことだ」
その言葉を聞いた瞬間、時春は思わず顔を上げた。
初めて、ヘイズコーチと目が合った。
いつも厳しく、練習では少しのミスも見逃さない男だった。試合で良いプレーをしても、簡単には褒めてくれない。選手たちに高い要求を突きつけ、できるようになるまで何度でもやり直させる。
そんなコーチが、今は自分の目の前に膝をついていた。
その表情には、怒りも失望もなかった。
ただ、まっすぐな信頼があった。
「……コーチ」
時春の声が震えた。
「でも……俺、今日……」
「わかってる」
ヘイズは静かに遮った。
「四回ターンオーバーした。守備でも狙われた。お前がどれだけ苦しんでいたか、俺はずっと見ていた」
時春は唇を噛んだ。
「……すみません」
「謝る必要はない」
ヘイズは首を横に振った。
「お前は失敗した。それは事実だ。だが、失敗したからといって、お前が持っているものまでなくなったわけじゃない」
時春は黙って聞いていた。
「今日のお前は、ずっと自分のことばかり考えていたな。ボールを取られないように。パスを間違えないように。自分のせいで負けないように」
その言葉に、時春の胸が強く締めつけられた。
すべて、その通りだった。
「だがな、トキ。お前をここへ呼んだのは、誰よりもミスをしないガードが欲しかったからじゃない」
ヘイズはゆっくりと続けた。
「お前には、仲間を見てほしいんだ」
時春は瞬きをした。
「マイルズが、どこでボールを欲しがっているのか。ノアが、いつリングへ走り込もうとしているのか。マイクが、どのタイミングでシュートを打ちたいのか。トムが、どれほど高い位置でボールを取れるのか」
ヘイズは、後ろに座っている選手たちへ目を向けた。
「こいつらは、全員いい選手だ。お前だって知ってるだろ?」
「……はい」
「だったら、見つけてやれ」
その声は、穏やかだった。
「お前が自分の失敗を怖がっている間、こいつらはみんな、自分のプレーができなくなっていた。誰かが悪いんじゃない。お前たちは、互いを見失っていたんだ」
時春はゆっくりとマイルズたちを見た。
マイルズは真剣な表情でこちらを見つめていた。
ノアは腕を組んでいたが、もう苛立った顔はしていない。
マイクも、トムも、ライアンも、ジェイスも。
全員が黙って聞いていた。
時春はその顔を、一人ずつ見つめた。
コートでは、自分の失敗ばかりが気になっていた。
次のパスを間違えないように。
ボールを奪われないように。
シュートを外さないように。
しかし、その間、仲間たちがどんな顔をしていたのか、ほとんど見ていなかった。
マイクがコーナーで待っていることも。
トムがゴール下で手を上げていたことも。
ノアが何度もリングへ走り込もうとしていたことも。
マイルズが、一人で何とかしようとしていたことも。
自分は、何も見ていなかった。
時春は唇を噛んだ。
そして、ゆっくりと息を吸った。
ヘイズはもう一度、時春へ視線を戻した。
「……トキ」
「……はい」
ヘイズは、小さく笑った。
そして、静かに言った。
「頼む」
その言葉には、命令ではなく、願いが込められていた。
「みんなに魔法をかけてくれ」
◇
時春は、しばらく動けなかった。
魔法。
コーチが口にしたその言葉が、頭の中で何度も繰り返された。
自分には、特別な身体能力があるわけではない。
ノアのように豪快なダンクを決めることもできないし、マイルズのように大きな相手を押し込むこともできない。マイクのような正確なスリーポイントも、トムのような長い腕も持っていない。
イーサンのように、どんな試合でも落ち着いて指示を出せるわけでもなかった。
しかし、自分には自分のバスケットボールがある。
誰かの得意なことを見つける。
その選手が、もっとも気持ちよくプレーできる場所へボールを届ける。
次に何が起こるのかを考えながら、仲間たちを動かす。
それが、時春の好きなバスケットボールだった。
そして、ヘイズコーチが日本で見てくれたのも、きっとその姿だったのだ。
時春はゆっくりと顔を上げた。
さっきまで、目を合わせることさえ怖かった。
それなのに、今は不思議と周りがよく見えた。
マイルズの大きな肩。
ノアの力強い腕。
マイクの落ち着いた表情。
トムの長い手。
誰もが、まだ戦うつもりでそこに座っていた。
自分たちは、十五点差をつけられている。
しかし、試合はまだ終わっていない。
あと十六分ある。
時春は一度、大きく息を吸った。
そして、立ち上がった。
「……みんな!」
その声に、選手たちが顔を上げた。
時春は少しだけ緊張した。
これまで、こういう場面ではマイルズが声をかけてくれた。イーサンが作戦を説明し、ノアが大きな声で仲間たちを盛り上げていた。自分はその後ろで頷き、みんなと一緒に円陣を組んでいた。
しかし、今日は違う。
イーサンはいない。
そして、自分がポイントガードなのだ。
時春は一歩前へ出た。
「……ちょっと、集まって」
マイルズが立ち上がった。
ノアも、マイクも、トムも、ライアンも、ジェイスも。
選手たちが少しずつ時春の周りへ集まり始めた。
ヘイズコーチは何も言わず、静かに立ち上がって場所を譲った。
時春は全員の顔を見渡した。
「……前半は、俺のせいだ」
最初に出てきたのは、その言葉だった。
ノアがすぐに口を開いた。
「ちげえ! お前だけのせいじゃ!」
しかし、時春は片手を上げて、それを制した。
「……いいんだ、ノア。最後まで聞いて」
ノアは少し驚いたような顔をした。
それから、黙って頷いた。
時春は続けた。
「俺、最初のプレーでパスを取られてから、ずっと怖かった。次も失敗するんじゃないかって。ボール取られたらどうしようとか、ディフェンスで抜かれたらどうしようとか、そんなことばっかり考えてた」
時春の声は、もう震えていなかった。
「だから、みんなのこと全然見てなかった。ノアが走ってるのも、マイクがシュート待ってるのも、トムがゴール下で頑張ってるのも。マイルズにだって、無理なパスばっかり出してた」
マイルズは黙って聞いていた。
「前半、俺はポイントガードとして何もできなかった。みんなが動けなかったのも、攻撃がバラバラになったのも、俺がちゃんと指示を出せなかったからだ」
時春は一度、言葉を切った。
そして、まっすぐに仲間たちを見た。
「……でも、後半は違う」
その声には、はっきりとした力があった。
「もう、自分が失敗するかどうかばっかり考えるのはやめる。俺は、みんなのことを見る。みんなが得意なところへ、ちゃんとボールを出す」
時春は拳を握った。
「だって、俺たちのチームには、こんなにすごい選手がいるから」
ノアが顔を上げた。
「俺、みんなのこと信じてるよ。だから、みんなも俺のパスを信じてほしい」
時春はまず、マイクへ顔を向けた。
「マイク!」
「……ん?」
「もっと動いて!」
マイクは少しだけ目を丸くした。
「ずっとコーナーで待ってなくていいよ! スクリーン使って、どんどん走って! だってマイク、どこからでも得点できるだろ?」
時春は笑った。
「空いたところへ走ってくれたら、絶対に見つけるから!」
マイクはしばらく時春を見つめていた。
それから、小さく頷いた。
「……わかった」
いつも通りの短い返事だった。
しかし、その口元には、わずかな笑みが浮かんでいた。
時春は次にノアへ向き直った。
「ノア!」
「……おう」
「ずっと得点を狙ってて!」
ノアが眉を上げた。
「……は?」
「ノアは、絶対に得点できる選手なんだよ! だから、無理にボールもらいに戻ってこなくていい。リングへ走って。空いたところへ飛び込んで!」
時春はまっすぐにノアを見た。
「絶対にいいところへパスを出すから!」
ノアは一瞬、何も言わなかった。
これまで、時春はノアの勢いに押されることが多かった。大きな声でからかわれ、肩を組まれ、ときには軽々と抱き上げられることさえあった。
その小柄な後輩が、今は自分へまっすぐに指示を出している。
ノアは少しだけ目を細めた。
そして、にやりと笑った。
「……へえ」
時春も笑った。
「ノアが一番得意なこと、やってよ!」
「……言ってくれるじゃねえか、リトルマン」
ノアの顔には、ようやくいつもの笑みが戻っていた。
時春は次に、マイルズへ向き直った。
「マイルズ!」
「……おう」
「俺と一緒に、もう一つの脳になって!」
マイルズは少し驚いたように目を丸くした。
「……もう一つの脳?」
「うん! 俺が外からみんなを見る。マイルズは中から見てほしい。ポストからパスも出せるし、みんなにスクリーンもかけられるでしょ?」
時春は続けた。
「マイルズがいると、みんながすごく動きやすくなるんだ。だから、ゴール下で一人で頑張らなくていい。俺と一緒に、チームを動かしてほしい!」
マイルズはしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと笑った。
「……言うじゃねえか。わかった。任せろ」
最後に、時春はトムへ目を向けた。
「トム!」
「……えっ、ぼ、僕?」
トムは少し驚いたように答えた。
「うん! トム、もっと腕を上げてて!」
「……腕?」
「そう! ゴール下へ走ったら、絶対に手を上げてほしい。だってトムは、誰よりも高いところでボールを取れるんだから!」
時春は笑顔で続けた。
「パスが少し高くなっても、トムなら取れるでしょ? だから遠慮しないで! どんどんゴールへ行って!」
トムは自分の大きな手を見つめた。
それから、小さく頷いた。
「……うん」
時春はさらに笑った。
「頼りにしてるから!」
その言葉に、トムの表情が少しだけ明るくなった。
「……うん! 頑張る!」
時春は全員の顔を見渡した。
さっきまで、怒りと焦りに満ちていたベンチだった。
しかし、今は違う。
マイクは何かを考えるように頷き、ノアは楽しそうに口元を緩めている。マイルズは大きく腕を組み、満足そうに時春を見つめていた。トムも、いつもより少しだけ背筋を伸ばしている。
時春はその姿を見て、胸の奥が熱くなるのを感じた。
そうだ。
これでいい。
自分には、こんなにも頼もしい仲間たちがいる。
その仲間たちを、もっと自由にプレーさせればいいのだ。
時春は大きく息を吸った。
「……俺、後半は絶対にみんなを見つけるから!」
その声が、ベンチの中へ響いた。
「ミスするかもしれない。相手にパス読まれるかもしれない。でも、もう怖がって何もしないのは嫌だ!」
時春は笑った。
「みんなで勝とうよ!」
その瞬間、マイルズが大きく手を叩いた。
「……よし!」
力強い声だった。
「いいじゃねえか、トキ!」
ノアも笑った。
「おいおい! そんだけ指示しといて、またポカしたら殺すからな!」
「ええっ!? それは怖いって!」
時春は思わず笑った。
すると、ノアも豪快に笑い始めた。
「ハハハッ! 冗談だよ、冗談!」
「全然冗談に聞こえなかったよ!」
「でもな、トキ」
ノアは時春の肩を軽く叩いた。
「今の話、気に入ったぜ」
その表情は、もう怒っていなかった。
むしろ、何か面白いことが始まるのを待っているような顔だった。
マイルズも笑いながら頷いた。
「まったくだ。俺たち、いつの間にかバラバラになってたな」
そして、仲間たちへ視線を向けた。
「お前ら! もう一回、最初からやり直そうぜ!」
「YEAH!!」
ノアが大きく答えた。
ライアンとジェイスも立ち上がり、トムが嬉しそうに拳を握る。マイクは短く頷くと、飲みかけのボトルをベンチへ置いた。
時春はそんな仲間たちを見つめながら、ふとヘイズコーチへ目を向けた。
コーチは少し離れた場所に立ち、腕を組んでいた。
目が合うと、ほんのわずかに口元を緩めた。
それだけだった。
しかし、時春には十分だった。
コーチは、自分に試合を任せてくれた。
日本で見たプレーを信じ、今日まで育ててくれた。
だったら、その期待に応えたい。
ただ、良いプレーをするだけではない。
仲間たち全員が、自分の力を出せるように。
あの日本の体育館で、何も考えずに夢中でボールを追いかけていた頃のように。
時春は大きく笑った。
「……よし! みんな、円陣組もう!」
その声に、選手たちが一斉に集まってきた。
◇
マイルズが時春の隣に立った。
反対側にはノアがいる。
マイク、トム、ライアン、ジェイス。そして、控えの選手たちも次々と集まり、肩を組んで大きな輪を作った。
時春はその中央に立っていた。
自分よりずっと背の高い仲間たちに囲まれながら、彼は一人ひとりの顔を見渡した。
さっきまで、あれほど怖かった。
十五点差という数字が、取り返しのつかないもののように感じられた。
自分の失敗でチームが負けることが怖くて、仲間たちの顔を見ることさえできなかった。
しかし、今は違った。
マイルズの顔が見える。
ノアの笑顔が見える。
マイクも、トムも、ライアンも、ジェイスも。
全員が、同じ方向を向いていた。
時春は、もう一度だけ深く息を吸った。
「……みんな!」
その声に、仲間たちが顔を向ける。
「後半、絶対に取り返そう!」
「YEAH!!」
ノアが大きく叫んだ。
時春は笑顔で続けた。
「俺たちならできるよ! 十五点差なんか、みんなでひっくり返そう!」
マイルズが力強く頷いた。
「そうだ! まだ終わっちゃいねえ!」
「LET’S GO!!」
ライアンとジェイスも声を張り上げた。
時春は中央へ右手を伸ばした。
その上に、マイルズの大きな手が重なる。
ノアも、マイクも、トムも。
全員の手が、一つに重なっていく。
誰かが強く握り締め、別の誰かがその上から手を重ねた。選手たちの肩が近づき、円陣は次第に小さく、固くなっていった。
時春は仲間たちの顔を見つめた。
そして、これまでにないほど大きな声で叫んだ。
「BREAKERS ON THREE!!」
全員が息を吸い込む。
「ONE!!」
「TWO!!」
「THREE!!」
「BREAKERS!!!」
その声は、体育館のざわめきを突き抜けるように響いた。
選手たちは勢いよく手を突き上げ、互いの肩を叩き合った。ノアが大声で笑い、マイルズも満足そうに拳を握る。トムは照れくさそうに笑い、マイクは静かに頷いた。
先ほどまでの重苦しさは、もうそこにはなかった。
時春は円陣の中央で、仲間たちと一緒に笑っていた。
その笑顔は、決勝戦の開始前に見せていたものとも、昨日の準決勝で勝利した直後のものとも違っていた。
自分が活躍しなければならないという緊張ではない。
誰かに勝利を任されているという重圧でもない。
仲間たちと一緒に、もう一度バスケットボールをしたい。
その気持ちが、何よりも強くなっていた。
ヘイズコーチは少し離れた場所から、その姿を静かに見つめていた。
彼が日本で初めて見た少年は、特別な得点記録を持っていたわけでも、圧倒的な身体能力を備えていたわけでもなかった。
しかし、あの少年がボールを持つと、なぜか周りの選手たちが輝き始めた。
パスがつながり、足が動き、迷いが消える。
五人の選手が、まるで一つの意思を持っているかのように攻撃を始める。
それこそが、ヘイズが時春をスカウトした理由だった。
そして今、彼は同じものを見ようとしていた。
まだ、ボールは一度も動いていない。
後半の試合は、始まってさえいない。
それでも、選手たちの表情が変わったことだけは、はっきりとわかった。
◇
観客席から、その様子を見つめている生徒たちがいた。
エマたちだった。
コーチに怒鳴られていたノアとマイルズが、いつの間にか笑顔になっていた。俯いていた時春が立ち上がり、何かを話し始めたことも見えた。選手たちがその周りへ集まり、最後には全員で円陣を組んでいた。
しかし、距離があるため、何を話しているのかまでは聞き取れなかった。
「……ねえ」
エマが小さく声を上げた。
「何か、雰囲気変わった?」
ゾーイはコートの方を眺めながら頷いた。
「……うん。さっきまでとは全然違うね」
ジェイクも身を乗り出した。
「おおっ! ノア、笑ってるじゃん!」
オーウェンは興奮した様子で声を上げた。
「トキが何か言ったんじゃねえの!?」
「たぶん、そうだと思う」
エイブリーが答えた。
ニーナは嬉しそうに笑っていた。
「何だか、みんな元気になったみたい!」
エマは、もう一度時春の姿を探した。
彼は仲間たちの真ん中で、満面の笑みを浮かべていた。
試合開始前に見せていた緊張した笑顔でも、前半に失敗したあとに浮かべていた無理な笑顔でもなかった。
いつもの時春だった。
いや、それ以上に楽しそうな顔をしていた。
エマはその姿を見て、思わず口元を緩めた。
「……よかった」
小さな声だった。
その隣で、ラリーが静かに頷いた。
彼は時春が何を話したのか、もちろん知らなかった。
バスケットボールの作戦も、誰が何をすべきなのかも、ほとんど理解していない。
しかし、あの笑顔なら知っていた。
ゲームで難しいステージを突破したとき。
新しい友達ができたとき。
何か面白いことを思いついたとき。
時春はいつも、あんなふうに笑うのだ。
ラリーは口元に小さな笑みを浮かべた。
「……どうやら、大丈夫みたいだね」