CRESCENT BAY ACADEMY   作:西野圭吾

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Season3 Championship
第1話 MVP


 一月十八日、月曜日。

 

 南カリフォルニアの朝は、昨日の熱狂など何も知らないような穏やかさに包まれていた。薄いカーテンの向こうには冬の青空が広がり、学生寮の中庭では、朝日に照らされたヤシの葉がゆっくりと揺れている。遠くから聞こえる鳥の声も、廊下を歩く生徒たちの足音も、普段と何ひとつ変わらない。それなのに、高山時春にとって、この朝はこれまでとは少し違うものだった。

 

 時春は、まだ眠気の残る目をこすりながら、ゆっくりと上半身を起こした。昨日は帰寮してからも興奮が収まらず、シャワーを浴びたあと、ベッドに入ってもしばらく眠れなかった。疲れているはずなのに、目を閉じるたびに決勝戦の光景が浮かんでくるのである。観客席を埋め尽くす人々、耳をつんざく歓声、最後のブザー。そして、仲間たちの笑顔。あれほど長く感じられた十六分間が、今では一瞬の出来事だったようにも思えた。

 

「……んん……」

 

 欠伸をしながら隣を見ると、ラリー・ナードはまだ布団の中にいた。ぼさぼさの癖っ毛が枕の上に広がり、メガネはベッド脇の小さな棚に置かれている。昨日は珍しくバスケットボールの試合を最初から最後まで観戦したせいか、帰ってきた途端に疲れたと文句を言っていた。それでも、結局は夜遅くまでパソコンに向かっていたのだから、普段と大して変わらない。

 

 時春は小さく笑い、自分の机へ目を向けた。そして、その隣にあるラリーの机を見たところで、思わず動きを止めた。

 

 朝日を浴びて、金色の何かが輝いていた。

 

「あっ……!」

 

 ファイナルMVPのトロフィーだった。

 

 小さな金色のトロフィーが、ラリーの机の一角に置かれている。正確には、モニターの横にある小さな棚の上だった。そこにはマインクラフトのフィギュアがいくつか並んでいて、緑色のクリーパーや四角い頭のスティーブ、細長い手足を持つエンダーマンたちが、それぞれ妙に真面目くさった顔で立っている。そして、その真ん中に、昨日受け取ったばかりのトロフィーが堂々と飾られていた。

 

 何とも不思議な光景だった。

 

 ラリーの机に並んでいるものといえば、パソコンの周辺機器やゲームのコントローラー、飲みかけの炭酸飲料、それに何のキャラクターなのかわからない小さな人形ばかりである。スポーツに関するものなど、これまで一つもなかった。その場所に、金色のバスケットボール選手をかたどったトロフィーがあるのだ。しかも、台座には自分の名前が刻まれている。

 

『TOKIHARU TAKAYAMA』

 

 時春はベッドから降り、そっと棚へ近づいた。昨日、表彰式で受け取ったときには、あまりにも嬉しくて、細かいところまで眺める余裕などなかった。こうして改めて見ると、金色の表面にはいくつもの小さな模様が刻まれ、台座も思っていた以上に立派な造りをしている。

 

「……すげえ」

 

 思わず呟くと、背後から眠たげな声が聞こえた。

 

「……朝から何を感動してるのさ」

 

「あっ、ラリー! おはよう!」

 

「……おはよう。声、大きい」

 

 ラリーは布団から顔だけを出し、まだ半分しか開いていない目でこちらを見た。時春が嬉しそうにトロフィーを指差すと、彼は何を言いたいのか察したらしく、少しだけ眉をひそめた。

 

「これ、ここに飾ったんだね!」

 

「……他に置く場所がなかったからね」

 

「めっちゃいいじゃん!」

 

「よくないよ。僕のクリーパーが隠れてる」

 

「えっ、そこ!?」

 

「大事な問題でしょ。あれ、限定のフィギュアなんだから」

 

 ラリーは当然のように答えた。時春は思わず吹き出したが、彼が冗談で言っているわけではないことも知っていた。ラリーにとって、バスケットボールのMVPトロフィーよりも、手に入りにくいマインクラフトのフィギュアの方が、よほど価値のあるものなのかもしれない。

 

 しかし、昨夜、トロフィーをどこへ置くかという話になったとき、ラリーは結局、自分の机に置くことを認めてくれた。時春が何度も「ラリーにあげたんだから、ラリーの好きなところに置いて」と言い続けた結果だった。彼は最後まで納得していないような顔をしていたが、それでもトロフィーを箱へしまい込むことはしなかった。

 

「……まあ、せっかくもらったんだし」

 

 ラリーは布団の中から棚を見た。

 

「捨てるわけにもいかないでしょ」

 

「捨てないでよ!?」

 

「冗談だって」

 

 彼は小さく笑うと、再び枕へ顔を沈めた。

 

 時春はそんなルームメイトを見つめて、少しだけ嬉しくなった。昨日、観客席でトロフィーを渡したとき、ラリーがどんな気持ちだったのかはわからない。きっと、困ったのだと思う。それでもこうして、彼の大切なゲームのフィギュアたちと一緒に飾ってくれている。その事実が、時春には何だかとても嬉しかった。

 

 やがて時春は自分のベッドへ戻り、枕元に置いてあったスマートフォンを手に取った。

 

 そして、画面をつけた瞬間だった。

 

「…………え?」

 

 思わず、目を疑った。

 

 ロック画面には、見たこともない数の通知が並んでいた。

 

 Instagramの通知。メッセージ。フォローのリクエスト。誰かが自分の投稿をストーリーで共有したという知らせ。それらが画面の上から下まで隙間なく並び、いくつかは件数すらまとめて表示されていた。

 

「……な、何これ!?」

 

 時春は慌ててInstagramを開いた。

 

 すると、さらに驚くことになった。

 

 昨日の決勝戦で撮影された写真に、大量のコメントが寄せられていたのである。学校の公式スポーツアカウントが投稿した優勝記念写真は、普段の投稿とは比較にならないほど多くの反応を集めていた。自分がタグ付けされている写真も次々と増え、見知らぬアカウントからのフォロー通知が絶え間なく届いている。

 

『トキ!! 昨日の試合、最高だった!!』

 

『あの逆転劇、まだ信じられない!』

 

『MVPおめでとう!!』

 

『ブレイカーズの小さいPG、マジで何者!?』

 

『昨日の試合見てファンになった!』

 

 そこまでは、まだ理解できた。

 

 しかし、画面をスクロールしていくと、明らかに学校の生徒ではなさそうな人々からのコメントが目につき始めた。

 

『TikTokから来ました! あのパス、鳥肌が立った』

 

『バスケのルールほとんど知らないけど、動画見て泣いちゃった』

 

『背が低くてもあんなプレーができるんだね。すごく勇気をもらった』

 

『He makes everyone better.』

 

『この子のプレー、もっと見たい!』

 

 時春はしばらく画面を見つめていた。

 

「……TikTok?」

 

 そう呟いて、コメントに貼られていたリンクを開いた。

 

 そこには、昨日の決勝戦を編集した短い動画があった。画面の隅には、見覚えのあるアカウント名が表示されている。

 

 MJだった。

 

 映画や映像制作が好きな友人は、昨日も観客席からカメラを構えていた。その映像を使い、決勝戦のハイライトを一本の動画にまとめていたらしい。

 

 動画は、前半終了時のスコアボードから始まっていた。

 

 四十対五十五。

 

 十五点差。

 

 俯いたままベンチに座っている時春。苛立った表情のノア。沈黙するマイルズ。そこから音楽が少しずつ大きくなり、後半の映像へ切り替わる。

 

 マイルズのスクリーンを利用して切り込む時春。マイクのスリーポイント。トムのゴール下での得点。そして、ノアへ送られた鋭いパスからの豪快なダンク。次々と映像が重なり、最後には、勝利を告げるブザーとともに選手たちがコートへ飛び出してくる。

 

 そして、動画の最後。

 

 ファイナルMVPのトロフィーを抱えた時春が、観客席へ駆け上がっていく。

 

 その先にいたラリーへ、笑顔でトロフィーを差し出す。

 

 映像は、二人が並んで笑っているところで終わっていた。

 

 時春は、しばらく何も言えなかった。

 

「……すご……」

 

 小さく呟いて、もう一度再生する。

 

 今度は、自分のプレーではなく、仲間たちの表情に目が向いた。ノアが笑っている。マイルズが拳を突き上げている。マイクが珍しく声を上げ、トムが両手を握り締めている。昨日は夢中でプレーしていたから、彼らがこんな表情をしていたことに、ほとんど気づかなかった。

 

 動画の下には、無数のコメントが並んでいた。

 

『最後に友達へトロフィー渡すの、反則でしょ』

 

『このチーム、雰囲気良すぎる』

 

『プレーもすごいけど、何よりみんなが楽しそう』

 

『最後のメガネの子とのシーンで泣いた』

 

 時春は思わず笑顔になった。

 

「……ラリー!」

 

「……何」

 

「これ見て! ラリーも映ってる!」

 

「……知ってる」

 

「えっ?」

 

 振り返ると、ラリーはいつの間にかスマートフォンを握っていた。その顔には、先ほどまでの眠気とは別の、何とも言えない疲労が浮かんでいる。

 

「昨日の夜から、ゲームクラブの連中に散々送られてきてるんだよ。オーウェンなんか、僕の顔を切り抜いた画像まで作ってさ」

 

「ええっ! 見せて!」

 

「絶対嫌だ」

 

「何で!?」

 

「君のせいで、僕まで有名になりかけてるからだよ!」

 

 ラリーはスマートフォンを時春へ向けた。

 

 そこには、学校の公式アカウントに寄せられた一つのコメントが表示されていた。

 

『ところで、MVPトロフィー持ってるメガネの子、誰?』

 

 時春は一瞬、黙った。

 

 それから、堪えきれずに笑い出した。

 

「あははははっ!」

 

「笑い事じゃないんだけど!」

 

「だって! ラリー、めっちゃ注目されてるじゃん!」

 

「だから嫌なんだってば!」

 

 ラリーは本気で困った顔をしていたが、時春はしばらく笑いを止められなかった。机の上では、金色のトロフィーが朝日に照らされている。その隣にいるクリーパーは、相変わらず何も考えていなさそうな顔をしていた。

 

 世界中の誰かが、自分たちの昨日を見ている。

 

 そのことは、まだ時春にはうまく実感できなかった。ただ、知らない誰かが自分のプレーを見て喜び、勇気をもらったと書いてくれている。それが不思議で、少し照れくさくて、そして何より嬉しかった。

 

 けれど、画面を閉じる前に、時春はもう一度だけ動画の最後を見た。

 

 そこには、トロフィーを抱えて困った顔をしているラリーと、その隣で笑う自分がいた。

 

 昨日の勝利がどれほど大きなものだったとしても、こうして朝になれば、また同じ部屋で目を覚ます。そのことが、今は何よりありがたかった。

 

     ◇

 

 その日のクレセントベイ・アカデミーは、いつもより少しだけ騒がしかった。

 

 もちろん、学校そのものに大きな変化があったわけではない。授業は普段通りに始まり、生徒たちは教科書を抱えて教室を移動している。中庭のベンチでは誰かが朝食のサンドイッチを食べ、校舎の前では教師が遅刻しそうな生徒を呼び止めていた。しかし、ブレイカーズが昨日の招待大会で優勝したことは、すでに多くの生徒たちの間で話題になっていた。

 

 時春がカフェテリアへ入ると、何人もの生徒がこちらへ手を振ってきた。

 

「Hey, Toki! 昨日すごかったぞ!」

 

「MVP! おめでとう!」

 

「次の試合も期待してるからな!」

 

 時春はそのたびに嬉しそうに笑い、何度も手を振り返した。もちろん、これまでも試合で良いプレーをすれば声をかけてもらうことはあった。だが、今日はその数が明らかに多い。普段ならすれ違っても挨拶をしない上級生まで親指を立ててくれるのだから、何だか少し照れくさかった。

 

 そんな時春を見つけた瞬間、カフェテリアの奥から大きな声が響いた。

 

「TOKIIII!!」

 

「うわっ!?」

 

 ジェイク・ハリスだった。

 

 彼はトレーを片手に立ち上がると、まるで昨日の決勝戦がまだ続いているかのような勢いで両手を広げた。

 

「Bro! 昨日の動画見たか!? めちゃくちゃ伸びてんぞ!」

 

「見た見た! MJのやつでしょ!?」

 

「そう! 俺なんか昨日の夜から十回以上見たぜ!」

 

「十回も!?」

 

「当たり前だろ! お前がノアにパス出すところ、何回見ても最高なんだよ!」

 

 ジェイクは興奮した様子で身振りを交えて説明し始めた。時春が席に着く頃には、彼の手によってナプキンが一枚床へ落ち、飲みかけのジュースが倒れそうになっていた。隣に座っていたゾーイが呆れた顔でそれを押さえ、エマは声を上げて笑っていた。

 

「ジェイク、少し落ち着きなよ。まだ朝なんだけど」

 

「朝だから何だよ! 昨日優勝したんだぞ!」

 

「知ってるよ。私たちも会場にいたからね」

 

 ゾーイが冷静に答えると、ジェイクは一瞬言葉に詰まった。しかし、すぐに時春へ向き直り、今度は昨日の表彰式での出来事を大げさに語り始めた。彼によれば、時春がラリーへトロフィーを渡した瞬間、観客席の半分くらいが感動して泣いていたらしい。さすがにそれは盛りすぎだろうと思ったが、ジェイク本人は至って真面目な顔をしていた。

 

「でも、ほんとにすごかったよ、トキ」

 

 そのとき、エマが穏やかな声で言った。

 

 時春が顔を向けると、彼女は柔らかく微笑んでいた。昨日も観客席からずっと応援してくれていたエマは、試合が終わったあと、誰よりも嬉しそうに駆け寄ってきてくれた。そのときの笑顔を思い出すと、時春の胸の奥が自然と温かくなる。

 

「昨日の後半、トキがすっごく楽しそうだったから。見てる私まで嬉しくなっちゃった」

 

「……ほんと?」

 

「うん。前半はちょっと心配だったけどね」

 

「ははっ……あれは俺もめっちゃ怖かった」

 

 時春は苦笑した。

 

 昨日の前半を思い返せば、今でも少し胸が苦しくなる。何度もボールを奪われ、相手に狙われ、自分のせいでチームが負けるのではないかと怯えていた。あのときは、こんなふうに笑って話せるようになるとは思ってもいなかった。

 

「でも、最後はちゃんとみんなのこと見られたから」

 

 時春はそう言って、小さく笑った。

 

「俺、やっぱりみんなとバスケするのが好きなんだなって思った」

 

 エマはしばらく時春を見つめていた。それから、何かを確かめるようにゆっくりと頷いた。

 

「……うん。トキらしいね」

 

 その言葉が、時春には何だかとても嬉しかった。

 

 すると、向かい側でスマートフォンを操作していたゾーイが、突然顔を上げた。

 

「そういえばトキ。昨日の写真、学校新聞でも使わせてもらうことになったから」

 

「えっ! ほんと!?」

 

「うん。もちろん、ラリーがトロフィー持ってるやつ」

 

 その瞬間、時春の隣で朝食を食べていたラリーの手が止まった。

 

「……は?」

 

「いい写真だったから。あれ、今週の記事のメインにする予定」

 

「ちょっと待って。僕、何も聞いてないんだけど」

 

「今言ったじゃん」

 

「そういう問題じゃないよ!」

 

 ラリーの抗議に、テーブルはまた笑い声に包まれた。

 

 時春は笑いながらスマートフォンを取り出した。画面には、また新しい通知が届いている。マディソンからもメッセージが来ていて、昨日の試合を褒める言葉と、たくさんの拍手の絵文字が並んでいた。彼女も動画を見てくれたらしく、最後の場面が素敵だったと書かれている。

 

 時春が嬉しそうに返信していると、ゾーイが隣からそっと画面を覗き込んだ。

 

「……あら」

 

「ん?」

 

「マディから?」

 

「うん! 昨日の動画見てくれたんだって!」

 

「へえ……そう」

 

 ゾーイは何とも言えない表情で頷き、ちらりとエマを見た。エマは何事もなかったようにオレンジジュースを飲んでいたが、ストローを持つ指がほんの少し止まっていた。

 

 もっとも、当の時春はそんなことにはまるで気づいていなかった。彼は届いたメッセージを一つずつ読みながら、何度も嬉しそうに笑っていた。

 

 日本からアメリカへ渡って、およそ五か月。

 

 初めてこのカフェテリアへ来た頃、時春は周囲の会話を聞き取ることさえ難しかった。誰かが笑っていても、何が面白いのかわからず、ただ一人で食事をしていた日もあった。そのときの自分に、今の光景を見せたら、きっと驚くだろう。

 

 目の前には、くだらないことで笑い合える友達がいる。

 

 隣には、文句を言いながらも毎日一緒に暮らしているルームメイトがいる。

 

 そして放課後になれば、体育館で待っている仲間たちがいる。

 

 画面の向こうに増え続けるフォロワーの数は、確かに嬉しかった。しかし、時春にとって本当に大切なものは、もっと近いところにあった。

 

     ◇

 

 招待大会が終わっても、ブレイカーズのシーズンが終わったわけではなかった。

 

 むしろ、本当の戦いはここからだった。

 

 一月も後半に入ると、リーグ戦はますます重要な時期を迎えていた。同じリーグに所属する学校との試合が続き、その一つひとつの結果がCIFサザンセクションのプレーオフへ向けた順位に影響する。招待大会で優勝したことは大きな自信になったが、それだけでプレーオフへの出場が保証されるわけではない。

 

 翌日の放課後、体育館に集まった選手たちを前に、グラント・ヘイズコーチはいつも通りの厳しい表情で立っていた。

 

「まず、昨日の優勝についてはもう一度おめでとうと言っておこう。お前たちはよく戦った。十五点差から逆転したことも、最後まで諦めなかったことも、誇っていい」

 

 選手たちの顔に笑みが広がる。ノアは隣のマイルズと拳を合わせ、トムも嬉しそうに頷いていた。しかし、ヘイズはそこで一度言葉を切り、ホワイトボードへ視線を向けた。

 

「だが、その大会は終わった。俺たちは今週からリーグ戦へ戻る。次の相手が、昨日の優勝を見て手加減してくれると思うか?」

 

「NO, COACH!」

 

「そうだ。むしろ、これまで以上に警戒してくるだろう。お前たちのプレーは研究される。得意な攻撃を止めようとしてくる。昨日まで通用していたことが、明日も通用するとは限らん」

 

 ヘイズは選手たちを見渡し、最後に時春へ目を向けた。

 

「トキハル」

 

「はい!」

 

「イーサンについては、まだ医師の許可が下りていない。目の周囲の腫れは少しずつ引いてきているが、復帰を急がせるつもりはない。したがって、しばらくはお前に先発ポイントガードを任せる」

 

 時春は思わず背筋を伸ばした。

 

「……俺が、引き続きですか?」

 

「そうだ。昨日の一試合だけで終わりだと思っていたのか?」

 

「い、いえ!」

 

「なら、準備しておけ。お前の仕事は、トロフィーを眺めることじゃない。次の試合でチームを勝たせることだ」

 

「Yes, Coach!」

 

 時春が力強く答えると、ヘイズは短く頷いた。

 

 先発ポイントガード。

 

 その言葉を聞いても、もう昨日ほど怖くはなかった。もちろん、まだ緊張はする。自分がコートに立っている間、チームの攻撃を組み立てなければならないという責任も、以前と変わらず大きい。それでも、昨日の後半を経験したことで、時春の中には一つの確かな感覚が残っていた。

 

 自分一人で、何もかもやる必要はない。

 

 仲間を見つければいい。

 

 彼らがもっとも力を発揮できる場所へ、ボールを届ければいいのだ。

 

 その日の練習で、時春はいつも以上に声を出した。マイクへスクリーンを使うタイミングを伝え、ノアがゴールへ切り込む瞬間を見逃さず、マイルズとは何度もピック・アンド・ロールを繰り返した。トムにも積極的にボールを要求するよう声をかけ、少し高い位置へ浮かせたパスを何度も送った。昨日の試合で見つけた感覚を、偶然の成功で終わらせたくなかった。

 

 しかし、練習が終わる頃には、時春はヘイズから何度も注意を受けることになった。

 

「トキ! 今のパスは遅い!」

 

「はい!」

 

「相手が寄ってから出すんじゃない! 寄る前に次の動きを見ろ!」

 

「Yes, Coach!」

 

「それから、ディフェンス! 昨日の後半でうまくいったからといって、毎回マイルズが助けに来られると思うな!」

 

「はいっ!」

 

 ノアが隣で笑っていたが、次の瞬間には彼もヘイズから叱られていた。

 

「ノア! お前も笑ってる暇があったら戻れ!」

 

「Oh, man!」

 

「追加で五本走りたいのか?」

 

「NO, COACH!」

 

 結局、練習はいつも通りの厳しさだった。

 

 それが、時春には少し嬉しかった。

 

 昨日の自分がどれほど活躍しても、今日の自分にはまだ足りないものがある。ヘイズコーチは、そのことを決して忘れさせてくれない。だからこそ、時春も安心して次の一歩を踏み出すことができた。

 

 そして、数日後。

 

 ブレイカーズはリーグ戦のコートへ戻った。

 

 時春は再び先発メンバーとして名前を呼ばれ、マイルズ、ノア、マイク、トムとともにセンターサークルへ向かった。観客席には、以前よりも多くの生徒たちが集まっていた。招待大会の動画を見て試合に興味を持った者もいるらしく、ウォーミングアップの最中から時春へ向けて声援が飛んでくる。

 

「TOKI! LET’S GO!」

 

 時春は嬉しそうに手を振った。

 

 しかし、試合が始まると、すぐに現実を思い知らされることになった。

 

 相手チームは時春がボールを運ぶと、センターライン付近から二人がかりでプレッシャーをかけてきたのである。小柄なポイントガードの視界を塞ぎ、パスコースを限定し、簡単に攻撃を組み立てさせない。招待大会の動画を研究したのか、それとも元々そうした守備を得意としていたのかはわからないが、相手は明らかに時春を狙っていた。

 

 最初の数分間、時春は思うようにボールを運べなかった。無理にドリブルで抜こうとして進路を塞がれ、一度はパスを奪われてしまった。観客席から小さなため息が聞こえ、時春の胸にも一瞬、昨日の前半に似た冷たいものが広がった。

 

 しかし、今度は俯かなかった。

 

「マイルズ! 上がって!」

 

 時春が声をかけると、マイルズがすぐにハイポストへ移動した。時春はボールを彼へ預け、自分は相手ディフェンダーの背後へ走り込む。マイルズからボールが戻ってくると、時春の目の前には広い空間ができていた。相手のセンターがヘルプへ出てくる。その瞬間、右コーナーでマイクが手を上げた。

 

 迷う必要はなかった。

 

 鋭いパスがコートを横切る。

 

 マイクはボールを受け取ると、ほとんど無駄のない動作でシュートを放った。

 

 ボールが高い弧を描き、ネットを揺らす。

 

「THREE!!」

 

 ノアの叫び声が体育館に響いた。

 

 時春は嬉しそうに拳を握り、すぐに守備へ戻った。

 

 試合は決して簡単なものではなかったが、ブレイカーズは少しずつ自分たちのリズムを取り戻していった。時春がボールを運べないときにはマイルズが助け、マイクが厳しくマークされればノアがリングへ切り込む。トムはゴール下で体を張り、何度も貴重なリバウンドを奪った。誰か一人が止められても、別の誰かが動けばいい。その考え方が、少しずつチーム全体に根づき始めていた。

 

 ブレイカーズは、その試合を勝ち切った。

 

 しかし、すべての試合が順調だったわけではない。

 

 次の週には、相手の激しいディフェンスに苦しめられ、最後まで接戦を強いられた日もあった。時春のパスが読まれて速攻を許すこともあれば、ノアが無理なシュートを打ってマイルズに叱られることもあった。マイクのスリーポイントがなかなか決まらない日もあったし、トムがリバウンドで大きな相手に押し負ける場面もあった。

 

 それでも、チームは少しずつ前へ進んでいた。

 

 時春はその中心で、何度もボールを運んだ。

 

 招待大会で手に入れた自信は、決して万能なものではなかった。相手が変われば、また新しい問題に直面する。昨日できたことが、今日できなくなる日もある。それでも、以前とは違って、時春は失敗したあとに仲間たちの顔を見るようになっていた。

 

 マイルズはいつも、次のプレーを考えている。

 

 ノアは失敗しても、すぐにまたリングへ走ろうとする。

 

 マイクは外したシュートのことなど気にせず、次のパスを待っている。

 

 トムは何度もゴール下で手を上げる。

 

 その一つひとつが、時春を支えていた。

 

 そして、ベンチにはもう一人、忘れてはならない先輩がいた。

 

     ◇

 

 一月も終わりに近づいた頃。

 

 イーサン・コールが、ようやく本格的なチーム練習へ戻ってきた。

 

 準決勝で負傷した左目の周囲には、まだわずかに傷の跡が残っていた。しかし、腫れはほとんど引き、視界の異常もなくなっていた。医師による再検査を経てプレー再開の許可が下りたものの、ヘイズはすぐに以前と同じ出場時間を与えるつもりはなかった。

 

「イーサン。しばらくはベンチからだ。試合に出すとしても短い時間から始める。無理に取り戻そうとするな」

 

「わかってます、コーチ」

 

 イーサンは落ち着いた声で答えた。

 

 その隣に立っていた時春は、少しだけ複雑な気持ちになっていた。イーサンが戻ってきたことは、心から嬉しい。彼は自分にとって大切な先輩であり、ポイントガードとして多くのことを教えてくれた相手だった。怪我をしたときには本当に心配したし、こうしてまた一緒に練習できることが何より嬉しかった。

 

 しかし、それと同時に、もう一つの感情があった。

 

 自分は今、先発ポイントガードとして試合に出ている。

 

 イーサンが復帰すれば、いずれそのポジションを巡って再び競争が始まる。チームにとっては良いことなのだとわかっていても、せっかく手に入れたこの場所を、簡単に手放したいとは思わなかった。

 

 練習が終わったあと、時春が一人でシュートを打っていると、背後から声が聞こえた。

 

「調子よさそうだな、トキ」

 

「あっ、イーサン!」

 

 振り返ると、イーサンがボールを片手に立っていた。時春が笑顔で駆け寄ると、彼も嬉しそうに拳を差し出した。

 

「復帰おめでとうございます!」

 

「ありがとな。お前も、ずいぶん立派なスターターになったじゃないか」

 

「いや、まだまだですよ!」

 

「そうか? 試合を見てる限りじゃ、結構いい感じだったけどな」

 

 イーサンはそう言って笑った。

 

「特にマイルズとの連携。あれはなかなかいい。俺が休んでる間に、ずいぶん仲良くなったんだな」

 

「めっちゃ助けてもらってます!」

 

「だろうな。あいつは頼れるからな」

 

 イーサンはボールを軽く床へ弾ませた。その動きは以前と変わらず滑らかで、時春は思わず見入ってしまった。まだ本調子ではないのかもしれないが、ボールを扱う技術は相変わらず見事だった。

 

 しばらくして、イーサンがふと真面目な顔になった。

 

「……なあ、トキ」

 

「はい?」

 

「今、スターターやってて楽しいか?」

 

 時春は一瞬、目を丸くした。

 

 それから、少し考えて答えた。

 

「……はい。めっちゃ楽しいです」

 

「そっか」

 

「でも、難しいです。相手に狙われることも多いし、まだミスも結構するし……」

 

 時春はボールを両手で持ち直した。

 

「それでも、もっと試合に出たいです」

 

 言い終わってから、少しだけ緊張した。

 

 目の前にいるのは、これまでチームの正ポイントガードを務めてきた先輩だ。その相手に向かって、もっと試合に出たいと言うのは、ある意味ではポジションを渡したくないと宣言しているようなものだった。

 

 しかし、イーサンは怒らなかった。

 

 むしろ、嬉しそうに笑った。

 

「……いいね」

 

「えっ?」

 

「前にも言っただろ。俺から学べるものは全部盗んでいいって」

 

「……はい!」

 

「その代わり、俺も簡単にポジションを譲るつもりはないからな」

 

 イーサンはにやりと笑った。

 

「怪我が治ったら、また本気で取りに行くぜ」

 

 時春はその言葉を聞いて、思わず笑顔になった。

 

「……俺も、負けません!」

 

「ははっ! その調子だ」

 

 二人は拳を合わせた。

 

 そこには、以前のような遠慮はなかった。

 

 先輩と後輩。スターターと控え。教える側と教わる側。そうした関係は、これからも変わり続けるのかもしれない。しかし、どちらも同じチームを勝たせたいと願っていることだけは、はっきりしていた。

 

 体育館の向こうでは、ノアがマイルズと何やら言い争っていた。

 

「だから俺にパス回せって言ってんだろ!」

 

「お前がちゃんと空いたらな!」

 

「Bro! 俺はいつだって空いてるだろ!」

 

「だったら自分のディフェンダーを見てみろ!」

 

 マイクが呆れたように首を振り、トムは二人を止めるべきか迷っているらしかった。

 

 時春とイーサンは顔を見合わせた。

 

 そして、同時に笑った。

 

 いつものブレイカーズだった。

 

     ◇

 

 二月に入ると、クレセントベイの街には少しずつ春の気配が漂い始めていた。

 

 もっとも、南カリフォルニアの冬は日本ほど寒くない。昼間になれば薄手のパーカーだけで過ごせる日もあり、キャンパスの芝生は相変わらず鮮やかな緑色をしている。それでも朝晩の風には冷たさが残り、夕暮れになると、生徒たちは自然と上着のファスナーを閉めるようになっていた。

 

 そんなある日の昼休み。

 

 エマはカフェテリアで、時春と何気ない話をしていた。

 

「そういえば、トキって二月生まれなんだよね?」

 

「うん!」

 

「何日だっけ?」

 

「六日!」

 

「……六日?」

 

「うん! 二月六日!」

 

 時春は嬉しそうに頷いた。

 

「もうすぐ十六歳になるんだよ!」

 

「えっ、ほんとにもうすぐじゃん!」

 

「そうなんだよ! でも、アメリカで誕生日迎えるの初めてだから、何か変な感じ!」

 

 時春は笑いながら、手元のサンドイッチを一口かじった。

 

「日本にいるときは、誕生日になると家族でご飯食べたりしてたんだけどさ。こっちだと普通に学校ある日もあるじゃん? まあ、今年は土曜日だからいいんだけど!」

 

 エマは黙って頷いていた。

 

「……そっか。六日なんだ」

 

「うん!」

 

「何か予定あるの?」

 

「んー、特にないかな。試合の予定とかもあるし、たぶん普通に過ごすと思う!」

 

「そっか」

 

 エマは柔らかく笑った。

 

「じゃあ、楽しみだね。十六歳」

 

「うん! でも、あんまり実感ないけど!」

 

 時春はそう言って笑い、再びサンドイッチへ手を伸ばした。

 

 その向かい側で、ゾーイが静かにスマートフォンを取り出したことにも気づかなかった。

 

 エマも、彼が食事を続けているのを確認してから、ほんの少しだけゾーイへ視線を向けた。

 

 二人の目が合う。

 

 ゾーイは小さく頷いた。

 

 そして、画面の中で何かを打ち始めた。

 

     ◇

 

 その日の放課後。

 

 時春の知らないところで、一つの計画が動き始めていた。

 

 場所は、学生寮の共用ラウンジ。

 

 普段ならソファに寝転がってゲームをする生徒や、宿題を広げている生徒たちで賑わう場所だったが、今日は少し様子が違っていた。大きなテーブルの周りには、エマ、ジェイク、ゾーイ、ラリー、オーウェン、エイブリー、ニーナ、そしてMJたちが集まっていた。

 

 テーブルの中央には、一枚のノートが置かれている。

 

 その一番上には、大きな文字でこう書かれていた。

 

『TOKI’S 16TH BIRTHDAY』

 

「……というわけで!」

 

 ジェイクが勢いよく両手を叩いた。

 

「トキの誕生日サプライズをやるぞ!!」

 

「ジェイク、声!」

 

 ゾーイが慌てて注意した。

 

「ここ寮なんだから! トキに聞こえたらどうすんの!」

 

「いや、あいつ今体育館だろ?」

 

「そうだけど、いつ帰ってくるかわからないでしょ!」

 

「OK、OK! わかったって!」

 

 ジェイクは両手を上げたが、興奮した表情はまったく変わっていなかった。

 

 エマはそんな二人を見ながら、小さく笑った。

 

「でも、ほんとにみんなでお祝いしたいよね。トキ、アメリカで初めての誕生日だし」

 

「そうだね」

 

 ゾーイが頷いた。

 

「しかも、ちょうど十六歳になるんでしょ。せっかくだから、ちゃんとしたパーティーにしたい」

 

「Sweet 16ってやつだな!」

 

 ジェイクが得意そうに言った。

 

「俺たちで最高の誕生日にしてやろうぜ!」

 

「……ねえ」

 

 そのとき、ラリーが小さく手を上げた。

 

「一つだけ確認していい?」

 

「ん? 何だよ、ラリー」

 

「どうして僕まで参加してるの?」

 

 一瞬、全員が黙った。

 

 それから、オーウェンが呆れた顔で答えた。

 

「Bro。お前、トキのルームメイトだろ」

 

「知ってるよ。毎日同じ部屋で寝てるんだから」

 

「じゃあ参加するに決まってんじゃん!」

 

「どういう理屈?」

 

 ラリーは眉をひそめた。

 

「それに、僕はこういう大人数のイベントが得意じゃないんだけど」

 

「でも、ラリーがいなかったらトキにバレちゃうかもしれないよ?」

 

 エマがそう言うと、ラリーは少しだけ考え込んだ。

 

「……それは、まあ」

 

「だって、トキがいつ部屋にいるかとか、何してるかとか、一番わかるのラリーでしょ?」

 

「……うん」

 

「だから、協力してほしいな」

 

 エマは優しく微笑んだ。

 

 ラリーはしばらく彼女の顔を見ていた。それから、大きなため息をつく。

 

「……わかったよ」

 

「やった!」

 

「ただし、僕に変な衣装を着せたり、みんなの前で踊らせたりするのは絶対にやめてよね」

 

「えー! クリーパーの着ぐるみとか似合いそうなのに!」

 

「ジェイク。今の発言で僕の参加意欲が半分消えた」

 

 周囲から笑い声が上がった。

 

 しかし、笑ってばかりもいられなかった。

 

 誕生日は二月六日。

 

 もう、それほど時間が残っていない。

 

 ゾーイはノートを開き、具体的な準備について話し始めた。まずは場所の確保だった。寮のラウンジを使うなら、寮長役のベンに相談し、時間や人数について許可をもらう必要がある。食べ物はどうするか。飾り付けは誰が担当するか。ケーキはどこで用意するか。そして、何より重要なのは、時春本人に絶対に気づかれないようにすることだった。

 

「飾り付けは私とエマでやるよ。グレースたちにも声をかけてみる」

 

 ゾーイが言うと、エマも頷いた。

 

「うん! あと、ケーキも考えたいな」

 

「ケーキならダニーズで何か用意してもらえねえかな?」

 

 ジェイクが提案した。

 

「ダニーに相談してみるね。でも、普通のケーキじゃちょっとつまらないかも」

 

 エマは少し考えた。

 

「トキが好きなものを入れたいな」

 

「……だったら」

 

 それまで黙っていたラリーが、ぽつりと口を開いた。

 

「マインクラフトでいいんじゃない?」

 

 全員の視線が集まった。

 

「……マインクラフト?」

 

「うん。あいつ、バスケと同じくらい好きだし」

 

 ラリーは平然と続けた。

 

「クリーパーの形とかにすれば、絶対喜ぶと思うよ。あいつ、ハロウィーンのときもクリーパーの頭をかぶって大騒ぎしてたからね」

 

 エマの表情がぱっと明るくなった。

 

「あっ! それいい!」

 

「だろ?」

 

「クリーパーのケーキかあ! 絶対可愛い!」

 

 ジェイクも楽しそうに笑った。

 

「最高じゃん! じゃあ俺、爆発する仕掛け作る!」

 

「絶対やめて」

 

 ラリーが即答した。

 

「ケーキが爆発してどうするんだよ」

 

「冗談だって!」

 

「君の冗談はときどき本当に怖いんだよ」

 

 そんなやり取りをしているうちに、ラウンジのテーブルは少しずつ賑やかになっていった。

 

 MJは昨日の決勝戦で撮影した映像を使い、短いバースデームービーを作ることを提案した。イジーはその映像に使う音楽を考えると言い、テオは他の友人たちにも声をかけてくれるらしかった。オーウェンはゲームクラブの仲間たちを集め、エイブリーとニーナはプレゼントについて相談し始めた。

 

 そして、そこへ新しい声が加わった。

 

「ねえ! 私も参加していい?」

 

 全員が振り返った。

 

 そこには、マディソン・リードが立っていた。

 

「あっ、マディ!」

 

 エマが少し驚いたように声を上げた。

 

 マディソンは明るく笑いながら近づいてきた。

 

「トキの誕生日でしょ? ゾーイから聞いたんだけど!」

 

「うん! 今みんなで計画してるところ!」

 

「よかった! 私も何か手伝いたいな!」

 

 彼女はそう言って、楽しそうにノートを覗き込んだ。マディソンは普段から学校のイベントや友人たちの集まりによく参加しているらしく、飾り付けやプレゼントの案が次々と出てきた。ゾーイも感心したように頷き、いくつかの案をノートへ書き加えていく。

 

 エマはその様子を見ながら、小さく微笑んでいた。

 

 時春の誕生日を祝いたい。

 

 その気持ちは、きっとみんな同じなのだ。

 

 少なくとも今は、そのことが嬉しかった。

 

 やがてラウンジの入口から、さらに大きな声が聞こえてきた。

 

「YOOOO!!」

 

「……ああ、もう」

 

 ゾーイが額を押さえた。

 

 やって来たのは、ノア・レイノルズだった。その後ろにはマイルズ、マイク、トム、ライアン、ジェイス、そして復帰したばかりのイーサンの姿もあった。

 

「何だよ何だよ! リトルマンの誕生日パーティーだって!?」

 

「ノア! 声小さくしてってば!」

 

「おっと、悪い悪い!」

 

 ノアは笑いながら両手を上げたが、その声は相変わらず大きかった。

 

 マイルズが呆れたように肩をすくめる。

 

「だからお前は静かに入れって言っただろ」

 

「いや、誕生日だぞ!? 盛り上がらねえ方がおかしいだろ!」

 

「まだ本人の誕生日じゃない」

 

 マイクが冷静に言った。

 

「しかもサプライズなんだから、本人に聞こえたら終わりだろ」

 

「……なるほど」

 

 ノアは真面目な顔で頷いた。

 

 そして、次の瞬間。

 

「だったら絶対成功させようぜ!!」

 

「だから声!!」

 

 ゾーイの叫び声に、ラウンジは再び笑いに包まれた。

 

 そんな中、マイルズはエマたちの説明を聞きながら、ゆっくりと頷いていた。

 

「……いいじゃねえか」

 

「ほんと?」

 

「ああ。あいつには随分助けられたからな。誕生日くらい、盛大に祝ってやりたい」

 

 マイルズはそう言って笑った。

 

「チームの連中にも声をかけておく。試合の予定を確認して、うまく時間を作ろう」

 

「ありがとう、マイルズ!」

 

 エマが嬉しそうに答えると、その隣でイーサンも小さく笑った。

 

「俺も賛成。トキには世話になってるしな」

 

「お前、怪我してた間、あいつに先発任せっきりだったもんな!」

 

 ノアが笑う。

 

「まあな。でも、あいつもよくやってくれたよ」

 

 イーサンはそう言って、少しだけ目を細めた。

 

「せっかくだから、ちゃんとお祝いしてやろうぜ」

 

 その言葉に、全員が頷いた。

 

 時春は知らない。

 

 自分がいないところで、これほど多くの人々が自分のために集まっていることを。

 

 日本からアメリカへやって来た頃、彼にはまだ何もなかった。

 

 英語は十分に話せず、友達もほとんどいなかった。広いキャンパスの中で迷い、食堂では一人で食事をし、夜になると日本の家族を思い出していた。新しい環境への期待に胸を膨らませながらも、ときには自分の居場所がどこにあるのかわからなくなることもあった。

 

 しかし、今は違う。

 

 彼がいない場所で、彼のことを考えている人たちがいる。

 

 彼を喜ばせるために、時間を使おうとしている人たちがいる。

 

 それは、どんなトロフィーにも刻むことのできない、もう一つの大切なものだった。

 

     ◇

 

 その夜。

 

 練習を終えて寮へ戻ってきた時春は、いつも通りの足取りで部屋のドアを開けた。

 

「ただいまー!」

 

「……おかえり」

 

 ラリーはパソコンの前に座っていた。大きなモニターにはマインクラフトの世界が映し出され、キーボードの横には飲みかけの炭酸飲料が置かれている。机の一角では、あの金色のトロフィーが今日も静かに輝いていた。

 

「ラリー! 今日さ、イーサンと一緒に練習したんだけど!」

 

「……うん」

 

「めっちゃうまいんだよ! まだ怪我明けなのに、ドリブルとか全然鈍ってなくてさ!」

 

「……へえ」

 

「俺ももっと頑張んなきゃなって思った!」

 

「……そう」

 

 ラリーは相変わらず素っ気なく答えた。

 

 しかし、時春はそんなことをまったく気にしていなかった。ベッドへ腰を下ろすと、バッグから練習着を取り出し、今日の出来事を楽しそうに話し続ける。ラリーはときどき適当な相槌を打ちながら、画面の中で石造りの建物を作っていた。

 

 いつもと変わらない夜だった。

 

 時春はしばらく話してから、ふと思い出したように顔を上げた。

 

「あっ、そうだ!」

 

「……何?」

 

「俺さ、もうすぐ誕生日なんだよ!」

 

 ラリーの指が、一瞬だけ止まった。

 

「……へえ」

 

「二月六日!」

 

「……そうなんだ」

 

「十六歳になるんだよ! すごくない!?」

 

「……人間って、普通に生きてたら一年ごとに歳を取るんだよ」

 

「いや、そうだけどさ!」

 

 時春は笑った。

 

「でも、アメリカで誕生日迎えるの初めてなんだよね。何か不思議!」

 

「……ふうん」

 

 ラリーはメガネを押し上げた。

 

「……何か欲しいものでもあるの?」

 

「えっ?」

 

「誕生日プレゼントとか」

 

 時春は少し考え込んだ。

 

 欲しいもの。

 

 新しいバスケットシューズ。ゲーム。日本のお菓子。思いつくものはいくつもあったが、どれも今すぐ欲しいというほどではなかった。

 

「……んー」

 

 しばらくして、時春は笑った。

 

「特にないかな!」

 

「……ないの?」

 

「うん! 今めっちゃ楽しいし!」

 

 ラリーは少しだけ顔を上げた。

 

 時春はベッドに腰掛けたまま、窓の外を眺めていた。

 

「バスケもできてるし、友達もいっぱいいるしさ。ラリーとゲームもできるし!」

 

 それから、嬉しそうに笑った。

 

「今、結構幸せなんだよね!」

 

 ラリーはしばらく何も言わなかった。

 

 やがて、再びモニターへ向き直る。

 

「……そっか」

 

 小さな声だった。

 

「……なら、よかったじゃない」

 

「うん!」

 

 時春は満面の笑みで頷いた。

 

 そして、何事もなかったようにシャワーを浴びに行った。

 

 ドアが閉まる音を聞いてから、ラリーはそっとスマートフォンを手に取った。画面には、先ほど作られたばかりのグループチャットが開かれている。

 

『TOKI BIRTHDAY PLAN  』

 

 そこには、エマやゾーイ、ジェイクたちからのメッセージが次々と届いていた。

 

『ラリー! トキにバレてない!?』

 

『今夜も普通だった?』

 

『誕生日のこと何か言ってた?』

 

 ラリーは小さくため息をついた。

 

 そして、ゆっくりと文字を打ち込んだ。

 

『大丈夫。何も気づいてないよ』

 

 少し考えてから、もう一通送る。

 

『あと、欲しいものは特にないらしい』

 

 しばらくして、エマから返信が届いた。

 

『そっか。でも、みんなでお祝いしたら絶対喜んでくれると思う!』

 

 ラリーはその文章を眺めた。

 

 それから、机の横に飾られた金色のトロフィーへ目を向ける。

 

 クリーパーの隣で輝いている、小さなMVPの証。

 

 時春はあの日、何の迷いもなくそれを自分へ渡してきた。大勢の観客に囲まれ、仲間たちから祝福され、人生で初めて手に入れたアメリカでのトロフィー。それほど大切なものを、ただ話を聞いてくれたからという理由だけで渡してきたのである。

 

 まったく、変な奴だと思う。

 

 けれど、きっと時春は、誰かが自分のために何かをしてくれることを、心から喜ぶ人間なのだろう。

 

 ラリーは小さく笑った。

 

「……まあ、そうだろうね」

 

 そして、もう一度スマートフォンを操作した。

 

『僕もそう思う』

 

 送信すると、すぐにジェイクから大量の絵文字が返ってきた。ノアはなぜか炎の絵文字を連続で送り、ゾーイがそれを止めるように注意している。画面の向こうで、また大騒ぎが始まっていた。

 

 ラリーは呆れたように首を振ったが、チャットを閉じることはしなかった。

 

 窓の外には、穏やかなカリフォルニアの夜が広がっている。遠くの街灯が薄いカーテンを通して床へ光を落とし、机の上ではパソコンのファンが静かに回っていた。ほどなくして、シャワーを終えた時春が鼻歌を歌いながら戻ってくる。何も知らない彼は、今日もまた、明日の練習を楽しみにしながら眠りにつくのだろう。

 

 二月六日。

 

 高山時春、十六歳の誕生日。

 

 その日へ向けて、クレセントベイ・アカデミーの仲間たちは、密かに準備を進め始めていた。

 

 そして当の本人だけが、まだ何も知らなかった。

 

 彼の知らないところで、彼のための小さな奇跡が、もう一つ生まれようとしていることを。

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